フェイトが転入してきた朝、教室はいつもより騒がしかった。
「フェイト・テスタロッサです」
教壇の横で、金色の髪の少女が頭を下げる。
「まだ分からないことも多いですけど、よろしくお願いします」
少し固い挨拶だった。
それでも顔を上げたフェイトは、前より自然に笑っていた。
教室の後ろでは、アリサが得意そうに胸を張っている。
すずかは嬉しそうに手を合わせ。
なのはは、自分のことのように頬を緩めていた。
久遠も手を叩く。
フェイトがこちらを見る。
目が合うと、ほんの少しだけ笑みが深くなった。
帰ってきた人が、今度は同じ教室にいる。
それだけで、今日はいい日だと思えた。
◇
「それで、どうして僕の隣なの?」
「空いていたから」
休み時間。
久遠の隣の席へ荷物を置きながら、フェイトが答えた。
「本当に?」
「なのはの隣はアリサで、反対側はすずかだから」
「それなら仕方ないね」
「うん。仕方なく」
「フェイトちゃん、ちょっと嬉しそうだよ」
なのはが横から口を挟む。
「なのは」
フェイトの頬が赤くなった。
「別にいいよ。僕も嬉しいから」
「久遠まで……」
「はいはい。転校初日から二人の世界を作らない」
アリサが机を指で叩く。
「お昼は屋上に行くわよ。フェイトの歓迎会なんだから」
「購買のパンを食べるだけで歓迎会になるの?」
「気持ちの問題よ」
「アリサちゃん、朝から何を買うか決めてたんだよ」
すずかが教える。
「余計なこと言わなくていいの!」
教室に笑い声が広がる。
フェイトも笑っている。
少し前まで、遠い場所にいた少女とは思えなかった。
これが普通になるのだろう。
五人で話して。
昼食を食べて。
放課後になれば、また明日と言う。
久遠は、そうなればいいと思った。
◇
屋上での歓迎会が終わり、アリサとすずかが先に教室へ戻った。
三人だけになる。
なのはの右肩には、まだ薄い包帯が巻かれている。
「傷、痛む?」
「もう平気だよ」
「平気と治ったは違う」
「……少しだけ」
「最初からそう言って」
なのはは困ったように笑った。
フェイトがそのやり取りを見て、静かに頷いている。
「フェイトも隠したら駄目だからね」
「私も?」
「同じことをしそうだから」
「しないよ」
「いま、なのはを見てから答えた」
「見てない」
「見てたよ」
フェイトが目を逸らす。
やはり、二人とも似ている。
「一つ、聞いてもいい?」
久遠が声を落とす。
「あの夜、なのはを傷つけた相手も怪我をした?」
なのはとフェイトの表情が止まった。
「どうして?」
「同じ夜に、友達が右手を怪我して帰ってきた」
「その子は……」
なのはが何かを尋ねかける。
「名前は言わないよ」
「久遠君」
「なのはたちも、相手のことはまだ話せないんだろ」
言えない事情があることは、もう分かっている。
けれど、それは久遠の友達にもあるかもしれない。
たった一度、怪我をした日が重なっただけで、誰かを疑いたくはなかった。
「だから、僕もまだ言わない」
「危ない人かもしれないんだよ」
「違うかもしれない」
「でも」
「もし違ったら、僕がその子を裏切ることになる」
なのはが黙る。
フェイトはしばらく久遠を見たあと、尋ねた。
「その子と一緒にいて、怖いと思ったことはある?」
「怒ると声が大きい」
「それは、少し怖いかも」
「でも、僕よりずっと友達を大切にしてる」
はやてが名前を呼ぶだけで、ヴィータは怒りを止めた。
帰りが遅くなれば迎えに来る。
はやてを泣かせるなと、久遠をにらんだ。
あれが全部嘘だとは思えない。
「危ないと分かったら連絡する。自分から調べない。一人で決めない」
「約束、覚えてたんだね」
「昨日したばかりだよ」
「久遠君、ときどき約束をすぐ破るから」
「なのはにだけは言われたくない」
「わたしは破ってないよ」
「怪我を隠した」
「あれは約束する前だから」
「次はないよ」
「分かってる」
いつもの調子で答えながらも、なのはの目には心配が残っていた。
フェイトも同じだった。
それでも二人は、友達の名前を無理に聞こうとはしなかった。
◇
図書館へ行くと、はやては窓際の席にいた。
今日は外国料理の本ではなく、植物図鑑を開いている。
「今日は早いやん」
「昨日は遅れたから」
「まだ気にしとったん?」
「待たせたことは気にするよ」
「ほんなら、次は私が三十分遅れて帳消しにしたる」
「普通に来て」
向かいへ座る。
「ヴィータは?」
「今日は留守番。みんな、ちょっと用事があるんやて」
「みんな?」
「うん。忙しいみたいや」
先週までいなかった家族。
どこから来たのか説明できず。
昼間はそろって家にいるのに、夜になると用事で出かける。
その一人が、なのはの負傷した夜に怪我をしていた。
偶然は、一つなら偶然で済む。
二つ目からは、気になることになる。
けれど、久遠は質問を飲み込んだ。
はやては何も知らない顔で、図鑑の頁をめくっている。
「これ見て。青い薔薇やって」
「本当は青くないね」
「紫に見えるなあ」
「青って書けば青になるのかな」
「ほんなら久遠君も、男の子って名札つけたら間違われへんのと違う?」
「その話と一緒にしないで」
はやてが笑う。
その途中で、小さく息を詰めた。
机の下で、膝へ手を当てる。
「痛い?」
「ちょっと痺れただけ」
「いつから?」
「前からや。すぐ治る」
笑顔は崩れていない。
けれど、指先へ力が入っている。
久遠は席を立った。
「どこ行くん?」
「受付。痛みが続くなら、大人を呼ぶ」
「大げさやって」
「僕だけで決めないって約束したから」
「それ、誰との約束?」
「怪我を隠した友達」
「説得力ないなあ」
「だから守らせる練習をしてる」
はやては呆れた顔をしたあと、諦めたように息を吐いた。
「ほんなら、シャマルに電話して。鞄の横に携帯あるから」
「分かった」
久遠は携帯電話を取り出す。
自分で治すことはできない。
痛みを代わることもできない。
それでも、誰かを呼ぶことはできる。
◇
シャマルが迎えに来たころには、はやての痛みは治まっていた。
「心配をかけてごめんなさい、久遠君」
「シャマルさんが謝ることじゃないです」
「でも、知らせてくれてありがとう。はやてちゃん、我慢してしまうことがあるから」
「久遠君も人のこと言えへんで」
「僕は我慢してない」
「この前、図書館に来る途中で転んだの、黙っとったやろ」
「擦り傷だったから」
「ほら」
はやてが勝ち誇った顔をする。
「二人とも、我慢しないようにしましょうね」
シャマルにまとめられた。
帰っていく二人を見送る。
車椅子を押すシャマルの手は優しい。
はやての身体を気遣う目も、嘘には見えなかった。
疑う理由と、信じたい理由が同じ家にある。
どちらか一つだけを選べるほど、物事は簡単ではなかった。
◇
「魔法で、病気は治せる?」
その日の夕方。
高町家で、久遠はユーノに尋ねた。
修理中のレイジングハートは、管理局という場所に預けられている。
なのははフェイトと一緒に、別室でクロノから話を聞いていた。
久遠には聞かせられない、事件の話だった。
「治癒魔法はあります」
人の姿をしたユーノが答える。
「でも、何でも治せるわけではありません」
「怪我は?」
「傷の回復を助けたり、状態を安定させたりはできます。失ったものを、何もなかったことにできるわけじゃない」
「病気も同じ?」
「原因が分からなければ、魔法でも治せません。それに、普通の病気なら専門のお医者さんに診てもらう方がいい」
魔法という名前を知ったとき。
心のどこかで、何でもできるものだと思っていた。
空を飛べる。
遠い世界へ行ける。
人には聞こえない声を届けられる。
なら、動かない足を動かすこともできるのではないか。
そんな期待をしていた。
「魔法が原因の病気もある?」
「あります」
ユーノの答えは早かった。
「呪いや、身体の中の魔力に異常が起きる病気も。ただ、調べずに決めつけるのは危険です」
「魔力があるかどうかは、触れば分かる?」
「ある程度は。でも、本人の許可なく調べてはいけません」
「どうして?」
「身体の中を勝手にのぞくのと同じだから」
「そっか」
はやてに魔力があるか調べてもらえばいい。
一瞬だけ浮かんだ考えを、久遠は捨てた。
助けたいと思うことと。
相手の知られたくないものへ、勝手に踏み込むことは違う。
「その友達は、お医者さんに診てもらっているの?」
「うん」
「なら、まずはその人たちを信じてください」
「僕にできることは?」
ユーノは少し考える。
「そばにいること」
「それだけ?」
「簡単に聞こえますか?」
「うん」
「僕は、簡単じゃないと思います」
ユーノは窓の外を見る。
「僕は一人でジュエルシードを集めようとして、なのはを巻き込みました。危険から遠ざけることばかり考えて、ちゃんと頼ることができなかった」
「ユーノも一人で決めたんだ」
「はい。だから、僕も練習中です」
「そばにいる練習?」
「誰かを信じる練習です」
久遠はノートを開いた。
魔法と書いた頁の下に、新しい一行を足す。
――魔法は、何でもできるわけではない。
続けて、もう一行。
――できないことを、一人で何とかしようとしない。
「それ、僕も書いておいた方がよさそう」
「ぜひ、そうしてください」
◇
週末。
久遠は高町家の道場に立っていた。
向かいには恭也がいる。
「強くなりたい?」
「うん」
「誰かと戦うために?」
「それは駄目だって言われた」
「素直に聞いたんだな」
「約束したから」
恭也は少し笑う。
「じゃあ、何のためだ?」
「逃げるため」
「なるほど」
「危ない場所から逃げて、誰かを呼ぶ。怪我をした人がいたら、安全なところまで連れていく。その間、自分が倒れないようにする」
「ずいぶん具体的だな」
「戦えない人が覚えることを考えた」
恭也は腕を組み、久遠を見つめた。
「逃げるのも、守るのも、まず自分の足で立てなければ始まらない」
「うん」
「今日は受け身からだ」
「もうできるよ」
「そうか」
三分後。
久遠は道場の床に転がっていた。
「できてないね」
見学していたなのはが言う。
「なのはは黙ってて」
「でも、きれいに転んだよ」
「慰めになってない」
起き上がる。
足が震えていた。
魔法を手に入れたわけではない。
急に強くなれる方法もない。
転び方を覚え。
立ち上がり方を覚え。
危険なら逃げることを覚える。
一つずつしか進めない。
それでも、待っているだけだったころより、できることは増えている。
「もう一回」
久遠が構える。
「休まなくていいのか?」
「あと一回だけ」
「そう言う人は、だいたい何度もやるんだよ」
なのはが笑う。
「怪我を隠す人よりいい」
「まだ言うの?」
「治るまで言う」
恭也が二人の間へ手を上げた。
「話は終わったか?」
「はい」
「じゃあ、始めるぞ」
今度は転ばされる瞬間まで、相手から目を逸らさなかった。
◇
月曜日。
昼休みに、すずかが一冊の本を持ってきた。
「なのはちゃん、病気の人へ持っていくなら、どんな本がいいと思う?」
「お見舞い?」
「うん。図書館で知り合った子が、入院したの」
久遠は顔を上げた。
「その子、車椅子?」
「久遠君、知ってるの?」
「名前は?」
「はやてちゃん。八神はやてちゃん」
教室の音が、少しだけ遠くなる。
なのはとフェイトが同時に久遠を見た。
「昨日話した友達って」
なのはが尋ねる。
「はやての家族だよ」
「家族……」
「急に四人増えた、遠い親戚」
フェイトの表情が変わる。
なのはも何かに気づいたようだった。
久遠には、二人が何を考えたのか分からない。
けれど。
なのはたちが追っている魔法の事件と。
はやての家に現れた、説明のできない家族。
別々だった二つの秘密が。
八神はやてという一人の少女のところで、初めて重なった。
「久遠君も、お見舞いに行く?」
すずかが尋ねる。
「行く」
久遠はすぐに答えた。
役に立てることがあるかは、まだ分からない。
魔法もない。
病気を治すこともできない。
知らないことばかりで、疑うことさえ間違っているかもしれない。
それでも。
病室で一人になる友達のところへ、会いに行くことはできる。
「本も持っていこう」
「どんな本がいいかな?」
「外国料理の本」
「読めるの?」
「二人とも、ほとんど読めない」
「それ、お見舞いになるの?」
すずかが困ったように笑う。
「なるよ」
待ち合わせの続きをするために。
久遠は、はやての好きな本を探しに行くことにした。