裏切りの逃避行   作:怪盗エンペラー

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八月九日 前田晴

あれから一週間が過ぎた。

花菜とは、あの日以来会っていない。

連絡先も知らないし、向こうから訪ねてくることもなかった。

このまま、もう会うことはない……そう思ってたけど、河川敷で膝を抱えていた姿と、食卓でようやく見せた笑顔が、どうしても頭から離れなかった。

気にしたところで、俺にできることはない。

 

そう考えていたはずなのに、いつの間にか花菜の家の前まで来ていた。

 

昔と変わらない門が、道路に面して立っている。

呼び鈴を押して、花菜がいるか尋ねる。それだけでいい。

そう自分に言い聞かせたが、指は動かなかった。

花菜ではなく、あの人が出てくるかもしれない。

 

床へ落ちたコップ。

服に染み込んだ飲み物。

耳元で響いた怒鳴り声。

頬へ残った痛み。

 

気づけば一歩、門から離れていた。

ここまで来ておいて、結局何もできない。

自分でも情けないと思ったが、もう一度呼び鈴へ向かう気にはなれなかった。

道の向こうでは、夏の日差しが住宅の屋根を照らしている。

雨だったあの日とは違い、今日は朝から晴れていた。

このまま家へ帰っても、花菜のことを考え続けるだけだろう。

肩に掛けた鞄の重みで、スケッチブックの存在を思い出した。

何か描いている間だけでも、余計なことを考えずに済むかもしれない。

 

花菜の家に背を向け、河川敷へ向かった。

 

 ♢

 

河川敷に着くと、この前とは打って変わって人が多かった。

散歩を楽しむ人や、走り回る子どもたち。あちこちで声が弾んでいる。

 

俺は人の少ない草地へ腰を下ろした。

 

空には雲ひとつない。こんな日は、描きやすい。

スケッチブックを開き、鉛筆を走らせる。

木陰で休む人、土手を歩く親子。目に映るものを、そのまま紙へ写していく。

余計なことを考えずに済む時間だった。

一本線を引いては、少し離して眺める。

気になるところへ線を重ね、また鉛筆を動かす。

どれくらいそうしていただろう。

 

「ハルくん」

 

その呼び方に、手が止まる。

振り向くと、白いワンピース姿の花菜が立っていた。この前と同じ格好だった。

 

「花菜」

 

名前を呼ぶと、花菜は俺の手元を見た。

 

「……何してるの?」

「暇つぶし」

 

花菜は俺の隣にしゃがみ込み、描きかけの紙へ顔を寄せる。

 

「……きれい」

 

 思わず漏れたような声だった。

 

「ハルくん。絵、描くんだね」

「高校に入ってから始めた」

「そうなんだ」

 

昔は鬼ごっこをしたり、虫を捕まえたり、日が暮れるまで遊んでいた。

 

「あの頃のハルくんと、ちょっと違う」

「そんなもんだろ」

 

花菜は口を開きかけて、一度言葉を飲み込む。

 

「……でも、なんか安心した」

「安心?」

「うん、なんでだろう」

 

鉛筆の先が止まる。

俺はもう一度スケッチブックへ向き直った。

 

「昔は俺の絵なんて見ても、絶対そんなこと言わなかっただろ」

「え、そうかな」

「虫捕まえる方が楽しいって言ってた」

「……それ、私?」

「お前以外に誰がいるんだよ」

「覚えてないなぁ……」

 

 こんなくだらないやり取りをしていると、昔と何も変わっていないような気がした。

けれど話せば話すほど、俺の知らない時間も増えていることが分かる。昔の俺なら知っていたはずのことを、今はほとんど知らない。

鉛筆の先を紙へ戻す。さっきまで真っ直ぐだった線が、少しだけ揺れた。

 

 ♢

 

 花菜は流れていく水をぼんやり追っていた。

俺も何故か絵を描く気にはなれず、鉛筆を持ったまま座っていた。

何か当たり障りのない話をしようとしても、何も浮かばない。

下手なことを言って、せっかくここにいる花菜を困らせるのも嫌だった。

 

「……ねえ、ハルくん」

「どうした?」

 

名前を呼んだきり、花菜は続きを口にしない。

 

「うぅん……」

 

そう答えたものの、落ち着かない様子で指を組み替えている。

 

「……やっぱり、一個だけ聞いていい?」

 

今度は、途中で引っ込めなかった。

 

「何?」

 

 花菜は俺ではなく、足元の草を見ていた。

 

「もし……何をしても、頑張っても駄目だったら。ハルくんはどうする?」

 

思ってもいなかった問いに、すぐには反応できなかった。

花菜は俺の返事を待っている。

 

「どうしたんだ、急に」

「……ごめん。うまく説明できなくて」

 

声はそれきり途切れた。

冗談で言ったわけじゃない。それくらいは分かった。

どう答えるべきか考えても、すぐには何も浮かばない。

ただ、適当なことだけは言いたくなかった。

 

「何をしても……なんだよな」

 

花菜は体を丸め、顔を伏せた。

自転車が一台、俺たちの後ろを通り過ぎていく。

続いて、土手を走る靴音が近づき、また遠ざかった。

その間に、頭の中で何度も言葉を選び直した。

 

「……俺なら、まだ何かできないか考えると思う」

「何か?」

「変えられることがないかとか、別のやり方がないかとか」

 

花菜の動きが止まった。

 

「……じゃあ、何をしても変わらなかったら?」

「何をしても?」

「ちゃんと考えて、ちゃんとやって。それでも、何も変わらなかったら?」

 

何をしても変わらないなら、自分はどうする。

考えてみても、まともな答えは浮かばなかった。

 

「……ごめん。分からない」

 

正直に言うしかなかった。

 

「どうすれば全部うまくいくのか、俺には分からない。でも……何も変えられなくても、一人で抱え込むのは……嫌だ」

 

花菜はすぐには答えなかった。

 

「……そっか。ごめんね、変なこと聞いて」

 

そう言って、服についた草を払いながら立ち上がる。

 

「もう、帰らなきゃ」

「あ……」

 

呼び止めようとしても、声が続かなかった。

横顔を伝うものが、夏の日差しを受けて光る。

 

 

泣いていた。

 

 

花菜は、何事もなかったように歩き出そうとしている。

このまま見送れば、また手を伸ばせないまま終わる。

六年前と同じ後悔だけは、繰り返したくなかった。

 

「待って!」

 

立ち上がり、花菜の腕をつかんだ。

 

「……ハルくん?」

 

呼び止めたかっただけで、その先に何を言うのかまでは考えていなかった。

握る手に、必要以上の力が入っている。

 

「ご、ごめん」

 

慌てて離す。

つかまれていた腕を反対の手で押さえたまま、花菜は俺の前に立っていた。

押し込めてきたものが、急に込み上げてくる。

何を言っても届かないと思って、ずっと諦めてきた。大事なときほど怖くなり、結局何もできない。

このままでは、花菜まで手の届かないところへ行ってしまう。

 

「……ハルくん、泣いてる」

 

花菜の目が、俺の頬へ向いていた。

 

「え?」

 

頬を触ると、指先が濡れた。

言われるまで、自分が泣いていることにも気づかなかった。

引き留めたうえに、これでは余計に困らせるだけだ。

 

「……ごめん」

 

袖で頬を拭う。

 

「……そんな顔させちゃって、ごめんね」

 

花菜は平気なふりをしようとしたが、うまく笑えなかった。

 

「私……自分のことで、いっぱいいっぱいで。ハルくんが何を考えてるかなんて、全然分かってなかった」

「俺のことはいい」

「よくないよ」

 

花菜は元いた場所へ戻って座った。

俺もその隣へ戻る。

 

「お父さんが亡くなってから、お母さん……変わっちゃったの」

 

花菜はそこで言葉を切った。

 

「最初はね、私が頑張れば大丈夫だって思ってたの。ちゃんと勉強して、ちゃんと良い子でいれば、また昔みたいに戻ってくれるって。でも……この前、言われたんだ」

 

川辺から飛び立った鳥が、水面をかすめて遠ざかっていく。

 

「『出来の悪い娘なんていらない』って」

 

 一度意味を取り違えたのかと思った。けれど、花菜が言い直す気配はない。

そんなことを、どうして自分の娘に言えるんだ。

 

「お母さんに褒めてもらいたくて、ずっと言う通りにしてきたのに……」

 

 しばらくして、花菜は俺に問いかけた。

 

「ねえ、ハルくん。私、どうしたらよかったのかな」

「それは……」

「ずっと頑張ってれば、いつか元に戻るって思ってた。でも……もう分かんない」

 

花菜は両手で顔を覆った。

 

「私、何をすればよかったんだろ。 ……つらいよ」

 

見ているだけなのが、たまらなく苦しかった。

 何か言いたい。でも、今の花菜にどんな言葉をかけても、簡単には届かない気がした。

 行き場をなくした手を膝の上で握り、迷った末に花菜の背中へ伸ばす。

 触れる直前で一度止めた。

それでも、服の上からそっと背中に触れ、確かめるように一度だけ撫でる。

 花菜は驚いたように身を強張らせたが、離れてはいかなかった。

 それから俺は、何も言わずに背中をゆっくりさすった。

大丈夫だとは言えない。もう心配ないとも言えない。

花菜が顔を上げるまで、背中に置いた手を離さなかった。

 

 ♢

 

しばらく、何も話さなかった。

川の流れる音に混じって、遠くを走る電車の音が聞こえる。

花菜は袖で頬を拭った。何度も擦ったせいで、目元が赤くなっている。

 

「……ごめんね。なんか、いっぱい泣いちゃった」

 

頬を持ち上げてみせたものの、口元は笑顔の形になる前にほどけた。

 

「でも、どうしたらいいのか分かんないんだ。言う通りにしてもダメで、逆らう勇気もなくて」

 

掠れた声のまま、言葉が続く。

 

「私……お母さんが全部だったから」

 

花菜はずっと、自分のことより母親を優先してきたのだろう。

このまま帰せば、花菜はまたあの家へ戻る。

俺も何事もなかったように家へ帰り、今日までと同じ時間を過ごす。

何も変わらない。

 

「……花菜」

 

呼ぶと、花菜がこちらを向いた。

何が正しいのかは分からない。考えがまとまる前に、言葉が出た。

 

 

「一緒に逃げよう」

 

 

花菜は驚いたように俺を見ていた。何を言われたのか分からない。そんな顔だった。

 

「おばさんから離れて、どこか遠くに行こう」

「……え?」

 

自分で口にした言葉が、遅れて現実味を持ち始める。

 

「別に一生帰らないとかじゃなくていい。夏休みの間だけでもいいから」

 

言えば言うほど、何も考えていなかったことが露わになっていく。

花菜は口を閉じたまま、俺の言葉を受け止めていた。

白いワンピースの裾が、草の上を撫でている。

 

「……そんなの、できるのかな」

「分かんない」

 

行き先も、泊まる場所も決めていない。

そんな都合のいい場所が、本当にあるのかさえ分からなかった。

 

「でも……このままよりは、きっとマシだ」

 

何も変えられないと決めつけて、俺はずっと諦めてきた。

けれど、花菜が「つらい」と伝えてくれた以上、もう知らないふりはできない。

 

「俺も、今のまま生きていくのは苦しい」

「……ハルくんも?」

「学校も、クラスも……何を言っても間違える気がして、ずっと息苦しかった。だから、一緒に逃げたい」

 

花菜から返事はなかった。

遠くの橋を渡る車の明かりが、川面に細く伸びていた。

光が過ぎ去ったあと、花菜はワンピースについた草を指先で摘み取った。

けれど捨てずに、そのまま手の中へ残している。

 

「……ずるいなぁ」

 

泣いたあとの声に、困ったような響きが混じった。

 

「そんなこと言われたら、行きたくなっちゃうじゃん」

 

 ♢

 

家に帰ると、自室のベランダで河川敷の続きを描いた。

赤く染まった川面と、その脇に広がる草地。その中へ花菜の姿を描き足していく。

けれど、顔まで描いたところで手が止まった。

笑っているはずなのに、あのときの花菜には見えない。

消しては描き直し、また消す。紙には黒い跡ばかりが残っていった。

 

「……違うな」

 

鉛筆を置き、椅子の背にもたれる。

本当に、花菜と逃げるつもりなのか。

勢いで口にしただけだった。行き先も、泊まる場所も、何一つ決まっていない。

再び鉛筆を取り、花菜の口元へ線を足す。

何度描き直しても、河川敷で見た表情にはならない。

やがて諦めて、スケッチブックを机に戻した。

描き上がった景色は、それなりにまとまっていた。

ただ、花菜だけがその中に馴染んでいなかった。

 

「晴、ご飯できたわよー!」

 

階下から母さんの声が飛んでくる。

返事をする代わりに、描きかけの紙を閉じた。

最後まで描けなかった花菜の顔が、頭から離れなかった。

 

 ♢

 

 今日の夕飯は肉じゃがだった。

父さんは仕事で遅くなるらしく、食卓には母さんと俺しかいない。

 

「いただきます」

「はい、召し上がれ」

 

テレビから聞こえる話し声と、食器が触れ合う音。

肉じゃがの甘い匂いも、湯気の立つ汁物も、昨日までと何も変わらなかった。

けれど、この日常から離れることを、俺は花菜に提案した。

箸を動かしていても、味がよく分からない。

 

「夏休み、ちゃんと楽しんでる?」

 

 不意に母さんが口を開いた。

箸が止まる。楽しいかと聞かれると、答えに困った。

 

「……普通」

「普通ってなによ」

 

母さんはジャガイモを箸で割りながら言った。

 

「友達と遊んだりしてるの?」

「……まぁ、たまには」

 

考えるより先に、いつもの答えが出た。

実際には、誰かと遊ぶ約束なんてない。学校が休みになっても、一人であることは変わらなかった。

 

「そう」

 

母さんはそれ以上追及しなかった。

 

「でも、花菜ちゃんと会ってから、前より顔色がいい気がする」

「……そうか?」

「そうよ。昔も、花菜ちゃんといるときはずっと楽しそうだったもの」

「……覚えてない」

「でしょうね。もう随分前だもの」

 

呆れた口調だったが、母さんは楽しそうだった。

テレビの音が耳に残った。母さんは、俺が学校でずっと一人なのを知らない。

知らないのではなく、俺がずっと隠してきた。

何でもない顔で夕飯を食べる母さんを見ていると、今までの嘘が急に重くなった。

 

「……母さん」

「ん?」

 

テレビの中で、出演者たちの笑い声が上がった。

 

『……つらいよ』

 

 花菜の声が、頭の中に蘇る。

あいつは、あれだけ苦しそうにしながら、自分のことを話してくれた。

俺はどうだ。母さんに知られるのが怖くて、ずっと『普通』で通してきた。

言えば、今まで通りではいられない。

学校のことも、今まで隠してきたことも、全部知られる。

怖くないわけじゃない。でも、何も言わないまま終わる方が、今はもっと嫌だった。

 

「……俺さ」

 

 箸を置く。陶器に触れた音が、食卓へやけに響いた。

 

「本当は、学校……全然楽しくない」

 

母さんは食べかけのまま、俺を見た。

 

「友達もいない。遊びに行くって言ってたのも嘘。 ……ずっと、一人だった」

 

 テーブルの上では、味噌汁からまだ湯気が上がっていた。

テレビの音が途切れず流れる中、母さんの箸は途中で止まっている。

 

「クラスの奴らとうまく話せなくて。何か言うたびに、空気を悪くしてる気がした。だから、もう黙ってた方がましだと思った」

 

話すほど、あの教室で過ごした時間が次々と浮かんできた。

 

「でも、黙ってても何も変わらなかった」

「……ずっと一人で過ごしてたの?」

「……うん」

「どうして言ってくれなかったの」

 

 母さんの声は静かだった。俺は皿の端を見たまま答えた。

 

「……困らせると思った」

「困らせるって……あなたが決めることじゃないでしょう。何も知らないままの方が、私は嫌よ」

 

その言葉が、思っていたより深く残った。同時に、今日の花菜の顔が浮かぶ。

 

「……花菜も、たぶん同じなんだ」

「花菜ちゃんも?」

 

母さんの声が変わった。

どこまで話していいのか迷ったけど、ここで黙れば、また俺一人で抱えることになる。

 

「おばさんのことで、かなり追い詰められてる」

「……何があったの?」

「ずっと言う通りにしてきたのに、この前『出来の悪い娘なんていらない』って言われたらしい」

「そんなことを……」

「今日、それを話してくれた。どうしたらいいか分かんないって、途中から泣いてた」

 

母さんはリモコンを取り、テレビの音を消した。

さっきまで部屋に流れていた笑い声が消える。

 

「……この前うちに来たときも、いつもと違ったのよね」

「どこが?」

「ずっと遠慮してたでしょう。ご飯を出しても、最初はほとんど手をつけなかったし」

「……そうだったな」

「あの子、昔はもっと遠慮なかったのよ。晴のおかずまで取ってたくらい」

「そんなことしてたっけ」

「してたわよ。帰るときまで花菜ちゃんずっと怖がってた。久しぶりで緊張してるだけだと思ってたけど……違ったのかもしれない」

「俺も、ずっと気になってた」

 

あの日の違和感の理由を、今日やっと知った。

 

「だから、俺……あいつをこのままにはしたくない」

 

母さんは考えるように間を置いた。

 

「……それで、何をしようとしてるの?」

「花菜と、一緒に逃げたい」

「……逃げるって、どこへ?」

「まだ決めてない」

「今日、花菜ちゃんにもそう言ったの?」

「うん。おばさんから離れて、どこか遠くに行こうって」

「花菜ちゃんは?」

「行きたいって言ってた。でも……まだ迷ってると思う」

 

母さんは、確かめるように口を開く。

 

「……二人で行くつもりなのね」

「そのつもり」

「私たちには何も言わずに?」

 

 返事が遅れた。

 

「最初は……そのつもりだった」

「晴」

 

母さんの声が低くなる。

 

「それは駄目よ」

 

覚悟していた言葉だった。それでも、実際に言われると胸に重く残る。

 

「でも、花菜ちゃんを助けたいと思ったことまで、駄目だと言ってるんじゃないの」

 

母さんは俺の言葉を遮らず、落ち着いた声で続ける。

 

「ただ……二人が突然いなくなったら、私たちも花菜ちゃんのお母さんも捜すことになる。警察だって動くかもしれない」

「じゃあ、花菜はあの家に戻るしかないのかよ」

「そうは言ってないでしょう」

「でも、あいつはもう限界なんだ」

「分かってる。だからこそ、勢いだけで連れ出しちゃ駄目なの」

「何も考えてないわけじゃない」

「どこに泊まるの?」

「……まだ決めてない」

「お金は?」

「貯めてる分がある」

「それで、どのくらい過ごせるの?」

「…………」

「晴は、本当に二人だけで何とかできると思ってる?」

 

母さんに一つずつ聞かれて、やっと分かった。

俺が考えていたのは逃げるところまでで、その先は、ほとんど何も考えていない。

 

「……俺一人じゃ無理なのは分かってる。だから……母さんに話した」

 

口にしてから、ようやく自分が何を求めていたのか分かった。

 

「一生逃げるわけじゃない。ちょっと離れるだけでいいんだ。おばさんのことを考えなくていい時間があれば、花菜も自分がどうしたいのか考えられるかもしれない」

 

母さんはすぐには答えなかった。

テレビを消したせいで、冷蔵庫の低い音まで聞こえる。

 

「……少しって、どのくらい?」

「夏休みの間って、花菜には言った」

「長すぎるわ」

「じゃあ——」

「一週間」

 

母さんが先に言った。

 

「……一週間?」

「それ以上は認めない。でも、一週間だけなら考えてもいい」

「一週間なら、いいのか」

「条件はあるわよ」

 

母さんは声を落として続けた。

 

「行き先と泊まる場所は、出る前に伝えること。それから、花菜ちゃんが本当に行きたいのか、もう一度ちゃんと確かめなさい」

「……うん」

「向こうの家にどう伝えるかは、そのあと考えましょう」

 

母さんは念を押した。

 

「一週間だけよ」

「分かってる」

「旅行じゃないんだから。その間に、二人ともこれからのことを考えなさい」

「……二人とも?」

「そう。花菜ちゃんだけじゃないでしょ。あなたも学校のことで悩んでたんだから」

 

そこで、自分のことまで言われるとは思わなかった。

 

「学校が始まるまで、まだ時間はあるわ。これからどうしたいのか、ちゃんと考えなさい」

「……考えてみる」

「それと、お父さんにも話すこと」

「やっぱり、話さないと駄目か」

「当たり前でしょ。怒るとは思うけど、話せばちゃんと分かってくれるわよ」

 

父さんに、学校のことも花菜のことも全部話すのかと思うと、今から気が重い。

それでも、母さんだけ任せるわけにはいかなかった。

 

「……ありがとう」

「まだ全部許したわけじゃないからね」

「分かってるよ」

 

母さんはそこで食事を再開した。俺も残っていた夕飯を口へ運ぶ。

さっきまで胸につかえていたものが、ようやく消えていった。

母さんは、帰ってきなさいとは言わなかった。

 

けれど、一週間という期限の先には、ちゃんと戻れる場所が残っていた。

 

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