少し長めの8000文字超。日常会。
秋の風が、トレセン学園のグラウンドを吹き抜けていく。
夏の名残を残していた日差しも、いつの間にか少しずつ穏やかになっていた。
「……ぬーん」
芝生の上に、ナイトクラウンが転がっていた。
両腕を広げ、空を見上げている。頭の上では、白と黒の飾りが風に揺れていた。
「もう無理。今日はここまで。私の脚は今、人生について考えたいと言ってます」
「脚に意思を持たせるな。まだメニューの途中だぞ」
新城智也は、手元のメニュー表から顔を上げることなく答えた。
「ですがトレーナーさん。考えてみてください。限界まで走ったウマ娘に、さらに走れと言う。これはもう、ウマ娘に対する冒涜では?」
「さっきの一本を走る前にも似たようなことを言っていたな」
「それはそれで、これはこれです」
「じゃあ、今日のアイスはなしだな」
「やっぱウマ娘って走るために生まれてきたと思うんですよね」
即答だった。
ナイトクラウンは勢いよく上半身を起こすと、芝生を払って立ち上がった。
「私の脚はまだ走れます。むしろ今、未来への希望に満ちあふれています」
「さっきまで人生について考えていたんじゃなかったのか?」
「考えた結果、アイスのある人生が素晴らしいと判明しました」
「そうか。じゃあ、もう一本」
「……人の心とか、ないんですか?」
「こんなに優しいトレーナー捕まえて何言ってる」
新城はようやく顔を上げ、悪びれもせずに笑った。
ナイトクラウンは何か言い返そうとして、結局、口を閉じた。
ここで食い下がっても、メニューが減るわけではない。ならば、さっさと走って終わらせたほうがいい。
そう判断すると、彼女はトラックへ向き直った。
「……よし。見ていてください、トレーナーさん。華麗なるナイトクラウンの復活劇を」
「いつも華麗に走ってくれれば助かるんだがな」
「そこはほら、物語には起伏が必要なので!」
「自分の練習を物語にするな」
軽口を交わしながらも、ナイトクラウンはスタート位置についた。
先ほどまでのふざけた様子は、もうない。
彼女はトラックの先を見据え、呼吸を整えた。
その様子を、少し離れた場所からウインバリアシオンが眺めていた。
「……切り替え、早いっすね」
「ふふ。クラウンは、ああ見えて真面目だからね」
隣に立つフジキセキが、穏やかな声で答える。
「普段から、もう少しちゃんとしていればいいんですけど」
「それじゃあ、クラウンらしくないんじゃない?」
「それは……そうかもしれないっすけど」
バリアシオンは、走り出したナイトクラウンへ目を向けた。
軽い足取り。無駄のないフォーム。周囲の状況を見ながら、最後まで力を配分する走り方。
派手さだけなら、もっと目を引くウマ娘はいる。
けれど、ナイトクラウンには彼女なりの強さがある。
ただ速く走るだけではなく、周囲の動きを見て、どこで動くべきかを判断する。自分の力をどう使えば勝利につながるのか、考えながら走ることができる。
その判断が、レースの中で何度も彼女を助けてきた。
それを知っているからこそ、ウインバリアシオンもまた、負けてはいられなかった。
「私も、もう一本走ってくるっす」
「頑張ってね、シオンさん」
「はい!」
バリアシオンは一度だけ深く息を吸い、トラックへ駆けていった。
その後ろ姿を見送りながら、フジキセキは小さく笑った。
賑やかな後輩たちがいる。
黙々と自分の課題に向き合う後輩もいる。
そして、少し先に大きな舞台を控えながら、相変わらずマイペースな後輩もいる。
チームの空気は、以前よりずっと活気に満ちていた。
◇
「……なんだか、ずいぶん賑やかになったね」
練習を終えたウマ娘たちがそれぞれ休憩に入った頃、フジキセキは新城の隣に腰を下ろした。
「そうだな。最初の頃は、もう少し静かだったんだが」
「それ、クラウンに聞かせたら喜びそう」
「なぜだ?」
「自分がチームを盛り上げているって思うんじゃないかな」
「実際、盛り上げてはいるだろう。別の意味でも」
「ふふっ、違いないね」
二人の視線の先では、ナイトクラウンがウインバリアシオンに何かを熱弁していた。
身振り手振りを交え、時折、自分の胸を叩いている。
対するウインバリアシオンは、困ったような顔をしながらも、話を聞いていた。
「……あれは何の話をしているんだ?」
「さて。今日のお昼ご飯か、次のお休みの予定か、それとも世界の平和についてか」
「最後だけ急に話が大きくなったな」
「クラウンなら、ありそうじゃない?」
新城は否定しなかった。
その少し向こうでは、シンボリクリスエスが黙々とストレッチをしている。周囲の騒がしさに気を取られる様子もなく、自分の身体と向き合っていた。
一方、ヒシミラクルはベンチに座り、タオルを頭からかぶっている。
そんなヒシミラクルに新城が話しかける。
「……ミラクル、寝るな」
「寝てないですよぉ……」
タオルの下から、気の抜けた声が返ってきた。
「なら、そのタオルを取ったらどうだ?」
「まぶしいんです……」
「日陰だぞ、ここ」
「心が……」
「心?」
「心が、まぶしいんです……」
新城はフジキセキを見た。
フジキセキは、笑顔で首を横に振った。
「私に聞かれても困るかなぁ」
「わかってる」
ヒシミラクルは、タオルの隙間から二人をちらりと見た。
「……お二人って、本当に長い付き合いなんですね」
何気ない一言だった。
新城が返事をするより早く、フジキセキが口を開く。
「私がトゥインクルシリーズの時からだからね」
「へえ……」
ヒシミラクルは納得したように頷いた。
その横で、新城が小さく息を吐く。
「……フジ」
「なに?」
「いや、何でもない」
「ふふっ」
フジキセキは笑った。
新城は、それ以上何も言わなかった。
そのやり取りの意味を、ヒシミラクルが深く考えることもなかった。
彼女にとって今、もっと大きな問題があったからだ。
「……ところで、菊花賞って長いですよね」
「急に現実に戻ってきたな」
「だって三千メートルですよ? 三千。どこまで走ればいいんですか」
「距離は決まっているぞ」
「そういう話じゃなくってぇ……」
ヒシミラクルは、再びタオルをかぶった。
菊花賞。
クラシック三冠の最後を飾る、大きな舞台。
そこへ挑むウマ娘が、すぐ目の前にいる。
いつも通りの、どこか頼りない姿。
けれど、その胸の内にあるものまで、いつも通りとは限らなかった。
「スタミナが心配ならプールトレーニングするか」
「ひええ!!それだけはご勘弁を!!!」
◇
ナイトクラウンがデビュー戦を制してから、しばらくの時が過ぎた。
彼女はその後も勝利を重ね、出走したレースを三連勝で飾っていた。
もっとも、本人は勝利を重ねても、相変わらずだった。
「いやあ、困りましたねぇ!」
レース後の控室。
ナイトクラウンは椅子に座り、腕を組んでいた。
「何が困ったんだ?」
新城がタオルを差し出しながら尋ねる。
「ファンの皆さんが、私の魅力に気づき始めているようで」
「そうか」
「これは責任重大です。次のレースでは、さらに素晴らしい走りをお見せしなければなりません」
「その意気だな」
「そして勝利の暁には、ご褒美アイスを二個!」
「一個だ」
「交渉の余地は?」
「ない」
「では、せめて大きいものを」
「サイズによるな」
「よし、交渉成立です!」
「まだ何も成立してないぞ」
新城は苦笑しながら、彼女の隣に腰を下ろした。
ナイトクラウンは受け取ったタオルで汗を拭きながら、ふと、手元を止めた。
「……トレーナーさん」
「ん?」
「今日のレース、最後の直線で外に出していたら、どうなっていましたか?」
先ほどまでの軽い調子とは、少し違う声だった。
新城は彼女を見た。
「外に出していたら、前の子をかわすまでに時間がかかっただろうな。今日の展開なら、内を選んだのは正解だった」
「やっぱり、そうですよね」
ナイトクラウンは頷いた。
今日のレースは、決して楽なものではなかった。
直線に入る頃には、前を走るウマ娘たちが横に広がり、進路が塞がれかけていた。
外へ出せば、前をかわすために距離を使う。
内へ潜れば、わずかな隙間を見極めなければならない。
焦って進路を変えることもできた。
けれど、彼女は一瞬だけ待った。
前のウマ娘の脚色が鈍り、内側に生まれた小さな空間。
そこへ踏み込んだ判断が、最後の伸びにつながった。
「前が詰まったとき、少し迷ったんですよね。でも、あそこで焦って外へ出なくてよかったです」
「そうだな。よく我慢した」
「えへへ……」
褒められたナイトクラウンの口元が緩む。
しかし、すぐに表情を引き締めた。
「ただ、仕掛けるタイミングは、もう少し早くてもよかったかもしれません。前が開いてから加速するまで、ほんの少し待ってしまったので」
「そこに気づいているなら、次はもっとよくなる。進路が開く前から、周りの動きを見て準備しておくんだ」
「なるほど……。開いてから飛び込むんじゃなくて、開く瞬間に飛び込めるようにしておく、と」
「そういうことだ」
「ふふん。次はもっと華麗に決めてみせます!」
「華麗さより、まずは確実にな」
「そこは両立できるはずです!」
「……まぁ、判断そのものは悪くない。あとは、判断を走りにつなげるまでの精度を上げていこう」
「はい、トレーナーさん!」
返事は明るく、迷いがなかった。
新城は頷き、レースの記録を確認する。
ナイトクラウンは勝った。
けれど、勝ったことだけで満足しているわけではない。
どこがよかったのか。何が足りなかったのか。
それを自分なりに考え、次へつなげようとしている。
「……何ですか?」
「いや。自分の判断を、ちゃんと振り返っているんだなと思って」
「当然です!」
ナイトクラウンは胸を張った。
「私のレースですから。走っている最中に考えるのも、終わってから考えるのも、大事なことです」
「まぁ、その通りだな」
「考えすぎてお腹が空くという問題もありますが」
「それはいつもだろう」
「否定できません……」
彼女は神妙な顔で頷いた。
新城はとうとう笑った。
ナイトクラウンも、つられるように笑う。
勝ったから、すべてがうまくいったわけではない。
けれど、勝ったからこそ見える課題がある。
今の彼女は、その一つひとつを確かめながら前へ進んでいた。
「……これからも、見ていてくださいね」
ふと、ナイトクラウンが言った。
いつもの冗談めいた調子ではなかった。
新城は彼女の顔を見て、静かに頷いた。
「もちろんだ」
「……はい!」
ナイトクラウンは、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
そして次の瞬間には、もう別のことを考えているらしかった。
「ところで、アイスは?」
「あぁ。帰りにな」
「やった!」
「一個な」
「大きいやつですね!」
「サイズによる」
「交渉は続いている……!」
控室に、いつもの声が響いた。
◇
ウインバリアシオンもまた、次のレースで勝利を手にしていた。
デビュー戦で見せた末脚は、今回も健在だった。
前半は焦らず、周囲の動きを確かめながら位置を取る。
勝負どころで進出し、直線では持ち前の脚力を発揮する。
最後まで脚を伸ばし、先頭でゴールを駆け抜けた。
これで二戦二勝。
結果だけを見れば、順調そのものだった。
レース後、ウインバリアシオンは息を整えながら、トラックの向こうを見つめていた。
勝てたことは、素直に嬉しい。
けれど、今日の走りに満足しているわけではなかった。
最後の直線で、もう少し早く動けていたら。
あの位置取りなら、もっと楽に仕掛けられたのではないか。
勝利の喜びと、次へ向けた反省。
二つの感情が、彼女の中に並んでいた。
「シオン!」
声をかけてきたのは、ナイトクラウンだった。
「おめでとう! いやあ、見事な末脚だったね!」
「ありがとうっす。クラウンも、この前のレースはおめでとう」
「ありがとう!!」
ナイトクラウンは胸を張り、すぐに笑顔を見せた。
「これで私が三勝、シオンが二勝。つまり、今のところ私が一歩リード!」
「……そういう数え方をするんすか?」
「勝負の世界は非情なのだよ…」
「まだ同じレースで勝負したわけじゃないっすよ」
「細かいことは気にしない!」
「いや、そこは気にするでしょ」
バリアシオンは呆れたように笑った。
ナイトクラウンは、そんな彼女の様子を見て、ふっと表情を和らげた。
「でも、シオンの走り、すごかったよ。最後まで脚が止まらなかった」
「……そう?」
「うん。私だったら、あの仕掛けはもう少し迷ったかも」
思いがけない言葉だったのか、バリアシオンは少しだけ目を見開いた。
ナイトクラウンは、相手をからかうような顔ではなかった。
ただ、レースを見た者として、感じたことを伝えている。
「次に走るときも私は負けないから。」
そう言って、彼女は右手を差し出した。
バリアシオンはその手を見つめ、やがて笑って握り返した。
「望むところっす。次は私が先に勝つっす」
「ふふん。言ったね?」
「クラウンこそ、覚悟しておくっすよ」
二人は手を離し、互いに笑った。
同じチームの仲間。
同じ時期にデビューし、それぞれに勝利を重ねていく同期。
そして、いつか同じ舞台で競い合うかもしれないライバル。
まだ、その未来は少し先にある。
それでも二人は、確かに同じ方向を見ていた。
◇
ウマ娘たちの活躍は、少しずつ周囲の目にも留まるようになっていた。
学園内では、ナイトクラウンとウインバリアシオンの名前を耳にする機会が増えていた。
「最近、よく名前を聞くようになったね」
食堂で昼食をとりながら、ヒシミラクルが言った。
「そうなんですか?」
ナイトクラウンは、箸を止めた。
「うん。新聞にも載ってたよ。二人とも、なかなか期待されてるみたい」
「ほほう……」
ナイトクラウンは、どこか遠い目をした。
「ついに来ましたか。世間が私の魅力に気づく日が」
「また始まったっすね……」
隣のバリアシオンが、小さくため息をつく。
「いや、でも実際に名前が載るのはすごいことだと思いますよ。これからもっと注目されるでしょうし」
ナイトクラウンは、今度は真面目な顔で新聞を見た。
自分の名前。
自分の成績。
そして、これからの可能性について書かれた言葉。
まだ大きな実績を残したわけではない。
それでも、誰かが自分の走りを見て、次を楽しみにしてくれている。
そのことは、彼女にとって素直に嬉しかった。
「……期待してもらえるのは、嬉しいな」
ぽつりとこぼした言葉に、バリアシオンが顔を向けた。
「クラウン?」
「だって、次も見たいって思ってもらえるってことでしょ? だったら、次もちゃんと走らなきゃ」
ナイトクラウンは新聞を畳んだ。
「もちろん、勝つけどね!」
「結局そこに戻るんすね」
「勝ちたいですから!」
今度の返事には、ふざけた響きはなかった。
バリアシオンは、その横顔を見て頷いた。
「私もっす。せっかく見てもらえるなら、いい走りをしたいっすから」
「うん。お互い頑張りましょう!」
二人は顔を見合わせた。
その様子を、少し離れた席からフジキセキが眺めていた。
勝利を重ねること。
名前を覚えてもらうこと。
期待されること。
どれも、走り続けるウマ娘にとって大切なものだ。
けれど、それらが増えるほど、背負うものも少しずつ増えていく。
そのことを、フジキセキはよく知っていた。
「……フジ先輩?」
視線に気づいたナイトクラウンが、こちらを向いた。
「どうかしました?」
「ううん。二人とも、いい顔をしているなと思って」
「ふふん、当然です!」
ナイトクラウンが胸を張る。
「次のレースでも、皆さんの期待に応えてみせます!」
「うん。楽しみにしているよ」
フジキセキは笑った。
その言葉を聞いたナイトクラウンは、一瞬だけ照れたように視線をそらし、それから再び胸を張った。
「任せてください!」
その隣で、バリアシオンも小さく笑っていた。
◇
そんな二人とは別に、ヒシミラクルの秋も近づいていた。
菊花賞。
クラシック三冠の最後を飾る、三千メートルの長距離レース。
出走を控えた彼女は、いつものようにどこか気の抜けた様子で過ごしていた。
ただ、いつもと違うところもあった。
練習が終わっても、すぐには帰らない。
少し長めにストレッチをして、脚の状態を確かめる。
トレーナーから渡された資料にも、以前より目を通すようになっていた。
誰かに見られていると気づけば、すぐにいつもの調子に戻ってしまうのだけれど。
「ミラ子先輩、今日も残ってたんですね」
ナイトクラウンが声をかけると、ヒシミラクルは肩を跳ねさせた。
「ひゃっ!……クラウンさん、急に話しかけないでくださいぃ」
「すみません。そんなに驚くとは思わなくて」
「集中してたんです。珍しく」
「珍しくって、自分で言うんですね……」
「そこは否定できないので」
ヒシミラクルは、手に持っていた資料を閉じた。
表紙には、菊花賞に関する文字が並んでいる。
「……もうすぐですね、菊花賞」
ナイトクラウンが言うと、ヒシミラクルの顔から少しだけ笑みが消えた。
「はい」
「楽しみですか?」
「……ちょっと怖いですね」
あまりにも率直な返事だった。
ナイトクラウンは、思わず言葉を止めた。
ヒシミラクルは資料を胸元に抱え、少し困ったように笑った。
「三千メートルって、やっぱり長いじゃないですか。途中で疲れたらどうしようとか、最後まで走りきれるかなとか。考え始めると、いろいろ出てきちゃって」
「……そうですよね」
「それに私、どこにでもいる普通のウマ娘ですから」
ナイトクラウンは、すぐに励ましの言葉を口にしなかった。
自分ならどうするだろう。
大きなレースを前に、不安を感じたとき。
きっと、自信があるように振る舞う。
笑って、冗談を言って、心配などしていないように見せるかもしれない。
けれど、それで不安が消えるわけではない。
「でも、ミラクルさんは、そのために練習してきたんですよね?」
「……はい」
「だったら、今までやってきたことを信じて、走るしかないんじゃないでしょうか。もちろん、私が言うのも偉そうですけど」
ナイトクラウンは、少しだけ苦笑した。
「私だって、レースの前に不安になることはあります。そんなときは、今まで練習してきたことを思い出すんです。できることを、一つずつやっていこうって」
ヒシミラクルは、彼女を見つめていた。
いつもの調子なら、ここでナイトクラウンは何か冗談を言って、話を明るく終わらせていたかもしれない。
けれど、今は違った。
相手の不安を、無理に笑い飛ばそうとはしなかった。
「……ありがとうございます、クラウンさん」
「いえ。でもそもそも普通のウマ娘はクラシック三冠にそもそも挑戦できないのでは…」
ナイトクラウンは笑った。
「あ、そうだ!それに、私たちも応援に行きますよ。ね?」
「えっ?」
振り返ると、少し離れたところに新城が立っていた。
「菊花賞は、チームのみんなで見に行く予定だ」
「トレーナーさんも?」
「もちろん」
ヒシミラクルは、驚いたように目を瞬かせた。
「……皆さん、来てくれるんですか?」
「当たり前だろ。チームの仲間が走るんだからな」
新城は、いつもの調子で答えた。
ヒシミラクルは、しばらく何も言わなかった。
やがて、手元の資料を見下ろし、小さく息を吐いた。
「……そっか」
それから顔を上げる。
「じゃあ、しっかり走らないとですね」
「うん。頑張ってね、ミラクルさん」
ナイトクラウンが笑顔を向ける。
「……はい。できるだけ頑張ります」
「できるだけ、ですか?」
「だって、頑張りすぎて疲れたら困るじゃないですかぁ」
「そこは頑張りましょうよ!」
いつものやり取りに戻り、ナイトクラウンが声を上げた。
ヒシミラクルは笑い、新城も苦笑する。
それでも、彼女が手にした資料を、先ほどよりもしっかりと抱えていたことに気づいた者は、いなかった。
◇
夕方。
練習を終えた学園の空は、薄い橙色に染まっていた。
窓の外を眺めながら、フジキセキは温かい飲み物を手にしていた。
「今日も、みんなよく頑張っていたね」
「ああ。クラウンもシオンも、いい経験を積めている。ミラクルも、少しずつ気持ちが固まってきたようだ」
「そうだね」
フジキセキは、コーヒーの入ったカップを両手で包んだ。
「こうして見ていると、秋が来たんだなって思うよ」
「夏が終わったばかりだからな」
「この季節、好き?」
何気ない問いかけだった。
新城は少し考えてから、窓の外へ視線を向けた。
「……嫌いじゃないな」
「昔も、同じことを言っていたね」
「……そんなことまで覚えているのか」
「覚えているよ。トモさん、昔からそういうところは変わらないから」
「どういうところだよ」
「さあね?」
フジキセキは、楽しそうに笑った。
新城は呆れたように息を吐いたが、その表情はどこか柔らかかった。
フジキセキは再び窓の外へ目を向ける。
グラウンドには、まだ練習を続けているウマ娘たちの姿があった。
それぞれが、それぞれの目標を見つめている。
勝利を重ねる者。
自分の課題を探す者。
大きな舞台を前に、不安と向き合う者。
同じ秋を過ごしていても、その胸にある思いは一つではない。
「……菊花賞、楽しみだね」
フジキセキが言った。
「ああ。ミラクルの晴れ舞台ちゃんと見に行かないとな」
「うん」
フジキセキは微笑んだ。
その目には、後輩たちの走りを楽しみにする先輩としての優しさがあった。
そして、長い時間をともに過ごしてきた相手にだけ向ける、穏やかな親しさも。
新城は、それに気づいているのかいないのか、ただ静かに窓の外を眺めていた。
秋は深まっていく。
ナイトクラウンとウインバリアシオンは、次の目標へ向けて走り続ける。
ヒシミラクルは、迫る大舞台を前に、自分の心と向き合っていた。
そして、それぞれの秋は、次の一歩を待っている。
菊花賞。
その日が、少しずつ近づいていた。
【次回予告】
第七話 菊花賞
三千メートル。
長く、険しいクラシック最後の舞台。
「……やっぱり、長いですよねぇ」
そうこぼしていたヒシミラクル。
自分はどこにでもいる普通のウマ娘。
特別な才能があるわけでもない。
それでも、彼女はこの舞台に立つ。
不安も、迷いも、きっとある。
それでも、ゲートが開けば走るしかない。
秋の京都を舞台に、個性豊かなウマ娘たちが激突する。
そして、誰もが予想しなかった結末が待っていた。
クラシック最後の菊の冠。ヒシミラクルの挑戦が、今始まる。
次回は少し間が開きます。予定では2週間後の水曜、もしくは火曜日に。