「お父さんっ! 目を覚ましてよっ‼」
花菜の泣き叫ぶ声が、白い病室に響いていた。
病院へ駆け込んだ時には、医師も看護師もベッドから距離を置いていた。
薬品の匂いが残る病室で、カーテンが空調の風に揺れていた。
ベッドの上のおじさんは、眠っている時とほとんど変わらない顔をしていた。
「置いていかないで! お父さん! お父さんっ‼」
花菜はおじさんの手を掴み、声が掠れても何度も名前を呼び続けていた。
看護師も、花菜のお母さんも、誰一人として花菜に声をかけられずにいた。
俺も同じだった。
ベッドのそばへ行くことも、花菜の肩に触れることもできず、離れた場所に立っているしかなかった。
後になって、おじさんはもともと身体が悪かったことを知った。
あの日、向日葵畑へ行った時には、もう無理をしない方がいいと言われていたらしい。
それでも外出の許可を取り、俺と花菜を連れていってくれた。
あの時、おじさんが俺たちを見て笑っていた意味を、後になって何度も考えた。
きっと、俺たちにあの夏を残してくれたかったのかもしれない。
白い布がおじさんの顔を覆っていくのを見て、ようやくもう戻ってこないのだと実感した。
俺はその場から動けないまま、おじさんの手を離そうとしない花菜を見ていた。
葬式の日。会場には線香の匂いが漂い、すすり泣きや押し殺した話し声があちこちから聞こえていた。
花菜は最後まで顔を上げず、膝の上で両手をきつく握っていた。
何を言っても、おじさんが戻るわけでも、花菜の悲しみを消せるわけでもない。
花菜を見るたび、病室で聞いた「置いていかないで」が頭に響いた。
それ以上そこにいられなくなり、誰にも声をかけずに席を立った。
外へ出ると線香の匂いが消え、冷たい風が頬を打った。
しばらく入口の前に立っていたけれど、結局その日は会場へ戻れなかった。
それから間もなく、花菜は引っ越していった。
会いに行こうと思えば行けたはずなのに、花菜の顔を見るだけで病室の光景まで引き戻されそうで、どうしても足が向かなかった。
向日葵畑を走り回り、おじさんと三人で笑ったあの夏まで、いつの間にか思い出すのを避けるようになっていた。
♢
「すぅ……すぅ……」
隣では、花菜が眠っていた。布団は腰のあたりまでずり落ちている。
「……またかよ」
掛け直しても、どうせ朝には蹴飛ばしている。そう思いながら布団を戻し、窓際の椅子へ座った。
宿の中は寝静まっていた。窓の外には三日月が浮かび、遠くの道路を走る車の明かりが、ときどきカーテンを横切っていく。
鞄からスケッチブックを取り出した。ページを開く前に、その中へ挟んでいた紙が床へ落ちた。
拾い上げる。花菜を描こうとして、やめた紙だった。
一枚目は、顔が全然似ていなかった。二枚目は途中まで描いて、なんか違うと思って丸めた。三枚目も駄目だった。
普段なら、ここまで一人の人間を何度も描こうとは思わない。
「……」
新しいページを開いた。眠っている花菜を見る。
頭に浮かんでいたのは、旅の間の花菜だった。
海ではしゃいでいた顔。祭りで射的を外して悔しがっていた顔。自分で選んだ服を着て、似合うかどうか俺に聞いてきた時の顔。
鉛筆を動かす。今度は、さっきまでより迷わなかった。
顔を描き、その後ろへ何本かの向日葵を置いていく。七年前、ずっと描けなかった花だった。
おじさんと花菜と三人で歩いた、あの向日葵畑。それを今は、自分から紙の上に描いている。最後に、花菜を笑わせた。
「……できた」
上手いとは言えない。向日葵の形もばらばらだし、花菜の顔だって、実物には遠い。
でも、描き直そうとは思わなかった。今まで描いたどの絵よりも、ちゃんと残しておきたいと思えた。
スケッチブックを閉じようとしたところで、机の上のスマートフォンが震える。画面には、一件のメッセージが届いていた。
『予定通りに着きます』
送り主の名前を見て、鉛筆を置いた。
『分かりました。一時間後に会いましょう』
送信して、スマートフォンを机へ伏せる。
おばさんから初めて連絡が来たのは、この旅の最初の夜だった。
最初は返すつもりなんてなかった。
花菜は自分で家を出た。あれだけ家へ帰ることを怖がっていた花菜を、おばさんに言われたからといって連れ戻すつもりはない。
だから最初の何件かは無視したけど、連絡先を消すことはできなかった。
この旅は、いつまでも続くわけじゃない。一週間が終われば、俺も日常へ戻る。
花菜だって、これから先ずっと一緒にいるわけじゃない。どこかで、この逃避行は終わる。
その時、花菜が家へ帰ることになったら、また朝から勉強して、決められた時間に習い事へ行って、何かを選ぶたびにおばさんの顔を窺う。何も変わらない生活に、そのまま戻ることになる。
それを考えると、連絡を完全に断つことはできなかった。
今は俺が連れ出せる。嫌なら逃げればいいとも言える。でも、一週間が終わった後まで同じことを続けられるわけじゃない。
花菜が帰ってからでは遅い。一度家へ戻って、また何も言えなくなってしまったら、今度こそ助けを求めることさえできなくなるかもしれない。
だったら、花菜がまだ俺の隣にいるうちに、どうにかしなきゃいけない。
そのためには、おばさんとの連絡を切るんじゃなくて、残しておく必要があると思った。
だから一度だけ返した。
『花菜は俺と一緒にいます。無事です。一週間したら、必ず帰ります』
それだけ。居場所は教えなかった。
それからも、おばさんから何度か連絡は来た。
『花菜と話をさせてください』
『せめて、どこにいるかだけでも教えてください』
俺から連絡することはなかった。まだ、花菜には時間が必要だと思っていた。
再会したばかりの頃は、何を聞いても「どっちでもいい」と言っていた。
食べるもの一つ決めるのにも、俺に任せようとした。
それがこの数日で、自分から「これしたい」と言うようになった。
もう少しだけ、花菜自身に考える時間をやりたい。
そう思って、おばさんには待ってもらっていた。けれど、一週間の終わりは近づいている。
ここから先は、待っているだけじゃ何も変わらない。
俺にも限界がある。金も、このまま宿を転々とできるほど持っているわけじゃない。
俺の家へ行けば全部解決する、なんて簡単な話でもない。
連れ出すところまではできた。でも、花菜のこれからの生活まで、俺一人でどうにかできるわけじゃない。
だから今日、初めて俺の方からおばさんに連絡した。会って話したい、と送った。
花菜に会わせるためじゃない。花菜が家でどんなふうに過ごしていたのか。何を我慢していたのか。どうして自分で何も決められなくなったのか。家へ帰るという話をしただけで、どれだけ怖がっていたのか。
本人がおばさんの前では言えないなら、俺から伝える。それでも駄目なら、その時はまた考えればいい。
でも、何も話さないまま花菜をあの家へ帰すことだけはできなかった。
そのために、今日初めて居場所を教えた。スマートフォンを置き、隣を見る。
花菜は何も知らないまま眠っていた。
本当なら、先に話すべきだった。今からおばさんに会うことや、これまで連絡を取っていたことも全部。
でも、さっきのことを思い出すと、どうしても起こせなかった。
花火を見た。好きだと言われた。俺も好きだと言った。
十八になったら、結婚すると約束した。ずっと一緒にいようとも言った。
その翌日に「今からお前のお母さんに会ってくる」なんて、どう切り出せばいいのか分からない。
それに、まだ何も決まっていない。おばさんが何を考えているのかも分からない。
だったら、まず俺が会って確かめたかった。それを聞いてから、花菜と話そうと思っていた。
——この時は、本当にそのつもりだった。
「……行ってくる」
聞こえるはずもない花菜に言った。スケッチブックを鞄へしまう。机に短い書き置きを残し、部屋を出た。
♢
駅前まで歩くと、ロータリーに一台のワゴン車が停まっていた。
終電が近いせいか、人影はほとんどない。車の横に立っていた人が、俺に気づいた。
「……お久しぶりです、前田君」
おばさんだった。
「わざわざ来てくださって、ありがとうございます」
「……いえ」
葬式以来だと思う。昔から身なりをきっちり整えていて、子供だった俺には近寄りがたい人だった。
今も服装だけなら昔とほとんど変わらない。ただ、目の下には濃い隈が残っていた。
「ミキさんから、お話は聞いています」
「……母さんから?」
「はい。花菜のことも……私のことも」
「…………」
「私はずっと、あの子のためにしているつもりでした。勉強も、習い事も、将来困らないようにと思って……」
花菜のため。その言葉を聞いて、最初に会った日の花菜が浮かんだ。
自分がどうしたいかより、相手が何を望んでいるのかを先に考える。
それが当たり前になるまで、花菜は何度、自分の気持ちを飲み込んできたんだろう。
「それ、本人がやりたいって言ってたんですか」
おばさんは答えなかった。自分の中で何かを確かめるように黙り込んでから、首を横に振った。
「……いいえ。あの子のためになることなら、聞く必要はないと思っていました。将来、あの子が困らないようにすることが、私の役目なので」
「……花菜が嫌がってても続けさせてよかったんですか?」
「そんなつもりは……」
「あいつ、おばさんのこと本気で怖がってたんですよ」
返事はなかった。駅舎の窓から漏れていた明かりが、一つ消えた。
「家にいた時は、自分が何したいかもまともに言えなかったんです。飯を選ぶだけでも俺に聞いてきたし、行きたい場所があっても最初は言えなかった」
「…………」
「ずっと一緒に暮らしてたんですよね。だったら、花菜が何を好きで、何が嫌だったか知ってましたか」
「……私は」
「あなたの前で、花菜はちゃんと笑えてましたか」
おばさんは黙った。
何か言おうとして、結局何も出てこない。その沈黙が、俺には答えそのものに思えた。
「……分かりません。あの子が笑っていたかどうか……考えたこともありませんでした」
「…………」
「成績は落ちていませんでした。習い事にも休まず通っていました。私が言ったことにも、ずっと応えてくれました」
駅前の信号が、誰も渡らない横断歩道を青く照らしている。
「それで、何も問題はないと思っていました。前田君に言われるまで気づかなかったこともあります。いえ……気づきたくなかっただけなのかもしれません」
責める言葉なら、まだいくらでも浮かんだ。
でも、自分から間違っていたと認められると、そのどれも口には出せなかった。
「申し訳、ありませんでした」
「……なんで、俺に謝るんですか」
「……そう、ですね。まずは、あの子に謝らなければいけません」
その言葉を聞いても、まだ信用しきれなかった。
「今までずっと、正しいと思って生きてきました。明日から急に何もかも変われるとは、私は思っていません」
「じゃあ——」
「また怒ってしまうこともあると思います。自分の考えを押しつけそうになることもあるかもしれません」
おばさんはそこで一度言葉を切った。
「でも、その時は一度止まります。私が決める前に、ちゃんとあの子に聞きます。 ……ですから、お願いします」
おばさんが頭を下げた。
「花菜を、私に連れて帰らせてください」
「……嫌です」
考えるより先に出ていた。
「……前田君」
「だって、また同じになるかもしれないじゃないですか。俺、もうあいつを前みたいにしたくないんです」
「……分かっています」
「俺がいれば——」
「では、あなたが花菜を育ててくれるんですか」
言葉が止まった。
「学校へ通わせて、住む場所を用意して、毎日の生活を支えて。この先も、あの子と暮らしていけますか」
「……それは」
何も出てこなかった。
一週間一緒に逃げることと、一人の人間の生活を背負うことは、全然違う。
そんな当たり前のことを、今さら突きつけられた。
「前田君を責めたいわけではありません。あなたが花菜を大切にしてくれたことは分かっています。ここまで一緒にいてくれたことも、あの子にとって必要な時間だったと思います」
「……でも」
「だから、前田君一人で全部どうにかしようとしないでください」
その言い方は、ここから先はもう花菜のそばにいなくていいと言われているようで、嫌だった。
「俺は、まだ……」
続きが出てこない。まだ……何なんだ。
一緒にいたい。俺を頼ってほしい。花菜に必要とされていたい。
どれも本当のことだ。けれど、それを口にしたところで、花菜の明日をどうするのかという問いには何一つ答えていない。
「あの子が私を許してくれるとは思っていません」
おばさんが続ける。
「家に帰ったからといって、すぐに元通りになれるとも思っていません。何を聞けばいいのかも、どう話せばいいのかも、まだ分かりません。それでも今度は、私が決める前に、あの子がどうしたいのかを聞きたいと思っています」
それは、俺がここへ来た理由そのものだった。
一週間が終われば、花菜はいつか家に帰らなきゃいけない。その時、何も変わっていなかったら、また同じ毎日に戻ってしまう。
だから花菜が何を怖がっていたのか、どうして家を出たのか、それをおばさんに伝えるためにここまで来た。
俺が代わりに何もかも解決するためじゃない。
花菜が帰ったあとも、自分の気持ちを言える場所にするためだった。
目の前のおばさんは、少なくとも俺が伝えたかったことを聞こうとしている。
だったら、これでいいはずだ。そう思うのに、簡単に頷くことはできなかった。
「……できるんですか」
すぐに信じることはできなかった。
花菜が家へ帰ることをあれだけ怖がっていたのを知っている。
ここで「分かりました」と任せて、また同じことになったらどうする。
その時、俺は花菜に何て言えばいい。
「できます。少なくとも、今までと同じようにはしません」
それでも不安は消えなかった。
むしろ、おばさんが変わろうとしていることが分かるほど、俺が花菜のためにできることがなくなっていくような気がした。
俺が連れ出した。俺が手を引いた。
花菜が自分で服を選べた時も、行きたい場所を言えた時も、ずっと隣にいた。
だから、この先も俺が隣にいると思っていた。 ……いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
花菜のためだと言いながら、本当は俺の方が、花菜から離れたくなかった。
「……俺が連れ出したんです。だから、最後まで俺が何とかしないとって思ってました」
おばさんは何も言わなかった。
「でも……ここからどうすればいいのか、俺には分かんなくて」
花菜のそばにいたい。それだけなら、迷わず言える。
けれど、一緒にいることと、花菜のこれからを支えられることは同じじゃない。
好きだから何とかしたいのに、好きだというだけじゃ何ともできない。
それを認めるのが、悔しかった。
「……あいつの話、ちゃんと聞いてやってください。たぶん、おばさんの前じゃ、すぐには言えないこともあるから」
「分かりました」
まだ任せきることはできなかった。
だから、花菜が怖がっていたことも、嫌がっていたことも、一つずつ思い出した。
「嫌だって言っても、怒らないでやってください。無理に決めないで、ちゃんと待ってやってください。それから……」
言葉が続かなかった。俺がいなくなったあと、花菜のそばにいるのは俺じゃない。
そのことを初めて、本当のこととして考えた。
「……もう、あいつを一人にしないでください」
そこまで言ったところで、声が駄目になった。
下を向いても、涙は止まらなかった。
花菜を任せたいわけじゃない。本当なら、俺が隣にいたかった。
それでも、自分にできないことまでできるふりをして花菜の手を引き続けることは、もうできなかった。
いつの間にか、おばさんの手が背中に添えられていた。
俺はその服を掴んだまま、泣き続けた。
♢
どれくらい泣いていたのか分からない。
近くでバスが停まり、ロータリーに到着を告げるアナウンスが流れた。
ようやく身体を離すと、俺の手はまだおばさんの服を握っていた。
「すみません……」
手を離し、乱れた袖を直す。
「花菜には、どう伝えますか」
「……」
簡単だ。おばさんがここまで来たことや、自分が間違っていたと認めたこと。これからは花菜の話を聞くと言っていること。それを全部話して、最後は花菜に決めさせればいい。
『私を——ハルくんのお嫁さんにして』
あの時は本当に嬉しかった。俺も一緒にいたい。だから、何も考えずに約束した。
十八になったら、今度は俺から。
旅の初日は全部俺に任せていた。けど、俺が言ってから花菜は、行きたい場所を言えるようになった。嫌なものを嫌だとも言えるようになった。
それを見て、花菜は変わったと思っていた。
でも、花菜が自分で選んだものの中に、いつから俺が入り込んでいた。
俺に似合うと言ってほしくて服を選ぶ。俺と行きたいから場所を決める。俺と一緒にいるために、この先を考える。
それが悪いことだなんて思わない。好きな相手のことを考えるなんて、普通だ。
俺だって同じだ。花菜を楽しませたいし、花菜の喜ぶ顔が見たい。
問題なのはその先。
おばさんとぶつかった時や、辛くなった時。何かを決められなくなった時に、花菜が俺に手を伸ばせばどうする。
たぶん、取ってしまう。そして俺は、今度こそ花菜と遠くに逃げてしまう。
「……前田君?」
「俺が話したら……たぶん、帰せなくなります」
「どういうことですか?」
「花菜に『一緒にいたい』って言われたら、俺、断れないです」
それだけじゃない。
俺が一緒に行こうと言えば、花菜も来る。
昨日の約束を持ち出せば、きっと信じる。それが嬉しいと思ってしまう自分もいる。必要とされたい。俺を選んでほしい。
花菜を自由にしたいと言いながら、その花菜が俺だけを選んでくれたら嬉しい。
「俺も……あいつと同じです」
おばさんが花菜のためだと思って、花菜の人生を決めていた。
俺はそれを散々責めてしまった。なのに俺も、「俺といた方が花菜は幸せだ」って勝手に決めかけていた。
「このまま俺が近くにいたら、あいつ……おばさんよりも、俺を優先すると思うんです」
「優先?」
「おばさんとちゃんと話す前に、俺のところに来る」
花菜がおばさんじゃなく俺を選んでくれるなら、そのまま連れていけばいい。そんな考えが、簡単に浮かんでしまう。
「花菜の顔を見たら……俺、断れない」
今回みたいに遠くへ行かなくても同じだ。
嫌なことがあれば俺のところへ来る。俺は花菜を守った気になって受け入れる。
花菜は俺がいれば大丈夫だと思う。その繰り返しになったら、花菜がおばさんと向き合う日は来ない。
俺が花菜の逃げ場所でいる限り、花菜はいつでも逃げられてしまう。
「だから……一回、離れた方がいいと思います」
ずっと一緒にいると言ったのに、今は離れた方がいいと言っている。
我ながら滅茶苦茶だ。滅茶苦茶で、自分勝手で、臆病だ。
「それは、花菜と話して決めることではないですか」
「……話したら、無理です。『嫌だ』と言われたら……俺、帰れない」
「それは……」
「今までおばさんのことを気にして決めてたのが、今度は俺になるだけなら……それじゃ、花菜が自分で選んでることにならないと思うんです。俺がいなくても、あいつが自分で決められるようにならないと」
花菜に会ってしまえば、きっと離れられない。
花菜に一緒にいたいと言われたら、俺は断れない。俺が一緒にいたいと言えば、花菜もきっと頷く。
昨日だってそうだ。ずっと一緒にいたい。その気持ちだけで約束して、その先にある生活のことまで、考えられていなかった。
話し合えば、たぶん同じ答えを選ぶ。
それが分かっているのに、どうすればいいのかは分からなかった。
離れたくない。でも、このままでいいとも思えない。
俺には、何も言わずに離れる以外のやり方が思いつかなかった。
「……そんなことをしたら、花菜は傷つきます。あなたを恨むかもしれません」
「それでも、あいつにとって、俺しかいないのは違うと思うんです。俺がいなくても、あなたとちゃんと向き合って、自分で生きて、その上で誰を好きになるかまで花菜自身に決めてほしい。 ……それで俺が選ばれなくても、仕方ないです」
「……」
「嫌われた方がいいです。約束も、俺の方から終わらせます」
「……前田君。私は、あなたにあの子から離れてくださいとは言いません。それを私が決めれば、また同じことになるからです」
ロータリーを出ていくバスの赤いランプが、道路の向こうへ小さくなっていった。
「ただ、一つだけ。あなたも、花菜のためだと言って、あの子の気持ちまで決めないでください」
「……分かってます」
「私はここで待っています」
おばさんに頭を下げ、来た道を戻った。
♢
部屋へ戻ると、花菜は変わらず寝ていた。布団を半分蹴飛ばして、変な向きで丸まっている。
「……風邪引くぞ」
床まで落ちていた布団を拾い、掛け直した。
花菜は起きない。机の上には、さっき置いた書き置きがそのまま残っていた。
明日の朝、これを見つけ、きっと俺を探す。
最初からおばさんと繋がっていたと知れば、あいつはたぶん、怒る。
その時、俺はもうここにはいない。
「……」
朝になれば隣にいる。夜になれば、またくだらない話をする。
一週間が終わっても、その先まで続くものだと思っていた。
「……ありがとう、花菜。ずっと一緒って、言ったのにな」
最低だ。
好きだと言って、約束までして、その次の日に何も言わずいなくなる。
こんなことをしたら、花菜はきっと怒る。もう二度と会いたくないと思われても仕方がない。
本当は、このまま二人で逃げたかった。
花菜が俺を選んでくれるなら、その手を取って、どこまででも連れていきたかった。
でも、それじゃ駄目だ。おばさんの言うことばかり聞いていた花菜が、今度は俺さえいればいいと思うようになったら、結局あいつは自分の人生を誰かに預けたままだ。
俺は、花菜の全部になりたいわけじゃない。
おばさんとちゃんと向き合って、自分が嫌なことも、やりたいことも、自分の言葉で伝えられるようになってほしい。
俺がいなくても、自分で行きたい場所を決めて、自分でこの先を選んでほしい。
その先で、もう俺を選ばなくなってもいい。それでも俺は、花菜のことをずっと忘れない。
俺は、眠っている花菜の手を取らなかった。
「……ごめん」
——始発の電車が来るまで、おばさんは途中まで車で送ってくれた。
このあと花菜のもとへ戻るおばさんを見ていると、何も言わずにいなくなる自分が余計に後ろめたくなった。
別れ際、おばさんは一言だけ「ありがとう」と言った。
俺は何も返せないまま頭を下げ、始発の電車に乗った。