魔法を持たない幼なじみがいた   作:曇り時々曇り

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第24話 消えた久遠

 久遠が目を開けた時、病室の窓に朝の光が差していた。

 

 青い栞の白い紐が、寝台の脇から見える。昨夜、シャマルと確かめた呼び出し画面も枕元にあった。久遠はそちらへ目を向けようとした。

 

 視界が動かない。

 

 最初は、寝起きだからだと思った。足と腕が動かなくなってからも、目で知らせることはできた。少し待てば画面の印が点くはずだった。

 

 何度試しても、紐は同じ場所にある。

 

 怖い。

 

 このまま誰にも気づいてもらえなかったら、と考える。その思いを、自分でもひどく身勝手だと思った。昨日はクェーサーに部屋で休んでほしいと頼んだ。廊下には職員がいる。起こしていいし、助けを呼んでいい。それなのに、誰かの朝を自分のために止めてしまうことが怖い。

 

 怖いままで、久遠は呼び出そうとした。

 

 次に見えたのは、自分の顔だった。

 

 病室の寝台に、大人になった自分が横たわっている。閉じた目の下に薄い影がある。久遠はその傍らに立っているつもりだった。足の裏に床の感触はない。手を伸ばしても、寝台の縁には触れられなかった。

 

 寝てるのかな。

 

 そう思う自分が、ここにいる。

 

 扉が開き、夜勤の職員が入ってきた。掛け布団の上からではなく、久遠の手首と肩に触れて、声をかける。

 

「久遠さん。聞こえますか」

 

 聞こえる、と久遠は答えた。

 

 職員は反応を待ち、呼び出しの画面を確かめる。声が届いていないのではない。届いたことを久遠の身体が伝えられない。

 

 シャマルへ連絡する声を聞くうちに、病室の床が遠くなった。

 

     ◇

 

 次に足を置いたつもりの場所は、道場だった。

 

 どうやって来たのか分からない。入ってきた扉も、覚えていない。室内ではアインハルトが受け身を繰り返し、リオとコロナが順番を待っている。ヴィヴィオは少し離れて、自分の動きを確かめていた。

 

 ストライクは道場の奥で稽古を見ている。ヌメロンが窓際の額に手を伸ばし、傾きを直した。そこには彼らが撮った写真と、二枚の稽古表が並んでいる。

 

 久遠は呼ぼうとした。声は室内に残らない。そこへ行こうと思うと、身体のない自分だけが近づく。

 

「ヌメロン、いまのは?」

 

 アインハルトがヌメロンを見る。

 

「最後に肩が浮いた。もう一度、ゆっくりやろう」

 

 ヌメロンは稽古の位置へ戻り、彼女の足元へ手を伸ばす。アインハルトは言われた通りに立ち直り、リオが横から形を見ている。コロナが二人の間隔を測り、ヴィヴィオは自分の番が来るまで待った。

 

 久遠は、その場にいる五人を見た。

 

 写真が飾られる前から、彼らはこうして道場へ集まっていたのだろう。今日の受け身がうまくいったかどうかを話し、また次の日に来る。それは自分の知らない年月の中で始まり、今も続いている。

 

 ヌメロンがアインハルトに笑いかける。

 

 昨日、自分の病室へ来た時の顔とは少し違う。アインハルトの隣で稽古を見守る顔だ。自分の身体で長く生きた人が、今は別の身体でこの子の帰る場所になっている。

 

 よかった、と久遠は思った。あの子がヌメロンを失わなくて、本当によかった。

 

 そのあとに、もうひとつの考えが続く。

 

 ボクがあの身体に戻らなくても、この子たちの今日はあった。

 

 戻ったことでヌメロンが消えた時間があった。アインハルトに「返して」と言わせた。自分がいない道場で彼女が笑えるのを見ると、胸の奥が冷たくなる。

 

 アインハルトは謝りに来てくれた。自分が受け入れたことも本当だ。ここで楽しそうにしている彼女が、久遠を傷つけたくて笑っているわけでもない。

 

 分かっているのに、目の前の輪へ入る場所を探すことができなかった。

 

 ストライクがふと入口を見た。久遠は自分が見えたのかと思って足を止める。ストライクは風で揺れた戸の金具を直し、また子供たちへ向き直った。

 

 久遠は誰の稽古も邪魔していない。それでも、ひとりだけその場から取り残されたようだった。

 

     ◇

 

 シャマルは久遠の目を確かめ、朝の経過を聞いた。

 

「最後に直接触れて、呼びかけへ反応があったのはいつ?」

 

「昨夜の交代時です。今朝は手に触れましたが、呼びかけにも画面にも反応がありません」

 

 職員は二つの時刻を記録へ分けて入れた。機器の数値が続いていても、昨夜から同じように応答できた証拠にはならない。

 

 シャマルは検査を進める。呼吸も脈も保たれている。無理に歩いた昨夜の負担と、写本の古い反応は重なっていた。どちらが応答を妨げているか、まだ決められない。

 

 かつて、意識を失っていたはやてが、目覚めてから自分の見ていた景色を話してくれたことがある。だからといって久遠に同じことが起きていると断定はできない。ただ、身体が答えないからといって、本人に何も届いていないとは決められなかった。

 

「身体を動かさないで。引き続き触れて確かめる。呼び出しを使わなかったんじゃなく、使えなかった可能性があるわ」

 

 久遠は病室にいない。見えない場所で自分の身体が診察されていることも、知らなかった。

 

 クェーサーが呼ばれた。寝台の手に触れ、昨日まではまばたきで返事をしてくれたことを伝える。久遠が朝に返事をしないのは、望んで黙っているからではない。彼女はそう信じていた。

 

 自分の部屋で休んでいたのを悔やみかける。それでも夜に彼が自分を休ませようとしたのも、久遠の本当の気持ちだ。昨日の願いを、今朝の異変の原因にはしなかった。

 

「久遠様。わたくしは、こちらにおります」

 

 寝台の久遠は返事をしない。

 

 クェーサーの髪の端が、一瞬だけ二重に見えた。

 

     ◇

 

 久遠が次に見たのは、なのはの家の台所だった。

 

 道場の床から移った覚えはない。誰に連れてこられたのかも分からない。帰ろうと思っても、帰る道がない。

 

 なのはが皿を並べ、ヴィヴィオが隣で今日の稽古の話をしている。リオが何度も先に試した技のこと、コロナが途中で写真の金具を気にしていたこと。なのはは時々手を止めて、娘の顔を見る。

 

「ママ、聞いてる?」

 

「聞いてるよ。今度は肩から落ちなかったんだね」

 

「うん。まだ一回だけだけど」

 

「その一回を見たかったな」

 

 なのはが笑う。久遠の知っている九歳の彼女なら、同じ技を自分もやりたいと言っただろう。目の前のなのはは、娘が怪我なく帰ってきたことを先に喜んでいる。

 

 その姿が嫌なわけではなかった。むしろ、彼女が笑っていることが嬉しい。ただ、久遠の知らない大人の時間を、ヴィヴィオは当たり前のように知っている。

 

 自分がいなかったあいだ、なのはは何度も誰かと夕飯を食べた。自分が知らない明日を重ねてきた。待っていてくれると連絡してくれた人が、今は娘のために食卓を整えている。

 

 ヴィヴィオが「写真を撮ってもいい?」と聞き、なのはが手を拭いて並んだ。食事の前の二人が、端末の小さな画面に収まる。何でもない一枚だ。

 

 久遠は図書館へ行く前に、なのはとフェイトとはやてと写真を撮ろうとしたことを思い出す。誰がカメラを持つかも決めていない約束だった。あの写真はない。これから何枚撮っても、九歳の四人が並ぶ一枚にはならない。

 

 ここへ写りたかった、と思うのは違う。ヴィヴィオと母親の写真だ。二人が撮ったことを嬉しいと思いながら、自分たちの写真を撮れなかったことまで悲しくなる。

 

 なのはの端末が短く鳴った。娘へ食事を始めていいと告げ、画面を確認する。久遠へ前に送った連絡が、まだ返事を待つまま残っている。彼女は指を止め、端末を伏せた。本人が答えられるまで待とうと決めていたからだ。

 

 久遠のいる位置からは、画面が見えない。なのはが今、誰の返事を待っているかも知らなかった。

 

 彼が目にしたのは、母と娘が並ぶ、知らなかった年月の続きだった。

 

     ◇

 

 フェイトは仕事の帰り支度をしていた。

 

 片づけている途中で、同僚が腕をかばって歩いてきた。フェイトは声をかけ、医務室へ行くよう伝える。自分も荷物を置いて付き添った。

 

「大げさですよ」

 

「動かすたびに痛いなら、見てもらおう。仕事は私が引き継ぐから」

 

 相手は礼を言い、二人で廊下を進んだ。フェイトが置いた資料を、近くの別の人が引き受ける。一人のために何人かが仕事の順番を変えた。それを責める人は、そこにいなかった。

 

 久遠はフェイトの横を歩いた。歩いているつもりでも、彼女の足と同じ音は鳴らない。

 

 昔、怪我をしたら包帯を巻いてあげられると思っていた。今のフェイトは、誰かを医務室へ連れて行く側にいる。彼女も怪我をするだろう。その時、そばにいる人も増えただろう。久遠がどれだけ走っても、あの夜から今日まで彼女を助けに行けなかった。

 

 いなかった時間が、目の前の人から何かを奪ったわけではない。みんなは生き、働き、助け合った。嬉しいことのはずだった。

 

 それでも、自分がフェイトの隣に立てないことだけは、どうしても悲しかった。

 

 廊下の窓に二人の姿が映った。フェイトと同僚は映る。久遠はいない。

 

 ここへ来た自分に、身体がないからだ。それだけのことなのに、今の世界にも自分を映す場所がないように思えてしまう。

 

 ボクがいなくても、ちゃんと誰かがいる。

 

 事実と、だからボクはいらないという結論が、また近づいた。

 

     ◇

 

 シャマルは昼の検査結果をオーダーへ伝えた。

 

「人としての反応は保たれています。ただ、呼びかけへの応答がない。目で答えようとしていた形跡が朝に残っているの」

 

「主の意識が内側におられるかどうかは」

 

「それは測れない。今見えているのは、身体が返せる反応だけよ」

 

 オーダーは頷き、寝台から視線を外さなかった。

 

 写本の残滓の信号は、朝より太くなっている。従来の身体の負担の線とは、別の位置だ。病室から移動していないのに、室内の監視画像だけが短く欠けた。朝は一つ、昼には三つ。

 

 ヴェロシティから屋敷周りの異常がないという連絡が来た。ストライクは道場で、同じ時間に自分の身体に異変がないと知らせた。内部の記憶を共有できた頃なら全員が同時に分かったことも、今は聞かなければ分からない。

 

 クェーサーは寝台の横に座っていた。自分の輪郭が揺れるのに気づき、手袋を外して手を見た。指はそこにある。それでも、久遠の顔を見つめていると、袖の縁だけが少しずつ曖昧になった。

 

 ヌメロンも約束通り病室へ来た。名前を呼び、返事がないことをシャマルに確かめる。昨夜はまばたきで答えた人が、今は身体から何も返せない。ヌメロンは病室を出る前に、アインハルトを道場へ迎えに行った後も連絡が取れるよう、端末を開いたままにした。

 

「久遠様を、起こせるでしょうか」

 

「今は安全を確かめることが先よ。無理に刺激して起こすとは決められない」

 

 シャマルは見守りの体制を増やした。扉と搬入口の動きも確認する。昨夜の屋上へ歩いた身体が、また動く可能性を考えないわけにはいかなかった。

 

 同時に、目の前の人が意識を失ったまま見捨てられている、と決めつけない。応答する道が今は塞がれているのかもしれない。その違いを見極めるため、手に触れながら呼びかける。

 

「久遠君。ここにいるわ。聞こえたら、いま返事をしようと頑張らなくてもいい」

 

 寝台の身体は動かなかった。

 

     ◇

 

 はやては机で資料を閉じた。

 

 人の顔のない地図と記録を見ていた。誰かが通した手続きの不備を、本人へ伝える必要がある。昔なら、そういう話を明日まで延ばしてもいいのではないかと思ったかもしれない。今は、誰が何を知らないまま決めることになるかが気になった。

 

 久遠は、彼女の向かいに座るつもりになった。

 

 図書館では、読めない料理本を机の間に置いた。九歳のはやてなら、今日の資料を見せれば何て書いてあるのと尋ねただろうか。目の前のはやては、自分で内容を読んで、人に伝える順番を考えている。

 

 彼女は引き出しから封筒を出した。中の写真を一度見て、また戻す。久遠には何の写真か見えない。はやては封筒を捨てず、別の資料より上へ置いた。

 

 久遠の名を口にすることはなかった。彼女が仕事のあいだに毎日そうしているわけではない。それでも久遠は、ここに自分の入る会話があるかを探した。ないことは当たり前だと分かる。分かっていて、寂しかった。

 

 はやてが椅子から立つ。久遠もついて行こうとした。立つために誰かの手を借りていた彼女が、今は迷わず部屋の外へ歩いていく。

 

 よかった。そう思う。

 

 ボクは、あの日の椅子の前に残ったままなのかな。

 

 彼女の背中が戸の向こうへ消えると、久遠の視界に病室の天井が戻った。

 

     ◇

 

 夕方の病室に、シャマルとクェーサーがいた。

 

 久遠には二人が見える。自分の身体も見える。どこに立っているつもりなのか、もう分からない。四人の暮らしを見た記憶が、頭の中を回っていた。

 

 ヌメロンは父で、アインハルトは帰りを待つ。なのはにはヴィヴィオがいて、フェイトには仕事を任せ合う仲間がいる。はやては自分で立って、今の一日を歩いていた。

 

 よかった。誰もあの夜に止まらなかった。

 

 そのあと、自分だけがあの夜から来たことを思い出す。みんなが久遠を忘れたわけではないと知っていても、彼らと同じ時間を暮らした自分はどこにもいない。

 

 ボクだけ、遅れている。

 

 寝台の身体の胸元で、頁をめくるような光が生まれた。シャマルが計測器を見る。写本の古い反応は昼より濃い。一方で、ストライクを戻した後に残った身体の負担は変わらない。二つの変化を一つの症状としては扱えなかった。

 

「クェーサー、少し離れて。あなたの輪郭にも影響が出てる」

 

「離れた方が久遠様にとって安全なら」

 

 クェーサーが一歩退く。久遠は、そんなふうに彼女を遠ざけたいわけではなかった。けれど自分の身体へ手を戻せない。呼び止めることもできない。

 

 なのはの笑顔、フェイトの横顔、はやてが立って歩く背、ヌメロンとアインハルトの写真。胸に浮かべた順に、光が紙のように重なっていく。

 

「外の記録も見て。本人は寝台から動かしていないわ」

 

 シャマルは職員に伝える。もう一度手に触れ、名前を呼んだ。返事はない。それでも呼びかけをやめない。

 

     ◇

 

 病室の窓が遠ざかった。

 

 久遠は街の歩道にいた。ミッドチルダの見慣れない通りではない。道路の幅と、角を曲がる手前の坂を知っている。

 

 地球だ。

 

 道の先に昔の家があると思った。先ほど道場やなのはの家へ移った時と同じで、どうやって来たのか分からない。自分の身体はシャマルたちのいる寝台から動いていないはずだ。

 

 それなのに、足は懐かしい坂へ向く。

 

 曲がり角の店には知らない看板がかかっていた。昔の店がどこへ行ったか、久遠には分からない。目を閉じると前の形を思い出せる。開ければ、今の店がある。

 

 帰りたい。

 

 山の家にも。図書館へ行く前の、自分の家にも。

 

 どちらの名前を心の中で呼んでも、坂は昔へ変わらなかった。

 

「遅かったね」

 

 久遠は振り返る。そこには、九歳の自分が立っていた。

 

 図書館の日に着ていた服。久遠と同じ顔。同じ声。

 

 相手は笑った。久遠があの夜にした覚えのない笑い方だった。

 

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