写真を撮る日の朝、コロナは三脚の脚を一本ずつ伸ばした。
「そこだと、古い稽古表が隠れませんか」
アインハルトが道場の壁を指す。古い表と新しい表が並んでいる。
「もう少し右に動かせば、二枚とも入ります」
「でも、そうすると入口が半分切れちゃう」
リオがカメラの画面を覗いた。
ヌメロンは壁際へ立ち、端の表を指で押さえる。道場を作ったストライクの乱暴な字。自分が後から書き足した、少し小さな字。
「写る位置に移してもいいよ」
「だめです」
コロナが即答した。
「飾るために場所を変えたら、いつもの道場じゃなくなります」
リオが頷く。二人は三脚をまた動かし始めた。
ヌメロンは手を引いた。写すのは、今日この場所にあるものだ。彼女たちの決める画角へ、余計に口を出す必要はなかった。
◇
山の家で、久遠は階段の前に立っていた。
手すりを握り、一段ずつ下りる。前の晩より、膝の力が戻っている。だが次の一段へ踏み出す前には、ちゃんと足が支えてくれるかを確かめたくなった。
踊り場でクェーサーが待っている。
「ご一緒しましょうか」
「ううん。ここまでは自分で来られた」
「では、下でお待ちします」
彼女は先回りせず、階段の下から見ていた。
久遠が最後の一段を下りると、クェーサーは小さく頭を下げた。褒められるほどのことでもないのに、と久遠は思う。でも見守ってくれていたことは嬉しい。
食卓にはオーダーがいた。仕事用の端末と朝食の皿は、少し離して置かれている。
「お加減はいかがですか」
「昨日よりは歩ける。シャマルさんが言ってた通り、無理はしないよ」
「はい。今日は私も書斎におります。何かあれば呼んでください」
ヴェロシティが端末を伏せた。
「午後、町へ出る。バイクの部品を受け取るんだ。帰りに何かいる?」
「今は大丈夫」
「分かった。思いついたら連絡して」
クェーサーも予定を伝えた。昼前に食品と、シャマルから指定された検査用品を受け取りに行く。彼女は道場へは寄らない。
「みんな、別々なんだね」
「同じ顔で連れ立って買い物をしたら、店の人が困る」
ヴェロシティが言い、オーダーが眼鏡の奥で笑った。
「必要な連絡は各自でします。以前のように、誰かの目を借りることもできませんから」
「そっか。じゃあ帰ってきたら、何を買ったか聞けるね」
「ご報告します」
クェーサーが真面目に答えた。
久遠は少し困ってから、笑った。報告してほしいと言ったつもりはなかった。ただ、帰ってくる人の話を聞くのが楽しみだった。
◇
ヴィヴィオは稽古着を着たまま道場へ来た。
「写真も、この格好でいいよね」
「私も稽古着です」
アインハルトが袖を見せる。ヌメロンもいつもの格好だった。
リオとコロナは機材を運ぶため、先に来ている。三脚の位置を決める間に、ストライクが戸を開けた。
「まだ撮ってねえのか」
「位置を決めてるんです。ストライク師範はあとで入ってください」
リオが画面から目を離さずに言う。
「俺を呼んだのに、後回しかよ」
「最初の一枚は、前に約束した五人で撮ります。そのあと、みんなも入ってください」
コロナが説明した。
ストライクは五人を見た。ヌメロンと、彼が帰る場所で待っていた少女。稽古に来る三人。自分がいなかった間、彼らには彼らの約束ができている。
「分かった。邪魔しねえよ」
「別の位置から見ててもいい?」
ヌメロンが尋ねる。
「今はお前が写れ。機械を見ていたら、また端へ逃げるだろ」
ヌメロンは反論しかけたが、心当たりがあった。普段なら自分が撮る側へ回りたがる。
「今日は、ちゃんと入るよ」
「そうしてください」
アインハルトが答え、ヌメロンの袖を引いた。
コロナがタイマーを設定する。リオは戸口と稽古表の間に立った。ヴィヴィオがその隣、アインハルトが中央を譲ろうとすると、ヌメロンが首を振る。
「アインハルトは、そこ」
「あなたが真ん中に」
「じゃあ、一緒に」
二人で少し位置をずらした。ヴィヴィオが肩を寄せ、リオがコロナの空く場所を確かめる。
コロナがカメラから走って戻る。
「あと五秒です!」
「走らなくても間に合います」
「初めての位置だから、不安なんです」
ストライクが壁際から言った。
「足を止めろ。転ぶぞ」
コロナは立ち止まり、リオの隣で息を整える。全員がカメラを見た。
一度目の撮影音が鳴る。
撮り直しを告げる電子音が続いた。コロナが画面を見に行く。
「ヌメロン師範、目を閉じてます」
「そんなに長く閉じてた?」
「ちょうど、その一瞬だけ」
リオが笑った。
ヌメロンは画面を覗く。確かに自分の目だけが閉じている。それでも、隣のアインハルトがこちらへ少し笑いかけているのは分かった。
「次は気をつける」
「大丈夫。何枚でも撮れます」
コロナは最初の一枚を消さなかった。
二度目には五人全員が目を開けていた。リオの拳が上がりかけていて、いつもの稽古後の掛け声を思い出したのだとヴィヴィオが言う。三度目に、コロナも構えすぎずに笑った。
「これだね」
ヴィヴィオが画面を指す。
アインハルトがヌメロンの隣に立ち、二枚の稽古表が二人の後ろに写る。小さくなったヌメロンの身体にも、もう彼女は慣れていた。写真に残る彼の顔を、別の人と間違えることはない。
リオとコロナは頷き合った。約束した日の写真を、今日の五人で撮れた。
◇
昼前、久遠は居間で本を開いていた。
昨日オーダーに頼み、家にあった本から自分で選んだ。ミッドチルダの街の地図と、短い解説が載っている。まだ知らない地名が多いが、山の家の位置だけは分かった。
窓の外から車の音がした。クェーサーが戻ったのだと思って立とうとし、膝を確かめる。すぐには動かず、玄関までの距離を目で測った。
車は通り過ぎた。
「……違った」
誰かの帰りを待って、違う車を聞き分ける。昨日までは知らなかったことだ。
クェーサーは出かける時、用事が済んだら連絡すると言った。久遠は端末の音を確かめ、本へ視線を戻す。
しばらくして本当に連絡が来た。
『必要なものを受け取りました。これから戻ります』
買い物の報告より先に、帰る知らせが届く。久遠は『うん、待ってる』と返した。
送信してから、自分で書いた文字をもう一度見た。
彼女は誰かが待つと知らなくても帰るだろう。でも今、久遠は帰ると聞いて、顔を見たいと思っている。
端末を置き、本のページをめくった。
久遠は地図の山道に指を置いた。クェーサーの車が通るのは、たぶんこの曲がり角だ。その先に家があり、帰れば彼女が言いかけた買い物の話を聞ける。
ストライクが道場へ行った時も、自分はこの家で帰りを待った。まだ案内されていない部屋が多い家なのに、誰がどの戸を開けて戻るかは少しずつ分かってきた。
階段を下りる前には足を確かめなければならない。だから玄関へ走って迎えに行くことはできない。それでも『待ってる』と書けたことが、久遠には少し嬉しかった。
◇
道場では、ノーヴェも加わって二枚目の写真を撮った。
ストライクは古い稽古表の下へ立たされ、ノーヴェに「笑え」と言われて眉を寄せる。ヌメロンは反対側、新しい表の下にいた。
「もう少し、二人とも中央へ」
コロナが指示する。
「こいつの肩まで寄る必要があるのか」
「写らなくなりますよ」
アインハルトに言われ、ストライクは半歩だけ動いた。
「こっちも来て。ノーヴェ」
ヌメロンが手を上げる。ノーヴェは二人の間へ入り、片方ずつの肩へ腕を回した。
「今日は逃がさねえ」
「この前も話しただろ」
ストライクが言う。
「この前はこの前。今日は写真」
ノーヴェの返事に、彼はそれ以上言い返さなかった。
シャッターが切られる。集合写真では、ノーヴェだけがカメラの前で堂々と笑い、ストライクは横を向きかけている。ヌメロンは二人の間で困った顔をしていた。
リオが画像を見て、これも残したいと言った。コロナは「もちろん」と答えた。
一枚だけで終える必要はなかった。五人の写真も、そこにいた全員の写真も、道場で今日撮れたものだった。
コロナは小さな印刷機を取り出した。まず最初の五人の写真が、一枚だけ出てくる。紙の上では稽古表の文字が思ったより小さい。それでもストライクの古い字と、ヌメロンの新しい字は見分けられた。
「道場に飾るのは、どっちにしますか」
「みんな入った方」
リオが答える。ヴィヴィオは一枚目も手に取った。
「これも好き。ヌメロンさんが目を閉じたところ」
「目を閉じている写真を、そんなに褒める?」
「いつも撮る側だから。ちゃんとここに立ってたって分かるよ」
ヌメロンが受け取ると、印刷された紙は思ったより薄かった。指先の大きさも変わったが、持ち方は分かる。紙を曲げないよう縁を持ち、アインハルトにも見せた。
「私は、みんなで笑っている三枚目を家に置きたいです」
「目を閉じた一枚目は?」
「それも。写真を撮る約束をしたのは、目を閉じていたあなたも同じですから」
ヌメロンは返事をして、二枚とも家の分を印刷してもらうことにした。道場に飾る一枚には、全員が入っている。今日使ったカメラには、これからも撮れる空きが残っていた。
ストライクがコロナの端末を見る。
「さっきの五人のも、送れるか」
「どなたに?」
「山の家へ。久遠に、今日ここへ来たって伝える」
ヌメロンが目を上げた。本人へはまだ会っていない。自分がいた身体で久遠が目覚めてから、言葉を交わす機会を作れずにいた。
「ボクからも連絡した方がいいかな」
「それはお前が決めろ。俺は自分が道場に来たことを知らせる」
「分かった」
ストライクは五人が揃って目を開いた写真と、全員の写真を選んだ。受け取るかどうか、久遠に尋ねる短い文を先に送る。
すぐに『見たい』と返ってきた。
◇
クェーサーが帰宅した時、久遠は居間にいた。
「おかえり」
「ただいま戻りました、久遠様」
彼女は買い物袋を置き、食卓の隣へ来る。久遠が階段を下りてから座ったままでいると分かると、まず体調を尋ねた。
「いまは大丈夫。さっき、違う車の音で迎えに行きそうになった」
「お待たせしました」
「迎えに行かなくても、帰ってきたね」
「はい。お約束しましたから」
クェーサーは袋から検査用品を出して棚へしまう。何を買ったかの話を本当に始めようとしたので、久遠は先に「お疲れさま」と言った。
彼女は少し驚いた顔をして、手を止めた。
「ありがとうございます」
今の姿になる理由は本人にも分からない。だが買い物袋を運び、戻ったら久遠に声をかけるのは、クェーサーが自分で決めていることだ。
午後、ヴェロシティは予定通り一人で町へ出た。バイクの音が山道へ遠ざかる。久遠は窓越しに見送った。
今はクェーサーが家にいる。オーダーも書斎にいる。それでも、もう一人が帰る時刻を聞いておきたくなった。
「ヴェロシティは、夕方?」
「そのように聞いております」
「じゃあ、灯りをつけて待ってる」
クェーサーは窓の外を見た。まだ明るい。灯りのことを今決めておく久遠に、何も言わず頷いた。
◇
なのはが仕事から戻ると、ヴィヴィオが食卓に端末を置いた。
「ママ、今日、撮ったんだ」
「見せて」
一枚目ではヌメロンが目を閉じていた。なのはが指摘すると、ヴィヴィオが「残したいってコロナが」と笑う。
「いいね。みんな、笑ってる」
「二枚目もあるよ」
画面には、ヌメロンとアインハルトの隣へ子供たちが並んでいる。道場の稽古表も写った。朝、なのはが娘を送り出した時には、画面の中の笑顔がどんな形になるか分からなかった。
次の写真にストライクがいた。
「本当に帰ってきたんだね」
「うん。リオ、受け身を見てもらってたよ。最初に会ったのに、すごく真剣だった」
ヴィヴィオは今日の稽古を一つずつ話した。なのはは最後まで聞く。娘が話すのは、自分が家にいない間に過ごした今日のことだ。
「プリントもするの?」
「うん。コロナが、道場に飾る分を用意してくれるって」
「なら、今度見に行こうかな」
「ぜひ。ママも稽古表が写ってるところを見て」
なのはは頷いた。写真には久遠が写っていない。彼は今日、山で何をしていただろう。
だがヴィヴィオが撮った一日を、久遠がいないという理由で曇らせたくなかった。写真を見せたいと思ったら、まず本人が受け取るか尋ねよう。話すために会いたい気持ちは、写真とは別に持っていた。
◇
ヴェロシティが帰ったのは、窓へ灯りが映り始めた頃だった。
久遠は居間で本を閉じる。バイクの音が止まり、しばらくして玄関の戸が開く。
「おかえり」
「ただいま。ちゃんと灯りをつけたんだな」
「暗くなってきたから」
「部品、ちゃんと受け取れた。明日には直せる」
ヴェロシティは袋を掲げた。久遠は、買ってきたものの名前を聞く。自分には分からない部品だったが、どう使うかは教えてくれた。
オーダーも書斎から出てきた。今日は家にいたのに、仕事で顔を合わせなかった時間がある。
「久遠様、こちらは予定通り終わりました。お待たせしましたか」
「ううん。クェーサーと話してた」
誰かが帰るたび、家の中の声が少し増えた。
夕食の少し前に、ストライクから連絡が来た。
『写真、届いたか』
久遠は端末を見る。二つの画像が届いている。
「いま開くよ」
最初は、ヌメロンとアインハルト、ヴィヴィオ、リオ、コロナの五人だった。
久遠は一人ずつ見た。ヌメロンは昨日見た時より、ここで暮らす人の顔をしていた。少女が肩を寄せることを当たり前として受け取り、隣の子たちの笑い声も知っている顔だった。
病室で「ヌメロンを返して」と叫んだアインハルトは、写真の中では安心している。久遠もそれを見て、よかったと思った。
「撮れたんだね」
『ああ。何度も撮り直してな。最初の一枚はあいつが目を閉じた』
ストライクは画面越しに笑う。久遠もつられて、口元を緩めた。
二枚目には、ストライクが写っていた。ノーヴェも一緒だ。前にオーダーが見せてくれた写真より人数が多い。
「ノーヴェさん、会えて嬉しかった?」
『二度殴られた』
「それなら、嬉しかったんじゃないかな」
『だといいが』
画面の端で、コロナが少し背伸びしている。写真を撮る人が、撮られる場所へ戻った瞬間だったのだろう。
「みんな、ちゃんと写ってる」
『最初のは五人で撮るって、子供たちが決めた。二枚目には俺たちも入れた。よく撮れてたから、お前にも見せたかった』
「ありがとう」
久遠は二枚をもう一度開く。新しいカメラなら何枚でも撮れる。約束を守った五人は、今日そこに立っていた。
なのはたちとも、昔、写真を撮ろうと話したことがある。
どんなふうに並ぶかを決める前に、久遠は図書館へ行った。九歳の久遠となのはたちが一緒に写る一枚は、そのまま残っていない。
今の大人になった三人と撮ることができても、あの約束した日の写真にはならない。その違いを、久遠は口にしなかった。
『久遠?』
「うん。見てる」
『気に入らなかったか』
「違うよ。みんなが帰って、一緒に撮れてよかった」
そう答えたのは、本当だった。
ストライクはそれ以上聞かず、夕食に間に合うよう帰ると告げた。久遠は端末を置く。食卓には、今日は五人分の皿がある。
写真の中の五人と、この家にいる五人。数が同じでも、そこで過ごした年月はそれぞれ違う。
久遠は写真を二枚とも保存した。
◇
夕食の席へストライクが着くと、クェーサーが皿を渡した。
「もう冷めたのか」
「今お運びしました」
「じゃあ、今日は温め直さなくていいな」
クェーサーが久遠を見る。朝の話を聞かれたらしい。久遠は笑い、ストライクは二人を交互に見た。
「何だよ」
「何でもありません」
「写真を見たよ」
久遠が言うと、ストライクは椅子を引いた。
「ノーヴェに腕を回されて、逃げられなかった」
「写ってた」
「消すなよ」
「消さないよ」
オーダーが仕事用の端末を閉じ、ヴェロシティが帰り道で聞いた風の強さを話す。クェーサーは久遠の皿へ料理を足そうとして、先に欲しいかを尋ねた。
「これくらいでいい。あとで食べたくなったら言う」
「はい」
久遠は食卓の端に座るストライクを見た。昨日までは空いていた席だ。今は彼が自分で座り、料理が熱いかどうかを確かめている。
帰ってきてくれてよかった。久遠はそう思う。
部屋の棚には、彼自身が写っていない写真も届いている。そのことも、夕食を食べる間ずっと忘れなかった。