裏切りの逃避行   作:怪盗エンペラー

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第四章 八月十四日 前田晴 勇気と自由

 夜行バスは、暗い山道を揺れながら走っていた。

 外はほとんど真っ暗で、たまに道路脇の灯りが一瞬だけ車内を照らす。

 隣では、花菜が窓にもたれて眠っていた。

 薄いブランケットを掛け、揺れるたびに頭が窓へ触れそうになっている。

 俺はスマホを開いた。

 時刻は午前一時を回っており、母さんからメッセージが一件届いていた。

 

『着いたら連絡しなさいね!』

 

 短い文を読んで、しばらく画面を閉じられなかった。

 家を出る前と変わらない言い方だった。それが、なんだかありがたかった。

 バスが大きく揺れ、頭がこちらへ傾く。

 肩に触れる寸前で止まり、次の揺れでまた窓側へ戻っていった。

 

「……危な」

 

 起きる気配はない。

 家を出る直前まであれだけ怖がっていた花菜が、今は俺の隣で眠っている。

 俺も背もたれへ体を預ける。バスの揺れに任せているうちに、いつの間にか瞼が重くなっていった。

 

 ♢

 

 眩しさで目が覚めた。

 カーテンの隙間から朝日が差し込み、車内の座席を照らしている。

 

「……いて」

 

 身体を起こすと、背中に鈍い痛みが走った。

 肩も腰も固まっていて、まともに伸ばせない。

 隣では、花菜が窓にもたれて眠っていた。

 白いワンピースの上には、車内で借りたブランケットが掛かっている。

 寝ぼけた頭でそこまで見て、ようやく思い出した。

 俺たちは昨日、町を出た。

 窓の外には、見たことのない道が続いている。道路標識に書かれた地名も、どれ一つ馴染みがなかった。

 

「ん……」

 

 花菜がブランケットの中で身体を動かした。

 

「……ハルくん」

「おはよう」

 

 花菜は目を擦りながら身体を起こした途端、顔をしかめた。

 

「……腰、痛い。夜行バスって、こんな感じなんだね」

「もっと寝れると思ってたんだけどな」

 

 花菜は両腕を上げて背中を伸ばした。

 

「いたた……」

「大丈夫か?」

「背中まで痛い、かも」

「俺も……やばそうかも」

「やってみて」

 

 言われた通りに身体を反らす。

 

「……いて、ほんとだ」

「でしょ?」

 

 眠気の残った声でそんな話をしているうちに、頭もだんだん冴えてきた。

 

「……朝起きて、ハルくんが隣にいるの変な感じ」

「それはこっちも同じ。しかも背中痛いし」

「そこ……?」

「そこも大事だろ」

 

 座り直しても背中の痛みは残ったままだった。隣で花菜は、ブランケットにくるまっている。

 

「……ここまで来ても、まだ実感が湧かないね」

「昨日の俺に言っても、たぶん信じないだろうな」

「私も」

 

 前の方で誰かが咳をする。その音も、一定に続く走行音の中へ消えていった。

 

「……家、どうなってるんだろ」

「今ごろ母さん、起きてるかもな」

「……私のお母さんも」

 

 花菜の声が沈んだ。

 

「……そういえば、母さんが花菜のこと気にしてた」

「私の?」

「困ったことがあったら、ちゃんと言えって。花菜にも伝えとけって言われた」

「……おばさんが?」

「うん。俺に言いづらかったら、母さんにでもいいって」

「……そんなこと言ってくれたんだ」

「たぶん、ずっと気にしてる」

 

 花菜は膝の上で手を重ねた。

 

「……帰ったら、ちゃんとお礼言わなきゃ」

「そうだな。俺もありがとうって言わないとな」

 

 しばらくして、バスがトンネルへ入る。

 窓いっぱいにあった朝の光が消え、エンジン音だけが響いた。

 やがて出口が近づき、暗かった窓が一気に明るくなる。

 

「……あ」

 

 トンネルを抜けた先に、海が広がっていた。

 道路のすぐ向こうまで青い水面が続き、朝日を受けた波が何度も光っている。

 花菜が窓へ身体を寄せた。

 

「……すごいっ」

 

 俺も言葉が出なかった。

 昨日まで見ていた川とも、画用紙の中で描いてきた景色とも違う。

 本当に知らない場所まで来たのだと、そこで初めて腹に落ちた。

 

「ハルくん……描かないの?」

「え?」

 

 何のことかと思ってから、昨夜のやり取りを思い出した。

 

「ああ、あれか」

「……忘れてた?」

「忘れてない」

 

 鞄からスケッチブックを取り出す。

 

「海、描くの?」

「そのつもり」

「……私じゃないんだ」

「昨日、動くから無理って言っただろ」

「今なら動かないよ」

「ほんとかよ」

「ちゃんとじっとしてる」

 

 スケッチブックを開いたものの、最初の線をどこに置くか決まらなかった。

 

「……そんなに描いてほしい?」

「うん。ハルくんが描いた私、見てみたいから」

 

 返事に迷う様子は無かった。

 

「変になっても知らないぞ」

「それでもいいよ」

「よくないだろ」

「……じゃあ、ちゃんと描いて」

「簡単に言うな」

 

 花菜の声に、さっきまでとは違う明るさが混じった。

 

「分かったから、動くなよ」

「うん」

 

 花菜は窓際に座り直した。

 白いワンピースの向こうで、朝の水面が陽の光を返している。

 海を描くつもりで開いたページに、最初の線を置いた。

 

 ♢

 

 それから数時間後、バスは終点に着いた。

 扉が開いた途端、熱気が一気に入り込んでくる。

 

「……暑」

 

 バスを降りると、舗装された地面からも熱が返ってきた。

 リュックを背負い直し、花菜と並んで駅前へ出る。

 駅前には昨日調べておいたショッピングモールがあり、その周りにバス乗り場や観光案内板が集まっていた。

 

「……疲れたね」

「今日はもう、宿で休もう」

「うん。その方がいいかも」

 

 鞄から地図を取り出すと、花菜も隣から覗き込んだ。

 

「宿、こっちだよね」

「たぶん、この通り」

「……じゃあ行こっか」

 

 花菜と地図を確かめてから、宿のある方へ歩き出した。

 

 ♢

 

 宿へ向かう途中、花菜が一軒の店の前で足を止めた。

 

「……ここ、お店かな」

 

 木製の看板には『青川屋』と書かれている。

 

「たぶん食堂だな」

 

 そういえば、朝からまともなものを食べていなかった。

 

「何か食べてく?」

「うん。お腹空いた」

 

 俺たちはそのまま引き戸を開けた。

 

「いらっしゃい」

 

 中は、外から見るより広かった。

 座敷では、お婆さんが猫を膝に乗せながらテレビを見ている。

 壁際の水槽では金魚が泳ぎ、古い扇風機が一定の速さで首を振っていた。

 厨房から味噌汁の匂いが漂ってくる。

 

「あらぁ、見ない顔だねぇ。どこから来たの?」

「えっと……旅行で」

 

 どこまで聞かれるのかと思ったが、お婆さんは俺たちの荷物を見ただけだった。

 

「そうかい、暑かったでしょう。好きなところ座りなさいな」

「……ありがとうございます」

 

 俺たちは窓際の座敷へ上がった。

 しばらくすると、お婆さんが冷たい麦茶を持ってきてくれる。

 

「ゆっくりしていきなさい」

「助かります」

 

 麦茶を一口飲む。

 冷たさが喉を通り、さっきまでまとわりついていた暑さがようやく引いた。

 

「……あ」

 

 膝に重みが乗った。

 さっきまでお婆さんのところにいた猫が、いつの間にか俺の足の上で丸くなっている。

 

「人懐っこいな」

 

 頭を撫でると、猫は逃げるどころか、そのまま身体を預けてきた。

 向かいの花菜は、さっきから猫の方ばかり気にしている。

 

「……触る?」

「え……いいの?」

「俺に聞かれても」

 

 猫を花菜の方へ寄せる。

 花菜がおそるおそる手を伸ばすと、猫の方から指先へ頭を擦りつけた。

 

「わ……」

 

 今度は背中へ触れる。

 

「……あったかい」

 

 花菜の声が、普段より幼く聞こえた。猫はそのまま花菜の膝へ移り、当然のように丸くなる。

 

「俺のときより馴染んでない?」

「そうかな」

「もう俺のこと忘れてるだろ、こいつ」

「私に言われても困るよ」

 

 花菜は猫の背中を撫でたまま答えた。

 

「仲良しさんだねぇ」

 

 お婆さんが湯飲みを拭きながら声をかけてきた。

 

「……そう見えます?」

「見えるよ。二人は友達かい?」

「まあ……幼馴染です」

「あらぁ、それなら長い付き合いだ」

 

 お婆さんは布巾を畳みながら続けた。

 

「なんだか若い頃を思い出すよ。私も昔、今の旦那と駆け落ちしたことがあってね」

「え?」

 

 思わず聞き返した。

 

「親には散々反対されたし、お金も全然なかった。でも、不思議と楽しかったんだよ。毎日必死だったはずなのにねぇ」

 

 猫を撫でていた花菜の手が止まった。

 

「……楽しかったんですか」

「楽しかったよ。自分たちで決めて、知らないところへ行ってさ」

 

 お婆さんはそのまま昔話を続けた。

 

「もちろん大変だったけどね。古いアパート借りて、二人とも朝から晩まで働いて。あの人なんか、昼は工事現場で働きながら、夜は美容師の見習いしてたんだよ」

「美容師……」

「そうそう。毎日へとへとでね。それでも、帰りに半額のお弁当見つけただけで、今日は当たりだって喜んでた」

「……なんか、いいですね」

 

 俺が言うと、お婆さんは笑った。

 

「その頃は、そんなふうに思ってなかったけどね。でも、あとになって思い出すのは変なことばっかりでさ。雨漏りした夜なんて、二人で鍋を三つ並べて寝たんだよ。今でもあの音だけは覚えてるねぇ」

 

 そのとき、ぐぅ、と音が鳴った。花菜の身体が固まる。

 

「…………」

「……花菜?」

「違う、もん」

「まだ何も言ってないけど」

 

 否定するには早すぎる。耳まで赤くなっていた。

 

「ふふっ、若い子はちゃんと食べなさい」

 

 お婆さんがメニューを差し出した。

 

「はい、好きなの選びな」

「ありがとうございます」

 

 お婆さんが厨房へ戻る。

 花菜はメニューを開き、端から順番にページをめくっていった。

 ハンバーグ、オムライス、しょうが焼き。

 一通り見終えても、メニューは閉じられない。

 もう一度最初のページへ戻ったところで、花菜の手が止まった。

 

「……ハルくん」

「決まった?」

「その……ハルくんが決めていいよ」

「俺が?」

「うん。私、何でもいいから」

 

 メニューを差し出される。

 

「……何でもいいって、一番困るんだけど」

「……ごめん」

「いや、怒ってるわけじゃないよ」

 

 花菜はメニューを引っ込めようとした。

 

「自分で食べたいの、ないの?」

「……分かんない。何選べばいいのか」

「好きな物でいいだろ」

「何でも選んでいいって言われると、分かんなくなる」

 

 その言葉で、河川敷での会話を思い出した。

 

『お母さんに聞けば、いつも決めてくれたから』

 

 俺が適当に一つ選べば、話は早い。けど、それを花菜が選んだことにはならない。

 

「……じゃあ、俺が決めるのはやめとく」

「え……?」

「俺が選んだら、花菜が何食べたいのか分かんないし」

 

 花菜の手元で、メニューの端が曲がった。

 

「今日は、自分で決めたら?」

「……い、いいの?」

「いいだろ。誰に聞く必要もないんだから」

 

 花菜は何も言わず、ページをめくった。

 一度通り過ぎては戻り、写真の下に書かれた料理名を何度も確かめている。

 オムライスのところで手が止まり、次のページへ進む。

 そのあとまた戻って、今度は唐揚げの写真をしばらく見ていた。

 決めかけては迷っているのが、手の動きだけでも分かった。

 それでも、今度は俺にメニューを渡してこなかった。

 しばらくして、花菜が一枚の写真を指した。

 

「……これにする」

 

 ハンバーグ定食だった。

 

「いいじゃん」

「ほんと……?」

「美味しそう」

「子供っぽくない?」

「ハンバーグに年齢制限ないだろ。この前うちでも食べてたじゃん」

「……確かに」

「飲み物は?」

 

 花菜は飲み物のページをめくった。今度はさっきほど時間がかからなかった。

 

「……クリームソーダ」

「好きなの?」

「飲んだこと、あんまりなくて」

「じゃあ、決まりだ」

「……うんっ」

 

 ちょうど厨房から戻ってきたお婆さんが、俺たちの前で足を止める。

 

「決まったかい?」

 

 花菜はメニューを持ち直した。

 

「……ハンバーグ定食と、クリームソーダお願いします」

「はいよ」

 

 注文を終えると、花菜は膝の上の猫を撫でた。

 

「ハルくんは?」

「とんかつで」

「……決めるの早いね」

「朝から何も食ってないから、もう何でも美味そうに見える」

 

 猫は俺たちの会話など気にもせず、花菜の膝の上で眠り始めていた。

 

 ♢

 

 しばらくすると、厨房の奥から油の弾ける音が聞こえてきた。

 そのあとを追うように、甘いソースの匂いが座敷まで届く。

 朝からまともに食べていなかったせいで、余計に腹が減った。

 

「お待ちどうさん。とんかつ定食と、ハンバーグ定食。それからクリームソーダね」

 

 お婆さんが盆を二つに分けて料理を運んできた。

 

「……わぁ」

 

 花菜の声が、いつもより高くなった。

 ハンバーグは鉄板の上でまだ熱を残していた。

 デミグラスソースが表面を覆い、その脇にはご飯とサラダが添えられている。

 クリームソーダは深い緑色で、上に浮かんだバニラアイスの縁だけが溶け始めていた。

 

「これが、クリームソーダ……」

 

 花菜はストローを差しながら、何度もグラスを確かめている。

 一方、俺の前には厚めに切られたとんかつが並んでいた。

 衣にはまだ油の艶が残っていて、ソースをかける前から十分うまそうだった。

 

「熱いうちに食べなさいな」

「いただきます」

 

 花菜とほとんど同時に箸を取る。

 とんかつを一切れ口へ運ぶと、衣の軽さのあとに肉の熱と脂が広がった。

 

「……うま」

 

 空腹だったこともあって、ご飯まで止まらなくなる。

 

「花菜、そっちは?」

 

 花菜は切り分けたハンバーグを食べてから、二口目へ箸を伸ばした。

 

「……とてもおいしい」

「よかったじゃん」

「うん。これにしてよかった」

「……」

 

 さっきまであれだけ迷ってたくせに。

 

「……なに?」

「……いや、別に」

「今、なにか言おうとしたでしょ」

「なんもないって」

 

 花菜は納得していない様子だったが、今度はクリームソーダに手を伸ばした。

 ストローで一口飲んだあと、今度は上のアイスをスプーンですくう。

 

「……なんか、夏休みって感じする」

「これが?」

「それだけじゃなくて。朝から知らないお店でご飯食べてるのが」

「まあ、普段やらないからな」

 

 花菜は自分でもうまく説明できないらしく、もう一口飲んだ。

 店のテレビでは昼のニュースが流れ、お婆さんはカウンターの奥で洗い物をしていた。

 座敷の端では、さっきまで花菜の膝にいた猫が身体を丸めている。

 俺も残っていたとんかつを食べ進めた。

 

「……やっぱり、これにしてよかった」

 

 花菜がもう一度そう言った。今度は何も返さず、俺も箸を動かした。

 

 ♢

 

 食事を終え、俺たちは席を立った。

 

「ごちそうさまでした」

「はい。お粗末様」

 

 花菜も隣で頭を下げる。

 

「……ごちそうさまでした。クリームソーダも、すごく美味しかったです」

「あらぁ、良かった。また飲みにおいで」

 

 花菜はその言葉に顔を上げた。俺は財布を出し、代金を払う。

 

「ちょうどね。ありがとう」

 

 お婆さんがレジを閉める。

 

「この辺にいるのは、しばらく?」

「一週間くらいです」

「じゃあ、帰る前にもう一回来られるねぇ」

 

 花菜が猫の方を見た。

 

「……また来てもいいですか?」

「もちろんよ。次来る頃には、その子も覚えてるかもしれないね」

「ほんとですか?」

「えぇ。この子、人懐っこいから」

 

 花菜が猫に向かって手を振ると、猫は顔を上げ、こちらへ一声鳴いた。

 

「じゃあ……また来ます」

 

 お婆さんはそれを聞いて、カウンター越しに手を振った。

 

「いつでも待ってるからね」

 

 店を出る直前、花菜はもう一度振り返った。猫は座敷の端で転がったままだった。

 

「……またね」

 

 俺たちはそのまま店を出た。

 

 ♢

 

「……なんか、すごい人だったね」

 

 店を出てからしばらくして、花菜が言った。

 

「旦那さんの話?」

「それもあるけど……あんなふうに話せるのが」

「昔は大変だったって言ってたな」

「うん。でも、後悔してる感じしなかった」

 

 花菜は歩きながら、さっきのお婆さんの話を思い返しているようだった。

 

「大変でも、あとから笑って話せることってあるんだね」

「まあ、あのお婆さんだからかもしれないけど」

「それでも、ちょっと安心した」

 

 たぶん、俺も似たようなことを考えていた。

 

「また来ようか」

「……ここに?」

「全部終わってからでもいいし」

 

 花菜は歩みを止めずに答えた。

 

「うん。今度は別のもの頼んでみたい」

「ハンバーグじゃないんだ」

「……それはまた頼む、かも」

「結局食べるのかよ」

「……だって、とても美味しかったもん」

 

 そんな話をしているうちに、予約していた宿の看板が見えてきた。

 

『姫橋の宿』

 

 写真で見た木造の門が、道路の先に立っている。

 

「ここだな」

「思ってたより大きいね」

「写真だと分かんなかったな」

 

 玄関前まで来ると、花菜がリュックを背負い直した。

 

「行こっか」

「うん」

 

 石畳を進み、宿の中へ入った。

 

 ♢

 

 引き戸を開けて中へ入ると、外の熱気が途切れた。

 

「……涼しい」

 

 花菜が額の汗を手の甲で拭った。

 ロビーは広くはなかった。古い木の柱と低いソファが並び、奥には中庭が見える。

 豪華というより、昔からこの場所にある宿という感じだった。

 カウンターの奥にいた女性が、俺たちに気づいて立ち上がる。

 

「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」

「はい。前田です」

 

 名前を伝えると、女性は宿泊名簿を確認した。

 

「前田様ですね。二名様で承っております」

 

 俺はリュックを下ろし、母さんから渡されていた封筒を取り出した。

 

「あと、これも出すように言われてて」

「ありがとうございます。確認しますね」

 

 女性が書類を開く。

 

「……それ、何?」

「親の同意書。母さんに絶対忘れるなって言われた」

「そんなの必要なんだ」

「俺もこの前知った」

 

 危うく持ってこないところだった、とまでは言わないでおく。

 

「確認できました。ありがとうございます」

 

 女性は書類を戻し、館内の案内を開いた。

 

「お部屋は二階です。大浴場は廊下の奥にございます。夕食は六時半から一階のお食事処でご用意しておりますので、こちらの札をお持ちください」

「分かりました。ありがとうございます」

 

 鍵と夕食用の札を受け取る。

 女性に頭を下げ、花菜と廊下へ向かった。

 磨かれた床板の両脇には、この辺りを写した古い写真や陶器が並んでいる。

 階段の手前には館内案内が掛けられ、部屋番号と浴場の位置が書かれていた。

 

「二階、こっちみたい」

「うん」

 

 花菜が先に階段へ足を掛ける。俺も鍵の木札を持ったまま、その後を上がった。

 二階の廊下は一階より狭く、左右に客室の引き戸が並んでいる。

 番号を確かめながら進むと、突き当たりの手前に俺たちの部屋があった。

 

 ♢

 

 部屋に入ると、畳の匂いがした。

 窓際には低い机と座布団が置かれ、床の間には花が一輪飾られている。

 

「……旅館って、こんな感じなんだ」

 

 花菜はリュックを下ろし、部屋の中を確かめるように歩いた。

 押し入れを開けて布団を見たり、急須の蓋を持ち上げたりしている。

 宿に着いて、ようやく緊張がほどけてきたらしい。

 俺は窓際の机へ座り、スケッチブックを取り出した。

 机の上には、宿で用意された菓子皿と林檎が一つ置かれている。

 

「……絵描くの?」

「ちょっとだけ」

 

 鉛筆を持ち、林檎の輪郭から描き始める。

 丸い形をそのまま写すだけでも、角度が変われば影の入り方まで違ってくる。

 しばらくすると、花菜が机の反対側へ座った。

 

「……それ、難しい?」

「林檎? ……まあ、やってみれば分かる」

 

 花菜は机の端に置いた予備の紙へ何度か手を伸ばしかけていた。

 

「……私も描いてみたい」

「いいけど」

 

 一枚渡し、鉛筆も貸す。

 

「ありがと」

 

 花菜は紙を前にしたまま、鉛筆を持て余していた。

 

「描かないの?」

「……どこから描けばいいか分かんない」

「あー……まず、形からでいいんじゃない」

「……形から?」

「外側だけ見て、林檎っぽい丸を作る感じ。最初から細かく描かなくていい」

「やってみる……」

 

 花菜は最初の線を引いた。

 丸く描くつもりだったらしいが、輪郭は途中でへこみ、影も妙な方向へ伸びている。

 

「……これ、林檎に見える?」

「えっと……」

 

 想像以上に形が崩れていて、返事に困った。

 

「なんか……潰れたトマトみたい」

「え?」

「まぁ、形直せば全然いけるよ」

 

 花菜は消しゴムを手に取り、へこんだ輪郭を消した。

 今度はさっきより時間をかけて線を引いていく。

 途中で鉛筆を止めては林檎を確かめ、また紙へ戻る。

 何度か手を止めて様子をうかがうと、そのたびに花菜も鉛筆を止める。

 それでも何も言わず描き続けていたが、とうとう耐えきれなくなったらしい。

 

「……ハルくん、こっち見ないで」

「なんで?」

「恥ずかしいから」

「……」

 

 それからは口を挟まず、自分の紙に鉛筆を走らせた。

 花菜は何度も線を引き直し、気になるところを消してはまた描いた。

 最初は頼りなかった輪郭も、だんだん林檎らしくなっていく。

 

「……できたっ」

 

 花菜が鉛筆を置いた。

 

「見ていい?」

「うん」

 

 紙には、少し歪んだ林檎が描かれていた。

 影の位置はまだ甘いが、最初より形はずっとまとまっている。

 

「いいじゃん」

「ほんと?」

「うん。ちゃんと林檎に見える」

 

 花菜は描き上がった紙を手元へ寄せた。

 

「……思ってたより、楽しいかも」

「結構ハマってたもんな」

「描いてるうちに、ちゃんと形にしたくなってきたの」

「だったら、次は影も見てみたら?」

 

 花菜はそのまま新しい紙へ手を伸ばした。

 

「……もう一回描く」

 

 花菜はまた林檎の輪郭から描き始めた。

 俺も自分のスケッチブックへ戻る。

 隣から鉛筆の音が聞こえるだけで、いつもより長く描いていられる気がした。

 

 ♢

 

 それからも、花菜は机を離れなかった。

 林檎を描き終えると、今度は机の端にあった湯のみを自分の前へ持ってきた。

 

「……これ、丸くならない」

 

 花菜は紙の上に楕円を何度か描いては消している。

 

「真上から見てるわけじゃないから、口の部分は丸じゃなくて楕円になる」

「楕円?」

「横に潰した丸みたいな感じ」

「……こう?」

「もう少し横長。あと、手前の線を濃くすると形が出やすい」

 

 花菜は言われた通りに線を重ねた。

 

「……あ、さっきより湯のみっぽい」

「だろ」

「影は?」

「照明が左上にあるから、影は右下に落ちる。湯のみのすぐ横が一番濃い」

「……難しい」

 

 花菜は湯のみの位置を変えないよう気をつけながら、紙に影を足していった。

 

「ハルくん、よくこんなのずっと描けるね」

「描いてるうちに慣れるよ」

 

 花菜は腑に落ちていないようだったが、そのまま鉛筆を動かし続けた。

 紙には消した跡が増え、机の端には使った鉛筆や消しゴムが寄っていく。

 

 ♢

 

 俺より花菜の方が夢中になっていた。

 どれくらい経ったのか、仲居さんが夕食の時間を知らせに来て、ようやく時計を見る。

 

「……もうそんな時間?」

 

 花菜は時計を確かめてから、名残惜しそうに鉛筆を置いた。

 

 食事を終え、風呂から戻ってきたあとも、花菜はまた机へ座った。

 半乾きの髪をタオルで拭きながら、描きかけの紙を手元へ寄せる。

 

「続きやるの?」

「うん。ここまで描いたし」

 

 俺も隣へ座り、スケッチブックを開いた。

 

 

 夜が深くなるにつれて、会話も減っていった。

 鉛筆が紙を擦る音だけが、隣から一定の間隔で聞こえている。しばらくして、その音が止まった。

 

「……花菜?」

 

 返事はない。

 花菜は机に頬をつけ、鉛筆を握ったまま眠っていた。

 紙には、途中まで描かれた湯のみが残っている。

 

「おい。そんなとこで寝ると首痛めるぞ」

「……ん」

「花菜」

「……あと、ちょっと……」

「何がだよ」

 

 寝言らしく、それきり返事はなかった。鉛筆を指の間から抜き取る。

 

「ったく……」

 

 押し入れから布団を引っ張り出して敷いた。

 問題は、そのあとだった。

 

「……これ、どうすんだ」

 

 机に突っ伏した花菜を見る。起こそうとして肩を叩いても、まるで起きる気配がない。

 仕方なく身体を抱え上げる。

 花菜を抱え上げた途端、腕がだらりと垂れた。

 

「危な……」

 

 机の脚にぶつかる寸前で抱え直す。

 どうにか布団まで運び、下ろそうとしたところで、花菜がうっすら目を開けた。

 

「……ハルくん」

「起きたか。大丈夫か?」

「ねむい……」

「知ってる」

 

 それだけ言うと、花菜は布団へ顔を埋め、そのまま動かなくなった。

 

「……自由だな、こいつ」

 

 掛け布団をかけて、机へ戻る。

 描きかけの湯のみは、最後の一本だけ線が途切れていた。

 

 俺はそれには触れず、自分のスケッチブックを閉じた。

 

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