夜行バスは、暗い山道を揺れながら走っていた。
外はほとんど真っ暗で、たまに道路脇の灯りが一瞬だけ車内を照らす。
隣では、花菜が窓にもたれて眠っていた。
薄いブランケットを掛け、揺れるたびに頭が窓へ触れそうになっている。
俺はスマホを開いた。
時刻は午前一時を回っており、母さんからメッセージが一件届いていた。
『着いたら連絡しなさいね!』
短い文を読んで、しばらく画面を閉じられなかった。
家を出る前と変わらない言い方だった。それが、なんだかありがたかった。
バスが大きく揺れ、頭がこちらへ傾く。
肩に触れる寸前で止まり、次の揺れでまた窓側へ戻っていった。
「……危な」
起きる気配はない。
家を出る直前まであれだけ怖がっていた花菜が、今は俺の隣で眠っている。
俺も背もたれへ体を預ける。バスの揺れに任せているうちに、いつの間にか瞼が重くなっていった。
♢
眩しさで目が覚めた。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、車内の座席を照らしている。
「……いて」
身体を起こすと、背中に鈍い痛みが走った。
肩も腰も固まっていて、まともに伸ばせない。
隣では、花菜が窓にもたれて眠っていた。
白いワンピースの上には、車内で借りたブランケットが掛かっている。
寝ぼけた頭でそこまで見て、ようやく思い出した。
俺たちは昨日、町を出た。
窓の外には、見たことのない道が続いている。道路標識に書かれた地名も、どれ一つ馴染みがなかった。
「ん……」
花菜がブランケットの中で身体を動かした。
「……ハルくん」
「おはよう」
花菜は目を擦りながら身体を起こした途端、顔をしかめた。
「……腰、痛い。夜行バスって、こんな感じなんだね」
「もっと寝れると思ってたんだけどな」
花菜は両腕を上げて背中を伸ばした。
「いたた……」
「大丈夫か?」
「背中まで痛い、かも」
「俺も……やばそうかも」
「やってみて」
言われた通りに身体を反らす。
「……いて、ほんとだ」
「でしょ?」
眠気の残った声でそんな話をしているうちに、頭もだんだん冴えてきた。
「……朝起きて、ハルくんが隣にいるの変な感じ」
「それはこっちも同じ。しかも背中痛いし」
「そこ……?」
「そこも大事だろ」
座り直しても背中の痛みは残ったままだった。隣で花菜は、ブランケットにくるまっている。
「……ここまで来ても、まだ実感が湧かないね」
「昨日の俺に言っても、たぶん信じないだろうな」
「私も」
前の方で誰かが咳をする。その音も、一定に続く走行音の中へ消えていった。
「……家、どうなってるんだろ」
「今ごろ母さん、起きてるかもな」
「……私のお母さんも」
花菜の声が沈んだ。
「……そういえば、母さんが花菜のこと気にしてた」
「私の?」
「困ったことがあったら、ちゃんと言えって。花菜にも伝えとけって言われた」
「……おばさんが?」
「うん。俺に言いづらかったら、母さんにでもいいって」
「……そんなこと言ってくれたんだ」
「たぶん、ずっと気にしてる」
花菜は膝の上で手を重ねた。
「……帰ったら、ちゃんとお礼言わなきゃ」
「そうだな。俺もありがとうって言わないとな」
しばらくして、バスがトンネルへ入る。
窓いっぱいにあった朝の光が消え、エンジン音だけが響いた。
やがて出口が近づき、暗かった窓が一気に明るくなる。
「……あ」
トンネルを抜けた先に、海が広がっていた。
道路のすぐ向こうまで青い水面が続き、朝日を受けた波が何度も光っている。
花菜が窓へ身体を寄せた。
「……すごいっ」
俺も言葉が出なかった。
昨日まで見ていた川とも、画用紙の中で描いてきた景色とも違う。
本当に知らない場所まで来たのだと、そこで初めて腹に落ちた。
「ハルくん……描かないの?」
「え?」
何のことかと思ってから、昨夜のやり取りを思い出した。
「ああ、あれか」
「……忘れてた?」
「忘れてない」
鞄からスケッチブックを取り出す。
「海、描くの?」
「そのつもり」
「……私じゃないんだ」
「昨日、動くから無理って言っただろ」
「今なら動かないよ」
「ほんとかよ」
「ちゃんとじっとしてる」
スケッチブックを開いたものの、最初の線をどこに置くか決まらなかった。
「……そんなに描いてほしい?」
「うん。ハルくんが描いた私、見てみたいから」
返事に迷う様子は無かった。
「変になっても知らないぞ」
「それでもいいよ」
「よくないだろ」
「……じゃあ、ちゃんと描いて」
「簡単に言うな」
花菜の声に、さっきまでとは違う明るさが混じった。
「分かったから、動くなよ」
「うん」
花菜は窓際に座り直した。
白いワンピースの向こうで、朝の水面が陽の光を返している。
海を描くつもりで開いたページに、最初の線を置いた。
♢
それから数時間後、バスは終点に着いた。
扉が開いた途端、熱気が一気に入り込んでくる。
「……暑」
バスを降りると、舗装された地面からも熱が返ってきた。
リュックを背負い直し、花菜と並んで駅前へ出る。
駅前には昨日調べておいたショッピングモールがあり、その周りにバス乗り場や観光案内板が集まっていた。
「……疲れたね」
「今日はもう、宿で休もう」
「うん。その方がいいかも」
鞄から地図を取り出すと、花菜も隣から覗き込んだ。
「宿、こっちだよね」
「たぶん、この通り」
「……じゃあ行こっか」
花菜と地図を確かめてから、宿のある方へ歩き出した。
♢
宿へ向かう途中、花菜が一軒の店の前で足を止めた。
「……ここ、お店かな」
木製の看板には『青川屋』と書かれている。
「たぶん食堂だな」
そういえば、朝からまともなものを食べていなかった。
「何か食べてく?」
「うん。お腹空いた」
俺たちはそのまま引き戸を開けた。
「いらっしゃい」
中は、外から見るより広かった。
座敷では、お婆さんが猫を膝に乗せながらテレビを見ている。
壁際の水槽では金魚が泳ぎ、古い扇風機が一定の速さで首を振っていた。
厨房から味噌汁の匂いが漂ってくる。
「あらぁ、見ない顔だねぇ。どこから来たの?」
「えっと……旅行で」
どこまで聞かれるのかと思ったが、お婆さんは俺たちの荷物を見ただけだった。
「そうかい、暑かったでしょう。好きなところ座りなさいな」
「……ありがとうございます」
俺たちは窓際の座敷へ上がった。
しばらくすると、お婆さんが冷たい麦茶を持ってきてくれる。
「ゆっくりしていきなさい」
「助かります」
麦茶を一口飲む。
冷たさが喉を通り、さっきまでまとわりついていた暑さがようやく引いた。
「……あ」
膝に重みが乗った。
さっきまでお婆さんのところにいた猫が、いつの間にか俺の足の上で丸くなっている。
「人懐っこいな」
頭を撫でると、猫は逃げるどころか、そのまま身体を預けてきた。
向かいの花菜は、さっきから猫の方ばかり気にしている。
「……触る?」
「え……いいの?」
「俺に聞かれても」
猫を花菜の方へ寄せる。
花菜がおそるおそる手を伸ばすと、猫の方から指先へ頭を擦りつけた。
「わ……」
今度は背中へ触れる。
「……あったかい」
花菜の声が、普段より幼く聞こえた。猫はそのまま花菜の膝へ移り、当然のように丸くなる。
「俺のときより馴染んでない?」
「そうかな」
「もう俺のこと忘れてるだろ、こいつ」
「私に言われても困るよ」
花菜は猫の背中を撫でたまま答えた。
「仲良しさんだねぇ」
お婆さんが湯飲みを拭きながら声をかけてきた。
「……そう見えます?」
「見えるよ。二人は友達かい?」
「まあ……幼馴染です」
「あらぁ、それなら長い付き合いだ」
お婆さんは布巾を畳みながら続けた。
「なんだか若い頃を思い出すよ。私も昔、今の旦那と駆け落ちしたことがあってね」
「え?」
思わず聞き返した。
「親には散々反対されたし、お金も全然なかった。でも、不思議と楽しかったんだよ。毎日必死だったはずなのにねぇ」
猫を撫でていた花菜の手が止まった。
「……楽しかったんですか」
「楽しかったよ。自分たちで決めて、知らないところへ行ってさ」
お婆さんはそのまま昔話を続けた。
「もちろん大変だったけどね。古いアパート借りて、二人とも朝から晩まで働いて。あの人なんか、昼は工事現場で働きながら、夜は美容師の見習いしてたんだよ」
「美容師……」
「そうそう。毎日へとへとでね。それでも、帰りに半額のお弁当見つけただけで、今日は当たりだって喜んでた」
「……なんか、いいですね」
俺が言うと、お婆さんは笑った。
「その頃は、そんなふうに思ってなかったけどね。でも、あとになって思い出すのは変なことばっかりでさ。雨漏りした夜なんて、二人で鍋を三つ並べて寝たんだよ。今でもあの音だけは覚えてるねぇ」
そのとき、ぐぅ、と音が鳴った。花菜の身体が固まる。
「…………」
「……花菜?」
「違う、もん」
「まだ何も言ってないけど」
否定するには早すぎる。耳まで赤くなっていた。
「ふふっ、若い子はちゃんと食べなさい」
お婆さんがメニューを差し出した。
「はい、好きなの選びな」
「ありがとうございます」
お婆さんが厨房へ戻る。
花菜はメニューを開き、端から順番にページをめくっていった。
ハンバーグ、オムライス、しょうが焼き。
一通り見終えても、メニューは閉じられない。
もう一度最初のページへ戻ったところで、花菜の手が止まった。
「……ハルくん」
「決まった?」
「その……ハルくんが決めていいよ」
「俺が?」
「うん。私、何でもいいから」
メニューを差し出される。
「……何でもいいって、一番困るんだけど」
「……ごめん」
「いや、怒ってるわけじゃないよ」
花菜はメニューを引っ込めようとした。
「自分で食べたいの、ないの?」
「……分かんない。何選べばいいのか」
「好きな物でいいだろ」
「何でも選んでいいって言われると、分かんなくなる」
その言葉で、河川敷での会話を思い出した。
『お母さんに聞けば、いつも決めてくれたから』
俺が適当に一つ選べば、話は早い。けど、それを花菜が選んだことにはならない。
「……じゃあ、俺が決めるのはやめとく」
「え……?」
「俺が選んだら、花菜が何食べたいのか分かんないし」
花菜の手元で、メニューの端が曲がった。
「今日は、自分で決めたら?」
「……い、いいの?」
「いいだろ。誰に聞く必要もないんだから」
花菜は何も言わず、ページをめくった。
一度通り過ぎては戻り、写真の下に書かれた料理名を何度も確かめている。
オムライスのところで手が止まり、次のページへ進む。
そのあとまた戻って、今度は唐揚げの写真をしばらく見ていた。
決めかけては迷っているのが、手の動きだけでも分かった。
それでも、今度は俺にメニューを渡してこなかった。
しばらくして、花菜が一枚の写真を指した。
「……これにする」
ハンバーグ定食だった。
「いいじゃん」
「ほんと……?」
「美味しそう」
「子供っぽくない?」
「ハンバーグに年齢制限ないだろ。この前うちでも食べてたじゃん」
「……確かに」
「飲み物は?」
花菜は飲み物のページをめくった。今度はさっきほど時間がかからなかった。
「……クリームソーダ」
「好きなの?」
「飲んだこと、あんまりなくて」
「じゃあ、決まりだ」
「……うんっ」
ちょうど厨房から戻ってきたお婆さんが、俺たちの前で足を止める。
「決まったかい?」
花菜はメニューを持ち直した。
「……ハンバーグ定食と、クリームソーダお願いします」
「はいよ」
注文を終えると、花菜は膝の上の猫を撫でた。
「ハルくんは?」
「とんかつで」
「……決めるの早いね」
「朝から何も食ってないから、もう何でも美味そうに見える」
猫は俺たちの会話など気にもせず、花菜の膝の上で眠り始めていた。
♢
しばらくすると、厨房の奥から油の弾ける音が聞こえてきた。
そのあとを追うように、甘いソースの匂いが座敷まで届く。
朝からまともに食べていなかったせいで、余計に腹が減った。
「お待ちどうさん。とんかつ定食と、ハンバーグ定食。それからクリームソーダね」
お婆さんが盆を二つに分けて料理を運んできた。
「……わぁ」
花菜の声が、いつもより高くなった。
ハンバーグは鉄板の上でまだ熱を残していた。
デミグラスソースが表面を覆い、その脇にはご飯とサラダが添えられている。
クリームソーダは深い緑色で、上に浮かんだバニラアイスの縁だけが溶け始めていた。
「これが、クリームソーダ……」
花菜はストローを差しながら、何度もグラスを確かめている。
一方、俺の前には厚めに切られたとんかつが並んでいた。
衣にはまだ油の艶が残っていて、ソースをかける前から十分うまそうだった。
「熱いうちに食べなさいな」
「いただきます」
花菜とほとんど同時に箸を取る。
とんかつを一切れ口へ運ぶと、衣の軽さのあとに肉の熱と脂が広がった。
「……うま」
空腹だったこともあって、ご飯まで止まらなくなる。
「花菜、そっちは?」
花菜は切り分けたハンバーグを食べてから、二口目へ箸を伸ばした。
「……とてもおいしい」
「よかったじゃん」
「うん。これにしてよかった」
「……」
さっきまであれだけ迷ってたくせに。
「……なに?」
「……いや、別に」
「今、なにか言おうとしたでしょ」
「なんもないって」
花菜は納得していない様子だったが、今度はクリームソーダに手を伸ばした。
ストローで一口飲んだあと、今度は上のアイスをスプーンですくう。
「……なんか、夏休みって感じする」
「これが?」
「それだけじゃなくて。朝から知らないお店でご飯食べてるのが」
「まあ、普段やらないからな」
花菜は自分でもうまく説明できないらしく、もう一口飲んだ。
店のテレビでは昼のニュースが流れ、お婆さんはカウンターの奥で洗い物をしていた。
座敷の端では、さっきまで花菜の膝にいた猫が身体を丸めている。
俺も残っていたとんかつを食べ進めた。
「……やっぱり、これにしてよかった」
花菜がもう一度そう言った。今度は何も返さず、俺も箸を動かした。
♢
食事を終え、俺たちは席を立った。
「ごちそうさまでした」
「はい。お粗末様」
花菜も隣で頭を下げる。
「……ごちそうさまでした。クリームソーダも、すごく美味しかったです」
「あらぁ、良かった。また飲みにおいで」
花菜はその言葉に顔を上げた。俺は財布を出し、代金を払う。
「ちょうどね。ありがとう」
お婆さんがレジを閉める。
「この辺にいるのは、しばらく?」
「一週間くらいです」
「じゃあ、帰る前にもう一回来られるねぇ」
花菜が猫の方を見た。
「……また来てもいいですか?」
「もちろんよ。次来る頃には、その子も覚えてるかもしれないね」
「ほんとですか?」
「えぇ。この子、人懐っこいから」
花菜が猫に向かって手を振ると、猫は顔を上げ、こちらへ一声鳴いた。
「じゃあ……また来ます」
お婆さんはそれを聞いて、カウンター越しに手を振った。
「いつでも待ってるからね」
店を出る直前、花菜はもう一度振り返った。猫は座敷の端で転がったままだった。
「……またね」
俺たちはそのまま店を出た。
♢
「……なんか、すごい人だったね」
店を出てからしばらくして、花菜が言った。
「旦那さんの話?」
「それもあるけど……あんなふうに話せるのが」
「昔は大変だったって言ってたな」
「うん。でも、後悔してる感じしなかった」
花菜は歩きながら、さっきのお婆さんの話を思い返しているようだった。
「大変でも、あとから笑って話せることってあるんだね」
「まあ、あのお婆さんだからかもしれないけど」
「それでも、ちょっと安心した」
たぶん、俺も似たようなことを考えていた。
「また来ようか」
「……ここに?」
「全部終わってからでもいいし」
花菜は歩みを止めずに答えた。
「うん。今度は別のもの頼んでみたい」
「ハンバーグじゃないんだ」
「……それはまた頼む、かも」
「結局食べるのかよ」
「……だって、とても美味しかったもん」
そんな話をしているうちに、予約していた宿の看板が見えてきた。
『姫橋の宿』
写真で見た木造の門が、道路の先に立っている。
「ここだな」
「思ってたより大きいね」
「写真だと分かんなかったな」
玄関前まで来ると、花菜がリュックを背負い直した。
「行こっか」
「うん」
石畳を進み、宿の中へ入った。
♢
引き戸を開けて中へ入ると、外の熱気が途切れた。
「……涼しい」
花菜が額の汗を手の甲で拭った。
ロビーは広くはなかった。古い木の柱と低いソファが並び、奥には中庭が見える。
豪華というより、昔からこの場所にある宿という感じだった。
カウンターの奥にいた女性が、俺たちに気づいて立ち上がる。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」
「はい。前田です」
名前を伝えると、女性は宿泊名簿を確認した。
「前田様ですね。二名様で承っております」
俺はリュックを下ろし、母さんから渡されていた封筒を取り出した。
「あと、これも出すように言われてて」
「ありがとうございます。確認しますね」
女性が書類を開く。
「……それ、何?」
「親の同意書。母さんに絶対忘れるなって言われた」
「そんなの必要なんだ」
「俺もこの前知った」
危うく持ってこないところだった、とまでは言わないでおく。
「確認できました。ありがとうございます」
女性は書類を戻し、館内の案内を開いた。
「お部屋は二階です。大浴場は廊下の奥にございます。夕食は六時半から一階のお食事処でご用意しておりますので、こちらの札をお持ちください」
「分かりました。ありがとうございます」
鍵と夕食用の札を受け取る。
女性に頭を下げ、花菜と廊下へ向かった。
磨かれた床板の両脇には、この辺りを写した古い写真や陶器が並んでいる。
階段の手前には館内案内が掛けられ、部屋番号と浴場の位置が書かれていた。
「二階、こっちみたい」
「うん」
花菜が先に階段へ足を掛ける。俺も鍵の木札を持ったまま、その後を上がった。
二階の廊下は一階より狭く、左右に客室の引き戸が並んでいる。
番号を確かめながら進むと、突き当たりの手前に俺たちの部屋があった。
♢
部屋に入ると、畳の匂いがした。
窓際には低い机と座布団が置かれ、床の間には花が一輪飾られている。
「……旅館って、こんな感じなんだ」
花菜はリュックを下ろし、部屋の中を確かめるように歩いた。
押し入れを開けて布団を見たり、急須の蓋を持ち上げたりしている。
宿に着いて、ようやく緊張がほどけてきたらしい。
俺は窓際の机へ座り、スケッチブックを取り出した。
机の上には、宿で用意された菓子皿と林檎が一つ置かれている。
「……絵描くの?」
「ちょっとだけ」
鉛筆を持ち、林檎の輪郭から描き始める。
丸い形をそのまま写すだけでも、角度が変われば影の入り方まで違ってくる。
しばらくすると、花菜が机の反対側へ座った。
「……それ、難しい?」
「林檎? ……まあ、やってみれば分かる」
花菜は机の端に置いた予備の紙へ何度か手を伸ばしかけていた。
「……私も描いてみたい」
「いいけど」
一枚渡し、鉛筆も貸す。
「ありがと」
花菜は紙を前にしたまま、鉛筆を持て余していた。
「描かないの?」
「……どこから描けばいいか分かんない」
「あー……まず、形からでいいんじゃない」
「……形から?」
「外側だけ見て、林檎っぽい丸を作る感じ。最初から細かく描かなくていい」
「やってみる……」
花菜は最初の線を引いた。
丸く描くつもりだったらしいが、輪郭は途中でへこみ、影も妙な方向へ伸びている。
「……これ、林檎に見える?」
「えっと……」
想像以上に形が崩れていて、返事に困った。
「なんか……潰れたトマトみたい」
「え?」
「まぁ、形直せば全然いけるよ」
花菜は消しゴムを手に取り、へこんだ輪郭を消した。
今度はさっきより時間をかけて線を引いていく。
途中で鉛筆を止めては林檎を確かめ、また紙へ戻る。
何度か手を止めて様子をうかがうと、そのたびに花菜も鉛筆を止める。
それでも何も言わず描き続けていたが、とうとう耐えきれなくなったらしい。
「……ハルくん、こっち見ないで」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
「……」
それからは口を挟まず、自分の紙に鉛筆を走らせた。
花菜は何度も線を引き直し、気になるところを消してはまた描いた。
最初は頼りなかった輪郭も、だんだん林檎らしくなっていく。
「……できたっ」
花菜が鉛筆を置いた。
「見ていい?」
「うん」
紙には、少し歪んだ林檎が描かれていた。
影の位置はまだ甘いが、最初より形はずっとまとまっている。
「いいじゃん」
「ほんと?」
「うん。ちゃんと林檎に見える」
花菜は描き上がった紙を手元へ寄せた。
「……思ってたより、楽しいかも」
「結構ハマってたもんな」
「描いてるうちに、ちゃんと形にしたくなってきたの」
「だったら、次は影も見てみたら?」
花菜はそのまま新しい紙へ手を伸ばした。
「……もう一回描く」
花菜はまた林檎の輪郭から描き始めた。
俺も自分のスケッチブックへ戻る。
隣から鉛筆の音が聞こえるだけで、いつもより長く描いていられる気がした。
♢
それからも、花菜は机を離れなかった。
林檎を描き終えると、今度は机の端にあった湯のみを自分の前へ持ってきた。
「……これ、丸くならない」
花菜は紙の上に楕円を何度か描いては消している。
「真上から見てるわけじゃないから、口の部分は丸じゃなくて楕円になる」
「楕円?」
「横に潰した丸みたいな感じ」
「……こう?」
「もう少し横長。あと、手前の線を濃くすると形が出やすい」
花菜は言われた通りに線を重ねた。
「……あ、さっきより湯のみっぽい」
「だろ」
「影は?」
「照明が左上にあるから、影は右下に落ちる。湯のみのすぐ横が一番濃い」
「……難しい」
花菜は湯のみの位置を変えないよう気をつけながら、紙に影を足していった。
「ハルくん、よくこんなのずっと描けるね」
「描いてるうちに慣れるよ」
花菜は腑に落ちていないようだったが、そのまま鉛筆を動かし続けた。
紙には消した跡が増え、机の端には使った鉛筆や消しゴムが寄っていく。
♢
俺より花菜の方が夢中になっていた。
どれくらい経ったのか、仲居さんが夕食の時間を知らせに来て、ようやく時計を見る。
「……もうそんな時間?」
花菜は時計を確かめてから、名残惜しそうに鉛筆を置いた。
食事を終え、風呂から戻ってきたあとも、花菜はまた机へ座った。
半乾きの髪をタオルで拭きながら、描きかけの紙を手元へ寄せる。
「続きやるの?」
「うん。ここまで描いたし」
俺も隣へ座り、スケッチブックを開いた。
夜が深くなるにつれて、会話も減っていった。
鉛筆が紙を擦る音だけが、隣から一定の間隔で聞こえている。しばらくして、その音が止まった。
「……花菜?」
返事はない。
花菜は机に頬をつけ、鉛筆を握ったまま眠っていた。
紙には、途中まで描かれた湯のみが残っている。
「おい。そんなとこで寝ると首痛めるぞ」
「……ん」
「花菜」
「……あと、ちょっと……」
「何がだよ」
寝言らしく、それきり返事はなかった。鉛筆を指の間から抜き取る。
「ったく……」
押し入れから布団を引っ張り出して敷いた。
問題は、そのあとだった。
「……これ、どうすんだ」
机に突っ伏した花菜を見る。起こそうとして肩を叩いても、まるで起きる気配がない。
仕方なく身体を抱え上げる。
花菜を抱え上げた途端、腕がだらりと垂れた。
「危な……」
机の脚にぶつかる寸前で抱え直す。
どうにか布団まで運び、下ろそうとしたところで、花菜がうっすら目を開けた。
「……ハルくん」
「起きたか。大丈夫か?」
「ねむい……」
「知ってる」
それだけ言うと、花菜は布団へ顔を埋め、そのまま動かなくなった。
「……自由だな、こいつ」
掛け布団をかけて、机へ戻る。
描きかけの湯のみは、最後の一本だけ線が途切れていた。
俺はそれには触れず、自分のスケッチブックを閉じた。