クェーサーが、食卓に湯飲みを置いた。
久遠はその手から視線を上げる。長い髪が肩へ落ち、白い袖が湯気の向こうを通った。その瞬間、袖の端が二本になった。
瞬きをする。
クェーサーは同じ場所に立っている。湯飲みもこぼれていない。ただ、肩から先の輪郭だけが、少し離れた位置にもう一つ見えた。
「クェーサー?」
「はい」
彼女が振り向く。二つに見えた肩が重なって、元の一つになる。
「今、変じゃなかった?」
「何か、お気づきに?」
「体が、ずれたみたいに見えた」
クェーサーは自分の袖を見る。指先を曲げて、開く。問題なく動いた。
「わたくし自身は、何も感じませんでした」
「ボクの目が疲れたのかな」
久遠は湯飲みへ手を伸ばしかけて、やめた。朝から指の動きが少し鈍い。身体の変化をシャマルに記録してもらっているが、視界のことまでは話したことがない。
「オーダーを呼んで。シャマルさんにも言いたい」
「はい」
クェーサーはその場で通信を入れた。久遠の視界には、もう一人分の肩は見えなかった。
◇
オーダーが居間へ来るまでに、久遠は見た順番を思い出した。
湯飲みを置いた。袖が二つに見えた。肩が遅れてずれた。湯飲みは一つのままで、クェーサーが振り向くと輪郭も戻った。
「一秒くらいだったと思う」
「ありがとうございます。彼女は、その間どうされていました?」
「ずっと立ってたよ。動いてるのに、動いた先と前の姿が重なったみたいな」
オーダーはクェーサーへ目を向ける。
「違和感は?」
「ございません。湯飲みを置き、久遠様のお声に振り向いただけです」
「久遠様、今も同じように見えますか」
「ううん。今はいつも通り」
「それではシャマルさんに診ていただきます。同時に、部屋の記録を確かめましょう」
部屋の安全装置が残す映像には、食卓が映っていた。オーダーは許可を尋ねてから、二人の前で再生する。
湯飲みを置く。クェーサーの袖が通る。映像の一部が一瞬だけ滲み、彼女の肘だけが違う位置に残った。
「止められる?」
久遠に言われ、オーダーが画面を止める。
「ボクに見えたのは、こんな感じ」
「映像にも残っていますね」
オーダーは原因を言わなかった。古い機材なら映像が乱れることもある。だが久遠が見たものと、記録が乱れた位置は重なっている。
「クェーサーは、ここにいるよね」
久遠が言うと、彼女は食卓の端へ寄った。
「はい。わたくしはここにおります」
「うん」
声も顔も同じで、彼女が湯飲みを置いた時間も消えていない。今、もう一度見れば輪郭は真っすぐだ。その事実が、少しだけ怖かった。
◇
シャマルが到着すると、最初に診たのは久遠だった。
「目まいや、頭痛はない?」
「ないよ。変だったのは、クェーサーを見た時だけ」
視線の動きと瞳の反応を確かめ、腕や呼吸の状態も尋ねる。いまの検査では大きな変化は見えない。シャマルは「久遠の目が原因」とも「目は関係ない」とも言わなかった。
次にクェーサーを別室で診る。彼女は自分に異常の感覚がないと繰り返した。魔力を流しても、身体はそこにあり続ける。だが記録に残った短いずれを、機械の故障と片づけるには早い。
「しばらく、体の変化を一緒に見させて。苦しいことがあれば、あなた自身が教えてね」
「はい。久遠様のことも、どうか」
「診ているわ。今日はあなたの診察だから、あなたの具合を聞いているの」
クェーサーが口をつぐむ。
「……分かりました。わたくしに、苦しさはございません」
彼女が答えたことを、シャマルは本人の記録として残した。久遠のために生きると決めていても、クェーサーの身体に何が起きているかを他人の症状へまとめてしまうつもりはない。
部屋へ戻ったクェーサーに、久遠は尋ねた。
「診てもらえた?」
「はい。わたくしにも、ご自身のことを話してくださいました」
「それならよかった」
久遠は笑った。シャマルはその横顔を見ながら、古い写本の反応と今日の記録を別々に保存する。どちらが何を引き起こしたか、まだ証明されていない。
◇
オーダーは居間の映像を、違う角度の記録と重ねた。
古いカメラは一瞬だけ輪郭を二重にした。窓際の新しい機器にも、同じ時刻に微かな揺れがある。ただし食卓や湯飲み、久遠の身体には何も起きていない。
「故障が二台同時という線は薄いな」
ヴェロシティが言った。仕事の途中で戻り、各機器の時刻を照らし合わせている。
「その通りです。しかし彼女の身体が二つあった、と映像だけで言うのも早い」
「他のやつはどうだ」
「私自身はこの部屋におりました。記録上、何もありません」
「俺は外にいた。だから記録のある場所で、今、観測する」
ヴェロシティは自分の外套を椅子へかける。オーダーが視線を上げた。
「あなたが自分で申し出るなら、記録しましょう。無理に異変を起こそうとはしない」
「当然。俺まで形が飛ぶかを、ただ待つだけだ」
ヴェロシティは外套を着直して中庭へ出た。彼には自分で選んだ移動手段も、家を出てする仕事もある。久遠の屋敷に常にいるわけではないから、家の中だけに起きるものかを確かめたい。
記録機を身につけ、一度自分の行き先へ走る。帰ってから保存された映像を持ち寄ると、自分の輪郭にずれはなかった。外出中も、短い断続的な信号を別の測定器で見張ったが、記録は平坦だ。
「何もなかった」
「あなたに起きないことが、今日の範囲では確かになりました」
「クェーサーには二度と起きないかもしれねえ。今日なかった俺にも明日は分からねえ」
「その通り。結果を五人全員へ広げることはしません」
オーダーは映像を閉じ、同じ記録機をクェーサーへ渡すか尋ねた。彼女は顔を上げる。
「お役に立てるのでしたら」
「役に立つためでなく、ご自分の状態を確かめるためです。嫌なら付けなくていい」
クェーサーは一拍置いて、手を差し出した。
「わたくしも知っておきたいです。久遠様の前で何が起きたのか」
彼女が選んだので、オーダーは機器を手渡した。
◇
道場では、ヌメロンが写真の額を取り外していた。
「この留め具、緩んでますね」
コロナが金具を確かめる。
「稽古の時に落ちたら困るから、新しいのに替えよう」
ヌメロンが答えると、リオが手を伸ばした。
「持ってます。ストライク師範が表のほうを見てる間に」
「聞こえてるぞ」
古い稽古表のそばにいたストライクが振り向く。リオは笑い、写真を両手で受け取った。
その時、ストライクの端末へオーダーから短い連絡が来た。現在の身体の輪郭と反応を、稽古が終わってから測ってほしい。理由には「帰還後の個体性について」とだけある。
ストライクは本文を読み、久遠の名が書かれていないことを確認した。
「今日、少し早めに山へ帰る」
「またですか」
リオが言った。
「次の稽古で続きだ。抜かさねえよ」
ヌメロンが新しい金具を取りつけながら尋ねる。
「山で何か用事?」
「俺の状態を調べる。戻ってから、話せることは俺から言う」
「分かった」
ストライクは久遠の病状を口にしない。ヌメロンもそれ以上尋ねず、リオから額を受け取って壁へ戻した。
山の家の異変を知らない少女たちの稽古は、そのまま続いた。
◇
夕方、久遠は窓から庭を見ていた。
机には料理本があり、青い栞の白い紐が端から垂れている。窓の外からバイクの音がしたので、ヴェロシティが帰ってきたのだと思う。姿はすぐには見えない。
「クェーサー、今日は外へ行かないの?」
椅子へ上着をかけていた彼女が振り向く。
「夜に庭へ出る予定はありません」
「一緒に窓の外を見るのは?」
「それなら、いつでも」
彼女は久遠の横へ来る。二人でしばらく木々を見た。風が枝を揺らしても、クェーサーの袖は一つしかない。
「朝、怖かった?」
久遠が聞いた。
「久遠様のお目に、わたくしがいなくなりそうに映ったのなら、そのことが気がかりです」
「ボクは、クェーサーがどうだったか聞いたんだよ」
彼女は少し考える。
「自分で何も感じないのは、怖いことかもしれません。ご一緒に確認できてよかった」
「うん。ボクも、言ってよかった」
彼女が自分を怖がらせまいとして返事を選んでいるのは分かった。けれど今の「怖い」は久遠の心配をかわすための言葉ではなかった。
窓に映る二人の姿を見る。長い髪の人と、椅子に座った自分。彼女の輪郭はまだ揺れていない。
久遠は、昔ほんの数度だけ話したリィンフォースのことを思い出した。
はやてが名前をつけた人。自分が彼女の何を知っていたかと言えば、声の調子と、話しかけた時にこちらを向いた顔くらいだ。その彼女は、みんなを守るために消える道を選んだ。
あの選択がどれほど苦しかったかを、久遠は知らない。はやてが彼女を失ってどれほど泣いたかを思うと、簡単に真似していい話でもない。
それでも自分が、何も返す方法のない身体にいて、クェーサーたちまで不安定にするなら――そこまで考え、久遠は窓から目をそらした。
「窓、寒くない?」
「いいえ。久遠様は?」
「大丈夫。もう少し見てたい」
久遠は答えた。リィンフォースについて思ったことは言わなかった。
◇
なのはが道場へ着くと、ヴィヴィオは二回続けて受け身を見せた。
「さっきより上手くできた?」
「うん。起き上がる時の手も、ちゃんと前に出てたよ」
「コロナにも見てもらおう」
ヴィヴィオが駆けていく。なのはは娘を目で追ってから、写真の額に新しい留め具がついているのを見つけた。
「直したんだね」
「落ちかけてたから。リオが先に気づいてくれた」
ヌメロンが隣へ来る。今は久遠とは違う、十三歳ほどの身体だ。けれどなのはが彼と話す時間は、その身体になる前から積み重なっている。
「写真、久遠にも見せたんだって?」
「ストライクから。ボクも昨日の写真を送ったよ」
「そう。リオの受け身の?」
「うん。上手く撮れてた」
なのはは頷く。久遠が写真へ何と返したかは尋ねなかった。彼女自身には、会うのをもう少し待ってほしいという返事が来ている。
「あの子の帰りは?」
アインハルトが写真の下から話しかけた。ストライクが山へ戻ったことを、ヌメロンが気にしていないか尋ねたつもりらしい。
「ストライクなら、無事に帰ったって連絡をくれたよ。明日また来る」
「よかった」
少女は安心し、リオたちの方へ走る。ヌメロンは父親のつもりで彼女の帰りを迎えている。なのははそれを目の前で見ながら、久遠と会う約束の文をまだ書き足さなかった。
◇
はやてが話を切り出したのは、その夜だった。
なのはに借りていた資料を返しに寄り、ヴィヴィオが部屋へ上がってから、食卓へ小さな封筒を置く。
「昔の写真、整理しとってな」
「どの頃の?」
「図書館へ通っとった頃。その後も残しといたもんや」
写真には本棚の前の机が写っていた。誰も座っていない。椅子の一つだけ、机から少し引き出されている。
「あの日に撮ったの?」
「違う。久遠君がおらんようになってから、だいぶ後や。みんなで写真を撮る約束をしたのに、一枚も撮れてへんって気づいて……何を残したらええか分からんかった」
はやては写真に指を置かない。
「椅子だけ撮った。座ってない椅子は、誰の写真でもない。撮ったあと、自分でも何でこれを持っとるんやろと思うた」
なのはは椅子を見る。図書館へ行って皆で撮ろうと話した日の写真ではない。三人の姿も久遠の姿もそこにはない。はやてが一人で、ずっと後に撮ったものだ。
「私も、当時の写真を探したことがあるよ。久遠君と一緒の、約束した一枚は残ってなかった」
「うん。これも、その代わりにはならへん」
はやては写真を封筒へ戻す。
「久遠君に、見せるべきやと思う?」
なのはは少し考えた。
「何を撮ったかは伝えていいと思う。でも、見たいかどうかは久遠君に選んでほしい。私たちが大切にしてたからって、あの子に今すぐ同じ形で受け取ってほしいとは言えないよ」
「そうやな」
「返事を待ってる間は、私が預かろうか」
「ううん。私の写真やから、私が持っとく。会う時に、本人に聞く」
はやては封筒を鞄にしまう。その時も久遠が何に困っているのか、二人は知らない。
「なのはちゃんは、会いたいって伝えたんやな」
「うん。待ってくれるかって返ってきた」
「そっか。私はまだ、聞けてへん」
「はやてちゃんが話したいなら、連絡していいと思うよ。久遠君の返事は、久遠君が決めるから」
「分かっとる。けど、言葉が決まらへんかった」
写真を撮ってから何年も経った。はやては一度も写真のことを誰かへ押しつけなかった。今だけ急いで見せたくなるのは、自分が彼の帰還を喜んだことをまだ言えていないからかもしれない。
「私も、言えてないことがあるよ」
なのはは言うが、何を言いそびれたかまでは続けなかった。はやてもその続きを求めず、頷いた。
◇
深夜、ヴェロシティは自分で撮った映像をもう一度開いた。
朝、クェーサーに起きたようなずれは自分にない。帰宅したストライクも測定を受け、現時点では異常がない。オーダーの記録も同様だった。ヌメロンには身体の状態を電話で直接尋ねたが、変わったことはないと答えた。彼に久遠の診療情報は伝えていない。
四人の値を合わせても、朝クェーサーに起きたことの理由は分からない。
「外では起きないなら、それで安心ってわけでもねえな」
彼は自分のヘルメットを抱え、居間の記録へ視線を戻す。
食卓に湯飲みを置いた時、クェーサーの体だけにずれがある。久遠が彼女を見た角度と機器の角度は違う。なのに、どちらも同じ時刻を指す。
「次に外へ出る時は、俺もついていく」
「彼女の希望を先に聞いてからにしましょう」
書斎の奥からオーダーが答えた。
「分かってる。ひとりで出たいなら、俺は別の場所から見る」
クェーサーの居場所は、久遠の寝室だけではない。屋敷の外にも日常の用事がある。それでも彼女自身は、今日映像を見て、自分の輪郭が確かであるか知りたいと言った。
ヴェロシティは測定器の電源を落とさず、明日の予定を自分の端末へ書き込んだ。
◇
シャマルからの連絡が来た時、久遠はまだ眠っていなかった。
食事に使った手の疲れが、夜になっても引かない。記録を送ると、彼女は身体を詳しく調べられる医療施設に、しばらく滞在することを勧めた。
『前に話した検査を、まとめて受けられるわ。今日はクェーサーにも変化があったから、別々に状態を確かめたい。二人の異変が同じ原因だとは、まだ言えないの』
「施設へ行くと、夜も泊まる?」
『まずは数日間を考えてる。今の部屋で過ごしたい気持ちもあると思うから、あなたの希望を聞かせて』
久遠は一階の部屋を見た。まだ机の位置を決めたばかりだ。窓からは明日どんな空が見えるか、確かめていない。
「施設でも、本を持っていける?」
『もちろん。読みたいものや、落ち着くものを持ってきて』
「クェーサーは?」
『彼女にも、自分の検査を受けたいか聞くわ。あなたの付き添いをするかは、その後で一緒に考えよう』
「分かった。行くよ。クェーサーが気づかないうちに、また変になったら困るし。ボクの手も、ちゃんと調べたい」
久遠は決めてから少し息を吐いた。施設へ行けば、今の自分がどこまで動けるか数字になるだろう。その結果を知りたい気持ちと、知るのが怖い気持ちがどちらもある。
『明日の午前に迎えに行く。何か急に変わったら、その前に連絡してね』
「うん。待ってる」
通話を終えると、久遠はオーダーへも知らせた。彼は移動手段と、部屋から持ち出すものを本人に確認する。久遠が料理本と青い栞を頼むと、荷物の先頭に書いた。
クェーサーは自分の診察を受けると答えた。彼女にも選んでいいことだと、久遠はもう一度伝える。
「もちろんです。わたくしも知りたいと、先ほど申しました」
「うん。そうだった」
彼女は静かに笑い、久遠の寝室の戸を閉めた。
◇
久遠は一階の部屋で目を覚ました。
外にはまだ灯りがない。枕元の料理本に触れると、青い栞の白い紐が指にかかる。起き上がる前に、クェーサーへ声をかけようと思った。
今日、彼女は二度はぶれなかった。何もなかったと言い切ることもできない。
手を端末へ伸ばす。しばらくして、隣の廊下から静かな足音がした。自分を待っていてくれたのか、たまたま早起きしたのか、尋ねる前から返事を知りたい気がした。
「クェーサー?」
「はい。お呼びですか」
扉の向こうの声は、昨日までと変わらない。
「朝になったら、窓を開けてほしい」
「承知しました。今はもう少し、お休みください」
「うん。あなたも」
「はい」
足音が離れていく。久遠は本の栞を押さえ、見えない廊下へ目を向けた。
今夜は彼女がそこにいる。明日も同じ姿でいてくれるかどうかを思いながら、久遠は目を閉じた。