あれから一週間が過ぎた。
花菜とは、あの日以来会っていない。
連絡先も知らないし、向こうから訪ねてくることもなかった。
このまま、もう会うことはない……そう思ってたけど、河川敷で膝を抱えていた姿と、食卓でようやく見せた笑顔が、どうしても頭から離れなかった。
気にしたところで、俺にできることはない。
そう考えていたはずなのに、いつの間にか花菜の家の前まで来ていた。
昔と変わらない門が、道路に面して立っている。
呼び鈴を押して、花菜がいるか尋ねる。それだけでいい。
そう自分に言い聞かせたが、指は動かなかった。
花菜ではなく、あの人が出てくるかもしれない。
床へ落ちたコップ。
服に染み込んだ飲み物。
耳元で響いた怒鳴り声。
頬へ残った痛み。
気づけば一歩、門から離れていた。
ここまで来ておいて、結局何もできない。
自分でも情けないと思ったが、もう一度呼び鈴へ向かう気にはなれなかった。
道の向こうでは、夏の日差しが住宅の屋根を照らしている。
雨だったあの日とは違い、今日は朝から晴れていた。
このまま家へ帰っても、花菜のことを考え続けるだけだろう。
肩に掛けた鞄の重みで、スケッチブックの存在を思い出した。
何か描いている間だけでも、余計なことを考えずに済むかもしれない。
花菜の家に背を向け、河川敷へ向かった。
♢
河川敷に着くと、この前とは打って変わって人が多かった。
散歩を楽しむ人や、走り回る子どもたち。あちこちで声が弾んでいる。
俺は人の少ない草地へ腰を下ろした。
空には雲ひとつない。こんな日は、描きやすい。
スケッチブックを開き、鉛筆を走らせる。
木陰で休む人、土手を歩く親子。目に映るものを、そのまま紙へ写していく。
余計なことを考えずに済む時間だった。
一本線を引いては、少し離して眺める。
気になるところへ線を重ね、また鉛筆を動かす。
どれくらいそうしていただろう。
「ハルくん」
その呼び方に、手が止まる。
振り向くと、白いワンピース姿の花菜が立っていた。この前と同じ格好だった。
「花菜」
名前を呼ぶと、花菜は俺の手元を見た。
「……何してるの?」
「暇つぶし」
花菜は俺の隣にしゃがみ込み、描きかけの紙へ顔を寄せる。
「……きれい」
思わず漏れたような声だった。
「ハルくん。絵、描くんだね」
「高校に入ってから始めた」
「そうなんだ」
昔は鬼ごっこをしたり、虫を捕まえたり、日が暮れるまで遊んでいた。
「あの頃のハルくんと、ちょっと違う」
「そんなもんだろ」
花菜は口を開きかけて、一度言葉を飲み込む。
「……でも、なんか安心した」
「安心?」
「うん、なんでだろう」
鉛筆の先が止まる。
俺はもう一度スケッチブックへ向き直った。
「昔は俺の絵なんて見ても、絶対そんなこと言わなかっただろ」
「え、そうかな」
「虫捕まえる方が楽しいって言ってた」
「……それ、私?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「覚えてないなぁ……」
こんなくだらないやり取りをしていると、昔と何も変わっていないような気がした。
けれど話せば話すほど、俺の知らない時間も増えていることが分かる。昔の俺なら知っていたはずのことを、今はほとんど知らない。
鉛筆の先を紙へ戻す。さっきまで真っ直ぐだった線が、少しだけ揺れた。
♢
花菜は流れていく水をぼんやり追っていた。
俺も何故か絵を描く気にはなれず、鉛筆を持ったまま座っていた。
何か当たり障りのない話をしようとしても、何も浮かばない。
下手なことを言って、せっかくここにいる花菜を困らせるのも嫌だった。
「……ねえ、ハルくん」
「どうした?」
名前を呼んだきり、花菜は続きを口にしない。
「うぅん……」
そう答えたものの、落ち着かない様子で指を組み替えている。
「……やっぱり、一個だけ聞いていい?」
今度は、途中で引っ込めなかった。
「何?」
花菜は俺ではなく、足元の草を見ていた。
「もし……何をしても、頑張っても駄目だったら。ハルくんはどうする?」
思ってもいなかった問いに、すぐには反応できなかった。
花菜は俺の返事を待っている。
「どうしたんだ、急に」
「……ごめん。うまく説明できなくて」
声はそれきり途切れた。
冗談で言ったわけじゃない。それくらいは分かった。
どう答えるべきか考えても、すぐには何も浮かばない。
ただ、適当なことだけは言いたくなかった。
「何をしても……なんだよな」
花菜は体を丸め、顔を伏せた。
自転車が一台、俺たちの後ろを通り過ぎていく。
続いて、土手を走る靴音が近づき、また遠ざかった。
その間に、頭の中で何度も言葉を選び直した。
「……俺なら、まだ何かできないか考えると思う」
「何か?」
「変えられることがないかとか、別のやり方がないかとか」
花菜の動きが止まった。
「……じゃあ、何をしても変わらなかったら?」
「何をしても?」
「ちゃんと考えて、ちゃんとやって。それでも、何も変わらなかったら?」
何をしても変わらないなら、自分はどうする。
考えてみても、まともな答えは浮かばなかった。
「……ごめん。分からない」
正直に言うしかなかった。
「どうすれば全部うまくいくのか、俺には分からない。でも……何も変えられなくても、一人で抱え込むのは……嫌だ」
花菜はすぐには答えなかった。
「……そっか。ごめんね、変なこと聞いて」
そう言って、服についた草を払いながら立ち上がる。
「もう、帰らなきゃ」
「あ……」
呼び止めようとしても、声が続かなかった。
横顔を伝うものが、夏の日差しを受けて光る。
泣いていた。
花菜は、何事もなかったように歩き出そうとしている。
このまま見送れば、また手を伸ばせないまま終わる。
六年前と同じ後悔だけは、繰り返したくなかった。
「待って!」
立ち上がり、花菜の腕をつかんだ。
「……ハルくん?」
呼び止めたかっただけで、その先に何を言うのかまでは考えていなかった。
握る手に、必要以上の力が入っている。
「ご、ごめん」
慌てて離す。
つかまれていた腕を反対の手で押さえたまま、花菜は俺の前に立っていた。
押し込めてきたものが、急に込み上げてくる。
何を言っても届かないと思って、ずっと諦めてきた。大事なときほど怖くなり、結局何もできない。
このままでは、花菜まで手の届かないところへ行ってしまう。
「……ハルくん、泣いてる」
花菜の目が、俺の頬へ向いていた。
「え?」
頬を触ると、指先が濡れた。
言われるまで、自分が泣いていることにも気づかなかった。
引き留めたうえに、これでは余計に困らせるだけだ。
「……ごめん」
袖で頬を拭う。
「……そんな顔させちゃって、ごめんね」
花菜は平気なふりをしようとしたが、うまく笑えなかった。
「私……自分のことで、いっぱいいっぱいで。ハルくんが何を考えてるかなんて、全然分かってなかった」
「俺のことはいい」
「よくないよ」
花菜は元いた場所へ戻って座った。
俺もその隣へ戻る。
「お父さんが亡くなってから、お母さん……変わっちゃったの」
花菜はそこで言葉を切った。
「最初はね、私が頑張れば大丈夫だって思ってたの。ちゃんと勉強して、ちゃんと良い子でいれば、また昔みたいに戻ってくれるって。でも……この前、言われたんだ」
川辺から飛び立った鳥が、水面をかすめて遠ざかっていく。
「『出来の悪い娘なんていらない』って」
一度意味を取り違えたのかと思った。けれど、花菜が言い直す気配はない。
そんなことを、どうして自分の娘に言えるんだ。
「お母さんに褒めてもらいたくて、ずっと言う通りにしてきたのに……」
しばらくして、花菜は俺に問いかけた。
「ねえ、ハルくん。私、どうしたらよかったのかな」
「それは……」
「ずっと頑張ってれば、いつか元に戻るって思ってた。でも……もう分かんない」
花菜は両手で顔を覆った。
「私、何をすればよかったんだろ。 ……つらいよ」
見ているだけなのが、たまらなく苦しかった。
何か言いたい。でも、今の花菜にどんな言葉をかけても、簡単には届かない気がした。
行き場をなくした手を膝の上で握り、迷った末に花菜の背中へ伸ばす。
触れる直前で一度止めた。
それでも、服の上からそっと背中に触れ、確かめるように一度だけ撫でる。
花菜は驚いたように身を強張らせたが、離れてはいかなかった。
それから俺は、何も言わずに背中をゆっくりさすった。
大丈夫だとは言えない。もう心配ないとも言えない。
花菜が顔を上げるまで、背中に置いた手を離さなかった。
♢
しばらく、何も話さなかった。
川の流れる音に混じって、遠くを走る電車の音が聞こえる。
花菜は袖で頬を拭った。何度も擦ったせいで、目元が赤くなっている。
「……ごめんね。なんか、いっぱい泣いちゃった」
頬を持ち上げてみせたものの、口元は笑顔の形になる前にほどけた。
「でも、どうしたらいいのか分かんないんだ。言う通りにしてもダメで、逆らう勇気もなくて」
掠れた声のまま、言葉が続く。
「私……お母さんが全部だったから」
花菜はずっと、自分のことより母親を優先してきたのだろう。
このまま帰せば、花菜はまたあの家へ戻る。
俺も何事もなかったように家へ帰り、今日までと同じ時間を過ごす。
何も変わらない。
「……花菜」
呼ぶと、花菜がこちらを向いた。
何が正しいのかは分からない。考えがまとまる前に、言葉が出た。
「一緒に逃げよう」
花菜は驚いたように俺を見ていた。何を言われたのか分からない。そんな顔だった。
「おばさんから離れて、どこか遠くに行こう」
「……え?」
自分で口にした言葉が、遅れて現実味を持ち始める。
「別に一生帰らないとかじゃなくていい。夏休みの間だけでもいいから」
言えば言うほど、何も考えていなかったことが露わになっていく。
花菜は口を閉じたまま、俺の言葉を受け止めていた。
白いワンピースの裾が、草の上を撫でている。
「……そんなの、できるのかな」
「分かんない」
行き先も、泊まる場所も決めていない。
そんな都合のいい場所が、本当にあるのかさえ分からなかった。
「でも……このままよりは、きっとマシだ」
何も変えられないと決めつけて、俺はずっと諦めてきた。
けれど、花菜が「つらい」と伝えてくれた以上、もう知らないふりはできない。
「俺も、今のまま生きていくのは苦しい」
「……ハルくんも?」
「学校も、クラスも……何を言っても間違える気がして、ずっと息苦しかった。だから、一緒に逃げたい」
花菜から返事はなかった。
遠くの橋を渡る車の明かりが、川面に細く伸びていた。
光が過ぎ去ったあと、花菜はワンピースについた草を指先で摘み取った。
けれど捨てずに、そのまま手の中へ残している。
「……ずるいなぁ」
泣いたあとの声に、困ったような響きが混じった。
「そんなこと言われたら、行きたくなっちゃうじゃん」
♢
家に帰ると、自室のベランダで河川敷の続きを描いた。
赤く染まった川面と、その脇に広がる草地。その中へ花菜の姿を描き足していく。
けれど、顔まで描いたところで手が止まった。
笑っているはずなのに、あのときの花菜には見えない。
消しては描き直し、また消す。紙には黒い跡ばかりが残っていった。
「……違うな」
鉛筆を置き、椅子の背にもたれる。
本当に、花菜と逃げるつもりなのか。
勢いで口にしただけだった。行き先も、泊まる場所も、何一つ決まっていない。
再び鉛筆を取り、花菜の口元へ線を足す。
何度描き直しても、河川敷で見た表情にはならない。
やがて諦めて、スケッチブックを机に戻した。
描き上がった景色は、それなりにまとまっていた。
ただ、花菜だけがその中に馴染んでいなかった。
「晴、ご飯できたわよー!」
階下から母さんの声が飛んでくる。
返事をする代わりに、描きかけの紙を閉じた。
最後まで描けなかった花菜の顔が、頭から離れなかった。
♢
今日の夕飯は肉じゃがだった。
父さんは仕事で遅くなるらしく、食卓には母さんと俺しかいない。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
テレビから聞こえる話し声と、食器が触れ合う音。
肉じゃがの甘い匂いも、湯気の立つ汁物も、昨日までと何も変わらなかった。
けれど、この日常から離れることを、俺は花菜に提案した。
箸を動かしていても、味がよく分からない。
「夏休み、ちゃんと楽しんでる?」
不意に母さんが口を開いた。
箸が止まる。楽しいかと聞かれると、答えに困った。
「……普通」
「普通ってなによ」
母さんはジャガイモを箸で割りながら言った。
「友達と遊んだりしてるの?」
「……まぁ、たまには」
考えるより先に、いつもの答えが出た。
実際には、誰かと遊ぶ約束なんてない。学校が休みになっても、一人であることは変わらなかった。
「そう」
母さんはそれ以上追及しなかった。
「でも、花菜ちゃんと会ってから、前より顔色がいい気がする」
「……そうか?」
「そうよ。昔も、花菜ちゃんといるときはずっと楽しそうだったもの」
「……覚えてない」
「でしょうね。もう随分前だもの」
呆れた口調だったが、母さんは楽しそうだった。
テレビの音が耳に残った。母さんは、俺が学校でずっと一人なのを知らない。
知らないのではなく、俺がずっと隠してきた。
何でもない顔で夕飯を食べる母さんを見ていると、今までの嘘が急に重くなった。
「……母さん」
「ん?」
テレビの中で、出演者たちの笑い声が上がった。
『……つらいよ』
花菜の声が、頭の中に蘇る。
あいつは、あれだけ苦しそうにしながら、自分のことを話してくれた。
俺はどうだ。母さんに知られるのが怖くて、ずっと『普通』で通してきた。
言えば、今まで通りではいられない。
学校のことも、今まで隠してきたことも、全部知られる。
怖くないわけじゃない。でも、何も言わないまま終わる方が、今はもっと嫌だった。
「……俺さ」
箸を置く。陶器に触れた音が、食卓へやけに響いた。
「本当は、学校……全然楽しくない」
母さんは食べかけのまま、俺を見た。
「友達もいない。遊びに行くって言ってたのも嘘。 ……ずっと、一人だった」
テーブルの上では、味噌汁からまだ湯気が上がっていた。
テレビの音が途切れず流れる中、母さんの箸は途中で止まっている。
「クラスの奴らとうまく話せなくて。何か言うたびに、空気を悪くしてる気がした。だから、もう黙ってた方がましだと思った」
話すほど、あの教室で過ごした時間が次々と浮かんできた。
「でも、黙ってても何も変わらなかった」
「……ずっと一人で過ごしてたの?」
「……うん」
「どうして言ってくれなかったの」
母さんの声は静かだった。俺は皿の端を見たまま答えた。
「……困らせると思った」
「困らせるって……あなたが決めることじゃないでしょう。何も知らないままの方が、私は嫌よ」
その言葉が、思っていたより深く残った。同時に、今日の花菜の顔が浮かぶ。
「……花菜も、たぶん同じなんだ」
「花菜ちゃんも?」
母さんの声が変わった。
どこまで話していいのか迷ったけど、ここで黙れば、また俺一人で抱えることになる。
「おばさんのことで、かなり追い詰められてる」
「……何があったの?」
「ずっと言う通りにしてきたのに、この前『出来の悪い娘なんていらない』って言われたらしい」
「そんなことを……」
「今日、それを話してくれた。どうしたらいいか分かんないって、途中から泣いてた」
母さんはリモコンを取り、テレビの音を消した。
さっきまで部屋に流れていた笑い声が消える。
「……この前うちに来たときも、いつもと違ったのよね」
「どこが?」
「ずっと遠慮してたでしょう。ご飯を出しても、最初はほとんど手をつけなかったし」
「……そうだったな」
「あの子、昔はもっと遠慮なかったのよ。晴のおかずまで取ってたくらい」
「そんなことしてたっけ」
「してたわよ。帰るときまで花菜ちゃんずっと怖がってた。久しぶりで緊張してるだけだと思ってたけど……違ったのかもしれない」
「俺も、ずっと気になってた」
あの日の違和感の理由を、今日やっと知った。
「だから、俺……あいつをこのままにはしたくない」
母さんは考えるように間を置いた。
「……それで、何をしようとしてるの?」
「花菜と、一緒に逃げたい」
「……逃げるって、どこへ?」
「まだ決めてない」
「今日、花菜ちゃんにもそう言ったの?」
「うん。おばさんから離れて、どこか遠くに行こうって」
「花菜ちゃんは?」
「行きたいって言ってた。でも……まだ迷ってると思う」
母さんは、確かめるように口を開く。
「……二人で行くつもりなのね」
「そのつもり」
「私たちには何も言わずに?」
返事が遅れた。
「最初は……そのつもりだった」
「晴」
母さんの声が低くなる。
「それは駄目よ」
覚悟していた言葉だった。それでも、実際に言われると胸に重く残る。
「でも、花菜ちゃんを助けたいと思ったことまで、駄目だと言ってるんじゃないの」
母さんは俺の言葉を遮らず、落ち着いた声で続ける。
「ただ……二人が突然いなくなったら、私たちも花菜ちゃんのお母さんも捜すことになる。警察だって動くかもしれない」
「じゃあ、花菜はあの家に戻るしかないのかよ」
「そうは言ってないでしょう」
「でも、あいつはもう限界なんだ」
「分かってる。だからこそ、勢いだけで連れ出しちゃ駄目なの」
「何も考えてないわけじゃない」
「どこに泊まるの?」
「……まだ決めてない」
「お金は?」
「貯めてる分がある」
「それで、どのくらい過ごせるの?」
「…………」
「晴は、本当に二人だけで何とかできると思ってる?」
母さんに一つずつ聞かれて、やっと分かった。
俺が考えていたのは逃げるところまでで、その先は、ほとんど何も考えていない。
「……俺一人じゃ無理なのは分かってる。だから……母さんに話した」
口にしてから、ようやく自分が何を求めていたのか分かった。
「一生逃げるわけじゃない。ちょっと離れるだけでいいんだ。おばさんのことを考えなくていい時間があれば、花菜も自分がどうしたいのか考えられるかもしれない」
母さんはすぐには答えなかった。
テレビを消したせいで、冷蔵庫の低い音まで聞こえる。
「……少しって、どのくらい?」
「夏休みの間って、花菜には言った」
「長すぎるわ」
「じゃあ——」
「一週間」
母さんが先に言った。
「……一週間?」
「それ以上は認めない。でも、一週間だけなら考えてもいい」
「一週間なら、いいのか」
「条件はあるわよ」
母さんは声を落として続けた。
「行き先と泊まる場所は、出る前に伝えること。それから、花菜ちゃんが本当に行きたいのか、もう一度ちゃんと確かめなさい」
「……うん」
「向こうの家にどう伝えるかは、そのあと考えましょう」
母さんは念を押した。
「一週間だけよ」
「分かってる」
「旅行じゃないんだから。その間に、二人ともこれからのことを考えなさい」
「……二人とも?」
「そう。花菜ちゃんだけじゃないでしょ。あなたも学校のことで悩んでたんだから」
そこで、自分のことまで言われるとは思わなかった。
「学校が始まるまで、まだ時間はあるわ。これからどうしたいのか、ちゃんと考えなさい」
「……考えてみる」
「それと、お父さんにも話すこと」
「やっぱり、話さないと駄目か」
「当たり前でしょ。怒るとは思うけど、話せばちゃんと分かってくれるわよ」
父さんに、学校のことも花菜のことも全部話すのかと思うと、今から気が重い。
それでも、母さんだけ任せるわけにはいかなかった。
「……ありがとう」
「まだ全部許したわけじゃないからね」
「分かってるよ」
母さんはそこで食事を再開した。俺も残っていた夕飯を口へ運ぶ。
さっきまで胸につかえていたものが、ようやく消えていった。
母さんは、帰ってきなさいとは言わなかった。
けれど、一週間という期限の先には、ちゃんと戻れる場所が残っていた。