秋の京都。
空を覆う雲は厚く、細かな雨が競バ場の芝を濡らしていた。
京都競バ場、芝三千メートル。
クラシック三冠、その最後の一冠を懸けた戦い。
菊花賞。
この舞台に立つことを夢見てきたウマ娘たちが、今、スタートの時を待っていた。
歓声が響く。
数多くの視線が、ゲートに収まったウマ娘たちへと注がれている。
その中に、一人のウマ娘がいた。
ヒシミラクル。
クラシック最後の冠。
彼女に対する周囲の評価は、決して高いものではなかった。
春のクラシックを彩った実力者たち。
夏を越えて成長した新星たち。
そして、三千メートルという長丁場でこそ真価を発揮すると期待されるウマ娘たち。
話題の中心は、彼女たちだった。
「ヒシミラクルなぁ……」
観客席の一角。
新聞を広げていた男性が、ぽつりと呟く。
「この子、いいと思うんだけどなぁ」
隣に座っていた観客が、少し不思議そうな顔をした。
「おっちゃん、そんなに気になるのか?」
「うん。前から、いいんだよね」
男性は新聞を畳むと、再び競バ場へ目を向けた。
その表情は、冗談を言っているようには見えなかった。
「頑張れよ、ヒシミラクル……!」
周囲の喧騒に紛れ、その声は誰にも届かなかった。
けれど、男性の視線だけは、ずっと彼女を追い続けていた。
◆
「……三千メートル、か」
トレセン学園。
モニターの前で、新城智也は腕を組んでいた。
映し出されているのは、菊花賞の出走表。
その横には、チームのウマ娘たちが集まっていた。
「長いですよねぇ、三千メートルって」
「クラウン、モノマネ微妙に上手いのちょっとウザいっす」
ナイトクラウンがヒシミラクルの真似をしてぼやく。
準備中のヒシミラクルがいればそう漏らしただろう。
しかし、今ここにいるのは、チーム全員。
「クラシック三冠の最終戦。春の二冠とは、また違った適性が問われる舞台ですね」
ウインバリアシオンが、真剣な表情で画面を見つめる。
「距離が延びれば、単純なスピードだけでは勝てません。スタミナはもちろん、仕掛けるタイミングや、道中での位置取りも重要になります」
「そうだな」
新城は頷いた。
「三千メートルを、ずっと全力で走れるウマ娘はいない。どこで力を使い、どこで我慢するか。その判断が最後に響いてくる」
「ふぅん……」
ナイトクラウンは、椅子の背もたれに腕を預けながら、モニターを眺めていた。
「つまり、最後まで我慢できた子が勝つってこと?」
「それだけじゃないさ」
新城は答えた。
「我慢するだけなら、誰だってできる。問題は、勝負どころで動けるだけの力を残しておけるかどうかだ」
「あと内枠なのはラッキーだな。2番の位置。かなりついてる」
「へぇ」
ナイトクラウンの口元が、わずかに上がった。
「面白そうじゃん」
ナイトクラウンの視線は、出走表の中の一人に向いていた。
その様子を見て、フジキセキがふと口を開いた。
「……そういえば私も昔、似たようなことを考えたな」
「え? フジさんも?」
ナイトクラウンが振り返る。
フジキセキは、懐かしむように目を細めた。
「うん。自分の得意な距離と、そうじゃない距離。その違いをどう埋めるか、ずいぶん考えたものだね」
「へぇ。フジさんにも苦手な距離ってあったんですか?」
「もちろん。どんな舞台でも、いつもどおりに走れば勝てる、なんてわけにはいかないさ」
フジキセキは笑った。
けれど、その笑みの奥には、かつての苦労を思い返すような色があった。
「私の場合は、距離が延びるほど、自分の走りだけじゃ押し切れなくなった。速く走ることと、最後まで速く走り続けることは、似ているようで違うんだ」
「……最後まで」
ナイトクラウンが呟く。
「そう。最初から飛ばせば、最後に苦しくなる。かといって、ずっと我慢しているだけじゃ、勝負どころで前に出られない」
フジキセキはモニターに目を向けた。
「だから、考えたんだ。どこで脚を使うのか。どこで周りの動きを見るのか。自分の強みを活かすには、どう走ればいいのか」
「それで、どうしたの?」
「何度も試したよ。うまくいかないこともあったし、思いどおりに走れないこともあった。でもね」
フジキセキは、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべた。
「苦手だからって、最初から諦める理由にはならないだろう?」
ナイトクラウンは、少しだけ目を丸くした。
「……やっぱり、かっこいいです」
「そうかな?」
「うん。すごくかっこいい」
「あはは、ありがとう」
二人のやり取りを聞いていた新城が、静かに口を挟んだ。
「ただし、苦手なものを得意なものに変えられるとは限らない。自分の限界を知ることも、勝負では大切だ」
「もちろん」
フジキセキは頷いた。
「だからこそ、自分に何ができるのかを考えるんだよ。苦手を克服するのか、それとも別の武器で補うのか。答えは、ウマ娘によって違うからね」
その言葉に、ウインバリアシオンが小さく頷いた。
「自分の適性を理解したうえで、勝つための方法を探す……。大切なことですね」
「そういうこと」
フジキセキがウインクした後、再びモニターを見つめた。
「さて。今日のヒシミラクルは、どんな答えを出したんだろうか?」
ナイトクラウンも、画面へと視線を戻した。
三千メートル。
長い長い道のり。
その先にあるものは、走ってみなければわからない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
どんなウマ娘にも、そのウマ娘にしかできない走り方があるのだ。
そして今日、その答えを見せようとしているウマ娘がいた。
◆
ヒシミラクル。
チームの先輩である彼女について、ナイトクラウンは詳しいことを知らない。
だが、だからこそ興味があった。
自分とは違う走りをするウマ娘が、どんな景色を見ているのか。
どんな考えで、あの長い距離を走り抜けるのか。
「クラウンは、どの子が勝つと思う?」
フジキセキが尋ねた。
「んー……」
ナイトクラウンは少しだけ考えた。
「さあ。走ってみなきゃ、わかんないと思いますよ?」
「ふふっ。それはそうだね」
フジキセキは微笑んだ。
「でも、わからないからこそ、レースは面白いんだよね」
モニターの向こうで、菊花賞のファンファーレが鳴り響いた。
◆
京都競バ場。
雨は止まない。
芝は水分を含み、空気はひんやりとしていた。
ゲートの中。
ヒシミラクルは、静かに呼吸を整えていた。
――三千メートル。
長い。
正直に言えば、ちょっと長い。
走る前からそんなことを考えてしまう自分に、彼女は小さく苦笑した。
「……ま、なんとかなる」
自分に言い聞かせるように呟く。
周りのウマ娘たちは、誰もが集中していた。
ヴァリアント。
オープンレースで幾度も勝利を重ね、クラシック期にして宝塚記念三着。
イダテング。
京都新聞杯を制した実力者。波こそあるものの、噛み合ったときの強さは侮れない。
どちらも、ヒシミラクルにとっては簡単に勝てる相手ではない。
そして
「さぁ、天下取りの仕上げよ!」
「ダービーではギムレットに遅れをとったがこの菊では不在!」
「ならばワシに敵なしじゃ!なっはっはっ!!」
ノーリーズン。
今年の皐月賞ウマ娘。
菊花賞、最有力。
そう言われている実力者。
対して自身はデビューからなかなか勝てず、それでも諦めなかった。
その結果、この舞台に立てた。
今年のダービーウマ娘、タニノギムレットが不調のため、出走しなかったのは幸いなのだろうか。
◆
観客席。
様々な人々と沢山の声が飛び交い、やや悪天候の中でも熱気が収まらない。
「今回は間違いなくノーリーズンだろう」
「いやいや、今日のヴァリアントは違うぞ」
「ノーリーズンだろ。ギムレットいないしさ」
「……うーん。やっぱり気になるんだよなぁ。ヒシミラクル」
「ヒシミラクルはなぁ、あんまり目立たないしでどうだろう」
まもなくレースが始まる。
そんな観客達の期待がゲートへと集中する。
◆
鋭い眼差し。
張り詰めた空気。
今から始まる戦いに向けて、全身の神経を研ぎ澄ませている。
その中で、ヒシミラクルはどこか普段どおりだった。
クラシック最後の大舞台、緊張していないわけがない。
失敗したくないし……でも、勝ちたい。
だけど、今から考えたところで、脚が速くなるわけでもない。
ならば。
自分にできることを、やるだけだ。
「……よし」
小さく息を吐く。
耳を澄ませば、観客の声が聞こえてくる。
その中に、自分の名前を呼ぶ声があったような気がした。
気のせいかもしれない。
けれど、ほんの少しだけ、背中を押されたような気がした。
そして。
ゲートが開いた。
◆
一斉に飛び出すウマ娘たち。
「のわああああああ!?!?」
突如叫び声が響き渡る。
<<ああっと!?ノーリーズン転倒!濡れた芝に足を取られたか!!盛大に前転している!!>>
競バ場が一気にどよめく。
「お、おのれ…図ったなギムレット!?」
ノーリーズンは即座に飛び起き走り出す。
既にしんがりとはかなり距離が空いてしまったが
「諦めてなるものかあああ!!」
ノーリーズンは先頭を追いかける。
◆
雨に濡れた芝を蹴り、各々が自分の位置を確保しようと動き始める。
先行するウマ娘たちが前へ。
中団を狙う者たちは、周囲の動きを見ながら隊列を整える。
そして、ヒシミラクルは。
慌てなかった。
無理に前へ出ようとはしない。
周りに流されることもない。
自分の呼吸を確かめながら、少しずつ位置を定めていく。
――まだ、始まったばかり。
三千メートル。
最初から飛ばしてしまえば、最後に脚が残らなくなる。
それは、彼女自身が理解していることだった。
「……うん。いい感じ」
自分のリズムを保ちながら、彼女は走る。
前方では、各ウマ娘が位置取りを巡って駆け引きを繰り広げていた。
誰が先頭を取るのか。
誰がその後ろにつくのか。
どこで動き、どこで力を温存するのか。
一つひとつの判断が、後の勝負を左右する。
けれど、ヒシミラクルは焦らなかった。
今、無理をする必要はない。
自分がやるべきことを、きちんとやる。
それだけだ。
雨粒が頬を伝う。
呼吸は乱れていない。
脚の感触も悪くない。
「……よしよし」
思わず、小さく頷いた。
その様子を見た者がいれば、レース中だということを忘れているのではないかと思ったかもしれない。
けれど、彼女の意識は確かにレースへ向いていた。
ただ、その向き合い方が、少しばかり彼女らしいだけだった。
◇
スタンドでは、歓声が絶え間なく響いていた。
「先頭が入れ替わったぞ!」
「ヴァリアントだ!」
先頭集団の中で、ヴァリアントが前へ出る。
雨に濡れた芝を蹴り、長い脚を伸ばして走る。その表情に焦りはない。三千メートルという長丁場で、早々に勝負を決めようとしているわけではなかった。
あくまで、自分のリズムを守る。
それが、ここまで戦ってきた彼女の走りだった。
「……前に出たからには、そうは譲らない」
ヴァリアントが小さく呟く。
その後方では、イダテングが前を見据えていた。
「へえ。あの位置を取りにいくんだ」
口元に浮かぶのは、かすかな笑み。
「でも、まだ先は長いよ。そんなに急いで大丈夫かな?」
聞こえているのか、いないのか。
ヴァリアントは答えない。
ただ、一定のリズムで走り続けていた。
三千メートルの長い戦い。
序盤の位置取りが落ち着いても、勝負は終わらない。
むしろ、ここからが本当の戦いだった。
一周。
二周。
コーナーを抜けるたび、隊列が少しずつ変化する。
先頭を走るウマ娘たちは、後続の動きを警戒する。
後方のウマ娘たちは、前との差を測りながら機会をうかがう。
そして、イダテングもまた、じっと動くべき時を待っていた。
「……焦る必要はない。仕掛ける場所さえ間違えなければね」
前方を見据えたまま、呼吸を整える。
その視線の先には、先頭集団。
そして、そのさらに先にあるゴール。
その中で、ヒシミラクルは淡々と走り続けていた。
派手な動きはない。
大きく位置を上げるわけでもない。
けれど、彼女は確実に、前へ進んでいた。
「……まだかな」
心の中で呟く。
苦しさがないわけではない。
長い距離を走り続ければ、当然、疲労は積み重なっていく。
それでも、彼女は自分の脚を信じていた。
今まで走ってきた距離。
積み重ねてきた練習。
何度も繰り返してきた、地味で、退屈で、それでも欠かせない日々。
そのすべてが、今の自分を支えている。
だから。
まだ、走れる。
「……大丈夫。たくさん走ってきたんだから」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
◇
「……動いた!」
モニターの前で、ウインバリアシオンが声を上げた。
レースは終盤へ。
勝負どころを迎え、ウマ娘たちが次々と動き始めていた。
それまで温存していた力を解き放ち、前を行く者たちへと迫っていく。
「ここからですね」
ウインバリアシオンの瞳が鋭くなる。
「仕掛けが遅れれば届かない。でも、早すぎれば最後に脚が止まる……」
「そう。難しいところだね」
フジキセキも画面を見つめていた。
そして。
ナイトクラウンは、黙っていた。
いつもの軽口はない。
ただ、画面の中のヒシミラクルを見つめていた。
彼女は、決して目立つ位置にいたわけではない。
少なくとも、ここまでのレースで、観客の視線を一身に集めるような走りはしていなかった。
だが。
「……へぇ」
ナイトクラウンが、小さく呟いた。
ヒシミラクルが、動き始めていた。
それまで保っていたリズムを崩さず、しかし確実に、前との差を詰めていく。
派手な加速ではない。
一瞬で周囲を置き去りにするような、圧倒的な脚でもない。
それでも、彼女は前へ進む。
前へ。
さらに前へ。
「なるほどね……」
ナイトクラウンの目が細くなる。
「こういう走り方も、あるんだ」
新城は、彼女の横顔を見た。
「何か気づいたか?」
「んー、まだわかんない」
ナイトクラウンは答えた。
「でもさ、ミラ子先輩、ちゃんと自分のタイミングで走ってる」
「……そうだな」
新城は画面へ視線を戻した。
「周りに合わせるんじゃなく、自分の走りを崩さずに、勝負どころまで力を残してきたんだ」
長距離戦では、それが大きな武器になる。
どれだけ能力があっても、力を使う場所を間違えれば、最後に勝つことはできない。
ヒシミラクルは、ここまで自分の走りを続けてきた。
そして今。
その積み重ねが、結果を左右しようとしていた。
◇
京都競バ場。
最後の直線。
歓声が、ひときわ大きくなる。
先頭を走るヴァリアント。
その後ろから、ヒシミラクルが迫っていた。
「ヴァリアントが先頭! しかし、後方からヒシミラクルが追い上げてきた!」
ヴァリアントは前を見据え、懸命に脚を動かす。
「まだ……まだだ!」
ここまで守ってきた位置。
簡単に譲るつもりはない。
しかし、その背後にヒシミラクルが並びかける。
「……くっ!」
ヴァリアントの視界の端に、白い影が映る。
ヒシミラクルが、ヴァリアントを躱す。
先頭が入れ替わった。
「おおおおっ!」
観客席から、どよめきが上がる。
ここまで目立たなかったウマ娘が、今、勝負の中心へと躍り出た。
脚は残っている。
呼吸は苦しい。
身体のあちこちが、もう限界だと訴えている。
それでも。
ヒシミラクルは、走る。
「……まだ!」
前へ。
ただ、前へ。
そのときだった。
<<外からイダテングだ!イダテングが来た!!>>
観客の声が響く。
大外。
一人のウマ娘が、ものすごい勢いで迫ってきていた。
イダテング。
前を走るウマ娘たちをまとめて飲み込むような、鋭い末脚。
「ここからだよ……!」
残り100m。
イダテングが地面を蹴る。
その速度は、明らかに違っていた。
ヒシミラクルとの距離が縮まる。
一バ身。
半バ身。
<<外からイダテング!!ヒシミラクルに迫る!!>>
ヒシミラクルの視界に、外から迫る影が映る。
「……えっ!?」
驚く暇もない。
呼吸は荒く、脚は重い。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
「……まだ、走れる!」
ヒシミラクルは、もう一度地面を蹴った。
その瞬間。
「頑張れえええええっ!」
観客席から、ひときわ大きな声が響いた。
先ほどの男性だった。
立ち上がり、両手を握り締め、全身で声援を送っている。
「ヒシミラクル! 頑張れ! あとちょっとだ!」
隣の観客が、あまりの叫びに驚いたように目を丸くした。
「!?」
彼はただただ、ヒシミラクルを応援している。
勝つと信じていたからなのか。
彼女の走りに惹かれていたからなのか。
あるいは、その両方なのか。
理由は、本人にしかわからない。
けれど、その声援は確かに、雨の降る競バ場に響いていた。
◇
残り、わずか。
ヒシミラクルが先頭。
外からイダテングが迫る。
並んだ。
それでも、ヒシミラクルは前を向いていた。
イダテングもまた、最後の一歩まで脚を伸ばす。
「届けえええっ!」
二人の距離は、ほとんどない。
そして。
ゴール。
一瞬、競バ場が静まり返った。
誰もが、電光掲示板を見つめていた。
どちらが勝ったのか。
その答えを待つ時間は、ひどく長く感じられた。
やがて。
掲示板に、着順が表示された。
一着。
2 番 ヒシミラクル
二着。
7番 イダテング
ハナ差。
ヒシミラクルが、菊花賞を制した。
◇
ウイニングライブへ向かう前。
ヒシミラクルは、まだ少し信じられないという顔で、自分の手を見つめていた。
勝った。
自分が。
菊花賞で。
「……えっと」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
歓声が聞こえる。
自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
そのすべてが、今は夢の中の出来事のようだった。
「……勝っちゃった」
ぽつりと呟く。
それから、ようやく実感が追いついてきたのか。
「……勝ったんだ、私!」
表情がぱっと明るくなる。
「やったぁ……!」
その笑顔は、どこか拍子抜けするほど自然だった。
大きな目標を達成したというのに、彼女はいつもの調子を失っていない。
けれど、その胸の中には、確かな喜びがあった。
苦しかった。
長かった。
何度も、もう脚が動かないと思った。
それでも、最後まで走り切った。
そして、勝った。
「……頑張ってよかったなぁ」
そう言って、ヒシミラクルは笑った。
◇
トレセン学園。
モニターの前では、誰もがしばらく言葉を失っていた。
やがて、最初に口を開いたのはウインバリアシオンだった。
「……すごい」
その一言には、さまざまな感情が込められていた。
驚き。
感嘆。
そして、同じウマ娘としての敬意。
「最後まで、自分の走りを崩さなかった……」
ウインバリアシオンは、画面を見つめたまま続けた。
「周りが動いても、苦しくなっても、自分のリズムを保って……最後に、あれだけの脚を使った」
「そうだね」
フジキセキが頷いた。
「派手さだけが、強さじゃない。最後まで自分を信じて走り切ることも、立派な強さだよ」
新城は、腕を組んだまま静かに息を吐いた。
「……やったな。ミラクル」
彼女の走りは、決して華やかなものではなかった。
誰もが目を奪われるような圧倒的な才能を見せつけたわけでもない。
ただ、自分にできることを積み重ね、最後まで諦めなかった。
その結果、彼女は菊の冠をその手に掴んだ。
「勝ち方は、一つじゃないからな」
新城は、ぽつりと呟いた。
その言葉に、ナイトクラウンが反応した。
「……そりゃそうでしょ」
いつもの調子で、彼女は肩をすくめる。
「みんな違うんだから、走り方だって違って当然じゃん」
「それはそうなんだが」
ナイトクラウンは、モニターの中で笑っているヒシミラクルを見つめた。
「……ちょっと、いいな」
「何がだ?」
「自分の走りを、最後まで信じられるってこと」
彼女は、いつになく静かな声で答えた。
「周りがどう思っててもさ。自分ができるって信じて、最後まで走れるのって……いいなって思った」
新城は、すぐには答えなかった。
ナイトクラウンは、勝利を求めるウマ娘だ。
誰よりも速く走りたい。
誰かに必要とされる、いつか誰かの憧れになるような存在になりたい。
その思いは、今も変わらない。
けれど、ヒシミラクルの走りは、彼女の知らない強さを教えてくれたのかもしれない。
速さだけではない。
派手さだけでもない。
自分を信じ、積み重ねたものを信じ、最後まで走り切る。
その先に、頂点があることもある。
「クラウン、どうだった?」
フジキセキがナイトクラウンに声をかける。
「…コレがG1」
「うん。全てのウマ娘が目指す、一つの冠」
ナイトクラウンは振り返り、いつもの笑顔を見せた。
「ミラ子先輩、すごくキラキラしてました」
「私も絶対に勝ちます!」
「フジさんと同じ三冠ウマ娘になります!!」
ウインバリアシオンがその言葉に反応する。
「クラウン、三冠はあたしがもらうっす」
「シオンにも譲らないし!」
新城が苦笑する。
「ほら、そろそろ行くぞ。ミラクルのウイニングライブ、準備に行かないとな」
「「はい!」」
息の合った返事に、フジキセキは小さく笑った。
「いい刺激になったみたいだね」
「ああ」
新城は頷いた。
「……本当に、レースってのは面白い」
誰かの勝利が、別の誰かを動かす。
その走りが、まだ見ぬ誰かの心に残る。
そしていつか。
その誰かもまた、誰かの心を動かす走りをするのかもしれない。
◇
京都競バ場。
雨は、いつの間にか弱まっていた。
ヒシミラクルは、観客席を見上げた。
大勢の人たちが、自分に向かって手を振っている。
声援が聞こえる。
笑顔が見える。
その中に、一人だけ、ひどく大きく手を振っている男性がいた。
「ヒシミラクルー! おめでとうー!」
周囲の観客が、思わず振り返るほどの声量だった。
ヒシミラクルは、きょとんとした顔でそちらを見た。
「……ん?」
見覚えはない。
知り合いでもない。
それでも、その男性は、まるでずっと前から彼女を知っていたかのように、満面の笑みで手を振っていた。
ヒシミラクルは少し考えたあと。
小さく手を振り返した。
すると、男性は一層嬉しそうな顔になった。
「おおおおっ! ありがとうーっ!」
「……ふふっ」
ヒシミラクルは、思わず笑ってしまった。
なんだか、ちょっと不思議な人だった。
でも。
自分の走りを喜んでくれる人がいる。
それは、悪い気分ではなかった。
「……また、頑張ろうっと」
そう呟き、彼女は歩き出した。
菊花賞。
クラシック三冠の最後の一冠。
その栄冠を手にしたウマ娘は、いつもと変わらない笑顔で、次の一歩を踏み出していた。
そして、観客席の片隅では。
一人の男性が、いつまでも彼女の姿を見送っていた。
まるで、これから先もずっと応援し続けると、心に決めているかのように。
雨上がりの京都に、歓声が響き続けていた。
第7話 了
◇
◇
ノーリーズンが盛大に前転した頃の、何も知らないタニノギムレットさん
ギムレット「……ふむ?」
ギムレット「ククク……ついに我の存在が、刻を超えて影響を及ぼし始めたか」
???「ギムレット先輩……!やっぱかっけぇ……!」
※本編の菊花賞とは一切関係ありません。
大変お待たせしました。
今回はヒシミラクルの菊花賞。
ナイトクラウンやウインバリアシオンのいい勉強になったようです。
次回は2週間後…ないし3週間程度を予定してます。
お楽しみに!