うだるような、暑い夏だった。
初めてあなたに手を引かれた日。私は地獄みたいな毎日から連れ出された。
——そして、恋をした。
悪夢のような世界で見つけた、最初で最後の恋だった。
「……大好き」
あの日。泣きながらそう伝えた私を、あなたは優しく抱きしめてくれた。
近くで感じた匂いも、背中に回された腕の温もりも、今でも覚えている。
「約束、だからね」
言い終えると、あなたは笑って私の頭を撫でた。
不器用なくせに優しいところも、たまに見せる子供みたいな笑顔も、全部好きだった。
あの時までは。
約束は、守られなかった。
理由なんて聞けなかった。聞く前に、何もかも壊れてしまったから。
どうして。
喉まで出かかった言葉は、一つも言葉にならなかった。
信じていたのに、約束までしたのに。
どうして。
どうして……!
もうどうでもいい。忘れてしまえばいい。
そう言い聞かせても、何度もあなたを思い出した。
忘れたつもりになっていただけで、私は今も、あの夏から抜け出せずにいる。
「……ばか」
本当に、ばかだ。
あなたも、私も。
だから、もう終わりにする。
あの日で止まった時間も、十七歳の私も、全部ここに置いていく。
——そう決めていた。
八月一日 前田晴
昼過ぎ、俺は学校の美術室で時間を潰していた。
今日はあいにくの雨で、どうにも絵を描く気になれない。
教室へ戻れば興味のない会話に付き合わされるし、家に帰ったところで、だらだら過ごすだけだ。
結局、ほかに行く場所もなかった。鉛筆を転がしながら、目の前の画用紙を眺める。
「……何も浮かばないな」
何本か線を引いてみたものの、描きたい形にはならなかった。
鉛筆を机に置くと、どこからか「にゃー」という声が聞こえてきた。
顔を上げる。窓の外には、一匹の猫がいた。雨に濡れた毛は体に張りつき、首元には星形の飾りが揺れている。
目が合うと、猫は前足で窓を何度も引っかいた。
雨の中に放っておくのも気が引けて、窓を開ける。猫は待っていたように室内へ飛び込み、机の上へ乗った。
棚にあった古いタオルで濡れた背中を拭いてやると、逃げることもなく、その場に座り込んだ。
猫は前足をそろえ、こちらを見ている。まるで自分を描けとでも言っているようだった。
「……モデル気取りか」
さっきまで真っ白だったそこに、今なら何か描けそうな気がした。
鉛筆を手に取る。猫は動かない。
俺は猫の全身を画用紙に収める位置を決め、耳の先から鉛筆を走らせた。
途中で何度か姿勢を変えられそのたびに描き直したが、不思議と嫌にはならなかった。
♢
下校時刻のチャイムが鳴ったところで、ようやく鉛筆を置いた。
猫はキャンバスを一瞥し、ふんっと鼻を鳴らす。そして、そのまま窓の隙間からするりと出て行った。
「……気に入らなかったか」
どうやら、お気に召さなかったらしい。それなりに描けたと思ったんだけどな。
絵を画板から外し、帰る準備をした。
♢
外へ出ても、雨はまだ降り続いていた。
傘を差して正門を出ると、さっきまでの美術室の静けさが一気に遠のいていった。
水たまりを避けながら歩く。
帰り道には、古い家や個人商店が並んでいた。
駅前には新しいマンションやチェーン店が増えたが、この辺りは昔から大きく変わっていない。
閉店した薬局の隣にある旅行代理店の前を通りかかったとき、さっきの猫が何かを見上げるようにじっと立ち止まっていた。
ふとその視線を追うと、それは、店先のポスターだった。
一面に広がる向日葵畑。それを見て、昔のことを思い出す。
花園花菜。
あいつとは、昔よく一緒に遊んでいた。
休みの日になると、花菜の父親が俺たちをいろんな場所へ連れ出してくれた。
水族館や遊園地、それから名前も覚えていないような場所。
あの頃の俺にとって、そんな時間は特別だった。
小学四年の夏。
「自由研究だ」
そんな理由で、花菜の父親に旅行へ連れていかれたことがある。
軽ワゴンごと船に乗せられて、見慣れた町がどんどん遠ざかっていった。
風が吹くたびに花菜が袖を引っ張ってきて、そのたびに肩がぶつかった。
行き先は、どこかの向日葵畑だった。
見渡す限りに広がる黄色に圧倒されて、しばらく言葉を失ったまま、その景色を見つめていた。
花菜が向日葵の方へ駆け出すと、俺もつられるようにその背中を追った。
二人で、何もかも忘れて走り回った……気がする。
けれど、その翌年。
小学五年の春に、花菜の父親は病気で亡くなった。
葬式のあと、花菜は母親と町を離れた。それから、一度も会っていない。
あれから、六年も経っていた。今頃、どこで何をしているのだろう。
♢
歩いていると、見慣れた河川敷が見えてきた。
雨のせいで水かさは増し、流れはいつもより速い。どこか危うさを孕んだ音が、絶え間なく耳に届いていた。
橋の下は薄暗く、雨に煙るせいで輪郭のすべてが曖昧に滲んでいる。
光の届かないその場所だけ、時間が切り離されたように静かだった。
その暗がりの中に——誰かが座っていた。
白い服を着た女の子だった。橋脚に背中を預け、膝を抱えている。
屋根代わりになる場所とはいえ、吹き込んだ雨で髪も服も濡れていた。
声をかけようとして、ふと足が止まる。
以前、困っている同級生に声をかけたとき「余計なことをするな」と言われたのを思い出したからだ。
『前田くんって、自分のこと、いい人だと思ってるよね』
俺が余計なことを言えば、また嫌な顔をされるかもしれない。
勝手に心配しているだけで、あそこにいる人だって放っておいてほしい事情があるのかもしれない。
「……」
けれど、何かあってからでは遅い。嫌な顔をされたとしても、声をかけるくらいはできる。
俺は遊歩道を下り、橋の下へ向かった。
濡れた草を踏みながら近づいても、女の子は顔を上げなかった。
「あの……」
返事はない。
しばらく待ってから、もう一度声をかけようとして——言葉が喉で止まった。
髪の隙間から覗いた横顔に、どこか見覚えがあったからだ。
「…………花菜?」
女の子が顔を上げる。
その目を見た瞬間、六年前の面影が鮮明に蘇った。
花菜だ。
肩まで伸びた黒髪は雨に濡れ、頬に張りついている。
少し垂れた目尻も、長い睫毛も、あの頃の花菜のままだった。
昔の花菜は、目尻を下げてくしゃっと笑う子だったのに、その笑顔はどこにもなかった。
「…………ハル、くん?」
「あぁ……久しぶり」
花菜の目が大きく見開かれた。
まるで、目の前にいる俺が本物なのか分からないみたいに、何度も瞬きをしている。
「……そっか」
ぽつりと呟いたあと、花菜は袖口をぎゅっと握った。
どうしてそんな顔をしているのか。
そう声を掛けようとしたが、言葉にならなかった。
昔の花菜はもっと明るかったはずなのに、今はまるで別人のようだった。
「……戻ってたんだな」
「……うん」
「いつから?」
「……少し前」
花菜は肩を縮めるようにして、何かを思い出すように唇を閉じた。
雨の音だけが、橋の下の空間に一定のリズムで落ちている。
次に何を言えばいいのか分からず、数秒だけ沈黙が伸びた。
「……あれ、花菜。傘は?」
「傘……?」
花菜が足元を見る。
「……持ってない」
朝から雨は降っていた。
それなのに傘を持っていないなんて、何か事情があったのだろうか。
「くしゅっ」
「ほら、風邪ひくぞ。早く帰ろう」
花菜は膝元の布をぎゅっと握ったまま、しばらく身じろぎもしなかった。
「……ごめん」
しばらくして、消え入りそうな声が続く。
「今は、家に帰りたくないな」
「……え?」
思わず聞き返す。冗談で言っているようには聞こえなかった。
「帰りたくないって……なんで?」
「……」
花菜はそれ以上答えなかった。
家で何かあったのかもしれない。このまま一人で帰すのは……少し不安だ。
それでも、踏み込みすぎるのは違う気がして、言葉を選び直すように一度息を整える。
「…………分かった。だったら久しぶりに、うちに来るか?」
花菜がこちらを見つめ、わずかに首を傾げた。
やばい、急かしすぎたかもしれない。
「あー……その、このままだと風邪ひきそうだし。今日は母さんもいるし、別に変な意味じゃなくてだな……」
自分でも分かるくらい、しどろもどろになる。 ……何言ってんだ俺。
花菜はしばらく黙ったままだったが、やがて表情を和らげた。
「……じゃあ、ハルくんがいいなら。お邪魔しよう、かな」
♢
いつも一人で歩く帰り道に、今日は花菜がいる。それだけであまり落ち着かなかった。
昔は、花菜の方から次々と話しかけてきたはずだ。
けれど今は、俺たちの足音と、傘を打つ雨の音しか聞こえない。
何か話した方がいい。そう思うたび、言葉は声になる前に崩れた。
『お前、空気読めよ』
『いい人ぶるな』
忘れたつもりでいた声が、頭の中によみがえる。
花菜がそんなことを言うはずはない。それでも、踏み込んだせいで拒まれるのが怖かった。
「……ハルくん」
呼ばれた声が、さっきまでより近く聞こえた。
何か言いたそうな気配に気づいて、花菜の方へ顔を向ける。
「どうした?」
「あ、えっと…………ごめん、なんでもない」
花菜は何かを言おうとしたが、結局、口を閉じた。
「そうか」
それ以上は聞けなかった。今は同じ傘の下にいても、やけに遠く感じてしまう。
結局、何も聞けないまま歩き続けた。
♢
「ただいま」
玄関を開けると、母さんが台所から顔を出した。
「おかえり。雨、すごかったでしょ。もうすぐ夕飯の支度が……って、あら?」
「急にごめん、母さん。えっと……花菜、連れてきた」
振り返ると、花菜は俺の後ろで頭を下げていた。
「……お、お久しぶりです」
声がわずかに上擦っている。
昔は何度も家に遊びに来ていたのに、六年も空けば、さすがに母さん相手でも緊張するかもしれない。
「まあ……花菜ちゃん! 久しぶりねぇ。元気にしてた?」
「はい……」
母さんは花菜との再会がよほど嬉しいらしく、今の様子にはまだ気づいていないようだった。
「見ないうちに大きくなったわねぇ!」
「そう、でしょうか」
「そうよ。前はこんなに小さかったのに」
母さんは手を腰の辺りに置き、昔の花菜の背丈を示した。
「気づけば私より大きくなっちゃって、ほんと早いわぁ。うちのハルなんて——」
また母さんの世間話が始まった。 ……このままだと、また長くなりそうだな。
「母さん」
「ん?」
「花菜、濡れてるから。先に風呂を借りてもいい?」
そこで母さんも、花菜の髪や白いワンピースが濡れていることに気づいた。
「あら、本当。ごめんね、花菜ちゃん。さあ、遠慮しないで上がってらっしゃい」
「すみません……本当に、ありがとうございます」
「いいのよ。我が家だと思ってゆっくりしてちょうだい」
「……っ」
花菜の表情が、一瞬だけ強張った。
だけど、すぐに頭を下げ、風呂場の方へ向かっていった。
居間へ入ると、父さんが本を読んでいた。
「おかえり、晴。遅かったな」
「ごめん……ちょっとね」
父さんは一度だけ顔を上げ、花菜が消えていった廊下へ目を向ける。
「……あの子、花菜ちゃんか?」
「うん」
「何かあったのか?」
低い声だった。
問い詰めるわけでもない。ただ、俺の様子を見て確かめるような声。
「……いや、たまたま会って。雨も降ってたし」
それだけ答える。
父さんは俺を数秒見てから、再び本へ視線を落とした。
「……そうか」
それ以上は、何も聞いてこなかった。
♢
自室で猫の絵を眺めていると、ドアが二度鳴った。
「花菜……?」
「……入って、いい?」
ドアの向こうから花菜が顔を出す。
着ているのは、俺が中学生の頃に使っていたシャツだった。
「それ、俺の服?」
「うん。 ……おばさんが、これならって」
昔は大きかったはずの服が、今の花菜にはちょうどよく収まっている。
六年という時間を、こんなところで実感するとは思わなかった。
「……座る?」
「あ……ありがとう」
花菜はベッドの端に腰を下ろした。
本棚や机の上を眺めながら、昔の記憶を探しているようだった。
「……なんだか、不思議だね」
「何が?」
「ハルくんの家にいること。ずっと、来てなかったから」
「まぁ……そうだな」
部屋を見回すと、昔のままのものが目に入った。
「……ハルくんの家、変わってないね」
「母さんが物を捨ててないからな。昔の服まで残ってたし」
「でも、あったかいよ」
花菜の言葉が、部屋の温度だけを指していないことは分かった。
どう返せばいいのか分からず、机の上に置いた鉛筆をケースへ戻した。
「……ハルくんも、お風呂に入ってきたら?」
「そう……だな」
立ち上がり、ドアへ向かう。
今ここで事情を聞けば、花菜は答えてくれるだろうか。
「……花菜」
「うん?」
「その……無理しなくていいから」
自分でもぎこちない言い方。それでも、今の俺にはこれが精いっぱいだった。
「話したくなったらでいい」
花菜はその言葉を確かめるように、しばらく黙っていた。
「……ありがとう」
返ってきた声には、さっきまでよりわずかに力が戻っていた気がした。
♢
風呂から上がると、父さんと母さん、それから花菜が食卓に揃っていた。
花菜の前にも、俺たちと同じ夕食が並んでいる。
「花菜ちゃんのお母さんには、うちで夕食を食べてから帰るって伝えておいたからね」
母さんに言われ、花菜は箸を持ったまま動きを止めた。
「あ、ありがとうございます……」
「詳しいことは何も話してないわ。雨宿りしているとだけ伝えたから」
「……はい」
花菜はそれ以上何も言わず、手を合わせた。
「いただきます」
今日の夕飯はハンバーグだった。
花菜は遠慮しているのか、なかなか箸を進めようとしない。
母さんに勧められ、ようやく一口食べた。
「……おいしい」
「本当? よかった」
母さんが嬉しそうに答える。
「昔も、うちのハンバーグをよく食べてくれたのよ。覚えてる?」
「はい。覚えてます」
「晴なんて、何を作っても『うまい』しか言わないんだから」
「うまいなら、それでいいでしょ」
「作った側は、もう少し感想がほしいの」
話を聞きながら、俺は残っていたハンバーグを食べ終えた。
「母さん、おかわり」
「もう? 花菜ちゃんを見習って、ちゃんと味わって食べなさい」
父さんが母さんへ皿を差し出す。
「……ミキ、俺も頼む」
「あなたまで晴と同じことしないで」
花菜が吹き出した。父さんと母さんが同時に花菜を見る。
「あ……ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ」
母さんの口元もほころんだ。
「この人たち、本当に似てるでしょう?」
「俺は父さんほど食べてない」
「晴は食べるのが速いだけだ」
「ほら、そういうところもそっくり」
「……ふふっ」
さっきまで遠慮して箸を動かしていたのが嘘のようだった。
父さんと母さんのやり取りを眺める花菜の姿に、昔の面影が重なる。
「晴、箸が止まってるけど」
母さんに言われ、俺は皿へ向き直った。
「分かってる」
箸を動かしながら、さっきより花菜との距離が近くなったように感じた。
♢
「今日は、ありがとうございました」
玄関先で、花菜は何度も頭を下げた。
「もう暗いから、晴に送ってもらいなさい」
母さんに言われ、花菜は首を振った。
「ありがとうございます。でも、家近いので……」
「晴」
「分かってる。送っていくよ」
花菜はまだ遠慮していたが、母さんにまで言われては断れなかったらしい。
俺たちは、並んで家を出た。
雨はいつの間にか止んでいた。
道路には水たまりが残り、街灯が濡れたアスファルトを照らしている。
しばらく無言で歩いたあと、花菜が口を開いた。
「……ご飯、おいしかった」
「母さんに言ったら喜ぶよ」
「おばさん、昔と変わらないね」
「相変わらず、おせっかいだけどな」
その言葉に、花菜の表情が和らいだ。
さっきまで途切れがちだった足取りも、いつの間にか俺と同じ速さになっている。
住宅街へ入ると、見覚えのある道が続いていた。
「家、前と同じところなんだな」
「うん。一度離れたけど、また戻ってきたの」
「そうだったのか」
昔は何度も通った道だった。曲がり角も、花菜の家までの距離も覚えている。
家が見える手前で、花菜が足を止めた。
「ここまでで、大丈夫」
「……分かった」
「今日はありがとう。声をかけてくれて」
「俺も、会えてよかった」
花菜は何かを続けようとしたが、口にはしなかった。
「……じゃあ、またね」
「あぁ。また」
白いワンピースの背中が消えるまで見届けてから、俺は来た道を戻った。
自室へ戻り、ベッドに腰を下ろす。
結局、花菜があの橋の下で何をしていたのかは聞けなかった。
六年の間に何があったのかも、俺には分からない。
それでも、今日の時間が花菜にとって悪いものではなかったのなら、それでいい。
今の俺にできることは、たぶん多くない。
ただ、困ったときに声をかけられる相手くらいにはなりたかった。