裏切りの逃避行   作:怪盗エンペラー

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続・終章 四月十一日 前田花菜 向日葵と未来

 

「前田さん、準備できましたよ」

「あ……はい」

 

 名前を呼ばれ、私は椅子から立ち上がった。

 目の前の大きな鏡には、白いウエディングドレスを纏った自分が映っている。

 

「……すごい」

 

 自分の姿なのに、まだどこか現実味がなかった。

 真っ白なドレスには細かな刺繍が施され、身体を動かすたびに光を拾う。短く切った髪も、今では肩を越えて背中まで伸びていた。

 

「緊張していますか?」

 

 担当の人が鏡越しに尋ねる。

 

「……ちょっとだけ」

「そうは見えませんよ」

「本当ですか?」

「はい。とっても幸せそうです」

 

 鏡の中の自分を、もう一度確かめる。

 言われてみれば、さっきからずっと笑っていた。

 

「それにしても、向日葵がお好きなんですね」

「はい」

 

 腕の中には、大きなブーケがある。

 白いドレスの上で、鮮やかな黄色の向日葵がいくつも咲いていた。この色を見ると、今でもあの日の青空を思い出す。

 

「私たちにとって……大切な花なんです」

 

 花びらに指先を触れたところで、後ろから声がした。

 

「花菜」

 

 振り返ると、控室へ入ってきたお母さんが入口で立ち止まっていた。

 

「お母さん……どう、ですか?」

 

 そう聞いてみても、すぐには返事がない。

 お母さんは私のドレス姿を眺めたまま、何度か唇を結び直していた。

 

「……綺麗ですよ、花菜」

「……ありがとう、お母さん」

 

 その声を聞いた途端、ブーケを持つ手に力が入った。

 嬉しいのに、同じくらい泣きそうになる。お母さんの方も似たような顔をしていた。

 

「もう。泣いてはいけませんよ」

「お母さんだって」

「私は泣いていません」

「目、赤いですよ?」

「……気のせいです」

 

 思わず言い返すと、お母さんは答えずに私の前まで歩いてきた。

 

「ベールが少し曲がっています」

「あ……」

「じっとしていてください」

 

 髪に掛かったベールを、お母さんの指が丁寧に整えていく。

 子どもの頃、学校へ行く前に髪を結ってもらった朝を思い出した。

 

「……花菜」

 

 お母さんが横を向く。その先には、小さな写真立てが置かれていた。写真の中のお父さんは、いつものままだった。

 

「きっと、あの人も喜んでいますよ」

「はい……」

 

 返事をした途端、鼻の奥がつんとした。

 これ以上何か言われたら、本当に泣いてしまいそうだった。そこへ——

 

「花菜ちーん!」

「わっ⁉」

 

 控室の扉が勢いよく開いた。

 

「ちょっと花音ちゃん⁉」

「やば、かわい! え、待って無理! めっちゃかわいい!」

 

 ドレス姿の花音ちゃんがスマートフォンを構えながら駆け寄ってくる。

 

「写真! 写真撮ろ!」

「待って。もうすぐ始まるんだけど⁉」

「一枚だけ! 一枚だけだから!」

「絶対一枚じゃないでしょ!」

「バレた?」

「もうっ……」

 

 やっぱり、何も変わっていない。

 そして予想通り、「一枚だけ」という約束は三十秒も持たなかった。

 

「花音ちゃん、もう十分でしょ?」

「待って待って。今のめっちゃいい!」

「さっきもそれ言ってたよ!」

「今度こそ本当にいいやつ!」

「信用できない……」

 

 花音ちゃんは画面を確認しながら、撮った写真を次々と送ってくる。

 途中でスクロールする指が止まった。

 画面に映っていたのは、少し前に三人で出かけた時の写真だった。

 真ん中に花音ちゃんがいて、隣には私とハルくんが並んでいる。撮られる直前に花音ちゃんが何か変なことを言ったらしく、私は横を向き、ハルくんは呆れた顔でこちらを見ていた。

 どうして今、それを開いたのかは分からない。花音ちゃんは写真を眺めたまま、ぽつりと言った。

 

「……よかったね、花菜ちん」

 

 その言葉で、遠回りしてきた時間まで、今日という日に繋がっているように思えた。

 そこから顔を上げれば、目の前にも花音ちゃんがいて、お母さんがいる。腕の中では、向日葵の黄色が白いドレスによく映えていた。

 ああ。本当に、今日まで来たんだ。

 

「……花音ちゃん」

「なに?」

「それ……ずるい」

「え?」

「メイク崩れるから、泣かせないでよ……!」

「っ……そっちこそ!」

 

 花音ちゃんが慌てて目元を押さえる。

 

「今日くらい泣いていいじゃん!」

「よくない! せっかく綺麗にしてもらったのに」

「じゃあ私も我慢する!」

「もう泣いてるじゃん……!」

「これはまだセーフ!」

「どこが!」

 

 私たちが言い合っていると、お母さんが横で「まったく……」と呟いた。

 声だけ聞けば呆れているみたいなのに、そのまま私たちのティッシュを差し出してくる。

 

「ほら。花菜も東雲さんも、式が始まる前に直しておきなさい」

「……はーい」

「ありがとうございます……」

 

 お父さんの写真が置かれたテーブルの前で、花音ちゃんがティッシュを受け取る。

 やがて、控室の外から式の始まりを告げる声が聞こえた。

 

「花菜」

「……うん」

 

 私はブーケを抱き直し、扉の方へ身体を向けた。

 

 ♢

 

「それでは、新婦の入場です」

 

 扉がゆっくりと開いた。

 外から差し込んだ光に目を細める。その向こうでは、参列者たちがこちらを振り返っていた。

 

「行きましょうか」

 

 隣のお母さんが、私の方へ腕を差し出す。

 

「はい」

 

 その腕に手を添え、バージンロードへ足を踏み出した。

 左右の席には、知っている顔が並んでいた。

 花音ちゃんに、高校で出会った友達。ハルくんの両親や、私たちのおじいちゃんとおばあちゃん。

 歩いている途中、見覚えのある二人を見つける。

 

「……あ」

 

 少し離れた席に、青川屋のお爺さんとお婆さんまでいた。お婆さんは私に気づくと、何度も嬉しそうに頷いている。

 

 こんなにたくさんの人が、今日ここへ来てくれた。

 

 そして、その人たちの向こう。一番奥に、ハルくんがいた。

 黒いスーツに、真っ白なシャツ。髪もいつもよりきちんと整えられていて、別人みたいに見える。なのに、顔を見たらすぐにいつものハルくんだと分かった。

 姿勢だけはきっちりしているくせに、表情が固い。私と目が合うなり、ほんの一瞬だけ横を向いた。

 私は、お母さんの腕を握る指に力を込めた。

 やがて、その人の前まで辿り着く。お母さんが私の手を取り、そのままハルくんへ差し出した。

 

「……お願いします」

「はい」

 

 ハルくんが、私の手を受け取る。

 お母さんと、ハルくんの目が合った。

 お母さんは何も言わず、ハルくんへ一度だけ頷いた。それから私は、その隣へ並ぶ。

 

「……」

「……」

 

 近くで見ると、やっぱりぎこちない。

 

「緊張してる?」

 

 声を抑えて尋ねる。

 

「……してない」

「嘘」

「嘘じゃない」

「……リラックスしていいから」

 

 隣に立つハルくんは、最後までこっちを見ようとしなかった。

 

「それでは、新郎様から新婦様へ、指輪をお贈りください」

 

 牧師さんの声が響く。

 ハルくんが用意されていた指輪を手に取り、私は左手を差し出した。

 

「……大丈夫?」

「……」

 

 ハルくんの指先が、僅かに震えていた。それでも、私の手を取る動きは丁寧だった。

 銀色の指輪が、少しずつ薬指を通っていく。

 やがて根元まで収まると、差し込んだ光を受けて輝いた。

 

 私は、その指輪をしばらく眺めた。

 

 ♢

 

 指輪の感触を確かめているうちに、式は静かに進んでいった。そして——

 

「それでは、誓いのキスを」

「っ……」

 

 急に、心臓が跳ねた。

 さっきまでハルくんをからかっていたくせに、今度は私まで緊張してくる。

 私は目を閉じた。

 

「……」

 

 待つ。

 

「…………」

 

 まだ来ない。

 

「………………」

 

 やがて、参列者の間からざわめきが漏れ始めた。おそるおそる目を開ける。

 

「……ハルくん?」

「……」

 

 目の前で、ハルくんが完全に固まっていた。

 

「いや、その……」

「……なに?」

「これは……」

「キスだよ?」

「分かってる」

「じゃあ、早くしてよ」

「……ちょっと待て」

「何を?」

「心の準備」

「今さら⁉」

 

 とうとう会場のあちこちから声が上がった。

 花音ちゃんなんて、口元を押さえながら肩を震わせている。

 

「……もう」

 

 本当に、大事なところでダメダメなんだから。

 

「仕方ないなぁ……」

 

 

 私は一歩、前へ出た。

 

 

 ハルくんが僅かに目を見開く。

 

 ほどなくして、会場いっぱいに拍手が広がった。顔を上げると、ハルくんの耳が真っ赤になっている。

 

「……来るなら来るって……」

「えへへ」

 

 向日葵のブーケを抱えたまま、ハルくんの隣に並ぶ。

 目の前には、今日ここへ来てくれた人たちがいる。

 花音ちゃんも、お母さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも。そして会場の隅には、お父さんの写真が置かれていた。

 その顔を見た途端、手紙に書かれていた最後の言葉が蘇る。

 

 

 ——幸せに、なりなさい。

 

 

 私は隣にあるハルくんの手を握った。

 

「……ねぇ」

「ん?」

「大好き」

 

 ハルくんがこちらを向く。一拍遅れて、握った手に力が返ってきた。

 

「俺も……ずっと好きだよ」

 

 

 お父さん。

 私、ちゃんと幸せになれたよ。

 

 

 ♢

 

 

 うだるように暑い夏だった。

 初めて、あなたに手を引かれた日。

 私は、地獄みたいな毎日から連れ出された。

 

 

 

 

 

 そして、いくつもの季節を越えた春。

 

 

 

 

 

 私たちは、結婚した。

 

 

 

 

 

『裏切りの逃避行』———完。

 

 




ここまでご愛読くださり、本当にありがとうございました!

この物語は、私がずっと昔から書きたいと思っていた物語でした。
こうして最後まで書き切り、無事に皆様へ届けることができたことを、作者としてとても嬉しく思います。

晴と花菜が過ごした、たった一週間の逃避行。
二人の選択や言葉、そしてその結末に、何か一つでも心に残るものがあったなら、これ以上嬉しいことはありません。

もしよろしければ、感想や評価をいただけると嬉しいです。
皆様からいただいた言葉を励みに、これからも物語を書き続けていきたいと思います。

晴と花菜の物語は、ここで終わります。
けれど、二人の人生はきっと、この先も続いていきます。

いつかどこかで、また二人の物語をお届けできる日が来るかもしれません。

改めまして、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
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