夢の中で、俺は昔のことを思い出していた。
花菜と初めて出会った日のことを。
♢
あの日の俺は、いつものように一人で絵を描いていた。
窓は開けっぱなしで、机の上には使いかけのクレヨンが転がっている。
一人で過ごすには、それで十分だった。
——ピンポーン。
インターフォンが鳴った。
「はーい!」
母さんが玄関へ向かっていく。
俺は描きかけのスケッチブックを置き、廊下の陰から玄関の方を覗いた。
そこには、見たことのない大人が二人立っていた。
「今日から隣に引っ越してきました、花園です」
男の人が丁寧に頭を下げた。
「あらまぁ、ご丁寧にありがとうございます」
母さんが応える。
「……あら?」
その後ろに、女の子が隠れていた。白いワンピースを着て、男の人の服を掴んでいる。
「花菜。挨拶しようか」
「……っ」
女の子は背筋を伸ばした。
「は、花園花菜です。よろしくお願いします……」
それが、俺と花菜の初めての出会いだった。
「あら、しっかりしてる子ね。よろしくね、花菜ちゃん」
「は、はい……よろしくお願いします」
花菜はもう一度、丁寧に頭を下げた。
母さんは「まあ」と声を漏らす。
「うちの子と同い年くらいかしら?」
「えっと……よっつです」
「あら、本当に? じゃあ一緒ね」
母さんがこちらを振り返った。
「晴ー、ちょっと来なさい」
その瞬間、廊下の陰にいた俺と目が合った。
しまった、と思った時にはもう遅い。
逃げようとしたけれど、母さんの顔を見て諦め、渋々玄関へ向かった。
「息子の晴です。ほら、挨拶しなさい」
前に出される。
同い年の子を前にして、何を話せばいいのか分からない。
結局、口から出たのは名前だけだった。
「……ま、前田晴……です」
自分でも聞こえるか怪しい声だった。
「もう、この子ったら本当に人見知りで……」
母さんが呆れたように続ける。
「そうなんですか」
男の人が俺の方を向いた。
「……よかったら、花菜と一緒に遊んでくれないかな?」
「え?」
「ここに来たばかりでね。花菜もまだ友達がいないんだ。遊んでくれたら嬉しいな」
ともだち。
その言葉だけが、なぜか耳に残った。
「…………で、でも」
何をして遊べばいいのかも分からない。
そう言おうとした、その時だった。
「わ……私も遊びたい、です」
それまで父親のそばにいた花菜が、こちらへ顔を向けた。
両手を身体の前で握ったまま、返事を待っている。
「ほら! 花菜ちゃんもこう言ってるんだし。お外で遊んできなさい!」
母さんに背中を押される。
「……え」
戸惑っている間に、花菜が一歩近づいてきた。
そして、俺の手を握った。
♢
「ねぇ。名前、なんていうの?」
庭の隅に置かれたブランコに座りながら、花菜が聞いてきた。
「……晴」
それだけ答えると、花菜は確かめるように繰り返した。
「晴……じゃあ、ハルくんって呼んでもいい?」
「ハルくん……?」
今までそんな呼ばれ方をしたことがなくて、妙な感じがした。
「別に……いいけど」
花菜は「よかった」と言って、ブランコの鎖を両手で握り直した。
「私、引っ越してきたばっかりで何も分からなくて……お友達、できたらいいなって思ってたの」
花菜はそう言いながら、隣の空いたブランコを手で引き寄せた。鎖が擦れ、二つの座板が並んで揺れる。
「……ハルくんも、一緒に乗る?」
断る理由も見つからなくて、隣のブランコに座った。
ぎぃ、と二つのブランコが交互に鳴る。
花菜が地面を蹴ると、白いワンピースの裾が膝の上で動いた。
俺も真似して蹴ってみる。
しばらく何も話さなかったけど、さっきまでみたいに何を言えばいいのか考えなくて済んだ。
いつの間にか、庭には家の影が伸びていた。
「今日はありがとう、ハルくん」
花菜が俺の名前を呼んだ。
玄関で会ったときより、ずっと自然な声だった。
明るい子、という感じではない。
俺よりよっぽど緊張していたくせに、自分から手を握って、隣に誘ってきた。
「……変な子」
たぶん、それが花菜に対する第一印象だった。
♢
「……ん」
目を開けると、障子の隙間から朝の明るさが差し込んでいた。
「……」
まだ頭が働かない。
ぼやけた視界のまま寝返りを打とうとして、そこで違和感に気づいた。
近い。
「……?」
顔を向ける。
すぐそばに——花菜がいた。
しかも、やけに真剣な顔でこっちを見ている。
「…………」
「…………」
お互い動かず、しばらくそのままだった。なんで俺の布団にいるんだ、こいつ。
「……何してんの?」
「っ!」
花菜の身体が跳ねる。
「……お、お、起きてたの⁉」
「いや、今起きたけど……」
花菜は勢いよく後ろへ下がった。
そのまま布団に足を取られ、背中から転がる。
「いたっ⁉」
「ちょ、何してるの」
「うぅ……」
花菜はそのまま布団へ顔を伏せた。
「朝から何やってんだよ」
「……別に、何もしてないし」
「じゃあなんでここにいたの」
「…………」
返事がない。
代わりに、布団から出た耳だけが赤くなっていた。
「なんでそんな恥ずかしがってるんだ……」
廊下の向こうから、誰かが歩く音が聞こえてくる。
旅館の朝はもう始まっているらしい。なのに、俺たちだけ何をやってるんだろう。
「……花菜」
「なに」
「そろそろ顔出したら?」
「……やだ」
朝から面倒くさいことになってしまった。
♢
家を出て三日目。行き当たりばったりの過ごし方にも、だいぶ慣れてきた。
行き先を細かく決めず、気になった場所があれば寄って、疲れたら休む。腹が減れば、その辺で店を探す。
花菜も、初日に比べてとても明るくなった。
気になる店があれば足を止めるし、最近は自分から「これしたい」と言うこともある。
こんなふうに過ごすのも悪くない……まあ、まだ危なっかしいところはあるけど。
そんなことを考えながら歩いていると、空気に潮の匂いが混じってきた。
「ん……?」
通りの先が開け、その向こうに海が見えた。
道路を一本挟んだ先に砂浜が続き、波打ち際では子供たちが遊んでいる。
どうやら、海水浴場の近くまで来ていたらしい。
「……海」
花菜の足が止まった。
そういえば、一昨日も海を見たとき、似たような反応をしていた。
珍しいものでもないはずなのに、花菜はしばらくその場を動かなかった。
「……行ってみるか?」
「え?」
「今日はここでゆっくりしてもいいだろ」
花菜はもう一度海の方を向いて、「……行きたい」と答えた。
♢
それから一時間ほど経って、俺はレンタルしたビーチパラソルの下で、花菜を待っていた。
頭上では、パラソルが風を受けてぱたぱたと鳴っている。
海は思った以上に人が多かった。
浮き輪につかまって遊ぶカップルがいれば、浜辺ではおっさんが昼寝している。
少し離れた場所では、大学生くらいのグループが大声で騒いでいた。
売店から流れてくる焼きそばの匂いに、どこかで鳴っている音楽が混じる。
俺はスマホを開いた。
通知は二件。未開封のメールが一件と、母さんからのメッセージ。
『花菜ちゃんを困らせてないでしょうね』
俺の心配じゃなくて、花菜の方かよ。まあ、否定はできないけど。
『大丈夫。むしろ俺が困らされてる』
送信したあと、指が止まった。
もう一つの通知には触れないまま、スマホを伏せる。
「……遅いな」
まさか、まだ水着を選んでるんじゃないだろうな。
さっきもレンタルコーナーで、花菜は水着を手に取っては戻し、別のを広げていた。
『こっちかな……でも……』
そんなことを何度も繰り返していた。俺なんて五分で済ませたのに。
まあ、昨日も服一着選ぶのにあれだけ悩んでいたし、今さらか。
砂浜には家族連れや学生が行き交い、波打ち際からは絶えず声が聞こえてくる。
ここにいるのは、俺たちのことを知らない人ばかりだった。
家にも学校にもいない。
昨日からずっと二人で行動しているのに、こういう場所にいると、改めてそのことを意識する。
そして、そんなことを考えているうちに、別のことまで頭に浮かんできた。
花菜の水着姿。
いや、別に変な意味じゃない……たぶん。
花菜は普段、そこまで喋る方じゃない。
自分から目立とうとすることもないし、人の真ん中に入って騒ぐような奴でもない。
小さい頃から知っているはずなのに、旅に出てから知らない花菜ばかり増えていく。そのたびに、こっちの調子まで狂う。
「……」
そんなことを考えているうちに、ふと時間が気になった。
もう一時間近く経っている。さすがに遅すぎないか。更衣室の方へ行ったきり、一度も戻ってきていない。
この辺は人も多いし、花菜はこういう場所に慣れているわけでもない。
変な奴に声をかけられていたらどうする。
「……見に行くか」
立ち上がりかけて、さすがに更衣室の前まで行くのはどうなんだと思い直す。
でも、このまま待っているのも落ち着かなかった。
俺は売店で買った二百円の黒サングラスを掛け、シートの上で座り直した。
あと五分。
それでも戻ってこなかったら、一度様子を見に行こう。
そう決めた直後だった。
「……ハルくん」
すぐ近くから名前を呼ばれた。
「やっとか……」
振り返りながら、身体を起こす。
続けようとした言葉が、そのまま止まった。
白を基調に、淡い水色が入った水着だった。
肩には控えめなフリルがついていて、その上から薄手の羽織りを着ている。
昨日までずっと見ていた白いワンピースとは、印象がまるで違った。
見慣れているはずの相手なのに、一瞬どう反応すればいいのか分からなくなる。
「……ど、どうかな」
花菜が水着の端を持ったまま、返事を待っている。
何か言わないといけない。
似合っているとか、変じゃないとか、普通に答えればいいだけなのに、頭に浮かんだ言葉がうまく口まで降りてこなかった。
返事が遅れるほど、花菜の手が水着の端を強く握っていく。
「……い、良いんじゃないでしょうか」
「なんで敬語なの……」
「いや、これはその……」
自分でも分からない。
俺はサングラスを外し、意味もなくレンズを拭いてから掛け直した。
「本当に?」
「……うん」
「変じゃない?」
「変じゃない」
花菜はそのまま動かなかった。まだ何か待っているように見える。
「……」
昨日も、服を見せに来た花菜を前に同じようなことになった。
考えて言おうとするほど、まともな言葉が出てこない。
だったら、最初に浮かんだことをそのまま言うしかない。
「……か、可愛い、です」
「っ……」
花菜の動きが止まる。俺も言った途端、恥ずかしくなった。
「……あ、ありがとう……」
花菜は羽織りの端を握り直した。
サングラスを外し、何をすればいいのか分からなくなる。
「あ、えっと……わ、私、海の方行ってきていい?」
「あ、うん……」
「じゃ、じゃあ行ってくるね」
花菜は砂浜の方へ向かっていった。
俺はシートに座ったまま、その姿が人の間に紛れるまで見送った。
「……だめだ」
旅に出てから、ずっとこんな調子だ。
♢
花菜が浜辺で子供たちに囲まれているのを、俺はパラソルの下から眺めていた。
さっきまで人目を気にしていたくせに、近くにいた子供たちに捕まっている。
最初は水を掛けられるたび逃げていた花菜も、いつの間にかその輪に混ざり、びしょ濡れのまま追いかけっこをしていた。
そんなとき、スマホが震えた。
画面には『母さん』と表示されている。そのまま通話ボタンを押した。
「母さん、久しぶり」
『久しぶり、ってあんたねぇ……家出してまだ三日でしょ』
「三日も経てば十分久しぶりだろ」
『はいはい。 ……で、ちゃんと生きてる?』
「なんだその確認」
いつもの調子に、つい口元が緩む。家を出てから、母さんの声を聞くのは初めてだった。
電話をしている間も、浜辺から花菜たちの声が聞こえてくる。随分あいつも変わったもんだ。
『……それで、今はどこにいるの?』
「あー……今は海」
『海?』
「見せた方が早いか」
通話をビデオに切り替え、スマホを浜辺へ向ける。
画面の中では、小学生くらいの子供たちに囲まれた花菜が、完全に遊ばれていた。
水をまともに浴びて後ずさったかと思えば、今度は自分から追いかけ返している。
濡れた髪はぼさぼさで、頬には砂までついていた。
せっかく選んだ白い羽織りも、裾までびしょ濡れだ。それでも、本人は気にする様子もない。
『……あれが、花菜ちゃん?』
「そう。今、完全に遊ばれてる」
『あらまぁ……』
母さんはしばらく画面を見ていた。
『……昔の花菜ちゃんみたい』
「昔?」
『そうよ。小さい頃はあの子、もっとよく笑ってたもの』
「……」
『あんたの後ろくっついて、毎日騒いでたじゃない。公園行ったり、川行ったり』
言われて、昔のことを思い出す。
川に入って靴を濡らしたり、公園で転んで膝を擦りむいたり。それでも次の日には、また俺の家まで遊びに来ていた。
今よりずっと騒がしい奴だった。いつから、あんなふうに遊ばなくなったんだろう。
『……本当に、良かったわ』
母さんの声から、さっきまでの軽さが消えていた。
俺は返事をしないまま、スマホを浜辺へ向け続ける。
画面の中で、花菜は子供の一人に追いかけられながら逃げていた。
少しして立場が逆になり、今度は花菜の方が追いかけている。
『……あ、それとハル』
「ん?」
『あの人から、何か連絡きてない?』
あの人。
それだけで、誰のことか分かった。さっき開かなかったメールが頭に浮かぶ。
「……いや、まだ特には」
『そう』
電話の向こうで、母さんの声が低くなった。
『実はね。あんたたちが出てった次の日、花園さんの家に行ったの』
「え……?」
母さんが花菜の家まで行っていたなんて、考えてもいなかった。
「……どうだった?」
『最初は大変だったわよ。今すぐ連れ戻します、って感じで』
容易に想像できて、胃が痛くなる。
『でも、一週間だけって条件もあったし……最後は、なんとか納得してくれた』
「そっか……ごめん、母さん」
『気にしなくていいのよ』
俺たちが勢いで飛び出したあと、母さんは向こうの家まで行って話をしてくれていた。ほんと、母さんには敵わない。
『ただ、一つだけ条件があってね』
「条件?」
『ハルの連絡先、教えてほしいって』
そこで、さっきの未読メールと繋がった。
『勝手に教えてごめんなさい。でも「何かあったら直接連絡したい」って』
「……なるほど」
今まで避けていたメールが、急に無視できないものになった。
『帰ったあと、ちゃんと話せるといいけど……』
「……」
帰ったあとのことは、なるべく考えないようにしていた。
それでもあと数日で戻ることになるし、花菜と母親のことは何も片づいていない。
『もし何かあったら、まずはうちに帰ってきなさい。分かった?』
「……うん」
『花菜ちゃんにもそう伝えといて』
「分かった」
『……それじゃ、そろそろお邪魔みたいだし』
「お邪魔?」
『ほら』
言われて浜辺の方を見る。
花菜は子供たちから少し離れたところに立ち、濡れた髪を直しながらこちらを眺めていた。
『ちゃんと、花菜ちゃんを頼んだわよ』
そこで通話が切れた。
暗くなった画面に、自分の顔だけが映っていた。
♢
「もういいのか?」
波打ち際から戻ってきた花菜は、まだ息を弾ませていた。
濡れた髪の先から水が落ち、白い羽織りの裾もすっかり重くなっている。
「ハルくん、ずっとこっち見てたから」
「見てねぇよ」
「見てた」
即答。しかも、なぜかちょっと不満そうだ。
花菜はそのまま俺の隣へ腰を下ろした。
さっきまで走り回っていたせいか、呼吸はまだ完全には戻っていない。
「……誰と電話してたの?」
「母さん。花菜のこと、よろしくってさ」
「……おばさんが?」
「うん」
花菜は膝の上で重ねた手を、何度か握り直した。
たぶん、迷惑をかけてるって思ってるんだろう。でも母さんは、そういうのを気にするタイプじゃない。
むしろ、今頃勝手に楽しんでそうだ。
「あとさ」
「……なに?」
一度だけ言い方を考える。
「お前の母さんのことなら、今は気にしなくていい」
「えっ……?」
「一週間はこのままでいいって。母さんが向こうと話してくれた」
花菜はすぐには反応しなかった。
「……ほんとに?」
「ほんと」
「怒って、ない……?」
「そりゃ怒ってはいるだろ。でも、今すぐ連れ戻すとか、そういう話にはなってない」
今くらいは、帰ったあとのことまで背負わせたくなかった。
「…………」
花菜は何度か瞬きをした。
まだ信じ切れていないのか、口を開いては閉じる。
「……じゃあ、本当に……あと何日か、このままでいいの?」
「いいってさ」
「……」
ようやく意味が追いついたらしい。
「や、やった……!」
その声と一緒に、花菜の顔が一気に明るくなった。
「よかったな」
「うん……!」
花菜は何度も頷いた。
嬉しいことを、そのまま嬉しそうにする。そんな花菜を見るのは、とても新鮮だった。
「……なんか、お前、だいぶ分かりやすくなったな」
「え?」
「前だったら、そんな全力で喜ばなかっただろ」
「……悪い?」
「いや。そっちの方が楽」
「楽って何」
「見てて分かりやすい」
「……褒めてないでしょ」
「一応褒めてる」
「一応なんだ……」
「でも、今の方がお前らしいぞ」
花菜から返事がない。俺もなぜか、その続きを言えなかった。
何も言わないまま数秒が過ぎて、先に耐えられなくなったのは花菜だった。
「……へ、変なこと言わないで」
「悪い……」
「絶対反省してない」
「いや、ちょっとはしてる」
「……ちょっと?」
花菜が肩をぶつけてきた。
「いて」
「全然痛くないでしょ」
「まあ、全然」
「もう……」
そう言いながらも、花菜はそのまま隣にいた。
遠くの山は青空の下に連なり、海を挟んでくっきりとした稜線を描いていた。
俺も何も言わず、その景色を眺めた。
♢
「買ってきた」
焼きそばのパックを差し出すと、パラソルの下にいた花菜が顔を上げた。
「あ、えっと…………ありがとう」
「……何やってんの」
「……」
花菜は何も言わず、俺から顔を背けた。
そんな反応をする理由は一目で分かった。俺のサングラスを勝手にかけていたからだ。
「え、えっと……ちょっと、かけてみたくて……」
ただ、サイズが全然合っていない。
ぶかぶかの黒縁が顔から浮いていて、どう見ても背伸びした小学生だった。
「……似合ってない?」
「いや……なんか、ガキっぽい」
「が、ガキ……⁉」
花菜は言い返しかけたものの、そのままサングラスを外した。
そんなに恥ずかしいなら、なんでかけたんだ。
「……満足した?」
「…………」
花菜が頷く。
海ではあれだけ走り回っていたくせに、こういうときだけ急に大人しくなる。
焼きそばの蓋を開けると、ソースの匂いが広がった。花菜は割り箸を割り、麺を口へ運ぶ。
「……おいしい」
「こういう場所の飯って、なんでこんな美味いんだろうな」
「……いつもと違うから?」
「それはあるかもな」
俺も焼きそばを口へ運ぶ。
周りでは相変わらず人の声が飛び交っていたが、パラソルの下にいるとそこまで気にならなかった。
「あと、これ」
「……?」
ビニール袋からカップアイスを取り出して渡す。
「うわ……」
分かりやすく、花菜の声が聞こえた。
「アイス選ぶなんて……ハルくん、分かってる」
「まあな」
「さすがハルくん」
「二個目は買わんからな」
「…………むぅ」
そんな話をしていたときだった。
「あーっ! さっきのお姉ちゃんだ!」
正面から、やたら元気な声が飛んできた。
「……あっ、ゆうた君」
さっきまで花菜と遊んでいた男の子が、砂浜を走ってくる。
その勢いのまま、花菜の前で止まった。
「見つけた! ねぇねぇ、今度は向こう行こうよ!」
指差した先には、浮き輪を持った子供たちが集まっている。
「え、えっと……」
ゆうた君は花菜の返事を待たず、そのまま腕を引っ張った。
「あ、あの……私、ちょっと休みたい、かな……」
「えー? ちょっとだけ!」
「う……」
押しが強い。しかも本人に悪気がないから、余計に断りづらそうだ。
「ハルくん……」
「どうした」
「た、助けてほしいなって……」
「え……」
相手、小学生だぞ。
勢いと体力だけで生きてる生物に、まともな駆け引きが通じるわけがない。
「ほらお姉ちゃん! 行こ!」
「わっ……」
ゆうた君に腕を引かれ、花菜がつんのめりながらついていく。
「ちょ、ちょっと待って……!」
言葉では困っているくせに、振りほどこうとはしない。
ゆうた君の方も、最初から花菜がついてくるものだと思っている。
こうして見ていると、年の離れた姉弟みたいだった。さっき知り合ったばかりなのに、やけに馴染んでいる。
もし本当に弟がいたら、花菜は毎日こんなふうに振り回されていたのだろうか。
「お姉ちゃん、今度は浮き輪使お!」
「え、えぇっ⁉ わ、私そんな泳げな……」
「——ゆうたー!」
少し離れたところから、女性の声が飛んできた。
母親らしい人が、こちらへ急いでくる。
「すみません、この子、随分と懐いてしまったみたいで……」
「い、いえ……」
花菜は何度も首を振った。
「ほら、お父さんも待ってるから行くよ」
「えー? もっと遊びたい!」
「また今度ね」
母親に手を引かれながら、ゆうた君は何度もこちらを振り返る。
「お姉ちゃんまたね!」
「う、うん。またね」
親子が人混みの中へ戻っていく。花菜はその場で息を吐いた。
「……つ、疲れた……」
「大変だったな」
「でも、楽しかったかも」
「……行かなくていいのか? 向こう」
「え?」
「あの子たちと遊ぶの」
花菜は一度、子供たちのいる方を確かめた。
まだ楽しそうな声が聞こえている。それでも、立ち上がる様子はなかった。
「だって……」
「だって?」
「……ハルくんと来たし」
「え……」
そんなふうに言われると、すぐには返事ができなかった。
花菜も何も続けず、自分の髪を指でいじっている。沈黙に耐えられなくなって、俺は話をずらした。
「……俺、マジで泳げないんだけど」
「…………」
「見学してていい?」
花菜はしばらく考えてから、俺の腕を掴んだ。
「……だめ」
嫌な予感しかしない。
たぶん、本当の地獄はここからだ。
♢
「ハルくん……ちゃんと持っててよ」
浮き輪に身体を預けた花菜が、何度もこっちを確かめてくる。
「持ってるって」
「こ、怖い……!」
「……」
浮き輪ひとつに命を預けてる気分なんだが。
しかも花菜は、浮き輪を抱え込んだままほとんど動こうとしない。
「お前、もっと力抜けって」
「む、無理……っ。海って足つかなくなるんでしょ……?」
「いや、まだ全然浅——」
言い終わる前に、横から波が来た。浮き輪が押され、俺の腕まで引っ張られる。
「うわっ⁉」
「きゃっ……!」
踏ん張る間もなく身体が傾き、そのまま海へ突っ込んだ。
冷たい。
耳の奥まで水が入り、一瞬何も聞こえなくなる。
「ぶはっ……!」
海水を払いながら顔を出す。すぐ目の前に、花菜がいた。
濡れた黒髪を頬に張りつけたまま、浮き輪を抱えて固まっている。
「……」
次の瞬間、花菜の顔が険しくなった。
「ちょっ……ハルくん雑!」
「はぁ⁉ 今のは波が悪いだろ!」
「絶対違う!」
いきなり水を掛けられた。
「冷たっ! やめろって!」
「ハルくんのせいだから!」
「俺のせいにすんな!」
こっちも水をすくって掛け返す。
「きゃっ!」
「ほら、お互い様!」
「……このっ!」
今度は両手で水を飛ばしてきた。
「あっ、やめっ……!」
♢
「……ハルくん、開けられない」
花菜がラムネ瓶を差し出してきた。
「貸して」
受け取って、ビー玉を押し込もうとする。
「…………」
押してみても、ビー玉が動かない。
もう一度力を入れても、びくともしなかった。
「……これ、固くね?」
今度こそと思って力を込めた瞬間、
「うわっ!」
ぽんっ、とビー玉が落ちた。同時に、ラムネが勢いよく吹き上がる。
「きゃっ⁉」
「ちょ、待っ……!」
慌てて瓶を傾けたせいで、今度は俺の手までべたべたになった。
レジャーシートの上に、ラムネがぽたぽた落ちていく。
先に耐えられなくなったのは花菜だった。
「……ふふっ」
「笑うな」
「だって……」
「お前、絶対楽しんでるだろ」
納得いかないまま瓶を差し出すと、花菜はまだ笑いながら受け取った。
受け取った瓶を口元へ運ぶ。傾けた拍子に、からん、とビー玉が鳴った。
「……しゅわしゅわする」
「ラムネだからな」
「もう、そういうのじゃなくて……」
♢
「……何してるの?」
「絵」
砂浜にしゃがみ込みながら答える。
海ではしゃぎ続けたせいか、さすがに疲れた。
波打ち際は人も多いし、こうして端の方にいるくらいが俺には合っている。
木の棒で砂をなぞる。
「……タコ?」
「うん」
「なんでタコ……」
「なんとなく」
自分でもよく分からない。何も考えずに描けそうだったのが、それだった。
花菜は俺の隣にしゃがみ込み、砂の上のタコを確かめる。
「……なんか、可愛い」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
花菜は何も言わず、近くに落ちていた貝殻を拾った。
欠けた白い貝殻をペンみたいに持ち、俺のタコから少し離れたところに座る。
「……花菜も描くの?」
「ん」
返事は短かった。
そのまま貝殻の先を砂につけ、線を引き始める。
前髪が邪魔になるたび手で払い、また砂へ戻る。
一度引いた線を消しては描き直しているあたり、本人なりにかなり真剣らしい。
「……」
波打ち際から離れているぶん、ここまで来る声はだいぶ小さい。
それでも、花菜が貝殻を動かすたび、砂の上には新しい線が一本ずつ増えていった。
「……できた!」
しばらくして、花菜が砂だらけの手のまま身体を寄せてきた。
「見てっ」
「どれ」
砂浜に描かれていたのは、牙みたいな歯を剥き出しにした謎の生物だった。
「……え、怖。なにこれ、サメ?」
「…………イルカだけど」
「イルカ?」
「イルカ」
花菜は明らかに納得していなかった。
「いや待って、どこが?」
「ちゃんと丸いでしょ」
「目が怖いんだよ」
改めて見る。
胴体はまだイルカっぽい。問題は、口いっぱいに並んだ三角形の歯だった。
「なんでそんな凶悪に描けるの」
「……凶悪じゃないし」
花菜はしゃがんだまま、貝殻でイルカの輪郭をなぞり直した。
「……ハルくんのタコだって変」
「さっき可愛いって言ってたじゃん」
「イルカだって可愛いから」
「可愛いにも限度があるだろ」
「ちゃんと可愛いもん」
「どこが。これなんか口でかすぎるだろ」
「そこが可愛いの!」
花菜はむっとして、貝殻の先でイルカの口元をなぞり直した。ところが、直す前よりさらに大きくなる。
「ほら、悪化した」
「……ハルくんが変なこと言うから」
「え、俺のせい?」
「…………うん」
そんなくだらないやり取りをしていると、波がさっきより近いところまで届いた。
次に来た水が、俺のタコの足先と、花菜のイルカの輪郭を削っていく。
「あっ……」
花菜の手が止まった。
もう一度波が来る。今度はイルカの口元がなくなった。
「……」
花菜は貝殻を持ったまま、崩れていく絵を見ていた。
♢
花菜と一日中遊んでいるうちに、気づけば日が傾いていた。
浜辺にいた人も少しずつ減り、昼間あれだけ騒がしかった海水浴場も、だいぶ静かになっている。
俺は花菜の隣に座ったまま、海を眺めていた。
「……いっぱい遊んだな」
丸一日、何も考えずに遊んだのなんて、いつぶりだろう。
海で転んで、ラムネをぶちまけて、砂浜にはタコとよく分からないイルカまで残した。
花菜の羽織りはまだ少し湿っているし、俺の手にもラムネの甘ったるい匂いが残っていた。
「……楽しかった」
花菜が海を見たまま言った。
「俺も」
それだけで、今日一日のことが妙に近く感じた。
もう空は暗くなり始めている。
そろそろ戻らないと、宿に着く頃には完全に日が落ちそうだった。
「帰るか」
立ち上がって、砂を払う。
「……うん」
歩き出す直前、花菜はもう一度だけ海の方を振り返った。
俺も何も言わず、その場で待った。
♢
帰り道、花菜はずっと静かだった。
昼間みたいにはしゃぐこともなく、俺の少し後ろを歩いている。
海から離れるにつれて人の声は減り、通り沿いの街灯が一つずつ点き始めていた。
道路には、俺たちの影が長く伸びている。
海の方を振り返ると、水平線にはまだ夕方の色が残っていた。
今日が終わっていく。
気づけば、この数日ずっと花菜の近くにいた。それを特別だと思わなくなっていた。
後ろから聞こえる足音は、相変わらず小さい。
昼間みたいに俺の名前を呼ぶこともなく、ただ離れないようについてきている。
歩く速度を落としてみた。後ろの足音が近づく。それでも、花菜は隣まで来なかった。
何か言った方がいいのかと思ったけれど、結局何も浮かばない。
そのまま歩く。
靴がアスファルトを擦る音だけが、一定の間隔で聞こえていた。
宿までは、もうそんなに遠くない。
そう思ったとき、
「……帰りたくない」
背中越しに、花菜の声が響いた。
足が止まりそうになる。でも、すぐには振り返れなかった。
家に帰りたくないのか。今日が終わってほしくないのか。どっちの意味なのか、聞く気にはなれなかった。
この時間をずっと続けるなんて、俺には約束できない。
それでも、少なくとも今は、花菜を一人にするつもりはなかった。
ポケットからスマホを取り出す。
画面には、ずっと開かずにいたメールが残っている。
そのとき、少し先の踏切が鳴り始めた。
カン、カン、カン、カン———
赤い警報灯が交互に点滅し、遮断機がゆっくり下りていく。
やがて電車が通り過ぎ、辺りに静けさが戻った。
俺は画面に指を置いた。
メールを開かず、そのまま削除する。
『花菜を連れ戻します』