「着いたぞ。花菜、晴君」
ワゴン車の扉が開くと、冷房の効いた車内へ一気に熱気が入り込んできた。
外へ降りた途端、目の前が黄色で埋まった。
一面の向日葵畑だった。
私の背丈なんて簡単に越える向日葵が、ずっと奥まで並んでいる。
風が通るたび、大きな葉っぱ同士が擦れて、ざわざわと音を立てていた。
足元からは、乾いた土と草の匂いがする。
見上げると、向日葵の向こうには青い空が広がっていた。
「っ……! お、お父さん、すごい!」
どこを見ても向日葵しかない。
こんなにたくさん咲いているところなんて、初めて見た。
「ははっ、凄いだろ? 晴君はどうだ?」
「す、すごいです……!」
隣を見ると、ハルくんも向日葵を見上げたまま動かなかった。
「ハルくん、すごいね!」
「うん。こんなの、初めて見た」
いつもより言葉が多い。なんだかそれが嬉しくて、私はもう一度向日葵の方を向いた。
今でも向日葵を見ると、この日のことを思い出す。
お父さんと、ハルくんと、三人で行った最初で最後の旅行。
「お父さん、ハルくんと遊んでいい?」
「おいおい。ここには自由研究で来たことを忘れたか?」
お父さんはそう言って、わざとらしくため息をついた。
「……まあ、今日くらいはお母さんに黙っといてやるか」
「やった……! ハルくん行こ!」
「あっ、ちょっ……!」
私はハルくんの手を引いて駆け出した。
向日葵の間を走るたび、大きな葉っぱが腕に当たる。
土を踏むたびに靴が汚れたけれど、そんなことはどうでもよかった。
「花菜、転ぶぞー!」
後ろからお父さんの声が聞こえた。
振り返ると、お父さんは腰に手を当てながら、私たちのあとを歩いている。
「大丈夫!」
「お前はそう言って、いつも転ぶだろ!」
「今日は転ばないもん!」
言い返して、また前を向く。
「ちょ、速いって……」
「ハルくん遅い!」
「お前が速いんだよ……!」
繋いだ手を離さないまま、向日葵の間を走った。
後ろにはお父さんがいて、隣にはハルくんがいた。
あの頃の私は、何も怖くなかった。
♢
向日葵畑は、たくさんの人で賑わっていた。
家族連れや友達同士、首からカメラを下げた人もいる。
あちこちで写真を撮ったり、名前を呼び合ったりしていた。
向日葵の黄色は、どうしてこんなに明るく見えるんだろう。どこを向いても、同じ色が目に入る。
「花菜。おじさんがここに連れてきた理由知ってる?」
向日葵の迷路を歩いていると、ハルくんが思い出したように聞いてきた。
「自由研究じゃないの? お父さん、なんか言ってた?」
「……ここ、おばさんと新婚旅行で来た所なんだって」
「えっ、そうなの?」
「うん。車の中でおじさんが言ってた」
「私、知らない……」
「寝てたじゃん」
「……なんで寝てる時に言うの」
「知らないよ」
ハルくんは一度だけ間を置いてから、続けた。
「あと、その時にはもう、お腹にお前いたんだって」
「……え」
思わず足を止めた。
「そ、そうなの……?」
「うん。そう言ってた」
お父さんとお母さんが歩いた場所。
二人がこの景色を見ていた時、私もここにいた。
「……そっか」
もう一度、辺りを見回す。
さっきまで綺麗だった向日葵畑が、急に自分にも繋がった気がした。
お父さんとお母さんにも、こんな時間があったんだ。
二人でここを歩いて、同じ向日葵を見ていた。その中に、まだ姿のない私もいた。
何年経っても、夢の中で何度も思い出す。私は、この景色をずっと忘れられなかった。
一番懐かしくて、戻れるなら戻りたいと思ってしまう夏。
隣では、ハルくんが暑そうに前髪をかき上げていた。私は向日葵の向こうを眺めながら、ふと思う。
いつかまた、みんなでここに来られたらいいなって。
♢
太陽は西へ傾き、向日葵畑の色も昼間とは変わり始めていた。
黄色だった花びらに、夕方の色が混じっていく。
私は少し離れた所でハルくんと遊んでいたけれど、お父さんに呼ばれて隣へ戻った。
お父さんは椅子に腰かけたまま、向日葵を眺めていた。
「花菜」
名前を呼ばれ、私は顔を向ける。
「お母さんのこと、これからは花菜が大事にするんだぞ」
「……なんで?」
意味が分からなくて聞き返す。
「お前、お母さんのこと苦手だろ」
「……っ」
何も言えなくなった。
気づかれていないと思っていた。
「そんな顔しなくていい」
お父さんの手が、私の頭に乗る。
「お母さんもな、お前のこと大切に思ってるから」
「……ほんと?」
「ほんとさ」
お父さんは迷わず頷いた。
「お母さんも、花菜のことが大好きなんだ。あいつ、不器用なところあるからな」
言われてみれば、思い当たることはあった。
怒られることは多かった。けど、それだけで嫌われていると決まったわけじゃない。
「だからな」
お父さんはそこで言葉を区切った。
「お母さんを信じなさい」
私はその言葉を、何度か頭の中で繰り返した。
「お前は、俺とお母さんのたった一つの宝物なんだから」
「……宝物?」
「そう。大事な、大事な宝物」
お父さんはそう言って、また私の頭を撫でた。嬉しくなって、お父さんの方へ身体を寄せる。
「何かあったら、晴君にも頼りなさい」
少し離れたところでは、ハルくんが向日葵の間を歩いていた。
「ハルくんに?」
「ああ。きっと助けてくれる」
「……うん!」
お父さんが言うのなら、きっとそうなんだ。
あの頃の私は、それを疑う理由なんて持っていなかった。
お母さんは私を大切に思っていて、何かあればハルくんが助けてくれる。
そして、お父さんはずっとそばにいる。
その全部を、当たり前のことだと思っていた。だから、この日のことをずっと忘れられなかった。
その翌年、お父さんは死んだ。
♢
「……ん……」
「起きたか」
「……ハルくん」
「随分うなされていたけど」
「だ……大丈夫」
目を開けると、ベランダの椅子に座っていたハルくんが、こちらへ身体を向けていた。
どうやら先に起きていたらしい。髪にはまだ寝癖が残っている。
お父さんとハルくんと、三人で向日葵畑を歩いた日の夢だった。
手を伸ばせば届きそうだったのに、目を覚ました瞬間、全部が遠くへ行ってしまった。
障子の向こうから、柔らかな光が差し込んでいる。
どうやら昼過ぎらしい。
海ではしゃいだ疲れが残っていたのか、思ったより長く眠っていた。
外からは、どこか遠くで遊ぶ子供たちの声が聞こえていた。
まだ、夢の中で見た向日葵の黄色が頭に残っている。
あと何日だろう。あと何回、こうして隣にいられるんだろう。
ハルくんはスマホをいじりながら、小さく欠伸をしていた。
「……そういえば、今日って」
ふと、ショッピングモールの吹き抜けにあった大きなポスターを思い出す。
夜空いっぱいに広がる花火。浴衣姿の人たち。
そして、大きく表示されていた開催日。
あの時は、ただ眺めていただけだった。けれど今になって、その文字が頭から離れない。
「……花火大会」
その言葉は、夏の終わりそのものみたいに聞こえた。
この旅にも、終わりがある。
朝になれば隣にいて、一緒にご飯を食べて、くだらないことで笑う。
そんな毎日も、あと少ししかない。
「……は、ハルくん」
あの時は、広告を眺めただけで終わった。
でも今なら、この旅が終わる前に、もう一つだけ、自分から言ってみたいと思った。
「ん?」
ハルくんがスマホから顔を上げる。
いざこっちを向かれると、肝心なところだけ急に言いづらくなった。
「えっと……今日、花火大会あるんだって」
「花火大会?」
「うん。一昨日、ショッピングモールで見たから」
「ああ、あれか。それ今日だったんだ」
「……そうみたい」
布団の端を何度も指でなぞる。
たった一言なのに、口に出す直前になると急に難しくなる。
「だから、その……」
一度だけ息を吸う。
「一緒に……行かない?」
♢
商店街の奥にある、小さな和服のレンタル店。
引き戸を開けると、外の暑さがすっと遠のいた。
壁には、色とりどりの浴衣が並んでいる。
藍色。薄桃色。白地に朝顔。淡い水色。
どれを見ても、普段着とはまるで違った。
「……どうかな」
試着室の暖簾をくぐりながら、私は袖口をそっと整えた。
選んだのは、深い青を基調にした浴衣だった。
生地の上には、大きな向日葵がいくつも描かれている。
黄色い花を見るたび、さっきまで夢の中にあった向日葵畑を思い出した。
「……お前」
椅子に座っていたハルくんの声が止まる。
「な、なに……?」
「昔行った、あそこみたいだな」
思わずハルくんの顔を見た。
「……お、覚えてるの?」
「当たり前だろ」
迷いのない返事だった。私だけが大事にしていた記憶じゃなかった。
「……そっか」
浴衣に描かれた向日葵へ指を添える。
ハルくんも、忘れていなかった。それが、とても嬉しかった。
「それじゃ、行くか」
「え……」
ハルくんが立ち上がり、そのまま店の外へ向かおうとする。
私は反射的にその手を掴んだ。
「花菜?」
「……ハルくんも」
私だけ浴衣なのは、なんだか嫌だった。せっかくなら、今日くらいは。
「ハルくんも、着て」
♢
「……これでいいか」
数分後、暖簾が開いた。
黒に近い濃紺の浴衣を着たハルくんが出てくる。
髪も表情も、いつもと何も変わらない。それなのに、普段よりずっと大人びて感じた。
何を言えばいいのか分からず、そのまま立ち尽くしてしまう。
「……ちょっと」
「え?」
「さっきから何も言わないけど」
「あ、えっと……すごく、似合う」
「……そうか?」
「う、うん……」
ハルくんは頭を掻いた。その仕草は、昔から何も変わっていない。
前なら、浴衣を着ただけでこんなに落ち着かなくなることなんてなかったのに。
「……何?」
「な、なんでもない」
店を出ても、さっきの姿が何度も浮かんだ。
♢
会場は人でごった返していた。
浴衣姿の人たちが行き交い、道の両側には屋台が並んでいる。
焼きそばやたこ焼きの匂いが流れてくるたび、ハルくんがそっちへ顔を向けていた。
「……なんか腹減ってきたな」
そう言いながら、屋台の列を眺める。
「とりあえず、飯食わないか?」
ぐぅぅぅー。
言い終わった直後、ずいぶん立派な音が鳴った。
「……ハルくん?」
「なんか食べないか?」
「今、お腹鳴ったよね?」
「鳴ってない」
「聞こえたけど」
「……花菜、なんか食べたいのある?」
「…………」
完全に誤魔化された。
追及するのはやめて、屋台の方へ意識を戻す。そして、先で揺れていた『氷』の旗が目に入った。
「……かき氷、食べたいかも」
「かき氷か。ありだな」
ハルくんはそのまま屋台の並ぶ方へ進んでいく。
人の間を抜けるたび距離が開きそうになって、私は何度か足を速めた。
かき氷の屋台に着く。
「何味?」
「えっと……」
赤、青、緑。シロップの名前がずらりと並んでいる。
「……じゃあ、いちご。ハルくんは?」
「ブルーハワイ」
「……どんな味なの、それ」
「え? ……ソーダとかじゃね」
「なんでそんな曖昧なの」
「知らん。青いからブルーハワイと思ってた」
「……絶対違うと思う」
結局よく分からないまま、赤いかき氷と青いかき氷を受け取った。
そのまま屋台の並ぶ通りを進みながら、スプーンを口へ運ぶ。
冷たさが、火照った身体に気持ちよかった。
「……頭痛ぇ」
隣から声がした。ハルくんが額を押さえている。
「食べるの早いからでしょ」
「……うるさい」
そんなことを言いながら自分も一口大きく食べた、その直後だった。
「っ……」
遅れて、頭の奥まで痛くなる。
「うぅ……」
「お前もかよ」
「うるさい」
ハルくんの口から変な声が漏れた。
「……もう。笑わないで」
「いや、さっき人のこと言ってたから」
「だって……」
頭の痛みが引くのを待ってから、残っていたかき氷をゆっくり食べる。
ハルくんも懲りたらしく、さっきまでの勢いはなくなっていた。
そのまま屋台の並ぶ通りを進んでいく。
いつの間にか人通りも増え、ハルくんの背中が人混みに紛れては現れる。
気を抜くと、そのまま見失ってしまいそうだった。
♢
「花菜、勝負しよう」
「……何?」
「これ」
ハルくんが指さしたのは、射的だった。
並んだ景品を眺める。
お菓子、キーホルダー、安っぽいおもちゃ。その奥に、猫のぬいぐるみもあった。
「……可愛い」
あれなら、ちょっと欲しいかも。
でも、ハルくんから勝負を持ちかけてきたんだから、景品だけじゃもったいない。
隣では、本人が何も知らずに小銭を探している。私は景品を選ぶふりをしながら、その横顔を盗み見た。
せっかくなら、ちょっとくらい意地悪してもいいかもしれない。
「うん……負けたら、ハルくん、私のお願いを一つ聞いて」
「いいよ。 …………ん?」
ハルくんの手が止まった。
「はっ⁉」
「絶対負けないから」
百円玉を渡し、コルク銃を受け取る。
狙うのは、棚の上にある猫のぬいぐるみ。
銃口を合わせ、引き金を引いた。
ぽんっ。
コルクは猫から大きく外れ、隣の景品の間へ飛んでいった。
「…………ふっ」
「ハルくん!」
「だってお前……あんな啖呵切っておいて」
「なっ⁉」
絶対当たると思ったのに……!
「貸して」
今度はハルくんがコルク銃を受け取った。
「あの猫だろ」
腰を落とし、銃口を真っ直ぐ景品へ向ける。
その佇まいは、まるで本物の狙撃手だった。
ぽんっ。
猫のぬいぐるみが揺れた——ように見えた。
実際に揺れていたのは、三つ隣のコアラだった。
「……っ、ふふ……!」
「おい」
「だって……っ」
さっきまでの構えとの落差がひどすぎる。
「……いや、風のせいでズレただけだから」
「そんなにズレないでしょ」
「ズレるんだよ」
「……ふふっ、もう無理……」
私も当てられなかったのに、あそこまで真剣に構えて外すのはずるい。
「……ほら、次花菜」
差し出された銃を受け取る。
まだ頬が痛かったけれど、今度こそ当てるつもりで猫のぬいぐるみに向き直った。
♢
「おいしい」
「……まじか」
結局、勝敗がつくまで何度も撃った。
私もハルくんも途中からムキになって、撃つたびに外し、外すたびに言い合った。
それでも最後には、袋の中に猫のぬいぐるみが収まっていた。
右手には、初めて食べるチョコバナナ。左手には、ハルくんが買ったりんご飴。
「……固くない?」
思ったより噛めないのか、ハルくんはりんご飴に苦戦していた。
むすっとした顔がおかしくて、また笑いそうになる。
屋台の向こうまで、提灯の明かりが連なっている。
すれ違う人たちの声や呼び込みが絶えず、どこにいても祭りの音が聞こえていた。
こんな景色を見るのも、たぶん初めてだった。
気づくと私は、隣ばかり気にしていた。
ハルくんは、さっき買った狐のお面を手にしたまま考え込んでいる。
絶対似合わないと思うのに、なぜか見てみたかった。
しばらくして、人の流れが一気に詰まった。
誰かが間に入り、ハルくんとの距離が開く。
はぐれそう。
手を伸ばし、ハルくんの浴衣の裾を摘まんだ。
引っ張るほど強くはない。気づかれたら、すぐに離せるくらいだった。
「……」
ハルくんは前を向いたまま、何も言わなかった。
気づいていないのかもしれない。
それなら安心するはずなのに、なぜか嬉しくなかった。
私はそのまま、浴衣の裾を離せなかった。
♢
しばらく歩いていると、人の流れが自然と海の方へ向かい始めた。
夜空はすっかり暗くなり、遠くの海も同じ色に沈んでいた。
花火会場の砂浜には、すでにたくさんの人が座っている。
「ここ空いてるぞ」
ハルくんが砂浜の一角を指した。
隣に腰を下ろすと、さらさらした砂が浴衣の裾に触れた。
目の前には夜の海が広がっている。
波が寄せては返し、昼間の暑さもほとんど残っていなかった。
「ほんと、ここまで来たんだな」
「……そう、だね」
思い返せば、本当に色々なことをした。
勉強も習い事も全部放り出して、知らない町まで来た。
「私、ハルくんに頼ってばっかりで……」
ここまで来られたのは、きっとハルくんが隣にいたからだ。
一人だったら、きっと途中で立ち止まっていた。
「まぁ、俺も花菜がいなかったらこんな旅してないだろうし。ウィンウィンじゃね?」
「……うぃんうぃん?」
「お互い様……みたいな?」
「……最初からそう言ってよ」
「いや、普通分かるだろ」
「分かんないし」
「マジか……」
ハルくんはそれ以上言うのを諦めたらしい。
会話が途切れると、花火を待つ人たちの声や、砂浜を走る足音が耳に入ってくる。
これだけ人がいるのに、意識はずっとハルくんに向いていた。
ふと、朝に見た夢を思い出す。
「……今日ね、お父さんの夢見たんだ」
「夢?」
「うん。あの向日葵畑」
「向日葵畑か」
ハルくんは一度だけ考えるような間を置いた。
「実は、俺も見た」
「えっ……そうだったの⁉」
「なんかさ、夢の中で普通にいたんだよ」
「……普通に?」
「普通に向日葵畑歩いてた。しかも俺、おじさんになんか怒られてたし」
「お父さんに?」
「たぶん」
「……なにしたの」
「知らねぇよ」
夢の中でもお父さんに怒られていると思うと、なんだか可笑しかった。
「……お父さんね、ハルくんのこと言ってたんだ」
「何を?」
「何かあったら、ハルくんを頼りなさいって」
「……おじさん、そんなこと言ってたのか」
「その通りになっちゃった」
「別にいいだろ」
「でも……」
「俺がしたくてやってるだけだから」
「……」
膝の上の猫のぬいぐるみを撫でながら、座る位置をずらした。
浴衣の袖が、ハルくんの腕に触れそうになる。
「……あのさ。この旅が終わっても、俺たちこのままでいられるかな」
全てが済んだあとも、今みたいに隣にいられるのか。それは、どうしても想像できなかった。
「……分かん、ない」
「お金使いすぎて、帰れるか分かんないし」
「え……」
「冗談だよ」
「……」
冗談で、終わってほしくなかった。
帰れなくなればいいなんて、本気で思っているわけじゃない。
ただ、このまま帰る日が来なければいいのにと思ってしまう。
この数日、朝起きればハルくんがいて、夜までずっと一緒だった。
そんな毎日が、いつの間にか普通になっている。
でも、帰ればそれはなくなる。
お母さんのいる家に戻って、ハルくんとも今みたいには会えなくなる。
そこまで考えたところで、周りの音が遠くなった。
嫌だ。帰りたくない。
それ以上に、ハルくんと離れたくない。
『まもなく、花火大会を開始いたします』
会場にアナウンスが流れた。
砂浜のあちこちから声が上がり、座っていた人たちが空の方を向く。
ここで言ったら、今までみたいにはいられなくなるかもしれない。
膝の上で指を絡め、何度も組み直す。
「……ハルくん」
「ん?」
「私、お母さんのところに戻りたくない」
ハルくんがこちらへ身体を向けた。
「ずっと考えてたの」
「……何を?」
「どうしたら、この時間が終わらないのかなって」
言ってしまった途端、自分の声だけがやけに近く聞こえた。
「私ね、明日になってほしくない。この旅が終わってほしくない。ハルくんと、離れたくない」
そこで一度、唇を閉じる。
「だから——」
ドォォォン——ッ!
腹の底まで響く音。
夜空いっぱいに花火が開き、赤や青の光が海まで広がった。
砂浜から歓声が上がる。周りの人たちが一斉に空を見上げる。
けれど私は、ハルくんだけを見ていた。
「私を——ハルくんのお嫁さんにして」
花火の音に負けないように、私は言い切った。
ハルくんは動かなかった。
数秒遅れて、ようやく瞬きをする。
「…………は?」
間の抜けた声だった。
返事というより、言葉の意味を確かめるような声。
ドォン——ッ!
次の花火が開き、赤い光がハルくんの顔を一瞬だけ照らす。
まだ状況を飲み込めていないらしく、しばらく固まったままだった。
「……ハルくん?」
「ぇ…………え、は、はっ⁉」
そこでようやく我に返ったらしい。
何か言おうとしているのに、口だけが空回りしていた。
「ちょ、おまっ……今、何つった⁉」
「……お嫁さんにしてって」
「え——いや……」
また花火が上がる。
一瞬だけ明るくなったハルくんの顔が、すぐに暗闇へ戻った。
「だって私、ハルくんのこと好きだから」
ハルくんの肩がぴくりと動いた。
「……好きって。お前、そんなこと一度も……」
「言ったことなかったから」
前髪を耳にかける。顔を上げるまでに時間がかかった。
ハルくんの表情は、まだ読めない。
「……それで、お嫁さんにしてくれる?」
「いや、お嫁さんって……俺ら、まだ十八にもなってないだろ」
「じゃあ、今は無理ってこと?」
「いや、まあ……そうだけど」
「……十八になったら、いいの?」
「えっ、いや、そういう意味じゃ——」
もう何を言えばいいのか分からなかった。
ただ、離れたくない。
そのままハルくんへ身を寄せ、胸元に顔を埋める。
「うわっ⁉」
驚いたのか、ハルくんの身体が固くなる。
私は、胸元から顔を上げられなかった。
「大好き……!」
涙が止まらなかった。
「ハルくんのこと、大好き……っ!」
一度口にしたら、もう抑えが利かなかった。
ハルくんの浴衣に顔を押しつける。
すぐそばにいるのに、いつか離れなきゃいけないことばかりが頭に浮かんだ。
「ずっと……」
声がうまく続かない。
言い直そうとして、ようやくその先を繋ぐ。
「ずっと……一緒に、いたい……!」
浴衣を掴んだまま、さらに身体を寄せた。
ただ、触れているところからハルくんの温かさだけが伝わってくる。
次の花火が上がり、遅れて大きな音が砂浜を揺らした。
離れたところでは拍手が起こり、祭りは何事もなかったように続いている。
私は顔を上げられないまま、ハルくんの浴衣を掴み続けていた。
♢
しばらくの間、私はハルくんから離れられなかった。
頬に残った涙を、夜風がひんやりと冷ましていく。
「……落ち着いた?」
「……うん」
答えたものの、身体はそのままだった。
「……あの、花菜。そろそろ離れてもらえると」
「……やだ」
「子供か」
「子供だもん」
いつもと変わらない返しに、張っていた力が抜けた。
そのまま顔を伏せていると、さっき自分が言ったことまで思い出してしまう。
「……花菜。さっきの話なんだけど」
「っ……」
「お嫁さんにしてってやつ」
今さらになって恥ずかしくなる。
あれだけ勢いよく言ったくせに、もうハルくんの顔をまともに見れる気がしなかった。
「お前、本気なんだよな」
「……本気だよ」
おそるおそる顔を上げる。ハルくんは私を見ていた。
夜の暗さでも分かるくらい、落ち着かない様子だった。
普段なら平気でからかってくるくせに、今は何か言おうとしてはやめるみたいに、唇を一度結び直している。
「俺も、その……花菜のこと好きだよ」
「……え?」
ハルくんはそう言い、私から目を逸らさなかった。
頬にはうっすら汗が滲んでいる。
私と目が合うと、ハルくんは耐えきれなくなったように顔を横へ向けた。
「ほんと……?」
ハルくんは答える代わりに、ゆっくりと頷いた。
思わず口元を手で隠す。それでも、にやけてしまうのはどうにもならなかった。
もっと言いたい。ハルくんに、もっと伝えたい。
「……わ、私の方が、ハルくんのこと好き」
「俺だって、ずっとお前のこと好きだったし」
胸の奥から何かが一気にこみ上げた。
「……えへへ」
顔が勝手に緩んでしまう。
ハルくんは何も言わず、私の頭に手を乗せた。
髪の上を優しく撫でられる。嬉しくて、また泣きそうになった。
「じゃあ、十八になったら結婚できるね」
「待て。なんでそこに戻るんだよ」
「え……だって、そうでしょ?」
「いや、好きって言ったけど、結婚まで一気に行くとは言ってない」
「……あと一年くらいだし」
「一年くらいって……」
「それまで、バイトすればいいじゃん」
「……は?」
「お金いっぱい貯めて、十八になったら——」
「待て待て」
ハルくんが手のひらをこちらへ向けた。そこでようやく身体を離す。
「……何?」
「何じゃない。なんでもうそこまで話進んでんだよ」
「先に考えた方がいいでしょ。一緒に住むところとか」
「もう住む前提なの?」
「……住まないの?」
「いや……まあ、嫌じゃないけど」
「住むなら私、猫飼いたい」
「猫?」
「うん。黒猫がいい」
「なんで黒?」
「……可愛いから」
膝の上に置いていたぬいぐるみを抱える。
「一緒に住むなら飼いたい」
「まあ、住む場所次第だな」
「アパートがいいかな?」
「最初はそうだな」
「二階がいい。景色良さそうだから」
「二階じゃそんな変わらんだろ」
私はそのまま続きを考える。
「あと、ベランダ欲しい。広いのが良いな」
「ベランダ? 何するの」
「向日葵、育てたい」
「……向日葵か」
「うん、いっぱい育てる。ベランダにたくさん植えたい」
「洗濯物、どこに干すんだよ」
「向日葵の間に干せばいいよ」
「無茶言うな」
「え…………じゃあ、洗濯物は中」
「なんでだよ」
そこを突かれると、何も返せない。
「でも、絶対育てたい」
ハルくんは返事を迷うように、足元の砂を靴先で崩した。
「……分かったよ。その代わり、絶対枯らすなよ」
「……ハルくんも、一緒に育ててくれる?」
「俺も?」
「うん。せっかくなら、二人で育てたい」
「……まあ、それなら」
ハルくんと暮らす場所に、私たちで育てた向日葵が並ぶ。
そんな景色を思い浮かべるだけで、気持ちが弾む。
「……なんか、毎日大変そう」
帰ったあとのことばかり考えていた時は、その先なんて想像したこともなかった。
今は、ハルくんと暮らす日まで自然と浮かんでくる。
そんな話をしているだけで、知らなかった景色が次々に広がっていった。
「……花菜と一緒なら、退屈はしなさそうだな」
「じゃあ、約束して」
「約束?」
「十八になっても、二十になっても……おばあちゃんになっても、ずっと一緒」
「……ずっとか」
「私のそばにいて」
言葉にしたあと、膝の上で手を組み直す。
数秒して、ハルくんの小指が目の前に差し出された。
「……ほら」
「え?」
「約束するんだろ」
慌てて、自分の小指を絡めた。
触れたところから、じんわりと温かさが伝わってくる。
離すのが惜しくて、絡めた小指をしばらくそのままにした。
「約束、だからね」
もう一度ハルくんへ近づく。
今度は勢いのまま飛び込むんじゃなくて、ゆっくり腕を回した。
「……花菜?」
「もうちょっとだけ」
胸元へ顔を押しつけ、そのまま何度かぐりぐりと擦りつける。
しばらくすると、髪の上をゆっくり撫でられた。
「……お前、昔から変わんねぇな」
「……そう?」
「ああ。頑固だし」
「え?」
「すぐ突っ走るし」
「それ、悪口じゃない?」
「でも……」
ハルくんの手が止まった。
「そういうところも含めて、ずっと好きだった」
昔からずっと、ハルくんの中にも私がいた。そう思うだけで、また顔が熱くなる。
「……もう一回」
「え? やだよ」
「……ケチ」
「一回言えば十分だろ」
「全然足りない」
「どんだけ聞く気だよ」
「じゃあ、これからもっと聞かせて」
「勘弁してくれ……」
私はハルくんの身体に腕を回したまま、これから先のことを考えた。
朝になったら、同じキッチンで朝ご飯を作る。夜は大きなテレビの前に並んで、映画を見る。
たまに喧嘩をしたり、買い物で迷ったりしても、最後に帰る場所は同じ家。
そんな毎日が、本当にどこかで待っているような気がした。
今日が終わっても、明日が来ても、ずっとハルくんの隣にいたい。
花火はもう終わっていた。
今日、いちばん覚えていたいのは、あの夜空じゃない。
私の名前を呼んでくれた、ハルくんだった。
♢
屋台もポツポツと閉まり始め、参道には帰り道へ向かう人が溢れていた。
人の流れは、途切れる気配がない。
「迷子になるなよ」
「……子供じゃないもん」
「いや、お前さっき、子供だって……」
「あ」
言われて思い出し、何も返せなくなった。そのまま黙っていると、隣でハルくんが足を止めた。
「……ほら。離れたら面倒だろ」
差し出されたのは、さっきまで私の髪を撫でていた手だった。
手を伸ばしかけて、一度だけ引っ込めた。浴衣の袖を握り直してから、今度こそ、そっと手を重ねる。
指先が触れた途端、ハルくんの手が私の手を包んだ。
思っていたより強く握られて、もう人混みに紛れる心配はなさそうだ。
そのまま人の流れに合わせて歩いていく。
歩くたびに手が揺れる。そのたびに、ハルくんの指がきゅっと絡んだ。
「……ねぇ」
「ん?」
「私、十八になったらまた聞くからね」
「何を?」
「…………分かってるくせに」
「んぐっ……お前なぁ」
「今度は、ハルくんから言ってね」
返事はなかったけど、繋いだ手は離れなかった。
それが、どうしようもなく幸せだった。
♢
宿へ戻る頃には、すっかり夜も更けていた。
疲れているはずなのに、なかなか眠る気になれない。
「じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
ハルくんが電気を消した。暗くなった部屋で布団に潜る。
目を閉じると、花火の音や、繋いだ手の感触が次々に戻ってきた。
思い出すたび、布団の中でひとり頬が緩む。
明日は、どこに行こう。
まだ何も決まっていないのに、ハルくんと一緒ならそれを考える時間まで楽しかった。
結婚の話も、もう一度してみようかな。嫌がられても今度は冗談にせず、ちゃんと聞いてみたい。
そんな日々を思い浮かべながら、私は目を閉じた。
——翌朝。
ハルくんは、いなくなっていた。