裏切りの逃避行   作:怪盗エンペラー

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第六章 八月十六日 前田晴 出会いと海

 夢の中で、俺は昔のことを思い出していた。

 花菜と初めて出会った日のことを。

 

 ♢

 

 あの日の俺は、いつものように一人で絵を描いていた。

 窓は開けっぱなしで、机の上には使いかけのクレヨンが転がっている。

一人で過ごすには、それで十分だった。

 

 ——ピンポーン。

 

 インターフォンが鳴った。

 

「はーい!」

 

 母さんが玄関へ向かっていく。

 俺は描きかけのスケッチブックを置き、廊下の陰から玄関の方を覗いた。

 そこには、見たことのない大人が二人立っていた。

 

「今日から隣に引っ越してきました、花園です」

 

 男の人が丁寧に頭を下げた。

 

「あらまぁ、ご丁寧にありがとうございます」

 

 母さんが応える。

 

「……あら?」

 

 その後ろに、女の子が隠れていた。白いワンピースを着て、男の人の服を掴んでいる。

 

「花菜。挨拶しようか」

「……っ」

 

 女の子は背筋を伸ばした。

 

「は、花園花菜です。よろしくお願いします……」

 

 

 それが、俺と花菜の初めての出会いだった。

 

 

「あら、しっかりしてる子ね。よろしくね、花菜ちゃん」

「は、はい……よろしくお願いします」

 

 花菜はもう一度、丁寧に頭を下げた。

母さんは「まあ」と声を漏らす。

 

「うちの子と同い年くらいかしら?」

「えっと……よっつです」

「あら、本当に? じゃあ一緒ね」

 

 母さんがこちらを振り返った。

 

「晴ー、ちょっと来なさい」

 

 その瞬間、廊下の陰にいた俺と目が合った。

 しまった、と思った時にはもう遅い。

逃げようとしたけれど、母さんの顔を見て諦め、渋々玄関へ向かった。

 

「息子の晴です。ほら、挨拶しなさい」

 

 前に出される。

 同い年の子を前にして、何を話せばいいのか分からない。

結局、口から出たのは名前だけだった。

 

「……ま、前田晴……です」

 

 自分でも聞こえるか怪しい声だった。

 

「もう、この子ったら本当に人見知りで……」

 

 母さんが呆れたように続ける。

 

「そうなんですか」

 

 男の人が俺の方を向いた。

 

「……よかったら、花菜と一緒に遊んでくれないかな?」

「え?」

「ここに来たばかりでね。花菜もまだ友達がいないんだ。遊んでくれたら嬉しいな」

 

 ともだち。

 その言葉だけが、なぜか耳に残った。

 

「…………で、でも」

 

 何をして遊べばいいのかも分からない。

そう言おうとした、その時だった。

 

「わ……私も遊びたい、です」

 

 それまで父親のそばにいた花菜が、こちらへ顔を向けた。

両手を身体の前で握ったまま、返事を待っている。

 

「ほら! 花菜ちゃんもこう言ってるんだし。お外で遊んできなさい!」

 

 母さんに背中を押される。

 

「……え」

 

 戸惑っている間に、花菜が一歩近づいてきた。

 

 

 そして、俺の手を握った。

 

 

 ♢

 

 

「ねぇ。名前、なんていうの?」

 

 庭の隅に置かれたブランコに座りながら、花菜が聞いてきた。

 

「……晴」

 

 それだけ答えると、花菜は確かめるように繰り返した。

 

「晴……じゃあ、ハルくんって呼んでもいい?」

「ハルくん……?」

 

 今までそんな呼ばれ方をしたことがなくて、妙な感じがした。

 

「別に……いいけど」

 

 花菜は「よかった」と言って、ブランコの鎖を両手で握り直した。

 

「私、引っ越してきたばっかりで何も分からなくて……お友達、できたらいいなって思ってたの」

 

花菜はそう言いながら、隣の空いたブランコを手で引き寄せた。鎖が擦れ、二つの座板が並んで揺れる。

 

「……ハルくんも、一緒に乗る?」

 

断る理由も見つからなくて、隣のブランコに座った。

 ぎぃ、と二つのブランコが交互に鳴る。

 花菜が地面を蹴ると、白いワンピースの裾が膝の上で動いた。

俺も真似して蹴ってみる。

 しばらく何も話さなかったけど、さっきまでみたいに何を言えばいいのか考えなくて済んだ。

 

 

 いつの間にか、庭には家の影が伸びていた。

 

「今日はありがとう、ハルくん」

 

 花菜が俺の名前を呼んだ。

玄関で会ったときより、ずっと自然な声だった。

 明るい子、という感じではない。

俺よりよっぽど緊張していたくせに、自分から手を握って、隣に誘ってきた。

 

「……変な子」

 

 たぶん、それが花菜に対する第一印象だった。

 

 ♢

 

「……ん」

 

 目を開けると、障子の隙間から朝の明るさが差し込んでいた。

 

「……」

 

 まだ頭が働かない。

ぼやけた視界のまま寝返りを打とうとして、そこで違和感に気づいた。

 近い。

 

「……?」

 

 顔を向ける。

 

 すぐそばに——花菜がいた。

 

しかも、やけに真剣な顔でこっちを見ている。

 

「…………」

「…………」

 

 お互い動かず、しばらくそのままだった。なんで俺の布団にいるんだ、こいつ。

 

「……何してんの?」

「っ!」

 

 花菜の身体が跳ねる。

 

「……お、お、起きてたの⁉」

「いや、今起きたけど……」

 

 花菜は勢いよく後ろへ下がった。

そのまま布団に足を取られ、背中から転がる。

 

「いたっ⁉」

「ちょ、何してるの」

「うぅ……」

 

 花菜はそのまま布団へ顔を伏せた。

 

「朝から何やってんだよ」

「……別に、何もしてないし」

「じゃあなんでここにいたの」

「…………」

 

 返事がない。

 代わりに、布団から出た耳だけが赤くなっていた。

 

「なんでそんな恥ずかしがってるんだ……」

 

 廊下の向こうから、誰かが歩く音が聞こえてくる。

旅館の朝はもう始まっているらしい。なのに、俺たちだけ何をやってるんだろう。

 

「……花菜」

「なに」

「そろそろ顔出したら?」

「……やだ」

 

 朝から面倒くさいことになってしまった。

 

 ♢

 

家を出て三日目。行き当たりばったりの過ごし方にも、だいぶ慣れてきた。

 行き先を細かく決めず、気になった場所があれば寄って、疲れたら休む。腹が減れば、その辺で店を探す。

 花菜も、初日に比べてとても明るくなった。

気になる店があれば足を止めるし、最近は自分から「これしたい」と言うこともある。

 こんなふうに過ごすのも悪くない……まあ、まだ危なっかしいところはあるけど。

 そんなことを考えながら歩いていると、空気に潮の匂いが混じってきた。

 

「ん……?」

 

 通りの先が開け、その向こうに海が見えた。

道路を一本挟んだ先に砂浜が続き、波打ち際では子供たちが遊んでいる。

 どうやら、海水浴場の近くまで来ていたらしい。

 

「……海」

 

 花菜の足が止まった。

 そういえば、一昨日も海を見たとき、似たような反応をしていた。

珍しいものでもないはずなのに、花菜はしばらくその場を動かなかった。

 

「……行ってみるか?」

「え?」

「今日はここでゆっくりしてもいいだろ」

 

 花菜はもう一度海の方を向いて、「……行きたい」と答えた。

 

 ♢

 

それから一時間ほど経って、俺はレンタルしたビーチパラソルの下で、花菜を待っていた。

 頭上では、パラソルが風を受けてぱたぱたと鳴っている。

 海は思った以上に人が多かった。

 浮き輪につかまって遊ぶカップルがいれば、浜辺ではおっさんが昼寝している。

少し離れた場所では、大学生くらいのグループが大声で騒いでいた。

 売店から流れてくる焼きそばの匂いに、どこかで鳴っている音楽が混じる。

 

 俺はスマホを開いた。

 通知は二件。未開封のメールが一件と、母さんからのメッセージ。

 

『花菜ちゃんを困らせてないでしょうね』

 

 俺の心配じゃなくて、花菜の方かよ。まあ、否定はできないけど。

 

『大丈夫。むしろ俺が困らされてる』

 

 送信したあと、指が止まった。

 もう一つの通知には触れないまま、スマホを伏せる。

 

「……遅いな」

 

 まさか、まだ水着を選んでるんじゃないだろうな。

 さっきもレンタルコーナーで、花菜は水着を手に取っては戻し、別のを広げていた。

 

『こっちかな……でも……』

 

 そんなことを何度も繰り返していた。俺なんて五分で済ませたのに。

 まあ、昨日も服一着選ぶのにあれだけ悩んでいたし、今さらか。

 砂浜には家族連れや学生が行き交い、波打ち際からは絶えず声が聞こえてくる。

 ここにいるのは、俺たちのことを知らない人ばかりだった。

 家にも学校にもいない。

 昨日からずっと二人で行動しているのに、こういう場所にいると、改めてそのことを意識する。

 そして、そんなことを考えているうちに、別のことまで頭に浮かんできた。

 

 花菜の水着姿。

 

 いや、別に変な意味じゃない……たぶん。

 花菜は普段、そこまで喋る方じゃない。

 自分から目立とうとすることもないし、人の真ん中に入って騒ぐような奴でもない。

 小さい頃から知っているはずなのに、旅に出てから知らない花菜ばかり増えていく。そのたびに、こっちの調子まで狂う。

 

「……」

 

そんなことを考えているうちに、ふと時間が気になった。

 もう一時間近く経っている。さすがに遅すぎないか。更衣室の方へ行ったきり、一度も戻ってきていない。

 この辺は人も多いし、花菜はこういう場所に慣れているわけでもない。

 変な奴に声をかけられていたらどうする。

 

「……見に行くか」

 

 立ち上がりかけて、さすがに更衣室の前まで行くのはどうなんだと思い直す。

 でも、このまま待っているのも落ち着かなかった。

 俺は売店で買った二百円の黒サングラスを掛け、シートの上で座り直した。

 あと五分。

 それでも戻ってこなかったら、一度様子を見に行こう。

 そう決めた直後だった。

 

 

「……ハルくん」

 

 

 すぐ近くから名前を呼ばれた。

 

「やっとか……」

 

 振り返りながら、身体を起こす。

続けようとした言葉が、そのまま止まった。

 

 白を基調に、淡い水色が入った水着だった。

肩には控えめなフリルがついていて、その上から薄手の羽織りを着ている。

 昨日までずっと見ていた白いワンピースとは、印象がまるで違った。

 見慣れているはずの相手なのに、一瞬どう反応すればいいのか分からなくなる。

 

「……ど、どうかな」

 

 花菜が水着の端を持ったまま、返事を待っている。

 何か言わないといけない。

 似合っているとか、変じゃないとか、普通に答えればいいだけなのに、頭に浮かんだ言葉がうまく口まで降りてこなかった。

 返事が遅れるほど、花菜の手が水着の端を強く握っていく。

 

「……い、良いんじゃないでしょうか」

「なんで敬語なの……」

「いや、これはその……」

 

 自分でも分からない。

俺はサングラスを外し、意味もなくレンズを拭いてから掛け直した。

 

「本当に?」

「……うん」

「変じゃない?」

「変じゃない」

 

 花菜はそのまま動かなかった。まだ何か待っているように見える。

 

「……」

 

 昨日も、服を見せに来た花菜を前に同じようなことになった。

 考えて言おうとするほど、まともな言葉が出てこない。

 だったら、最初に浮かんだことをそのまま言うしかない。

 

「……か、可愛い、です」

「っ……」

 

 花菜の動きが止まる。俺も言った途端、恥ずかしくなった。

 

「……あ、ありがとう……」

 

 花菜は羽織りの端を握り直した。

 サングラスを外し、何をすればいいのか分からなくなる。

 

「あ、えっと……わ、私、海の方行ってきていい?」

「あ、うん……」

「じゃ、じゃあ行ってくるね」

 

 花菜は砂浜の方へ向かっていった。

 俺はシートに座ったまま、その姿が人の間に紛れるまで見送った。

 

「……だめだ」

 

 旅に出てから、ずっとこんな調子だ。

 

 ♢

 

 花菜が浜辺で子供たちに囲まれているのを、俺はパラソルの下から眺めていた。

 さっきまで人目を気にしていたくせに、近くにいた子供たちに捕まっている。

最初は水を掛けられるたび逃げていた花菜も、いつの間にかその輪に混ざり、びしょ濡れのまま追いかけっこをしていた。

 

 そんなとき、スマホが震えた。

 画面には『母さん』と表示されている。そのまま通話ボタンを押した。

 

「母さん、久しぶり」

『久しぶり、ってあんたねぇ……家出してまだ三日でしょ』

「三日も経てば十分久しぶりだろ」

『はいはい。 ……で、ちゃんと生きてる?』

「なんだその確認」

 

 いつもの調子に、つい口元が緩む。家を出てから、母さんの声を聞くのは初めてだった。

 電話をしている間も、浜辺から花菜たちの声が聞こえてくる。随分あいつも変わったもんだ。

 

『……それで、今はどこにいるの?』

「あー……今は海」

『海?』

「見せた方が早いか」

 

 通話をビデオに切り替え、スマホを浜辺へ向ける。

 画面の中では、小学生くらいの子供たちに囲まれた花菜が、完全に遊ばれていた。

水をまともに浴びて後ずさったかと思えば、今度は自分から追いかけ返している。

 濡れた髪はぼさぼさで、頬には砂までついていた。

せっかく選んだ白い羽織りも、裾までびしょ濡れだ。それでも、本人は気にする様子もない。

 

『……あれが、花菜ちゃん?』

「そう。今、完全に遊ばれてる」

『あらまぁ……』

 

 母さんはしばらく画面を見ていた。

 

『……昔の花菜ちゃんみたい』

「昔?」

『そうよ。小さい頃はあの子、もっとよく笑ってたもの』

「……」

『あんたの後ろくっついて、毎日騒いでたじゃない。公園行ったり、川行ったり』

 

 言われて、昔のことを思い出す。

 川に入って靴を濡らしたり、公園で転んで膝を擦りむいたり。それでも次の日には、また俺の家まで遊びに来ていた。

 今よりずっと騒がしい奴だった。いつから、あんなふうに遊ばなくなったんだろう。

 

『……本当に、良かったわ』

 

 母さんの声から、さっきまでの軽さが消えていた。

 俺は返事をしないまま、スマホを浜辺へ向け続ける。

画面の中で、花菜は子供の一人に追いかけられながら逃げていた。

少しして立場が逆になり、今度は花菜の方が追いかけている。

 

『……あ、それとハル』

「ん?」

『あの人から、何か連絡きてない?』

 

 あの人。

それだけで、誰のことか分かった。さっき開かなかったメールが頭に浮かぶ。

 

「……いや、まだ特には」

『そう』

 

 電話の向こうで、母さんの声が低くなった。

 

『実はね。あんたたちが出てった次の日、花園さんの家に行ったの』

「え……?」

 

 母さんが花菜の家まで行っていたなんて、考えてもいなかった。

 

「……どうだった?」

『最初は大変だったわよ。今すぐ連れ戻します、って感じで』

 

 容易に想像できて、胃が痛くなる。

 

『でも、一週間だけって条件もあったし……最後は、なんとか納得してくれた』

「そっか……ごめん、母さん」

『気にしなくていいのよ』

 

 俺たちが勢いで飛び出したあと、母さんは向こうの家まで行って話をしてくれていた。ほんと、母さんには敵わない。

 

『ただ、一つだけ条件があってね』

「条件?」

『ハルの連絡先、教えてほしいって』

 

 そこで、さっきの未読メールと繋がった。

 

『勝手に教えてごめんなさい。でも「何かあったら直接連絡したい」って』

「……なるほど」

 

 今まで避けていたメールが、急に無視できないものになった。

 

『帰ったあと、ちゃんと話せるといいけど……』

「……」

 

帰ったあとのことは、なるべく考えないようにしていた。

それでもあと数日で戻ることになるし、花菜と母親のことは何も片づいていない。

 

『もし何かあったら、まずはうちに帰ってきなさい。分かった?』

「……うん」

『花菜ちゃんにもそう伝えといて』

「分かった」

『……それじゃ、そろそろお邪魔みたいだし』

「お邪魔?」

『ほら』

 

言われて浜辺の方を見る。

 花菜は子供たちから少し離れたところに立ち、濡れた髪を直しながらこちらを眺めていた。

 

『ちゃんと、花菜ちゃんを頼んだわよ』

 

 そこで通話が切れた。

暗くなった画面に、自分の顔だけが映っていた。

 

 ♢

 

「もういいのか?」

 

 波打ち際から戻ってきた花菜は、まだ息を弾ませていた。

濡れた髪の先から水が落ち、白い羽織りの裾もすっかり重くなっている。

 

「ハルくん、ずっとこっち見てたから」

「見てねぇよ」

「見てた」

 

 即答。しかも、なぜかちょっと不満そうだ。

 花菜はそのまま俺の隣へ腰を下ろした。

さっきまで走り回っていたせいか、呼吸はまだ完全には戻っていない。

 

「……誰と電話してたの?」

「母さん。花菜のこと、よろしくってさ」

「……おばさんが?」

「うん」

 

 花菜は膝の上で重ねた手を、何度か握り直した。

 たぶん、迷惑をかけてるって思ってるんだろう。でも母さんは、そういうのを気にするタイプじゃない。

むしろ、今頃勝手に楽しんでそうだ。

 

「あとさ」

「……なに?」

 

 一度だけ言い方を考える。

 

「お前の母さんのことなら、今は気にしなくていい」

「えっ……?」

「一週間はこのままでいいって。母さんが向こうと話してくれた」

 

 花菜はすぐには反応しなかった。

 

「……ほんとに?」

「ほんと」

「怒って、ない……?」

「そりゃ怒ってはいるだろ。でも、今すぐ連れ戻すとか、そういう話にはなってない」

 

今くらいは、帰ったあとのことまで背負わせたくなかった。

 

「…………」

 

 花菜は何度か瞬きをした。

まだ信じ切れていないのか、口を開いては閉じる。

 

「……じゃあ、本当に……あと何日か、このままでいいの?」

「いいってさ」

「……」

 

 ようやく意味が追いついたらしい。

 

「や、やった……!」

 

 その声と一緒に、花菜の顔が一気に明るくなった。

 

「よかったな」

「うん……!」

 

花菜は何度も頷いた。

嬉しいことを、そのまま嬉しそうにする。そんな花菜を見るのは、とても新鮮だった。

 

「……なんか、お前、だいぶ分かりやすくなったな」

「え?」

「前だったら、そんな全力で喜ばなかっただろ」

「……悪い?」

「いや。そっちの方が楽」

「楽って何」

「見てて分かりやすい」

「……褒めてないでしょ」

「一応褒めてる」

「一応なんだ……」

「でも、今の方がお前らしいぞ」

 

花菜から返事がない。俺もなぜか、その続きを言えなかった。

何も言わないまま数秒が過ぎて、先に耐えられなくなったのは花菜だった。

 

「……へ、変なこと言わないで」

「悪い……」

「絶対反省してない」

「いや、ちょっとはしてる」

「……ちょっと?」

 

花菜が肩をぶつけてきた。

 

「いて」

「全然痛くないでしょ」

「まあ、全然」

「もう……」

 

 そう言いながらも、花菜はそのまま隣にいた。

 遠くの山は青空の下に連なり、海を挟んでくっきりとした稜線を描いていた。

 

俺も何も言わず、その景色を眺めた。

 

 ♢

 

「買ってきた」

 

 焼きそばのパックを差し出すと、パラソルの下にいた花菜が顔を上げた。

 

「あ、えっと…………ありがとう」

「……何やってんの」

「……」

 

 花菜は何も言わず、俺から顔を背けた。

 そんな反応をする理由は一目で分かった。俺のサングラスを勝手にかけていたからだ。

 

「え、えっと……ちょっと、かけてみたくて……」

 

 ただ、サイズが全然合っていない。

ぶかぶかの黒縁が顔から浮いていて、どう見ても背伸びした小学生だった。

 

「……似合ってない?」

「いや……なんか、ガキっぽい」

「が、ガキ……⁉」

 

 花菜は言い返しかけたものの、そのままサングラスを外した。

 そんなに恥ずかしいなら、なんでかけたんだ。

 

「……満足した?」

「…………」

 

 花菜が頷く。

 海ではあれだけ走り回っていたくせに、こういうときだけ急に大人しくなる。

 焼きそばの蓋を開けると、ソースの匂いが広がった。花菜は割り箸を割り、麺を口へ運ぶ。

 

「……おいしい」

「こういう場所の飯って、なんでこんな美味いんだろうな」

「……いつもと違うから?」

「それはあるかもな」

 

 俺も焼きそばを口へ運ぶ。

周りでは相変わらず人の声が飛び交っていたが、パラソルの下にいるとそこまで気にならなかった。

 

「あと、これ」

「……?」

 

 ビニール袋からカップアイスを取り出して渡す。

 

「うわ……」

 

 分かりやすく、花菜の声が聞こえた。

 

「アイス選ぶなんて……ハルくん、分かってる」

「まあな」

「さすがハルくん」

「二個目は買わんからな」

「…………むぅ」

 

 そんな話をしていたときだった。

 

「あーっ! さっきのお姉ちゃんだ!」

 

 正面から、やたら元気な声が飛んできた。

 

「……あっ、ゆうた君」

 

 さっきまで花菜と遊んでいた男の子が、砂浜を走ってくる。

その勢いのまま、花菜の前で止まった。

 

「見つけた! ねぇねぇ、今度は向こう行こうよ!」

 

 指差した先には、浮き輪を持った子供たちが集まっている。

 

「え、えっと……」

 

 ゆうた君は花菜の返事を待たず、そのまま腕を引っ張った。

 

「あ、あの……私、ちょっと休みたい、かな……」

「えー? ちょっとだけ!」

「う……」

 

 押しが強い。しかも本人に悪気がないから、余計に断りづらそうだ。

 

「ハルくん……」

「どうした」

「た、助けてほしいなって……」

「え……」

 

 相手、小学生だぞ。

 勢いと体力だけで生きてる生物に、まともな駆け引きが通じるわけがない。

 

「ほらお姉ちゃん! 行こ!」

「わっ……」

 

 ゆうた君に腕を引かれ、花菜がつんのめりながらついていく。

 

「ちょ、ちょっと待って……!」

 

 言葉では困っているくせに、振りほどこうとはしない。

ゆうた君の方も、最初から花菜がついてくるものだと思っている。

 こうして見ていると、年の離れた姉弟みたいだった。さっき知り合ったばかりなのに、やけに馴染んでいる。

もし本当に弟がいたら、花菜は毎日こんなふうに振り回されていたのだろうか。

 

「お姉ちゃん、今度は浮き輪使お!」

「え、えぇっ⁉ わ、私そんな泳げな……」

「——ゆうたー!」

 

 少し離れたところから、女性の声が飛んできた。

母親らしい人が、こちらへ急いでくる。

 

「すみません、この子、随分と懐いてしまったみたいで……」

「い、いえ……」

 

 花菜は何度も首を振った。

 

「ほら、お父さんも待ってるから行くよ」

「えー? もっと遊びたい!」

「また今度ね」

 

 母親に手を引かれながら、ゆうた君は何度もこちらを振り返る。

 

「お姉ちゃんまたね!」

「う、うん。またね」

 

 親子が人混みの中へ戻っていく。花菜はその場で息を吐いた。

 

「……つ、疲れた……」

「大変だったな」

「でも、楽しかったかも」

「……行かなくていいのか? 向こう」

「え?」

「あの子たちと遊ぶの」

 

 花菜は一度、子供たちのいる方を確かめた。

まだ楽しそうな声が聞こえている。それでも、立ち上がる様子はなかった。

 

「だって……」

「だって?」

「……ハルくんと来たし」

「え……」

 

 そんなふうに言われると、すぐには返事ができなかった。

 花菜も何も続けず、自分の髪を指でいじっている。沈黙に耐えられなくなって、俺は話をずらした。

 

「……俺、マジで泳げないんだけど」

「…………」

「見学してていい?」

 

 花菜はしばらく考えてから、俺の腕を掴んだ。

 

「……だめ」

 

 嫌な予感しかしない。

たぶん、本当の地獄はここからだ。

 

 ♢

 

「ハルくん……ちゃんと持っててよ」

 

 浮き輪に身体を預けた花菜が、何度もこっちを確かめてくる。

 

「持ってるって」

「こ、怖い……!」

「……」

 

 浮き輪ひとつに命を預けてる気分なんだが。

 しかも花菜は、浮き輪を抱え込んだままほとんど動こうとしない。

 

「お前、もっと力抜けって」

「む、無理……っ。海って足つかなくなるんでしょ……?」

「いや、まだ全然浅——」

 

 言い終わる前に、横から波が来た。浮き輪が押され、俺の腕まで引っ張られる。

 

「うわっ⁉」

「きゃっ……!」

 

 踏ん張る間もなく身体が傾き、そのまま海へ突っ込んだ。

 冷たい。

耳の奥まで水が入り、一瞬何も聞こえなくなる。

 

「ぶはっ……!」

 

 海水を払いながら顔を出す。すぐ目の前に、花菜がいた。

 濡れた黒髪を頬に張りつけたまま、浮き輪を抱えて固まっている。

 

「……」

 

 次の瞬間、花菜の顔が険しくなった。

 

「ちょっ……ハルくん雑!」

「はぁ⁉ 今のは波が悪いだろ!」

「絶対違う!」

 

 いきなり水を掛けられた。

 

「冷たっ! やめろって!」

「ハルくんのせいだから!」

「俺のせいにすんな!」

 

 こっちも水をすくって掛け返す。

 

「きゃっ!」

「ほら、お互い様!」

「……このっ!」

 

 今度は両手で水を飛ばしてきた。

 

「あっ、やめっ……!」

 

 ♢

 

「……ハルくん、開けられない」

 

 花菜がラムネ瓶を差し出してきた。

 

「貸して」

 

 受け取って、ビー玉を押し込もうとする。

 

「…………」

 

 押してみても、ビー玉が動かない。

もう一度力を入れても、びくともしなかった。

 

「……これ、固くね?」

 

 今度こそと思って力を込めた瞬間、

 

「うわっ!」

 

 ぽんっ、とビー玉が落ちた。同時に、ラムネが勢いよく吹き上がる。

 

「きゃっ⁉」

「ちょ、待っ……!」

 

 慌てて瓶を傾けたせいで、今度は俺の手までべたべたになった。

 レジャーシートの上に、ラムネがぽたぽた落ちていく。

 先に耐えられなくなったのは花菜だった。

 

「……ふふっ」

「笑うな」

「だって……」

「お前、絶対楽しんでるだろ」

 

納得いかないまま瓶を差し出すと、花菜はまだ笑いながら受け取った。

受け取った瓶を口元へ運ぶ。傾けた拍子に、からん、とビー玉が鳴った。

 

「……しゅわしゅわする」

「ラムネだからな」

「もう、そういうのじゃなくて……」

 

 ♢

 

「……何してるの?」

「絵」

 

 砂浜にしゃがみ込みながら答える。

海ではしゃぎ続けたせいか、さすがに疲れた。

 波打ち際は人も多いし、こうして端の方にいるくらいが俺には合っている。

 木の棒で砂をなぞる。

 

「……タコ?」

「うん」

「なんでタコ……」

「なんとなく」

 

 自分でもよく分からない。何も考えずに描けそうだったのが、それだった。

 花菜は俺の隣にしゃがみ込み、砂の上のタコを確かめる。

 

「……なんか、可愛い」

「褒めてる?」

「たぶん」

「たぶんかよ」

 

 花菜は何も言わず、近くに落ちていた貝殻を拾った。

 欠けた白い貝殻をペンみたいに持ち、俺のタコから少し離れたところに座る。

 

「……花菜も描くの?」

「ん」

 

 返事は短かった。

そのまま貝殻の先を砂につけ、線を引き始める。

 前髪が邪魔になるたび手で払い、また砂へ戻る。

一度引いた線を消しては描き直しているあたり、本人なりにかなり真剣らしい。

 

「……」

 

 波打ち際から離れているぶん、ここまで来る声はだいぶ小さい。

それでも、花菜が貝殻を動かすたび、砂の上には新しい線が一本ずつ増えていった。

 

「……できた!」

 

 しばらくして、花菜が砂だらけの手のまま身体を寄せてきた。

 

「見てっ」

「どれ」

 

 砂浜に描かれていたのは、牙みたいな歯を剥き出しにした謎の生物だった。

 

「……え、怖。なにこれ、サメ?」

「…………イルカだけど」

「イルカ?」

「イルカ」

 

 花菜は明らかに納得していなかった。

 

「いや待って、どこが?」

「ちゃんと丸いでしょ」

「目が怖いんだよ」

 

 改めて見る。

胴体はまだイルカっぽい。問題は、口いっぱいに並んだ三角形の歯だった。

 

「なんでそんな凶悪に描けるの」

「……凶悪じゃないし」

 

 花菜はしゃがんだまま、貝殻でイルカの輪郭をなぞり直した。

 

「……ハルくんのタコだって変」

「さっき可愛いって言ってたじゃん」

「イルカだって可愛いから」

「可愛いにも限度があるだろ」

「ちゃんと可愛いもん」

「どこが。これなんか口でかすぎるだろ」

「そこが可愛いの!」

 

 花菜はむっとして、貝殻の先でイルカの口元をなぞり直した。ところが、直す前よりさらに大きくなる。

 

「ほら、悪化した」

「……ハルくんが変なこと言うから」

「え、俺のせい?」

「…………うん」

 

 そんなくだらないやり取りをしていると、波がさっきより近いところまで届いた。

 次に来た水が、俺のタコの足先と、花菜のイルカの輪郭を削っていく。

 

「あっ……」

 

 花菜の手が止まった。

 もう一度波が来る。今度はイルカの口元がなくなった。

 

「……」

 

 花菜は貝殻を持ったまま、崩れていく絵を見ていた。

 

 ♢

 

花菜と一日中遊んでいるうちに、気づけば日が傾いていた。

浜辺にいた人も少しずつ減り、昼間あれだけ騒がしかった海水浴場も、だいぶ静かになっている。

俺は花菜の隣に座ったまま、海を眺めていた。

 

「……いっぱい遊んだな」

 

丸一日、何も考えずに遊んだのなんて、いつぶりだろう。

海で転んで、ラムネをぶちまけて、砂浜にはタコとよく分からないイルカまで残した。

花菜の羽織りはまだ少し湿っているし、俺の手にもラムネの甘ったるい匂いが残っていた。

 

「……楽しかった」

 

花菜が海を見たまま言った。

 

「俺も」

 

それだけで、今日一日のことが妙に近く感じた。

もう空は暗くなり始めている。

そろそろ戻らないと、宿に着く頃には完全に日が落ちそうだった。

 

「帰るか」

 

立ち上がって、砂を払う。

 

「……うん」

 

歩き出す直前、花菜はもう一度だけ海の方を振り返った。

俺も何も言わず、その場で待った。

 

 ♢

 

帰り道、花菜はずっと静かだった。

 昼間みたいにはしゃぐこともなく、俺の少し後ろを歩いている。

 海から離れるにつれて人の声は減り、通り沿いの街灯が一つずつ点き始めていた。

道路には、俺たちの影が長く伸びている。

 海の方を振り返ると、水平線にはまだ夕方の色が残っていた。

 今日が終わっていく。

 気づけば、この数日ずっと花菜の近くにいた。それを特別だと思わなくなっていた。

 

 後ろから聞こえる足音は、相変わらず小さい。

昼間みたいに俺の名前を呼ぶこともなく、ただ離れないようについてきている。

 歩く速度を落としてみた。後ろの足音が近づく。それでも、花菜は隣まで来なかった。

 何か言った方がいいのかと思ったけれど、結局何も浮かばない。

 

 そのまま歩く。

 

 靴がアスファルトを擦る音だけが、一定の間隔で聞こえていた。

 宿までは、もうそんなに遠くない。

 そう思ったとき、

 

 

 

「……帰りたくない」

 

 

 

 背中越しに、花菜の声が響いた。

 足が止まりそうになる。でも、すぐには振り返れなかった。

 家に帰りたくないのか。今日が終わってほしくないのか。どっちの意味なのか、聞く気にはなれなかった。

 この時間をずっと続けるなんて、俺には約束できない。

 それでも、少なくとも今は、花菜を一人にするつもりはなかった。

 

 ポケットからスマホを取り出す。

 画面には、ずっと開かずにいたメールが残っている。

 そのとき、少し先の踏切が鳴り始めた。

 

 

 カン、カン、カン、カン———

 

 

 赤い警報灯が交互に点滅し、遮断機がゆっくり下りていく。

 

 やがて電車が通り過ぎ、辺りに静けさが戻った。

 

 俺は画面に指を置いた。

 

 メールを開かず、そのまま削除する。

 

 

 

 

 

『花菜を連れ戻します』

 

 

 

 

 

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