「前田さん、準備できましたよ」
「あ……はい」
名前を呼ばれ、私は椅子から立ち上がった。
目の前の大きな鏡には、白いウエディングドレスを纏った自分が映っている。
「……すごい」
自分の姿なのに、まだどこか現実味がなかった。
真っ白なドレスには細かな刺繍が施され、身体を動かすたびに光を拾う。短く切った髪も、今では肩を越えて背中まで伸びていた。
「緊張していますか?」
担当の人が鏡越しに尋ねる。
「……ちょっとだけ」
「そうは見えませんよ」
「本当ですか?」
「はい。とっても幸せそうです」
鏡の中の自分を、もう一度確かめる。
言われてみれば、さっきからずっと笑っていた。
「それにしても、向日葵がお好きなんですね」
「はい」
腕の中には、大きなブーケがある。
白いドレスの上で、鮮やかな黄色の向日葵がいくつも咲いていた。この色を見ると、今でもあの日の青空を思い出す。
「私たちにとって……大切な花なんです」
花びらに指先を触れたところで、後ろから声がした。
「花菜」
振り返ると、控室へ入ってきたお母さんが入口で立ち止まっていた。
「お母さん……どう、ですか?」
そう聞いてみても、すぐには返事がない。
お母さんは私のドレス姿を眺めたまま、何度か唇を結び直していた。
「……綺麗ですよ、花菜」
「……ありがとう、お母さん」
その声を聞いた途端、ブーケを持つ手に力が入った。
嬉しいのに、同じくらい泣きそうになる。お母さんの方も似たような顔をしていた。
「もう。泣いてはいけませんよ」
「お母さんだって」
「私は泣いていません」
「目、赤いですよ?」
「……気のせいです」
思わず言い返すと、お母さんは答えずに私の前まで歩いてきた。
「ベールが少し曲がっています」
「あ……」
「じっとしていてください」
髪に掛かったベールを、お母さんの指が丁寧に整えていく。
子どもの頃、学校へ行く前に髪を結ってもらった朝を思い出した。
「……花菜」
お母さんが横を向く。その先には、小さな写真立てが置かれていた。写真の中のお父さんは、いつものままだった。
「きっと、あの人も喜んでいますよ」
「はい……」
返事をした途端、鼻の奥がつんとした。
これ以上何か言われたら、本当に泣いてしまいそうだった。そこへ——
「花菜ちーん!」
「わっ⁉」
控室の扉が勢いよく開いた。
「ちょっと花音ちゃん⁉」
「やば、かわい! え、待って無理! めっちゃかわいい!」
ドレス姿の花音ちゃんがスマートフォンを構えながら駆け寄ってくる。
「写真! 写真撮ろ!」
「待って。もうすぐ始まるんだけど⁉」
「一枚だけ! 一枚だけだから!」
「絶対一枚じゃないでしょ!」
「バレた?」
「もうっ……」
やっぱり、何も変わっていない。
そして予想通り、「一枚だけ」という約束は三十秒も持たなかった。
「花音ちゃん、もう十分でしょ?」
「待って待って。今のめっちゃいい!」
「さっきもそれ言ってたよ!」
「今度こそ本当にいいやつ!」
「信用できない……」
花音ちゃんは画面を確認しながら、撮った写真を次々と送ってくる。
途中でスクロールする指が止まった。
画面に映っていたのは、少し前に三人で出かけた時の写真だった。
真ん中に花音ちゃんがいて、隣には私とハルくんが並んでいる。撮られる直前に花音ちゃんが何か変なことを言ったらしく、私は横を向き、ハルくんは呆れた顔でこちらを見ていた。
どうして今、それを開いたのかは分からない。花音ちゃんは写真を眺めたまま、ぽつりと言った。
「……よかったね、花菜ちん」
その言葉で、遠回りしてきた時間まで、今日という日に繋がっているように思えた。
そこから顔を上げれば、目の前にも花音ちゃんがいて、お母さんがいる。腕の中では、向日葵の黄色が白いドレスによく映えていた。
ああ。本当に、今日まで来たんだ。
「……花音ちゃん」
「なに?」
「それ……ずるい」
「え?」
「メイク崩れるから、泣かせないでよ……!」
「っ……そっちこそ!」
花音ちゃんが慌てて目元を押さえる。
「今日くらい泣いていいじゃん!」
「よくない! せっかく綺麗にしてもらったのに」
「じゃあ私も我慢する!」
「もう泣いてるじゃん……!」
「これはまだセーフ!」
「どこが!」
私たちが言い合っていると、お母さんが横で「まったく……」と呟いた。
声だけ聞けば呆れているみたいなのに、そのまま私たちのティッシュを差し出してくる。
「ほら。花菜も東雲さんも、式が始まる前に直しておきなさい」
「……はーい」
「ありがとうございます……」
お父さんの写真が置かれたテーブルの前で、花音ちゃんがティッシュを受け取る。
やがて、控室の外から式の始まりを告げる声が聞こえた。
「花菜」
「……うん」
私はブーケを抱き直し、扉の方へ身体を向けた。
♢
「それでは、新婦の入場です」
扉がゆっくりと開いた。
外から差し込んだ光に目を細める。その向こうでは、参列者たちがこちらを振り返っていた。
「行きましょうか」
隣のお母さんが、私の方へ腕を差し出す。
「はい」
その腕に手を添え、バージンロードへ足を踏み出した。
左右の席には、知っている顔が並んでいた。
花音ちゃんに、高校で出会った友達。ハルくんの両親や、私たちのおじいちゃんとおばあちゃん。
歩いている途中、見覚えのある二人を見つける。
「……あ」
少し離れた席に、青川屋のお爺さんとお婆さんまでいた。お婆さんは私に気づくと、何度も嬉しそうに頷いている。
こんなにたくさんの人が、今日ここへ来てくれた。
そして、その人たちの向こう。一番奥に、ハルくんがいた。
黒いスーツに、真っ白なシャツ。髪もいつもよりきちんと整えられていて、別人みたいに見える。なのに、顔を見たらすぐにいつものハルくんだと分かった。
姿勢だけはきっちりしているくせに、表情が固い。私と目が合うなり、ほんの一瞬だけ横を向いた。
私は、お母さんの腕を握る指に力を込めた。
やがて、その人の前まで辿り着く。お母さんが私の手を取り、そのままハルくんへ差し出した。
「……お願いします」
「はい」
ハルくんが、私の手を受け取る。
お母さんと、ハルくんの目が合った。
お母さんは何も言わず、ハルくんへ一度だけ頷いた。それから私は、その隣へ並ぶ。
「……」
「……」
近くで見ると、やっぱりぎこちない。
「緊張してる?」
声を抑えて尋ねる。
「……してない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「……リラックスしていいから」
隣に立つハルくんは、最後までこっちを見ようとしなかった。
「それでは、新郎様から新婦様へ、指輪をお贈りください」
牧師さんの声が響く。
ハルくんが用意されていた指輪を手に取り、私は左手を差し出した。
「……大丈夫?」
「……」
ハルくんの指先が、僅かに震えていた。それでも、私の手を取る動きは丁寧だった。
銀色の指輪が、少しずつ薬指を通っていく。
やがて根元まで収まると、差し込んだ光を受けて輝いた。
私は、その指輪をしばらく眺めた。
♢
指輪の感触を確かめているうちに、式は静かに進んでいった。そして——
「それでは、誓いのキスを」
「っ……」
急に、心臓が跳ねた。
さっきまでハルくんをからかっていたくせに、今度は私まで緊張してくる。
私は目を閉じた。
「……」
待つ。
「…………」
まだ来ない。
「………………」
やがて、参列者の間からざわめきが漏れ始めた。おそるおそる目を開ける。
「……ハルくん?」
「……」
目の前で、ハルくんが完全に固まっていた。
「いや、その……」
「……なに?」
「これは……」
「キスだよ?」
「分かってる」
「じゃあ、早くしてよ」
「……ちょっと待て」
「何を?」
「心の準備」
「今さら⁉」
とうとう会場のあちこちから声が上がった。
花音ちゃんなんて、口元を押さえながら肩を震わせている。
「……もう」
本当に、大事なところでダメダメなんだから。
「仕方ないなぁ……」
私は一歩、前へ出た。
ハルくんが僅かに目を見開く。
ほどなくして、会場いっぱいに拍手が広がった。顔を上げると、ハルくんの耳が真っ赤になっている。
「……来るなら来るって……」
「えへへ」
向日葵のブーケを抱えたまま、ハルくんの隣に並ぶ。
目の前には、今日ここへ来てくれた人たちがいる。
花音ちゃんも、お母さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも。そして会場の隅には、お父さんの写真が置かれていた。
その顔を見た途端、手紙に書かれていた最後の言葉が蘇る。
——幸せに、なりなさい。
私は隣にあるハルくんの手を握った。
「……ねぇ」
「ん?」
「大好き」
ハルくんがこちらを向く。一拍遅れて、握った手に力が返ってきた。
「俺も……ずっと好きだよ」
お父さん。
私、ちゃんと幸せになれたよ。
♢
うだるように暑い夏だった。
初めて、あなたに手を引かれた日。
私は、地獄みたいな毎日から連れ出された。
そして、いくつもの季節を越えた春。
私たちは、結婚した。
『裏切りの逃避行』———完。
ここまでご愛読くださり、本当にありがとうございました!
この物語は、私がずっと昔から書きたいと思っていた物語でした。
こうして最後まで書き切り、無事に皆様へ届けることができたことを、作者としてとても嬉しく思います。
晴と花菜が過ごした、たった一週間の逃避行。
二人の選択や言葉、そしてその結末に、何か一つでも心に残るものがあったなら、これ以上嬉しいことはありません。
もしよろしければ、感想や評価をいただけると嬉しいです。
皆様からいただいた言葉を励みに、これからも物語を書き続けていきたいと思います。
晴と花菜の物語は、ここで終わります。
けれど、二人の人生はきっと、この先も続いていきます。
いつかどこかで、また二人の物語をお届けできる日が来るかもしれません。
改めまして、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!