「遅かったね」
九歳の久遠が、坂の途中に立っていた。
久遠は自分の手を見る。こちらは大人の身体の形をしている。なのに病室の寝台にも、同じ姿の身体が横たわっているはずだった。どれが本当の自分か、分からなくなる。
「ボク、ここへ来たかったの?」
「みんなのところへ行ったでしょう。次は君のところ」
相手は久遠と同じ声で答え、楽しそうに笑った。
地球の道が変わっている。角の店の看板も、人が通る時間も、久遠の覚えていたものと違う。ここが昔のままの夢ではないことだけは分かった。
子供の姿が先へ進む。足音はしない。久遠も歩くつもりになれば後を追えた。行き先を選べるのか試そうと、反対の道を見る。その先の景色が曖昧になり、子供の背だけがはっきり残った。
「どこへ行くの」
「帰る場所を確かめに」
久遠は、山の家のことを思い出す。オーダーが「おかえり」と言った。クェーサーが朝に来てくれて、ヴェロシティが帰ってきて、ストライクにもまた会えた。そこなら帰れるはずだ。
先を行く子は、山の方を振り向かなかった。
◇
病室の久遠は、寝台で動かなかった。
シャマルは夕方の測定を済ませ、クェーサーへ伝える。身体の負担は続いている。写本の残滓に一致する反応だけが、昼から増した。二つを同じ治療で消せるという証拠はない。
「久遠様は聞いておられるのでしょうか」
「分からない。返事がないことだけで、届いていないとも決められないわ」
クェーサーは寝台の手に触れた。握り返されることはない。指先へ覆いをかけた時、袖の端が一瞬ぶれた。彼女自身の輪郭にまで、また異変が出ている。
「ここにいます。帰ってこられたら、水をお持ちします」
久遠の身体は返事をしない。
オーダーは夕方の記録を二つに分けた。久遠の体力が失われていることと、別の魔力が活動を強めていること。前者だけを見て待てば、後者が身体を使うかもしれない。
「搬入口も確認しましょう。昨夜、屋上へ行かれた経路だけが道ではありません」
ストライクとヴェロシティにも連絡を出す。内部の網から誰かの見聞が流れ込むことは、もうない。見た者が自分の言葉で知らせるしかなかった。
◇
九歳の子が止まったのは、墓地の入口だった。
久遠は初めて来る。図書館のあとの年月については聞いた。自分が死んだことも知っている。だが、自分の墓がどういう形をしているかまでは、見たことがなかった。
「ここに、ボクがいるの?」
「いるよ。ずっと前から。君が知らなかっただけ」
子供は嬉しいことを教えるように言った。
子供は何列かの石の間を進む。小さな墓石の前に立ち、脇へ退いた。
溱久遠。
名前と、生まれた日、亡くなった日がある。九年だった。久遠は指を伸ばす。石を通り抜けてしまい、冷たさは分からない。身体のない自分が、確かにそこへ来たのかも証明できなかった。
けれど、文字は読める。
ここへ名前を刻んだ誰かがいる。周りは荒れていない。忘れられたから墓が残ったわけではない。人が覚えていたから、場所がある。
「本当に、終わったんだね」
久遠は声に出した。
図書館の夜が最期だった。そこまでは知識として聞いた。石に刻まれた日を読むと、胸にあった日の続きが突然断たれる。自分が眠ってから大人になったのではない。九歳で終わり、みんなが生きている年月だけが続いた。
あの夜に失った身体の痛みが、ないはずの場所へ戻ってきた。今の身体を傷つけられたわけではない。意識だけがここにいるのに、どこを庇えばいいか分からない痛みだった。
「怖かったんだ」
久遠は墓石へ言う。図書館で、なのはたちを心配するより前に自分も怖かった。あの日の自分は、怖いと言えないまま終わった。
子供の姿をした相手が、隣へ来る。
「怖いのに、誰かが怪我をしていたらそっちへ行く。君はいつもそうだよね」
「それが悪いことみたいに言わないで」
「悪いとは言ってない」
相手は同じ顔で笑った。からかっているようには見えない。久遠がまだ知らない答えを、先に見つけて喜んでいるような顔だった。自分の声で慰められたように感じてしまうのが、久遠には嫌だった。
「君が助けようとする場所には、もう困っている人がいる。そういう人たちを、君は放っておけない」
「うん」
そこまでは、間違っていない。
「それなら君が行く先では、これからもずっと苦しい人を見つける。助けるたびに、次の苦しみを持ち帰る。君の周りも、そのために動き続ける」
次の言葉が、久遠の中へ入り込む。
苦しんでいる人が先にいて、自分が助けに行った。それを、自分が人を苦しめたかのように並べ替える。おかしいと分かるのに、病室でシャマルやクェーサーへ手を借りた時間まで、同じ列に並びそうになった。
「違う。みんな、自分で来てくれた」
「そう。君に頼まれなくても、君が痛そうだから来てくれる。優しいね。だから君が苦しくなるたび、あの人たちも立ち止まる」
九歳の子は満足そうに笑った。久遠は、クェーサーが自分の袖の輪郭を確かめながらも部屋から離れなかったことを思い出す。
子供は石の名前を指す。久遠には触れなかった場所に、相手の指だけが重なった。景色を動かせるのは自分ではないと分かる。
「ここへ君を戻した人は、いるの?」
「オーダーたちが迎えに来た」
「身体が目覚めた時は、みんなヌメロンを探してた。君は誰かと聞かれて、謝った。そのあと、オーダーが『おかえり』と言ってくれたんだね」
久遠は黙った。
病室で怖かった自分を覚えている。アインハルトの「ヌメロンを返して」も、オーダーの「おかえり」も同じように本当だった。相手はどちらも知っていて、順番を選んで話す。
「迎えに来てくれたのは、本当だよ」
「うん。君に『おかえり』と言った人たちを、今度は君が看病させている。それも本当」
子供は久遠の返事を待たず、声を弾ませた。
「けど、なのはたちは『おかえり』と言わなかったよね。帰ってきてほしかったのはヌメロンで、君じゃない。君は彼女たちにとって邪魔だったんだよ」
「違う。なのはは、会いたいって言ってくれた」
「うん。いい人だもん。フェイトも、はやても。九歳の君なら知ってるでしょう。困っている子を見つけて、見なかったことにできる人たちじゃない」
子供は、まるで三人を褒めるように笑う。
「君が来て嬉しかったなら、どうしてあの時に言わなかったんだろうね」
久遠は答えられなかった。なのはたちが大人になり、ヌメロンやアインハルトを心配していたことも分かる。声に出せなかった喜びがなかったと決まったわけではない。けれど、久遠があの病室で最初に聞いたのは、ヌメロンを求める声だった。
助けを受けることと、誰かの生活を奪うことは違う。頭ではそう思う。それでも自分が寝台で過ごした日の数と、オーダーたちが部屋へ来た回数ばかり浮かんだ。久遠は、誰の気持ちも確かめられないまま、自分にとっていちばん痛い答えだけを信じかけた。
◇
久遠の身体を覆う写本の反応が、布団の端で少し濃くなった。
シャマルは名を呼び、手に触れる。身体は動かず、呼びかけへの返事もない。記録の上では、光だけが一拍遅れて揺れていた。
「見守りを増やして。身体が動いたら、まず私へ直接声をかけて」
夜勤の職員が頷く。
クェーサーは白い手袋を外した。久遠が目覚めた時すぐ手に触れられる位置で、寝台の傍らに立った。
◇
墓地を出た先に、久遠の知る坂があった。
先ほどの道場や家と同じで、景色は今の時間のままだ。子供の姿は少し先を歩く。振り返るたび、あの夜の久遠に似た目で、こちらを見る。
久遠は、行き先をもう知っていた。
「家には、誰もいないよ」
子供は、久遠がどんな顔をするのか楽しみにしているようだった。
「見てから決めたい」
子供は道を開けた。自分が連れて行っているのか、久遠が見たくて来たのか、その境目も曖昧になる。
昔、角にあった店は別の看板になっている。よく遊んだ道は舗装が変わった。家の屋根を探して、久遠は一度通り過ぎそうになった。
形は残っていた。門の横に見慣れないものが置かれ、窓は内側から覆われている。人の帰りを待つ明かりは、今はない。
父と母はそこにいない。二人がどう暮らし、どこへ行ったのかを久遠は知らない。建物が残った理由も知らない。ただ、あの日の自分が帰れば声がした家には、もう帰れない。
玄関に鞄を置いて呼ばれたこと。台所から聞こえた声。届かなかった棚。あれは確かに、自分が過ごした家だ。中へ入ろうとすると、戸をすり抜ける前に景色が少し揺れた。思い出した配置と、今の部屋の位置が重ならない。
「知らない家みたい」
久遠が呟く。
「君がいなくても、時間はちゃんと進んだんだ。すごいね」
九歳の子は笑っていた。久遠も、その通りだと思った。両親がどこにいるのか知りたい。もう会えないのかもしれないし、会えるのかもしれない。子供の笑顔は、そのどちらも教えてくれない。ただ、ここに帰っても九歳の日の返事はないと教える。
恭弥さんに、次に会ったら続きを習おうと思っていた。桃子さんに無茶をして叱られたら謝ろうとも思っていた。二人と今また会える可能性は残っている。けれど九歳の自分へ教えてくれた恭弥さんと、あの日の桃子さんに叱られた翌日へ戻ることはできない。
なのはとフェイトとはやてと、写真を撮る約束もした。四人の立つ順番すら決めていない。次の日が来ると思ったから、後回しにした。あの年の四人が並ぶ写真はない。
子供の姿が、閉じた窓へ自分の顔を映す。久遠が隣に立っても、窓には九歳の方だけが残る。
「さっき見たよね。ヌメロンにはアインハルトが待ってる。なのははヴィヴィオのママで、フェイトもはやても、自分の明日を持ってた」
「みんなが元気で、よかった」
久遠は本心から言った。
「よかったよ。それは君のいない年月が、ちゃんと続いたから」
子供は弾むような足取りで門へ来た。同じ声で言われる。あの人たちが今も生きていることを、責めたいわけではない。ただ、もう一緒に九歳から歩き出すことはできない。
「なのはにはヴィヴィオがいる。ヌメロンにはアインハルトがいる。君が前にいたところへ、別の誰かが座ってるわけじゃないよ。それぞれ新しい場所を作ったんだ。君を待たずに」
「待ってほしかったわけじゃない」
「知ってるよ。だから、よかったねって言ってる」
自分がいないあいだ、みんなが幸せになったことは嬉しい。久遠が望んだはずのことを、子供は笑顔のまま、久遠が戻る余地などないという答えに変えていった。
ボクには、山の家がある。
久遠は胸の中で繰り返した。屋敷の廊下、読めない本、青い栞。オーダーが「おかえり」と言い、クェーサーが帰る朝の支度をした。ヴェロシティは自分の用事から帰り、ストライクは道場の話をしてくれた。
「山の家へは帰れる」
「帰って、何をするの」
「みんなと、暮らす」
「寝台で、誰かが来てくれるのを待つ。帰ってくる人が増えるほど、君のために家を空けられなくなるのが怖くなるね」
いま身体が動かないのは事実だ。そうだからこそ、誰かが朝と夜に来てくれる。その時間が相手を苦しめると決まったわけではないのに、窓の中の子供に言われると、二つが同じことに見える。
「クェーサーは、君のそばにいるだけで輪郭がぶれた。あの子はそれでも水を替えに来る。君が優しい子だって知ってるから、きっと止めても帰ってこないよ」
「あれがボクのせいかは、分からない」
「うん。分からない。でも、もし君のせいだったらどうする?」
子供は面白い問いを思いついたように顔を輝かせた。久遠は、クェーサーの袖が揺らいだ瞬間、彼女から離れてほしくないと思った自分を思い出す。心配するより先に、ひとりになるのが嫌だった。自分のその順番が、急に恐ろしくなる。
「ストライクを戻したのも、家族だから」
「君が彼を置いていけなかったからね。よかったと思っているのに、そのあと君の足は動かなくなった」
「それでも、帰ってきてよかった」
「そう。君はいつも、誰かが帰れたなら自分の方はいいと言う。ストライクが帰るために、君の脚は動かなくなった。オーダーたちは君を看病して、クェーサーは揺らいでいる。君が誰かを連れ戻すたび、別の誰かが君を助けなくちゃいけない。次は誰かな」
久遠は言葉を失った。
昨夜から繰り返し考えていたことを、初めて誰かの口で聞いた。相手は自分の顔だから、知られたくなかった気持ちまで知っているように思える。
「みんなに居場所があれば、ボクは――」
続きが言えない。山の家は本当だ。病室へヌメロンも来てくれた。アインハルトは謝りに来た。なのはは会いたいと言った。ひとつずつ数えれば、置いていかれただけではない。
だが子供は、その一つ一つを嬉しそうに指折り数えた。
「アインハルトは優しいね。謝りに来てくれた。君も許してあげた。でも、あの子が帰る家にはヌメロンがいる。君があの身体にいる間は、ヌメロンがいなかったんだよ」
久遠は、少女が泣きながら叫んだ声を思い出した。あの時すぐに身体を返せなかった。何も知らない自分を責めなくていいと言われても、泣いている子へ謝ることしかできなかった。
「オーダーは迎えに来てくれた。クェーサーは寝台から離れない。みんな、本当にいい人だね。君のせいで困っていても、そんなこと言わない」
「言わないんじゃなくて、困ってないのかもしれない」
「うん、そうかもしれない。確かめに帰る?」
久遠は山の家を思い浮かべた。クェーサーに、そばにいると危ないかもしれないと言わなければならない。ストライクには、帰ってきてほしかったと言いたい。なのはには、あの時自分も帰ってきてよかったのか聞いてみたい。だが、そのどれも相手に心配を増やすだけだと、もう一人の自分が先回りする。
知らないうちに、久遠は呪いの声と自分の考えを分けられなくなっていた。
消えた時間だけが、久遠には取り返せない。何を足しても、あの夜の続きにはならない。
◇
病室で、久遠の胸元の反応が急に強まった。
シャマルは身体の位置を確かめる。呼吸は続いている。名前を呼んでも返事はない。オーダーへ知らせると、彼は病室に来る支度をした。
「ご本人が目覚められたと決める前に、反応を分けて確かめてください」
「分かってる。久遠君に、まず声をかける」
シャマルは職員へ伝え、寝台のそばに二人分の場所を空ける。クェーサーもそばにいる。彼らが準備するほど、寝台を包む写本の反応は厚くなった。
久遠には、誰かが自分を止めようとしていることが見えない。
◇
古い家の門の前で、久遠は立ち尽くしていた。
「どうして、ボクをここへ連れてきたの」
「君が帰りたいと思ったから」
子供は楽しげに、閉じた門を指した。
「帰れるようになるわけじゃないのに」
「だから、確かめてもらった。昔へ帰れないのに、君は帰ろうとし続けるでしょう」
子供の姿が一歩近づく。
「君は過去から帰ってきた。君が知っていた友達は大人になった。君の家にも、君のために開く扉はない。誰も君を嫌っていなくても、君が戻りたい場所はもうない」
子供は明るい顔で続ける。
「でも君は優しいから、また誰かを助けるよ。あの夜みたいに。ストライクを連れ戻した時みたいに。君を助けようとした人が疲れたり、傷ついたりしても、次に困っている人を見たら手を伸ばす」
「助けなきゃよかった、とは思わない」
「うん。そこが君のいいところだよ」
褒められたはずなのに、息ができなくなる。自分の好きだったところが、周りの人を傷つける理由だと言われている。
なのはは会いたいと言った。オーダーは迎えた。嫌われていない。それでも、あの人たちが受けた負担を数えているうち、久遠にはその好意を受け取る資格までなくなったように思えた。
墓の前では、忘れられていないことに救われかけた。今は違う。覚えてくれた人の前に現れれば、その人は九歳で死んだはずの自分をもう一度心配する。墓を作った人の時間まで、自分がまた奪う。
「じゃあ、ボクは何なんだろう」
自分の墓がある。なのはたちと同じ今を生きてきたヌメロンがいる。山の家の人たちに支えてもらわなければ、いま自分では起き上がることもできない。
ボクは、過去から来た亡霊だ。
その言葉を思い浮かべた瞬間、子供は嬉しそうに頷いた。
「君が戻れば、みんな君のために今を止める。困っている人を見たら、君はまた助けに行く。そうやって、そばにいる人たちまで巻き込む。誰かの不幸を見つけて、次の不幸を連れて帰る」
「ボクが、みんなを苦しめてるの?」
「君は傷つけようなんて思ってないよ。ボクも、君が悪い子だとは思わない」
子供が笑う。久遠は図書館の夜を思い出した。助けたかった。誰かを置いて帰りたくなかった。その願いからクオンたちが生まれ、今は自分の身体の中にも何かがいる。九歳の自分がしたことまで間違いにしたくない。なのに、自分がここにいるだけで、人が心配し、無理をする。
「ボクが……呪いなの?」
「君がどう呼ぶかは、君が決めて」
相手は自分を呪いとは名乗らなかった。否定もしない。久遠が自分でそこへ辿り着いたことを、まるで嬉しい知らせのように受け取った。
墓と家は本当にあった。なのはたちが大人になったことも、オーダーたちが自分を看病していることも本当だった。昔の家に帰る場所はなく、今の家では自分ひとりで起き上がることさえできない。誰かのためにできることが、もう一つも思い浮かばなかった。その事実から「自分の善意が人を不幸にする」と結ぶ声を、久遠は自分の声から切り離せなかった。
呪いなのは、あの子じゃない。ボクだ。
そう思った途端、九歳の子が声を立てて笑った。久遠には、答えを当てて褒められたようにも聞こえた。
山の家へ帰りたい。なのはに会いたい。助けてほしい。
その三つがいっぺんに胸に浮かんだ。誰かの名前を呼ぼうとして、久遠は口を開く。声にならない。呼べばその人が来て、また自分のために心配する。今はそんなことまで怖かった。
喉が詰まり、息だけが漏れた。目の前の門がぼやける。自分が泣いていると気づいた時には、もう止められなかった。
九歳のあの日、怖いと言わずに終わった。その時にこぼせなかった涙まで戻ってきたようだった。久遠は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込む。足に力が入らない。頭の中では、なのはも、クェーサーも、オーダーも次々に呼んでいるのに、ひとつも声にできなかった。
「つらかったね」
九歳の自分の声が、すぐそばで楽しそうに言った。久遠が泣きやむのを待たず、同じ高さまで屈む。
「君はもう、頑張らなくていいよ。ボクが皆の欲しい言葉を言ってあげる」
久遠は首を振りたかった。クェーサーたちを傷つけないで、と頼みたかった。その子が何をするか分からない。嫌だと思うのに、顔を覆った手すら動かせない。涙の間から相手を見上げることしかできなかった。
「大切なんだね。知ってるよ」
子供は嬉しそうに頷く。久遠の返事を求めず、彼の肩へ手を置いた。
身体へ戻る道が遠ざかる。久遠は何も渡していない。行っていいとも言っていない。それでも、泣いて動けなくなった心を置いて、もう一人は久遠の身体の方へ歩いていった。
窓に映っていた大人の姿が消える。
閉じた門も坂も遠ざかり、久遠は図書館の席にいた。あの夜、はやてと並んで読めない料理本を開いた机だ。隣の椅子には誰もいない。机の向こうにも、出口へ続く通路にも、人の姿はなかった。
気づいた時には、久遠は椅子に座っていた。頬はまだ濡れている。ページを開いても字は読めない。青い栞を挟む場所を決めることもできないまま、隣の空席を見ていた。
◇
寝台の久遠の指が、一度だけ動いた。
シャマルが顔を上げる。クェーサーもその手を見ていた。もう一度名前を呼ぶと、久遠の目が開いた。
「久遠様?」
視線がクェーサーの方を向く。口元に小さな笑みが浮かんだ。
図書館の席にいる久遠には、その声も、病室の景色も届かなかった。隣の椅子は空いたままだった。