朝、久遠は布団の中で足先を動かした。
動いたかどうか分からず、掛け布を持ち上げる。右足の指が、ほんの少し曲がっている。左足は見つめても形が変わらなかった。
寝ぼけているだけかもしれない。もう一度、足をベッドの端へ運ぼうとした。
膝から下がついてこない。
久遠は上体を起こした。右手で左の腿を持ち上げると、重さが手首にかかる。布団の上では曲げられる膝も、力を抜くとそのまま落ちた。
「……クェーサー」
声が小さかったので、枕元の端末を取った。呼び出しの印を押す前に、廊下で足音が止まる。
「おはようございます、久遠様。お目覚めですか」
「うん。入って」
盆を持ったクェーサーが扉を開ける。久遠の手が足に置かれているのを見て、盆を机へ下ろした。
「どうなさいました」
「今朝、足が動かない。右はちょっと動くけど、左が」
言葉にした途端、胸が速く打った。
クェーサーはベッドのそばに膝をついた。いつものように久遠の代わりに結論を言うことはしない。
「感覚はありますか。触れてもよろしいですか」
「うん」
手を当てられると温かさは分かる。ただ、どこに触れているかが少し遅れて伝わった。
「オーダーとシャマルさんを呼んで」
久遠が言うと、クェーサーが顔を上げた。
「すぐに」
彼女は通信端末で二人へ連絡した。久遠はその間、起き上がったまま足を見ていた。昨日、アインハルトを見送るために立った。長椅子から廊下へは出なかったけれど、まだ立てた。
翌朝の脚がどうなるか、あの時の自分には分からなかった。
◇
オーダーは書斎から駆けつけた。
「一人で立とうとはなさいませんでしたね」
「うん。呼んだ」
「ありがとうございます。そこから先は私たちの仕事です」
布団を直す仕草は落ち着いていたが、検査用の端末に触れる指は速かった。クェーサーがシャマルにつないだ通信を、寝台の横へ移す。
『久遠君、声を聞かせて。息苦しさや、手の動きに変化はある?』
「息は大丈夫。手も使えるよ。足だけ」
『どちらも今朝から動かしにくいのね。立たないで待っていて。私が直接行くわ』
「うん」
画面越しに、シャマルがいつもの姿で頷く。彼女の顔は、久遠が図書館へ行った頃と変わらない。今朝の自分の足も、数日前までは歩けていた。それだけがうまく並ばなかった。
通信が切れると、オーダーは寝台の脇へ椅子を寄せる。
「段差を避けて移動できるよう、今日中に一階にも場所を整えましょう。医師の判断を待ってからですが」
「台所へ行ける?」
「行けるようにします」
オーダーの返事は速い。けれど「足もすぐ戻る」とは言わなかった。
久遠はその違いを聞き取った。
「ストライクは、道場へ行った?」
「先ほど発ちました。連絡を入れますか」
「帰ってからでいい。稽古の途中でしょう」
「はい。帰った時に、今日あったことを私から話してもよろしいですか」
「うん。家にいる人には、知っててほしい」
久遠がそう答えると、オーダーは頷いた。ヌメロンやなのはたちへ話さないでほしいという約束と、同じ屋根の下にいる者に助けを求めることは、久遠の中では別だった。
だが別々にできること自体、今の彼にはありがたかった。
◇
シャマルが着くまでの間、クェーサーは戸棚から部屋着を出した。
「お着替えは、診察後になさいますか」
「顔を洗いたい」
「お持ちします」
水を張った器と布が届く。久遠は自分で顔を拭いた。首に触れた冷たさは、いつもと同じだ。
ベッドの横の床は、昨日と同じ高さにある。降りるだけなら出来そうに見えた。
「クェーサー」
「はい」
「顔を洗うだけなら、ここでよかった」
「はい」
「でも……手を借りて、みんなのいる所へも行けるかな」
彼女の手が止まる。
「もちろんです。シャマル様に安全な移り方を伺ってから、お連れします」
「うん。今日はそうしたい」
久遠が言うと、クェーサーは服を椅子の上へ置いた。
「では、朝食は後にいたしましょう。居間で温かいものをご用意します」
その声に弾むものが混じった。久遠は昨日まで、クェーサーに任せきりでは悪いと思い、階段を自分で下りようとしていた。今日、彼女に頼むのは初めてだった。
◇
シャマルは脚の感覚と動きをひとつずつ確かめた。触れた位置が分かるか、曲げようとした時にどこへ力が入るか。久遠が答えるたび、彼女は記録を取る。
検査のあいだ、クェーサーもオーダーも室内にいた。久遠が答えづらそうにすると、シャマルがまず本人へ尋ねる。
「二人にも聞いていてもらっていい?」
「うん。この家では知っててほしい」
久遠の声を聞いてから、彼女は話を続けた。
「ストライクを呼び戻した日に、身体に残っていた構造を強く動かしたでしょう。その時の負担が出ている可能性が高い。彼が生きているせいで、今も何かを吸い取っているわけではないわ」
「うん。前に聞いた」
「今日はその時より、両脚の動きが落ちてる。無理に歩かず、移動の仕方を変えて様子を見ましょう。手や呼吸にも変化があったら、すぐ連絡して」
「いつ戻るの?」
シャマルの手が一瞬止まった。
「今は、いつとは言えない。治療のために調べているけれど、経過を見ないと分からないこともある」
久遠は布団の上に目を落とした。
「そっか」
「今夜は私がもう一度診に来る。必要なら医療区画で詳しく調べることも提案するね。久遠君が困ったことも、検査の数字と一緒に教えて」
「台所に行きたい。今日はまだ朝ご飯を食べてない」
「それは困るわね」
シャマルは微笑んだ。オーダーと、座ったまま安全に移動する方法を確かめ始める。
久遠は顔を上げた。説明を聞きながら、昨夜なのはから届いた文を思い出す。返事をするのを忘れていたわけではない。いま何を言えば、会いたいという言葉に応えられるのか分からないだけだった。
窓の外で車の音がした。ヴェロシティが貸出用の移動椅子を受け取りに行き、もう戻って来たらしい。
◇
ヴェロシティは玄関から部屋の前まで、大きな袋を抱えて上がってきた。
「折り畳みのやつ。サイズはシャマルから聞いた」
「早かったね」
「道、空いてた。急いで飛ばしたわけじゃないぞ」
久遠が尋ねる前に言われ、少し笑った。
シャマルが椅子の高さと支えを確認する。まず彼女とクェーサーの手を借り、久遠は寝台から移った。自分の足を置く位置は手で直す必要がある。それを済ませると、窓のそばまで動かしてもらえた。
「ここからなら、庭が見える」
ヴェロシティが窓を少し開ける。
「うん。でも、朝ご飯を食べに下へ行きたい」
「了解。今は二階から運ぶ方法を確認中。ここで無理して階段は使わねえ」
椅子で階段を下りるわけにはいかない。オーダーはシャマルと相談し、姿勢を支える搬送具を手配していた。今日の朝食が遅くなっても、安全を確かめてから移動する。
「少し、待てる?」
クェーサーに聞かれ、久遠は頷く。
「本を持ってきてくれる? 前に運んでもらった荷物の中に、古い本があったと思う」
「どのような本でしょう」
「表紙に鍋の写真がある、料理の」
オーダーが振り返った。
「病院からこちらへ移した荷物の中ですね。はやてさんが、久遠様へ預けていかれたものです」
「はやてが?」
部屋に来た箱には、目覚めてから病室で使った物が入っている。久遠はまだ中身をすべて見ていなかった。似たような表紙を一度見た気はする。
「彼女からの伝言もございます。『読めへん本やけど、覚えとるかもしれへん』と」
「……覚えてる」
久遠は窓から目を離した。
◇
本は、子供の手には大きすぎた頃と同じ厚さだった。
表紙の文字は、今も読めない。写真に映っている鍋の色だけ分かる。紙の角には、何度も開いた時についた曲がり癖があった。
クェーサーが袋の底から、青い栞を出した。白い紐が端から下がっている。
「こちらも一緒に入っていました」
「それ、ボクが作ったやつだ」
「ご存じなのですね」
「うん。はやてに渡した」
久遠は受け取って、指で青い紙の縁をなぞる。折った時に少しずれた角。九歳の自分がまっすぐに切れなかったところまで、そのままだった。
地球の図書館で、はやてと一緒にこの料理本を開いた。知らない国の字が並ぶ頁を二人とも読めず、写真の皿が甘いのか辛いのかを勝手に決めた。はやては椅子に座ったまま、頁をめくるたびに料理へ名前をつけた。
「これ、おいしそうって、二人で言ったんだ」
久遠が開いた頁には、白い湯気の立つ料理が写っている。鍋なのか、深い皿なのかも分からない。
「はやてが先に選んだよ。でも、別の頁を見たら、こっちもいいって言って」
久遠は笑った。クェーサーも写真を覗く。
「久遠様は、どちらがよろしかったのですか」
「これ。多分。味、分からないのに」
はやてが栞をずっと持っていたのだと、手の中の紙が伝える。昨日病室で見た彼女は、もう自分と同じ九歳ではない。だからといって、青い紙が別の物になったわけでもなかった。
久遠は頁に栞を挟む。白い紐だけ本の外へ残した。
なぜ、料理を選び合った日には平気だったのに、昨日見た写真のことを思い出すと胸が詰まるのか。そんな問いは、クェーサーへ渡さなかった。
◇
午前の終わり頃、一階への移動ができた。
シャマルが確認した搬送具で階段を下りるあいだ、オーダーとヴェロシティが姿勢を支えた。クェーサーが先に居間の戸を開く。一階で椅子へ移るまで、久遠は何度か手を止めてもらい、足の置き方を確かめた。自分で階段を下りられた朝より、ずっと時間がかかった。
食卓には、冷めないよう蓋をした皿がある。
「遅くなった」
「ここでいただきたいとおっしゃったので、お待ちしておりました」
クェーサーが椅子を食卓へ寄せる。
「みんな、朝ご飯食べた?」
「俺は食べた。食べてから部品を取りに行った」
ヴェロシティが即答した。
「私も済ませました」
オーダーも答える。久遠のために家中の時刻を止めていたわけではない。久遠はその返事を聞き、蓋の下の湯気に手をかざした。
「じゃあ、ボクも食べる」
食べ終わる頃には、クェーサーが食卓の端へ料理本を置いた。青い栞の白い紐が、椅子からも見える。
これが置いてあると、図書館のあの時だけへ帰れる気がした。そう思う自分に気づいても、本を棚へ戻してとは言えなかった。
◇
午後、道場にストライクの姿はなかった。
「ストライク師範、今日は早いですね」
リオが稽古表へ視線を上げる。
「俺の受け身、まだ見てもらってないのに」
「次、見てもらいましょう」
コロナが返した。ヌメロンは片づけるマットを一緒に持つ。
「今日はボクが見るよ。ストライクには、今度ちゃんと伝えておく」
「言っといてください。前の続きですから」
「分かった」
アインハルトは壁の写真を見上げた。昨日会った久遠のことを、また考えている。ヌメロンには帰りの車で話した。けれど今ストライクがどこへ行ったかを、それだけで結びつけはしなかった。
「ヌメロン。私も、今日は受け身からお願いします」
「うん。順番に見よう」
道場には、予定していた稽古の続きがあった。ストライクはそれをヌメロンへ託して、山道を帰っていた。
◇
ストライクは夕方より早く家へ着いた。
玄関で靴を脱ぐと、クェーサーが居間から顔を出す。
「今朝からのことはオーダーから?」
「聞いた。久遠は」
「食卓におります」
久遠は開いた本を見ていた。ストライクの足音に気づき、顔を上げる。
「おかえり。道場、早く終わった?」
「ヌメロンに任せた。残りは次行く時に見る」
「よかった。リオたち、待ってたかと思って」
「待ってるなら行くよ。いなくなるわけじゃねえ」
ストライクは向かいに座った。久遠の脚の位置を見て、視線を本へ移す。
「それ、知らねえ文字だな」
「ボクも読めない。昔、はやてと見てた本」
「読めないのに、何で料理本だって分かる」
「写真がいっぱいあるから。それに、はやてがそう言った」
久遠は青い栞を少し持ち上げる。白い紐が揺れた。
「九歳の時のまま?」
「うん。少しぼろぼろだけど」
ストライクは鼻で笑う。
「なら、はやてがちゃんと取っといたんだな」
「うん」
久遠は栞を戻し、脚を見る。
「ストライク。今日は、足が動かなくなった」
「聞いた」
「ボクがあの日、オーダーの言う通り待ってたら、こうならなかったかもしれない」
「かもしれねえな」
否定されず、久遠は彼を見た。
「俺も戻れなかった。あの時いた全員が、戻す方法を見つけられなかった。お前が見つけて、無理して動かした」
「……うん」
「無理が身体に来たのは本当だ。でも俺が今ここにいることを、謝るな。俺の方からお前を責める理由にもしねえ」
ストライクの声は荒いのに、言葉を決めるのに時間をかけていた。
「自分でやりたかったの?」
久遠が聞くと、彼は肩をすくめた。
「俺だって死にたくなかったさ。できるなら戻りたいと思う。お前の代わりに決められたことじゃねえし、俺が今日できるのは、ここでどう手伝うかだ」
久遠は料理本の表紙へ目を落とす。ストライクは身体を戻してくれ、と一度も頼めなかった。戻ったあとで、彼の存在を重荷のように扱いたくなかった。
「それじゃ、何か困ってるか」
「さっき、下へ来る時は助けてもらった」
「それは聞いた。今の話だ」
「……今?」
「今ここで、何をしたい」
ストライクは窓の方を見なかった。立てなくなった足へも、もう目を向けない。
久遠は本を閉じると、青い栞を挟んだところへ指を置いた。
「台所に行きたい。今日、クェーサーが何を作るか見たい」
「食うのは?」
「それも。でも、作ってるところ」
「行くか。移動はクェーサーに聞いてからな」
ストライクが立ち上がる。久遠は続けて尋ねた。
「ストライクは、今日は道場でどうだった?」
「リオが昨日より上手く転んだ。本人には言ってねえ」
「言ってあげればよかったのに」
「次、もう一度できたらな」
久遠は声を立てて笑った。ストライクは話しながら、クェーサーへ移動の仕方を確かめに行く。
◇
調理台の上には、知らない野菜が二つ並んでいた。
「今日はこれを煮るの?」
「片方は焼きます。もう片方は汁物に」
クェーサーが包丁の位置を久遠から遠ざけながら答える。椅子は通路をふさがない所へ置かれた。ストライクは戸口に寄りかかっている。
「本の料理よりは、分かる味?」
「召し上がってからお答えを聞きます」
「それじゃ、分かる味だ」
鍋が温まると、クェーサーが蓋を開けた。久遠は湯気の向こうの具を見る。誰かが作るものを待っていて、作っているところを見られる。山の家に来てから、自分がもう知っていた今日の一部だ。
小さな動きを積み重ねて作る料理が、写真だけの料理本より遠くに感じる時もある。久遠は白い紐の先を指で挟み、手元の本が落ちないように支えた。
道場の写真を思い出す。五人が並ぶ前、なのはたちと写真を撮ろうとしたことがあった。誰がカメラを持つのかは、もう思い出せない。
それでも、桃子さんに声をかけると、自分たちが並ぶ前に髪を直してくれただろうか。恭弥さんは真面目な顔で立ってから、シャッターが切れる瞬間に少しだけ笑っただろうか。
あの時、家へ帰ってから相談するつもりだった。図書館へ行ったのは、その前か後か。
「久遠様?」
クェーサーの声に、久遠は顔を上げる。鍋の中身を示されていた。
「ごめん。聞いてなかった」
「今日は味見をなさいますか、と」
「うん。したい」
小さな器を渡される。熱いからと、クェーサーが手を添える。久遠はひと口飲み、知らない野菜の味を確かめた。
「おいしい」
「まだ仕上げておりませんよ」
「じゃあ、あとでまた飲みたい」
クェーサーは頷いて鍋を戻した。ストライクが戸口から「俺にもよこせ」と言い、彼女に「夕食までお待ちください」と返される。
久遠は笑う。写真の約束をした日の次に来るはずだった日を、ここでは誰も知らない。今の湯気も、その続きを代わりに作ることはできない。
器を置くと、足元へ視線が落ちた。立って自分で味見することは、今日はできない。明日はどうか、シャマルにも分からない。
久遠は読めない料理本を閉じた。青い栞の白い紐が、まだ外へ出ているのを指で確かめる。
「クェーサー。夕飯の時も、ここまで来られる?」
「はい。お呼びください」
明日のことは尋ねなかった。
◇
夜、久遠はなのはの文に返事を書いた。
部屋へ戻るには、またみんなの手を借りた。本は枕のそばへ置いてある。足は、寝台の上でも朝と同じように動かない。
なのはに会いたいかどうか、まだ一つの言葉にはできなかった。会えば彼女が心配するだろう。その心配にどう答えればいいか分からない。一方で、昔一緒にいたなのはと、今のなのはが何を話すのか、聞いてみたくもある。
『連絡してくれてありがとう。もう少し待ってくれる?』
送ると、思ったより早く返事が来た。
『うん。待ってるよ。おやすみ、久遠君』
久遠は「おやすみ」と返した。
なのはは会えない時間にも、ヴィヴィオと過ごして、仕事へ行って、明日を迎える。久遠が知っている彼女の続きがそこにあるのだろう。待ってくれると言われたことは嬉しい。待たせている時間が増えるのは、少し怖かった。
端末を伏せる。そばには読めない本があり、自分の作った青い栞を、はやてが失くさずに持っていた。窓の下で、ストライクがヴェロシティと話している声がする。
久遠は二人の会話を聞きながら、足先が動くかを試した。
返事はない。今日、助けを借りて台所まで行ったことも消えない。
彼は栞の紐を指で持ち上げ、布団の上へそっと戻した。