魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第21話 言えないこと

 翌朝、久遠は水の入った杯を取ろうとして、指を止めた。

 

 届く距離にある。握ることもできる。けれど、伸ばした腕をその位置に留めておくのが難しかった。肘が震え、水面に小さな輪ができる。

 

「今日は、これもか」

 

 左手を添えれば持ち上がった。水をひと口飲み、杯を机へ戻す。手から力を抜くと、指先の震えは消えた。

 

 足は昨日と同じように動かない。目を覚ました時には、今度はどこが動かなくなったのかを確かめる癖がついていた。

 

 枕元には外国の料理本がある。白い紐の先に青い栞。久遠は本の背を撫で、呼び出しの端末へ手を伸ばした。

 

「クェーサー。起きたよ。顔を洗うの、手伝ってくれる?」

 

 昨日までより、頼む言葉が少し早く出た。

 

『はい。ただいま参ります』

 

 返事を聞いて端末を置く。呼んだことで、誰かの朝を邪魔した気がした。しばらくすると廊下から足音がして、その気持ちは薄れた。クェーサーは来ると決めてここにいる。

 

     ◇

 

 久遠が選んだのは、一階の窓に近い部屋だった。

 

 朝の移動に時間がかかるので、寝室を移したいと自分から言った。すぐに使える部屋は食堂の隣にもあったが、そこからは庭が見えない。

 

「こちらでよろしいのですね」

 

 オーダーが尋ねる。

 

「うん。台所にも近いし、窓も開けられる」

 

「それでは、家具の配置はこちらの高さに合わせましょう。出入口の幅も確かめます」

 

「本を置く場所も欲しい」

 

「どの本でしょう」

 

「昨日の料理本。栞は一緒にしておいて」

 

「承知しました」

 

 オーダーは端末へ記した。相談を受けた以上、手の届く位置まで決めるつもりらしい。久遠はそれを少しおかしく思いながら、窓の向きを指した。

 

 クェーサーがそこへ机を寄せる。高さを確かめようと久遠が腕を伸ばすと、昨日より早く疲れた。

 

「もう少し、こっち」

 

 細かい位置を声で伝える。クェーサーは嫌な顔をせず動かした。

 

 言えば変わることが、ここにはある。足を動かせないこととは別に、その事実を覚えておきたかった。

 

 オーダーの端末に、シャマルから来訪時刻の知らせが届く。久遠は手を引き、窓の外を見た。

 

「なのはたちには、部屋を替えることも?」

 

「お話ししません。以前承った通りです」

 

 オーダーは答える前に久遠の顔を確かめていた。

 

「ただし、医療上の連絡は止めません。シャマルさんへは全て伝えています」

 

「うん。それでいい」

 

 久遠は本の置かれる机を見る。自分から頼んだ支援も、秘密も、同じ部屋へ運ばれる。

 

     ◇

 

 シャマルは前日より長く、久遠の手の動きを診た。

 

 杯を握る力と、腕を伸ばして保つ力は違う。久遠は言われた通りの動きを繰り返し、三度目で少し疲れたと伝えた。シャマルはそこでやめさせる。

 

「昨日のうちに、どこまでできたか覚えてる?」

 

「食事は自分で食べた。夜、端末でなのはに返事も書いたよ」

 

「今朝は、水を持った時に変化があったのね」

 

「うん。まだ持てるけど」

 

 シャマルは経過を並べて記録した。ストライクを呼び戻すために行った一度の魔力行使から始まった身体の負担。後から少しずつ変わる感覚。だが、術式に触れたからといって、かつてはやての脚に起きたことと同じ仕組みだと決めることはできない。

 

「今日からは、手の疲れ方も私に教えて。食事や着替えで困った時も」

 

「寝てれば、よくなる?」

 

「休むだけで元へ戻るとは、まだ言えない。調べながら、今できることを残す方法を考えるわ」

 

 答えが決まらないことを、シャマルは隠さなかった。久遠は頷く。

 

「なのはには、会いたいって言われたよ」

 

「そう」

 

「もう少し待ってもらうことにした。シャマルさんからも、ボクのこと、今は言わないでくれる?」

 

 医療用の端末を持つシャマルの手が止まる。

 

「なのはちゃん、フェイトちゃん、はやてちゃんの三人に?」

 

「うん。アインハルトさんにも」

 

「診療のために必要な人たちには、正確に伝えていいのね」

 

「ここにいるみんなと、シャマルさんには。相談するのはやめないよ」

 

「分かった。あなたが話すまで、三人へ私から病状は伝えない。ただ、あなたの身体に急な危険が出た時は、助けるために必要な連絡を考えさせて」

 

 久遠は口を結んだ。シャマルにまで黙ってほしいと言ったら、昨日自分を一階へ連れてきてくれた人たちまで動けなくなる。

 

「……うん。シャマルさんには、ちゃんと話す」

 

 返事のあと、別の言葉を思い出す。

 

 ずっと前の図書館で、はやてのことを話すなら、本人にも伝えた方がいいとシャマルに言った。大人たちがどれほどはやてを大切にしていても、何も知らないまま守られるのは怖いと思ったからだ。

 

 今、その人たちには自分のことを知らせないでほしいと頼んでいる。

 

「シャマルさん。ボク、前には、はやてに言った方がいいって言ったよね」

 

「覚えているわ」

 

「今は違うことを頼んでる」

 

「そうね」

 

「……ずるいかな」

 

 シャマルはすぐに首を振らなかった。

 

「はやてちゃんが自分のことを知る権利と、あなたが自分の状態を誰に伝えるかは、同じ問いじゃないわ。久遠君の病状を隠すために、あなたへの診療まで止めるつもりもない」

 

「うん」

 

「話してほしいと思う人はいるかもしれない。それと、今あなたが話せないことは、どちらもそのままにしていい。ただし、診察で見つけた危険は私にも背負わせてね」

 

「分かった」

 

 久遠は端末の脇へ置いた杯を見る。今朝、水を持てなかったとは言わずに済ませる道もあった。それは自分で選ばなかった。

 

     ◇

 

 山の家を離れたヴェロシティは、旧い封印記録の写しを取りに行っていた。

 

 オーダーが手元に持つ記録だけでは、写本の最後の状態が分からない。久遠が目を覚ましてから採った値ばかり見ていれば、後から生じたものと前からいたものを取り違える。

 

 ヴェロシティは手続きと受け取りを自分で済ませ、バイクで戻った。玄関でヘルメットを置くと、オーダーが書斎の扉を開ける。

 

「見つかったか」

 

「写本の保管中に採った生の波形と、封印前の記録。お前の要約とは照合してねえ。まず元のままで見る」

 

「よろしい判断です。私の解釈を先に渡して、君の目まで借りたくはありませんでした」

 

「目を借りる回線も、もうねえからな」

 

 ヴェロシティは端末を渡さず、自分で記録を開いた。二人が同じ画面を見ていても、いま覚えることはそれぞれ違う。久遠が目覚めてから、彼らのあいだで記憶はつながらない。

 

 初めの波形は、図書館の事件から長く経った後に採られた。久遠が帰還する前、写本はまだ物として封じられていた。

 

「これが、呪いの残った頁か」

 

「ええ。右端の小さな反応が蒐集に関わる部分です。ただし写本に残る呪いは、それひとつではありません」

 

 ヴェロシティが時刻を指でなぞる。封印の時から同じ反応がある。久遠の身体が出来てから初めて現れた印ではない。

 

「久遠が帰ってきたせいで生まれた、とは言えねえな」

 

「正確には、帰還前から存在したことまでが確かです。今どこまで働いているかは、別の検証が要ります」

 

 オーダーは保留する箇所を赤い線で囲った。誰かの善意へつけ込む性質があるとしても、それを今すぐ身体の異変すべての原因にしてしまえば、ストライクを呼び戻した時の過負荷を見失う。

 

「久遠様がお目覚めになった日の記録も重ねます」

 

 病室で採られた波形が現れる。封印中と同じ細い線が、別の位置で強くなっていた。

 

「あの子、起きてすぐ謝ってたって、シャマルが言ってたな」

 

「はい。知らない相手がヌメロンを探していて、返せないと思った時です」

 

「それで反応が強くなった?」

 

「時刻は重なっています。本人の心の中で何が起きたかを、この線だけで言い当てるつもりはありません」

 

 オーダーは画面を止めた。久遠がどれほど怖かったか、謝る理由をどう考えたかは、記録からは読み取れない。アインハルトを責める証拠にもならない。

 

 それでも、封じていたものが久遠の不安へ手を伸ばした可能性は残った。

 

「蒐集、って人の苦しい目を集めるやつだろ」

 

「苦境を呼び込み、そこへ接する道を広げます。人を助けずにいられない方なら、苦しんでいる相手へ自ら近づく」

 

「助けたのが悪いって話にすんじゃねえぞ」

 

「無論です。主の優しさは呪いの作ったものではない。悪意ある構造が、そこへ寄りかかっているのです」

 

 ヴェロシティは頷いた。記録を複製してオーダーへ渡す前に、取得時刻と封印時刻が一致しているかをもう一度確かめた。

 

     ◇

 

 シャマルが帰った後、久遠は一階の新しい部屋へ本を運んでもらった。

 

 移動椅子の高さに合わせた机は、窓に近い。青い栞の白い紐が見えるよう本を置く。自分の部屋を自分で選んだのに、急に荷物をまとめて越してきたような気持ちになった。

 

「ここを寝る所にしてもいい?」

 

 クェーサーは最後の荷物を下ろした。

 

「もちろんです。明日の朝には、朝食の前に窓をお開けしますか」

 

「天気がよかったら」

 

「承知しました」

 

 明日の天気を知らないまま、明日のことを一つ決めてしまった。久遠は少し驚く。

 

 クェーサーは外に出て、廊下を通る時に椅子が壁へ当たらないか試した。帰ってきたら、どうだったか教えてくれるという。久遠は窓のほうを向いた。

 

 昼すぎに、端末へヌメロンから写真が届く。前に道場で撮ったものではない。稽古着のリオが、マットの上へきれいに転んだ後で拳を上げている。コロナが撮ったらしく、端にストライクの指が少しだけ写っていた。

 

『前にストライクから聞いたよね。リオ、今日も同じ受け身ができた。本人に伝えたら、もっと難しいのも見ろって』

 

 久遠は笑った。ストライクは言った通り、もう一度できたリオへ話したのだ。

 

『よかったね。ストライクにも、今夜その話を聞くよ』

 

 返信を書きながら、腕が少し重くなる。それでも最後まで打って送った。ヌメロンは道場で写真を撮り、自分の家へも帰る。久遠に写真を送ってくれたのも事実だった。

 

 クェーサーが廊下から戻る。

 

「角の飾りを移せば、戸に当たらず通れます」

 

「それなら、明日の朝はここから台所へ行けるね」

 

「はい。ゆっくり行きましょう」

 

 久遠は端末を伏せた。今日は午前より手を使えたのか、疲れに気づかないまま使ってしまったのか、よく分からなかった。診察用の記録に、写真へ返事を書いた時刻と指の疲れを残した。

 

     ◇

 

 その夜、オーダーはもう一つの記録を開いた。

 

 写本にヌメロンが触れた時、術式の内側でどの接続が閉じたかを示すものだ。クオンの個体が記憶を共有していた頃からの仕組みなら、同じ基礎を持つ者は誰でも入口に立てたはずだった。

 

 実際には、触れたヌメロンだけに反応した。

 

「入口の条件が違うのか」

 

 ヴェロシティが保管中の試験値と照らす。

 

「魔力量や身体の大きさではありません。誰かがこちらで待ち、本人もそこへ帰るつもりでいること。やり取りが、その日の行動にまで結びついている」

 

「帰る場所、か」

 

「その時、四人のうちで該当するのはヌメロンだけでした。ストライクはまだ亡くなったままです。私たちにも友や仕事、待ってくれる相手はいる。けれど彼は、アインハルトさんと食卓へ戻る約束をしていた」

 

「あいつ、鍋のこと言ってたな」

 

「夕食を作ると」

 

 オーダーは小さく笑った。長く研究してきた写本が拾った条件は、戦いのための力でも地位でもない。少女がヌメロンを待ち、彼が帰って料理をするという、その日の生活だった。

 

 ヴェロシティは画面の端を指す。

 

「まだ断定すんなよ。ヌメロン以外が、同じ時に写本に触ったわけじゃねえ」

 

「ええ。再現はできません。ただ、封印記録に残る選択条件と、その時の彼の記録が重なる。久遠様にも、推定と観測を分けてお伝えします」

 

「俺からも、あいつの家で見たことを話す」

 

「あなたの言葉でお願いします」

 

 オーダーは端末を閉じた。呪いの反応と帰還の条件は、同じ頁から見つかった。けれど一つの答えとして久遠へ投げれば、自分が脚を失った理由までヌメロンの家へ結びつけてしまうだろう。

 

 説明する順番を、彼は変えた。

 

     ◇

 

 オーダーは久遠の部屋で椅子に座った。

 

「ご覧いただきたい記録が二つございます。先に、身体の中に残る写本について」

 

「呪いが見つかった?」

 

「あなたがお帰りになる前から、写本に存在した反応です。封印中の古い記録と一致しました」

 

 久遠は膝に置いた両手を見る。

 

「ボクが、帰ってきたせいでできたわけじゃないんだ」

 

「はい。今のあなたの不調とどう関わるかは調べています。少なくとも、ストライクが生きていることを負担の原因と取り違えてはなりませんし、あなたのした親切が呪いそのものを作ったわけでもない」

 

「そっか」

 

 久遠は短く答えた。呪いが前からあったなら、自分の知らない間にも誰かの苦しみに触れていたのだろうか。聞こうとして、喉の奥で言葉が止まる。

 

 オーダーは二つ目の画面を開いた。

 

「写本が消えた日、ヌメロンが触れたことで、久遠様のお帰りにつながる反応が起きました。彼はアインハルトさんに、夕飯までに帰ると約束していた」

 

「……うん。アインハルトさんが待ってたんだよね」

 

「我々が調べた範囲では、その時の個体性を持つクオンの中で、互いに帰宅を約束している場所を持ったのは彼だけでした。そこが起動条件だった可能性が高い」

 

 久遠は栞の紐を見る。

 

「ボクには、そんな場所がなかったから?」

 

 オーダーはすぐに答えなかった。

 

「それをあなたの価値と結ぶための条件ではありません。写本が拾ったのは、触れた者がその日に結んでいた約束です。あなたが目覚めた後、私たちがあなたをお迎えしたことまで、なかったことにはならない」

 

「……うん」

 

 実際に「おかえり」と言ってくれたのはオーダーだった。クェーサーもヴェロシティも、今はこの家にいる。ストライクは戻ってきた。話したばかりの事実を疑いたいわけではない。

 

 それでも、ヌメロンには写本に触れる前から帰る場所があった。自分がいた身体で暮らした先に、その家ができた。写本がそれを選んだと聞くと、自分が後から身体へ入ったように思えてしまう。

 

 胸の奥で、薄い紙が擦れるような音がした。

 

「久遠様?」

 

「ヌメロンが、アインハルトさんに帰れてよかった」

 

 嘘ではなかった。彼女が病院でヌメロンを探した声も、写真で寄り添った姿も思い出せる。

 

 オーダーは久遠の返事を聞き、画面を閉じた。

 

「今、お話ししたことを覚えておく必要はございません。記録はこちらに置きます。後で確かめたくなった時は、私が説明します」

 

「うん。ありがとう」

 

 久遠は栞の紐を指で押さえた。オーダーが見つけた答えのどこにも「久遠は要らない」とは書いていない。それは分かる。だから自分の中に生じたその言葉を、なおさら人へ言えなかった。

 

 廊下へ出ると、クェーサーが新しい部屋へ運ぶ湯差しを持っていた。オーダーの顔を見て、足を止める。

 

「久遠様に、何をお伝えしたのですか」

 

「写本に残る呪いと、ヌメロンが触れた際の条件です」

 

「お顔が曇っておいででした」

 

「見たままをお伝えしました。誤った説明で安心させることは、あの方のお心を守ることにはなりません」

 

 クェーサーは湯差しを抱え直した。ずっとそばで世話をしているのは自分だ。久遠が何か聞くたび、自分なら苦しむ部分だけ隠して話せるだろうか。

 

「主をお守りしたいのです」

 

「私もです。ただ、主の知らぬところで主の世界を狭くしてよいとは思わない」

 

 クェーサーは答えなかった。オーダーも通り道を塞がない。二人が考える守り方は、これから少しずつ違ってくるかもしれない。

 

 彼女は部屋の戸をノックした。久遠の「入って」が聞こえてから、湯差しを持って中へ入る。

 

     ◇

 

 なのはは帰宅すると、ヴィヴィオが食卓で写真を整理しているのを見つけた。

 

「道場に飾ったの以外も、出すんだね」

 

「コロナが新しく撮ったの。リオが受け身の後にこうやって拳を上げて」

 

 娘が真似をする。なのはは笑い、画面に並んだ写真を見る。ストライクの指が端に写り込んだ一枚を、ヴィヴィオが拡大した。

 

「ストライクさんが教えたの?」

 

「うん。ヌメロンさんも、一回目と二回目の違いを見てた」

 

 母娘の今日の会話は、いつもの道場の話だ。久遠の体調を知らない二人は、それを誰かから聞き出すために写真を開いたわけではない。

 

 なのはは、久遠に待ってほしいと言われた文をまだ覚えている。待つと返事をしたからといって、今を手放して見守るだけではいたくなかった。ヴィヴィオが今日覚えた動きを見て、稽古の話を最後まで聞く。

 

「ママも明日、一緒に行ける?」

 

「夕方なら寄れるよ。見せてくれる?」

 

「うん。新しい受け身、失敗しなかったら」

 

「失敗しても見たいな」

 

 ヴィヴィオが「それは恥ずかしいよ」と笑う。

 

 なのはも笑った。久遠と自分が話す時、この家で過ごした時間を彼にどう伝えればよいかは、まだ分からない。けれどヴィヴィオが明日も稽古に行くことを止めない。今日の写真を消さない。久遠から返事が来る日まで、自分も自分の場所で暮らす。

 

     ◇

 

 夜が深くなってから、シャマルの診察を受けた久遠は一階の部屋に戻った。

 

 今日の手の疲れを伝える。食事の途中には杯を持ち直し、端末の返信にも時間がかかった。シャマルは明日も診ると約束した。

 

「戸を閉める前に、本をこっちへ置いてくれる?」

 

 クェーサーに頼むと、彼女は枕元へ料理本を移す。

 

「この高さなら、お取りになれますか」

 

「うん。紐も見える」

 

「おやすみなさいませ、久遠様」

 

「おやすみ」

 

 クェーサーの足音が遠ざかる。久遠は本の端に触れた。

 

 はやては昔、自分から青い栞を受け取った。今も持っていて、病院へ届けてくれた。知っているはずなのに、何年もそれを持ち続けたはやての毎日は、自分には見えない。

 

 明日、足が動かなければ、窓際の部屋から台所へ助けを借りて行く。手が疲れれば、シャマルへ言う。自分がそう決めたことは、本当だ。

 

 だが、この家にいることと、昔の自分が帰ろうとした家を失ったことは、どちらか一方を選べば消えるものではなかった。

 

 久遠は青い栞の白い紐を握った。声にしなかった言葉を、聞く人はいない。指先が緩むと、紐は本の上へ静かに落ちた。

 

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