眠れなかった。
目を閉じるたび、階段の踊り場で交わした言葉が蘇る。
はやては、そんな助かり方を喜ばない。
その未来を、はやてに選ばせないのか。
正しいことを言ったつもりだった。
けれど久遠は、何一つ変えられないまま病院を出た。
ヴィータたちは止まらない。
なのはたちは、相手の正体を知らない。
はやてだけが、自分のために家族が傷ついていることを知らない。
明日になったら話す。
そう決めた。
だが、明日まで黙っていることも、結局は久遠が勝手に決めたことだった。
時計を見る。
午後十一時四十七分。
久遠は布団を跳ね除け、机の上の携帯電話を取った。
登録された名前から、高町なのはを選ぶ。
呼び出し音は一度しか鳴らなかった。
『久遠君?』
なのはの声は起きていた。
その背後で、風を切るような音が聞こえる。
「今、話せる?」
『うん。どうしたの?』
「闇の書のこと」
向こうの音が止まった。
『どうして、その名前を知ってるの』
「守護騎士に会った」
『いつ?』
「今日。病院で」
『病院……?』
「ヴィータも、シグナムも、シャマルも、ザフィーラも、はやての家族だ」
言葉にした瞬間。
なのはの息を呑む音が聞こえた。
「闇の書の主は、はやてだ」
『そんな……』
「はやては何も知らない。ヴィータたちは、はやてを助けるために頁を集めてる」
『それで、久遠君は今まで黙ってたの?』
責める声ではなかった。
だからこそ、苦しかった。
「今日、知った」
『そうなんだ』
「明日、はやてに話すつもりだった。でも、それじゃ駄目だと思った」
『うん』
「ごめん」
『どうして久遠君が謝るの?』
「もっと早く気づけたかもしれない」
『それを言ったら、わたしもだよ』
なのはの声が少し遠くなる。
『フェイトちゃん、病院の方角!』
『うん。大きな魔力反応が出てる』
フェイトの声だった。
久遠は立ち上がる。
「何が起きてるの」
『まだ分からない。でも、闇の書かもしれない』
「病院へ行く」
『駄目だよ。久遠君は家にいて』
「はやてがいる」
『だからだよ!』
なのはが強く言った。
『今度は、本当に危ないかもしれないの』
「今までも危なかっただろ」
『わたしたちには魔法がある。でも、久遠君には――』
言葉が途切れる。
「ないよ」
久遠は自分で続けた。
「分かってる」
『だったら』
「魔法がないと、友達を心配することもできないの?」
『そうじゃないよ』
「はやてに話すって決めた。今度こそ、逃げたくない」
しばらく返事がなかった。
やがて、なのはが小さく息を吐く。
『病院の中には入らないで』
「約束はできない」
『もう』
困ったような声。
いつものなのはなら、その後に少し笑う。
けれど今夜は笑わなかった。
『絶対に、一人で危ないところへ行かないで』
「なのはも」
『わたしは――』
「なのはも、約束して」
沈黙。
『できないよ』
「僕と同じだ」
『……うん』
通話が切れた。
久遠は上着を掴み、家を飛び出した。
◇
病院へ近づくほど、街から音が消えていった。
車が走っていない。
信号は動いているのに、交差点には誰もいない。
雪だけが、街灯の光を受けて降り続けている。
「結界……」
以前、なのはから教わった。
普通の人を危険から遠ざけるため、現実の街へ重ねて作られる魔法の空間。
久遠は走った。
息が切れる。
冷たい空気を吸うたび、喉が痛んだ。
病院は見えている。
あと一つ、交差点を渡れば着く。
そのはずなのに。
横断歩道を渡り終えると、久遠は同じ交差点の手前に立っていた。
「何で……」
もう一度走る。
また同じ場所へ戻る。
病院は目の前にある。
入口の明かりも見える。
それなのに、距離だけが縮まらない。
結界が、魔力を持たない久遠を外へ押し出している。
「入れろ!」
見えない壁を叩く。
手のひらに何の感触もない。
ただ、次の瞬間には数歩後ろへ戻されている。
「はやてが中にいるんだ!」
答えはなかった。
空を白い光が横切る。
続いて、金色の光。
なのはとフェイトだ。
二人は病院の上空で別れ、それぞれ違う方向へ飛んでいく。
赤い光が白い光を迎え撃った。
紫の閃光が金色とぶつかる。
遠く離れていても、誰が戦っているのか分かった。
「やめろ……」
ヴィータと、なのは。
シグナムと、フェイト。
事情を知っても、戦いは止まらなかった。
止まれないところまで来ていた。
◇
『ヴィータちゃん!』
レイジングハートの光が、鉄槌の一撃を受け止める。
衝撃が夜空を揺らした。
『話を聞いて! はやてちゃんのこと、知ったの!』
「だったら、邪魔すんな!」
ヴィータはグラーフアイゼンを振り抜く。
「はやてを助けるには、闇の書を完成させるしかねえんだ!」
『完成させても、はやてちゃんは助からないかもしれない!』
「助かる!」
『どうして言い切れるの!』
「あたしたちが、そうするからだ!」
赤い魔力弾が放たれる。
なのはは防御障壁で受け、爆煙の中から叫んだ。
『はやてちゃんに聞こうよ!』
「何も知らねえくせに!」
『知らなかったよ! 久遠君が教えてくれるまで、何も!』
ヴィータの鉄槌が止まる。
「久遠が……?」
『ヴィータちゃんたちが、はやてちゃんの家族だって。はやてちゃんを助けたいんだって』
「あいつ……!」
『でも、久遠君は止めたいんじゃない。みんなで助かる方法を探したいんだよ!』
「そんな方法があるなら、とっくにやってる!」
『まだ探してない!』
なのはの声が、夜空を貫いた。
『はやてちゃんに話して、みんなで探してない!』
ヴィータの顔が歪む。
怒りではなかった。
迷いだった。
その一瞬を狙うように、黒い影が背後へ現れた。
「ヴィータちゃん、後ろ!」
なのはが叫ぶ。
ヴィータが振り向くより早く、仮面の男の手が胸へ突き刺さった。
「が……っ」
血は出なかった。
代わりに、赤い光が胸から引き抜かれる。
ヴィータの魔力の核。
リンカーコア。
「返して!」
なのはの砲撃が放たれる。
だが仮面の男は、ヴィータの身体ごと闇へ沈んだ。
「はや、て……」
最後に残った声も、黒い頁へ吸い込まれる。
夜空から、赤い光が消えた。
◇
病院の上空で黒い柱が立ち上がった。
久遠の足元が揺れる。
見えない壁に、亀裂のような光が走った。
一瞬だけ。
病院へ続く道が、まっすぐにつながる。
久遠は考えずに走った。
また閉じるかもしれない。
今度こそ入れないかもしれない。
肺が痛い。
足が重い。
それでも止まらなかった。
病院の入口を抜ける。
受付には誰もいない。
非常灯だけが、廊下を青白く照らしている。
エレベーターは動かない。
久遠は階段へ向かった。
一段飛ばしで駆け上がる。
はやての病室がある階。
廊下の奥で、扉が開いていた。
「はやて!」
病室は空だった。
ベッドの上に、外国料理の本だけが残されている。
風もないのに頁がめくれた。
挟まれていた青い栞が床へ落ちる。
久遠はそれを拾った。
窓の外で、黒い光が瞬く。
屋上。
根拠はなかった。
けれど、そこにいると分かった。
久遠は再び階段へ飛び出した。
◇
「シグナム!」
フェイトがバルディッシュを構えたまま呼びかける。
「もう戦う必要はない。闇の書の侵食を止める方法を、みんなで探そう」
「我らに残された時間はない」
シグナムの剣が炎を纏う。
「主はやての命も、もう長くは保たない」
「だからって、シグナムたちがいなくなったら、はやては喜ばない!」
「分かっている」
静かな答えだった。
「分かっているからこそ、知らせることはできない」
「それは、優しさじゃない」
フェイトは言った。
「大切な人に選ばせないのは、一人にするのと同じだよ」
シグナムの目が見開かれる。
久遠が問いかけた言葉とは違う。
けれど、突きつけているものは同じだった。
その背後に、黒い影が立つ。
フェイトには見えていた。
「シグナム、避けて!」
金色の刃が振り下ろされる。
仮面の男は片手で受け止めた。
もう一人の仮面が、シグナムの胸へ手を伸ばす。
「くっ……!」
レヴァンティンが翻る。
炎の斬撃が仮面を掠めた。
だが、遅かった。
紫の光が引き抜かれる。
「主、はやて……」
シグナムの身体が黒い頁へ変わる。
フェイトが手を伸ばす。
指先は届かなかった。
頁だけが、夜の中へ散っていった。
◇
屋上へ続く扉は開かなかった。
久遠は取っ手を何度も引いた。
「開け!」
肩からぶつかる。
鈍い痛みが走る。
それでも、もう一度。
「はやて!」
扉の向こうで、何かが砕ける音がした。
続いて、はやての声。
「ヴィータ……?」
弱く、震えていた。
久遠は扉を叩く。
「はやて! 僕だ! 開けて!」
返事はない。
「シャマル……シグナム……ザフィーラ……?」
一人ずつ、家族の名前を呼ぶ声。
そのたびに、黒い魔力が扉の隙間から溢れ出す。
「違う! はやて、聞いて!」
久遠には、屋上で何が起きているのか見えない。
それでも分かった。
はやてが、一人にされようとしている。
「なのはとフェイトは、そんなことしない!」
扉の向こうで、誰かが笑った。
男とも女ともつかない声。
『お前には、何が分かる』
「誰だ」
『魔力を持たぬ者に、真実は見えない』
「見えなくても知ってる!」
久遠は扉を殴った。
「なのはは、誰かを助けるために戦う! フェイトは、大切な人を奪ったりしない!」
『だが、主は見た』
「見せたんだろ!」
返事の代わりに、激しい衝撃が扉を揺らした。
久遠の身体が階段まで弾き飛ばされる。
背中を壁に打ちつけた。
息ができない。
視界が白くなる。
それでも、床へ手をついて立ち上がった。
扉に細い亀裂が入っている。
久遠はもう一度走った。
「はやて!」
肩をぶつける。
亀裂が広がる。
「一人で決めるな!」
もう一度。
「一人で諦めるな!」
肩の感覚がなくなる。
「僕たちに、話して!」
三度目。
扉が外側へ倒れた。
◇
屋上には、雪が降っていなかった。
空を黒い雲が覆っている。
その中心に、はやてがいた。
車椅子から投げ出され、冷たい床へ座り込んでいる。
周囲には誰もいない。
ヴィータも。
シグナムも。
シャマルも。
ザフィーラも。
家族の姿だけが消えていた。
「はやて」
久遠が呼ぶ。
はやては顔を上げた。
涙で濡れた目が、久遠を見る。
「久遠君……」
「こっちへ来て」
「みんなが」
「分かってる」
「なのはちゃんと、フェイトちゃんが」
「違う」
久遠は迷わず否定した。
「二人はそんなことしない」
「でも、私、見たんよ」
「見せられたんだ」
久遠は一歩ずつ近づく。
はやての足元には、黒い本が浮かんでいた。
最後の頁へ、四つの光が吸い込まれていく。
「僕は今日、ヴィータたちから全部聞いた」
「全部……?」
「闇の書のことも。はやてを助けるために戦ってたことも」
はやての表情が止まる。
「知っとったの?」
「今日、知った」
「なんで、言うてくれへんかったん」
「ごめん」
「私だけ、何も知らんかった」
「ごめん」
「みんな、私のために……」
「でも、まだ終わってない」
久遠は手を伸ばした。
「なのはとフェイトがいる。ユーノも、アルフも、クロノもいる。僕には魔法がないけど、それでも一緒に考える」
「もう、みんなおらん」
「取り戻す」
「どうやって」
「分からない」
嘘は言わなかった。
「でも、分からないまま諦めたくない」
「それに、まだ一つも終わってない」
「何が?」
「はやてが治ったら、みんなでしたいこと」
図書館のいつもの席へ戻る。
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料理を作る。
全員で写真を撮る。
みんなで出かける。
ノートに書いたどの項目にも、まだ印はついていない。
「今、そんな話……」
「今だからだよ」
久遠は手を伸ばしたまま言う。
「帰ってきたら、続きを決めよう」
あと数歩。
はやての手に届く。
そのとき、黒い本が閉じた。
重い音が屋上に響く。
――頁、完成。
声が聞こえた。
はやてのものではない。
冷たく、感情のない声。
――主の悲嘆を確認。
――覚醒条件を充足。
「待て」
久遠は走った。
黒い帯が床から伸びる。
はやての身体を包む。
「久遠君!」
伸ばされた手を掴もうとする。
指先が触れた。
ほんの一瞬。
けれど、握る前に黒い光が二人の間で弾けた。
久遠の身体が宙へ浮く。
屋上の端まで吹き飛ばされる。
「く……っ」
柵へ背中を打ちつける。
目を開く。
はやてが黒い光の中へ沈んでいく。
「はやて!」
「久遠君!」
二人が同時に手を伸ばす。
もう届かない。
久遠には、空を飛ぶ翼がない。
闇を切り裂く魔法もない。
名前を呼ぶことしかできない。
「はやて!」
何度呼んでも、黒い光は止まらなかった。
はやての輪郭が消える。
代わりに、長い銀色の髪を持つ女性が現れた。
黒い衣を纏い。
背には三対の翼。
その手には、完成した闇の書がある。
顔は、はやてによく似ていた。
けれど瞳には、何も映っていない。
「はやて……?」
久遠が呼ぶ。
女性は静かに手を上げた。
黒い魔力が集まる。
『久遠君!』
白い光が降りた。
なのはが久遠の前へ立ち、防御障壁を展開する。
直後、黒い砲撃が屋上を飲み込んだ。
白い障壁が軋む。
「なのは」
『動かないで!』
「あれは、はやてなの?」
なのはは答えられなかった。
金色の光が隣へ降りる。
フェイトだった。
その顔を見れば、何が起きたのか分かる。
シグナムを救えなかった。
ヴィータも。
誰も間に合わなかった。
「僕が、もっと早く話していれば」
『違うよ』
なのはが障壁を支えたまま言う。
『久遠君のせいじゃない』
「でも」
『今は、はやてちゃんを助ける』
白い光に亀裂が走る。
『話は、それからなの』
なのはは振り返らなかった。
その背中は小さい。
久遠と同じ九歳の子供だった。
それでも、今度も久遠を守る側に立っている。
「まただ」
声が震える。
「また僕だけ、守られてる」
『久遠君』
「何をすればいい」
『ここから離れて』
「それ以外で」
『お願い』
なのはが初めて振り返る。
笑っていなかった。
泣きそうな顔だった。
『久遠君まで傷ついたら、わたし、戦えないよ』
その言葉に、久遠は何も返せなかった。
残ることは、支えることではない。
今ここにいれば、なのはの守るものを増やすだけだ。
分かってしまった。
分かっても、足は動かなかった。
はやてを置いていけない。
なのはたちだけを戦わせたくない。
けれど久遠には、二人の隣へ立つ力がない。
フェイトが久遠の前へ手を伸ばした。
『アルフに送ってもらう。結界の外で待っていて』
「待つだけ?」
『帰る場所を守ってほしい』
「そんなの、誰にでもできる」
『久遠にしか頼めない』
フェイトはまっすぐに言った。
『はやてが戻ったとき、魔法と関係のない友達が待っていたら、きっと安心するから』
黒い砲撃が止む。
銀髪の女性が空へ浮かぶ。
足元から黒い雲が広がり、街を覆い始めた。
時間がない。
久遠は青い栞を握りしめた。
「絶対に、連れて帰って」
『うん』
なのはが答える。
『約束するの』
自然に出た言葉だった。
久遠は頷く。
「約束」
アルフの転送魔法が足元に広がる。
光に包まれる直前、久遠はもう一度だけ空を見た。
長い銀髪の向こうに、はやての姿を探す。
見つけられなかった。
声も届かなかった。
久遠はまた、写真の外へ出されるように、戦場から消えた。
それが正しいと分かっている。
残れば、誰かを困らせるだけだった。
それでも胸の奥には、どうしても消えない痛みがあった。
魔法がない。
力がない。
助けたい人へ、手が届かない。
あの夜、久遠は初めて願った。
もしも自分にも、何か一つだけ力があったなら。
誰かを倒す力ではなく。
誰かの代わりに戦う力でもなく。
ただ、届かない場所へ手を伸ばせる力が欲しいと。
その願いを。
遠い暗闇の中で、名前のない何かが聞いていた。