「ん……」
目を覚まして最初に浮かんだのは、昨日の夜のことだった。
『俺も、その……花菜のこと好きだよ』
布団の中で顔が熱くなる。
夢じゃない。本当にハルくんが言ってくれた。
十八になったら、今度はハルくんから言ってもらう約束までした。
「……ハルくん?」
隣を見ると、ハルくんの布団は空になっていた。
「あれ……」
寝ぼけたまま身体を起こす。
カーテンの向こうは、もうすっかり明るくなっている。部屋を見回すと、机の上に一枚の紙が置かれていた。
『少し出てくる』
名前は書いていなかった。それでも、すぐにハルくんの字だと分かった。
「コンビニかな……」
『少し』と書いてあるくらいだし、遠くへ行ったわけではなさそうだ。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
「……ひどい顔」
昨日あれだけ泣いたせいで、目元が腫れている。
こんなのを見られたら、絶対何か言われる。
髪を整えながら、帰ってきたハルくんがどんな顔をするのか想像した。
部屋へ戻ってテレビをつける。画面の天気予報には、今日も一日晴れのマークが並んでいた。
「晴れかぁ……」
今日も、またどこかへ出かけたい。
あの向日葵畑にも行って、七年前の景色を今度はハルくんと二人で歩いてみたい。
それからもっと遠くへ行って、知らない場所をたくさん一緒に見てみたい。
ハルくんが帰ってきたら聞いてみよう。
そんなことを考えながら待っているうちに、時計の針が一時間進んだ。
ハルくんは帰ってこない。
「……遅いな」
まだ、それほど気にはならなかった。
コンビニが遠いのかもしれないし、朝ご飯を買いに行ったついでに、どこかへ寄っているのかもしれない。
ベッドに座り、テレビを眺める。
画面の中では知らない芸能人が楽しそうに話していた。何となく見ているうちに、また時計へ目が向く。
二時間。
さすがに長い。テレビの音量を一つ下げる。
テーブルには昨日使った湯呑みが残り、椅子の背には脱いだままの羽織が掛かっていた。
「何してるんだろ……」
こんな時、連絡するものがないのは不便だった。
どこにいるのか聞くこともできず、帰ってくるのを待つしかない。
立ち上がって窓を開ける。
外を覗いても、行き交う人の中にハルくんの姿はなかった。
窓を閉め、部屋へ戻る途中で足が止まる。
「……あれ?」
部屋の隅を見ると、昨日までハルくんがリュックを置いていた場所だけが空いていた。
ベッドの横にも、机の下にもない。
「ハルくん……?」
置き手紙をもう一度読み、テレビを消した。
三時間。
「……おかしい」
紙を握る手に力が入った。
ただ遅いだけなら待っていられた。でも、リュックまで持って出た理由は分からない。
昨日あんなに近くにいたハルくんが、今はどこにいるのかさえ分からなかった。
「探しに行かなきゃ……!」
もう待っていられない。鞄を掴んで立ち上がる。
まずは宿の人に聞こう。ハルくんが出ていくところを見ていたかもしれない。
その瞬間だった。
——コンコン。
「っ……!」
ノックの音がした。
「ハルくん!」
ほっとして、思わず口元が緩んだ。
帰ってきた。それだけで、さっきまでの不安が嘘みたいに消えた。
急いでドアへ駆け寄り、そのまま開ける。
「もう、どこ行って——」
「ようやく、見つけました」
続けようとした言葉が消えた。
その人は、髪も服も綺麗に整っていた。何日も私を探していた様には見えない。
「ぁ……」
ドアを開けたまま、そこから動けない。
「お母……さん」
足が勝手に後ろへ下がる。
お母さんは静かに微笑んだ。その笑顔だけは、昔から何も変わっていなかった。
「どう、して……」
「ずいぶん探しましたよ、花菜」
手の中で、置き手紙がくしゃりと音を立てた。
♢
「なっ……なんで……!」
どうしてここにいるのかも、どうして見つかったのかも分からなかった。
お母さんは答えず、いつもと変わらない顔で私を見ている。
「すべて、前田君から聞きました」
逃げようとしていた足が止まった。
「え……なに、それ……」
お母さんの口から出てきたその名前が、どうしてもハルくんと結びつかなかった。
どうして二人が話しているのか、まるで分からない。
「……ハルくん、が?」
「ええ。あなたが家を出た日から、前田君とは連絡を取っていました」
頭の中が一気にぐちゃぐちゃになった。
家を出たあの日には、もうお母さんと連絡を取っていたの……?
「……嘘……」
「嘘ではありません」
お母さんは鞄からスマートフォンを取り出し、画面をこちらへ向けた。
『花菜は無事です』
『今、花菜と宿に着きました』
その下にも、ハルくんから送られたメッセージが並んでいる。
表示された日付も時刻も覚えていた。どれも、私がすぐ隣にいた時間だった。
同じ景色を見て、笑っていた間にも、ハルくんはお母さんへ私のことを伝えていた。
「な、なんで……」
画面から目を離しても、読んだ文字が頭から消えてくれない。
昨日の夜、約束をした。
今までのハルくんと、メッセージを送ったハルくんが、同じ人だと思えなかった。
「……は、ハルくんは?」
お母さんがスマートフォンを下ろした。
「もうこちらにはいません」
言葉が耳を通り過ぎていく。
「……どういう、こと?」
「帰っている途中でしょう」
「……帰ったの? 一人で……?」
「そうです」
膝が頼りなくなり、すぐそばの壁へ手をついた。
ついさっきまで帰ってくると信じて待っていたのに、ハルくんはもう私を置いてここを離れていた。
「……なんで」
握っていた紙が、手の中で歪んでいく。
「なんで、私には何も言ってくれなかったの……!」
何度考えても、別れの言葉なんて一つも思い出せない。朝になればまた会えると、それしか考えていなかった。
「前田君とは話をしました。私は、あなたにずっと無理をさせていたようですね」
お母さんの口は動いているのに、何を話しているのかほとんど分からなかった。
さっき聞かされたことだけが、頭の中をぐるぐる巡っている。
それでも次の言葉だけは、はっきり聞こえた。
「——ですが、前田君のことは、もう忘れなさい」
「……なに……?」
「前田君から聞いています。もう、あなたとは会わないと」
紙が、床に落ちた。
昨日まで当たり前のように話していたこれからが、その一言で全部ひっくり返った。
そんなこと、ハルくんの口からは一度も聞いていない。
「うそ……そんなの……ハルくん、私に言ってない……」
「あなたのためを思ってのことでしょう」
「違う!」
思った以上に大きな声が出た。お母さんの眉がわずかに動く。
「違う……そんなの」
昨日の夜が頭から離れない。
「約束したの」
「……花菜」
「ずっと一緒にいるって……約束したのに」
喉の奥が焼けるように痛んだ。
「なのに、なんで……」
どんな答えでも、ハルくんの口から聞きたかった。
「……帰りましょう。今後のことは、家で話します」
好きだと言ってくれたことも、優しくしてくれたことも、昨日交わした約束も、もう何を信じればいいのか分からなくなった。
楽しかったはずの時間を思い返すたび、その裏でお母さんと連絡を取っていたハルくんが浮かんでくる。
「花菜……」
「…………はい」
気づけば、そう答えていた。涙は止まらなかった。
ハルくんのことを思い出すたび、お母さんのスマートフォンに並んでいた文字まで一緒に浮かんでくる。
あんなに好きだった人のことを、今はどうしても許せなかった。