裏切りの逃避行   作:怪盗エンペラー

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第三章 八月十三日 前田晴 さよならとよろしく

 河川敷で花菜と計画を決めてからの数日は、やけに長かった。

 家では、旅の話を以前ほどしなくなった。

 父さんも母さんも、完全に納得したわけではないと思う。

 それでも、行き先を伝えたときも、必要なものを確認したときも、最後まで俺の話を聞いてくれた。

 それだけで、以前とは家の空気が違っていた。

 机の引き出しを開け、貯めていた金を取り出す。

 

 七万円。

 

 財布へ入れてから、荷物をリュックへ詰めていく。

 着替えやスケッチブックを押し込み、最後に折り畳んだ地図を入れた。

 ファスナーを閉める。

 一週間も家を離れるのに、荷物は思っていたより少なかった。

 時計を見る。約束の時間までは、まだ余裕がある。

 ベッドへ腰を下ろすと、普段なら気にも留めない自分の部屋を、なぜか何度も見回してしまった。

 次にここで眠るのは、一週間後になる。

 そう考えると、まだ家にいるのに、もう遠くへ来てしまったような気分になった。

 花菜は来る。河川敷で、本人の口から聞いた。

 

『ハルくんと一緒に行きたい』

 

 その言葉を疑っているわけじゃない。

 ただ、今日になって怖くなってもおかしくはなかった。

 俺だって、荷物をまとめながら何度も考えた。

 本当に家を出るのか。本当に一週間も戻らないのか。けど、答えは変わらなかった。

 今いる場所から、一度離れてみたい。それだけは、自分で決めた。

 

「晴。そろそろじゃないのか」

 

 階下から父さんの声がした。時計を見る。

 

「今行く」

 

 リュックを背負い、部屋を出た。

 

 ♢

 

 玄関には、父さんと母さんがいた。

 

「忘れ物ない?」

「……大丈夫」

「ならいいけど」

 

 母さんはそう言いながら、玄関脇に置いていた小さな袋を手に取った。

 

「これも持っていきなさい」

「何これ」

「酔い止め」

「俺、バス酔いしないけど」

「花菜ちゃんがするかもしれないでしょ」

 

 返す理由もなく、そのままリュックへ入れた。

 

「何かあったら、すぐ連絡しろ」

「分かった」

 

 靴を履き、扉へ手を掛ける。

 

「晴」

 

 母さんに呼ばれた。

 

「ちゃんと、帰ってきなさい」

「……帰ってくるよ」

「ならいい」

 

 父さんも俺の方を向いた。

 

「行ってこい」

 

 扉を開ける前に、もう一度二人を見る。

 

「……行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 

 外へ出る。

 扉が閉まる音を背中で聞きながら、歩き出した。

 これから花菜と合流して、ここを離れる。

 昨日まで何度も頭の中で繰り返していたことが、ようやく今日になる。

 俺はそのまま、花菜との待ち合わせ場所へ向かった。

 

 ♢

 

 バス停に着くと、待合スペースには誰もいなかった。

 自販機の明かりだけが、ベンチの辺りを白く照らしている。

 腰を下ろし、スマホを確認した。

 

 二十三時四十分。まだ花菜の姿はない。

 

 画面を閉じてからも、何度か時刻を確かめた。

 おばさんがまだ起きているのかもしれない。家を出る直前になって、怖くなったのかもしれない。

 来られなくても、責めるつもりはなかった。ただ、ここまで来た以上は待つしかない。

 

 十分ほど経った。

 道路を通る車もなく、向かいの店もすでにシャッターを下ろしている。

 スマホを見る。

 二十三時五十二分。バスが来るまで、もうそれほど時間はない。

 その時、道路の先から駆けてくる足音が聞こえた。

 

 

「——ハルくん!」

 

 

 声のした方を向く。

 花菜が、白いワンピースの裾を乱しながら駆けてきた。

 肩のリュックが走るたびに大きく跳ね、スニーカーが舗装を強く叩いている。

 

「ごめん、遅くなった……」

 

 俺の前まで来ると、花菜は膝に手をついた。

 息が上がり、額には汗が浮いている。

 

「お母さん、なかなか寝なくて……」

「そうだったのか」

「何回も部屋から出ようとしたんだけど、そのたびに物音がして」

 

 花菜はまだ呼吸を整えきれないまま続けた。

 

「最後に玄関閉めたとき、起きたかと思って……ほんとに焦った」

 

 言い終えると、花菜はリュックを背負い直した。

 

「……まだ落ち着かない?」

「うぅん……大丈夫」

 

 そのとき、道路の先から低いエンジン音が近づいてきた。

 夜行バスが停留所へ入り、大きな車体を寄せる。

 排気の熱が足元を抜け、ブレーキの音が夜の静けさを破った。

 扉が開く。花菜はそこで初めて動きを止めた。

 

「……ほんとに行くんだね」

「だな」

 

 運転手が乗車券を確認している。

 前の客が荷物を預け、順番が近づいてくる。

 花菜は一度深く息を吐いてから、俺の隣へ並んだ。

 

「……行こっか」

「ああ」

 

 乗車券を見せ、そのままバスへ乗り込む。

 指定された席に並んで座ると、外では運転手が荷物入れを始めていた。

 

 

 やがて扉が閉まり、車体が動き出す。

 花菜は窓の外を見たままだった。住宅街を抜けるまで、一度も口を開かなかった。

 俺も流れていく町を眺める。バスは進み続ける。

 

「……ハルくん」

「ん?」

「明日の朝、知らない場所にいるんだね」

 

 俺は鞄の中のスケッチブックを思い出した。

 

「……朝になったら、最初に目に入ったものでも描こうかな」

「最初に見たもの?」

「せっかく遠くまで行くんだし」

「……私だったら?」

「それは考える」

「なんで……?」

「動くから」

「ちゃんとじっとしてるよ」

「……なら、そのとき決める」

 

 窓の外へ向き直る。いつの間にか、知っている建物は一つもなくなっていた。

 これから一週間、花菜と二人で過ごす。

 その先に何があるのかは分からない。

 

 ただ、明日の朝に見る景色だけは、ちゃんと覚えておこうと思った。

 

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