「ただいま戻りました」
いつものように玄関の扉を閉める。
「……」
返事はない。けれど、それが当たり前だった。
私は靴を揃え、鞄を抱えたまま廊下を歩く。
「戻ったのね、花菜」
居間から声がした。私は反射的に背筋を伸ばす。
「はい……お母さん」
「遅かったですね。寄り道でもしていたの?」
「……いえ、図書館に」
「勉強ですか?」
「はい」
「そう……」
居間ではテレビがついていた。
けれど、お母さんはダイニングテーブルでパソコンを開き、画面に向かったまま何かを入力していた。
「……お母さん。実は今日、学校で」
「来週、模試だったわね」
キーボードを打つ音が続いている。私の話は、そのまま行き場をなくした。
「……はい」
「図書館に行くのは構いません。でも、この前はC判定でした」
「……はい」
「次はAを取りなさい。志望校を変えるつもりはないのでしょう?」
「ありません……」
「なら、今のままでは駄目なのは分かりますね」
「……分かりました」
♢
「花菜、今日は塾の先生から連絡がありました」
夕食の席で、お母さんが箸を置いた。
「進路について。詳しいことは、あとで話します」
「……はい」
返事をして、また箸を動かす。
けれど、さっきまで食べていたものの味が分からなくなっていた。
お父さんがいた頃は、こんな食卓ではなかった。
『花菜、帰りにアイス買っていくか』
『いいの?』
『お母さんには内緒な』
あの頃は、家で何かを間違えることなんて考えもしなかった。
お父さんが亡くなってから、お母さんは変わった。
『私は、あなたを立派に育てなければなりません』
葬式の日、お母さんは泣いていた私にそう言った。
最初は、それが私のためなんだと思っていた。
ある日、買い物へ行ったときのことを覚えている。
『花菜、どちらがいいですか?』
お母さんが二着の服を持っていた。
白いワンピースと、淡い黄色のスカート。
『……こっち』
私は黄色い方を指した。
『そう』
お母さんは一度それを見てから、白いワンピースを私の身体に合わせた。
『でも、花菜にはこちらの方が似合いますね』
結局、買って帰ったのは白いワンピースだった。
それから、似たようなことが何度もあった。
『その成績では足りません』
『はい』
『遊ぶ時間があるなら、やることがあるでしょう』
『……はい』
いつからだったか、自分で決める前に、お母さんの顔を見るようになった。
何を選べば怒られないのか、何を言えば間違いにならないのか、それだけ考えていればよかった。
「花菜」
名前を呼ばれて、箸が止まった。
「食事中にぼんやりしないでください」
「す、すみません……」
「このあと英会話があります。忘れていませんね?」
「はい」
また箸を動かす。
このままずっと、同じように続いていくのだと思っていた。
自分で選ばなくてもいいし、間違えなければ、それでいい。
そのはずだった。
「——花菜」
今度は、お母さんの声ではなかった。
聞き覚えのある、少しぶっきらぼうな声。
「……え?」
顔を上げる。暗闇の向こうに、誰かが立っていた。
一歩近づこうとした瞬間——
♢
「……ん……」
目を開けると、見覚えのない木目の天井があった。
寝ぼけたまま数秒眺めて、畳の匂いに気づく。
「あ……」
そうだ。私、ハルくんと家を出たんだ。
身体を起こす。まだ朝は早いらしく、部屋の中には夜の名残が残っていた。
「んぅ……」
隣から、寝言ともつかない声が聞こえた。
少し離れた布団で、ハルくんが掛け布団に半分埋もれて眠っていた。
前髪は好き勝手に跳ねていて、片腕だけ布団の外に出ている。
「……子どもみたい」
口にしてから、なんだか可笑しくなった。
起きているときは、ぶっきらぼうで余計なことも言う。
なのに眠っている今は、ずいぶん無防備に見えた。
「……」
私は布団の上で身体の向きを変えた。
ハルくんの寝息に合わせて胸元の布団が上下している。頬にかかった髪も、そのままだった。
こんなふうに誰かの寝顔を見ること自体、初めてかもしれない。
「ハルくん……」
呼んでも起きない。
それなのに、名前を口にしただけで落ち着かなくなった。
さっきまで何ともなかったはずなのに、急に距離が近すぎるように感じる。
私は慌てて布団の端へ戻った。
「……何してるんだろ、私」
布団を抜け、洗面所へ向かう。
冷たい水で顔を洗うと、ようやく頭がはっきりしてきた。
タオルで顔を拭いているうちに、さっきまで見ていた夢を思い出す。
「……お母さん」
今頃、家はどうなっているんだろう。
私がいないことには、もう気づいているはずだ。
怒っているかもしれないし、探しているかもしれない。
考え始めると、昨日まで押し込めていた不安が戻ってきた。
ハルくんとは、一週間だけと決めている。
けれど、その先を私はまだ決められていない。
帰ったあと、お母さんとどう話すのか、学校はどうするのか、何一つ答えは出ていなかった。
それでも、ここまで来たことまで間違いだったとは思いたくない。
私は自分で家を出た。誰かに言われたからではなく、自分で行くと決めた。
怖さは残っている。
それでも、その選択だけは私のものだった。
♢
「花菜の服、見に行かない?」
二日目の朝。
旅館を出てすぐ、隣を歩いていたハルくんがそんなことを言った。
「……服?」
朝の商店街はまだ人が少なく、店先では開店準備が始まっていた。
「着替え、似たようなのばっかり持ってきてただろ」
「うん」
今日も白いワンピースだった。
リュックの中には、同じようなものがあと何着か入っている。
「別に、これで困ってないよ」
「困ってないならいいけどさ」
ハルくんは歩きながら、言葉を続けた。
「せっかくだし、好きなの一着くらい選んでみてもいいんじゃない?」
「……私が?」
「うん。花菜が着るんだし」
すぐには返事ができなかった。
服はいつも、お母さんが用意してくれていたから、自分で似合うものを考えたり、買うものを決めたりする必要はなかった。
けれど、今ここで決めるのは、お母さんじゃない。
そう考えると、楽しみより先に戸惑いがきた。
「……選んでもいいの?」
「いいんじゃね。気になるのがあれば見てみれば?」
「じゃあ、ちょっと見てみたい」
「うん。行こう」
服を見るなら、昨日通った駅前のショッピングモールがある。
まだ開店には早かったけれど、急ぐ理由もなかった。
どんな服を選ぶのか、まだ自分でも分からない。
それでも、さっきまでより歩くのが楽しみになっていた。
♢
ショッピングモールに着いたときは、まだ開店前だった。
入口の前には同じように開くのを待っている人たちがいて、私たちも近くのベンチで時間を潰した。
やがて入口のシャッターが上がり、自動ドアが開く。
待っていた人たちが順番に中へ入っていき、私たちもその流れに続いた。
「……開いたね」
「思ったより待ったな」
外の暑さから離れたせいか、館内に入っただけで身体が楽になった。
私はハルくんの隣を歩いた。
人が間に入りそうになると、ハルくんは歩幅を緩めて私を待ってくれる。そのおかげで、自然に隣に戻れた。
エスカレーターで上の階へ向かう。
吹き抜けを囲むように、衣料品店や雑貨店、本屋、ゲームセンターが並んでいた。
普段なら通り過ぎるだけの店まで、今日は気になってしまう。
「……あ」
エスカレーターを降りたところで、一枚のポスターが目に入った。
『サマーフェスティバル花火大会 八月十七日開催!』
明後日だった。
「……花火」
最後に見たのは、まだお父さんがいた頃だった。
打ち上がるたびに大きな音がして、怖くなった私はお父さんの服をずっと掴んでいた。
『怖いか?』
『うん……』
『じゃあ、ここにいればいい』
『……ずっといたい』
『花火が終わるまでだぞ』
そう言って、お父さんは私の手を握ってくれた。
帰り道には、また来ようと言ってくれた。
お父さんがいなくなってから、花火大会へ行ったことはない。
夜に出かけたいなんて、お母さんに言ったことすらなかった。
「……ハルくん」
呼びかけてから、続きが出てこなかった。
たった一言を言えばいいだけなのに、私はポスターの前で立ち止まったままだった。
♢
服屋に入ると、夏物の服が棚いっぱいに並んでいた。
淡い色のワンピースや薄手のブラウス、袖にリボンの付いたトップスまである。
「……すごい」
こんなにたくさんの服を、じっくり見たことはなかった。
「何か気になるのあった?」
「えっと……ありすぎて分かんない」
それでも、せっかくなら今まで着たことのないものを試してみたい。
ハンガーに掛かっていた白いトップスを手に取る。
袖はゆったりしていて、胸元には花の刺繍が入っていた。
可愛くて、今着ているワンピースとは雰囲気が全然違った。
「これ……どうかな」
「着てみたら?」
試着室へ入り、着替えて鏡の前に立った。
普段とは印象が違う。似合っているのかは分からないけれど、嫌ではなかった。
袖を伸ばしてみたり、離れて鏡に映してみたりする。
見慣れないせいか落ち着かない。
それでも、カーテンを開ける前には、さっきよりこの服を気に入っていた。
むしろ、ハルくんがどう言うのか気になった。
カーテンを開ける。
「……どう?」
ハルくんはベンチに座ったまま、しばらく返事をしなかった。
一秒。
二秒。
「……え、なんか…………微妙」
「…………えっ?」
思っていた言葉と違いすぎて、すぐには意味が入ってこなかった。
さっきまで鏡の前で悪くないと思っていた服が、急に頼りなく見える。
ハルくんも言ってから気づいたらしく、表情が固まった。
「いや、その服が悪いんじゃなくて。花菜には違う気がする」
言い直されても、最初の一言はもう消えてくれなかった。
「そ、そんな……!」
せっかく勇気を出して着たのに。
「……こういうのは、あんまり似合わないんじゃないか?」
そこまで言われるとは思っていなかった。
普通、こういうときは多少気を遣うものじゃないのだろうか。
「うぅ……」
鏡の前でもう一度服を確かめる。
花の刺繍も、ゆったりした袖も可愛い。さっきまで結構いいって思っていた。
なのに、一度「微妙」と言われただけで、急に全部が気になってくる。
「そんな落ち込むなって……」
「……別に」
鏡越しにハルくんを見ると、明らかに困っていた。
別に、なわけがない。ちょっとくらい「似合ってる」って言ってもいいじゃん。
それなのに、よりにもよって微妙。微妙って……もっと他に言い方あるでしょ。
「……もういい」
「ごめん。さすがに言い方悪かった」
「遅いよ」
その服は元の場所へ戻した。
他の服を見る気にもなれなくなって、一度やめることにする。
店を出てからも、さっきの一言だけが頭に残っていた。
微妙。
思い返すたびに腹が立つ。
ハルくんは途中で何か言って離れていったけれど、聞こえないふりをして前を向いた。
しばらくして戻ってきたときには、手に何か持っていた。けれど、まだ腹を立てていた私は確かめもしなかった。
そのまま歩いていると、近くから賑やかな電子音が聞こえてきた。
ゲームコーナーの入口には、景品のぬいぐるみが所狭しと並んでいる。
ハルくんがそのまま中へ入っていき、私も行き先を聞く気にはならないまま、その後を追った。
♢
中に入った途端、いくつもの電子音が重なった。
クレーンゲームの景品が並ぶ通路を、ハルくんは慣れた足取りで進んでいく。
私はその後ろを、不機嫌なままついていった。
「まだ怒ってる?」
ハルくんの方を一度だけ見て、すぐ視線を逸らした。
「……やっぱ怒ってるな」
ハルくんが足を止めた。
「はい」
差し出されたのは、さっきどこかで買っていたソフトクリームだった。
「俺の奢り」
「……」
ソフトクリームを受け取らず、そのまま眺める。
タイミングが良すぎて、何のつもりかはすぐに分かった。
「……これで許せってこと?」
「そこまでは言わないけど……さっきはごめん」
「…………ありがとう」
受け取る。先端はもう少し溶け始めていて、傾けると今にも垂れてきそうだった。
慌てて一口舐める。少しぬるくなった表面の下から、冷たさと甘さが広がった。
「……おいしい」
「よかった」
ちゃんと謝ってくれたうえに、ソフトクリームまで渡されると、これ以上怒るのは身勝手だ。
「……ハルくん」
「ん?」
「今度から『微妙』って言うの禁止」
「禁止なの?」
「もっと言い方あるでしょ」
「……例えば?」
「似合ってるけど、なんか違う……とか」
「それ、ほぼ同じじゃない?」
「全然違うよ!」
私がまだ不満そうにしていると、ハルくんはとうとう笑ってしまった。
馬鹿にしているというより、扱いに困っているみたいな笑い方。
そんなふうにされると、私だけ本気で拗ねているみたいで……ずるい。
もう、これ以上は怒れなかった。
♢
そのままゲームコーナーの奥へ進んでいく。
クレーンゲームや音楽ゲームを通り過ぎたところで、ハルくんが足を止めた。
「これやる?」
そこには、二人で対戦できる格闘ゲームが置かれていた。
画面の中では、キャラクター同士が派手な技をぶつけ合っている。
「……」
さっき服屋で言われた言葉が、まだ頭の隅に残っていた。
ソフトクリームをもらって、さっきよりは腹も立っていない。
それでも、全部なかったことにするつもりはない。何か一つくらい、ハルくんに仕返ししたい。
「……ハルくん」
「ん?」
「泣いても知らないから」
「急にどうした」
ちょうどいい。ここで勝てば、少しくらい気が晴れるかもしれない。
先に席へ座る。こういうゲームはほとんどやったことがないけど、それは黙っておくことにした。
数十秒後。
『KO!』
私のキャラクターが画面の端まで吹き飛んだ。
「……」
「花菜?」
「もう一回」
二戦目。
『PERFECT!』
「…………」
「いや、なんでずっとジャンプしてんの」
「……攻撃が分かんないの!」
「そこからだったの⁉」
どうやら、想像していたよりずっと難しい。
次は必殺技を出そうとして、なぜか挑発を連発した。
画面の中では、私のキャラクターだけが余裕たっぷりにハルくんを煽り続けている。
「なんで攻撃しないの⁉」
「俺に聞くなよ!」
ハルくんはもう隠す気もなく笑っていた。
「……次」
「まだやるの?」
「勝つまで」
「先に操作方法覚えた方がいいんじゃない?」
それは分かっている。
今さらハルくんに教えてもらうのは悔しい。
だからといって、何もできないまま負け続けるのはもう嫌だった。
「……じゃあ、その……教えてください」
ハルくんが意外そうな顔をする。
「いいよ」
席を立って私の横へ回り、コントローラーを指差せる距離まで近づいてきた。
「まず、これが弱い攻撃。こっちが強い方」
「これは?」
「ガード。押しっぱなしでいい」
「じゃあ、これは?」
「それはさっきから花菜が連打してる挑発」
「……これは、いらない」
「うん。それは封印で」
教えてもらいながら戦ううちに、ハルくんの攻撃を防げるようになってきた。
狙った技も、たまに当たる。
負けるのは悔しいけど、さっき出来なかったことが出来るようになると、もう一回試してみたくなる。
そして一、二戦終えたところで、小銭入れを開いた。
「……もうない」
中には百円玉が一枚だけ残っていた。
「両替してくる?」
「待って」
財布の中身を思い出して、立ち上がりかけたハルくんを止めた。
この先も、宿代や食事代はかかる。
ここで遊びに使いすぎるのは違う気がした。
「これで最後にする」
「……ほんと?」
「今度こそ」
最後の百円玉を入れ、スタートボタンを押した。
今度は、ただボタンを連打しない。
攻撃を防いで、ハルくんが動いたあとに返す。
さっき教えてもらった技も、一度だけ綺麗に入った。
体力ゲージが削れていく。
画面上では、私もハルくんも体力がほとんど残っていなかった。
ハルくんのキャラクターが前へ出る。
慌ててボタンを押しかけて、指を止めた。
今までならここで適当に攻撃していた。でも、それをやるとまた負ける。
ハルくんの攻撃が早い。体力がほんの少し削れた。
まだ終わっていない。次の攻撃が来る。
もう一度防ぐ。
今度はハルくんのキャラクターが止まった。
今なら……いける!
教えてもらったボタンを押した。
私のキャラクターの攻撃が入る。
一拍遅れて、画面が切り替わった。
『WINNER!』
「…………え?」
画面には、私のキャラクターが立っていた。
「勝った……?」
「負けた……」
その一言で、ようやく実感が追いついた。
「……や、やった!」
椅子から立ち上がる。
「勝った! ハルくんに勝った!」
「最後だけ別人だったな……」
「……ふふん」
「めっちゃ嬉しそう」
「だって、勝ったもん」
言い返した途端、ずっと入っていた力が抜けた。
ハルくんは「やられた」みたいに肩を落とす。服屋で腹を立てていたことなんて、もう頭に残っていなかった。
負ければ悔しくて、勝てば嬉しい。
そんなことで夢中になれるのが、なんだか久しぶりだった。
♢
「そろそろ帰るか」
ゲームコーナーを出て、ハルくんと並んで館内を歩く。
昼間より人の流れは落ち着き、飲食店の前には夕食を待つ客が増え始めていた。
「いっぱい遊んだね」
「だな。思ったよりゲーム楽しかったし」
「……最後はちゃんと勝ったから」
「最後だけな」
「そこ強調しなくていいでしょ」
ハルくんは口を開きかけたものの、何も言わずに前を向いた。
その反応が、さっきまで勝ち負けで本気になっていた自分まで可笑しく思わせた。
エスカレーターの前まで来たところで、足が止まった。
このまま帰れば、今日はそれで終わる。
ゲームも楽しかったし、もう十分なくらい遊んだ。
それでも、ひとつだけ引っかかっていることがあった。
「……あのさ」
「ん?」
言うなら今しかない。
「一時間だけ、一人で見て回ってもいい?」
「一人で?」
「うん。行きたいところがあって」
ハルくんは驚いたようだった。
「どこ?」
「……秘密」
「なんだそれ」
「秘密は秘密」
ハルくんは納得していないようだったが、無理に聞いてはこなかった。
そして、中央広場の時計を確認した。
「……じゃあ、一時間後ここに集合な」
「うん」
「何かあったらすぐ戻ってこいよ」
「分かってる」
時計は午後五時十分を指していた。
「六時十分ね」
「遅れんなよ」
「……ハルくんもね」
それだけ確認して、私はハルくんと別れた。
人の流れに混ざりながら、さっき通った道を戻っていく。
向かう先は、あの服屋。
今度は、ハルくんに何を言われるかじゃない。
私が着てみたいと思えるものを、ちゃんと探してみたかった。
♢
賑やかな通路を抜けて、私はもう一度あの服屋の前まで戻ってきた。
さっきよりお客さんが増えている。
入口近くの棚では、店員さんが畳んだ服を並べ直していた。
「……よし」
中へ入る。
今度は誰かに似合うものを決めてもらうためじゃない。
「えっと……」
そう決めたのに、いざ一人になると何から見ればいいのか分からなかった。
ブラウスを一枚手に取って戻し、その隣のスカートも合わせてみる。
何を基準に決めればいいのか分からない。
可愛いと思って手に取っても、似合うか考えた途端に自信がなくなって、また元の場所へ戻してしまう。
何度か棚の前を行き来するうちに、一着のブラウスが目に留まった。
白のシアーブラウスだった。
袖口には控えめなレースが入り、生地も今着ているワンピースより軽そうに見える。
「……これ」
嫌いじゃない。むしろ、着てみたいと思った。
近くにあった淡い青のロングスカートも手に取る。
その二つを合わせてみると、思っていたよりしっくりきた。
「……」
試着してみたい。
けれど、店員さんに声をかけるのは思ったより勇気がいる。
服を抱えながら迷った末、近くの店員さんのところまで歩いた。
「……あの」
口にすると、声が小さくなった。
それでも、店員さんがこちらに気づいて足を止めた。
さっき入口の棚を整理していた人だった。
「そちら、試着できますよ」
「……いいんですか?」
「はい。サイズが合わなければお持ちしますので」
「ありがとうございます」
試着室の場所を教えてもらい、カーテンを閉めた。
着替えて鏡の前に立つ。さっき試した服とは違った。
白いブラウスは思っていたより落ち着いていて、淡い青のスカートも派手すぎない。
いつものワンピースとは全然違うのに、無理をしている感じがしなかった。
「……これ、好きかも」
声に出すと、なんだか本当にそう思えた。
誰かに勧められたわけでも、似合うと言われたわけでもない。
自分で手に取って、着てみて、気に入った。
カーテンを開けると、近くにいた店員さんがこちらへ気づいた。
「サイズ、大丈夫そうですか?」
「はい。大丈夫です」
店員さんは裾の長さを確かめた。
「丈も問題なさそうですね」
「……これにします」
今度は迷わなかった。元の服へ着替え、レジへ向かう。
会計を待っている間、さっき鏡に映っていた自分を思い出した。
ハルくんが見たら、なんて言うんだろう。
今度は、似合ってるって言ってくれるだろうか。 ……可愛い、とか。
そこまで考えて、急に落ち着かなくなった。
「お会計、こちらです」
「あ、はい」
代金を払い、紙袋を受け取る。そのとき、壁の時計が目に入った。
「……え?」
五時五十七分。
「やば……」
待ち合わせは、六時十分。
「あ、ありがとうございました」
店員さんに頭を下げ、そのまま店を出た。
紙袋を抱え直し、人の間を縫うように待ち合わせ場所へ急いだ。
♢
更衣室で着替え、エスカレーター前まで走ると、ハルくんはもう待っていた。
片手にスマホ、もう片方にはペットボトルを持っている。
待っている間に自販機へ寄ったらしい。
私は息を整えながら駆け寄った。
「ご、ごめん……! 遅れた……!」
「ん。まだ間に合って——」
そこで、ハルくんの言葉が止まった。
「……ど、どうしたの?」
「いや、その服」
言われて、急に落ち着かなくなる。
店では気に入っていたのに、ハルくんの前に立った途端、これでよかったのか分からなくなった。
「……こ、今度は、どうかな?」
ハルくんはすぐには答えなかった。
返事がない時間が長くなるほど、さっきまであった自信がなくなっていく。
「……まあ」
「……まあ?」
「さっきのより、全然いい」
それで終わりらしい。
私はもう少し待った。
似合ってるとか、可愛いとか、そういう言葉が続くんじゃないかと期待していた。
けれど、ハルくんはそれ以上何も言わなかった。
「…………え、それだけ?」
もっと何かあると思っていた。
なのにハルくんは、急にペットボトルの蓋を開け始めた。
「ほ、他には?」
「他?」
「え……その……」
続きを言いかけて、やめた。
「……なんでもない」
聞いたところで、欲しかった言葉を催促しているみたいで嫌だった。
「……ほら、帰るぞ」
ハルくんが先に歩き出す。
「あ、ちょっと……!」
私も慌てて後を追った。
自分では気に入っていた。
それなのに、さっきまであんなに嬉しかった服が、今は急に物足りなく感じる。
可愛いって、言ってほしかった。
たったそれだけなのに、思っていたよりずっと落ち込んでいた。
♢
モールを出ると、外はもう夕方だった。
西の空にはまだ赤みが残り、建物の影は昼間より長く伸びている。道路には帰宅する車が増え始めていた。
ハルくんと並んで宿へ向かう。
ゲームコーナーにいたときまでは、あんなに楽しかった。
なのに今は、何を話せばいいのか分からない。
歩くと、今日買ったスカートが脚に触れる。
それだけで、待ち合わせ場所での会話を思い出してしまった。
『さっきのより、全然いい』
なんで、こんなに気にしてるんだろう。
勝手に期待して、思っていた言葉が返ってこなくて、一人で落ち込んで。服を買うって決めたのは私なのに。
ハルくんに褒めてもらうために選んだわけじゃない……はずなのに、似合ってるって言ってほしかった。
そこまで考えると、自分でも持て余すような気分になる。
誰に頼まれたわけでもないのに、一人で店へ戻って、服を探して、着替えてまで見せに行った。
こんなこと、今までしたことがない。
誰かの一言で、ここまで浮かれたり落ち込んだりしたこともなかった。
自由になったら、もっと簡単だと思っていた。
好きなものを着て、やりたいことをやって、それだけで楽しいんだと思っていた。
でも、実際は違った。
自分で決めたからこそ、ハルくんにどう見えるのかが気になってしまった。
「……」
またスカートの裾が脚に触れた。
店で鏡を見たときは、ちゃんとこれがいいと思えた。なのに今は、そのときの気持ちまで頼りなくなっている。
もしかしたら、私が一人で浮かれていただけなのかもしれない。
本当はそんなに似合ってなくて、だからハルくんもあれ以上何も——
「可愛い」
隣から、言葉がこぼれた。
「…………え?」
足が止まりそうになった。
ちゃんと聞こえたはずなのに、すぐには信じられなかった。
ハルくんを見る。けれど、何事もなかったように前を向いて歩いている。
聞き間違いだったのかもしれない。
そう思おうとしても、さっきの声がはっきり残っていた。
「……今、なんて?」
「何が?」
「今、可愛——」
「知らない」
被せるように返される。
でも、ひとつだけ隠しきれていなかった。
ハルくんの耳は、夕方の明るさでは誤魔化せないくらい赤かった。
「っ……」
聞き間違いじゃない。
そう分かった途端、さっきまで頭の中を埋めていたものが全部どうでもよくなった。
「……も、もう一回言って」
「…………言わない」
「なんで?」
「知らないって言ってるだろ」
ハルくんは歩く速度を上げた。
「ちょ、ちょっと待って……!」
追いかけながら、さっきの言葉が何度も浮かんだ。
ハルくんの背中を追いながら、今日のことが浮かんでくる。
食べたいものを自分で決めて、ゲームでは本気で勝ちたくなって、一人でもう一度服屋へ戻った。
どれも、今までの私ならやらなかった。そのたびに、ハルくんは近くにいた。
私の代わりに答えを決めるわけじゃなく、迷っている間は待ってくれた。
ハルくんといると、今まで知らなかった自分が出てくる。
負けたら悔しくなる私も、欲しいものを自分から探しに行く私も、たった一言でこんなに嬉しくなる私も、嫌じゃなかった。
「…………そっか」
そこで、ようやく分かった。
服を褒めてほしかったことも、一緒にいるだけで楽しかったことも、ハルくんの一言にこんなに振り回されたことも、全部同じ理由だった。
私、ハルくんのことが好きなんだ。