魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第17話 最後の一人

 翌朝、久遠は空の本棚を見てから起き上がった。

 

 昨日置いた紙は、一段目にある。五つの名前。指で一つずつ追うと、最後のところで止まった。

 

 階下では食器が触れ合う音がした。クェーサーが朝食の支度をしている。

 

 久遠は紙をそのままにして部屋を出た。

 

 食卓には、今朝も四人分が並んでいた。昨日気づいた端の椅子は、きれいに卓へ収まっている。

 

「おはようございます、久遠様。よくお休みになれましたか」

 

「うん。何か手伝おうか」

 

「では、このお皿をお持ちいただけますか」

 

 クェーサーは断らず、軽い皿を一枚渡した。久遠が食卓へ置くと、彼女は二枚目を運ぶ。

 

「前は、五人で食べたこともあるの?」

 

 久遠が尋ねた。クェーサーは端の席へ目を向ける。

 

「いつも一緒だったわけではありません。ストライクは稽古が終わると来て、冷めた料理を温め直すように言いました」

 

「自分で温めなかったの?」

 

「できました。それでも私に言うのです」

 

 クェーサーは困った顔をしてみせた。彼女がそれを嫌がっていなかったことは、久遠にも分かった。

 

「助けた子たちは、今も生きているんだよね」

 

「はい」

 

「ストライクは、それを知らないまま?」

 

 クェーサーは湯気の上がる鍋を見た。

 

「最後に彼が何を見たのか、私には分かりません。ヌメロンの持つ記憶には、守ろうとした人たちの姿があります。その後を、本人へ話すことはできませんでした」

 

「そっか」

 

 久遠はもう一枚、皿を受け取る。片づけられた椅子は、動かさなかった。

 

     ◇

 

 午前の診察は、シャマルからの通信だった。

 

 立ち上がった時のふらつきと、右手の感覚を尋ねられる。久遠は椅子から立って数歩歩き、端末の前で両手を開いてみせた。

 

「足は普通に動くよ。右手も、こっちの手が痛いわけじゃない」

 

「昨日と同じ感覚なのね。分かった。何か変わったら、すぐ教えて」

 

「うん」

 

 シャマルはそこですぐ通信を切らなかった。

 

「山の家はどう?」

 

「広い。部屋がひとつ、ボクのになった」

 

「迷ってない?」

 

「一度だけ」

 

 久遠が笑うと、シャマルも少し笑った。

 

「検査の続きは、近いうちに直接行くわ。無理に体を動かす前に、相談してね」

 

 久遠は頷いた。まさかその日のうちに、何を相談すればよかったか思い知るとは思わなかった。

 

     ◇

 

 オーダーの書斎には、本よりも記録が多かった。

 

 久遠は入っていいか尋ね、机の前に座る。オーダーは端末を伏せず、開いていた書類の端を揃えた。

 

「ストライクのことを、もう少し聞きたい」

 

「どの頃の彼からお話ししましょう」

 

「最後のこと。それから、その前のことも」

 

 オーダーは頷いた。先に、道場の古い写真を見せる。

 

 中央に立つ青年は、久遠に似た輪郭をしていた。髪は短く、腕を組んでいる。隣には今より髪の短いクェーサーがいて、少し離れたところでヴェロシティがヘルメットを抱えていた。

 

「この人がストライク?」

 

「ええ。写真を撮ろうと言い出したのは彼です。撮られる側に回ると、途端に不機嫌になりましたが」

 

「誰に撮ってもらったの?」

 

「ヌメロンに」

 

 久遠は写真の外側を見た。そこには写っていない人もいたのだ。

 

 オーダーは画像を閉じず、記録の時刻を指で示す。

 

「この後も彼は道場へ通い、弟子たちを教え続けました。最後の戦いでナンバーズを救い、身体を失いました。彼の最後の記憶は、ヌメロンへ渡されています」

 

「みんなは、戻らないって分かったの?」

 

「少なくとも、その時の手段では戻せませんでした。私たちは彼を失った事実を受け入れたつもりでいました」

 

 久遠は机の写真を見た。クェーサーが温め直した料理の話と、写真の中で腕を組む人が結びつく。

 

「ボクが戻って、あの本も消えた。もう本当に、戻る道がなくなったのかな」

 

「その問いには、調べてから答えるべきです」

 

 オーダーは医療記録を勝手に開かなかった。久遠へ、シャマルから預かった検査の控えを見せていいか尋ねる。久遠は頷いた。

 

 画面に、久遠の胸元を横から見た像が現れる。

 

「ここに、写本が消えた後も残った反応があります。外から見える本は消えましたが、同じ構造の一部があなたの中にある可能性がある」

 

 細い線が、心臓の近くで閉じずに途切れている。

 

「これがストライク?」

 

「いいえ。あなた自身の身体の反応です。彼の固有の反応がどこにあるかは、まだ確かめられていません」

 

「ヌメロンの記憶から作ることは?」

 

「できるかもしれません。ただ、それは彼に似た新しい者を作ることになる。あなたが会いたい相手とは別です」

 

「うん。それじゃ違う」

 

 久遠は写真に目を戻した。

 

「もし本の中に本人へつながるものが残っていたら、確かめられる?」

 

「調べる余地はあります。しかし、今ここであなたの身体を使って術式を動かすべきではありません」

 

 オーダーは画面を閉じた。

 

「あなたは魔力の扱いを習っていない。昨日まで何の問題もなく歩けていた身体でも、限界を知りません。できることがあるとしても、使ってよい量を測るのが先です」

 

「手伝っても、だめ?」

 

「支える方法も、まだ分かっていないのです」

 

 叱るための声ではなかった。久遠はそれが分かるから、頷いた。

 

「分かった。調べてからにする」

 

「ありがとうございます。私も、彼が帰ってくる可能性を捨てたいわけではありません」

 

 オーダーは写真を久遠へ渡した。紙に印刷されたものだ。机に飾っていた複製を、もう一枚作ってくれたらしい。

 

 久遠は両手で受け取り、部屋を出た。

 

     ◇

 

 その頃、道場ではヌメロンが古い稽古表を壁から外していた。

 

「字、ずいぶん濃いですね」

 

 コロナが近づく。

 

「何度も書き直したところ。ストライクが、できるまで見てたんだ」

 

「ヌメロンさんが教わった時も?」

 

「うん。最初は、すぐ同じように動けると思ってた」

 

 ヌメロンは表の端を押さえる。残っている戦い方の記憶は、自分の手で受け取ったものだ。その後にアインハルトやヴィヴィオたちへ教えながら、少しずつ自分の動きへ変えてきた。

 

「ストライク師範に、会ってみたかったです」

 

 リオが言う。ヌメロンは表を掛け直した。

 

「会ったら、まず転び方を見られるよ」

 

「昨日のヌメロン師範より上手く転べます」

 

「そうだね」

 

 ヴィヴィオが笑う。アインハルトはヌメロンの背中を見ていた。二人で古い表の埃を払う。写真を撮る日に、文字もきれいに写したい。

 

 その時、ヌメロンは久遠が山の家で何を聞いているか知らなかった。オーダーたちの目も、今は借りられない。

 

     ◇

 

 久遠は自分の部屋へ戻り、写真を本棚の紙の隣へ立てかけた。

 

 オーダーに言われた通り、今は何も試さない。そう決めていた。

 

 しばらく写真を眺める。三人は同じ方を向いていない。撮ったヌメロンも含めて、それぞれ話したいことがありそうだった。

 

 写真の下で、名前を書いた紙が揺れた。

 

 窓は閉まっている。

 

 久遠が指で押さえると、胸の奥で紙を擦るような音がした。図書館の頁を思い出し、手を離そうとする。

 

 紙は動かない。ただ、呼ばれた時に返事をするように、最後の名のところへ細い影が落ちた。

 

「ストライク?」

 

 黒い文字が、写真から伸びたわけではない。紙の上に何も現れていない。それでも身体の奥から、久遠の知らない場所を示す感覚がした。

 

 シャマルに相談しよう。オーダーを呼ぼう。

 

 久遠は扉の方を見た。起きた時から感じていた古い痛みとは違う。いま身体の内側にあるものが、手のひらへ届こうとしている。

 

 そのまま待てば消えるのかもしれない。

 

 そう考えた時、写真の中のクェーサーが目に入った。ストライクの帰りを待っていた人たち。救われた子たちは生きていて、彼だけがそれを知らない。

 

 久遠は名を書いた紙に指を置いた。

 

「……いるなら、教えて」

 

 指の下で、乾いた頁が一枚めくられる感触がした。

 

 今は何も試さないと、約束したばかりだった。そのことは覚えている。危ないとも分かっている。

 

 けれど、扉へ向かおうとすると、今触れている名がまた届かなくなる気がした。紙を擦る音に、急かされているようでもあった。

 

 久遠は左手で通信端末を取った。独りでできると思ったわけではない。

 

「オーダー。来て」

 

『今どこです』

 

「部屋。ストライクの名前のところが、返事をした」

 

 オーダーは理由を聞き返さなかった。廊下から足音が近づく。

 

     ◇

 

 久遠の前には、黒い本の形をしたものが開いていた。

 

 写本そのものではない。薄い線が重なり、頁の輪郭を作っている。久遠の指が離れると、輪郭も消えかけた。

 

 オーダーが室内の反応を読み取る。

 

「久遠様、今は手を離してください。何を示す線か、確かめます」

 

「離したら、消える」

 

「消えても、観測した記録は残せます。私が調べます」

 

 久遠は頷こうとした。だが、頁の縁にひとつだけ、オーダーが机に示した五つの名とは異なる揺れがある。

 

 ヌメロンに受け継がれた記憶を辿るなら、見覚えのある場面が先に浮かぶはずだ。今ここにあるのは、久遠の知らない青年が、聞いたことのない声で何かを言おうとしている気配だった。

 

「ボクが知らない言葉が、ある」

 

 オーダーの目が上がる。

 

「何と言っていますか」

 

「まだ聞こえない。でも、ヌメロンの記憶を見てるんじゃない」

 

 クェーサーが扉へ来た。ヴェロシティも続く。二人は久遠のそばへ飛び込まず、オーダーが術式を調べるのを待った。

 

 クェーサーの表情が変わる。

 

「この魔力は……」

 

「断定はまだです」

 

 オーダーは久遠の手元を見た。

 

「あなたの身体が術式の中心になっています。これ以上開けば、戻すための力もあなたから出る。今なら閉じられます」

 

 久遠の肩がわずかに下がった。自分の腕も足も、今は動く。その身体で、新しい友達と会う日もまだ決めていない。

 

「どれくらい使うの?」

 

「正確には測れません。だから止めたいのです」

 

「ほかの人から、借りられない?」

 

「周りは支えられます。しかし最初に繋がったあなたの代わりに、道を開くことはできない」

 

 久遠は頁を見た。黒い縁の向こうで、誰かの名だけが先へ行けずにいる。

 

 気づかないふりをして手を離すことも、できた。本人なのか分からないものを、力ずくで連れてくるべきでないとも思う。

 

「あの人なら、帰りたいって言ってる?」

 

 ようやく、声になりかけた音がした。

 

『……まだ、終わってねえ』

 

 怒っているような、急いでいるような声。久遠は顔を上げた。

 

「聞こえた」

 

 オーダーも、クェーサーも息を止める。本人の意思が返った。それを記録の再生だと決めつけることは、もうできなかった。

 

「ストライク。聞こえるなら、自分で選んで」

 

 久遠は頁の向こうへ呼びかける。

 

「戻りたい?」

 

 間があった。

 

『……あいつら、逃げ切ったか』

 

「うん。みんな、生きてるよ」

 

『そうか』

 

 短い返事の後、声は続いた。

 

『なら、会って確かめる』

 

 久遠はオーダーを見る。

 

「戻るって」

 

 オーダーはすぐには賛成しなかった。それでも、久遠が聞いた返事を無かったことにもしない。

 

「この術式はあなた一人で維持してはいけません。ヴェロシティ、外側の魔力を固定して。クェーサーは久遠様の身体を見てください。私は開いた線をこれ以上広げず、彼の固有の反応を確かめます」

 

 ヴェロシティが床へ片膝をつく。

 

「俺が押さえる。久遠、息は止めるな」

 

 クェーサーが久遠の背を支えた。

 

「久遠様、これ以上は危険です。離れるとお決めになるなら、すぐ皆で閉じます」

 

「うん。分かってる」

 

 分かっていても、久遠は指を離さなかった。

 

 頁が一枚、また一枚とめくられる。文字が身体の内側を通っていくようで、膝に力が入らない。開く力を取り戻そうとして魔力がさらに流れる。

 

「足に来ています。久遠様、止めましょう」

 

 クェーサーの声が近い。

 

 紙を擦る音が、久遠の呼吸と同じ速さになった。もう少しだけ、とどこかが囁いたように思う。誰の声か分からない。その気配に従ったのか、向こうから帰ると答えた人を放せなかったのかも、今は分からなかった。

 

「久遠様」

 

 オーダーが名を呼ぶ。彼が久遠へ手を伸ばしかけた時、頁の中から別の手が出た。

 

     ◇

 

 床に膝をついたのは、久遠によく似た青年だった。

 

 息をする必要はないのに、しばらく肩を上下させている。自分の手を開き、握り、隣に倒れかけた久遠を見た。

 

「……誰だ、お前」

 

「溱久遠」

 

「久遠?」

 

 青年が目を見開く。

 

「図書館の、あの久遠か。お前、身体が……」

 

「ボクも、帰ってきたところなんだ」

 

 ヴェロシティが久遠を抱えて寝台へ運ぼうとする。青年はその背を目で追った。

 

「俺を戻したのか」

 

「うん」

 

「勝手なことを」

 

 言いかけて、彼はクェーサーを見た。覚えていた頃より伸びた髪と、シスター服。久遠を支える手つきにも、彼の知らない年月があった。

 

「お前、まだそういう格好をしてんのか」

 

「最初に言うことがそれですか、ストライク」

 

「ほかにもある。ノーヴェたちは?」

 

「生きています。あなたが守った方々も」

 

 ストライクは目を閉じた。短い沈黙の後、久遠へ向き直る。

 

「俺の最後の場面を、ヌメロンから聞いたんだな」

 

「昨日、オーダーに聞いた。ナンバーズを助けたって」

 

「そうか」

 

 彼は自分の手を再び見る。もう一度立てる身体がある。

 

「それでお前、何を支払いにした」

 

 久遠はすぐ答えられなかった。

 

 膝から下が、自分のものなのに遠くにあるように感じる。図書館の夜の右手の痛みとは、明らかに違った。

 

 オーダーが二人の間に入る。

 

「それは診てから私が説明する。今は彼を休ませたい」

 

「シャマルさんにも、聞いてほしい」

 

 久遠が言う。クェーサーは頷き、連絡のため端末を取った。

 

 ストライクは久遠から目を離さなかった。

 

     ◇

 

 シャマルが到着した時、久遠はもう寝台で休んでいた。

 

 膝の感覚は戻っている。立とうとすると足に力が入らず、ヴェロシティに止められた。

 

「今は座っていて」

 

 シャマルが検査を終え、数値を確かめる。

 

「朝の診察より、魔力の消耗が大きい。身体を動かすための力も一時的に落ちているわ。検査を続ける。今夜、何も起きなければ大丈夫だとは言わない」

 

 久遠は頷く。

 

「ボクが無理して開いたから?」

 

「そう。負担は、あなたが術式を動かした時に生じたの。ストライクがここにいるだけで、今も力を取られているわけではない」

 

 ストライクは扉の横にいた。自分が消えれば久遠が治るわけではない、と先に教えられ、口を閉じる。

 

「術式の向こうにいたのは、本人だった?」

 

 久遠が尋ねる。

 

 オーダーが答えた。

 

「かつての固有反応と一致しました。最後の記憶の先へ、自分の意思で返事をした。別の身体で目覚めても、彼自身が選んでここにいます」

 

「そう」

 

 久遠の顔から少しだけ力が抜ける。

 

 シャマルは寝台に手を置いた。

 

「戻ったのは嬉しいわ。でも、あなたの足のことは、この先も一緒に見ていく。困った時は、小さな変化でも話して」

 

「うん。ごめん、相談する前に開いちゃった」

 

「次は、開く前にね」

 

 久遠が頷く。シャマルも、それだけで済ませていい話だとは思わなかった。検査の予定を決め、オーダーへ緊急の連絡手段を渡した。

 

 シャマルが帰ったあと、ストライクは寝台のそばへ来た。

 

「俺を呼び戻すなら、先に俺に相談しろ」

 

「どこへ?」

 

 久遠が尋ねると、彼は答えに詰まった。

 

「……そこは、まあ、難しかったな」

 

「うん」

 

「でも、自分の身体がどうなるか分からねえまま進むな。俺は守りたかったやつらを守れた。それを、お前が苦しむ理由にしたくねえ」

 

 久遠は怒られると思っていた。ストライクの声は荒いが、何より自分の足を気にしている。

 

「ごめんね」

 

「謝る相手は、ほかにもいる」

 

 戸口には、オーダーとクェーサーとヴェロシティがいた。久遠は一人ずつ見て、頭を下げる。

 

「約束を守れなくて、ごめん」

 

 オーダーは穏やかに頷いた。

 

「あなたがお戻しになったことと、あなたが無理をしたことは、別々に引き受けます。嬉しいことは、嬉しい。身体のことは、これから共に考えます」

 

 久遠はその返事を、急がずに聞いた。

 

     ◇

 

 翌日の午後、山の家から道場へ一本の連絡が入った。

 

 ヌメロンは見知らぬ番号を見て、今度はすぐに応答した。

 

『俺だ』

 

「……ストライク?」

 

『久しぶりだな、ヌメロン。お前、また身体を替えたのか』

 

 ヌメロンは壁の古い稽古表を見た。

 

 そこに残る記憶は、自分の中にもある。だが電話の相手は、記憶から再生される声ではない。自分が答えるまで待ち、次に言うことを勝手に選ぶ。

 

「本当に、戻ったんだね」

 

『ここへ来たら分かる。いや、俺が行く。道場、まだ開けてんだろ』

 

「毎日ね」

 

『なら、場所は変わってねえな』

 

「ノーヴェもいるよ」

 

 一拍、返事が遅れた。

 

『あいつも、元気か』

 

「自分で聞いて」

 

 ヌメロンは電話を切らなかった。山の家から来るまで、少しだけ話したかったからだ。

 

 けれどストライクは長く話すのが得意ではない。結局、ヌメロンは稽古の時刻だけ伝えた。

 

     ◇

 

 ストライクはヴェロシティの運転する車から降り、道場の戸を見上げた。

 

 塗り直した木枠。以前より新しい看板。中から聞こえる足音は、覚えていた数より多い。

 

「怖いなら、俺が先に行く?」

 

 ヴェロシティがからかう。

 

「先に入ったら、お前のバイクを分解する」

 

「乗って来なかっただろ」

 

「次の話だ」

 

 戸が開く。ヌメロンがそこにいた。身体は変わっても、ストライクには彼の立ち方が分かる。

 

「おかえり」

 

「ああ」

 

 奥からノーヴェが出てきた。彼女は一瞬、誰を見ているか分からなかったらしい。古い稽古表と同じような乱暴な立ち方を見て、息を止める。

 

「……お前、マジかよ」

 

「人を見るなりそれか」

 

「当たり前だろ。あの時、あたしたちは」

 

 言葉の先を、ストライクは待った。

 

 ノーヴェは拳を握り、彼の腕を軽く殴る。自分に触れた感触があった。

 

「助けられたんだよ」

 

「知ってる。だから、その後どうなったか聞きに来た」

 

「……全員、生きてる」

 

「それならいい」

 

 それだけで終わらせようとした相手を、ノーヴェはもう一度殴る。今度は少し強かった。

 

 稽古をしていたヴィヴィオ、アインハルト、リオ、コロナが集まる。リオは古い表と本人の顔を見比べた。

 

「ストライク師範、ですか」

 

「そうだ。お前、ここで習ってんのか」

 

「はい。ヌメロン師範に」

 

「ならまず、受け身を見せろ」

 

「いきなりですか!」

 

 ヌメロンが笑う。以前ここで教わった人たちにも、今日初めて会う子たちにも、ストライクは同じように畳を指した。昔を取り戻したからではなく、今日の相手を見たいからだった。

 

 壁では、古い稽古表と新しい稽古表が並んでいる。リオとコロナは写真の位置を決めたばかりで、まだ一枚も撮っていない。

 

 ストライクは二枚を見上げた。

 

「字、丁寧になったな」

 

「ボクが書いたからね」

 

「俺の字が汚いって言いたいのか」

 

「自分で言ったよ、今」

 

 ノーヴェが吹き出す。アインハルトは、ヌメロンが話していた相手が本当にここにいるのを、声と動きで確かめていた。

 

     ◇

 

 山の家では、久遠が窓際に座っていた。

 

 クェーサーが道場からの連絡を受ける。ストライクはノーヴェたちに会い、稽古を見ると言い出したらしい。

 

「ちゃんと、帰れた?」

 

「はい。本人が戸を開けて入りました」

 

「よかった」

 

 久遠は笑った。自分が彼を戻せたことより、帰りを知っている人に会えたことが嬉しかった。

 

 立ち上がろうとして、膝に力が入らない。昨日と同じではない。椅子へ手をつくと、どうにか姿勢を保てた。

 

 クェーサーが気づき、そばへ来る。

 

「今はお座りください。シャマル先生へもお伝えします」

 

「うん。ちょっと、休む」

 

 久遠は椅子へ戻った。

 

 ストライクはもう、自分の身体を持っている。彼が道場で笑ったり怒ったりしている間、久遠から力が流れ出しているわけではない。

 

 昨日、自分の身体で開いた道の負担が、今になって返ってきているのだ。

 

 クェーサーは水を持ってくる前に、久遠へどこが痛むかを聞いた。久遠は両膝に手を置き、答えを探す。

 

 図書館に残した右手の痛みとは、別の場所だった。

 

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