お母さんに連れ戻されてから、一日が過ぎた。
家までは、思っていたよりずっと遠かった。帰りの移動だけで丸一日かかった。
外の景色を眺めていても、考えているのはハルくんのことばかりだった。
家に戻ると、生活はあっという間に元へ戻った。
朝起きて勉強をして、時間になれば習い事へ行く。帰ってくれば、また机に向かう。
あれだけ遠くまで行ったのに、たった一日で、旅に出る前とほとんど同じ毎日に戻っていた。
ただ、一つだけ変わったことがある。
「花菜、誕生日おめでとうございます」
「あ……ありがとうございます」
お母さんが、前より優しくなっていた。
「これからも、頑張ってください」
「……はい」
以前なら、その言葉だけで身体が強張っていたと思う。
けれど今は声も穏やかで、私を見る目にも前のような厳しさはなかった。
きっと、ハルくんのお母さんが私のことを話してくれたからだ。あの人には、いくら感謝しても足りない。
それだけじゃなく、私が本当に家を出たことも、お母さんを変えたのかもしれない。
そう考えると、素直に喜ぶことはできなかった。それでも、前ほど見張られているように感じなくなっただけで、家にいる時間はずっと楽になった。話しかけられるたびに身構えることも減った。
理由なんて分かっているのに、優しくされるだけで安心してしまう自分が嫌だった。
もし、お母さんが何も変わっていなかったら、今度こそ誰にも見つからない所に逃げようと考えていたかもしれない。
それなのに私は、またこの家で過ごしている。あれから、ハルくんは一度も姿を見せていない。
私には連絡する手段もなく、ハルくんが今どこで何をしているのかさえ分からない。
別に、知りたいわけじゃない。今さら目の前に現れたって、何を言われても許すつもりなんてなかった。
言い返すことすらできないまま、一方的に終わらされたことだけが引っかかっていた。
私を散々振り回して、これからのことまで一緒に話したくせに、最後は何も言わずにいなくなった。
それが、どうしても許せなかった。
「あの……お母さん」
「どうしました?」
「……明日の塾で使うノートが切れちゃって」
「そうですか」
「買いに行っても……いいですか?」
お母さんはすぐには答えなかった。やっぱり駄目かもしれない。
そう思っていると、バッグから千円札を取り出して差し出してきた。
「一人で大丈夫ですか?」
「あ……いいん、ですか?」
「ええ。行ってらっしゃい」
「……はい、ありがとうございます」
受け取った千円札を見てから、もう一度お母さんを見る。
それ以上、何も聞かれなかった。
最後に「気をつけて」と言われただけで、そのまま玄関を出ることができた。
外へ出ると、むっとする熱気が一気に押し寄せた。
道路の向こうから蝉の声が響き、照り返した日差しに思わず目を細める。
旅に出る前までは、こんな夏が嫌いだった。
暑くて、うるさくて、どこにも逃げ場がないような気がしていた。
なのに今は、あの旅の景色と一緒に、思い出したくない人の顔まで浮かんでしまう。
♢
ノートはすぐに買えた。
本当なら、そのまま家へ戻るはずだった。けれど気づけば、足は別の道を選んでいた。
何度も通った住宅街なのに、今日はひどく長く感じる。
ここまで来る必要なんてないと思いながらも足は止まらず、気づけば見覚えのある家の前に立っていた。
インターフォンへ手を伸ばす。押す直前になって、指が止まった。
今さら何を聞くつもりなのか、自分でも分からなかったが、確かめずに帰ることもできなかった。
——ピンポーン。
電子音が鳴る。しばらくして、玄関の扉が開いた。
「花菜ちゃん……」
そこに立っていたのは、ハルくんのお母さんだった。
その後ろに誰かいないか、反射的に家の中へ目が向いた。けれど、ハルくんの姿はない。
「お、お久しぶりです……」
咄嗟に頭を下げる。
聞きたいことは決まっていたはずなのに、いざ目の前にすると喉につかえた。
「……ハルくん、いますか?」
♢
「……花菜ちゃん」
おばさんの眉がわずかに寄った。
「あのね、晴は——」
「すみません!」
その先を聞く前に靴を脱ぎ、そのまま廊下へ駆け出した。
「あ、花菜ちゃん!」
後ろから呼ばれたけれど、振り返らずに階段へ向かった。
一段飛ばしで駆け上がる。息が切れても、そのまま二階まで走った。
廊下の突き当たりにある、ハルくんの部屋。
冷たいドアノブを掴み、震える手のまま勢いよく扉を開ける。
「ハルく——」
名前は、途中で止まった。
カーテンだけが風に揺れ、開いた窓の向こうから子供たちの声が聞こえている。
「……え」
部屋の中へ足を踏み入れる。
机も、本棚も、置かれている画材も、前に来た時とほとんど変わらない。
なのに、ハルくんだけがいなかった。
机の上には、描きかけの紙が一枚置かれている。
鉛筆で描かれた人の輪郭が、途中で途切れていた。
誰を描こうとしていたのかは分からない。
「……なんで……」
ただ出かけているだけで、待っていればいつもの顔で帰ってくる。
背中に腕が回された。
「……花菜ちゃん、ごめんなさい」
追いついてきたおばさんだった。最後の方は、声が掠れていた。
「ど、どうして……謝るんですか……」
「晴は……花菜ちゃんに何も言わないまま、家を出て行ったの。私も止められなかった。本当に、ごめんなさい……」
誰が悪いのかなんて、今はどうでもいい。知りたいことは、たった一つしかない。
「ハルくんは……もう、戻ってこないんですか……?」
おばさんはすぐには答えなかった。
背中に回された腕が、私を包むように強くなる。
「……晴は、自分で決めたの。花菜ちゃんに会わないことも、この家を出ることも、全部自分で……」
「そんなの……」
「私だって止めたかった。何度も話した」
おばさんの腕が震えていた。
「でも、晴は何を言っても『ごめん』って、それしか言わなくて……」
勝手に全部を決めていなくなったのはハルくんなのに、謝られるだけで終わりにされるのが悔しかった。
「……っ、ぁ……」
涙が落ちた。
「やだぁぁぁぁぁっ……!」
私はおばさんの服を掴み、そのまま身体を預けた。
「置いて、いかないでっ!」
もうここにはいない人に向かって、叫ぶ。
海も、花火も、手を繋いで帰った道も、まだ何一つ遠くなっていない。
「私は、まだっ……!」
聞きたいことも、言いたいことも残っている。なのにハルくんは、何も答えないままいなくなった。
「ハルくんっ……!」
部屋には、描きかけの紙と、風に揺れるカーテンだけが残っていた。