河川敷で花菜と計画を決めてからの数日は、やけに長かった。
家では、旅の話を以前ほどしなくなった。
父さんも母さんも、完全に納得したわけではないと思う。
それでも、行き先を伝えたときも、必要なものを確認したときも、最後まで俺の話を聞いてくれた。
それだけで、以前とは家の空気が違っていた。
机の引き出しを開け、貯めていた金を取り出す。
七万円。
財布へ入れてから、荷物をリュックへ詰めていく。
着替えやスケッチブックを押し込み、最後に折り畳んだ地図を入れた。
ファスナーを閉める。
一週間も家を離れるのに、荷物は思っていたより少なかった。
時計を見る。約束の時間までは、まだ余裕がある。
ベッドへ腰を下ろすと、普段なら気にも留めない自分の部屋を、なぜか何度も見回してしまった。
次にここで眠るのは、一週間後になる。
そう考えると、まだ家にいるのに、もう遠くへ来てしまったような気分になった。
花菜は来る。河川敷で、本人の口から聞いた。
『ハルくんと一緒に行きたい』
その言葉を疑っているわけじゃない。
ただ、今日になって怖くなってもおかしくはなかった。
俺だって、荷物をまとめながら何度も考えた。
本当に家を出るのか。本当に一週間も戻らないのか。けど、答えは変わらなかった。
今いる場所から、一度離れてみたい。それだけは、自分で決めた。
「晴。そろそろじゃないのか」
階下から父さんの声がした。時計を見る。
「今行く」
リュックを背負い、部屋を出た。
♢
玄関には、父さんと母さんがいた。
「忘れ物ない?」
「……大丈夫」
「ならいいけど」
母さんはそう言いながら、玄関脇に置いていた小さな袋を手に取った。
「これも持っていきなさい」
「何これ」
「酔い止め」
「俺、バス酔いしないけど」
「花菜ちゃんがするかもしれないでしょ」
返す理由もなく、そのままリュックへ入れた。
「何かあったら、すぐ連絡しろ」
「分かった」
靴を履き、扉へ手を掛ける。
「晴」
母さんに呼ばれた。
「ちゃんと、帰ってきなさい」
「……帰ってくるよ」
「ならいい」
父さんも俺の方を向いた。
「行ってこい」
扉を開ける前に、もう一度二人を見る。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
外へ出る。
扉が閉まる音を背中で聞きながら、歩き出した。
これから花菜と合流して、ここを離れる。
昨日まで何度も頭の中で繰り返していたことが、ようやく今日になる。
俺はそのまま、花菜との待ち合わせ場所へ向かった。
♢
バス停に着くと、待合スペースには誰もいなかった。
自販機の明かりだけが、ベンチの辺りを白く照らしている。
腰を下ろし、スマホを確認した。
二十三時四十分。まだ花菜の姿はない。
画面を閉じてからも、何度か時刻を確かめた。
おばさんがまだ起きているのかもしれない。家を出る直前になって、怖くなったのかもしれない。
来られなくても、責めるつもりはなかった。ただ、ここまで来た以上は待つしかない。
十分ほど経った。
道路を通る車もなく、向かいの店もすでにシャッターを下ろしている。
スマホを見る。
二十三時五十二分。バスが来るまで、もうそれほど時間はない。
その時、道路の先から駆けてくる足音が聞こえた。
「——ハルくん!」
声のした方を向く。
花菜が、白いワンピースの裾を乱しながら駆けてきた。
肩のリュックが走るたびに大きく跳ね、スニーカーが舗装を強く叩いている。
「ごめん、遅くなった……」
俺の前まで来ると、花菜は膝に手をついた。
息が上がり、額には汗が浮いている。
「お母さん、なかなか寝なくて……」
「そうだったのか」
「何回も部屋から出ようとしたんだけど、そのたびに物音がして」
花菜はまだ呼吸を整えきれないまま続けた。
「最後に玄関閉めたとき、起きたかと思って……ほんとに焦った」
言い終えると、花菜はリュックを背負い直した。
「……まだ落ち着かない?」
「うぅん……大丈夫」
そのとき、道路の先から低いエンジン音が近づいてきた。
夜行バスが停留所へ入り、大きな車体を寄せる。
排気の熱が足元を抜け、ブレーキの音が夜の静けさを破った。
扉が開く。花菜はそこで初めて動きを止めた。
「……ほんとに行くんだね」
「だな」
運転手が乗車券を確認している。
前の客が荷物を預け、順番が近づいてくる。
花菜は一度深く息を吐いてから、俺の隣へ並んだ。
「……行こっか」
「ああ」
乗車券を見せ、そのままバスへ乗り込む。
指定された席に並んで座ると、外では運転手が荷物入れを始めていた。
やがて扉が閉まり、車体が動き出す。
花菜は窓の外を見たままだった。住宅街を抜けるまで、一度も口を開かなかった。
俺も流れていく町を眺める。バスは進み続ける。
「……ハルくん」
「ん?」
「明日の朝、知らない場所にいるんだね」
俺は鞄の中のスケッチブックを思い出した。
「……朝になったら、最初に目に入ったものでも描こうかな」
「最初に見たもの?」
「せっかく遠くまで行くんだし」
「……私だったら?」
「それは考える」
「なんで……?」
「動くから」
「ちゃんとじっとしてるよ」
「……なら、そのとき決める」
窓の外へ向き直る。いつの間にか、知っている建物は一つもなくなっていた。
これから一週間、花菜と二人で過ごす。
その先に何があるのかは分からない。
ただ、明日の朝に見る景色だけは、ちゃんと覚えておこうと思った。