久遠の口が開いた。
なのはは足を止める。少し離れているから、彼の呼吸までは聞こえない。フェイトが横へ来て、いつでも庇える位置に立った。
「……帰りたい」
声は久遠のものだった。けれど彼が自分で唇を動かしたかどうか、誰にも分からない。
「山の家に?」
クェーサーが聞く。彼女は久遠の脚が崩れた時に備え、手の届くところへ移っていた。
「あの日に」
声が答えた。
クェーサーは息を止める。その望みなら、自分には叶えられない。久遠を屋敷まで運ぶことはできても、図書館へ行く前の日へ連れて帰ることはできない。
「恭弥さんには、もう教えてもらえない。桃子さんには、もう怒ってもらえない。みんなで写真を撮るって約束も、守れなかった」
一つずつ区切る口調は、子供の久遠に似ていた。似ているからこそ、久遠は自分の身体が話すのを聞きながら、ひどく怖くなった。
それは自分が思ったことだ。
恭弥さんも桃子さんも今を生きているかもしれない。会える可能性まで失ったと決まったわけではない。それでも、あの日の九歳の自分へ戻って、習いかけの続きを教わることはできない。叱られた次の日を過ごすこともできない。撮りそこねた写真はもう撮れない。
自分が口にしなかった悲しみを、身体を動かしているものが勝手に話している。
「そこまでは、久遠君が失くしたもんや」
はやての声がした。
「せやけど、今しゃべっとるんは誰や」
久遠の唇が笑う形になった。九歳の彼なら、この場でそんな顔はしない。
「久遠は知っている。誰かが困った時に手を伸ばせば、その人はもう苦しんでいる。助ける先には、いつだって不幸がある」
オーダーが一歩前へ出た。蒐集の呪いについて、彼が古い記録から確かめたことに似ている。
「それは主の善行と、他者の苦痛の順序をすり替えています」
「この子は、置いていけない。ストライクを置いていけず、身体を壊した。なのはたちが心配していれば自分が悪いと思う。助けようとするたび、新しい苦しみのあるところへ行く。そうやってここまで来た」
全部嘘だ、と久遠は言えなかった。
ストライクは自分が呼び戻した。身体が動かなくなったのも事実だ。だからあの時、間違っていたのだろうか。
ストライクが久遠の前へ出ようとする。光が彼の足を止めた。
「俺が帰ってきてよかったって、お前は言っただろ」
ストライクの声に、久遠は胸の奥で頷いた。言った。よかったと思っている。今もそう思っている。
なのに身体は同じ口で続ける。
「助けたくて戻した。苦しいのも、この子が選んだ結果だ。だったら久遠はもう、誰の前にも戻らなくていい。ボクがこの身体で、みんなのそばにいる」
河川敷の石が舞い上がった。はやての結界が外側から押さえ、なのはの防壁が住居の方へ飛ぶ分を受ける。魔力の反応は、久遠が不安を思い出すたび濃くなる。
「久遠が誰かを助けた時、その人はもう困ってたんだよ」
なのはは声を張った。
「ストライクが帰ってきてよかったって、久遠が思ったことも知ってる。無理をして身体を悪くしたことは、シャマルさんと一緒に考えなきゃいけない。でもそれで久遠の優しさまで悪いことにはならない」
久遠の身体は答えない。代わりに、なのはの足元へ石が一つ落ちた。脅すだけの距離だ。その先へ踏み込めば、今度は当てると分かる。
「今の久遠を置いていくわけにはいかない」
なのはが言う。オーダーは彼女を見た。主の意思を代わりに決める言葉ではないか、確かめるように。
「あなたが主の行き先をお決めになりますか」
「決めない。久遠が話せるところまで、一緒に戻りたい」
オーダーはそれ以上問わなかった。主の足を奪っているものと戦うのなら、彼女にもそこへ立つ理由がある。
◇
久遠は、なのはが話している間も自分の墓を思い出していた。
石には名前があった。伸ばした指は、石に触れられなかった。家の門は閉まっていた。墓も家も本当にそこにあった。なのはが来たからといって、九歳の日へ戻る道が生まれるわけではない。
なのはなら何とかしてくれる、とは思えなかった。
だから呼べなかったのかもしれない。図書館でも、今の河川敷でも。
口が動けば、また身体を操るものが自分の言葉を奪う。久遠は声を出すのを恐れた。自分の中を知っているものに、怖いとまで知られたくなかった。
なのはがレイジングハートを下ろした。
「久遠。図書館のあと、私たちはみんな大人になった」
知っている、と久遠は思う。知らない間にそうなった。病室で見た顔は、昔の写真にいた九歳のなのはではなかった。
「恭弥さんと稽古した日の続きも、桃子さんに叱られた日の続きも、昔の約束の写真も、私は返せない。あの日の友達を、そのままここへ連れてくることもできない」
呪いはその言葉を待っていたように、久遠の喉を動かした。
「ほら。帰れない」
「うん。あの日には帰れない」
なのはは否定しなかった。
「でも私、あの日あなたが目を覚ました時、帰ってきてくれて嬉しかった。久遠、言えなくてごめん」
久遠の視界が揺れた。
病室で彼女はヌメロンを探していた。それが最初に聞こえた。ヴィヴィオとアインハルトを心配する大人の顔をしていた。喜んでくれたとは知らなかった。
いや、本当は少しだけ分かっていたかもしれない。なのはは自分が謝るたびに、謝らないでと伝えようとしてくれた。怖がらせたことを気にしてくれた。でも自分は、言われなかった言葉の方をずっと覚えていた。
「ヌメロンが帰ってきたかも分からなくて、アインハルトが泣いてて、ヴィヴィオも不安で。私もどうしたらいいか分からなかった。だから、久遠にいちばん言いたかったことを言えなかった」
なのははゆっくり息をついた。
「大人になって、言わなくても伝わるって思ったの。伝わってなかった。私が言わなかったんだよ」
久遠は、なのはへ顔を向けたかった。身体の目は正面のままだった。
「今の久遠と、また友達になりたい。私が知らなかった山の家の話も、聞きたい。前と同じように話せるまで、ずっと待っているって言いたいんじゃない。あなたが怖いなら、怖いって聞きたい。今日、帰りたい場所が二つあるなら、二つとも聞かせてほしい」
言われたことを順に考える。山の家はある。自分が生きていた家もあった。いまは片方にしか戻れない。それでも自分がどちらを恋しがっているか、話していいのだろうか。
「うそだ」
久遠の口が言った。声はまた勝手に出ている。
「ここにはヌメロンがいる。娘を迎えに帰る父がいる。十年以上、誰も困らずに生きてきた。久遠には、もう出番がない」
「ヌメロンがいることも、本当だよ」
なのはは、彼と交わした視線を避けなかった。
「ヌメロンがアインハルトの父親でいたいと思ってきたことも、ヴィヴィオが助けられたことも、ナンバーズと過ごしたことも消さない。だから久遠が要らない、にはならない」
「久遠がいなくても、生きられた」
「うん。私は生きた。いないあなたを、戻ってくるまでずっと待ってたって言えない。でもあなたが帰ってきて、私は嬉しかった」
久遠には、その二つが両立すると思えなかった。なのはは、両方を口にした。昔の時間が終わったことも、自分が戻ったことを喜んだことも。
呪いは顔を動かさないまま、声だけで笑った。
「喜んだなら、どうしてあの日、言わなかった」
「言うべきだった。だから今、言ってる」
なのはは一歩近づいた。クェーサーが彼女の横で頁を防ぐ。久遠が倒れた時のため、ストライクは背後で手を開いたまま待つ。
「久遠。私を見られなくてもいい。私がここにいるから」
◇
久遠の喉の奥で、声が二つの形を取った。
ひとつは、みんなが生きているなら自分は邪魔だと言いたがる。もうひとつは、なのはにもう少し話してほしいと言いたがる。
どちらも、自分の中にある。
前の方が全部呪いで、後の方だけが本当の自分だとは言えない。あの日へ帰りたい気持ちは今もある。写真を撮れなかった悲しさは誰かを倒しても消えない。
だから、ここにいればみんなを困らせる、という結論まで自分で選んだことにはしたくなかった。
久遠は、身体が発する魔力を自分では使えない。今も掌を開けない。ただ、どの言葉を喉へ運びたいかだけは、まだ考えられる。
「帰れないなら、帰ってきてはいけなかった」
身体が先に話す。
なのはは首を振る。
「帰れない場所があるまま、ここにいていい。久遠が来てくれなきゃ、私は今の久遠に会えなかった」
久遠は息を吸おうとした。吸っているのは本当に自分か。喉を動かしているものに、また奪われるのか。
図書館の床を思い出す。血の匂い。倒れたあと、声を出そうとして出なかった時間。言えなかった言葉は、いつから心の中にあったのだろう。
あの時、怖かった。
今も怖い。声を出しても家は戻らない。写真も生まれない。自分が望みを口にすれば、大人になったなのはたちをまた困らせるかもしれない。それでも、話したい。
久遠の指先が、ヌメロンの服の袖に触れた。本人の力か、身体に残る糸か、そこにいる誰にも分からない。ヌメロンは先に離さず、握り返しもしないで待った。
久遠は首を向けようとした。ほんの少しだけ目線が動いた。呪いが顎を押し戻す。
なのはを見たい。
誰かを守りたいという願いが、これまではそのまま魔力の壁になって人を遠ざけた。今は、自分もその人たちと一緒に生きたい。それを伝える声は、誰にも代わってもらえない。
なら、自分で言うしかない。
「鬱陶しい!」
呪いが久遠の喉で吐き捨てた。なのはの声に耳を向けるたび、身体を動かす糸が緩む。クェーサーたちを庇う気持ちまで、奪ったはずの心の奥から湧いてくる。呪いは久遠の顎を引き、もう話させまいとした。
久遠は怖かった。自分が一緒にいたいと言えば、彼女たちはまた自分のために動いてしまう。それでも、皆の気持ちを先回りして、自分の望みまで消したくなかった。
「ボク、は……」
口から出た音に、久遠が一番驚いた。前の声のように滑らかではない。喉を擦る、小さな声だ。
なのはがその場で動きを止める。クェーサーの隣から、久遠を見る。
「久遠?」
喉が引きつる。身体を動かすものが、次の言葉を飲み込もうとする。
久遠は、息を吸った。九歳で終わった夜から置き去りにしてきた自分の明日を、初めて言葉にする。
「ボクは、みんなと生きていきたい」
久遠を離すまいとするように、身体の外の魔力がはじけた。
「うん。聞こえたよ、久遠」
なのはが防壁を立て直す。フェイトとはやても、久遠の方を見て頷いた。
クェーサーはなのはに届く頁を払い、久遠の肩へ手を添えた。主が自分の声で「生きていきたい」と言ったことを、確かに聞いた。
「承りました、久遠様」
オーダーの防壁が、久遠の背で膨れ上がる魔力を留める。なのはへ届く道を、仲間たちと一緒に守った。
「なのはさん。主を頼みます。身体は我らが支えます」
「うん!」
身体から呪いを引き離す。久遠自身が望んだ、皆と生きる明日のために。
◇
背中の光が、開いた本の頁のように幾重にも広がった。
写本そのものは塵になって消えている。今そこにあるのは、久遠の身体へ残った古い反応だ。はやての網が外側の頁を押さえる。中心の人間に触れるところへは、まだ踏み込まない。
「シャマル、二つの反応を見分けられる?」
『あの夜の診療で分かれた波形がある。ストライク君を呼んだ時から残る身体の負担と、それより前から写本にあった呪いの反応よ。今強くなっているのは後者。ただ、身体の中まで同じように切り分けられるとは思わないで』
「うん。身体ごと切るつもりはない」
はやては古い波形の位置を、オーダーへ共有した。
「その外側の糸だけ、陣に留められる?」
「試します。ただし内側は主が退いてくださらなければ、こちらから断てません」
オーダーは久遠へ顔を向けた。ようやく望みを口にした人に、また自分で何かをさせることになる。だが主の意思を飛ばして身体を引き裂く方法は選べない。
「久遠様。お一人で抜け出していただくのではありません。引く力は我らが受けます。あなたは、なのはさんの声を聞いていてください」
久遠が返事を出せないあいだに、ヴェロシティが川側へ回った。
「そっちの頁は俺が追う。速いのがあったら言え」
「左から来る」
フェイトが知らせる。ヴェロシティはその刃へ走り、フェイトは彼が一歩遅れる位置を埋めた。河川敷へ出てから合わせてきた二人の速度で、刃を追い詰める。
ストライクは久遠の後ろへ回った。無理に肩を押さえるのでなく、落ちる時に全体重を受ける場所を決める。ヌメロンの投影体が二人、ストライクへ届く前の刃を短い間だけ受ける。
「保つのか、それ」
「長くは。強いのを一度受けたら消える」
「十分だ。消えたら俺が受ける」
クェーサーが久遠の肩の高さに立った。彼女の輪郭はまたぶれている。いなくなりそうな怖さがあっても、身体を支える手を伸ばす。
「久遠様。足の力が抜けたら、わたくしがお支えします」
久遠は答えたい。帰りたい家がある、と言いたい。でも身体の奥で引っ張るものが強くなり、先ほど自分で動かせた目線も固くなる。
「声を、二度も使った」
呪いが久遠の喉で言う。
「呼んだ相手は守りに来る。傷つければまた苦しみが増える」
久遠は、なのはを呼んだことを後悔しかけた。助けに来て、なのはが怪我をしたら。自分のせいで――。
「久遠。私が決めて来たよ」
なのはの声が届いた。
「私は自分で病院へ来た。あなたの身体を追いかけたのも、自分で決めた。久遠が私を無理に連れてきたんじゃない」
久遠は思い出す。「忘れて」と言われても、なのはは病室から帰らなかった。「みんなと生きていきたい」と言う前から、ここまで一緒に来ていた。
望みを伝える前から、なのはは自分のそばに立っていた。
気づくと、肩から伸びていた糸の一本が緩んだ。
「今です」
オーダーがその糸を陣に留める。はやては人体と重なる位置を避け、外へ伸びた頁だけを囲んだ。なのはが小さな防壁を幾つも重ね、久遠と呪いの魔力の間へ空間を作る。
写本の残滓が反発した。クェーサーの手へ刃が走る。
久遠は、彼女が傷つくのを見たくなかった。身体の魔力が、またクェーサーを庇おうとする。そうすれば肩に掛かった糸が再び強くなる。
「わたくしは、自分で防げます」
クェーサーが言った。
刃を受ける防壁を自分で張り、久遠を支える手は退かない。
「あなたがわたくしを守ってくださることを、嬉しく思います。今はわたくしにも、あなたを守らせてください」
自分が動かなくても、彼女が防いだ。
それを見るまで、久遠はずっと誰かを守るために身体を動かさなければと思っていた。動かせない自分には何もない、とまで考えた。けれどクェーサーは、彼が壁を作らなくてもそこに立っている。
次の糸が緩む。
ヌメロンが彼の前へ出た。古い身体に重なっていた頃の自分の魔力と、今ここにいる自分の投影体は、もう繋がっていない。似た顔だからといって、一つの命令で一緒に動くこともない。
「久遠。アインハルトのところへ、ボクは帰る」
ヌメロンは、隠さず言った。
「君が帰ってきたからって、父をやめない。ボクの家で過ごした日も、彼女の父になったことも譲れない。でも、久遠がここからいなくなっていいとは思わない」
久遠の胸が痛んだ。ヌメロンに帰る家があるのは羨ましい。羨ましいまま、無事に帰ってほしいとも思う。
その二つを両方抱えていたら、だめなのだろうか。
ヌメロンは答えを急がず、久遠の横へ立った。昔の身体を元に戻すために奪おうとはしない。家に帰る人が、自分の足でここまで来ている。
外側へ伸びた糸がさらに緩んだ。
「今や!」
はやての網が、外へ押し出された古い反応を囲む。なのはは間に作った防壁を広げた。久遠の身体に触れている部分だけが、まだ残る。
「ストライク!」
「任せろ」
身体から力が抜ける瞬間、ストライクとクェーサーが背と肩を受けた。ヌメロンが頭を支える。三人が体重を引き受けたため、久遠は石の上へ落ちなかった。
オーダーの陣は、外へ伸びた写本の残滓だけを離さない。人間の身体の中に糸が残っているのは、全員に見えた。そこへ魔法を撃てば久遠も巻き込む。
久遠は息をした。身体を支えてもらっている。脚には力を入れられるが、今立てば崩れるほど疲れている。苦しいのに、さっきよりもはっきり分かる。
自分が生きている。
もう一度、なのはの方へ目を向けようとした。瞼がわずかに動く。今度は誰にも押し戻されなかった。
残った糸が、外へ抜けた。
瞬間、はやての網の中で黒い影が人の形に膨らんだ。久遠と同じ顔にはならない。幾枚もの頁が重なり、時おり腕や口のような形を作る。自分で名を持たない、写本に残った呪いの集合だった。
久遠の身体はストライクたちに支えられている。影はその外にいる。シャマルの画面でも、二つの反応が離れていた。
『今は離れている。でも、身体の負担が消えたわけじゃない。久遠君を動かさないで』
はやては頷いた。ここから呪いへ魔法を向けられる。やっと、その条件が揃った。
◇
影は河川敷の上へ広がり、網の端を破った。
離れたはずのものが、小さくなる気配はない。患者の身体という器を失い、むしろ魔力の広がる余地を得た。足場の石に黒い文字が浮かび、川面に何十枚もの頁が立つ。
「そっか。もうあの身体を傷つける心配がないんだ」
影が楽しそうに言った。次の瞬間、全員の頭上から頁の刃が降った。
なのはがレイジングハートを上げる。フェイトは彼女の前を横切って刃を斬り、はやての結界が川の向こうへ抜ける余波を閉じ込めた。先ほどまで手加減せざるを得なかった三人が、今度は真正面から魔力をぶつける。
散った頁は消えなかった。地面を這う文字になり、久遠の方へ走る。
「離れたなら、戻ればいい」
クェーサーが久遠の肩を支えたまま防壁を張る。ストライクは飛び込んできた文字を拳で砕いた。ヌメロンの投影体が二人の左右を埋め、ヴェロシティが川沿いを走って地面へ刻まれた線を踏み切る。
「本人には、指一本触れさせねえ」
ヴェロシティが言う。次の一歩を踏み出したところで、足下の石が消えた。代わりに、閉じた門と古い家の玄関が現れる。
久遠が意識のない間に見せられた景色だった。
「幻影です。足場はそこにあります」
オーダーの指示でヴェロシティが速度を戻す。だが久遠には、門の向こうの家がはっきり見えた。自分の墓まで道が続いている。さっきの戦いでようやく取り戻した身体から、息が一つ漏れる。
「見せなくていい!」
フェイトが光の刃で門を断つ。切れた向こうから、今度は病室が見えた。泣いているアインハルトがヌメロンを探す。なのはとフェイトとはやても、久遠の知らない未来の顔で立っている。
「あの時、君が帰ってきたせいで、みんな困った」
影が久遠の声を真似た。姿まで同じ大人の輪郭になる。顔の中だけが幾枚もの頁でできていて、目を合わせるたびに表情が入れ替わった。
「あなたが見せたものを、久遠が選んだことにしないで」
なのはの砲撃が幻影を貫いた。大人の久遠に似た顔も崩れ、影は川の上で笑い直す。
「選んだよ。あの子は身体を明け渡した。置いていかれたと分かって、何も言えなくなった。代わりにボクが話してあげたんだ」
「泣いて動けなくなった子から奪ったんだろう」
ストライクの声が低くなる。影の正面へ踏み込むと、黒い腕が三本伸びた。一本目を殴り、二本目を受け、三本目は久遠のいる方へ抜ける。ストライクは追おうとして止まった。久遠の背を預かっている。
「行ってください。こちらはわたくしが」
クェーサーが久遠を抱き寄せた。ストライクは彼女の防壁が閉じるのを見てから走る。三本目の腕を殴り抜くと、影は腕を捨て、上空へ開いた。
次は石でも頁でもない。魔力だけを固めた大きな身体が、河川敷を覆う。上に立つなのはの防壁が軋んだ。広さははやての結界に迫り、力を受け止める場所をひとつに絞らせない。
「あれを抜けたら病院まで行く」
フェイトの言葉にはやてが頷く。
「全域、閉じるで。オーダー、外へ逃げる細いのを頼む」
「承知しました。四方を分けていただければ、こちらで追跡します」
はやてが大きな陣を広げ、オーダーがその網目へ術式を通す。片方だけでは拾いきれない頁が、重ねた陣に捕まった。ヴェロシティは陣の継ぎ目に沿って走り、抜けようとする刃をフェイトの射線へ追い返す。ヌメロンの投影体がそのたびにひとつずつ砕けた。
呪いは一度、大きな身体を全部捨てた。
皆が広がりを追っている間に、黒い点だけが久遠の胸元へ飛んだ。オーダーの陣が反応するより早い。クェーサーが自分の手でそれを払う。袖ごと指先がぶれ、彼女が膝をついた。
「クェーサー!」
久遠の声だった。短くても、今度は本人の口から出た。
「ほら、また君のせいで彼女が傷ついた」
黒い点が彼らの前で久遠の顔に戻る。楽しそうに笑うその顔が、目の高さまで降りてきた。
「ボクだけを追い出せば済むと思った? 君が誰かを守りたがる限り、そこには不幸がある。君が何もしなくても、君を守るために人が傷つく」
久遠は唇を閉じた。クェーサーの袖が揺れている。彼女は防壁を張り直しているのに、自分の方は抱えてもらうことしかできない。
「謝ればいいよ。そうすればみんな優しいから、許してくれる。そのうちまた同じことをして、また誰かを不幸にする」
「久遠様のお声で、主を責めないでください」
クェーサーが身を起こした。影は彼女へ微笑む。
「君はこの子が動けなくても世話をしてくれた。いい子だね。けれど今の君には、守るだけの主が必要だ。もし元気になって、君を必要としなくなったら?」
クェーサーの防壁が一瞬揺れた。影はそこへ頁を差し込む。なのはが斜めから光を当て、頁だけを消し飛ばした。
「クェーサーがどう思うかは、クェーサーに聞くよ」
「じゃあ、この子にも聞きなよ」
影はまた久遠へ向く。
「君、帰ってきてよかったと思ってる?」
答えが出なかった。帰りたかった日には帰れない。代わりに自分の居場所を生きたヌメロンがいて、それは取り消してほしい出来事ではない。山の家にいた時も、いなくなりたかった気持ちは本当だった。
影はその沈黙を拾って笑う。
「ほらね。身体から離したところで、君の中にはボクが残っている。過去へ帰りたいと思うたび、ヌメロンが羨ましいと思うたび、誰かが傷つくと自分のせいだと思うたび、ボクは育つ。このまま呪いとして、お前は生き続けるんだよ」
久遠は目を伏せた。言い返すために過去を消すことはできない。
そのあいだも戦いは止まらない。影が久遠へ突っ込むたび、フェイトが軌道を変え、ヌメロンの投影体が受ける。攻撃を受けて薄くなった影は、散った魔力を河川敷の端から吸い上げてまた大きくなる。はやての結界がなければ、もっと遠くの不安まで拾っていただろう。
「本体がどれか、変わり続けとる」
はやては陣を張り直した。魔力体なら撃てるはずだった。それでも細かな欠片が残る限り久遠を狙い、全部を一度に撃とうとすると、影は広がって結界の外へ逃げる。
「一点に集める」
なのはが言った。
「今はまだ撃たない。フェイト、戻る線を切れる?」
「切れる。でもまた広がるよ」
「私がその先に壁を作る。オーダーさん、はやて、隙間を閉じて」
三人が頷き、ヴェロシティが外側の線へ走る。ストライクは影が久遠へ向かうたびに遮り、最後の刃を払ってからクェーサーの横へ戻った。二人で久遠の背と肩を受ける。ヌメロンは残った投影体をその周囲に置いた。
その配置を見て、影はまた笑った。
「何をしたって、最後はこの子がボクを呼ぶよ。ここにいれば過去を忘れなくて済む。君たちの今を見ないで済む。違う?」
久遠は小さく首を振った。否定したい言葉は見つからない。それでも図書館の席でひとりだった自分は、皆と生きたいと声に出した。その先には、今の皆がいた。
久遠は支えられたまま、息を整えた。喉が痛い。長い言葉など言える状態ではないと、自分でも思う。言うべきことを言わなければ、また誰かの口で自分の望みを決められてしまう。
なのはへ頼んだことは、まだ終わっていない。
「ボクは」
小さな声に、ヌメロンが顔を上げた。
久遠は無理に立とうとしない。ストライクに背を預け、クェーサーの手に支えられたまま、なのはの方を見る。
「ボクは、なのはの幼なじみでいたい。困った人がいれば、手を差し伸べる人でいたい」
一度、息をつく。フェイトが彼の近くへ来て、影の刃を防いだ。久遠はその背中を見て続ける。
「フェイトの隣に立ちたい。怪我をしたら、包帯を巻いてあげる人でいたい」
はやての網が二人の上を通る。昔、図書館で分からない文字を並んで読んだ時は、その隣へ明日も行けると思っていた。
「はやてと、読めない本を見ながら、一緒に料理を作れる人でいたい」
呪いの影がまた口を開く。久遠はそれを見た。怖さは消えない。それでも自分の声で、先を言う。
「ボクはヒーローでも呪いでもない。魔法も持たない、ただの溱久遠だ!」
言い終わると、肩が大きく上下した。クェーサーが背を支える。久遠は彼女の手が震えているのを感じた。
「オーダー、クェーサー、ヴェロシティ、ストライク。そしてヌメロン」
五人はそれぞれ別の位置にいる。かつてひとつの記憶を分けていた者たちが、今は自分の足でここに来た。
「あの夜、君たちにボクの名前をあげたことも、後悔してない」
ストライクは一度いなくなって、もう一度帰ってきた。ヌメロンには娘がいる。ヴェロシティは山道を自分で走り、オーダーが自分を迎え、クェーサーが今この身体を支えている。
「だからこそ今、ボクの可能性たちが人と出会って、祝福されて、ここにいる!」
オーダーが術式を押さえる手を止めないまま、目を閉じた。主が名を渡した夜の記録を、彼らは長いあいだ持っていた。記録の中でしか知らなかった久遠が、今は彼らを見て言った。
久遠は影へ向き直る。自分の寂しさを材料に、自分と同じ声で話したものだ。その言葉が痛かったのは、本当に失ったものがあったからだ。
「ごめん。呪いの君に、今回は名前をあげられない」
影が大きく伸びる。
「同じものから、あの五人は生まれた。ボクも君の願いを守っていただけだ。どうしてボクだけ追い出す」
「あの五人には、あの夜、ボクが名前をあげた。それからあの子たちは自分で人と出会って、違う道を歩いてきた。君にまでボクの名前をあげたら、またボクの代わりに『帰らない』って決めるだろ」
影が久遠に似た顔を剥がした。残った口がいくつも開く。
「お前が寂しいと思う限り、ボクがいる。あの日に戻りたいと言わなくなるまで、何度でもお前の中へ帰る。呪いを追い出した人間のつもりでいても、お前自身が呪いなんだよ」
久遠はすぐには言い返せなかった。寂しさは今日の戦いでなくならない。あの家も、撮れなかった写真も、戻らないままだ。
「寂しいよ。きっとこれからも思い出す」
はやての陣へ大きな腕が打ちつけられた。なのはが久遠の前に立ち、フェイトが腕の先を落とす。切ったそばから次の腕が生まれ、オーダーの術式を引き裂こうとする。
「でも、寂しいと思っただけで、君にボクの明日を決めさせたくない」
言葉だけで呪いが消えるとは思わない。久遠は、過去に帰れないことも、また誰かを助けたいと思う自分も、そのまま引き受ける。
「呪いは巡って、また辿りつく。ボクにも寂しい日は来るよ。でも、もうひとりで抱え込まない。みんなと希望を紡いで、何度でも歩き出す」
久遠はなのはを見た。彼女の手にある魔法は、自分にはない。だからあの日、一緒に戦えなかったのではなく、頼む言葉を出せなかった。
今は出せる。
「なのは、あとは頼んだ」
「うん。任せて」
影は一度全身をほどいた。何百もの頁になって、なのはへ向かうもの、病院へ向かうもの、久遠の胸へ戻ろうとするものに分かれる。なのはがひとつを撃てば、残りが逃げる。最後までそうやって選ばせるつもりだった。
「なのは、正面は任せろ!」
ストライクが久遠の背をクェーサーへ預けた。久遠へ戻る頁を拳で散らす。クェーサーは主の身体を抱えたまま、傷の残る手で防壁を立てた。ヌメロンの投影体が彼らの周りで消えては生まれ、戻る道をひとつずつ潰す。
「フェイト、川側を!」
「分かった!」
フェイトとヴェロシティが両岸から同時に駆けた。斬った頁が別の形に変わる前に、ヴェロシティが足場を削り、オーダーの陣へ押し込む。
はやては結界の外側を閉じ直した。病院へ伸びる文字が端に触れ、何度も跳ね返される。押し返す力が久遠へ流れないよう、オーダーがそのすべてを空の一点へ集めた。
「今です、なのはさん」
集められた影が、もう一度久遠の顔になった。
「撃てるの? この顔を」
なのはは真正面から見た。久遠の身体はクェーサーたちの腕にある。話したいと願った声も、今はあちらにある。ここにいるのは、彼の悲しみを知っている相手だ。だからこそ、その悲しみを勝手に久遠の名前にしてはならない。
「久遠は、ここにいる」
レイジングハートを構える。河川敷に散っていた魔力が、その先へ集まった。
影は最後に、まとまった全身を久遠の方へ投げた。フェイトが真正面で受け、はやてとオーダーの二重の陣がその後ろを閉じる。五人のクオンはそれぞれ自分の判断で、久遠と影の間に立った。
久遠は一度だけ息を吸った。声を出すのがつらくても、最後の名を、なのはと一緒に呼びたかった。
「「スターライト・ブレイカー」」
声は二つ。魔法は一つだった。
なのはの砲撃が、身体から切り離された影だけを貫く。はやての結界が余波を閉じ込め、フェイトが久遠の前へ出て光を受け止める。名前を持たない頁が一枚ずつほどけ、重なっていた声が消えた。
久遠は砲撃を撃っていない。誰かの魔法を借りて、身体の疲れが消えたわけでもない。ただ、自分の言葉で頼んだ。なのはがその先を引き受けてくれた。
光が収まると、川の音が戻った。
◇
久遠は膝から崩れた。
ストライクたちが受けていたため、地面へは落ちない。息はある。なのはが駆け寄ると、シャマルの声が通信から聞こえた。
『そこで無理に起こさないで。呼吸と意識を見て。移動の準備をするわ』
「うん」
なのはは頷いた。みんなと生きたいと言ってくれたからといって、今すぐ自分の足で帰れるほどの体力は戻らない。墓に刻まれた九年も、一晩で埋まるわけではない。
それでも久遠は、なのはの方を見ていた。
「……帰りたい」
声はかすれている。今度は誰のものか、なのはには分かった。
「うん。帰ろう」
どちらの家のことを言ったのか、決めつけない。なのはは久遠のそばに座り、彼が次に話せるようになるまで、ここにいた。