『出来の悪い娘なんていりません』
一年前の、八月一日。
大雨の中、私は傘も持たずに家を飛び出した。
どこをどう走ったのかも覚えていない。足を止めた時には、見慣れた河川敷まで来ていた。
川は降り続く雨で濁り、いつもの穏やかな姿を失っている。対岸の景色も、灰色の雨の向こうに霞んでいた。
服も髪もすっかり濡れていたけど、もうどうでもよかった。
頑張って、お母さんの期待に応えて、いつか褒めてもらえたらと思っていた。
「……もう、いいや」
声は雨音に紛れて消えていった。
これ以上、何を頑張ればいいのか。お母さんに認めてもらうために頑張ったはずなのに、そのお母さんから「いらない」と言われたら、もう自分がどこへ向かえばいいのかも分からない。
そして——私は、欄干の向こうへ踏み出した。
「——花菜! やめなさい!」
聞こえるはずのない声が雨を切り裂いた。
「お父、さん……?」
振り返ろうとしたけれど、もう遅かった。
次の瞬間、世界から音が消えた。
何が起きたのか、よく覚えていない。
ただ、あの声を聞いた時、身体は生きることを選んでいた。
ただ、助かろうとして必死に身体を動かし、どうにか河川敷まで戻ってきた。
全身がずぶ濡れで、服は泥に汚れている。
指先には草や砂がまとわりつき、身体はまともに力が入らないほど冷えていた。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
乱れた呼吸のまま、私は顔を上げた。
「お父さん……!」
足に力を入れて立ち上がり、さっき聞こえた声を探した。
けれど、どこにもいなかった。
橋の上にも、河川敷にも、雨だけが変わらず降り続いていた。
いるはずがない。だって、お父さんはもう……。
その場に立っている力さえなくなり、私は橋の下へ身を寄せた。
濡れた身体を抱えるように、膝を引き寄せる。
寒い。何も考えたくない。何も見たくない。
『——花菜』
もう一度だけ、呼んでほしい。
そうすれば、夢の中でお父さんに会えるかもしれない。
私は膝に額を預けたまま、しばらく動かなかった。
橋の外では雨が降り続き、川の流れる音と重なっている。
誰かが来る気配もなく、聞こえてくるのは水の音ばかりだった。
さっきの声も、もう聞こえない。
やっぱり、あれは私の聞き間違いだったのかもしれない。
そう思いかけた時——
「……花菜?」
お父さんとは違う声だった。
また聞き間違いかもしれないと思い、そのまま膝を抱えていた。
「花菜、だよな」
二度目の声は、さっきより近かった。
どこかで聞いたことがある気がして、膝を抱えていた腕をほどく。
顔を上げると、一人の男の子が立っていた。
記憶に残っている頃よりずっと背が高くなり、髪も短くなっている。
「え……」
その人は、傘を持ったまま橋の下に立っていた。
私を見つけた時の驚きがまだ残っているのか、口を開きかけてそのまま止まっている。
「ハル、くん……?」
「……久しぶり」
聞き覚えのある声だった。
六年前より低くなっているけど、どこか懐かしさを感じた。
「そっか……」
ずっと一人だと思っていた雨の中で、ハルくんだけが私の名前を呼んでくれた。
久しぶりに聞いたその声は、雨が止んだあとも、ずっと私の中に残った。
♢
雲一つない青空だった。
頭上には夏の青がどこまでも広がり、蝉の声が途切れることなく降ってくる。
「暑……」
立っているだけで額に汗が滲んだ。
背中には熱がこもり、ときおり通り抜ける風が、火照った頬に触れていく。
その先に、向日葵畑があった。
「変わってない……」
視界を埋めるほどの黄色い花と、その向こうに広がる青空。
真夏の日差しを浴びた向日葵は、風が通るたびに同じ方向へ身体を傾け、またゆっくり起き上がる。
ずっと覚えていた景色だった。
お父さんのことを思い出す時も、ハルくんとの昔を思い返す時も、記憶の中にはこの黄色があった。
私は向日葵の間に続く細い道へ入った。
「すごーい!」
近くで女の子の声が上がる。
麦わら帽子を押さえながら、両親より先へ駆けていく。お母さんに呼び止められると、大きく手を振りながら戻っていった。
その姿に、昔の自分が重なった。
私も麦わら帽子を被って、お父さんより先へ向日葵の間を走っていた。
『花菜、あまり遠くまで行くなよ』
『大丈夫だよっ!』
お父さんが後ろから追いかけ、そのさらに後ろを、小さなハルくんが必死についてきていた。
私が走れば、ハルくんも負けじと走った。
あの頃は、次の夏も同じようにここへ来るものだと思っていた。
女の子たちの姿が、向日葵の向こうへ消えていく。私はそのまま、奥へ続く道を進んだ。
一年前も、暑い夏だった。
あの日は、ハルくんが私を見つけてくれた。名前を呼んでくれて、そこからあの夏が始まった。
海へ行って、くだらないことで張り合って、花火の下で約束をした。
そして最後には、何も知らされないままいなくなった。
それでも今日は、私がここまで来た。次は、私から会いに行く。
向日葵の間を進んだ。
すれ違う人の中に黒い髪を見つけては確かめるけれど、どの人もハルくんではない。
畑の奥へ進むにつれて向日葵の背丈が高くなり、人の姿は黄色い花の間に隠れていく。
細い道を曲がってその先まで確かめても、探している人はいなかった。
もう帰ってしまったのかもしれない。
そもそも、おばあちゃんが話していた場所がここだという保証もない。
別の向日葵畑へ行ったのなら、いくらここを探しても会えない。
それでも、ここで終わりにはならない。
今日会えなければ、おばあちゃんの家へ戻ればいい。明日になったら、また探しに来ればいい。
そのまま畑の奥へ進もうとした時だった。
ざああっ——
強い風が吹き抜け、何列もの向日葵が一斉に傾いた。
それまで黄色い花に遮られていた畑の奥が、一気に開ける。
「あ……」
人の少ない場所に、一人だけいた。
白いシャツを着た背中に、以前より伸びた黒い髪。
傍らには画材の入った小さな鞄が置かれている。
その人は私に背を向け、向日葵に囲まれながらキャンバスへ向かっていた。
右手に持った筆が動くたび、白かったはずの場所に色が重なっていく。
一年前より背が伸びていても、髪が長くなっていても、今まで知らなかった服を着ていても、あの背中を他の誰かと間違えるはずがなかった。
忘れようとしたこともあった。もう会わないのだと自分に言い聞かせ、あの夏を過ぎたことにしようともした。
それでも何気ない日に思い出して、夢に出てきて、最後にはいつも会いたいと思ってしまった。
そして今度は——私が、ハルくんを見つけた。
一年間、ずっと会いたかった。
聞きたいことも、言いたいことも山ほどある。
「ハル、くん」
やっと出てきたのは、何度も呼んだ名前だった。
ハルくんの筆が止まる。向日葵を渡ってきた風が、ハルくんのシャツを揺らした。
「…………花菜?」
ゆっくりと振り返った顔は、一年前より少し大人びていた。
髪も伸び、頬のあたりも記憶にある頃とは違っている。
それでも、突然現れた私を前に言葉を失っているところは、一年前と変わらなかった。
「お前……」
ハルくんの視線が——私の短くなった髪に止まる。
「……短くしたんだな」
「うん。どうかな?」
「え……えっと……まぁ、似合ってる」
「まぁって何」
「いや、その……似合ってるって」
「……ばか」
やっぱり、ハルくんだった。
結局、この人は気の利いたことを言ってくれない。
でも、そんな不器用な話し方まで、ずっと会いたかったハルくんのものだった。
夏風が吹き、短くなった髪が頬の横で揺れる。私は一歩、ハルくんへ近づいた。
「ねえ、ハルくん」
白いシャツの肩には強い日差しが落ち、額には汗が滲んでいた。
右手にはまだ筆を握ったまま、ハルくんは私の言葉を待っている。
そんなハルくんを見て、私は笑った。
「私、十八になったよ?」
約束、だからね。