翌朝、久遠は空の本棚を見てから起き上がった。
昨日置いた紙は、一段目にある。五つの名前。指で一つずつ追うと、最後のところで止まった。
階下では食器が触れ合う音がした。クェーサーが朝食の支度をしている。
久遠は紙をそのままにして部屋を出た。
食卓には、今朝も四人分が並んでいた。昨日気づいた端の椅子は、きれいに卓へ収まっている。
「おはようございます、久遠様。よくお休みになれましたか」
「うん。何か手伝おうか」
「では、このお皿をお持ちいただけますか」
クェーサーは断らず、軽い皿を一枚渡した。久遠が食卓へ置くと、彼女は二枚目を運ぶ。
「前は、五人で食べたこともあるの?」
久遠が尋ねた。クェーサーは端の席へ目を向ける。
「いつも一緒だったわけではありません。ストライクは稽古が終わると来て、冷めた料理を温め直すように言いました」
「自分で温めなかったの?」
「できました。それでも私に言うのです」
クェーサーは困った顔をしてみせた。彼女がそれを嫌がっていなかったことは、久遠にも分かった。
「助けた子たちは、今も生きているんだよね」
「はい」
「ストライクは、それを知らないまま?」
クェーサーは湯気の上がる鍋を見た。
「最後に彼が何を見たのか、私には分かりません。ヌメロンの持つ記憶には、守ろうとした人たちの姿があります。その後を、本人へ話すことはできませんでした」
「そっか」
久遠はもう一枚、皿を受け取る。片づけられた椅子は、動かさなかった。
◇
午前の診察は、シャマルからの通信だった。
立ち上がった時のふらつきと、右手の感覚を尋ねられる。久遠は椅子から立って数歩歩き、端末の前で両手を開いてみせた。
「足は普通に動くよ。右手も、こっちの手が痛いわけじゃない」
「昨日と同じ感覚なのね。分かった。何か変わったら、すぐ教えて」
「うん」
シャマルはそこですぐ通信を切らなかった。
「山の家はどう?」
「広い。部屋がひとつ、ボクのになった」
「迷ってない?」
「一度だけ」
久遠が笑うと、シャマルも少し笑った。
「検査の続きは、近いうちに直接行くわ。無理に体を動かす前に、相談してね」
久遠は頷いた。まさかその日のうちに、何を相談すればよかったか思い知るとは思わなかった。
◇
オーダーの書斎には、本よりも記録が多かった。
久遠は入っていいか尋ね、机の前に座る。オーダーは端末を伏せず、開いていた書類の端を揃えた。
「ストライクのことを、もう少し聞きたい」
「どの頃の彼からお話ししましょう」
「最後のこと。それから、その前のことも」
オーダーは頷いた。先に、道場の古い写真を見せる。
中央に立つ青年は、久遠に似た輪郭をしていた。髪は短く、腕を組んでいる。隣には今より髪の短いクェーサーがいて、少し離れたところでヴェロシティがヘルメットを抱えていた。
「この人がストライク?」
「ええ。写真を撮ろうと言い出したのは彼です。撮られる側に回ると、途端に不機嫌になりましたが」
「誰に撮ってもらったの?」
「ヌメロンに」
久遠は写真の外側を見た。そこには写っていない人もいたのだ。
オーダーは画像を閉じず、記録の時刻を指で示す。
「この後も彼は道場へ通い、弟子たちを教え続けました。最後の戦いでナンバーズを救い、身体を失いました。彼の最後の記憶は、ヌメロンへ渡されています」
「みんなは、戻らないって分かったの?」
「少なくとも、その時の手段では戻せませんでした。私たちは彼を失った事実を受け入れたつもりでいました」
久遠は机の写真を見た。クェーサーが温め直した料理の話と、写真の中で腕を組む人が結びつく。
「ボクが戻って、あの本も消えた。もう本当に、戻る道がなくなったのかな」
「その問いには、調べてから答えるべきです」
オーダーは医療記録を勝手に開かなかった。久遠へ、シャマルから預かった検査の控えを見せていいか尋ねる。久遠は頷いた。
画面に、久遠の胸元を横から見た像が現れる。
「ここに、写本が消えた後も残った反応があります。外から見える本は消えましたが、同じ構造の一部があなたの中にある可能性がある」
細い線が、心臓の近くで閉じずに途切れている。
「これがストライク?」
「いいえ。あなた自身の身体の反応です。彼の固有の反応がどこにあるかは、まだ確かめられていません」
「ヌメロンの記憶から作ることは?」
「できるかもしれません。ただ、それは彼に似た新しい者を作ることになる。あなたが会いたい相手とは別です」
「うん。それじゃ違う」
久遠は写真に目を戻した。
「もし本の中に本人へつながるものが残っていたら、確かめられる?」
「調べる余地はあります。しかし、今ここであなたの身体を使って術式を動かすべきではありません」
オーダーは画面を閉じた。
「あなたは魔力の扱いを習っていない。昨日まで何の問題もなく歩けていた身体でも、限界を知りません。できることがあるとしても、使ってよい量を測るのが先です」
「手伝っても、だめ?」
「支える方法も、まだ分かっていないのです」
叱るための声ではなかった。久遠はそれが分かるから、頷いた。
「分かった。調べてからにする」
「ありがとうございます。私も、彼が帰ってくる可能性を捨てたいわけではありません」
オーダーは写真を久遠へ渡した。紙に印刷されたものだ。机に飾っていた複製を、もう一枚作ってくれたらしい。
久遠は両手で受け取り、部屋を出た。
◇
その頃、道場ではヌメロンが古い稽古表を壁から外していた。
「字、ずいぶん濃いですね」
コロナが近づく。
「何度も書き直したところ。ストライクが、できるまで見てたんだ」
「ヌメロンさんが教わった時も?」
「うん。最初は、すぐ同じように動けると思ってた」
ヌメロンは表の端を押さえる。残っている戦い方の記憶は、自分の手で受け取ったものだ。その後にアインハルトやヴィヴィオたちへ教えながら、少しずつ自分の動きへ変えてきた。
「ストライク師範に、会ってみたかったです」
リオが言う。ヌメロンは表を掛け直した。
「会ったら、まず転び方を見られるよ」
「昨日のヌメロン師範より上手く転べます」
「そうだね」
ヴィヴィオが笑う。アインハルトはヌメロンの背中を見ていた。二人で古い表の埃を払う。写真を撮る日に、文字もきれいに写したい。
その時、ヌメロンは久遠が山の家で何を聞いているか知らなかった。オーダーたちの目も、今は借りられない。
◇
久遠は自分の部屋へ戻り、写真を本棚の紙の隣へ立てかけた。
オーダーに言われた通り、今は何も試さない。そう決めていた。
しばらく写真を眺める。三人は同じ方を向いていない。撮ったヌメロンも含めて、それぞれ話したいことがありそうだった。
写真の下で、名前を書いた紙が揺れた。
窓は閉まっている。
久遠が指で押さえると、胸の奥で紙を擦るような音がした。図書館の頁を思い出し、手を離そうとする。
紙は動かない。ただ、呼ばれた時に返事をするように、最後の名のところへ細い影が落ちた。
「ストライク?」
黒い文字が、写真から伸びたわけではない。紙の上に何も現れていない。それでも身体の奥から、久遠の知らない場所を示す感覚がした。
シャマルに相談しよう。オーダーを呼ぼう。
久遠は扉の方を見た。起きた時から感じていた古い痛みとは違う。いま身体の内側にあるものが、手のひらへ届こうとしている。
そのまま待てば消えるのかもしれない。
そう考えた時、写真の中のクェーサーが目に入った。ストライクの帰りを待っていた人たち。救われた子たちは生きていて、彼だけがそれを知らない。
久遠は名を書いた紙に指を置いた。
「……いるなら、教えて」
指の下で、乾いた頁が一枚めくられる感触がした。
今は何も試さないと、約束したばかりだった。そのことは覚えている。危ないとも分かっている。
けれど、扉へ向かおうとすると、今触れている名がまた届かなくなる気がした。紙を擦る音に、急かされているようでもあった。
久遠は左手で通信端末を取った。独りでできると思ったわけではない。
「オーダー。来て」
『今どこです』
「部屋。ストライクの名前のところが、返事をした」
オーダーは理由を聞き返さなかった。廊下から足音が近づく。
◇
久遠の前には、黒い本の形をしたものが開いていた。
写本そのものではない。薄い線が重なり、頁の輪郭を作っている。久遠の指が離れると、輪郭も消えかけた。
オーダーが室内の反応を読み取る。
「久遠様、今は手を離してください。何を示す線か、確かめます」
「離したら、消える」
「消えても、観測した記録は残せます。私が調べます」
久遠は頷こうとした。だが、頁の縁にひとつだけ、オーダーが机に示した五つの名とは異なる揺れがある。
ヌメロンに受け継がれた記憶を辿るなら、見覚えのある場面が先に浮かぶはずだ。今ここにあるのは、久遠の知らない青年が、聞いたことのない声で何かを言おうとしている気配だった。
「ボクが知らない言葉が、ある」
オーダーの目が上がる。
「何と言っていますか」
「まだ聞こえない。でも、ヌメロンの記憶を見てるんじゃない」
クェーサーが扉へ来た。ヴェロシティも続く。二人は久遠のそばへ飛び込まず、オーダーが術式を調べるのを待った。
クェーサーの表情が変わる。
「この魔力は……」
「断定はまだです」
オーダーは久遠の手元を見た。
「あなたの身体が術式の中心になっています。これ以上開けば、戻すための力もあなたから出る。今なら閉じられます」
久遠の肩がわずかに下がった。自分の腕も足も、今は動く。その身体で、新しい友達と会う日もまだ決めていない。
「どれくらい使うの?」
「正確には測れません。だから止めたいのです」
「ほかの人から、借りられない?」
「周りは支えられます。しかし最初に繋がったあなたの代わりに、道を開くことはできない」
久遠は頁を見た。黒い縁の向こうで、誰かの名だけが先へ行けずにいる。
気づかないふりをして手を離すことも、できた。本人なのか分からないものを、力ずくで連れてくるべきでないとも思う。
「あの人なら、帰りたいって言ってる?」
ようやく、声になりかけた音がした。
『……まだ、終わってねえ』
怒っているような、急いでいるような声。久遠は顔を上げた。
「聞こえた」
オーダーも、クェーサーも息を止める。本人の意思が返った。それを記録の再生だと決めつけることは、もうできなかった。
「ストライク。聞こえるなら、自分で選んで」
久遠は頁の向こうへ呼びかける。
「戻りたい?」
間があった。
『……あいつら、逃げ切ったか』
「うん。みんな、生きてるよ」
『そうか』
短い返事の後、声は続いた。
『なら、会って確かめる』
久遠はオーダーを見る。
「戻るって」
オーダーはすぐには賛成しなかった。それでも、久遠が聞いた返事を無かったことにもしない。
「この術式はあなた一人で維持してはいけません。ヴェロシティ、外側の魔力を固定して。クェーサーは久遠様の身体を見てください。私は開いた線をこれ以上広げず、彼の固有の反応を確かめます」
ヴェロシティが床へ片膝をつく。
「俺が押さえる。久遠、息は止めるな」
クェーサーが久遠の背を支えた。
「久遠様、これ以上は危険です。離れるとお決めになるなら、すぐ皆で閉じます」
「うん。分かってる」
分かっていても、久遠は指を離さなかった。
頁が一枚、また一枚とめくられる。文字が身体の内側を通っていくようで、膝に力が入らない。開く力を取り戻そうとして魔力がさらに流れる。
「足に来ています。久遠様、止めましょう」
クェーサーの声が近い。
紙を擦る音が、久遠の呼吸と同じ速さになった。もう少しだけ、とどこかが囁いたように思う。誰の声か分からない。その気配に従ったのか、向こうから帰ると答えた人を放せなかったのかも、今は分からなかった。
「久遠様」
オーダーが名を呼ぶ。彼が久遠へ手を伸ばしかけた時、頁の中から別の手が出た。
◇
床に膝をついたのは、久遠によく似た青年だった。
息をする必要はないのに、しばらく肩を上下させている。自分の手を開き、握り、隣に倒れかけた久遠を見た。
「……誰だ、お前」
「溱久遠」
「久遠?」
青年が目を見開く。
「図書館の、あの久遠か。お前、身体が……」
「ボクも、帰ってきたところなんだ」
ヴェロシティが久遠を抱えて寝台へ運ぼうとする。青年はその背を目で追った。
「俺を戻したのか」
「うん」
「勝手なことを」
言いかけて、彼はクェーサーを見た。覚えていた頃より伸びた髪と、シスター服。久遠を支える手つきにも、彼の知らない年月があった。
「お前、まだそういう格好をしてんのか」
「最初に言うことがそれですか、ストライク」
「ほかにもある。ノーヴェたちは?」
「生きています。あなたが守った方々も」
ストライクは目を閉じた。短い沈黙の後、久遠へ向き直る。
「俺の最後の場面を、ヌメロンから聞いたんだな」
「昨日、オーダーに聞いた。ナンバーズを助けたって」
「そうか」
彼は自分の手を再び見る。もう一度立てる身体がある。
「それでお前、何を支払いにした」
久遠はすぐ答えられなかった。
膝から下が、自分のものなのに遠くにあるように感じる。図書館の夜の右手の痛みとは、明らかに違った。
オーダーが二人の間に入る。
「それは診てから私が説明する。今は彼を休ませたい」
「シャマルさんにも、聞いてほしい」
久遠が言う。クェーサーは頷き、連絡のため端末を取った。
ストライクは久遠から目を離さなかった。
◇
シャマルが到着した時、久遠はもう寝台で休んでいた。
膝の感覚は戻っている。立とうとすると足に力が入らず、ヴェロシティに止められた。
「今は座っていて」
シャマルが検査を終え、数値を確かめる。
「朝の診察より、魔力の消耗が大きい。身体を動かすための力も一時的に落ちているわ。検査を続ける。今夜、何も起きなければ大丈夫だとは言わない」
久遠は頷く。
「ボクが無理して開いたから?」
「そう。負担は、あなたが術式を動かした時に生じたの。ストライクがここにいるだけで、今も力を取られているわけではない」
ストライクは扉の横にいた。自分が消えれば久遠が治るわけではない、と先に教えられ、口を閉じる。
「術式の向こうにいたのは、本人だった?」
久遠が尋ねる。
オーダーが答えた。
「かつての固有反応と一致しました。最後の記憶の先へ、自分の意思で返事をした。別の身体で目覚めても、彼自身が選んでここにいます」
「そう」
久遠の顔から少しだけ力が抜ける。
シャマルは寝台に手を置いた。
「戻ったのは嬉しいわ。でも、あなたの足のことは、この先も一緒に見ていく。困った時は、小さな変化でも話して」
「うん。ごめん、相談する前に開いちゃった」
「次は、開く前にね」
久遠が頷く。シャマルも、それだけで済ませていい話だとは思わなかった。検査の予定を決め、オーダーへ緊急の連絡手段を渡した。
シャマルが帰ったあと、ストライクは寝台のそばへ来た。
「俺を呼び戻すなら、先に俺に相談しろ」
「どこへ?」
久遠が尋ねると、彼は答えに詰まった。
「……そこは、まあ、難しかったな」
「うん」
「でも、自分の身体がどうなるか分からねえまま進むな。俺は守りたかったやつらを守れた。それを、お前が苦しむ理由にしたくねえ」
久遠は怒られると思っていた。ストライクの声は荒いが、何より自分の足を気にしている。
「ごめんね」
「謝る相手は、ほかにもいる」
戸口には、オーダーとクェーサーとヴェロシティがいた。久遠は一人ずつ見て、頭を下げる。
「約束を守れなくて、ごめん」
オーダーは穏やかに頷いた。
「あなたがお戻しになったことと、あなたが無理をしたことは、別々に引き受けます。嬉しいことは、嬉しい。身体のことは、これから共に考えます」
久遠はその返事を、急がずに聞いた。
◇
翌日の午後、山の家から道場へ一本の連絡が入った。
ヌメロンは見知らぬ番号を見て、今度はすぐに応答した。
『俺だ』
「……ストライク?」
『久しぶりだな、ヌメロン。お前、また身体を替えたのか』
ヌメロンは壁の古い稽古表を見た。
そこに残る記憶は、自分の中にもある。だが電話の相手は、記憶から再生される声ではない。自分が答えるまで待ち、次に言うことを勝手に選ぶ。
「本当に、戻ったんだね」
『ここへ来たら分かる。いや、俺が行く。道場、まだ開けてんだろ』
「毎日ね」
『なら、場所は変わってねえな』
「ノーヴェもいるよ」
一拍、返事が遅れた。
『あいつも、元気か』
「自分で聞いて」
ヌメロンは電話を切らなかった。山の家から来るまで、少しだけ話したかったからだ。
けれどストライクは長く話すのが得意ではない。結局、ヌメロンは稽古の時刻だけ伝えた。
◇
ストライクはヴェロシティの運転する車から降り、道場の戸を見上げた。
塗り直した木枠。以前より新しい看板。中から聞こえる足音は、覚えていた数より多い。
「怖いなら、俺が先に行く?」
ヴェロシティがからかう。
「先に入ったら、お前のバイクを分解する」
「乗って来なかっただろ」
「次の話だ」
戸が開く。ヌメロンがそこにいた。身体は変わっても、ストライクには彼の立ち方が分かる。
「おかえり」
「ああ」
奥からノーヴェが出てきた。彼女は一瞬、誰を見ているか分からなかったらしい。古い稽古表と同じような乱暴な立ち方を見て、息を止める。
「……お前、マジかよ」
「人を見るなりそれか」
「当たり前だろ。あの時、あたしたちは」
言葉の先を、ストライクは待った。
ノーヴェは拳を握り、彼の腕を軽く殴る。自分に触れた感触があった。
「助けられたんだよ」
「知ってる。だから、その後どうなったか聞きに来た」
「……全員、生きてる」
「それならいい」
それだけで終わらせようとした相手を、ノーヴェはもう一度殴る。今度は少し強かった。
稽古をしていたヴィヴィオ、アインハルト、リオ、コロナが集まる。リオは古い表と本人の顔を見比べた。
「ストライク師範、ですか」
「そうだ。お前、ここで習ってんのか」
「はい。ヌメロン師範に」
「ならまず、受け身を見せろ」
「いきなりですか!」
ヌメロンが笑う。以前ここで教わった人たちにも、今日初めて会う子たちにも、ストライクは同じように畳を指した。昔を取り戻したからではなく、今日の相手を見たいからだった。
壁では、古い稽古表と新しい稽古表が並んでいる。リオとコロナは写真の位置を決めたばかりで、まだ一枚も撮っていない。
ストライクは二枚を見上げた。
「字、丁寧になったな」
「ボクが書いたからね」
「俺の字が汚いって言いたいのか」
「自分で言ったよ、今」
ノーヴェが吹き出す。アインハルトは、ヌメロンが話していた相手が本当にここにいるのを、声と動きで確かめていた。
◇
山の家では、久遠が窓際に座っていた。
クェーサーが道場からの連絡を受ける。ストライクはノーヴェたちに会い、稽古を見ると言い出したらしい。
「ちゃんと、帰れた?」
「はい。本人が戸を開けて入りました」
「よかった」
久遠は笑った。自分が彼を戻せたことより、帰りを知っている人に会えたことが嬉しかった。
立ち上がろうとして、膝に力が入らない。昨日と同じではない。椅子へ手をつくと、どうにか姿勢を保てた。
クェーサーが気づき、そばへ来る。
「今はお座りください。シャマル先生へもお伝えします」
「うん。ちょっと、休む」
久遠は椅子へ戻った。
ストライクはもう、自分の身体を持っている。彼が道場で笑ったり怒ったりしている間、久遠から力が流れ出しているわけではない。
昨日、自分の身体で開いた道の負担が、今になって返ってきているのだ。
クェーサーは水を持ってくる前に、久遠へどこが痛むかを聞いた。久遠は両膝に手を置き、答えを探す。
図書館に残した右手の痛みとは、別の場所だった。