夏休みが終わって一週間が経ち、教室はいつものように賑やかだった。今日は、新学期が始まって最初の金曜日。
「花園さん、とても良くできましたね」
「ありがとうございます」
それぞれの授業で、夏休み明けのテストが返ってくる。
苦手な数学は相変わらずだったけれど、英語は満点を取ることができた。
そして、その日の授業もすべて終わり、最後のホームルームになった。
「——ではこれで終わります。来週は文化祭なので、各クラス準備を進めるように」
先生がそう締めくくった途端、教室のあちこちで椅子を引く音が鳴った。
部活へ向かう人もいれば、友達同士で話しながら教室を出ていく人もいる。
私も鞄へ教科書をしまいながら、今日の予定を考えた。
いつもなら、このあと急いでピアノへ向かわなければならない。
「……あ」
鞄へ筆箱を入れかけて、手が止まった。
そうだ。今日は、もうピアノに行かなくていいんだった。
時計を見る。いつもなら、この時間にはもう駅へ向かっている。なのに今日は、急がなくてもいい。
急にできた放課後をどうしようか考えて、数学の教科書に手を伸ばした。
せっかくなら、図書館で予習して帰ろうかな、と思ったその時——
「かーなちん!」
「わっ……!」
突然横から顔を覗き込まれて、変な声が出た。
「びっくりした……どうしたの、花音ちゃん?」
「あのね、テスト終わったし、みんなでボウリング行こ! って話してるんだけど、花菜ちんも行かない?」
「えっ……ぼ、ボウリング?」
「うん! 花菜ちんのおかげで、赤点、数学だけで済んだから! ほんと助かった~!」
「あ、うん……それは、よかった……のかな?」
私が戸惑いながら返すと、花音ちゃんは楽しそうに笑った。
小柄な子で、とにかく表情がよく変わる。耳にかけた片側の髪には細い三つ編みが一本混じっていて、反対側は顎のあたりで外へ跳ねていた。
誰とでもすぐに打ち解けて、休み時間になるといつも周りに誰かいるような人だった。
「あ、ごめん! もしかして用事あった?」
「あ……えっと……」
どうしよう。すごく嬉しい。
今までは習い事があって、遊びに誘われても断ってばかりだった。たまには……。
「……お母さんに聞いても良いかな?」
「もちろんっ!」
私はスマホを取り出した。
先週、お母さんが買ってくれたばかりで、新しいケースには、まだ傷一つない。
こうしてお母さんにメッセージを送ることにも、まだ慣れていなかった。
『ごめんなさい。今からお友達と遊びに行っていいですか?』
送信ボタンの上で、指が止まった。断られた時のことを考えそうになって、そのまま押す。
数秒後、すぐに既読が付いた。
『分かりました。夕飯はどうしますか?』
画面をもう一度読み返す。
誰と行くのか、何時に帰ってくるのかと聞かれるつもりでいたのに、お母さんから返ってきたのは夕飯のことだけだった。
「……えっと、花音ちゃん」
「んー? どうだった?」
スマホを鞄にしまう。
「私も、行ってみたい」
♢
初めてのボウリングは、散々だった。
真ん中へ投げたはずの球が右へ逸れ、次は左へ逸れた。最後にはやっとスペアを取ったのに、その次の一投を綺麗にガターへ落として、みんなに笑われた。
なのに、不思議と嫌じゃなかった。
誰かが上手く投げて、失敗すれば笑って、気づけば私も同じように声を上げていた。
結果は七十四点。
「あと一点だったのにー!」
七十三点だった花音ちゃんが、店を出てからも悔しがっている。
「次は負けないからね!」
「私も、もうちょっと上手くなりたいかも」
駅へ向かう道には、昼間ほどの暑さは残っていなかった。
建物の向こうを電車が走り、風が吹くたびに制服のスカートが揺れる。
九月になったんだな、と今さら思った。
「それにしても、花菜ちんとこうやって遊ぶの、初めてかも」
「……そうだね」
これまでも誘ってもらったことはあったけれど、そのたびにピアノや塾の予定が入っていて、断るのが当たり前になっていた。
帰り道のコンビニで、制服姿の子たちが飲み物を片手にいつまでも話し込んでいる横を通ったこともある。
何をそんなに話すことがあるんだろう、と当時は思っていたけど、今日、ようやく分かった気がする。
こんな放課後もあったんだ。
「……花菜ちん?」
「え?」
隣を見ると、花音ちゃんがこちらを覗き込んでいた。
「なんか今日、いつもと違うよね」
「……そう?」
「うん。いつもよりノリいいっていうか」
「ノリ……?」
「だって、前まで遊びに誘っても『ごめんなさい』ばっかだったじゃん。でも今日は来てくれたし、いつの間にかスマホまで持ってるし」
花音ちゃんは一本ずつ指を立てながら数えていく。
「それに、今日の花菜ちん、めちゃくちゃ楽しそうだし」
「そうかな……」
「そうだよ。 ……夏休み、なんかあった?」
「っ……な、なんで急に……?」
「お、その反応。やっぱり何かあったんだ」
「ち、違うの。そういうことじゃなくて……」
「じゃあ、どういう?」
「それは……」
花音ちゃんは何も言わず、私の返事を待っている。
あの旅のことを思い返してみても、どこから話せばいいのか分からない。
「……失恋、しちゃった……からかな」
「えっ、そうなの⁉」
花音ちゃんがその場で足を止めた。
「うん。告白した次の日に……いなくなっちゃって」
「え、なにそれ重っ!」
あまりにも真剣な顔で言うものだから、さっきまで話すのをためらっていた自分が急に馬鹿らしくなった。
「ていうか花菜ちん、好きな人いたの⁉ 同じ学校?」
「ううん……違う、と思う」
答えながら、そこで初めて考えた。
そういえば、あの人が今どこの学校に通っているのか、私は知らない。
学校だけじゃない。休みの日をどう過ごしているのかも分からない。
あれだけ一緒にいたのに、私はあの人のことをほんの一部しか知らなかった。
通りには店の明かりが増え始め、仕事帰りの人たちが駅の方へ流れていく。
その中を歩きながら考えていると、隣にいた花音ちゃんが、半歩後ろに下がっていた。
「……花菜ちーん」
呼ばれるのと同時に、袖を引かれた。
花音ちゃんが指差した先には、大きなパフェの写真が並んだ看板が出ていた。
果物やアイスが、器からこぼれそうなくらい盛られている。
「パフェ?」
「その話、詳しく!」
花音ちゃんは私と看板を交互に指差した。
「今日来てくれたお礼に、私が奢ってあげまーす!」
「えっ、いいよ。自分で払えるし……」
「のんのん!」
花音ちゃんは、大げさなくらい首を横に振る。
「その代わり、花菜ちんの恋バナ、ぜーんぶ聞かせて!」
「え、ちょ、ちょっと……!」
返事をする前に手を取られ、そのまま店の入口まで連れていかれた。
♢
それから私は、お母さんに帰りが遅くなると連絡を入れて、花音ちゃんに今までのことを打ち明けた。
お母さんやお父さんのことから始まり、あの人と遠くまで行った夏まで、記憶をたどるように一つずつ言葉にしていった。
旅の途中であの人を好きになり、気持ちを伝えたこと。向こうも好きだと言ってくれたのに、次の朝にはいなくなっていて、家を訪ねても会えなかったこと。
話し始める前は、こんなに長くなるとは思っていなかった。けれど、一つ思い出すたびにその先の出来事まで続いて出てきて、なかなか話は終わらなかった。
花音ちゃんは茶化すことも口を挟むこともせず、時々相槌を返しながら最後まで聞いてくれた。
時計を見ると、店に入ってからもう一時間近く経っていた。
「たぶん……お母さんとずっと連絡を取ってたこと、私に言えなかったんだと思う。私には何も言わないまま、お母さんには居場所を伝えてて……それを知られたあと、どうやって私と一緒にいればいいのか、分からなくなったのかなって」
もちろん、本当のことは分からない。
あの人から直接聞いたわけじゃない。ただ、私を嫌いになったからいなくなったとは、どうしても思えなかった。
私に隠していたことへの後ろめたさがあって、お母さんが迎えに来ることも決まっていて、それで私の前からいなくなったんじゃないか。
もしそうなら、許せるわけじゃない。
それでも、もしあのまま、あの人と遠くへ逃げ続けていたら、私は幸せだったのかな。
今日みたいに花音ちゃんと遊ぶこともなく、お母さんとも話せないまま、周りの人に心配をかけ続けていたかもしれない。
そう考えると、今の毎日が間違いだとは思いたくなかった。
お母さんとは前より話せるようになったし、今日みたいに自分が行きたい場所へ行くこともできた。
あの夏が終わったあとにも、ちゃんと残ったものがある。
「辛いけど……これで良かったのかなって」
そこまで話して顔を上げると、花音ちゃんは俯いたまま両手を強く握っていた。
「……花音ちゃん?」
「——だぁぁぁっ! 意味わかんねぇぇぇぇぇっ‼」
「花音ちゃんっ⁉」
頭を抱えたかと思うと、花音ちゃんはそのままテーブルへ突っ伏した。
「誰⁉ その前田って男は! こんな可愛くて優しくて頑張り屋で、ちゃんと人のこと考えられる花菜ちんのプロポーズを放り投げるとか、どういう神経してるの⁉」
「ぷ、プロポーズって……!」
顔が一気に熱くなる。
「しかも、お母さんもお母さんだし! 花菜ちんにそんな思いさせるとか、普通に許せないんだけど!」
「花音ちゃん……」
こんなに本気で怒ってくれるとは思っていなくて、なんだかむず痒かった。
花音ちゃんはドリンクを一気に飲み干すと、今度はテーブル越しに身を乗り出した。
「…………で、その花火の時……キスしたの?」
「ふぇっ⁉」
予想もしなかった質問に、変な声が出た。
「し、してないよっ!」
「えぇぇぇ⁉ そこはする流れじゃん!」
「そ、そういうものなの……?」
「そういうものだよ!」
本当にそうなのかは分からないけれど、花音ちゃんの言い方には妙な確信があった。
「だって相手、絶対花菜ちんのこと好きじゃん!」
「それは……」
あの日のことが蘇る。
気持ちを伝えた時、あの人はすぐに答えてくれなかった。それでも最後には、私の言葉から逃げずに向き合ってくれた。
「……で、でも、手は繋いだ」
「あっっっま‼」
言ってしまってから急に恥ずかしくなり、ストローの先を指で弄る。
あの夜の私は、普段なら飲み込んでしまうようなことまで口にしていた。
ずっと言えなかった気持ちを、あの人に全て伝えた。
「えー……でも、花菜ちんがそこまで好きになるって、どこが好きだったの?」
「どこって……」
一つに決めようとして、困った。
意地悪なくせに、変なところで優しい。そんなことなら、いくらでも浮かぶ。
でも、聞かれているのはたぶん、そういうことじゃない。
「……ぜ、全部」
「全部⁉」
「だって、一つって言われても選べないし……」
花音ちゃんが何か言いかけたので、私は逃げるように飲み物へ手を伸ばした。
あれから、もう一ヶ月近く経つ。
時間が経てば少しずつ薄れていくと思っていたのに、あの人のことは今でも何気ない瞬間に浮かんでくる。
「……でもさー」
花音ちゃんの声から、さっきまでのふざけた調子が消えた。
「お母さんと連絡取ってたのも、なんか理由あったんじゃない?」
「……それは……」
あの日からずっと、そればかり考えていた。
あの人は最初から、私を家へ帰すつもりだったのか。お母さんに頼まれて、私に付き合っていただけだったのか。それとも、旅の途中で何かが変わったのか。お母さんと連絡を取っていたことを私に知られて、もう一緒にはいられないと思ったのか。
考えるたびに違う答えが浮かんで、どれも確かめることができない。
「でも……だったら、言ってほしかった。お母さんと話したことも、帰った方がいいって思ったことも……全部、私に話してほしかった。私にも、どうしたいか聞いてほしかった」
あの人は、私にずっとそうしてくれた。私が答えられるまで待ってくれた。なのに、最後の最後だけは違った。
「勝手に決めて、勝手にいなくなるんじゃなくて……ちゃんと、私に言ってほしかった」
お母さんと連絡を取っていたのは事実だし、私を置いていなくなったのも事実。一ヶ月近く経った今も、連絡は一度もない。
期待しては何も起こらない日を、これ以上重ねたくなかった。
「……花菜ちん、まだ好きなんだね」
「……うん」
「そっか」
花音ちゃんは、それ以上何も言わなかった。
♢
「今日はありがとね!」
「うぅん……私の方こそ、ご馳走してもらっちゃって……」
「へーきへーき!」
花音ちゃんは最後までいつもの調子だった。
誰かと寄り道をして、時間を忘れるくらい話して、そのまま駅まで一緒に帰る。
少し前の私なら、こんな放課後が自分にもあるなんて考えなかったと思う。
「……花音ちゃん」
「んー?」
「また、一緒に遊びたいな」
花音ちゃんはすぐに頷いた。
「もっちろん! 次どこ行く?」
「え、もう次の話?」
「当たり前じゃん!」
返事に迷って、駅前の案内板へ目を向けた。
行ってみたい場所なら、これから探せばいい。
九月十六日 花園花菜
文化祭は、朝から慌ただしかった。
私たちのクラスは執事喫茶を開き、私は料理を運んだり、写真を撮ったり、足りないところを手伝ったりした。
放課後には、クラスのみんなで打ち上げへ行った。
「みんな、写真撮るよー!」
押したり押されたりしながら、一枚の画面に収まる。
撮った写真が送られてくると、花音ちゃんが私のスマートフォンを覗いた。
「花菜ちん、顔かたーい」
「えっ……そうかな」
「うん。証明写真みたい」
「そんなに……?」
写真を保存した。
クラスのみんなの中に、私もいる。それが嬉しくて、もう一度開く。
「……」
あの人に見せたら、なんて言うだろう。
花音ちゃんと同じこと言うかな。それから私が怒って——
「……花菜ちん?」
「え? あ……何でもない」
画面を閉じる。写真だけが、スマートフォンに残った。
十月四日 花園花菜
「ありがとうございました」
扉を閉める前に、私は先生へ深く頭を下げた。
「進路のこと、ちゃんと考えてみます」
「花園さんなら大丈夫ですよ。応援しています」
隣のお母さんも、先生へ会釈する。
「本日はありがとうございました」
「いえいえ。お忙しい中、こちらこそありがとうございました」
教室を出て、お母さんと並んで放課後の廊下を歩いた。
窓の向こうでは部活動の掛け声が続いている。
日はもう傾き、開いた窓から入る風には半袖だと肌寒く感じるほどの冷たさがあった。
「……花菜。本当にいいのですか?」
それまで黙っていたお母さんが、不意に尋ねた。
「はい。これからもっと頑張りたいと思っています」
今日の進路面談で、一番長く話したのは大学受験のことだった。
これまで私は、医学部を目指していた。お母さんが叶えられなかった夢を自分が叶えれば、きっと喜んでもらえる。頑張ったと認めてもらえる。そんな気持ちで勉強を続けてきた。
「……花菜のやりたいことをすればいいのですよ」
「ありがとうございます。でも、私は医者を目指したいです」
お母さんは何も言わず、私の方へ顔を向けた。
自分が本当になりたいものは何かと聞かれても、まだはっきりとは答えられない。
今まで続けてきた勉強も習い事も、医学部へ進むためのものだと思っていた。
それを手放した先に何があるのかなんて、考えたこともなかった。
けれど、医療そのものに興味がなかったわけではない。
昔読んだ本をきっかけに、脳や神経について調べたことがある。人はどうやって物事を覚え、感情を抱き、身体を動かしているのか。その仕組みを知っていくのは、純粋に面白かった。
あの時、もっと知りたいと思った気持ちは、お母さんに言われて生まれたものじゃない。
「そうですか……」
お母さんは、それ以上理由を確かめようとはしなかった。
それから昇降口が近づくまで、会話はなかった。
「……でしたら、もう少し数学は頑張らないといけませんね」
「う……頑張ります」
「塾も増やした方が——」
そこで、お母さんの言葉が止まった。
「……お母さん?」
「……なんでもありません。塾は、今のままで大丈夫ですか?」
「はい。 ……ありがとうございます」
昇降口に着き、靴を履き替える。
「もし必要になったら、その時は言ってくださいね」
「分かりました」
お母さんは先に歩き出した。
私も靴を履き終え、その隣へ追いついた。
十一月十一日 花園花菜
「花音ちゃん……えっと、その……お誕生日、おめでとう」
「覚えててくれたの⁉ ありがとー! ……それ、もしかして私に?」
「う、うん……プレゼント、なんだけど……」
鞄から取り出した箱を差し出した。
中に入っているのは、向日葵をあしらったブレスレットだった。
葉と蔓を細く編み込んだデザインを店で見つけた時、真っ先に花音ちゃんが浮かんだ。
「……っ」
蓋を開けたまま、花音ちゃんが固まった。返事がない。
「あ、ご、ごめん……こういうの、迷惑だったよね……」
「…………うぅん」
花音ちゃんは首を振ると、そのまま私に抱きついてきた。
「わっ……!」
「花菜ちん、ありがとう!」
「か、花音ちゃん……」
「私、これずーっと大事にするから!」
さっそく箱から取り出し、手首に巻こうとしている。
「ねえ、これ自分で選んでくれたの?」
「う、うん。花音ちゃんに似合うかなって……」
「似合うに決まってるじゃん!」
その言い方があまりにも迷いなくて、渡すまで抱えていた心配がようやくほどけた。
「その……これからも、花音ちゃんといろんなところに行きたいな」
「もちろん! いっぱい思い出作ろうね!」
誰かの誕生日にプレゼントを選んだのは、これが初めてだった。
お店ではずいぶん迷った。コスメの方がいいのか、小物の方が使いやすいのか、何度も棚の前を行き来した末に、私が一番渡したいと思ったものを選んだ。
それを今、花音ちゃんが手首につけようとしている。
「花音ちゃーん! 私からも!」
「東雲さん、昨日駅前で見つけたんだけど——」
すぐに別の子たちも集まってきて、机の上には次々と包みが並んだ。
「花菜ちゃん、このブレスレット可愛い!」
「向日葵なんだ! すごく似合ってる!」
「えっと……その、お店で見つけて……」
「花菜ちんが選んでくれたんだよー!」
「へえ、いいじゃん!」
「でしょー?」
なぜか花音ちゃんの方が得意げに答える。
すぐ横から別の子まで話に加わって、机のまわりはますます賑やかになった。
次のチャイムが鳴るまで、私はそのまま花音ちゃんたちと話していた。
十二月九日 花園花菜
「今まで、本当にありがとうございました」
私は、十年近くお世話になったピアノの先生へ深く頭を下げた。
「こちらこそ。あなたは、本当によく頑張りました」
今日は、最後のレッスンだった。
先週、お母さんと話し合って、受験に向けて習い事を辞めることを決めた。
これからは、その分も勉強に力を入れていく。
寂しくないと言えば嘘になるけど、私が考えて、ちゃんと選んだ。
「…………」
「先生……?」
顔を上げても、先生はすぐには何も言わなかった。
「……花菜ちゃん、本当に大きくなったね」
「っ……」
十年という時間が、その一言で一気に蘇ってきた。
コンクールで思うように弾けなくて悔しかった日も、昨日まで弾けなかった曲を最後まで弾けて、先生と喜んだ日もある。
上手くいかない時には何度も励ましてもらい、できるようになった時には、私以上に喜んでくれた。
振り返れば、ピアノを弾いてきた時間のそばには、いつも先生がいた。
「……先生っ!」
私は先生のもとへ駆け寄り、そのまま抱きついた。
「本当に、本当にありがとうございました……!」
「……こちらこそ、ありがとう」
背中に先生の手が添えられる。
ピアノを好きだったから、ここまで続けてこられた。でも、それだけじゃなかった。
先生は、私が練習してきた時間を認めてくれた。
コンクールの結果より、前よりできるようになったことを喜んでくれた。
だから私は、ここへ来るのが好きだった。
「ずっと、ピアノを好きでいてね」
「はい……っ」
迷わず頷いた。
「また、弾きに来ます」
「ええ。いつでも待っています」
♢
教室を出ると、十二月の冷たい空気が頬に触れた。歩き出そうとしたところで、目の前を白いものが横切る。
「……雪」
今年初めての雪だった。手のひらに落ちて、すぐに消える。
あの人も、どこかでこの雪を見ているのかな。
今、どこにいるんだろう。学校には通っているのかな。まだ絵は描いているのかな。
「……」
考えてみれば、私は今のあの人を知らない。
夏が終わって、秋も過ぎたのに、あの人のことだけは、あの日から何も増えていなかった。
私の中にいるのは、今でもあの夏の、あの人だった。
雪は静かに降り続いている。
どこにいるのかも知らない人と、同じ雪を見ているかもしれない。
それだけで近くなったような気がした。そんなはずはないのに、空から目を離せなかった。
十二月二十五日 花園花菜
——コンコン。
夜。机に向かって問題集を解いていると、控えめなノックが聞こえた。
「……お母さん?」
扉が開き、お母さんが部屋へ入ってくる。
手には、湯気の立つティーカップを載せたトレーがあった。
「花菜。休憩しなさい」
「あ……ありがとうございます」
机の端に置かれた紅茶から、レモンの香りが立ちのぼる。
一口飲むと、冷えていた身体に熱が戻ってきた。
けれど、お母さんはそのまま部屋を出ようとはしなかった。
「……どうしたんですか?」
「いえ、その……」
珍しく、お母さんの方が言い淀んでいる。
「……最近、学校はどうですか?」
「え……?」
聞き間違えかと思った。
お母さんが尋ねたのは、テストの点数でも、勉強の進み具合でもない。
「学校……ですか?」
「ええ」
そんなふうに、私の学校での毎日を聞かれたのは初めてだった。
どう答えようか迷っているうちに、花音ちゃんと遊びに行った日や、文化祭でみんなと過ごした時間が次々に浮かんできた。
そうして振り返ってみると、答えはもう決まっていた。
「……とても、楽しいです」
スマホの写真フォルダには、この三ヶ月で撮った写真が何枚も増えていた。
「そうですか……」
お母さんは、それ以上何も聞かなかった。
「勉強の邪魔をしてしまいましたね」
「いえ、そんなことは……」
「あまり根を詰めすぎないようにね」
「はい……」
お母さんが部屋を出ていく。
私は机の上のスマホを手に取り、写真フォルダを開いた。何枚か眺めてからスマホを伏せ、もう一度紅茶を飲む。
まだ、温かかった。
一月一日 花園花菜
年が明けた。吐く息は真っ白で、頬に当たる空気が痛いほど冷たい。
朝から降り続いている雪が境内を薄く覆い、石畳にも白い跡を残している。
ぼぉぉん——
遠くから鐘の音が響いた。
拝殿の前には手を合わせる人が並び、参道には屋台から流れてくる甘酒の匂いが混じっている。
去年までの私は、お正月に友達と初詣へ来るなんて考えたこともなかった。
「ねぇ花菜ちん、おみくじ引いていこ!」
「あ……うん」
花音ちゃんに続いて木箱を振ると、ころりと一本の棒が出てきた。
「今年は……」
花音ちゃんが先に紙を開く。
「うわぁー! 小吉なんだけど⁉」
「……私は、末吉」
願い事——時が来るのを待て。
金運——他人を助けよ。
待ち人——来ず。
旅行——遠くに行くが吉。
学問——雑念多し。全力を尽くせ。
なんだか、今の私にわざと当てつけているみたいだった。
「……来年じゃなくてよかった」
「ん? 何が?」
「なんでもない……」
受験の年にこれを引いていたら、もっと落ち込んでいたかもしれない。
「花菜ちん。こういう時はね、おみくじを結ぶんだよ!」
「……結ぶ?」
「そうそう! 悪い運をここに置いてくの!」
「そうなの……?」
花音ちゃんに連れられて、おみくじを結ぶ場所へ向かった。
本当に悪い運を置いていけるのなら、この末吉もここへ残してしまいたい。
手袋を外した途端、冷たい風が指の間を抜けた。
「ひゃっ……」
かじかんだ指では紙をうまく扱えず、結ぼうとするたびにするりと逃げていく。
「花菜ちん、不器用だねぇ」
「うぅ……見ないで」
「手伝おっか?」
「だ、大丈夫。自分でやる」
「おー、頑張れ頑張れ」
何度かやり直して、ようやく紙がほどけない形になった。
「できた……」
「やるじゃんー」
「おみくじ結んだだけだよ……」
「でも、五分くらい格闘してたよ」
「そんなにかかってないもん」
言い返しながら手袋をはめ直す。
枝には、私の末吉が花音ちゃんの小吉と並んで揺れていた。
四月七日 花園花菜
「花菜ちんー! 一緒だったよー‼」
「ほんと? よかった……!」
校庭の桜が春風に揺れ、淡い花びらが昇降口まで流れてくる。
新しいクラスが貼り出された掲示板の前では、あちこちから歓声が上がっていた。
「一緒だ!」
「また同じクラスじゃん!」
そんな声に混じって、花音ちゃんが私の背中を叩く。
「これからもよろしくねー!」
「うん、よろしく……!」
前までは、クラス替えなんてどうでもよかった。
誰と同じになっても、学校ですることは変わらない。
授業を受けて、勉強して、帰る。それで十分だと思っていた。
でも今は、新しい名簿に並んだ知らない名前の人まで、ちょっと気になってしまう。
どんな子がいるんだろう。これから、誰とどんな話をするんだろう。
そんなことを考えるだけで、新しい一年が前よりずっと楽しみになっていた。
「行こ、花菜ちん!」
花音ちゃんに続いて昇降口を抜け、新しい教室へ向かった。
♢
放課後、お母さんと、お父さんのお墓へ行った。
今日はお父さんの命日だった。お母さんと並んで手を合わせる。
去年まで、この日が来ると昔のことばかり考えていた。
今年は、話したいことがたくさんあった。
学校が楽しいことや、花音ちゃんとまた同じクラスになったこと。勉強が難しいことや、お母さんとは、まだ上手く話せないことまで。
「……お父さん」
墓石に向かって呼びかける。今はそれで十分だった。
帰り際、お母さんが先に歩き出す。私はもう一度だけ振り返った。
「また来るね」
今度は迷わず、お母さんのあとを追った。
♢
それからの日々は、驚くほど穏やかだった。
新しいクラスにも慣れ、授業を受けて、家へ帰れば机に向かう。
校庭の桜は若葉へ変わり、制服も夏服へ変わった。
学校へ行って、友達と話して、家へ帰る。そんな毎日が、いつの間にか当たり前になっていた。
知らない番号からの着信に、あの人かもしれないと期待することも減った。
駅で似た背中を見つけても、追いかけなくなった。
忘れたわけじゃない。嫌いになったわけでもない。
ただ、あの人がいなくても、私の毎日は続いていった。
そして季節は、また夏へ近づいていた。