裏切りの逃避行   作:怪盗エンペラー

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終章 八月二十日 花園花菜 夏の果てに

『出来の悪い娘なんていりません』

 

 一年前の、八月一日。

 大雨の中、私は傘も持たずに家を飛び出した。

 どこをどう走ったのかも覚えていない。足を止めた時には、見慣れた河川敷まで来ていた。

 川は降り続く雨で濁り、いつもの穏やかな姿を失っている。対岸の景色も、灰色の雨の向こうに霞んでいた。

 服も髪もすっかり濡れていたけど、もうどうでもよかった。

 頑張って、お母さんの期待に応えて、いつか褒めてもらえたらと思っていた。

 

「……もう、いいや」

 

 声は雨音に紛れて消えていった。

 これ以上、何を頑張ればいいのか。お母さんに認めてもらうために頑張ったはずなのに、そのお母さんから「いらない」と言われたら、もう自分がどこへ向かえばいいのかも分からない。

 

 そして——私は、欄干の向こうへ踏み出した。

 

 

「——花菜! やめなさい!」

 

 

 聞こえるはずのない声が雨を切り裂いた。

 

「お父、さん……?」

 

 振り返ろうとしたけれど、もう遅かった。

 

 次の瞬間、世界から音が消えた。

 

 何が起きたのか、よく覚えていない。

 ただ、あの声を聞いた時、身体は生きることを選んでいた。

 ただ、助かろうとして必死に身体を動かし、どうにか河川敷まで戻ってきた。

 全身がずぶ濡れで、服は泥に汚れている。

 指先には草や砂がまとわりつき、身体はまともに力が入らないほど冷えていた。

 

「はぁ……っ、はぁ……っ」

 

 乱れた呼吸のまま、私は顔を上げた。

 

「お父さん……!」

 

 足に力を入れて立ち上がり、さっき聞こえた声を探した。

 けれど、どこにもいなかった。

 橋の上にも、河川敷にも、雨だけが変わらず降り続いていた。

 いるはずがない。だって、お父さんはもう……。

 

 その場に立っている力さえなくなり、私は橋の下へ身を寄せた。

 濡れた身体を抱えるように、膝を引き寄せる。

 寒い。何も考えたくない。何も見たくない。

 

 

 『——花菜』

 

 

 もう一度だけ、呼んでほしい。

 そうすれば、夢の中でお父さんに会えるかもしれない。

 私は膝に額を預けたまま、しばらく動かなかった。

 橋の外では雨が降り続き、川の流れる音と重なっている。

 

 誰かが来る気配もなく、聞こえてくるのは水の音ばかりだった。

 

 さっきの声も、もう聞こえない。

 やっぱり、あれは私の聞き間違いだったのかもしれない。

 そう思いかけた時——

 

「……花菜?」

 

 お父さんとは違う声だった。

 また聞き間違いかもしれないと思い、そのまま膝を抱えていた。

 

「花菜、だよな」

 

 二度目の声は、さっきより近かった。

 どこかで聞いたことがある気がして、膝を抱えていた腕をほどく。

 顔を上げると、一人の男の子が立っていた。

 記憶に残っている頃よりずっと背が高くなり、髪も短くなっている。

 

「え……」

 

 その人は、傘を持ったまま橋の下に立っていた。

 私を見つけた時の驚きがまだ残っているのか、口を開きかけてそのまま止まっている。

 

「ハル、くん……?」

「……久しぶり」

 

 聞き覚えのある声だった。

 六年前より低くなっているけど、どこか懐かしさを感じた。

 

「そっか……」

 

 ずっと一人だと思っていた雨の中で、ハルくんだけが私の名前を呼んでくれた。

 

 久しぶりに聞いたその声は、雨が止んだあとも、ずっと私の中に残った。

 

 ♢

 

 雲一つない青空だった。

 頭上には夏の青がどこまでも広がり、蝉の声が途切れることなく降ってくる。

 

「暑……」

 

 立っているだけで額に汗が滲んだ。

 背中には熱がこもり、ときおり通り抜ける風が、火照った頬に触れていく。

 その先に、向日葵畑があった。

 

「変わってない……」

 

 視界を埋めるほどの黄色い花と、その向こうに広がる青空。

 真夏の日差しを浴びた向日葵は、風が通るたびに同じ方向へ身体を傾け、またゆっくり起き上がる。

 ずっと覚えていた景色だった。

 お父さんのことを思い出す時も、ハルくんとの昔を思い返す時も、記憶の中にはこの黄色があった。

 

 私は向日葵の間に続く細い道へ入った。

 

「すごーい!」

 

 近くで女の子の声が上がる。

 麦わら帽子を押さえながら、両親より先へ駆けていく。お母さんに呼び止められると、大きく手を振りながら戻っていった。

 その姿に、昔の自分が重なった。

 私も麦わら帽子を被って、お父さんより先へ向日葵の間を走っていた。

 

『花菜、あまり遠くまで行くなよ』

『大丈夫だよっ!』

 

 お父さんが後ろから追いかけ、そのさらに後ろを、小さなハルくんが必死についてきていた。

 私が走れば、ハルくんも負けじと走った。

 あの頃は、次の夏も同じようにここへ来るものだと思っていた。

 女の子たちの姿が、向日葵の向こうへ消えていく。私はそのまま、奥へ続く道を進んだ。

 

 一年前も、暑い夏だった。

 

 あの日は、ハルくんが私を見つけてくれた。名前を呼んでくれて、そこからあの夏が始まった。

 海へ行って、くだらないことで張り合って、花火の下で約束をした。

 そして最後には、何も知らされないままいなくなった。

 それでも今日は、私がここまで来た。次は、私から会いに行く。

 

 向日葵の間を進んだ。

 すれ違う人の中に黒い髪を見つけては確かめるけれど、どの人もハルくんではない。

 畑の奥へ進むにつれて向日葵の背丈が高くなり、人の姿は黄色い花の間に隠れていく。

 細い道を曲がってその先まで確かめても、探している人はいなかった。

 もう帰ってしまったのかもしれない。

 そもそも、おばあちゃんが話していた場所がここだという保証もない。

 別の向日葵畑へ行ったのなら、いくらここを探しても会えない。

 

 それでも、ここで終わりにはならない。

 

 今日会えなければ、おばあちゃんの家へ戻ればいい。明日になったら、また探しに来ればいい。

 そのまま畑の奥へ進もうとした時だった。

 

 

 ざああっ——

 

 

 強い風が吹き抜け、何列もの向日葵が一斉に傾いた。

 それまで黄色い花に遮られていた畑の奥が、一気に開ける。

 

「あ……」

 

 人の少ない場所に、一人だけいた。

 白いシャツを着た背中に、以前より伸びた黒い髪。

 傍らには画材の入った小さな鞄が置かれている。

 その人は私に背を向け、向日葵に囲まれながらキャンバスへ向かっていた。

 右手に持った筆が動くたび、白かったはずの場所に色が重なっていく。

 一年前より背が伸びていても、髪が長くなっていても、今まで知らなかった服を着ていても、あの背中を他の誰かと間違えるはずがなかった。

 忘れようとしたこともあった。もう会わないのだと自分に言い聞かせ、あの夏を過ぎたことにしようともした。

 それでも何気ない日に思い出して、夢に出てきて、最後にはいつも会いたいと思ってしまった。

 

 

 そして今度は——私が、ハルくんを見つけた。

 

 

 一年間、ずっと会いたかった。

 聞きたいことも、言いたいことも山ほどある。

 

 

「ハル、くん」

 

 

 やっと出てきたのは、何度も呼んだ名前だった。

 ハルくんの筆が止まる。向日葵を渡ってきた風が、ハルくんのシャツを揺らした。

 

「…………花菜?」

 

 ゆっくりと振り返った顔は、一年前より少し大人びていた。

 髪も伸び、頬のあたりも記憶にある頃とは違っている。

 それでも、突然現れた私を前に言葉を失っているところは、一年前と変わらなかった。

 

「お前……」

 

 

 

 ハルくんの視線が——私の短くなった髪に止まる。

 

 

 

「……短くしたんだな」

「うん。どうかな?」

「え……えっと……まぁ、似合ってる」

「まぁって何」

「いや、その……似合ってるって」

「……ばか」

 

 やっぱり、ハルくんだった。

 結局、この人は気の利いたことを言ってくれない。

 でも、そんな不器用な話し方まで、ずっと会いたかったハルくんのものだった。

 夏風が吹き、短くなった髪が頬の横で揺れる。私は一歩、ハルくんへ近づいた。

 

「ねえ、ハルくん」

 

 白いシャツの肩には強い日差しが落ち、額には汗が滲んでいた。

 右手にはまだ筆を握ったまま、ハルくんは私の言葉を待っている。

 

 そんなハルくんを見て、私は笑った。

 

 

 

 

 

「私、十八になったよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 約束、だからね。

 

 

 

 

 

 

 

 

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