河川敷ははやての結界で人払いされていた。病棟から離れ、ここなら強い魔法も使える。なのははレイジングハートを握り、目の前の久遠を見た。
撃てる場所に立っているのは、久遠の身体だった。
「シャマル。外へ出てる光だけなら、切ってええか」
『ええ。ただし身体とのつなぎ目は追いかけないで。久遠君の反応と重なっているの』
「了解」
はやての拘束陣が地面の外周を走る。オーダーがその内側に別の陣を重ねた。どちらも久遠の足には触れない。逃げる方向だけを減らす。
「包囲はできました。あとは術式を探ります」
「ありがとう。なのは、先に出てくるものを私が払う」
フェイトはバルディッシュを低く構えた。狙うのは人ではなく、伸びてきた刃の側面だ。
身体が笑う。
「みんなで相談できたんだね。じゃあ、こうしたら?」
久遠の足が前へ出る。同時に背から開いた頁のような光が、全方向へ飛んだ。フェイトが最も速い一枚を払う。切断面が砂の上で弾け、薄い光の糸になって久遠の手首へ戻った。
「戻るのか」
ストライクが近づく。久遠の両肩を押さえれば発動を止められる。だがその肩は、支えなしに立てなかった人間のものだ。彼は拳を握らず、手を開いた。
身体がその手へ掌を向ける。ストライクの目の前で光が膨らんだ。彼は久遠を押すかわりに身をひねり、術式の外側だけを殴る。粉々になった頁が腕に刺さった。
「ストライク!」
「こっちは平気だ」
久遠の身体は、昔の稽古を思わせる角度で一歩踏み込む。拳の振り出しは鋭い。それをストライクがいなす寸前に、膝が不自然に折れた。
受ければ壊す。避ければ倒れる。
ストライクが腰を抱えるより早く、ヌメロンの投影体が間に入った。久遠は人形のようにその腕へ体重を預け、次の瞬間には投影体を内側から砕く。
「支えてくれるって、分かってたよ」
笑う声を聞いても、ヌメロンは新しい投影体を置いた。
「ボクの手を読めるなら、何度でも同じことをする」
「君が壊れたら、あの子は悲しむよ」
「アインハルトにも相談してから悲しむ」
ヌメロンは言った。今ここで久遠を見捨てる理由に、娘を使わせない。
◇
図書館の椅子で、久遠は腕を押さえた。自分の腕に傷はない。外でストライクが傷ついた感覚だけが、ここへ届いた。
ごめん、と言いたい。ストライクが帰ってきてくれたのに、こんなことをさせている。
身体を使う子は、こちらを見ない。見なくても思っていることが分かるのだろう。
「守りたいなら、ここにいて」
久遠の声で、耳元に言葉が落ちた。
「動こうとするほど、あの人たちが痛い目に遭うよ」
久遠は動かなかった。怖かったからだ。動かなくても外で誰かが傷ついていることは、まだ考えないようにした。
◇
ヴェロシティは久遠の背へ回り、逃げ道を消すように走った。速さで本人を捕らえることはできる。しかし抱き止めた衝撃に脚が耐えられない。地面へ残した細い道で、周囲へ散る頁の行き先を変える。
「左、二枚そっちへ行く!」
「受ける!」
フェイトは彼の道に合わせて動いた。二人で追えば速い頁を外へ追い込める。ほんのわずかな隙に、なのはが久遠の足元の石を防壁で覆う。転んでも頭を打たないためだ。
身体がその柔らかい壁を踏んだ。そこからなのはの術式をたどるように光が走る。
「なのは!」
クェーサーの防壁がなのはを守る。彼女は久遠の身体にいちばん近いところを離れないまま、壁を外へ向けた。
「ありがとう」
「あなたが傷つけば、あの方は苦しみます」
「うん。だからクェーサーも下がらないで」
クェーサーは一瞬、なのはを見た。かつて久遠の口から彼女の名を聞いていた。どれほど昔のことでも、今、本人の心がその名を捨てたとは信じない。
身体が二人を見比べ、楽しげに肩を揺らす。
「君たち、意見が合ったんだ」
「久遠様が自分のお身体で、自分の言葉を話すことです」
クェーサーが答える。
「それが、わたくしたち全員の願いです」
返事の代わりに、彼女の足下へ刃が出た。避ければ久遠へ届く術式だった。クェーサーはその場で受ける。修道服の袖が裂け、輪郭が一度ぶれた。
身体から別の防壁が、突然せり上がった。彼女を覆い、次の刃を自分で弾く。呪いの操作にしては、刃の軌道を妨げすぎた。
オーダーが目を上げた。
「今の壁は?」
「この人が、わたくしを守ってくださいました」
クェーサーの声は震えていた。
身体は笑ったままだ。
「ボクがそうしたことにしたい?」
「どちらでも、身体から出た魔力や」
はやてが小声で言う。
「本人の願いと呪いの術式が重なっとる。外側だけ切れる時まで耐えるで」
なのはは頷いた。
◇
オーダーの陣が書き換わった。頁を撃ち落とすより、飛び先をひとつずつ閉じる。ヌメロンの投影体はその境界で盾になる。ストライクは久遠のすぐ横、フェイトとヴェロシティが外周、なのはが正面。はやてが頭上を覆う。
これだけ揃えば、普通の相手なら一息で終わる。
久遠の身体は、自分の胸を軽く叩いた。
「ここを撃てば終わるよ」
「撃たせへんためにお前がいるんやろ」
「分かってるなら、遠慮しないで」
はやてが陣を一段狭めた。久遠の足元に触れる寸前で止める。何度でも空いた隙間から術式が出る。狭めれば身体を締めつける。広げれば病院の方へ逃げられる。
オーダーが進路を計算し直した。
「三呼吸だけ、主の右側を空けます。そこへ魔力を誘導できますか」
「やってみる」
なのはは小さな誘導弾を久遠の右手の外へ撃った。人へ当てない軌道だ。身体は一目でそれを読み、左脚を支えにして回る。脚に負担がかかった。
「やめて!」
クェーサーが声を上げた。なのはも弾を消した。
罠を使って立ち位置を変えようとすれば、相手は久遠の壊れやすいところを使って応じる。術式は弱められても、身体を動かす意志だけは取り上げられない。
「ほら。誰が動かしたのかな」
身体はにこやかに尋ねた。
オーダーは答えず、陣の半分を自ら解除した。自分の策が主の脚を動かすなら捨てる。それを見て、身体が残念そうに笑った。
「主が戻れば、あなたの望んだ相談もまたできる」
オーダーは静かに言う。
「私が正解を出す必要はございません」
足下の頁が形を変えた。オーダーの胸へ一枚、ヌメロンの背へ一枚、ヴェロシティが踏み込む先へ一枚。どれも人を殺すための攻撃ではない。全員が避けて、支えの輪が崩れればよかった。
ストライクはオーダーの前へ出る。ヌメロンの投影体が自分の背の頁を引き受ける。ヴェロシティは速度を落とさず、石を蹴って軌道を変えた。久遠の身体へ戻るはずの刃をフェイトが一度だけ横へ流す。
その時、久遠の身体の背に、また防壁が生まれた。
オーダーとヴェロシティを包む、薄くて脆い壁だった。発動のたびに患者の魔力反応が跳ねる。シャマルから通信が飛んだ。
『今の防壁、久遠君の身体にも負荷がかかっている。魔力が増えるほど、脈が乱れるわ。長く続けないで』
「久遠君が、出しとるんか」
『まだ判断できない。けれど、それを出させる状況が危険よ』
なのはは身体を見た。オーダーを守り、ヴェロシティを守り、クェーサーを守った。自分の身体を操るものの邪魔をしてまで。
彼はここにいる。
強引に引き出せば、また守ろうとして身体が壊れる。なのはは口を開きかけ、いったん閉じた。昔の久遠なら、これを見た誰かが心配しないよう笑うだろう。今は笑うことすら奪われている。
◇
図書館の本が床に落ちた。
クェーサーの袖が裂けた。オーダーへ刃が飛んだ。ヴェロシティが身をひねった。ヌメロンとストライクも前へ出た。
久遠は椅子から立てない。ただ、誰も傷ついてほしくないと思った。その瞬間だけ、外の身体から壁が出る。
自分が魔法を使ったのだろうか。そんなものは持っていない。呪いが自分の願いを拾い、勝手に壁にしたのだろうか。それでも、皆が無事ならいいと思った。
ここに座っていれば、あの子は皆が欲しい言葉を言ってくれる。けれど戦っている皆には、その声が通じない。
久遠の目に涙が溜まる。
帰ってきたことで皆を苦しめた。その思いは消えない。今はもう、いなくなれば解決するとも思えなかった。身体を借りた子が、いなくなった後も皆を攻撃するだろうから。
久遠は本の頁を閉じようとした。腕が動かない。
「そこにいれば、守れるよ」
もう一人の声が囁く。優しそうで、楽しそうな声だ。
久遠は初めて、その言葉を信じなかった。守られている人たちの顔が、みんな悲しそうだったから。
◇
河川敷の上空で、はやての結界が揺れた。
久遠の身体が空へ伸ばした光は、病院ではなく自分たちの上を周回している。撃ち落とすほど細かく分かれ、弾き返すほど本人の肩へ戻ろうとする。なのはは自分の得意な砲撃を構えず、小さな防壁を何度も張り直した。
「なのはさん。今の壁は主の意識によるものとお考えですか」
オーダーが訊く。
「分からない。でも、あの人が皆を守ろうとしてるなら、呼びかけたい」
「呼びかければ、また身体が反応します」
「うん。だから皆にお願いしたい」
なのはは周囲を見た。
「久遠が誰かを守ろうとしても、その人を受ける。久遠にひとりで守らせないで」
フェイトが頷き、クェーサーの横へ移る。ストライクはまだ傷の残る腕を下げず、倒れた身体を受ける位置へ戻った。ヴェロシティは逃げる刃を追う道を選び直す。ヌメロンが投影体を一人ずつに配った。はやてとオーダーは結界の継ぎ目をつなぎ、久遠からの反撃だけを外へ逃がす。
正面を空けた。
身体が不思議そうに笑う。
「そんなに話したいなら、帰らせてあげればよかったのに」
「帰ってほしいって言ったのは、あなたでしょ」
「この子も思ってるよ。みんなに迷惑をかけるくらいなら、あの図書館の席にいたいって」
図書館。
なのはは一瞬、息を止めた。はやてが見て、顔を上げる。あの日二人で座っていた席を、この身体の中で久遠がまだ見ているのかもしれない。
「なら、そこまで聞こえるように話す」
なのはは一歩進んだ。身体へ照準を向けない。レイジングハートはまだ防壁のままだ。
「久遠。私は、ここにいるよ」
身体が一枚の頁を飛ばした。フェイトが間に入り、クェーサーが余波を受ける。久遠の防壁は出なかった。二人が自分で防いだからだ。
「君が守ろうとしてるの、見えたよ。みんな、ここであなたを守ってる」
身体の頬を、笑いとは別のものが伝った。
「勝手にこの子の気持ちを決めないでよ」
その声も久遠の喉から出た。なのはは急いで否定しない。悔しさも寂しさも、彼自身の中にある。
「うん。決めない。聞きに来た」
久遠の目が、ほんのわずかになのはへ向いた。
身体を動かすものが、顔を背けさせた。なのははその場で待つ。大人の身体へ戻れと命じるのではない。九歳で止まった彼が、怖いまま返事できるように。
「久遠。お話、しよう」
呪いの笑みが、少しだけ強くなった。