夏休みも、もう半分以上が過ぎていた。
昼食を取ろうとリビングへ向かっていると、お母さんの寝室の扉が開いたままになっていた。通り過ぎかけて、足を戻す。
扉を閉めようとしたところで、部屋の奥にある机が目に入った。
引き出しがきちんと収まっておらず、その隙間から白い封筒が覗いている。
リビングからは、お母さんが作業をしている音が聞こえていた。
勝手に触るつもりなんてなかった。けれど、封筒にはこう書かれていた。
「……愛する花菜へ?」
見覚えがある。丸みを帯びた、懐かしい字だった。
もう一度、リビングの方を確かめる。
それから私は封筒を取り出し、中の便箋を開いた。
花菜へ。
これを読んでいるということは、俺はもうこの世にはいないんだろうな……なんて、最初から縁起でもないことを書くのはよくないか。
ただ、もしもの時に何も伝えられないままになるのは嫌だったので、父さんが今のお前に伝えておきたいことを、この手紙に残しておこうと思います。
お前が生まれたのは、とても暑い夏の日でした。
八月二十日。好葉——お前の母さんがいる病室に、大きな産声が響きました。
本当にびっくりするくらい大きな声だった。
俺も泣いていたし、生まれたばかりのお前も泣いていた。好葉まで泣いていた。
泣いている人しかいない部屋なのに、あんなに幸せだった日はほかにありません。
あの日、父さんは初めて、自分が父親になったんだと実感しました。
好葉の腕に抱かれていたお前は、本当に小さかった。
抱き上げるのも怖いくらいだったのに、父さんには何より大切な存在に思えました。
それからのお前は、驚くほど早く大きくなりました。
病気のせいで、好葉に任せてしまったことも多かったな。
本当はもっと一緒に遊びたかったし、もっと抱っこしてやりたかった。
できなかったことを数え始めると、今でも申し訳なくなります。ごめんな。
父さんの病気のこともあって、俺たちはあの町へ引っ越しました。
前田君と出会ったのは、その頃だったかな。
人見知りで、知らない人の前ではいつも母さんの後ろに隠れていたお前が、前田君といる時にはずいぶん楽しそうにしていたのを覚えています。
父さんは、それを見るのが好きでした。
そういえば、お前が「ハルくんと喧嘩した」って泣きながら帰ってきた日もあったな。
父さんが「謝りに行きなさい」と言っても、あの日のお前は全然聞かなかった。
ああいう頑固なところは、たぶん俺に似たんだろう。
だけど次の日になると、お前は「ハルくんと仲直りしたい」と言い出しました。
それを聞いて安心して玄関を開けたら、ちょうど前田君が立っていたんだから驚いたよ。
今でも、前田君とは仲良くしていますか。もし今もそばにいるなら、その縁を大切にしてください。
もちろん、前田君だけじゃありません。これから先、お前はきっといろんな人と出会います。
ずっとそばにいる人もいれば、いつか離れてしまう人もいるでしょう。
それでも、大切に思える誰かと出会えたことまで、なくなるわけではありません。
だから、人を大切にできる子でいてください。
そして、お前自身も誰かから大切にされることを、怖がらないでほしい。
母さんは元気ですか。
俺がいなくなったあと、きっと一番寂しい思いをするのは好葉だと思います。
あの人は強そうに見えるし、実際とても強い人です。でも、何でも一人で平気なわけじゃありません。
心配するあまり、お前に厳しいことを言う日もあるかもしれない。そんな時は、黙って我慢するんじゃなくて、自分がどう思っているのかを母さんに話してください。
たぶん好葉も、お前が言葉にしてくれなければ分からないことがあるから。
花菜。何かあった時に、一人でどうにかしようとしなくていい。
困ったら誰かに話して、助けてもらってください。
父さんも、もっとそうしていればよかったと思うことがあります。
大人になった花菜へ。
まずは、ごめん。本当は、お前が大人になっていく姿を父さんが一番近くで見ていたかった。
どんな夢を持ったのか、どんなことで喜んで、何に悩んだのか、できることなら、お前の口から聞きたかった。
それができないことは、やっぱり悔しいです。でも、お前がここまで大きくなったなら、それだけで父さんは嬉しい。
花菜。一生懸命、生きなさい。
いつもうまくやる必要はありません。
苦しくなったら休んでもいいし、どうしても無理なら、その場所から離れたっていい。
自分一人ではどうにもならない時は、誰かの力を借りてください。
ただ、自分の人生まで諦めないでほしい。失敗もすると思います。誰かと喧嘩することも、何を選べばいいのか分からなくなることもあるでしょう。
それでも、その度に自分で考えて、自分なりに進んでいってください。
嬉しいことがあったら、遠慮せずに喜んでください。
まだまだ書きたいことはあるけれど、そろそろ紙がなくなりそうです。
父親になってからというもの、花菜にはあれをしてほしい、こうなってほしいと、いろんなことを考えてきました。
でも、最後に残った願いは、とても単純なものでした。
花菜。
幸せに、なりなさい。
♢
手紙は、そこで終わっていた。
便箋の余白には、小さな向日葵畑が描かれている。
花の真ん中には私がいて、その隣にはお母さんがいた。少し離れたところには、照れくさそうな顔をした男の子もいる。
上手な絵ではない。線もところどころ歪んでいる。
それなのに、見ているうちに、お父さんがこれを描いていた時の姿まで浮かんでくるようだった。
「……お、おとう……さん……」
名前を呼んだところで、声が続かなくなった。
便箋の文字が滲んでいく。涙が落ち、紙の上に小さな跡を作った。
手紙が床へ落ちる。私はすぐに拾い上げ、折れないように両手で包んだ。
もう一度読み返したいのに、文字を追うことができない。
お父さんは、最後まで私のことを考えてくれていた。
手紙を封筒へ戻そうとして、途中で手を止める。
今は、まだしまいたくない。それに、お母さんにも聞きたいことがある。
私は立ち上がり、寝室を出た。
♢
無我夢中なまま、私は廊下を急いだ。リビングの扉を開ける。
「お母さん!」
作業をしていたお母さんが振り返った。私はお父さんの手紙を差し出す。
「これ、見つけたの」
お母さんは何も言わず、便箋を見た。
「……それは……」
いつものお母さんからは想像できないほど、頼りない声だった。
「勝手に入ってごめんなさい。扉が開いてて、閉めようとしたら……引き出しから封筒が見えて」
「……そう」
お母さんはしばらく手紙を見ていた。
「見つけたのね」
「うん」
「本当は、あなたが二十歳になった日に渡すつもりでした」
「どうして……今まで渡さなかったの?」
「あなたを、苦しめたくなかったからです」
答えはすぐに返ってきた。
「あの人のことを思い出せば、あなたがまた苦しくなるんじゃないかと思っていました。だから、もう少し大人になってからの方がいいと……私が勝手に決めていたんです」
最後の言葉を聞いて、私はお母さんを見た。
「……お母さん」
「なに?」
「私ね、ずっとお母さんが怖かった」
お母さんから返事がなかった。
「何をしても怒られる気がして、何を言っても否定される気がしてた。だから、お母さんがどう思うかばっかり考えて、自分がどうしたいのかも分からなくなってた」
「……ええ」
お母さんは、その場から逃げずに私の話を聞いている。
「でも、この一年は違ったよね」
放課後に出かけても、帰る時間を伝えれば送り出してくれた。勉強していると紅茶を持ってきてくれて、成績ではなく、学校で何があったのかを聞いてくれたこともある。
「最初はびっくりした。でも、嬉しかった」
「……」
「私も、言いたいことを言えるようになった。行きたい場所も、やりたいことも、自分で決めていいんだって分かった」
去年までなら、こんなことをお母さんに話す自分なんて想像できなかった。
「友達もできた。学校も楽しい。将来のことだって、ちゃんと考えられるようになった。だからね、私、自分のことを好きになれたの」
お母さんは、すぐには答えなかった。やがて頬を伝った涙を、そのままにしてお母さんは口を開く。
「……ごめんなさい。あなたのためだと思っていました。間違えさせたくない、苦労させたくない、その一心で……いつの間にか、あなたが何を望んでいるのかを聞かなくなっていました」
「お母さん……」
「あなたが怖がっていることにも、気づこうとしなかった。本当に、ごめんなさい」
ずっと聞きたかった言葉だったのかもしれない。
でも実際に聞いて、やっと分かってもらえたとは思わなかった。
ただお母さんは、やっぱり私のお母さんだった。
「……私も、もっと早く言えばよかった」
そう言って、私はお母さんに一歩近づいた。
「変わってくれて。私の話を聞いてくれて……ありがとう、お母さん」
今度は私から、お母さんを抱きしめた。
一瞬だけ身体が強張ったあと、お母さんの腕がゆっくりと背中へ回ってくる。
子どもの頃は、もっと大きな人だと思っていた。
久しぶりに抱きしめたお母さんは、記憶の中よりずっと小さかった。
それでも、その背中に触れていると、ようやくここまで来られた気がした。
しばらくして腕をほどくと、お母さんは私の手にある便箋へ目を向けた。
「……あの人らしい手紙ね」
「うん」
最後に書かれていた言葉を思い出す。
お母さんも、同じところを思い浮かべていたのかもしれない。
けれど、そのまま話は終わらなかった。
「……花菜」
「はい」
呼ばれて、お母さんの方を向く。
「あなたに、話しておかなければならないことがあります」
さっきまでとは違う声音だった。
「今まで、言えずにいました。本当は、このまま黙っているつもりだったんです」
そこまで言ってから、お母さんは言葉を選ぶように間を置いた。
「でも、それではまた、私があなたの知らないところで勝手に決めることになる」
お母さんはそこで言葉を切った。
「だから、今度はきちんと話しておきたいんです」
「……何を?」
「一年前の夏のことを」
「一年前……?」
「ええ。あなたが知らない、あの日のことです」
♢
「あの日って……」
去年の夏が蘇った。あの人と二人で、知らない町を歩いた日々。
「あの日、あなたが知らなかったことがあります。朝、私はあなたを迎えに行きました」
「……うん」
あの朝のことは、今でも覚えている。
目を覚ました時、隣にハルくんはいなかった。
私に黙ってお母さんと連絡を取っていて、最後には私を置いていった。
あの旅を本気で信じていたのは、私だけだった。
「花菜」
呼ばれて、お母さんの方へ意識を戻す。
「あなたは、前田君に裏切られたと思っていたでしょう」
「はい……」
「私は、それを訂正しませんでした」
「え?」
「あなたが前田君を恨んだ方が、あの子から離れられると思ったからです」
すぐには意味が分からなかった。
「……どういうこと?」
「前田君を悪者にしたまま、私は何も話さなかったということです」
お母さんの言葉がそこで途切れる。
「でも、それは間違っていました」
「間違ってた……?」
「ええ。あなたはこの一年、お友達と遊んで、自分の将来のことまで考えるようになった。それなのに私は、あの日のことをあなたに判断させようとしなかった」
リビングには、時計の針が進む音だけが残った。お母さんは一度唇を結び、それから口を開く。
「だから話します。前田君は、あなたを見捨てたわけではありません」
「……え?」
「前日の夜、私はあの子と会いました。その時、前田君は私に怒りました。あなたがどれだけ苦しんでいたのか、本当に分かっているのかと」
「ハルくんが……?」
「ええ。それから、何度もあなたのことで頭を下げました。頭を下げるべきだったのは、私の方なのに」
海へ行った日の会話を思い出した。
『お前の母さんのことなら、気にしなくていい』
あの時にはもう、お母さんとメールを交わしていたはず。
それでもハルくんは、私を不安にさせるようなことを何ひとつ言わなかった。
「私はあの日、初めて分かりました」
「何が、ですか」
「前田君が、本当にあなたを大切にしていたことです」
「っ……でも、だったら……どうして、いなくなったの?」
「……前田君は、迷っていました」
「迷ってた……?」
「あなたを連れて行くのか、ここへ戻すのか。どちらがあなたのためになるのか、最後まで決めきれずにいました」
「じゃあ……ハルくんも、迷ってたの?」
「ええ。そして最後に、あなたをここへ戻す方を選びました」
「そんなの……」
知らなかった。私には、何も迷わず置いていったようにしか見えなかった。
だからずっと、ハルくんは私より先に、あの旅を終わらせていたのだと思っていた。
「最後に決めたのは、あの子です。でも、あの子にそんな選択をさせたのは、私です」
自分の責任へすり替えることも、ハルくんの決断をなかったことにすることもせず、お母さんはあの日のことを話していた。
「花菜。あなたは、どうして前田君が何も言わずにいなくなったと思っていたの?」
「……分かりません。何度考えても、思いつきませんでした」
お母さんは携帯を取り出し、画面を何度か操作してから私へ差し出した。
表示されていたのは、去年の八月十八日。
私がお母さんに連れ戻された、あの日だった。残されていたメッセージは一通だけ。
『花菜のこと、よろしくお願いします。 ずっと大好きでした』
その一行を読んで、もう一度読み直した。何度読み直しても、そこにある言葉は変わらなかった。
「あの子は、最後まであなたを大切にしていました」
「そんな……」
一年間ずっと信じ込んできたものが、音もなく崩れていく。
こんな言葉を残しておいて、私には何も言わずにいなくなるなんて、どこまで勝手なんだろう。
「……ばか」
ハルくんは、やっぱりハルくんだった。
あの夏、一緒に歩いたことも、くだらないことで言い合ったことも、私を好きだと言ってくれたことも、嘘ではなかった。
だからといって、何も言わずに置いていったことまで許せるわけじゃない。
勝手だと思う。私の気持ちも聞かず、一人で決めたことには腹が立つ。
それでも、一つだけ分かった。
私たちが過ごしたあの夏そのものまで、裏切りだったわけじゃない。
この一年、私はいろんなものを手に入れた。花音ちゃんと出かけて、クラスのみんなと写真を撮った。
お父さんには自分が進みたい道を報告できたし、お母さんとも以前よりたくさん話せるようになった。
それは、ハルくんに与えられたものじゃない。私が、自分で選んできたものだった。
そしてきっと、ハルくんが私をここへ戻したのも、私が誰かについていくのではなく、自分で選べるようになることを望んだからなのだ。
「ハル……くん」
その名を口にした。
会いたい。
どうして何も言ってくれなかったのか、本人の口から聞きたい。
勝手に決めるなって怒りたい。
それから、花音ちゃんのことも、学校のことも、お母さんのことも、この一年で私にあったことを、聞いてほしいことがなくなるまで話したい。
そして最後には……今でもあなたのことが好きだと、ちゃんと伝えたい。
「……止めても、行くのでしょうね」
お母さんは引き出しから紙とペンを取り出し、何かを書き始めた。
「これを」
「……住所?」
「前田君のおじいさん達が暮らしている家です」
住所の下には、家までの簡単な行き方まで書かれていた。
「ハルくんの……?」
「ええ。前田君は、きっとここにいます。近いので、学校も同じところに通ってるのでしょう」
「っ……!」
「行ってきなさい、花菜」
「お母さん……」
呼びかけてから、お母さんを見た。
お母さんの目はまだ赤かった。それでも、私と向き合う表情は穏やかで、泣いた跡の残る目元には柔らかさが戻っていた。
私が続けるのを、お母さんは何も言わずに待っている。一度だけ唇を結び、私はその顔をまっすぐ見返した。
「私、ハルくんと一緒にいたい」
お母さんはすぐには答えなかった。ただ、私を見つめる表情はどこか穏やかだった。
やがて、その手が私の頭に触れる。
「気をつけてね、花菜」
「行ってきます……!」
玄関を出る。
外には大きな入道雲が立ち上がり、真夏の日差しが道路を白く照らしていた。
一年前と同じ季節だった。けれど、今度は逃げるためじゃない。
一年越しに、あの夏の続きを——迎えに行くために。
♢
息を切らしながら、目的の家へ辿り着いた。
紙に書かれた住所を確かめ、もう一度、門柱の表札と見比べる。
間違いない。ここが、ハルくんのおじいちゃんとおばあちゃんの家だ。
この扉の向こうに、ハルくんがいる。そう思った途端、インターフォンへ伸ばしかけた指が止まった。
いざ家を前にすると、一年ぶりの再会が急に現実味を帯びてくる。
最初になんて言えばいいんだろう。勝手にいなくなったことを怒るべきなのか。それとも、そんなことは後回しにして、抱きついてしまってもいいのだろうか。
考えたところで答えなんて出なかった。私はそのまま、勢いに任せてインターフォンを押した。
家の中で呼び出し音が鳴る。しばらくして、玄関の向こうから足音が近づいてきた。扉が開く。
「……どちら様?」
顔を出したのは、白髪を短く整えた女の人だった。
ハルくんじゃなかった。分かっていたはずなのに、期待していた分だけ落胆してしまう。この人は、たぶんハルくんのおばあちゃんだ。
「あ、えっと……花園、花菜といいます」
どうしていいか分からず、深く頭を下げる。
返事がない。
そのまま数秒待ってから顔を上げると、おばあちゃんは私の顔をじっと確かめていた。
「ああ……」
やがて、何かに納得したように頷く。
「あなたが、花菜ちゃんなのね」
「え……?」
初めて会ったはずなのに、どうして私の名前を知っているんだろう。
聞きたいことはいくつも浮かんだが、今はそれより先に確かめたいことがあった。
「あ、あの……ハルくんは、いますか?」
おばあちゃんは一度家の中を振り返ってから、首を横に振った。
「晴なら、少し前に出ていったよ」
「……そう、ですか」
ここまで走ってきた勢いが、その一言で行き場をなくした。ようやく会えると思っていたのに、またいない。
「すぐに帰ってくるかは、分からないけどね」
「はい……」
「よかったら、部屋で待っているかい?」
「え……?」
「ここまで走ってきたんでしょう。顔が真っ赤だよ」
言われて初めて、額から汗が流れていることに気づいた。
「外、暑かったね。中でゆっくりしていきなさい」
「でも……」
ハルくんがいないのに、上がってしまっていいんだろうか。
私が返事を決めかねているうちに、おばあちゃんは一歩脇へ寄り、玄関の奥を空けてくれた。
「遠慮しなくていいよ。晴が帰ってきたら、きっと驚くから」
「あ……ありがとうございます」
その一言で、帰る理由はなくなった。
「……お邪魔します」
おばあちゃんに招かれ、玄関へ足を踏み入れた。
古い木の匂いがする家だった。靴を脱いでいると、その中に別の匂いが混じっていることに気づく。
絵の具の匂いだった。もう一年も嗅いでいなかったのに、間違えるはずがなかった。
♢
家の中は、静かだった。
外ではあれだけ蝉が鳴いていたのに、玄関の扉が閉まった途端、その声が遠くなる。
「麦茶でいいかい?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「じゃあ、持ってくるから待っててね」
おばあちゃんはそう言って、台所の方へ向かっていった。
私は一人、居間に残される。座っていいのかも分からず立っていると、不意に足首へ柔らかなものが触れた。
「あ……」
一匹の猫が、私の足に身体を擦りつけている。首元には、星形の飾りがついた首輪が揺れていた。
猫を飼ったことのない私は、どう接すればいいのか分からず、その場にしゃがむ。
「おいで……」
頭を撫でてみると、猫は逃げるどころか、もっと撫でろと言わんばかりに頭を押しつけてきた。
「にゃー」
「……可愛い」
もう一度撫でると、今度は私の膝の近くに座り込む。
その背中に触れながら、改めて居間を眺めた。
廊下には大きな時計が掛かり、壁際の古い棚には写真立てや置物が並んでいる。
私の知らない一年を、ハルくんはこの家で過ごしていた。
ここでご飯を食べて、この廊下を歩いて、何でもない毎日を過ごしていたんだろうか。
その奥まで何となく眺めていると、ひとつだけ扉が開いているのに気づく。
隙間から覗いているのは、白いキャンバスだった。
「そこ、晴の部屋だよ」
「っ……」
声に驚いて振り返ると、おばあちゃんが麦茶の入ったコップを持って戻ってきていた。
「す、すみません。勝手に見ようとしたわけじゃ……」
「いいの、いいの。気になるでしょう?」
否定できなかった。むしろ、気になって仕方がない。
「入って待ってたらいいよ」
「えっ」
「晴も、その方が喜ぶと思うから」
「……ハルくんが?」
「えぇ」
おばあちゃんはそれ以上説明せず、麦茶を私へ渡した。
けれど、さっきからどうにも引っかかる。
玄関で名前を言った時もそうだった。初めて会った相手に向ける反応とは、どこか違っている。
「ありがとうございます……」
麦茶をテーブルへ置いてから、私は廊下の奥へ向かった。
扉に近づくにつれて、玄関で感じた絵の具の匂いが濃くなっていく。
ここが、ハルくんの部屋。
ドアに触れたものの、そのまますぐには開けられなかった。
一年間、私の知らなかったハルくんが、この先に残っている。
しばらくして、私はドアノブを回した。
薄いカーテンを通った夏の日差しが、床まで伸びている。
窓際には机があり、その横に本棚とベッドが並んでいた。
壁際には何枚ものキャンバスが立て掛けられ、机の上には鉛筆や絵の具が置かれていた。
物は多くないし、きちんと片付いている。
それなのに、部屋に染みついた絵の具と紙の匂いを吸い込んだ途端、初めて入った場所とは思えなくなった。
「ハルくん……」
名前を呼んでも、当然返事はない。
なのに、今にもどこかから「何だよ」と面倒くさそうな声が返ってきそうだった。
部屋へ入ると、机の上に一枚の写真が置かれているのが分かった。
「……?」
写っているのは、描きかけの絵だった。
向日葵が地平線の近くまで続き、その真ん中で、一人の女の子がこちらを振り返っている。長い髪を風になびかせながら、画面の外にいる誰かの手を引いていた。
まだ下描きらしく、どこにも色は塗られていない。
それでも、その女の子が誰なのかはすぐに分かった。
「…………え?」
写真を持ち上げ、もう一度確かめる。
髪の長さも、服も、振り返った姿も覚えている。
描かれていたのは、私だった。
「なんで……」
写真を持ったまま動けずにいると、背後から声が聞こえた。
「あの子ね、この一年、花菜ちゃんの話をよくしていたよ」
振り返ると、おばあちゃんが部屋の入口に立っていた。
「……私の?」
「えぇ。それから、何度も同じ女の子を描いていた」
私はもう一度、写真へ視線を戻す。
「何度描いても納得できなかったみたいでね。描き直しては、また最初からやり直していたよ」
私がハルくんを忘れようとしていた一年の間、ハルくんは何度も私を描いていた。
「でも、昨日だったかな。やっと納得できる下描きができたみたいでね。『今度こそ完成させる』って、昼過ぎに画材を持って出ていったよ」
その言葉を聞いて、改めて写真を確かめる。
まだ色のない向日葵畑なのに、この景色には覚えがあった。あの夏、ハルくんとお父さんと三人で訪れた場所。
「ここ……」
おばあちゃんが隣から写真を覗き込む。
「私は見たことがないんだけどね。花菜ちゃんは、知ってるかい?」
向日葵畑の中で振り返る私。その先には、絵の外へ伸ばされた手がある。
誰の手を引いていたのかなんて、考える必要もなかった。
「……知ってます」
「え?」
「私、ここを知ってます!」
写真を机へ戻した途端、もうここで待っていることなんてできなくなった。
「おばあちゃん、ごめんなさい! 私、行かないと……!」
頭を下げ、そのまま部屋を飛び出す。
「あっ、花菜ちゃん!」
廊下を駆け抜け、玄関へ飛び込んだ。
慌てて靴を履こうとするが、踵が引っかかって一度では入らない。
「もうっ……!」
しゃがんで直していると、おばあちゃんが後ろから追いついてきた。
「そんなに慌てなくても、晴は逃げやしないよ」
その言葉で、靴を直していた手が止まる。
逃げない。
一年前の朝。目を覚ました時には、もうハルくんはいなかった。探しても追いかけても、会うことはできなかった。
でも今は違う。どこへ行けば会えるのか、もう分かっている。
「……はい!」
靴を履き直して立ち上がり、玄関の扉へ向かう。けれど、そのまま出ていく前に振り返った。
「あの……ありがとうございました!」
「いいんだよ。行っておいで」
「行ってきます……!」
扉を開けた途端、真夏の日差しが容赦なく降り注いだ。
一年前と同じ夏の中を、私はもう一度走り出す。
あの時はどれだけ追いかけても届かなかったけれど、今度は行き先が分かっている。
その先には、一年間ずっと会いたかった人がいる。
「……待ってて、ハルくん!」
♢
「ただいま!」
玄関の扉を開けると、リビングからお母さんが顔を出した。
「……花菜?」
ついさっき送り出した娘がもう帰ってきたのだから、驚くのも当然だった。
「どうしたの?」
「お母さん……!」
靴を脱ぎ、そのままリビングまで駆ける。
「ハルくん、いませんでした」
「……そう」
「でも、違うの。いなかったんだけど……」
話したいことはあるのに、どこから説明すればいいのか分からない。
ハルくんの部屋で見つけた写真も、向日葵畑を描いた絵も、それを見て分かったことも、一度に口から出そうになる。
「花菜」
「っ……」
「落ち着いて。ちゃんと聞きますから」
「……うん」
急いできたせいで乱れた呼吸を整えてから、最初から話すことにした。
「ハルくんのおばあちゃんに、部屋で待ってていいって言われて……それで、ハルくんの部屋に入ったの」
「ええ」
「そこに、絵の写真があった」
「絵?」
「……私の絵。向日葵畑の中に、私がいる絵だった。まだ下描きで、色はついてなかったんだけど……私、あの場所を知ってる」
写真の中の景色が、あの夏に見た向日葵畑と重なっていく。
「昔、お父さんとハルくんと三人で行った、あの向日葵畑」
「……あそこですか?」
「うん……」
お母さんも覚えていた。
「おばあちゃんの話だと、ハルくんは昼過ぎに画材を持って出かけたみたい。『今度こそ完成させる』って言ってたらしいの。だから、多分……ハルくん、あそこにいると思う」
もし違っていて、また会えなかったとしても、ここで待ち続けるつもりはなかった。
「お母さん。私、行きたい」
お母さんの答えを待つために言ったんじゃない。
ハルくんに会いたい。今度は、その気持ちを黙らずに伝えたかった。
「本当に、あなたは……前田君のことになると、昔から一直線ですね」
「えっ……?」
そんなふうに言われるとは思わなかった。
お母さんはそのままスマートフォンを取り出し、何かを調べ始める。
「電車だけでは行けません。途中で乗り継いで、最寄りの駅からも歩きます」
「う、うん」
「それから、今から向かえば着く頃には暗くなります。今日は近くに泊まりなさい」
「……はい」
「向日葵畑へ行くのは、明日にした方がいいでしょう。前田君も、今日はもう泊まっていると思うから」
「分かりました」
「宿が決まったら連絡すること。お金は持っていますか? それから——」
そこまで言ったところで、お母さんは続きかけた言葉をやめた。
「……いえ、もういいですね」
「え?」
「花菜、準備をしてきなさい。急ぐのでしょう?」
「……うん!」
階段へ向かいかけたところで、もう一度振り返る。
「お母さん……ありがとう!」
「いいから、早くしなさい。電車に乗り遅れますよ」
「はい!」
二階へ駆け上がり、自分の部屋へ飛び込んだ。
鞄を開いて、財布とスマートフォンを入れる。タオルと飲み物も必要。着替えを選んでいる途中で、クローゼットに掛かったお気に入りのシアーブラウスが目に入り、それも畳んで鞄へしまった。
去年は、こんな準備さえしなかった。
どこへ行くのかも、その先でどうするのかもあまり考えず、ただ家から離れることしか頭になかった。
鞄のファスナーを閉め、肩へ掛ける。
階段を駆け下りると、お母さんはまだ玄関にいた。
「忘れ物はありませんか?」
「大丈夫……だと思います」
靴を履き、立ち上がる。
「気をつけて行きなさいね」
「うん」
扉を開ける前に、私はもう一度お母さんを振り返った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、花菜」
玄関を出ると、さっきまでと変わらない夏の暑さが待っていた。
背後で扉が閉まる。でも今度は、その向こうに帰ってくる家がある。
私は鞄を掛け直し、駅へ向かって走り出した。
♢
駅へ急ぎながら、スマートフォンを取り出した。
このまま電車に乗る前に、一人だけ話しておきたい人がいる。
「花音ちゃん……」
ラインを開き、そのまま通話ボタンを押した。数回の呼び出し音のあと、すぐに声が返ってくる。
『……花菜ちん?』
「花音ちゃん……!」
『んー、どしたー?』
「あ、あのね……私、会いに行ってくる」
『……へ? 誰に?』
「ハルくんに」
『…………』
「花音ちゃん?」
『はぁぁぁぁぁっ⁉』
「うわっ!」
慌ててスマートフォンを耳から離す。
『ちょ、ちょっと待って! もしかして、前田君⁉』
「う、うん……」
『なんで⁉ 何があったの?』
「えっと……」
説明しようとすると、今日知ったことが一度に浮かんできて、どこから話せばいいのか分からなくなる。
「私……ハルくんのこと、ずっと勘違いしてた」
『……え?』
さっきまで矢継ぎ早に返ってきていた花音ちゃんの声が、そこで途切れた。
「ずっと、私のことを大切にしてくれてた」
『……そっか』
「だから、もう一度会いたい。ちゃんと会って、聞きたいこともあるし、言いたいこともある」
『うん』
「あと、その……私、今でも……ハルくんのことが好き」
『……知ってたよ』
「え……?」
『そんなん、とっくに知ってた』
「な、なんで……」
『だって花菜ちん、前田君の話になると、分かりやすすぎるもん』
「そんなことないよ……」
『あるって! この前だって好きなところ聞いたら、結局「全部」って言ってたじゃん』
「そ、それは……」
『はい、反論できなーい』
「もう……花音ちゃん」
こんな時まで、花音ちゃんはいつもの花音ちゃんだった。
『行ってきなよ花菜ちん。一年分、ちゃんと話してきな。怒りたいことも、聞きたいこともあるんでしょ?』
「うん……」
『で、好きって言いたいなら、それも言ってきな』
「分かった」
『あと帰ってきたら、私にも報告ね。ここまで恋バナ聞かされて、結果だけ教えてもらえないとか嫌なので』
「もう……勝手なんだから」
『花菜ちんにだけは言われたくないですー』
「なんで私なの……」
『自覚ないの⁉』
さっきまであれほど急いでいたのに、花音ちゃんと話している間だけは、いつもの放課後に戻ったみたいだった。
『花菜ちん。頑張ってね』
「うん……ありがとう、花音ちゃん!」
通話を切り、スマートフォンを鞄へしまう。
駅はもうすぐそこで、私はそのまま足を速めた。
♢
電車がゆっくりとホームを離れていく。
住宅街を抜けると、窓の外には田んぼが広がった。
夏の日差しを受けた稲が風になびき、遠くの山並みは白っぽい霞の向こうに続いている。
田んぼの間を通る細い農道では自転車が走り、その隣の小さな川が、ときどき強い光を返していた。
外を流れていく景色を、こんなに長く眺めるのは久しぶりかもしれない。
私は窓際の席で鞄を抱え直し、スマートフォンを取り出した。
向日葵畑のある町までは、まだ遠い。ここからいくつか電車を乗り継ぎ、最寄り駅に着いてからも歩かなければならなかった。
「大丈夫かな……」
乗換案内には、到着予定の時刻が表示されている。
顔を上げると、窓から差し込む光はさっきより低くなっていた。
ガラスには車内の座席と、その前に座っている私の姿が薄く重なっている。
その自分を眺めているうちに、今日ここまで来た道のりとは別の、懐かしい場所が頭に浮かんだ。
「あ……」
あの日から、一度も訪れていない。
スマートフォンの検索画面を開き、覚えていた店の名前を入力する。
「あった」
表示された地図を拡大してみると、今乗っている路線の途中駅からそれほど離れていない。
このまま向日葵畑へ向かうこともできるけれど、その店の名前を見てしまったら、素通りする気にはなれなかった。
『まもなく——』
車内アナウンスが、予定の停車駅の名を告げる。
「……よし」
電源を切り、降りる準備を始めた。
♢
電車を降りた途端、熱気がまとわりついた。
「暑……」
冷房の効いた車内に長くいたせいで、外の空気が余計に重く感じる。
改札を抜ける。一年前にも降りた駅だった。
あの時は、隣にハルくんがいた。知らない町でも、少し前を歩く背中を追っていればよかった。
スマートフォンで地図を開き、現在地から目的地まで伸びる線を確かめる。
「……こっち」
案内に従って歩き始めた。駅前を離れるにつれて、人通りが減っていく。
昔からありそうな商店の隣に古びた自動販売機が置かれ、民家の軒先では風鈴が鳴っていた。昼間の白さを残していた空にも、夕方の色が混じり始めている。
遠くの入道雲は輪郭だけが薄く染まり、アスファルトには私の影が長く伸びていた。
去年も、この町を歩いた。あの頃は、この先に何が待っているのかなんて知らなかった。
それでも、ハルくんと一緒なら、この時間がずっと続けばいいと思っていた。
でも今は、あの夏を追いかけるためだけにここへ来たわけじゃない。
家に帰ればお母さんがいるし、学校には花音ちゃんがいる。
そのうえで、もう一度あの人に会いたくて、この町まで来た。
夕方の風が、火照った頬を通り過ぎる。前方に、見覚えのある暖簾が揺れていた。
「あ……」
青川屋。
外観はほとんど変わっていない。古い看板も、入口の暖簾も、窓辺に置かれた鉢植えも、あの日のままだった。
私は店の前まで歩き、鞄の肩紐を掛け直す。
蝉の声に混じって、遠くからひぐらしが聞こえてきた。
髪を整えてから、扉を開ける。
「いらっしゃい」
店の奥から、聞き覚えのある声が飛んでくる。
お客さんの姿はなかった。
壁際には空になった水槽が置かれ、天井では古い扇風機がゆっくり首を振っている。
厨房からは、焼けた肉とソースの香りが流れてきた。
一年前とほとんど変わっていない。
奥には、ハルくんと向かい合ってご飯を食べた席も残っていた。
「……あら?」
店の奥から出てきたお婆さんが、こちらで足を止める。
「あ……えっと……」
どう挨拶すればいいのか分からず、私は背筋を伸ばした。
お婆さんは私の顔を確かめるようにしてから、声を上げる。
「もしかして……また来てくれたの?」
「え……?」
一年前に一度会っただけの私を、覚えていてくれてた。
「私のこと、分かるんですか?」
「もちろん、忘れないわよ。あんなに楽しそうにご飯を食べてた二人だもの」
あの夏の私たちは、この人にはそんなふうに見えていたんだ。
思い返せば、あの日は本当に楽しかった。
おばあさんが入口の方を確かめる。
「……前に一緒だった男の子は?」
「あ……今日は、私一人で……」
「あら、そうなの?」
「はい……」
「……そう」
それ以上は聞かず、おばあさんはまたこちらへ向き直った。
「あ、あの……」
「ん?」
「私、今日はご飯を食べに来たんじゃなくて……」
ここまで来ておいて、頼んでいいものか迷うけど、他に思いつく場所はなかった。
私はおばあさんに向き直る。
「お願いがあって、来ました」