「……帰りたい」
久遠の声は小さかった。
なのはは彼のそばへ座ったまま、すぐには行き先を尋ねなかった。地球の家の門も、山の家の窓も、久遠の心に残っている。どちらか一方を答えにしてしまうと、もう一方がなかったことになる。
「先に、身体を診てもらおう」
なのはが言うと、久遠は目を閉じた。それだけで、息が少し乱れる。
「……うん」
クェーサーが肩を支え、ストライクは背中を受けている。久遠は足の指を動かしてみた。自分の思った通りに動く。ただ、膝を伸ばして立つには、戦いのあとの身体が疲れきっていた。
シャマルの声が通信から届く。
『呼吸は確認できているわ。意識もあるのね。水を飲ませるのは、ちゃんと飲み込めるか診てからにして。搬送班が着くまで、そのまま姿勢を支えてあげて』
搬送を待つ間にクェーサーが持ってきた水が、石の上にある。久遠はそれを見た。喉は渇いている。欲しいと言えばもらえると、今は分かっている。それでも彼女は医師の言葉を聞き、瓶の蓋を開けなかった。
「待てる?」
クェーサーが聞く。
「……うん。そこに、置いてて」
「はい。ここに」
ヴェロシティが川沿いの道を見に行く。搬送車が入れる位置を確かめ、結界の外で待つ人へ伝えるためだった。少し前まで、久遠を誰より先に見つけようと走っていた。今は、みんなが久遠を運べる道を選んでいる。
フェイトは、なのはの横へ腰を下ろした。
「久遠、痛いところは?」
「……よく、分からない」
「分からないままでいいよ。シャマルに会ってから、もう一度聞くね」
久遠は頷きかけ、止めた。首を動かすのも重い。フェイトはその途中で視線が合ったのを見て、それ以上返事を求めなかった。
堤防の上から、誰かが搬送具を下ろす音がした。なのはは久遠から離れず、目に入るものを一つずつ伝える。
「これから運んでもらう。オーダーさんたちも一緒だよ」
オーダーが傍らで頭を下げた。
「ええ。帰る道を、今度は我らがご案内します」
久遠は、意識だけで見た地球の墓を思い浮かべた。ここからは見えない。見えなくても、あの石がそこにあることは知っている。
彼はそれを知ったまま、支えてもらう手を拒まなかった。
◇
病院へ戻ると、シャマルが久遠の身体を改めて診た。呪いに無理に歩かされた脚には、筋肉の疲れが残っていた。
目を開けた時、見覚えのある天井があった。呪いの言葉を聞いた病室とは違う部屋だ。枕元に水の入った容器がある。青い栞を挟んだ料理本も、ベッドの近くへ戻されていた。
「おはよう」
シャマルだった。彼女の姿は、九歳の頃の記憶とあまり変わらない。久遠が目覚めた日、最初に名前を呼べた人だ。
「あの本、クェーサーが持ってきてくれたの。読むのは、もう少し休んでからにしましょう」
久遠は本の方を見て、頷いた。
「身体は?」
「呪いに関わるあの反応は、今の検査では見えていない。あなたが手足を動かそうとすれば、動くわ。長く動けなかった分、筋力と体力は落ちているし、昨夜の無理もある。急に走ったり、重いものを持ったりはしないで」
久遠は毛布の下で膝を曲げてみた。ゆっくりなら、足がついてくる。次に片手を上げる。途中で腕が重くなり、寝台へ戻した。
「自分で、動かせる」
「ええ。少しずつ動く時間を増やしましょう。疲れたら、その日は休むの」
シャマルは端末を伏せた。数値より先に、久遠本人へ向けて話す。
「立つ時間や歩く距離は、毎日確かめながら決めましょう。急いで昨日の動きを真似しなくていい」
「うん」
「昨日は、私があなたにもっと早く言っておくべきこともあったかもしれない。ひとりで声を出せない状態が、どう変わっているかを」
久遠は少し考えた。昔、はやてのことなら本人に話すべきだとシャマルへ言った。自分のことになると、なのはたちに話さないでと頼んだ。頼んだ時には、その方がみんなを困らせずに済むと思っていた。
「シャマルは、診てくれてた」
「ええ。今も診るわ。でも、言えないことを抱えたまま診察を終わりにしないでほしい」
久遠は本の端から出た青い紐を見る。
「ボク、もういいって、思ってた」
シャマルは黙って待った。
「動けなくなっても、みんなが動けるならいいって。そう言ったら、ほんとは怖いって、分かっちゃうから」
「怖かったのね」
「うん。いまも」
足が動いたからといって、怖かった日が消えるわけではなかった。目を閉じても、地球の墓の名前は思い出せる。それでも今の手足も声も、誰かに取られていない。
シャマルは、今日はどこまで身体を動かすか本人と相談して決めた。久遠が疲れたと言った時、そこで診察を止めた。
◇
昼過ぎ、ヌメロンが一人で来た。
病室の戸を閉める前に、久遠へ座っていいか聞いた。久遠が頷くと椅子を引く。道場でアインハルトと並ぶ時の背丈と、今ここで向かい合う時の背丈は同じだ。
「シャマルから、少し足を動かせたって聞いた」
「うん。曲げるのに時間はかかるけど、動いたよ」
久遠は毛布の下の膝を少し曲げてみせた。ヌメロンが、思わず椅子から腰を浮かせる。
「無理はしないで。見せてくれなくても信じるから」
「大丈夫。今は自分で止められる」
その言葉に、ヌメロンは黙った。昨日まで久遠の身体を動かしていたものが消えた。そのことを喜ぶだけなら簡単だが、久遠が眠っていた間、自分の家で積んだ時間は消えない。
「なのはたちに話したんだね。ボクは久遠が自分から言うまで、何を話すか知らなかった」
「うん。怖かったけど、話したかった」
「聞いてくれた?」
「みんな、聞いてくれたよ」
ヌメロンはほっとしたように頷いた。
「あの時、ボクはアインハルトの方へ帰った。君が目を覚ましてからも、何を言えばいいか分からなかった」
久遠は目を伏せた。アインハルトの泣き声を思い出す。自分に向けられた言葉も、なかったことにはできない。
「寂しかったよ」
ヌメロンは遮らなかった。
「君は、アインハルトのパパなんだろう。あの子が君を待ってたのも、今なら分かる」
「うん。ボクはそのつもりだよ」
「君が帰る家をなくしてほしいとは思わない」
「うん。ボクも、久遠が山の家に帰ることを嬉しく思う」
久遠は顔を上げた。似た顔なのに、自分が知っている九歳の時間とは違うものを、この人は持っている。羨ましさが消えたわけではない。それでも、今は自分の言葉を聞いてもらえた。
病室の外に、小さな通知音が響く。ヌメロンの端末が光った。アインハルトからの連絡だ。彼は画面をすぐには開かなかった。
「出て」
「久遠との話が終わってからでも」
「待ってるでしょ。君のこと」
ヌメロンは端末を見て、少し笑った。
「うん。終わったら帰るって約束してる」
前ならその答えだけで、自分の居場所がない証拠をまた一つ数えた。今も胸の奥が痛む。羨ましい気持ちはなくならない。
「ちゃんと帰ってね」
「帰る。そのあと、また君のところにも来る。来ていいかは、その時に聞く」
「うん」
久遠はヌメロンを見た。彼の家を、自分の昔の身体と引き換えに欲しがる必要はない。羨ましいまま、自分が今日眠る場所を決めていい。
ヌメロンが部屋を出ると、通知音の向こうで少女が彼の名を呼ぶのが聞こえた。声の主は久遠の病状を詳しく知らない。ただ、帰ってくる人を待っていた。
◇
オーダーたちとの話し合いには、久遠も参加した。
シャマルが時間を決め、久遠の疲れを見ながら病室で話す。オーダー、クェーサー、ヴェロシティ、ストライクの四人。なのはとフェイト、はやてもいた。人数が多いため、席を作っても全員は座れない。
「久遠様。もし途中でお疲れになったら、続きを別の日にします」
オーダーが最初に言った。
「今、聞きたい」
久遠は答える。急いで決めたわけではなかった。自分のことを、自分がいない場所で全部決められるのが嫌だった。
オーダーは立ったまま、なのはを見る。
「昨日の病室で、私は『相談して決める』というお言葉に安堵しました。お声とお顔が同じなら、主がそう望んでくださったと信じたかったのです」
久遠は黙って聞いた。病室で皆に返事をしていたのは、呪いだった。そのあいだ自分は図書館の席にいた。
「私の望む形に整った答えをいただいて、誰の願いか確かめるのが遅れました。あなたをお迎えしたあの日、失われた年月をご説明すると申し上げましたが、以後もあなたがお聞きになるより先に、必要だと思う情報を選んでいます。守るための判断でした。しかし主のお心まで知っていたわけではない」
「オーダーさんは昨日、久遠の身体を支えてくれたよ」
なのはが言った。病室から河川敷まで、誰かを遠ざけるためではなく、久遠が倒れないために術式を使っていた。
「ええ。あの時は、皆様に助けていただきました。私ひとりでは守れなかった」
オーダーは久遠へ向き直る。
「今後は、あなたのご負担を理由に、お尋ねする前から望みを決めません」
久遠はオーダーの顔を見る。迎えに来てくれた人が、当時の話を一度に押しつけなかったことは嬉しかった。でも自分がどんなに置いていかれたと思ったかは、話さずにいた。
「オーダーが『おかえり』って言ってくれたから、ついて行ったんだよ」
「存じております」
その答えに、久遠は少し首を傾けた。
「どうして?」
「あなたが家へ着いてからも、何度もその日を覚えておいででした。屋敷の最初の夜に『おかえりって、言ってくれたね』と、もう一度おっしゃったでしょう」
久遠は覚えていなかった。声を出せた日の自分が、そんなことを言っていたらしい。
「……そっか。嬉しかったんだ」
「私もです」
丁寧な言葉のまま、オーダーの声が少し柔らかくなった。
クェーサーがなのはの方を向く。
「病室で、あの声に『なのはたちを帰してほしい』と言われました。久遠様と屋敷へ帰れると聞いて、嬉しかったのです」
「そうだったんだね」
「でも、あの方は立ってはいけないお身体でした。嬉しいと感じたことと、あの声を信じることは別だと、気づけました」
クェーサーは久遠へ向き直った。
「昨日まで、わたくしは久遠様を皆様の目から隠しておきたいとも思っておりました。屋敷があなたにとって安全な家であってほしかった。けれど、あの呪いと向き合って初めて、家に誰を招くかまでわたくしが決めてはならないと分かりました」
なのはは何も言わず、二人を見ている。久遠は、昨日まで寝台のそばで水を替えてくれたクェーサーの手を見た。河川敷で傷ついても、その手は自分を支えてくれた。
「屋敷へお帰りになる時、なのは様たちにもお会いになりたいのでしたら、お迎えいたします」
「会いたい」
答えると、なのはが少しだけ顔を上げた。
「でも、今日はもう、疲れた」
「もちろんです」
クェーサーが椅子を引く。久遠に近づいていいか聞いてから、枕の位置を整えた。
ヴェロシティは立ち上がる。
「じゃ、続きは明日だ。家までの道は俺が見る。途中で歩くのがきつくなったら言えよ。車まで誰がつくかも決めておく」
「昨日も、見つけてくれたんだよね」
「ああ。呼んでも止まらなかったから、びびった」
久遠はその言葉を聞いた。いつでも速く動けるヴェロシティが、自分へ追いついたのに何もできないと思ったのだ。
「……ごめん」
「謝るところじゃねえ。俺が怖かったって話だ」
ヴェロシティが返す。久遠は何も言わず、彼の言葉をそのまま受け取った。
ストライクは病室を出る前に、久遠の足元を見る。
「道場へ戻ったら稽古がある。お前が来られるようになったら、そこに座って見てろ」
「ボク、今は長く立てないよ」
「知ってる。見てるだけでも来いって言ってる」
元に戻る日を約束してはいない。久遠はその言い方がありがたかった。
◇
はやては最後まで残った。
鞄の中に、古い封筒がある。彼女が地球の図書館で撮った、誰も座っていない机と椅子の写真。約束していた四人の写真は、どこにもない。代わりに何を残せばいいか分からず、ずっと前に一人で撮ったものだった。
「久遠君。これ、見るかどうかを聞いてもええ?」
はやては封を開けないまま差し出す。
「昔の図書館の写真や。君がおらんようになってから、私が撮った。みんなの写真やない」
久遠は封筒を見る。撮る約束をしたのに、撮れなかった。はやてが別の日に一人で図書館へ行ったことも、知らなかった。
「今は、見ない」
「分かった。持っとく」
はやてはすぐ鞄へ戻した。
「無くさないでね」
「任せとき」
「ボクも、あの本があるから」
久遠は青い栞の方を見た。はやてが昔から持っていた本だ。読めなくても、並んで料理の写真を選んだ日の手触りは残っている。
「料理、いつか一緒に作ろう」
「うん。でも、今の私は前より料理できるで」
「ずるい。ボク、読めないままなのに」
「それは本のせいや。字が読めるようになるまで待ったら、いつまでたっても食べられへん」
はやては笑った。久遠も少しだけ笑う。今は本を持って頁をめくるだけで疲れる。それでも「いつか」という言葉を、あの図書館の日ではなく、これからの日に置けた。
◇
フェイトが帰る前、久遠は呼び止めた。
「昨日、ボク、包帯を巻いてあげたいって、言ったよね」
「うん。覚えてる」
「今のボク、包帯をきれいに巻けないと思う」
「知ってるよ」
フェイトはベッドの横で膝を折る。彼を励ますために、大丈夫だと繰り返すのはやめた。
「怪我をしたら、久遠に言う。それで、巻けるかどうかを一緒に考える。できるようになりたかったら、私も練習につきあうよ」
「そういうのも、いいの?」
「うん。私は隣にいてほしい。包帯を巻ける日だけじゃなくて」
久遠はその答えを聞き、毛布の上で手を開いた。指は思う通りに動く。フェイトはその手の近くに自分の指を置き、久遠が触れるまで待った。
◇
病室へ戻ったなのはは、久遠の枕元に座った。
「地球のこと、ひとつ聞いてもいい?」
久遠は頷いた。いつか聞かれるだろうと思っていた。
「恭弥さんと桃子さんには、久遠が帰ってきたって、私から話そうか」
久遠はすぐに返事を出せなかった。
会いたくないわけではない。九歳の自分が知っていた二人に、会いたい。けれど自分の墓を見たばかりで、今の二人の前に何と言って立つのか分からない。身体が動いても、すぐ会いに行く覚悟はまだなかった。
「まだ、話さないでほしい」
「分かった」
「でも、ボクからも、なかったことにしたくない。二人が今どんなふうに暮らしてるか、先に教えてくれる?」
「うん。知ってることを話す。会うかどうかは、久遠が決めて」
なのはは約束した。久遠が自分で伝える前に昔の人たちへ会うことを決めない。久遠も、古い家の門の前へひとりで戻る必要はない。
なのはは今日は二人の昔の話をひとつだけした。久遠は途中で疲れたと言い、続きはまた聞かせてと頼んだ。
◇
何日かかけて状態を確かめた後、シャマルが山の家での療養を認めた。
脚は自分の意思で動く。最初は寝台の横で立つだけだったが、短い距離なら手を借りて歩けるようになった。長く歩いたり走ったりはまだできない。久遠が屋敷に戻りたいと言い、医師と家の者が休みながら帰る方法を一緒に考えた。
帰る日は、雨上がりだった。
ヴェロシティが先に山道の様子を見て、送迎車に知らせる。ストライクは久遠の横で、乗り降りの時にどちら側へ手を貸すかシャマルから聞いていた。クェーサーは飲み物と小さな毛布を用意する。オーダーは一階の部屋までの道を確かめ、久遠が疲れた時に途中で休めるようにしていた。
久遠は車窓の外を見る。
地球の門とは違う道だ。石段の数も、木の高さも、最近覚えたばかり。あの日、オーダーたちについて来なければ、自分にはまだ知らなかった景色だった。
胸の奥で、あの家へ帰りたい気持ちが消えたわけではない。父と母が待っていた玄関にも、恭弥さんや桃子さんに会いに行った頃にも、戻れない。今それを思い出しても、山道の方を見ていられた。
「疲れましたか」
クェーサーが聞く。
「少し。でも、もうちょっと、窓を見てたい」
「はい」
車はゆっくり坂を上る。
◇
玄関の戸を開けたのはオーダーだった。
久遠を迎えた日のように、彼は姿勢を正している。だが今日は失われた年月を説明するための資料を持っていなかった。
「おかえりなさいませ、久遠様」
前と同じ言葉だ。
久遠はクェーサーの腕を借り、玄関の敷居を自分の足で越えた。そこで立ち止まって、オーダーの声を聞く。最初にここへ来た時は、誰かが自分を迎えたことだけで、ついて行く理由になった。いまは屋敷の中で自分が何をしたかを知っている。青い栞を挟んだ本を開き、ストライクを呼び戻し、クェーサーが帰るのを待った。呪いに動きを奪われ、黙っていたこともある。
ここで過ごした日の全部が、自分のものだった。
「ただいま」
声を出すと喉が痛む。クェーサーが寝かせる部屋を指して、まず休むように言う。久遠は頷いた。
「ボク、この家にいたい」
ようやく自分の足で帰ってきた。それでも誰かの手を借りている自分が言うのは、少し怖い。オーダーは頷き、彼がまた言葉を探すのを待った。
「まだ、ひとりじゃできないことが多い。でも、それを理由に、出ていかないでいたい」
「もちろんです」
オーダーは迎えた日と同じように頭を下げた。そのあいだ、クェーサーは久遠の身体を支え続ける。ここにいたいという言葉で、必要な手助けまで消えたことにはしなかった。
廊下の向こうでヴェロシティが扉を押さえ、ストライクが荷物を運ぶ。誰かが久遠を支えている間、別の誰かは自分の用事へ戻っていく。四人ともこの家の中で暮らし続けている。
久遠のために止まった家ではなかった。だから、自分もここで明日を迎えたいと思えた。
◇
夕方、なのはから連絡があった。
今日はヴィヴィオが家で待っているので、なのはは自分の家から話している。久遠は画面の向こうの、昔の自分よりずっと大きくなった幼なじみを見る。
「着いた?」
「うん。いま、部屋」
「疲れてない?」
「ちょっと。シャマルに言ったよ」
「そっか」
なのはは安心したように笑った。彼女も帰ってきた人を迎える家がある。窓の向こうでヴィヴィオが何かを呼ぶ声がして、なのはは少しだけそちらへ顔を向けた。
その表情を、久遠は知らなかった。ヌメロンなら、もっとよく知っているだろう。
久遠は今でも少し寂しい。それを言わなければ、またなのはの表情を見ないようにするしかなくなる。
「なのはの知らないボクの話、していい?」
「うん。聞きたい」
「ボクも、いまのなのはのこと、知りたい」
なのはは画面の向こうで頷いた。
「じゃあ、明日また話そうか」
「明日、家に来てくれる? まだ長い時間は話せないけど」
「行くよ。久遠に会いに」
久遠は自分で連絡を終えた。指先は少し疲れていたが、最後の操作まで自分でできた。
机には料理本がある。青い栞が挟まっている頁を開くのは、明日でもいい。道場の写真には、ヌメロンたちの昨日が写っている。自分が撮りそこねた一枚と取り替えるための写真ではない。今ここで自分も撮りたいものができたら、その時に言えばいい。
廊下から、食事の支度をする音がした。
恭弥さんに教わりかけたことも、桃子さんに叱られた日も、久遠の中に残っている。あの頃の家へ帰りたい気持ちと、今この家で暮らしたい気持ちは、どちらも自分のものだ。
久遠は水の入った容器に目をやった。手を伸ばして注ぐには、今座っている位置から少し遠い。廊下へ声をかけた。
「クェーサー。水、こっちへ持ってきてくれる?」
「はい。ただいま」
返事が来る。頼むと誰かの時間を取る。久遠はそれを知っている。クェーサーも、自分で返事をしてここへ来る。持ってきてもらった水は、自分の手で飲める。久遠が待っていていいと知るには、何度もこうして声をかける日が必要なのだろう。
窓の外で、山の空が暮れていく。
久遠は明日なのはが来たら何を話そうかと考えながら、帰ってくる足音を聞いていた。
このエピローグをもって完結です。
ここまで久遠たちの帰り道を見届けてくださり、
ありがとうございました。