裏切りの逃避行   作:怪盗エンペラー

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第八章 八月十八日 花園花菜 最低な人

「ん……」

 

 目を覚まして最初に浮かんだのは、昨日の夜のことだった。

 

『俺も、その……花菜のこと好きだよ』

 

 布団の中で顔が熱くなる。

 夢じゃない。本当にハルくんが言ってくれた。

 十八になったら、今度はハルくんから言ってもらう約束までした。

 

「……ハルくん?」

 

 隣を見ると、ハルくんの布団は空になっていた。

 

「あれ……」

 

 寝ぼけたまま身体を起こす。

 カーテンの向こうは、もうすっかり明るくなっている。部屋を見回すと、机の上に一枚の紙が置かれていた。

 

『少し出てくる』

 

 名前は書いていなかった。それでも、すぐにハルくんの字だと分かった。

 

「コンビニかな……」

 

『少し』と書いてあるくらいだし、遠くへ行ったわけではなさそうだ。

 洗面所で顔を洗い、鏡を見る。

 

「……ひどい顔」

 

 昨日あれだけ泣いたせいで、目元が腫れている。

 こんなのを見られたら、絶対何か言われる。

 髪を整えながら、帰ってきたハルくんがどんな顔をするのか想像した。

 部屋へ戻ってテレビをつける。画面の天気予報には、今日も一日晴れのマークが並んでいた。

 

「晴れかぁ……」

 

 今日も、またどこかへ出かけたい。

 あの向日葵畑にも行って、七年前の景色を今度はハルくんと二人で歩いてみたい。

 それからもっと遠くへ行って、知らない場所をたくさん一緒に見てみたい。

 ハルくんが帰ってきたら聞いてみよう。

 

 そんなことを考えながら待っているうちに、時計の針が一時間進んだ。

 

 ハルくんは帰ってこない。

 

「……遅いな」

 

 まだ、それほど気にはならなかった。

 コンビニが遠いのかもしれないし、朝ご飯を買いに行ったついでに、どこかへ寄っているのかもしれない。

 ベッドに座り、テレビを眺める。

 画面の中では知らない芸能人が楽しそうに話していた。何となく見ているうちに、また時計へ目が向く。

 

 二時間。

 

 さすがに長い。テレビの音量を一つ下げる。

 テーブルには昨日使った湯呑みが残り、椅子の背には脱いだままの羽織が掛かっていた。

 

「何してるんだろ……」

 

 こんな時、連絡するものがないのは不便だった。

 どこにいるのか聞くこともできず、帰ってくるのを待つしかない。

 立ち上がって窓を開ける。

 外を覗いても、行き交う人の中にハルくんの姿はなかった。

 窓を閉め、部屋へ戻る途中で足が止まる。

 

「……あれ?」

 

 部屋の隅を見ると、昨日までハルくんがリュックを置いていた場所だけが空いていた。

 ベッドの横にも、机の下にもない。

 

「ハルくん……?」

 

 置き手紙をもう一度読み、テレビを消した。

 

 三時間。

 

「……おかしい」

 

 紙を握る手に力が入った。

 ただ遅いだけなら待っていられた。でも、リュックまで持って出た理由は分からない。

 昨日あんなに近くにいたハルくんが、今はどこにいるのかさえ分からなかった。

 

「探しに行かなきゃ……!」

 

 もう待っていられない。鞄を掴んで立ち上がる。

 まずは宿の人に聞こう。ハルくんが出ていくところを見ていたかもしれない。

 その瞬間だった。

 

 

 ——コンコン。

 

 

「っ……!」

 

 ノックの音がした。

 

「ハルくん!」

 

 ほっとして、思わず口元が緩んだ。

 帰ってきた。それだけで、さっきまでの不安が嘘みたいに消えた。

 急いでドアへ駆け寄り、そのまま開ける。

 

「もう、どこ行って——」

 

 

「ようやく、見つけました」

 

 

 続けようとした言葉が消えた。

 その人は、髪も服も綺麗に整っていた。何日も私を探していた様には見えない。

 

「ぁ……」

 

 ドアを開けたまま、そこから動けない。

 

「お母……さん」

 

 足が勝手に後ろへ下がる。

 お母さんは静かに微笑んだ。その笑顔だけは、昔から何も変わっていなかった。

 

「どう、して……」

「ずいぶん探しましたよ、花菜」

 

 手の中で、置き手紙がくしゃりと音を立てた。

 

 ♢

 

「なっ……なんで……!」

 

 どうしてここにいるのかも、どうして見つかったのかも分からなかった。

 お母さんは答えず、いつもと変わらない顔で私を見ている。

 

「すべて、前田君から聞きました」

 

 逃げようとしていた足が止まった。

 

「え……なに、それ……」

 

 お母さんの口から出てきたその名前が、どうしてもハルくんと結びつかなかった。

 どうして二人が話しているのか、まるで分からない。

 

「……ハルくん、が?」

「ええ。あなたが家を出た日から、前田君とは連絡を取っていました」

 

 頭の中が一気にぐちゃぐちゃになった。

 家を出たあの日には、もうお母さんと連絡を取っていたの……?

 

「……嘘……」

「嘘ではありません」

 

 お母さんは鞄からスマートフォンを取り出し、画面をこちらへ向けた。

 

『花菜は無事です』

『今、花菜と宿に着きました』

 

 その下にも、ハルくんから送られたメッセージが並んでいる。

 表示された日付も時刻も覚えていた。どれも、私がすぐ隣にいた時間だった。

 同じ景色を見て、笑っていた間にも、ハルくんはお母さんへ私のことを伝えていた。

 

「な、なんで……」

 

 画面から目を離しても、読んだ文字が頭から消えてくれない。

 昨日の夜、約束をした。

 今までのハルくんと、メッセージを送ったハルくんが、同じ人だと思えなかった。

 

「……は、ハルくんは?」

 

 お母さんがスマートフォンを下ろした。

 

「もうこちらにはいません」

 

 言葉が耳を通り過ぎていく。

 

「……どういう、こと?」

「帰っている途中でしょう」

「……帰ったの? 一人で……?」

「そうです」

 

 膝が頼りなくなり、すぐそばの壁へ手をついた。

 ついさっきまで帰ってくると信じて待っていたのに、ハルくんはもう私を置いてここを離れていた。

 

「……なんで」

 

 握っていた紙が、手の中で歪んでいく。

 

「なんで、私には何も言ってくれなかったの……!」

 

 何度考えても、別れの言葉なんて一つも思い出せない。朝になればまた会えると、それしか考えていなかった。

 

「前田君とは話をしました。私は、あなたにずっと無理をさせていたようですね」

 

 お母さんの口は動いているのに、何を話しているのかほとんど分からなかった。

 さっき聞かされたことだけが、頭の中をぐるぐる巡っている。

 それでも次の言葉だけは、はっきり聞こえた。

 

「——ですが、前田君のことは、もう忘れなさい」

「……なに……?」

「前田君から聞いています。もう、あなたとは会わないと」

 

 紙が、床に落ちた。

 昨日まで当たり前のように話していたこれからが、その一言で全部ひっくり返った。

 そんなこと、ハルくんの口からは一度も聞いていない。

 

「うそ……そんなの……ハルくん、私に言ってない……」

「あなたのためを思ってのことでしょう」

「違う!」

 

 思った以上に大きな声が出た。お母さんの眉がわずかに動く。

 

「違う……そんなの」

 

 昨日の夜が頭から離れない。

 

「約束したの」

「……花菜」

「ずっと一緒にいるって……約束したのに」

 

 喉の奥が焼けるように痛んだ。

 

「なのに、なんで……」

 

 どんな答えでも、ハルくんの口から聞きたかった。

 

「……帰りましょう。今後のことは、家で話します」

 

 好きだと言ってくれたことも、優しくしてくれたことも、昨日交わした約束も、もう何を信じればいいのか分からなくなった。

 楽しかったはずの時間を思い返すたび、その裏でお母さんと連絡を取っていたハルくんが浮かんでくる。

 

「花菜……」

「…………はい」

 

 気づけば、そう答えていた。涙は止まらなかった。

 ハルくんのことを思い出すたび、お母さんのスマートフォンに並んでいた文字まで一緒に浮かんでくる。

 

 

 あんなに好きだった人のことを、今はどうしても許せなかった。

 

 

 

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