車が止まっても、久遠はすぐには降りられなかった。
山の中に、大きな家が建っている。門から玄関まで灯りが続き、二階の窓にも明かりがついていた。誰かが待っている家の明るさなのに、その誰かを久遠はまだ知らない。
「どうかされましたか」
クェーサーが尋ねる。
「どこから入るのかなと思って」
「正面からです。久遠様のために開けておりますから」
大きな門の前で、久遠は自分の靴を見た。病院を出る時に渡された、新しい靴だった。
自分のために開いた玄関へ、自分の足で入る。それだけのことに、少し時間がかかった。
ヴェロシティが先に降り、車から久遠の荷物を出す。荷物といっても、病院で受け取った診察の書類と着替えだけだ。
「ここ、遠いでしょう。みんな毎日、街まで行くの?」
「行く日もあれば、いない日もある。俺は走りたいから行く日が多い」
門の脇には、車とは別に大きなバイクの影があった。革の上着とヘルメットは、この人が自分で選んだものなのだと分かる。
「ここまで、それで来たかった?」
「今日は病院から君を乗せて来る車を選んだ。俺の趣味は、明日もできる」
ヴェロシティは肩をすくめる。
「乗りたい日があれば教えて。でも今夜は、まず中だ。山は冷える」
オーダーが扉を開ける。久遠が足を踏み入れると、床がかすかに鳴った。
広い玄関には靴が三足、揃いきらずに置かれている。壁に掛けられた鍵のひとつには、ヴェロシティが使っているのと同じ形の小さな飾りがついていた。
見せるための屋敷というより、誰かが出入りしてきた家だった。
「靴、どこに置けばいい?」
「好きなところへ」
オーダーの答えに、久遠は困った。三人の靴と少し離して、自分の靴を置く。
クェーサーはそれを直さず、奥の灯りを一つ増やした。
◇
久遠の部屋は二階にあった。
ベッドと机、小さな椅子。棚は空いている。窓の下に、街から買ってきたらしい水差しが置かれていた。
「昨日までは、何の部屋だったの?」
「使っていない客間です」
クェーサーが答える。
「久遠様がお好きなように使えるよう、棚には何も入れておりません」
「ボクの部屋にしていいの?」
「もちろんです」
「いつまで?」
クェーサーが返事を探すより先に、オーダーが開いた戸口から言った。
「久遠様が使いたい間です。滞在の期限は設けておりません」
久遠は空の本棚を見た。何も持っていない自分には、広すぎる棚だった。
「本、置いてもいい?」
「ええ。近くの店も図書館もご案内します」
図書館、と聞いて、久遠は一瞬だけ右手を握る。クェーサーは水差しの置き場所を確かめていて、気づかなかった。
「じゃあ、明日、まず本を見たい」
「承知しました」
クェーサーは衣服をベッドの上に並べた。袖の長さが異なる上着を二枚。久遠は片方を持ち上げる。
「ボクの大きさ、分からなかったでしょう」
「お会いした時に、どちらも必要ないかもしれないとは思いました」
「どうして二枚も?」
「選べるように、です」
「ほかの人は男の人なのに、クェーサーだけ女の人なんだね」
「ええ。私も初めは、久遠様に似た少年の姿でした。あなたにお仕えすることばかり考えていたら、いつの間にかこの姿に。理由は、私にも分かりません」
「そうなんだ」
「髪を伸ばして、この服を選んだのは私です」
久遠はクェーサーの長い髪を見る。理由が分からないのは彼女も同じなのに、今の姿を気に入っているようだった。
久遠は薄い色の上着を選んだ。クェーサーが着せようと手を伸ばす。
「自分でできるよ」
「はい」
彼女は手を引いた。だが、久遠が袖を通し終えるまで、そばでじっと待っている。
「見られてると、ちょっと恥ずかしい」
「では、扉の外でお待ちします。お呼びください」
「うん。ありがとう」
戸が閉まる。久遠は一人で上着の裾を整えた。
新しい服には、誰かの匂いがついていない。鏡に映る大人の姿へ合わせて選ばれた服だ。子供の頃なら手が届かなかった高い棚にも、今は楽に届く。
けれど、棚へ置く自分のものは一つもなかった。
◇
夕食には四人が揃った。
クェーサーが皿を出し、ヴェロシティが水を運ぶ。オーダーは仕事の端末を伏せてから、久遠の向かいへ座った。
「辛いものは大丈夫ですか」
「たぶん」
「今の身体で召し上がるのは初めてですね。少しずつにしましょう」
クェーサーが料理を取り分ける。久遠の皿だけ、熱い汁物が小さな器に入っていた。
「みんなは食べられるの?」
「必要はありませんが、食べることはできます」
オーダーが答える。
「この家で食事を始めたのはクェーサーです。私が仕事を食卓へ持ち込む回数を減らしたい、と」
「減りましたか?」
クェーサーが問う。
「ご覧の通り、今夜は伏せている」
「それは久遠様がいらしたからです」
「手厳しいね」
オーダーは少し楽しそうに笑った。
久遠は温かい汁を口に運ぶ。思ったよりも熱く、舌を引っ込めた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫。少し待てばいいから」
クェーサーの手が水差しへ伸びる。久遠は首を振り、ふう、と一口分を冷ました。
ヴェロシティがその様子を見て、笑いをこらえている。
「何?」
「クェーサーが、どこまで世話を焼けるか試してるのかと思った」
「試してないよ」
「本人は放っておくと、料理を食べやすい順に全部並べるぞ」
「並べます」
「並べるんだ」
久遠が笑った。クェーサーは真面目な顔のまま、久遠の皿の向きを少しだけ直した。
「食べやすい方はこちらです」
「ありがとう。でも、次からはボクが決めるね」
「はい」
彼女は抵抗しなかった。それでも翌日には別の世話を考えていそうだった。
夕食が終わる頃、久遠はもう一つの席に気づいた。食器は置かれていないが、四人の椅子と同じように、卓の端へ寄せられている。
「ここには、ほかの人も来るの?」
ヴェロシティが椅子を見た。
「ヌメロンが寄ることはある。この席には、前はよくストライクが座ってた」
クェーサーの手が止まる。
オーダーは二人の反応を見てから、久遠へ向き直った。
「その話も、今夜しておいた方がよさそうです」
◇
夕食のあと、オーダーは久遠を居間へ案内した。
机には紙と筆記具を置く。端末もあるが、最初から画面を向けなかった。
「あなたが知らない年月を、すべて今夜話そうとすれば、どこから始めたかったのかさえ見失います」
「何から聞けばいいのかも、分からないよ」
「では、私から質問します。今、一番知りたいのは、誰のことですか」
久遠は夕食の席を思い出した。
「ここのみんな」
「承知しました」
オーダーは紙へ五つの名前を書いた。
オーダー。クェーサー。ヴェロシティ。ヌメロン。そして、ストライク。
「最初にお伝えした通り、我々は写本から生まれました。初めからこの五人だけだったわけではありません。名を持たず、写本の働きを支えていた身体も多くありました」
「あの本から?」
「ええ。けれど名を持った五人は、同じ指示に従って動く身体ではなくなりました。互いに異なる人を大切にし、別の生き方を選んだ。それぞれの名はその後に得たものです」
久遠は紙の上の文字を追う。
「ヌメロンには、待ってる女の子がいた」
「アインハルトさんです。彼は今、彼女と同じ家で暮らしています」
少女の涙を思い出す。帰ってきたと知った時、彼女はどんな顔をしただろう。久遠にはその顔を想像しきれなかった。
「あなたたちは、さっきみたいに一緒に食べるんだね」
「ええ。ただ、私が家を空ける夜も、ヴェロシティが外へ出る夜もあります。クェーサーも彼女の用事があります。我々は同じ顔でも、四六時中一緒にはおりません」
「昔は、離れていても話せたの?」
「頭の中で、互いの記憶を受け取ることができました。あなたがお目覚めになった日、そのつながりは途切れています。私に分からないことをヴェロシティが見ている場合は、今は本人に聞かなければなりません」
「ボクのことも、頭の中で分かるの?」
「いいえ。あなたが話さないことを、我々が知ったふりはできません」
久遠は自分の膝に手を置いた。図書館でなくした小さな手が痛む感覚は残っている。いま隣にいる相手へ伝わっていないなら、少しだけ息がしやすい。
「名前のない子たちは?」
オーダーの筆が止まった。
「写本が消えたあと、彼らの身体は確認できなくなりました。ヌメロンは残っていた別の身体で目を覚ました。私とクェーサー、ヴェロシティは、以前から持っていた身体でここにいます」
「この紙にある、もう一人は」
「ストライクは、あなたが戻るより前に亡くなりました」
オーダーは紙の最後の名前を隠さなかった。
「最後の戦いで、ナンバーズを助けるために消滅しました。道場へも、この家へも、彼は帰ってきていません」
「その子たちは、助かった?」
「ええ。今も生きています。ヌメロンと親しくしている者もいます」
久遠は紙を見た。オーダーはストライクの名を消さない。
「でも、名前はここにあるんだね」
「失ったからといって、五人目を数えなくなるわけではありません」
「ヌメロンは、ストライクのことを覚えてる?」
「彼の最後の記憶と、戦い方を受け取りました。道場を継いだのもヌメロンです。しかし記憶を持つ者がいても、ストライク本人が戻ったことにはなりません」
久遠は最後の名前を見た。会ったこともない人なのに、目の前の三人には、その人と過ごした時間がある。
「どういう人だった?」
オーダーは眼鏡の位置を直す。
「道場を作り、そこで人を鍛えていました。まず身体の使い方を教える。口は悪いが、誰かを置いて帰ることが嫌いな男でした」
「怖い?」
「初めて会えば、そう思ったかもしれません。子供たちへの稽古は、驚くほど根気強かった」
もう会えない人の話をしている。久遠は、オーダーが過去形を使うたびにそのことを確かめた。
「この紙、もらっていい?」
「もちろんです」
久遠は五つの名前が書かれた紙を、折らずに両手で持った。
◇
その夜、ヴェロシティはガレージでバイクを整備していた。
久遠は戸の前で、油の匂いに気づく。奥には別の乗り物が二台あり、棚には地図が重ねて置かれていた。
「入ってもいい?」
「もちろん。そこ、工具が散らばってるから足元だけ気をつけて」
ヴェロシティが手袋を外した。久遠はバイクの横へしゃがみ込む。車輪は、近くで見るとずっと大きかった。
「これで遠くまで行くの?」
「行くよ。行きたい方へ行けるから好きなんだ」
「迷わない?」
「迷っても、道を聞けば戻れる」
彼は棚から地図を一枚引き出す。
「今日、君を迎える前に通った道。ここが医療区画、こっちが山の入口」
「ストライクの道場は、どこ?」
ヴェロシティは久遠を見た。
「オーダーが話した?」
「うん」
「この道の先。今はヌメロンがノーヴェと一緒に開けてる」
ヴェロシティが指した先に、丸がひとつあった。
「あなたも行くの?」
「用ができればね。ほかにも行く場所はある。今は誰かの目や記憶を借りられないから、自分で確かめたい場所には自分で行く」
「ストライクがいた道場のこと、また教えてくれる?」
「俺が見たことなら」
「聞きたい」
久遠は即答した。ヴェロシティが少しだけ目を細める。
「分かった。あいつに教わった子たちのことも話すよ」
「ありがとう」
「知っていることと、知らないことは分けて話す。ヌメロンが受け取った記憶も、ストライク本人の続きじゃないから」
「うん。それでいい」
ヴェロシティは工具を片づけ始めた。久遠も地図を戻し、手伝おうと箱へ手を伸ばす。
「どれがどこに入るか、分かる?」
「分からない」
「じゃあ、見てて。覚えたら頼む」
「うん」
二人で棚を見上げた。久遠は初めて、ここで覚えることが一つできたと思った。
◇
久遠が部屋に戻ると、廊下にクェーサーがいた。
「お水を替えました。夜、何か必要でしたらお呼びください」
「眠らないの?」
「休むことはできます。ただ、今夜はまだ起きています」
「ボクのため?」
「そうです」
久遠は上着の袖を握った。
「クェーサーのやりたいこと、なくならない?」
彼女は少し驚いたように目を瞬いた。
「私があなたのお世話をしたいのも、私の望みです」
「そっか。でも、明日眠かったら休んで」
「……はい。お言葉に甘えます」
クェーサーは嬉しそうに頭を下げた。久遠には、どうしてそんなに嬉しそうなのか、まだ分からない。
「ねえ。この家のこと、何て呼ぶの?」
「皆は山の家と呼ぶことが多いです。オーダーは住所で伝えることもありますが」
「山の家」
久遠は窓の外を見た。暗くて山の形は分からないが、玄関までの灯りは見える。
「ボクも、そう呼んでいい?」
「もちろんです。いつか、別の呼び方をなさっても」
「今は、それが分かりやすい」
久遠は部屋へ入った。机に、五人の名前が書かれた紙を広げる。上着を選んだのも、バイクの地図を見せてもらったのも、今日のことだ。昨日はこの家の存在さえ知らなかった。
空の本棚の一段へ、紙を置いた。折れてしまわないよう、端をまっすぐにする。
五つの名前のうち、まだ会っていない人が一人いる。
久遠はその名を読んだ。
「ストライク」
廊下の向こうから、クェーサーが食器を片づける音がする。外では、ヴェロシティが明日のためにバイクへ覆いを掛けた。
今夜この家にいる三人も、帰ってきたヌメロンも、彼の帰りを待っていた。
久遠は紙を本棚に残し、灯りを消した。
山の家には、まだ使われていない席がある。
◇
翌朝、道場では稽古表が書き直されていた。
ヌメロンの新しい身体は、以前と同じくらいの背丈だ。それでも重心や指先の感覚がわずかに違い、道場の鍵を回すにも一度つまずいた。
「師範、まず受け身からやりましょう」
リオが畳を叩く。
「ずいぶん張り切ってるね」
「昨日の稽古を途中で止めたぶんです」
「リオ。今日は強く投げない方が」
コロナが心配そうに言う。
「もちろん。最初は転び方」
ヌメロンは袖をまくった。足を開き、いつもの位置へ立つ。そこにアインハルトが横から進み出た。
「私が最初の相手です」
「そうだったね。昨日決めた」
「忘れたのですか」
「忘れてない。順番を間違えただけ」
アインハルトが手を差し出す。ヌメロンが取ると、彼女はゆっくり力をかけた。足を引くタイミングが少しずれる。
「昨日までなら、ここで先に回り込んでいました」
「うん。身体が先に覚えてるつもりで動くと、遅れる」
「急ぎません。今の身体で覚え直してください」
「アインハルト先生の授業は長そう」
「あなたが覚えるまでです」
ヴィヴィオが笑った。ヌメロンはもう一度、同じ動きを試す。今度は転んだが、受け身は取れた。
それを見たリオが肩の力を抜く。コロナが記録端末を開き、今の動きの違いを書きとめた。
稽古を終えると、リオは持ってきた鞄を持ち上げた。
「写真の道具、まだ置いてあるんです」
「昨日見たよ」
ヌメロンは道場の戸口を振り返る。元の身体で帰ったら、ここでみんなと撮るはずだった。
「やめなくていいと思う」
「もちろん、やめません」
アインハルトが答えた。
「ヌメロンも帰ってきました。全員の都合が合う日を決めましょう」
「次の休みは?」
ヴィヴィオが聞く。
「私は空いてます」
「私も。三脚の位置、明るいうちに決めたいです」
コロナが鞄の留め金を確かめる。
「ストライク師範の古い稽古表も、一緒に写したいです」
リオは壁に掛かった表を見る。道場を作った人の字は、今の稽古表の字よりずっと荒い。
「うん。ストライクがここを作ったんだ」
「ヌメロンさんが書いている表も、並べて写しましょう」
コロナが言うと、ヌメロンは頷いた。
「二枚とも、この道場のものだからね」
「じゃあ、次の休みにしましょう」
「うん。ボクも空けるよ」
ヌメロンは新しい稽古表の余白に、小さく「写真」と書いた。古い表の位置は、リオとコロナが相談して決める。
◇
道場の夜は、いつも通りに終わらなかった。
ヌメロンが夕食の皿を洗おうとすると、アインハルトが隣に並んだ。
「今日は私がやります」
「昨日は一緒に野菜を切ったのに」
「昨日はあなたに台所に立ってほしかったんです。今日は、あなたの手が疲れているでしょう」
「少しだけね」
新しい指では力加減を探しながら稽古をした。彼女は横で見ていたから、隠しても分かる。
ヌメロンは布巾を持ち、洗い終えた皿を拭く役へ回った。
「写真、リオが楽しみにしてた」
「コロナもです」
「アインハルトも?」
「もちろん」
彼女の返事は短い。昨日、久遠へ「ヌメロンを返して」と叫んだことを思い出したのかもしれない。ヌメロンは、言葉を急がせずに待った。
「ストライクがいたら、今日の受け身で叱られてたかな」
「自分の身体の違いを確かめずに投げられたんです。叱られると思います」
「アインハルトにも叱られたから、もう覚えたよ」
「ええ」
アインハルトが皿をすすぐ。ヌメロンは伏せて乾かす。ここで彼が今日何をしたか、彼女は見ていた。久遠がどんな夜を過ごしているかは、二人とも知らない。