「久遠様?」
クェーサーが呼ぶと、寝台の久遠は笑って頷いた。
「心配かけたね」
その一言が聞きたかった。クェーサーは手袋を外した手で、彼の額に触れる。久遠が生きている温度だった。病室の戸口にいたシャマルは、彼女が触れるのを止めず、端末の反応を見た。
「久遠君。私が誰か分かる?」
「シャマル。ずっと診てくれたでしょう」
「今はどこにいる?」
「病室だよ。外へは行ってない」
答えは正しい。写本に似た反応は、目が開く直前に濃くなったままだった。
「手を握れる?」
久遠の指がシャマルの指に触れ、ゆっくり閉じた。続けて、彼は自分から身体を起こそうとする。クェーサーが背へ手を回した。
「久遠様、急には――」
「ありがとう。でも、もう少しできるよ」
クェーサーの助けを受けながら寝台の縁に座る。足が床に着いた。シャマルはすぐに立つようには言わない。彼がこれまで一人で座れなかったことと、今座れたことを、別々に記録した。
「少しだけ、立ってみたい」
「私とクェーサーが支える。そこでやめると言ったらやめてね」
「うん」
二人が両側につく。久遠の身体は床へ体重をかけ、立った。膝は折れない。シャマルが許した寝台の脇まで、支えを受けながら三歩進む。止まれと言われると止まり、自分で足を戻した。クェーサーの手は肘へ添えたまま、支えの力を緩める。
「本当に、立っておられる」
その声は震えていた。数日前には、両足で体重を受けることもできなかった。シャマルの指示で、身体はすぐ座り直した。
「立って歩いたことは確かよ。でも原因が分からないまま、治ったとは診断できない。脚にもまだ負担が残っている」
「うん。ちゃんと診てもらうよ」
久遠は素直に答え、クェーサーを見た。
「これからは大丈夫。なのはたちとも話すよ。みんなに黙って心配をかけたままにはしない」
クェーサーは彼の手を両手で包んだ。主が立てたことも、今まで言い出せなかった話をする気になったことも嬉しい。何より、久遠が自分から「大丈夫」と言った。
シャマルは、久遠の指が動くたび胸元の古い反応も動くのを見ていた。今の声を否定する証拠にはならない。同時に、本人の回復だと断定する根拠にもならなかった。
◇
オーダーが病室へ来ると、久遠は寝台に座っていた。
「来たんだね、オーダー」
「お目覚めになりましたか」
「うん。勝手に頑張って動こうとして、ごめんね。これからは無理する前に相談する」
オーダーがずっと久遠へ言いたかったことだった。決定を肩代わりしたいのではない。自分の身体を傷つける前に知らせてほしかった。
「私どもには、何をお任せくださいますか」
「シャマルの話を一緒に聞いてほしい。山の家へ帰る時は、みんなと決めたい」
オーダーは満足そうに一礼した。主の意思を確かめてから支える。それができるなら、彼にも役割がある。
シャマルは報告を隠さなかった。座ることと立つことを確認した一方で、写本の反応が増している。回復の仕組みは分かっていない。観察を続け、今日は外出も退院もさせない。
「承知しました」
オーダーは答えた。久遠も隣で頷いている。彼の望む「相談」が始まったように見えた。
◇
ヴェロシティは顔を見てから、寝台へ向かった。
「俺が誰か、分かるか?」
「ヴェロシティ。そんな顔しなくても分かるよ」
「どんな顔だよ」
「置いていかれたみたいな顔」
ヴェロシティは肩の力を抜いた。主の返事は速い。うるさく顔を覗き込まれて、言い返せる。それが嬉しかった。
「帰る時は俺が連れていく。急にいなくなるなよ」
「分かった。今度はちゃんと声をかける」
ヴェロシティが欲しかった約束だった。オーダーは同じ部屋でその言葉を聞き、主が仲間ごとに必要なことを伝えていると思った。
久遠はそれぞれの顔を見て、それぞれが安心する言葉を選んでいた。青い栞のことをクェーサーに尋ね、オーダーとは診療の予定を決め、ヴェロシティには山道の帰り方を頼んだ。皆が以前から望んでいた話ばかりだった。
◇
ヌメロンが着いた時、久遠は寝台に座ったまま、窓の外を眺めていた。
「久遠」
「来てくれてありがとう。アインハルトのところへ帰る前に、顔を見せてくれたんだね」
ヌメロンは足を止めた。彼女のことを先に言われると、家へ帰らなければという気持ちを見透かされたようだった。
「君が立てたって、クェーサーから聞いた」
「うん。でもシャマルが外へ出ていいって言うまで、ここにいる。ボクも帰る家はあるよ」
ヌメロンは、病室で目を覚ました久遠へアインハルトが叫んだ日を思い出す。今ここで二人にまた同じ身体を取り合ってほしくなかった。久遠が山の家を帰る場所と呼べるなら、自分もアインハルトの父親のつもりで、彼女のもとへ帰れる。
「それなら、よかった」
声にしてから、ヌメロンは端末の連絡画面を見せた。
「なのはたちには、ボクから話してもいい? きっと喜ぶよ」
「うん。ボクからも話したい。なのはとフェイトとはやてに来てもらえるかな。ヌメロンにも、ここにいてほしい」
「ボクも?」
「うん。みんなの前で伝えたいんだ」
ヌメロンは頷いた。アインハルトの迎えまでに終わらなければ連絡する。それも久遠に話すと、彼は笑って「そうして」と答えた。
誰も久遠へ嘘をついてほしいとは思っていない。ただ、クェーサーは主が元気になってほしく、オーダーは主に相談してほしく、ヴェロシティは置いていかれたくなく、ヌメロンは家族のところへ帰りたかった。今の久遠は、そのすべてに気持ちよく返事をくれた。
◇
図書館の席で、久遠はひとり料理本を開いていた。
読めない字の上に、一瞬だけ病室の窓が映る。クェーサーが笑っていた。オーダーも、ヴェロシティもいた。ヌメロンは安心した顔で帰る家のことを話している。
自分が身体に戻れば、皆をまた心配させる。あの子なら同じ顔で、皆が必要とする返事を返せる。そう思うと、立ち上がろうとする力が抜けた。
彼らが喜んでいることは、久遠にも嬉しい。
その輪の中で話しているのが自分ではないことも、分かっていた。
◇
シャマルは面会の人数と時間を決めた。
久遠の身体は立てたからといって元通りではない。四人にはそのことを伝え、本人が疲れたら話を終えると約束してもらう。オーダーたちは病室の外で待つ。クェーサーは呼ばれたらすぐ入れる距離にいた。
なのはとフェイトとはやて、そしてヌメロンが病室へ入った。久遠は寝台に座ったまま、四人へ笑いかけた。
「来てくれてありがとう。みんな、元気そうだね」
図書館の夜の次に大人の身体で目覚めた久遠は、まず三人の無事を尋ねた。なのははその時の声を思い出し、目の前の彼が続けるのを待った。
「ちゃんと話しておきたいことがあるんだ」
「うん。聞くよ」
なのはが言う。はやても頷き、フェイトは彼の手が届く距離に立つ。ヌメロンは寝台の反対側にいる。
「ボクは、なのはたちとここでお別れにしたい」
ヌメロンは久遠を見た。さっき「みんなの前で伝えたい」と言われた時、話の中身を尋ねなかった。自分から話してくれるのなら待とうと思っていた。
「昔の家には帰れない。でも今はオーダーとクェーサーとヴェロシティがいる。ストライクも帰ってきた。あの家で、ボクは生きていける」
はやては寝台に座る久遠へ近づいた。山の家を帰る場所にできたなら、それはよかった。それでも、急に告げられた別れを、そのまま頷いて受け取ることはできなかった。
「せやから、私らとはもう会わへんってこと?」
「君たちは君たちの人生を生きてほしい。なのはにはヴィヴィオがいる。フェイトとはやてにも、今の暮らしがある」
久遠はヌメロンを見た。
「今の君たちにはヌメロンもいる。だからボクのことは忘れてほしい」
「久遠、ボクをその理由に使わないで」
ヌメロンの声は静かだった。自分がアインハルトの父親でいたいことと、彼女たちが久遠を忘れることは、どこにもつながっていない。
「ヌメロンにも家があるから、安心なんだよ」
欲しかった言葉だった。けれど久遠の顔には、返事を待つ気配がない。
「久遠。お別れを決める前に、私たちの話も聞いて」
フェイトが言った。
「フェイトは昔から優しいね。聞いたら、また君に心配をかけちゃう」
「心配するかどうかは、私が決めたい」
久遠は柔らかく笑った。その笑い方を見て、なのはの胸に小さな引っかかりが生まれた。
久遠は誰かを帰す時、決まって「ボクは大丈夫」と言う。九歳の頃も、目覚めてからも。大丈夫でない時ほど相手の顔を見て言った。なのはは、その言葉に甘えてしまったことがある。
今、久遠は忘れてほしいとまで言っている。そのくせ、四人がどう思うかを確かめようとしない。
「ねえ。久遠は、こういう時、最後に『ボクは大丈夫』って言うよ」
久遠の顔が少し明るくなる。
「クェーサーたちには言ったよ」
「私たちを帰す時にも言うんだよ。大丈夫じゃない時ほど」
なのははレイジングハートに手を添えず、久遠と目を合わせた。
「あなたは、誰?」
笑みが消えた。
「どうして、分かるんだよ」
吐き捨てるような声が、同じ喉から出た。次の瞬間、口元だけがまた楽しげに吊り上がる。
「すまないが、このまま出ていってもらおうか」
上がった手の先で、光が裂けた。なのはが防壁を立て、床を這った一筋を弾く。もう一筋は扉へ向かった。はやての結界が先に病室を包み、廊下への道を塞ぐ。
「患者がいるんや。ここで撃ち合うわけにはいかへん」
「それは君たちの都合でしょ」
久遠の身体は寝台を降りようとした。フェイトが飛び込むよりも先に、ヌメロンが足元へ投影体を置く。膝が落ちても受けられる位置だ。
「その脚で立たないで」
「君はアインハルトのところへ帰りなよ。ボクのことならもう心配しなくていい」
ヌメロンの顔から表情が消えた。
「君の言葉は、いつもボクの欲しいものばかりだ」
扉が開く。シャマルが職員を廊下の向こうへ下がらせ、クェーサーが先に入ってきた。彼女はなのはの杖と、久遠の上がった手を同時に見る。
「久遠様!」
「クェーサー。なのはたちが帰ってくれなくてね。ボクは君たちと家へ帰るって、ちゃんと伝えたんだけど」
久遠の声は途端に優しくなった。
「君からも言ってくれない?」
クェーサーは欲しかった答えを聞いた。山の家へ帰る。彼らと一緒に暮らす。ずっと願っていたことだ。
それでも主は病室の外へ出られる状態ではない。伸ばした手の下で、支えのない膝が揺れている。
「久遠様。まずお座りください」
「君までそう言うの?」
「立ってお話しになる必要はございません」
その時、身体から伸びた光がなのはへ向かった。クェーサーはなのはとの間に防壁を置いた。なのはを阻むためではない。光を受け、主の脚に伝わる反動を減らすためだ。
「お身体を使って、何をなさっているのですか」
「ボクが君の望みを言っているんだよ。喜んでくれないの?」
「望んでおります。ですが、それを久遠様から奪ってまで聞きたくありません」
にこにことした顔に、別の色が混じった。苛立ちというより、予想外の玩具を見つけたような顔だった。
オーダーとヴェロシティが廊下から入る。状況を一目見て、オーダーはシャマルへ声をかけた。
「主の身体を動かしている反応は、先ほど増していた写本のものでしょうか」
「検査を見ないと断定できない。でも今、立っているための魔力が脚へ流れている。止めたらそのまま崩れるわ」
「承知しました」
オーダーは久遠を背後から支えられる位置へ進む。ヴェロシティは戸口を塞ぎ、振り返って廊下の無人を確かめた。
「置いていかないって約束も、あんたに言わせたのか」
「君が聞きたかったから」
「分かってるよ。だから腹が立つんだ」
光がヴェロシティの足元へ刺さる。彼は速さを使って避けたが、追いかけては来ない。足を止めさせれば十分なのだ。
なのはは杖を低くした。
「久遠の声が届いてない。私たちがここで身体を傷つけたら、もっと遠くなる」
「私たちも同じです」
クェーサーが短く答える。主の身体を守りたい、その気持ちを奪われて別の誰かを攻撃するのはもう嫌だった。
シャマルの端末が警告を鳴らした。久遠の脈が速い。脚を吊り上げている魔力の下で、人間の筋肉は負荷を受け続けている。
「時間をかけられない。けれど胸や頭に衝撃を与えないで。脚も無理に折り曲げたら危険よ」
「聞いた?」
身体が楽しそうに全員を見回した。
「手加減してくれるんだ。優しいね」
次の光は、廊下ではなく隣の病室との壁へ走った。なのはが受け、はやてが結界を補う。久遠を捕まえれば発動を止められるかもしれない。しかし身体へ大きな力を掛ければ、治療中の患者自身が傷つく。
ストライクから通信が入る。
『今、下に着いた。どうする』
オーダーが答えた。
「河川敷への経路を確保してください。病棟内で長く足止めすれば、主にも他の患者にも負担が増します」
「外へ動かすのも危ないわ」とシャマル。
「承知しています。ご本人には一歩も余分に歩いていただかない」
はやては病院の外へ細い隔離路を伸ばした。フェイトがその中を偵察し、人のいない河川敷までの空間を確かめる。ヴェロシティは地上の退路を塞ぐ。なのはの防壁が病室の窓から隔離路へ魔力の出口を作る。
その配置を、身体は観察した。
「みんなで送ってくれるんだね」
「運ぶんや。お前の行きたいところへ歩かせるつもりはない」
はやてが言った。
身体が一歩踏み出しかけた瞬間、ストライクが窓の外側から入った。久遠の腰と背を受け、持ち上げるのではなく倒れる力を引き受ける。クェーサーが頭と肩を守り、ヌメロンの投影体が脚の下へ滑り込む。
「俺を呼び戻した人間を、勝手に歩かせんな」
ストライクの低い声に、身体が首を傾げた。
「君が戻ったから、あの子は動けなくなったのに?」
ストライクの腕に力が入る。だが、久遠の身体を締めつける前に手を緩めた。
「俺のせいにしていい。本人の身体は返せ」
◇
図書館の席で、久遠は本の文字から顔を上げた。病室の騒ぎが水の中から聞こえるように届いている。
ストライクを責めてほしくない。彼に帰ってきてほしかったのは自分だ。そう言おうとしても、喉はない。席を立とうとした脚も動かなかった。
クェーサーが、知らないはずの相手に気づいてくれた。オーダーは自分を支える位置に来た。なのはは「久遠の声が届いてない」と言った。
それなのに、身体から逃げられない。自分の顔で皆が傷つくのを、ここから見ているしかなかった。
青い栞が、本の間で震えた。
◇
結界の道を抜け、河川敷へ降りる。久遠はストライクとクェーサーに支えられ、足を地面に着けないまま運ばれた。身体から伸びる光が何度も支え手を狙い、そのたびにフェイトが弾いた。
下に着いた途端、久遠の身体が大きく反った。筋肉の力ではない。魔力がストライクの腕をほどき、投影体を一体砕く。クェーサーは肩を放さず、ヴェロシティが反対から受けた。本人の膝が石に触れる前に、オーダーの陣が足下を柔らかく支える。
「手を離せば、この子が倒れるよ」
身体は嬉しそうに言った。
「離さずにいれば、君たちは攻撃できない」
なのはとはやてが視線を交わす。フェイトはクェーサーのすぐそばにいる。ヌメロンは新しい投影体を起こした。誰も河原から離れない。
「それなら、支えながら止める」
なのはが言うと、オーダーが静かに頷いた。
「ええ。我ら全員で」
久遠の身体を囲んだ魔法が、今度は同じ向きへ開いた。