病室の窓は、山の家より高いところにあった。
久遠は移動椅子から寝台へ移してもらい、街の向こうを見た。遠くの建物が重なり、山はほとんど見えない。
「窓、開く?」
「少しなら。検査が終わってからにしましょう」
シャマルが答える。久遠は頷いた。
枕元には読めない料理本を置いた。青い栞の白い紐が出ていることを、クェーサーが最後に確かめる。本人の検査は別の部屋で行われ、今のところ、体の輪郭が再びぶれた記録はないという。
「ボクの検査が終わったら、クェーサーの話も聞いていい?」
「彼女が話していいと言うなら」
「そうだね」
久遠は本を手の届く位置へ寄せてもらった。山の家へ戻る時、置いていくものが増えないように。そう考えてから、まだ一日目なのに帰りのことを決めている自分に気づいた。
◇
検査室では、腕を水平に保つことができなかった。
久遠は左腕を持ち上げようとして、肘まで動かしたところで止まる。シャマルが無理をしないよう言い、どこに力を入れようとしたかを尋ねた。
「肩から先が、重い。指は動くけど、持ち上げられない」
「昨日より変わったのね」
「うん。朝、顔を洗う時にもクェーサーに布を持ってもらった」
シャマルは値と久遠の説明を両方記録した。見た目には大人の身体でも、久遠が自分で扱ってきたのは数日しかない。その短いあいだに、できる動きが変わり続けている。
装置が読み取る魔力の流れには、ストライクを呼び戻した日の負担が残っていた。そこに、写本が消えた後も残る別の反応が重なる。以前から存在していた呪いの断片だとオーダーが確かめたものだ。
どちらが今日の腕の動きをどれだけ妨げているか、シャマルはまだ測り切れない。
「痛むところは?」
「今の手や足は、痛くない」
答えてから、久遠は右手を見た。病室で目覚めた時に感じた、失った九歳の身体の痛みが、ときどき戻る。ここにある腕を触っても、その場所には傷がない。
「前の痛みは、たまにある」
「ある時は、そっちも教えて」
シャマルは現在の麻痺と、過去の出来事に結びついた痛みを、同じ欄へ押し込まなかった。
「午後も確認するわ。途中で疲れたら言ってね」
「うん」
久遠は頷いた。診てもらえば治るのかを、今日は聞かなかった。聞いたところでシャマルが隠さず答えてくれるのは分かっている。
◇
クェーサーの検査には、ヴェロシティが付き添った。
彼は機器の説明を聞くと、自分の端末にも同じ時刻の記録を残した。家にいるオーダーとはあとで照合する。人格のつながりがなくなった今、誰か一人が見たものを共有したことにはできない。
「あなたの時は、乱れがなかったそうですね」
クェーサーが尋ねる。
「家と外で測った限りはな。だからお前のも、別の場所で測る」
「わたくしのため?」
「それ以外に誰がいる」
「久遠様に、もう一度見せずに済みますね」
ヴェロシティは返事を急がなかった。
「お前自身も、ぶれるのは嫌だろ」
「……嫌です。いなくなりたくありません」
「なら、そのままシャマルにも言え」
クェーサーは頷いた。彼の仕事はオーダーの指示を聞くだけではない。自分が立ち会って見た身体の揺れを、久遠の心配とは別に記録する。
検査は夕方まで続いたが、クェーサーの輪郭は一度もぶれなかった。説明のできない一度きりの出来事が残ったまま、彼女は病室へ戻る。
◇
夕食の時、久遠の手は匙を持てなかった。
昼には指で本の頁を押さえられた。夕方になってから、握ったものを保つ力が抜けていく。クェーサーが匙を持つと、久遠は一度だけ自分で持ち直そうとした。指が柄の上を滑る。
「手伝って」
「はい」
クェーサーはゆっくり食事を運ぶ。熱さを確かめるため、自分の手の甲へ器を当てた。久遠が飲み込むまで待ってから、次をすくう。
「おいしい?」
「うん。山の家の汁物とは違うね」
「戻りましたら、同じ味を探してみます」
「クェーサーの味のほうが好きだよ」
彼女は微笑んだ。久遠が味を比べて答えられることが、今夜の食事には残っている。
だが食後、シャマルが来るまでに、久遠の声はかすれ始めた。咳き込んだわけではない。呼びかけようとしても、息と一緒に短い音しか出ない。
シャマルは食事の時刻と声の変化を聞き、呼吸と飲み込む力を確かめる。急な処置が必要かを優先して診た。
「久遠君、話そうと無理をしなくていい。聞こえたら一度まばたきをして」
久遠は一度、目を閉じて開いた。
「まばたきもつらくなったら、別の方法を使うわ。今夜は私たちがすぐ来られる部屋にして、状態を見ていく」
クェーサーの手が、寝台の縁にかかる。
「そばにいても、よろしいですか」
シャマルは久遠へ向き直る。
「久遠君は、クェーサーにいてほしい?」
一度、まばたきが返る。
「分かった。ここで待機する人にも、二人がどう連絡するか伝えておくね」
手と声が使えなくなっても、返事の仕方は残っている。それを見つけてから、クェーサーはようやく肩の力を抜いた。
◇
病室の灯りを落としても、久遠はなかなか眠れなかった。
足を動かそうとする。動かない。手も布団の上で開けない。朝なら枕元の本に触れられたのに、今は青い栞の白い紐が見えるだけだ。
椅子にはクェーサーがいた。シスター服の上から薄い上着を羽織り、測定器の小さな画面を時々見る。シャマルから教わった、必要な時に呼ぶための印が点滅している。
久遠は目を閉じた。
あの夜の図書館で、声を出せずに終わった時のことが浮かぶ。今は息があり、呼べば来る人もいる。違うはずなのに、言葉が胸の内側で止まる感覚が似ていた。
いま、自分が動けなくなったらクェーサーたちは困るだろう。もう自分のことを待たなくてもよくなれば、みんな自由に出かけられるかもしれない。
その考えへ触れた途端、胸の奥で乾いた頁が一枚めくれた。
久遠は目を開いた。クェーサーは椅子に座り、変わらない輪郭でいる。誰かに呼ばれたわけではない。
それでも、頁の音はもう一度、身体の内側で鳴った。
◇
久遠が次に目を開けた時、天井はなかった。
空が見えた。小さな雲が、屋上の灯りの外を流れていく。身体を支えているものが、病室の寝台ではない。
自分の足で立っていた。
久遠は右足を見ようとする。目が動くより先に、身体が一歩進んだ。屋上の柵へ、迷いなく近づく。
止まって。
考えても足は止まらない。曲げようとした指も動かなかった。昼には一歩どころか、椅子へ移ることも手伝ってもらった。今になって突然歩けるはずがない。
胸の奥で頁が擦れる。何も語りかけてこない。痛みで命令することもない。ただ、自分では動かせない身体が、空を見たいと決めたかのように歩いた。
屋上の端から、遠くの街が見える。どこかにヌメロンの道場があり、なのはの家がある。久遠はその道を歩いたことがない。いま足元が勝手に動いても、どこへ行けば自分の知っている家につくか分からない。
両手が柵に触れた。
やめて、と声にしたい。口は開かなかった。
久遠は見上げる。地球にいた頃も、こんな空の下で、帰る前になのはたちへ声をかけたことがあった。どんな言葉だったかを思い出そうとしても、今の喉からは何も出ない。
◇
クェーサーが目を覚ますと、病室の寝台が空だった。
本人に付き添うと決めた自分が、数分でも眠った。まずその事実を引き受け、端末の呼び出しを押す。
寝台を離れた知らせは鳴っていない。画面には、誰かがまだそこに寝ていることを示す小さな印がある。クェーサーはそれを見て、眠っている間も異常は起きていないと思ってしまった。今、寝台の上には布団しかない。
「久遠様がいらっしゃいません。すぐに職員を。わたくしは部屋の外を確かめます」
シャマルへ同時に連絡し、枕元を見る。料理本は置かれている。青い栞の紐も、そのまま。久遠の身体だけが寝台からいない。
廊下の記録には、彼が一人で戸を開ける姿があった。直立して歩いている。手で支えなければ匙を持てなかったはずの手が、扉の取っ手を正確に回した。
クェーサーはその映像を、快復の証拠とは思えなかった。
「屋上の出入口へ向かっています」
職員の声を聞き、階段を上がる。後から来たシャマルが「一人で近づかないで」と声をかけた。
「分かりました。お姿を見失わないよう、ここにおります」
屋上の扉は開いていた。クェーサーが先に名前を呼ぶ。
「久遠様」
柵の前の久遠が、振り向く。
身体の輪郭はぶれていない。髪も服も、昼のままだ。なのに、振り向く速さが彼自身のものに見えなかった。声をかけた方へ顔を向けたのに、視線はそこを通り越し、誰もいない夜空へ留まる。
クェーサーが一歩だけ進む。
「わたくしは、ここにおります」
久遠の手が柵から離れた。彼女の方へ一歩踏み出す。昼の彼なら、足元に何があるか確かめる距離だ。今は何も確かめず、まっすぐ歩く。
クェーサーは抱き留めるため両手を広げた。すぐ後ろから医療職員とシャマルが近づく。
「触れるわ。久遠君を横へ支えて」
シャマルの声に、クェーサーは頷く。久遠の身体は抵抗しなかった。ただ胸元で、小さく頁を破るような音がした。
膝から力が抜けた。
クェーサーと職員が両側から支える。倒れこむ前に抱きかかえ、屋上の風が当たらないところへ移した。彼はその後、自分で立ち直ることができなかった。
◇
病室で目を開けた久遠は、まずクェーサーを探した。
椅子にいる。彼女は長い髪を後ろで結び直していた。屋上で見た時にも、その髪のままだったかを思い出せない。
「久遠君。私の声、聞こえる?」
シャマルに向かって一度まばたきをする。
「屋上へ行ったことを覚えてる?」
一度。
「自分で歩こうと思って、歩いた?」
二度まばたきをする。シャマルが確認してから、短く問い直す。
「歩かされている感じがした?」
一度。
クェーサーは椅子の背を握った。屋上では、自分へ向かって歩いたように見えた。本人が戻ってきたと思いたかった。でも、久遠は自分で足を動かしていない。
「立てるようになった、とは考えないわ」
シャマルが二人に言う。
「今の手足と声の状態は、夕方とほとんど変わらない。身体が動いた経路を調べる。魔力の反応も、その時間に記録があるはずだから」
彼女は夜間の記録を見せた。久遠が寝台を出た時、写本の残滓の信号が立ち上がっている。過負荷の名残とは別に、以前の封印記録と一致する細い波形だった。
「これは……」
クェーサーの声に、シャマルは首を振る。
「呪いに関わる反応の可能性は高い。でも、この波形だけで久遠君の考えが変わったとか、自分で望んで屋上へ行ったとかは言えない」
久遠は彼女を見た。胸の奥で何を考えていたかが、機械に全部見えるわけではない。そこには少し救われた。だが記録が示す通り、自分の身体で歩いたのは自分ではない。
「安全な部屋へ移すわ。戸口と屋上の出入口の見守りも強くする。あなたに知らせず身体を押さえつけるためではなく、眠った間にまた歩き出しても、誰かがすぐ止められるように」
久遠は一度まばたきをした。
「喉や手が動かなくなっていることも、今夜の結果と分けて診る。歩いたから治ったと誤解しないで」
シャマルは言い、医療記録に追記する。目を覚ました本人へ問わずに、なぜ屋上へ行ったかを診断名へ書くことはしなかった。
「寝台の知らせは、どうして鳴らなかったのですか」
クェーサーが尋ねる。シャマルは計器の記録を確認した。
「久遠君が出た時刻より後にも、誰かが寝台にいる反応が続いてる。職員の確認と映像では、彼は廊下にいた。どちらかが間違った情報を出しているのは確かよ」
「術式が、そこへ何かを残したのかもしれません」
「可能性はある。原因を調べる間、この計器だけを頼って見守ることはしないわ」
クェーサーは印が点いたままの画面を見た。手を伸ばす先に本人がいなくても、そこにいると表示される。そのことが、屋上で見た歩く背中と同じくらい怖かった。
クェーサーが寝台の横に来る。
「お寒くはありませんか」
一度、まばたきが返った。彼女は布団を少し上げる。
「わたくしは、ここにおります」
もう一度。久遠はクェーサーを見つめ、目を閉じた。
◇
シャマルが部屋を出ると、オーダーとヴェロシティが夜の映像を見ていた。
「出入口を開けた手は、昼には湯飲みも持てなかった」
ヴェロシティが言い、足元を見せる。久遠は曲がり角で止まらず、屋上への道を選んだ。歩き方にふらつきはないが、病室へ戻ってから自力で起き上がることもできない。
「誰かが彼の身体を使っていると考えるべきです」
オーダーは断定を避けず、ただ原因と意図を別々に記した。
「怖がらせるために歩かせたのか、連れ出す準備なのかは分かりません。警備へは、見守りの方法を変えるよう伝えます」
「久遠には話したか」
「シャマルさんから、何が分かって何が分からないか伝えていただきました。本人のいないところで住む場所まで決めてはおりません」
「じゃあ、外のことは俺が見る。もしまた動いたら、どこまで進んだか追えるように」
ヴェロシティは屋上から地上までの通路を自分で歩き、各出入口の位置を端末へ残した。機器が空の寝台を埋まっていると表示した以上、数字に代わって足で確かめる道も必要だった。
オーダーは院内の許可を取ったうえで、久遠が眠る部屋から屋上までの監視を増やす。先ほどクェーサーが一人で探すことになった時間を、次には作らないためだ。
◇
朝、オーダーは病室で久遠に尋ねた。
「ヌメロンにも昨夜のことを知らせてよろしいですか。彼も独立したクオンです。彼の身体に及ぶ危険があるかもしれません。ただし、なのはさんたちやアインハルトさんへは、従来のご希望通り伝えません」
久遠は目を開ける。昨日まではヌメロンにも身体のことを隠していた。直接話したのは、アインハルトを迎えた日に電話した時だけだ。
ヌメロンが自分のことを気にかければ、アインハルトと暮らす時間にも影を落とす。できれば今まで通りにしてほしい。それでも、クェーサーに起きた異変と昨夜の自分の身体が、他のクオンと無関係だと言い切れない。
「知らせるのはヌメロン本人だけで、返事は私へ戻します」
オーダーが念を押す。
久遠は一度、まばたきをした。
「ありがとうございます」
承諾を得てから、オーダーはヌメロンへ連絡した。昨夜確認した事実だけを伝え、急な異変が彼自身にもないか尋ねる。久遠の胸の中にどんな絶望があるか、彼らも知らない。
『ボクは大丈夫。でも、久遠が歩いたのは、どうして?』
「現在調べています。彼の意思で動かせる状態には戻っていません」
端末の向こうで、ヌメロンが黙った。
『今日、会いに行く。久遠がいいと言ったら』
「確かめます」
久遠は二人の会話を聞いていた。会うかどうかを問われ、一度まばたきをする。オーダーが結果を伝えると、ヌメロンは昼過ぎに来ると約束した。
◇
アインハルトはヌメロンが外出する理由を、細かく尋ねなかった。
「今日はストライク師範の稽古ですね。帰り、遅くなりますか」
「夕食には帰るよ。道場の片づけはストライクに頼んである」
「はい。私もコロナたちと帰ります」
ヌメロンは答え、門を出た。娘に嘘をついていない。それでも、今日は誰に会いに行くかを話せない。
病室へ着くと、久遠は寝台で待っていた。写真で見た大人の顔が、今は疲れて見える。前の自分の身体だから何かが分かる、ということはなかった。
「久遠。来てもよかった?」
一度、まばたきが返る。
「あの時、電話で大丈夫だって言ったよね。ボクも、そうだと思いたかった」
久遠はヌメロンを見る。目だけでは、何が言いたいかを全部伝えられない。
「今、君に起きてることを、ボクは誰にも話さない。アインハルトにも、なのはたちにも。君と約束する」
久遠が一度まばたきする。
「ただ、またいなくなって、誰かの助けが必要になったら、その時はボクが決める。君に嫌われても」
声は静かだった。久遠を大事に思う気持ちと、自分が帰る家を持っている事実を、ヌメロンはどちらも捨てていない。
久遠は答えようとして、唇が動かないのを思い出した。約束してくれてありがとう、と言いたい。誰にも知らせないで、とも言いたい。ヌメロンの心配が嘘ではないのも分かる。
だが、自分が眠った後で、自分ではない身体がどこまで行けるかを、自分でも知らない。
ヌメロンは枕元の料理本を見た。青い栞は頁の間に挟まっている。読めない表紙を見ても、久遠がそれを選んだ理由は分からない。
「ボクは夕方までここにいる。それからアインハルトのところへ帰る。明日はストライクと相談して、また会いに来るよ」
一度、まばたきが返った。
ヌメロンが帰ると言って帰ることは、久遠にも止められない。彼がこの部屋に来てくれたことも、消えなかった。
◇
日が暮れると、施設の廊下の灯りが落ちた。
病室の外には職員がいる。屋上へ続く扉の監視も増えた。クェーサーは今夜、自分の寝室で休むようシャマルに言われ、久遠が目を閉じる前に帰る約束をした。
「おやすみなさいませ。朝、また参ります」
久遠は一度まばたきをした。
ひとりになっても、呼び出しの端末は目で合図できる位置にある。シャマルは身体を動かさなくても知らせられるようにした。
ベッド脇の窓からは、屋上とは違う狭い空が見える。
久遠はそこに、昔の家の屋根を探してしまう。ここから見えないと分かっている。思い出した家へも、足が動いたところで帰れない。
青い栞の紐は、寝台の脇で動かない。彼も目を閉じた。
胸の奥から、薄い頁が擦れる音がした。