長編版
『ウマ娘 プリティーダービー』非公式二次創作


勝ち続けることと、勝てなくても走り続けること。
そのどちらにも、一人では辿り着けない場所がある。

新人トレーナー・天沖アヤトが出会ったのは、圧倒的な才能と大きな理想を抱くウマ娘、シンボリルドルフだった。

「自分の道を作れ」

その言葉から始まった二人は、無敗の三冠、初めての敗北、そして七冠の頂へと歩んでいく。誰より強くあろうとする彼女が、彼の前でだけ見せる迷いと素顔。信頼はやがて恋へ変わり、競走の先にも続く未来を育んでいく。

そしてアヤトは、もう一人のウマ娘と出会う。

「いつか一回、勝ってみたいんだ!」

ハルウララ。走ることが大好きで、何度挑んでも一着に届かない少女。
笑顔に集まる声援の陰で、彼女の願いは少しずつ置き去りにされていく。

「負けてもいいなんて、わたし言ってないよ」

七冠を手にした皇帝と、百十三戦を走っても勝てなかったウマ娘。
その二つの背中を見つめながら、ルドルフとアヤトの娘・トウカイテイオーもまた、自分の夢を育てていた。

――Eclipse first, the rest nowhere.

勝利も、悔しさも、誰かを愛した時間も連れて。
これは、それぞれにしか走れない道を探す、二人のウマ娘と一人のトレーナーの物語。


※本作は、既存短編版を再構成した独自設定の物語です。競走の主要な結果には実在競走馬の記録を用いていますが、人物の年齢、年代の並び、生徒会制度、婚姻、家族関係、競走中の判断や会話は創作です。トウカイテイオーはシンボリルドルフと天沖アヤトの娘として描かれます。恋愛・婚姻を描くルドルフは成人した専攻課程の学生です。史実との対応については巻末に記しています。

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第1話

第一部 シンボリルドルフ編

 

第一章 まだ誰のものでもない道

 

 朝のコースには、散水の跡がまだ残っていた。

 芝の先についた水滴が、ウマ娘たちの足音に震えて落ちる。観測用の時計を握った天沖アヤトは、第三コーナーの外側に立っていた。採用からひと月が過ぎても、彼の机に担当契約の書類はなかった。見学した候補の名前だけが手帳を埋めていた。

 来る日も来る日も同じ場所にいるので、用具係には顔を覚えられた。今日も早いね、と挨拶される。そのあとに続く言葉を、用具係はいつからか呑み込むようになっていた。

 まだ、決まらないのか。

 アヤトは手帳を閉じた。焦っているつもりはなかった。しかし、焦っていないと確かめる回数が増えていることには気づいていた。

 そこで、ひとつの足音が耳に残った。

 集団の三番手。栗色の長い髪に、白いひと房が揺れている。背筋が自然に伸び、肩には無駄な力がなかった。前の二人が並ぶと、彼女はその間隔を一瞥し、わずかに速度を落として外へ回った。判断が早い。早すぎるほどだった。

 まだ争う必要のない練習で、衝突を避けるのは正しい。けれど、外へ出たあとの二歩にも同じ慎重さが残った。身体が行けると告げた瞬間を、頭の中の誰かが引き止めている。

 走り終えた彼女が、タオルを受け取りながらこちらを見た。

「先ほどから何か言いたそうだな」

 アヤトは、自分が声を出していたかと思った。

「顔に出てたか」

「時計を止めたあとで眉を寄せた。タイムに不満があるのなら、聞いてみたい」

「流してるとはいえ、余力が余っている。悪い意味で」

 周囲にいたウマ娘が、飲みかけの水を下ろした。

「技術的な感想か。それとも、感情的な感想か?」

「両方だな」

 彼女は逃げ道を用意するつもりがないらしい。アヤトも言い方を選び直すことをやめた。

「これからが楽しみでもあるし、扱いを間違えればゴミにもなる才能だと思った」

 沈黙の中で、スプリンクラーの音だけが聞こえた。

 口にしてから、アヤトは自分の苛立ちが混じったと気づいた。担当の決まらない男が、他人の才能に値札をつけている。その醜さまで含めて、彼女は見抜いたようだった。

「私の才能が、君の満足のためにあると?」

「違う。今の言い方は悪かった」

 彼は頭を下げた。周囲がまた驚いた気配がした。

「使われない力が惜しいと言いたかった。あんた自身の価値を言ったつもりじゃない。でも、そう聞こえる言葉を使った。すまない」

 彼女の耳が、ほんの少し前へ向いた。

「では、具体的には」

「外へ出てから二歩、加速を保留していた。ぶつからない場所まで出たのに、まだ許可を待っていたように見えた」

「自分の判断を確認していただけだ」

「その確認を、加速しながらできないか」

 彼女はコースへ目を戻した。さっき通った場所を、もう一度頭の中で走っているのだろう。

「最初から全力で走れという意味ではないんだな」

「全部を出せばいいって話なら時計だけで済む。一瞬だけ、行くと決めた自分を疑わない。その一歩が見たい」

 彼女は黙ってタオルを肩に掛けた。

「シンボリルドルフだ」

「天沖アヤト。新人トレーナー」

「その札を見れば分かる」

「そうだな」

「次に見るときも、同じ場所にいるといい。トレーナー君」

 言い残して歩いていく背中には、怒りよりも何か試したくてたまらない気配があった。

 

 三日後、ルドルフは同じコースを走った。

 前の走者が外へ膨らんだ瞬間、彼女の目が空間を捉えた。肩が入り、足音が一拍だけ鋭くなった。加速してから姿勢を整える。身体は乱れない。むしろ、それまでの慎重さが嘘のように滑らかだった。

 アヤトは時計を止め損ねた。

 数値を取り忘れたことが恥ずかしくなるほど、見事な二歩だった。

「どうだ?」

 息を整えたルドルフが、彼の手元を覗いた。

「時計が動いているぞ」

「知ってる」

「技術的な感想は?」

「もう一度見たい」

「感情的な感想は?」

 アヤトは笑った。

「担当させてほしい」

 ルドルフは、その答えを待っていたように視線を上げた。

「ずいぶん率直になったな」

「次まで見ておいて、ただの見学ですとは言えない」

「では契約の話をしよう。ただし、私にも条件がある」

 彼女は指を一本立てた。

「異論を持ったなら、その場で言ってほしい。敬意を欠いた物言いまで歓迎するつもりはないが、気遣いという名で判断を隠されるのは困る」

「分かった。俺からもひとつ。痛みや違和感は、出走できなくなる可能性があっても隠さないでくれ」

「私が隠すように見えるか?」

「自分のことを最後に回すようには見える」

 初めて、彼女が返事をためらった。

 風が吹いて、二人の間に草の匂いが流れた。

「……覚えておこう」

「覚えるだけじゃなく、約束してくれ」

 ルドルフは彼を見直し、それから手を差し出した。

「約束する。君も、自分だけが責任を負えば済むと思わないことだ」

 握った手は、思っていたより温かかった。

 アヤトは、彼女の強さを知ったつもりでいた。だが、この手が誰かに預けられることの重さについては、まだ何も知らなかった。

 

 

第二章 白紙の契約書

 

 契約書の目標欄を、ルドルフはすぐには埋めなかった。

 机を挟んだ向こうでアヤトが待っている。彼は先に自分の担当者欄へ署名し、あとは一切覗き込まなかった。その態度は気楽であるようにも、試されているようにも見えた。

「三冠、と書くと思っているか?」

「書いても驚かない」

「では、何を待っている」

「その先を含めて、あんたが何をしたいのか」

 窓の外で、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。ルドルフはペンを置いた。

「すべてのウマ娘が、夢を持って走れる場所を作りたい」

 アヤトは頷いたが、褒めはしなかった。

「自分が勝つことと、どう繋がる?」

「強い者の言葉には、人が耳を傾ける。まず私が、誰もが認めざるを得ない存在になる。その実績を、私ひとりのものにしない」

「勝てなかったら?」

「それは――」

 言葉が途切れた。

 ルドルフは、失敗の可能性を考えていなかったわけではない。考えたうえで、乗り越える側に自分を置いていた。乗り越えられなかった者の位置から、理想を眺めたことはなかった。

「意地の悪い質問だな」

「三冠より先に決めた方がいい。勝てなかった日にも残る目標かどうか」

 彼女は白紙の欄へ視線を落とした。

「君なら、何と書く?」

「俺の道を走っても仕方ないだろ」

 それは突き放す言い方だった。けれど、アヤトは続けて、コース図を机に広げた。

「自分の道を作れ。抽象的な話だけじゃない。誰を見て、どこで動いて、どこを通るか。走るたびにあんたが決めたことが残る。その積み重ねを、自分の理想に繋げればいい」

「自分の道――ロード、か」

「先に正解を渡して、それを守ったかどうかで採点するのは、あんたには合わない」

「しかし、判断を誤ることはある」

「ある。俺も誤る。だから二人で確かめる」

 ルドルフはそこで顔を上げた。自由に決めろと言われるより、その言葉の方が重く聞こえた。

「君の指示と、現場での私の考えが食い違ったら?」

「あんたにしか見えないものがある。走っている自分の判断を優先してくれ。ただし、出走の可否や身体のことは別だ。そこまで全部ひとりで背負うな」

「責任を放棄するための自由ではない、と」

「任せることと、丸投げすることは違うからな」

 ルドルフはペンを取り直した。

 目標欄には、まず『自分の道を作る』と書いた。その下へ、小さく『無敗の三冠』と添えた。

「順序はこれでいい」

 アヤトが笑った。彼女も少し笑った。

 

 最初の一週間は、思っていたほど劇的ではなかった。

 起床時の体調、食事の量、授業の時間、靴の減り方。アヤトは勝利への秘密を教える代わりに、細かいことを何度も訊いた。ルドルフが問題ないと答えると、何をもって問題ないと判断したのか、さらに訊かれた。

「右の紐が少し緩んだくらいだ」

「いつから?」

「二周目」

「なら、それを最初に言ってくれ」

 彼はしゃがみ、結び方を変えて見せた。ルドルフは彼の頭頂を見下ろした。あれほど大きな理想について話した男が、今は紐の左右の長さを確かめている。

「君は、細かいな」

「夢は足元から崩れることもある」

「今のは格言のつもりか?」

「いや、靴擦れが嫌いなだけだ」

 思わず笑うと、彼はようやく顔を上げた。

 その日の練習後、ルドルフは手帳に『右足の靴紐、二周目から』と書いた。大志の下に並ぶには、いささか小さな記録だった。しかし翌日、その問題は起こらなかった。

 

 デビューが近づくと、アヤトは練習の量を落とした。

 ルドルフは不服だった。調子がよい。まだできる。そう告げると、彼は予定表の空欄を指した。

「できることを全部やる週じゃない。できる状態で出る週だ」

 彼女はその理屈を理解したが、身体に残る力の置き場所が分からなかった。夕方、ひとりでコースへ行きかけてやめた。約束を思い出したからではない。自分の不安を練習量へ変えていると認めるのが、少し悔しかったからだ。

 代わりにトレーナー室を訪ねた。

「落ち着かない」

 アヤトは書類から顔を上げた。

「そうか」

「走れば落ち着くと思う」

「たぶんな」

「それでも、走らない方がいいのだな」

「今夜は」

 彼は椅子を一脚、窓の方へ向けた。ルドルフはそこに座った。会話のない時間が続いた。廊下の足音、紙をめくる音、夕食を知らせる放送。それだけで十分になった頃、彼女は立ち上がった。

「邪魔をした」

「また来ればいい」

 ルドルフは扉の前で振り向きかけ、やめた。

「おやすみ、トレーナー君」

 その呼び方はまだ役割の名だった。それでも、同じ役割を持つほかの誰にでも向ける声ではなくなっていた。

 

 

第三章 千メートルの世界

 

 新潟の夏は、思っていたより空が広かった。

 パドックを一周するあいだに、ルドルフは観客の顔をいくつも見た。自分の名を知る者ばかりではない。出走表を見て、隣へ何か話す者もいる。練習を見慣れた学園の視線とは違う。それぞれの期待が、まだ誰のものになるか決まらずに漂っていた。

 背中に汗が伝った。暑さのためか、緊張のためか、区別できない。

 アヤトは手すりの内側で待っていた。

「どうだ」

「暑い」

「ほかには」

「思ったより、みんな落ち着いて見える」

「そう見せたいんだろうな」

 ルドルフは自分の表情を意識し、可笑しくなった。

 千メートル。短い時間の中で、位置を失えば取り返す余裕は少ない。かといって最初の勢いだけで走れば、最後に脚が残らない。アヤトは前夜、紙に線を引きながらその両方を説明した。

「差す脚を持っている。でも今日は、待つことを目的にしない。集団の動きを見て、届く場所にいること」

「早めに動く可能性を残す」

「そうだ。練習でやった、あの二歩を忘れるな」

 それだけを確かめ、二人は離れた。

 ゲートの中では、隣の息づかいが妙に大きかった。係員が短く声を掛ける。ルドルフは頷いた。足元の芝に、さっきまで誰かが立っていた跡がある。その窪みを避けて足を置き直した。

 扉が開いた。

 音と光が、同時に前へ抜けた。

 初めの数歩、ルドルフは前へ出ようとする身体を抑えた。隣の走者が半歩先へ出る。もう一人が外から寄せてくる。ぶつからないだけの間隔を保ち、足音を数える。速い。練習のように一度待っても同じ形には戻らない。

 前にいる背中を数えたとき、自分が競走の中にいると実感した。

 観客の声が聞こえなくなる。風が頬を押し、息が喉の奥を冷やした。外を回る走者の足が一瞬だけ大きく流れた。その後ろに、進める場所が生まれる。

 確認するより先に、ルドルフは踏み込んだ。

 肩が前へ出た。二歩目で、腰がその動きに追いつく。後ろにいたはずの自分の影が、相手の影と並んだ。

 行ける。

 そう思った途端、前の走者も速度を上げた。簡単には抜かせないという意思が、背中越しに伝わった。ルドルフは唇を結ぶ。誰もが自分の一勝を取りに来ている。自分の物語のために、ここを空けてくれるわけではない。

 直線で姿勢を起こしすぎない。腕を小さく速く振る。練習で何度も繰り返した動きが、考えるより先に出てきた。

 残りの距離を見てはいけないと思いながら、白い線を探した。前が開いた。だが、そこで終わりではない。後ろの足音が消えない。

 ルドルフは最後の一歩まで、速度を緩めなかった。

 ゴールを過ぎたあとも、しばらく身体は走り続けた。止まることを忘れていたのではない。終わったと信じるまでに、時間が必要だった。

 掲示された一着の欄に、自分の名があった。

 シンボリルドルフ。

 呼ばれ慣れた名前なのに、知らないもののように見えた。

 

 戻ってきた彼女の前で、アヤトは水を差し出した。

「上出来だ」

「最初、少し待ちすぎた。あそこで外へ――」

「反省は明日」

 ルドルフは言葉を止めた。

「今日は喜べ。初勝利だ」

「喜んでいる」

「顔が報告書になってる」

 彼女は眉を寄せたあと、笑ってしまった。その拍子に、こらえていた呼吸が大きく漏れた。胸が熱い。脚には、使い切ったことのない重さがあった。

「勝ったんだな」

「ああ」

「私は、勝った」

 同じ言葉を繰り返した。アヤトは急かさなかった。

 検査と挨拶を終え、ようやく二人きりになった頃には、夕日の色が濃くなっていた。会場近くの小さな店で、ルドルフは定食を平らげた。追加の皿を頼むと、アヤトは驚かずに自分の漬物を寄せた。

「それは君のものだろう」

「食べたい顔してた」

「していない」

「じゃあ、俺が苦手だから助けてくれ」

「最初からそう言えばいい」

 食後にプリンが運ばれてきた。アヤトが頼んでいたらしい。ルドルフはスプーンを入れ、少し固い表面の下にある甘さを口へ運んだ。

「……美味い」

「今日いちばん分かりやすい顔だ」

 言い返そうとして、やめた。甘いものが好きだと見抜かれるくらい、今夜はかまわなかった。

「トレーナー君」

「何だ」

「次に勝ったときも、ここへ来られるか?」

「場所は違うかもしれないが、祝おう」

 ルドルフは頷き、残りをゆっくり食べた。

 勝利とは、表彰台の上だけにあるのではないらしい。店の窓に映る自分が、そう教えていた。

 

 

第四章 友人の席

 

 秋の東京へ向かう頃、ルドルフはアヤトの淹れる茶の濃さに慣れていた。

 最初は少し渋かった。そう伝えた翌日から薄くなりすぎ、その次にちょうどよくなった。練習の提案にはあれほど歯切れのよい男が、湯の量には毎回迷っている。それを見ていると、失敗を口にすることの敷居が少し低くなった。

 いちょう特別の朝も、彼は宿のポットを傾けすぎた。

「また薄いな」

「本番前だからな」

「関係があるのか?」

「ない」

 二人で笑い、その笑いをパドックまで持っていった。

 千六百メートルは、デビュー戦より考える時間があった。同時に、考えすぎる余地もあった。ルドルフは返しの動きで芝の感触を確かめ、アヤトの『待ちすぎるな』という声を思い出した。今日のそれは、早く仕掛けろという意味ではない。

 スタートのあと、前の走者に合わせて中ほどへ収まった。左右の足音を聞き、先頭との間隔を確かめる。相手が外へ誘っても、すぐにはついていかない。自分の呼吸で進む。

 道中、エビスジョウジが前で速度を変えた。集団が伸び、少ししてまた詰まる。ルドルフはその揺れに脚を使わされないよう、半歩の余白を残した。第四コーナーが近づくと、前の肩が下がった。疲労か、仕掛けの準備か。断定せず、進める位置だけを確保する。

 直線へ向いた瞬間、ルドルフは外へ出た。デビューの日より、一歩が長く使えた。前を行く背中に並びかけると、相手が歯を食いしばるのが横目に見えた。競り合いの中で速度を落とさず、白い線を越える。

 二勝目だった。

 アヤトは出迎えながら、今度は自分から笑った。ルドルフも、反省点より先に右手を上げた。

 

 学園へ戻ると、掲示板に彼女の記事が貼られていた。

 その隣に、生徒会の補助委員募集の紙がある。ルドルフは自分の記事より長く、そちらを読んだ。

 寮の設備、練習場の使用調整、行事の運営。小さな字が並んでいる。すべてのウマ娘のために、と契約書へ書いた願いが、初めて具体的な窓口を持ってそこにあった。

「入るだけなら、実績は要らない」

 隣に立ったアヤトが言った。

「代表選挙に出るには活動歴も推薦も必要だが、雑務を引き受ける手はいつも足りないそうだ」

「雑務、か」

「嫌か?」

「いや。誰の困りごとが、どうやって上へ届くのか見たい」

 最初の仕事は、雨の日に増える床の汚れについての要望書を分類することだった。

 ルドルフは玄関マットの増設を提案した。しかし用務担当者は、置けば解決するわけではないと言った。洗う人手と、乾かす場所が必要なのだという。

 彼女は紙を持ったまま、しばらく黙った。

 困っている人のための提案で、別の誰かを困らせる。そんな当たり前のことが、書類の上では見えなかった。

 その週末、シリウスシンボリを食堂で捕まえた。

「学園生活で不満に思っていることは?」

「お前のその聞き方」

 即答だった。

 向かいに座ったシリウスは、皿の端のパンをちぎった。

「昼飯ぐらい普通に食わせろ。生徒会の巡回かよ」

「意見を集めているだけだ」

「友達の意見を聞くなら、まず同じ飯を食え」

 ルドルフは自分の盆を見た。飲み物だけを取って座っていた。

 同席していたアヤトは何も言わなかった。助けを求めたわけではないのに、その沈黙が少し恨めしかった。

「最近のお前、ずっと何かの代表なんだよな」

 シリウスの声が少し低くなった。

「レースでも飯でも、ウマ娘の未来、生徒会、責任。お前がそういう奴なのは知ってる。でも、私と会ってるときまで仕事の材料にするな」

 ルドルフは口を開き、閉じた。そんなつもりではない、と言うのは簡単だった。

「……すまない」

「謝罪まで役所みたいにするなよ」

 シリウスがパンを彼女の皿へ置いた。

「友達って、役に立たなくても一緒にいていいんじゃねえの」

 アヤトが立ち上がり、追加の盆を取りに行った。戻ってきた彼は、ルドルフの前へ温かいスープを置いた。

「今日は食べよう」

 それだけだった。

 ルドルフはスプーンを取り、シリウスに訊いた。

「そのパンは、美味しいか」

「やっとまともな質問になったな」

 答えながら笑う友人の顔を、彼女は久しぶりにただ眺めた。

 

 翌週、ミスターシービーに会いに行ったとき、ルドルフは手帳を持たなかった。

「用事?」

「ない。少し歩かないか」

「へえ」

 シービーは意外そうに笑い、すぐ隣へ並んだ。

「生徒会、楽しい?」

「意義はある」

「意義じゃなくて」

 ルドルフは考えた。玄関マットの失敗と、提案を直して一緒に運んだ午後。礼を言われたことより、用務担当者が次はこうしようと話し掛けてくれたことを思い出した。

「面白い。思い通りにならないことも含めて」

「なら、続ければいいんじゃない」

 シービーの答えは軽かった。その軽さを、今は少し羨ましく思った。

 並木道の先で、アヤトがこちらに気づいた。彼は手を上げ、そのまま別の道へ曲がった。用事があるのだろうと思ったが、あとで訊くと、友達同士の邪魔をしたくなかっただけだと言う。

「君も来ればよかった」

 口にしてから、ルドルフはその言葉の意味を考えた。

 担当だからではなかった。ただ、一緒に歩けばよかったと思ったのだ。

 

 

第五章 名前を預ける

 

 その年の最後の出走は、東京のジュニア級オープンだった。

 勝てば三戦三勝。新聞の小さな記事が、その数字を何度も強調していた。ルドルフは記事を読んでから裏返した。まだ三戦目を走っていないのに、勝ったあとの話をされるのは落ち着かなかった。

 パドックでアヤトは、彼女の耳がいつもより頻繁に動いていることに気づいた。

「気になる声があるか」

「次はどの重賞かと訊かれた」

「今日は今日だ」

「分かっている」

「分かっていても気になるだろ」

 ルドルフは頷いた。そういう返事をするまでに、最初の頃ほど時間を要しなくなっていた。

 千六百メートルの作戦は、前走をそのままなぞるものではなかった。今回は前へ行きたい相手が少ない。誰も速めなければ、最後だけの競り合いになる。アヤトは前夜、後ろで楽をすることと自分のリズムで走ることを混同しないよう伝えた。

 ゲートが開くと、その予想通り、互いの出方を見る時間が生まれた。

 ルドルフは自分から前寄りの位置へ進んだ。行きたがる身体を無理に押さえ込まず、呼吸の乱れない速さへ整える。ハルーダの足音が後ろに続いた。相手も余力を残している。それを忘れないよう、首を振らずに気配を拾った。

 道中は遅く感じられた。しかし退屈ではなかった。相手がいつ動くか分からない静けさは、速度のある争いとは別の緊張を生んだ。ルドルフは肩を上げないよう息を吐いた。

 第三コーナーの手前で外から足音が迫る。そこで慌てて合わせれば、相手の都合で力を使うことになる。半歩だけ待ち、進路を塞がれない位置を守った。直線に向いてから、腰を前へ運ぶ。

 伸びた。

 押さえていた力が、一度に形になった。後ろの相手も追いすがる。ルドルフはただ前を見て、芝を蹴り続けた。観客席の白い袖が流れ、ゴールの柱が背後へ消えた。

 今年を三勝で終えたという実感は、帰りの電車でようやく湧いた。

 窓に映るアヤトは、手帳を開いたまま眠りかけていた。彼女が咳払いすると、慌てて姿勢を正した。

「寝ていていい」

「あんたも疲れてるだろ」

「私は今日は、少し眠れそうにない」

 嬉しいからだ、と言うのは照れくさかった。それでも伝わったらしく、アヤトは手帳を閉じて笑った。

 

 冬休みに入る前、シリウスとシービーが街へ連れ出してくれた。

 ルドルフは待ち合わせの十分前に着き、二人が現れるまで書店の窓を見ていた。隣にアヤトが来たとき、彼女は少し驚いた。

「君も呼ばれていたのか」

「荷物持ちらしい」

「私からは頼んでいない」

「知ってる」

 シリウスは遅れて来るなり、今日はレースと生徒会の話をしたら罰金だと言った。何に使う金かと訊くと、甘いものだと答えた。

「それでは、君がわざと話を振れば儲かるだろう」

「よく気づいたな」

 シービーが笑い、四人は人混みへ入った。

 何も決めずに歩くのは、ルドルフにとって不慣れな遊びだった。店の前で立ち止まり、入らずに去る。昼食の候補を三つ出し、匂いに惹かれて四つ目へ入る。その無駄が、夕方には無駄と思えなくなっていた。

 喫茶店でシービーが席を外し、シリウスが買い忘れを思い出して店を出ると、二人だけになった。

 ルドルフは買ったばかりの小さな栞を指で挟んだ。月の形をした金属が、窓の明かりを返す。

「月が好きなのか」

「名前を思い出す」

「ルドルフが?」

「幼い頃、家ではルナと呼ばれていた。今でも、身内は時折そう呼ぶ」

 アヤトは栞から彼女へ目を移した。

「ルナ」

 確かめるような発音だった。ルドルフは、それを聞いた瞬間に自分の耳が熱くなるのを感じた。家族の口からなら自然な名が、この男の声では別の響きを持つ。

「勝手に試すな」

「すまない」

 彼が本当に引っ込めようとしたので、彼女は慌てて続けた。

「駄目とは言っていない。公の場では困るというだけだ」

 言ってから、窓の外を見る。言葉の着地点が、自分の予定よりずっと先へ行ってしまった。

「二人だけなら?」

「……仕事をしていないときなら」

「分かった、ルナ」

 その自然さが腹立たしかった。

「君は、そういうところだけためらわないな」

「嫌ならやめる」

「嫌ではないと言っている」

 彼女は声を落とした。

 アヤトは笑わなかった。そのおかげで、ようやく顔を戻せた。

「では私も、君の名前を呼ぶべきか」

「義務じゃないだろ」

「君だけ役割を外すのは不公平だ」

「呼びたいときでいい」

 シリウスが戻り、そこで話は終わった。

 帰り道、ルドルフは何度か声を掛けようとした。だが、結局いつもの『トレーナー君』になった。アヤトはそれを指摘しなかった。急かさずにいてくれることが、かえって胸に残った。

 寮へ戻り、栞を本に挟んだ。月の輪郭だけが上から覗いていた。

 ルナ、と小さく口にする。

 名前は変わらない。けれど、誰に呼ばれるかで、そこに帰れる場所がひとつ増えることを彼女は知った。

 

 

第六章 弥生の坂

 

 冬の練習は、華やかな期待から遠いところで進んだ。

 吐いた息が白くなる朝、ルドルフは同じ坂を何度も上った。上り切ったところで力が抜ける癖を、アヤトは見逃さなかった。ゴールが坂の頂上とは限らない。そう言われ、彼女は頂上の先にも目印を置いた。

 授業と生徒会の仕事を終える頃には暗くなった。コース脇の照明の下で、ノートの文字が読みにくい日もあった。アヤトが早く帰れと言うと、彼女は彼の机の明かりを指した。

「君が消すなら私も帰る」

「仕事が違う」

「身体が要る点は同じだ」

 その日から、週に二度は同じ時間に部屋を出ることになった。

 ルドルフは彼の歩幅を覚えた。早いようで、こちらが話し始めると少し遅くなる。話題が練習から外れても、その速さは変わらなかった。

 

 弥生賞のパドックには、春の匂いがあった。

 芝の色はまだ浅い。けれど観客の声は、夏や秋よりも明確な期待を含んでいた。ルドルフとビゼンニシキ。その二つの名が、あちこちで並べられている。

 ルドルフはビゼンニシキを見た。相手は視線を受け止め、短く頷いた。馴れ合う気配も、敵意を見せる必要もない。勝つつもりで来た者同士に、それ以上の挨拶は要らなかった。

 アヤトは最後の確認をした。

「二千。坂までに終わったと思わないこと」

「相手の位置は見る。だが相手だけを見ない」

「それでいい」

 彼女は手袋を引き、呼吸を確かめた。鼓動は速いが、苦しくはない。

 スタートすると、前へ行く集団の後ろに自然な隙間ができた。ルドルフはそこへ収まった。ビゼンニシキの気配が離れない。互いに余力を量り、どちらも先に手札を見せない。

 向正面では風を斜めから受けた。前の背中を盾にしようと近づきすぎれば、相手の速度変化に巻き込まれる。少しだけ外へ視界を開き、自分の足元を守った。

 残りが減っていく。観客席の音が近づく。まだ待てる。しかし、待てることと待つべきことは同じではない。

 ルドルフは先に肩を入れた。

 ビゼンニシキが反応する。二人の速度が上がると、前の走者の背中が急に大きくなった。進路は狭い。ルドルフは直線へ向くまでのわずかな角度を利用して外へ移り、脚を止めずに空間を得た。

 並んだ。

 横にいる相手の息が聞こえた。ルドルフは一瞬、速さよりもその近さに驚いた。これほど力を使っているのに、まだ離れない。自分の強さを確かめるための相手ではない。自分を倒すために、同じ冬を越えてきた存在だった。

 坂にかかった。

 脚が重くなる。ルドルフは顎を引き、頂上の先に置いた練習の目印を思い出した。ここで終わらない。もう数歩、同じ形を続ける。

 半歩が一歩になった。

 ゴールのあと、彼女は初めて大きく息を吐いた。ビゼンニシキが隣で速度を落とす。

「次は」

 相手が言った。

「分かっている」

 ルドルフは頷いた。勝った喜びの中に、次も同じとは限らないという確かな手触りがあった。

 

 祝勝の席で、アヤトは重賞初勝利を祝った。

 ルドルフはプリンを見下ろしてから言った。

「今日は、嬉しいだけではない」

「どうした」

「ビゼンニシキが近かった。勝ってなお、相手が強いと思う」

「それでいいだろう」

「もっと安心できると思っていた」

 アヤトは少し考えた。

「安心するために勝つと、たぶん際限がない」

 彼女はスプーンを止めた。

「今日はこの一勝を喜べばいい。次が怖いのは、次があるからだ」

「君は簡単に言う」

「俺も怖いよ」

 ルドルフは彼を見た。

「あんたが走り出したあとは、見てるしかない。準備が足りなかったんじゃないかって、毎回思う」

 初めて聞いた話だった。

 勝者の帰る場所で落ち着いて見える男も、ゲートの外で緊張している。ルドルフは、彼の手が出走前だけ水の瓶を強く握っていたことを思い出した。

「次は、私が少し安心させよう」

「それを仕事にするな」

「仕事ではない」

 口にして、二人とも少し黙った。

 ルドルフはプリンを一口食べた。甘さを確かめるふりで、顔を下げたままにした。

 

 

第七章 一冠の重さ

 

 皐月賞の一週間前、生徒会で小さな揉め事が起きた。

 雨天用の練習場を優先的に使える組が固定され、成績の出ていない生徒が後回しにされていた。管理上は合理的だという説明があった。ルドルフは、それを聞いてすぐに反論しかけた。

 だがシリウスに言われたことを思い出した。本人より先に答えを出すな。

 後回しにされた生徒を訪ねると、相手は練習場そのものより、説明がなかったことに腹を立てていた。

「仕方ない日があるのは分かります。でも、私たちは文句を言わないからいいって思われてる気がして」

 ルドルフは予定表へ目を落とした。自分の名は優先枠にあった。皐月賞が近い。それは正当な理由だった。その正当さが、理由を聞かされない側の苦しさを消してはくれない。

 彼女は自分の枠をすべて譲ろうとはしなかった。必要な練習は必要だった。代わりに、配分の理由と代替枠を掲示し、毎月見直す仕組みを提案した。即座に全員が納得したわけではない。それでも、話し合いの席につけた。

「勝つ前から、勝っている側に立っていた」

 その夜、ルドルフはアヤトへ言った。

「優先されるのが悪いとは思わない。だが、その説明を誰かに任せていた」

「気づいたなら直せる」

「君は、私が勝てばすべて解決するとは言わないんだな」

「勝って解決するのは、レースの一着が誰かって問題だ」

 彼女は笑った。言葉にすれば、確かにそうだった。

 

 皐月賞当日、中山のパドックには声が満ちていた。

 名前を呼ばれるたびに応えようとすると、集中が散った。ルドルフは一度だけ観客へ顔を上げ、あとは歩く感触を拾った。右、左。肩の動き。呼吸の深さ。自分に帰るための順番だった。

 アヤトの言葉は短かった。

「弥生賞の再現を狙わない。今日は今日の位置から」

「分かっている」

「ビゼンニシキは強い」

「知っている」

「あんたも強い」

 ルドルフはそこで初めて笑った。

「それも、確かめてくる」

 ゲートへ入ると、歓声が壁の向こうへ遠ざかった。胸の内側にだけ、速い鼓動が残る。彼女はスタートの合図を待った。

 前が開く。

 踏み出した足は、思い描いた場所へ着いた。隣の肩が近づく。距離を保ちながら進み、前の集団が形を作るのを待った。最初から狙い通りではない。行きたい場所に、別のウマ娘がいる。その現実を受け入れるところから、今日のレースが始まった。

 向正面で、ルドルフは前へ行く道を探した。

 空いている場所だけを追えば、必要以上に外を走らされる。内にこだわれば、動きたいときに動けない。ビゼンニシキの位置を確かめ、次のコーナーで使える幅を頭の中へ置く。

 誰かが速度を上げた。

 集団の密度が変わり、肩と肩の間が狭くなる。ルドルフは一歩だけ踏み込みを短くし、接触を避けた。苛立ちが湧いた。自分の力を使うための場所さえ、望めば得られるものではない。

 第四コーナーへ近づく頃、前の走者がわずかに外へ流れた。

 その内側を無理にこじ開けてはいけない。半歩遅らせ、身体ひとつの空間ができるのを待つ。開いた瞬間、彼女は加速した。

 道ができたように見えた。

 けれど、譲られたのではない。自分が待ち、選び、逃さなかった空間だった。ビゼンニシキが同じように前へ出る。ルドルフはその背中に照準を合わせた。

 直線の坂が迫る。

 腕が重い。呼吸が熱い。相手はまだ前にいる。それでも、冬の坂で置いた目印は、いつも頂上の先だった。

 ルドルフは身体を前へ運んだ。

 並び、競り、わずかに出る。最後まで相手の気配は消えなかった。白い線を越えたあとも、どちらが先だったかを自分の感覚だけでは確定できなかった。

 歓声が膨れた。

 自分の名だった。

 初めての冠が、その音の中にあった。

 

 アヤトの前へ戻ると、ルドルフは両手を膝について息を整えた。

「一冠だ」

 彼が言った。

「ああ」

「おめでとう」

 彼女は顔を上げた。アヤトの目が赤いように見えたが、訊かなかった。訊けば、自分も何かをこぼしそうだった。

 翌朝、映像を見直していたアヤトが、途中で再生を止めた。

「ここだ」

 画面の中のルドルフが、空間へ身体を入れている。

「あんたが動くと、道ができるように見える」

「実際には、開くまで待っている」

「そこへ行くと決めたあとの迷いがないからだろうな」

 彼女は画面へ近づいた。相手も必死に走っている。その中で、自分の選択が一本の線になって見えた。

「いつか、その道に名前をつけてやる」

「今ではないのか?」

「まだ一冠だろ」

「欲張りだな、トレーナー君」

「あんたほどじゃない」

 ルドルフは窓の向こうのコースを見た。

 昨日の勝利は、もう今日の足を一歩も運んでくれない。それが初めて、恐ろしいだけではなく、少し清々しく思えた。

 

 

第八章 ダービー前夜

 

 皐月賞の翌週、ルドルフは学園の正門で写真を求められた。

 一人に応えると、次の一人が来た。嬉しかった。名前を覚えてもらい、走りを見てもらえた。それは望んだことだった。

 だが昼食の時間が短くなり、授業へ駆け込むと、午後の練習で集中が切れた。アヤトは本数を減らした。彼女は自分のために使われた時間を、また自分が無駄にした気がして腹を立てた。

「断ればいいと、君は言うんだろう」

「断り方を決めようとは言う」

 彼は歓迎されていることを否定しなかった。立ち止まれる時間と、職員を通してもらう時間を分ける。次からはそうするという、ごく普通の提案だった。

「全部に応えないと、失望される」

「全部に応えたら、あんたが先にいなくなる」

 ルドルフは目を伏せた。身体が壊れるという意味だけではないと分かった。

 シリウスにその話をすると、笑われた。

「期待されたいくせに、期待されると困る。面倒な奴」

「否定できない」

「なら、面倒なままでいろよ。全部きれいに整えてから人前に出ようとするな」

 そう言ってシリウスは彼女の肩を小突いた。ルドルフは、その乱暴さに救われた。

 

 ダービーの前夜、宿の廊下は静かだった。

 ルドルフは水を取りに出て、共用の談話室にアヤトを見つけた。机の上に出走表はなかった。開いた本に、小さな付箋が何枚も貼られている。

「眠らないのか」

「もう寝るところだ。あんたは?」

「水を」

 彼女は瓶を見せた。アヤトは頷き、隣の椅子を少し引いた。そこへ座るつもりはなかったはずなのに、気づくと腰を下ろしていた。

 長い沈黙のあと、ルドルフは言った。

「皐月賞の前より怖い」

 口にしてみると、驚くほど幼い声だった。

「一冠を獲った。今度負けたら、あれも偶然だったと思われる気がする」

「偶然だったか?」

「違う」

「なら、それは変わらない」

「分かっている。でも、明日勝てば失わずに済むと思ってしまう」

 アヤトは本を閉じた。

「挑戦するより、失うものがある分、強者で居続ける方が難しい」

 ルドルフはゆっくり息を吐いた。

「君は、その答えを知っているのか」

「いや。今、あんたと考えてる」

 彼は本の付箋を指でなぞった。

「Eclipse first, the rest nowhere.」

 静かな部屋に、英語の響きが落ちた。

「エクリプスが先頭、ほかはどこにもいない」

 ルドルフが訳すと、アヤトは頷いた。

「圧倒的な強者の言葉だ。俺は昔、そんなふうに勝てば、何も言わせずに済むと思ってた」

「今は?」

「たぶん、何をしても言う人はいる。だから、他人を黙らせるためだけに走っていたら終われない」

「では、その言葉を何のために覚える?」

「自分がどこへ行きたいのか、見失わないために。ただの着差の話にも、ほかの誰かに価値がないって話にもするな」

 ルドルフはしばらく考えた。

 先頭に立つことを望んでいる。それを弱めたいのではない。望みを他人の口へ預け、失望されないよう走ることを、自分の道だと呼びたくなかった。

「私は、ダービーを勝ちたい」

「ああ」

「期待に応えるためでもある。だが、それより先に、私が欲しい」

 アヤトが小さく笑った。

「それを明日、持っていけ」

 彼女は立ち上がりかけ、手をテーブルに残した。

「アヤト」

 彼が顔を上げた。

 初めて、自分の意志でその名を呼んだ。言い終えたあとに、鼓動がひとつ遅れて強く打った。

「少しだけ、もう少しだけここにいてくれないか」

「いるよ」

 それ以上、何も足されなかった。

 ルドルフは座り直した。明日の怖さは消えていない。それでも、その怖さを持って帰れる部屋が、自分の中にひとつできたようだった。

 

 翌朝、パドックで彼女はいつもの声に戻った。

「準備はできた、トレーナー君」

 アヤトは昨夜の呼び方を求めなかった。

「行こう」

 東京の芝は、陽に照らされていた。二千四百メートル。その先にあるものを、彼女は今、自分のために欲していた。

 

 

第九章 二千四百メートルの約束

 

 ゲートの向こうで、歓声が大きな生き物のようにうねっていた。

 ルドルフは一度だけ指を開き、握り直した。前夜の談話室でテーブルに置いた手と同じ手だった。怖いと言った自分も、今ここにいる。置いてきたつもりはなかった。

 扉が開いた。

 最初の直線で集団が広がり、すぐに各々の位置を探し始めた。ルドルフは前を遮る背中を数え、外へ振られすぎないよう速度を合わせた。二千四百メートルを、最初の数百で失うわけにはいかない。

 練習では容易だった呼吸の調整に、少し手間取った。気持ちが先へ行っている。彼女は息を長く吐き、肩を下げた。近くの走者がこちらを見る。その目にも同じ緊張があった。

 向正面へ入る頃には、集団の形が落ち着いた。

 今日は誰も、自分のために待ってくれない。前へ行く者は前へ行く。脚をためる者は、その時間を使っている。ルドルフは外の動きを見ながら、前に置く目標をひとつに絞りすぎないようにした。

 スズマッハの位置を確かめる。ビゼンニシキにも目を配る。しかし、視線を向けた相手だけがレースを作るのではない。遠くでひとつ動けば、近くの空間が変わる。

 残りの距離が半分を切ったとき、ルドルフは自分の脚がまだ応えることを確かめた。

 今なら行ける。

 だが、今行くべきか。

 問いを立てても、そこに長く居座らない。彼女は進路をひとつ外へずらし、いつでも動ける姿勢を作った。前の背中が少しずつ近づく。誰かの足音が乱れた。そこで初めて、明確に加速した。

 第四コーナーは、思っていたより窮屈だった。

 前の走者が斜めへ出る。避けるためにさらに外を走れば、距離を使う。ルドルフは踏み込みを一度短くし、身体が正面を向くのを待った。焦りが喉に上がる。だが、ぶつかって失うものの方が大きい。

 直線へ出た。

 空が広がった。観客席が視界の端を埋めた。前にはまだ背中がある。

 ルドルフは腕を振った。

 芝から返る力が、膝、腰、背中へ繋がった。練習の二歩が、何十歩もの走りになった。並びかけた相手が、さらに前へ出ようとする。ルドルフは自分の身体の内側を探った。まだある。使い切っていない力が、最後のために残っている。

 アヤトの声は聞こえなかった。

 それでも、いると分かった。

 彼女は坂を上がり、前へ出た。背後の足音が遠ざかる。そこで安堵すれば終わると、身体のどこかが知っていた。顎を引き、白い線へ向かって脚を運び続ける。

 ゴール。

 空気が変わった。

 歓声が自分の名になって押し寄せた。ルドルフは速度を落としながら、何度も瞬きをした。目の前の景色が濡れて見えるのは、汗のせいだけではなかった。

 

 アヤトを見つけたとき、彼女は駆け出しそうになった。

 検査と整理運動を先に済ませる。その約束が、辛うじて足を止めた。担当者としての彼が、それを守る自分を見て頷いた。

 ようやく近づくと、ルドルフは言った。

「勝った。ダービーだ」

 言葉は、それ以上うまく繋がらなかった。

「おめでとう」

 アヤトの右手を握った。手袋越しでも強く握りすぎたと分かったが、彼は離さなかった。

「昨夜の私が、勝ったんだ」

「そうだ」

 弱さを置いてきた別人ではない。怖いと言い、隣にいてほしいと願った自分が、このレースを走った。そのことが、二つ目の冠より深いところで彼女を支えた。

 

 その夜の祝勝は、いつものような小さな店には収まらなかった。

 学園や関係者からの挨拶が続き、皿の上の料理が冷めていった。ルドルフは一人ずつ礼を言った。それは苦痛ではなかった。自分のために喜んでくれる人がいる。その事実を大切にしたかった。

 しかし、最後の客が帰ると、肩から力が抜けた。

 アヤトが持ち帰り用の箱を開けた。昼間に手配していたらしい、小さなプリンが二つ入っていた。

「またこれか」

「嫌か?」

「違う。よく間に合ったな」

「勝っても負けても、食べるつもりだった」

 ルドルフは蓋に置いた指を止めた。

「負けていたら、私は食べただろうか」

「分からない。食べなくても冷やしておく」

 彼女はゆっくり笑った。

「今日はもう、ルドルフではなくていいか」

「今はルナだ」

 その声を聞いて、彼女は椅子の背へ身体を預けた。胸の内側に残っていた仕事の最後の一枚が、ようやく剥がれた。

「楽しいな、アヤト」

「ああ」

「私も、今は楽しい」

 スプーンを持つ手を見下ろした。今日、自分で選んで走った道の先に、こんな静かな部屋があった。

 

 

第十章 夏を渡す手

 

 二冠を獲ったあと、夏が長く感じられた。

 秋には三千メートルが待っている。ルドルフはその長さを頭では理解していた。しかし実際の練習を組むと、距離を走ればよいという話ではなかった。疲労をためずに持久力を伸ばし、速さを失わない。相反するように見える要求が、予定表に並んだ。

 アヤトは休養日へ、何も書かなかった。

 ルドルフはその空白が気になった。生徒会の仕事を詰めれば、結局同じことだと注意された。なら何をすればいいのかと訊くと、何もしないことに慣れろと言われた。

「私は、何もしないのが下手だ」

「知ってる」

「君もだろう」

「だから、二人とも練習が要る」

 そんな理由で、二人は川沿いの遊歩道へ出かけた。

 朝のうちに歩き、昼には木陰の店へ入る。競走の予定表も資料も持たなかった。ルドルフは最初の二十分で手持ち無沙汰になり、川の流速を目で測ろうとしている自分に気づいた。

「何を考えてる?」

「水は、同じ場所を流れていても同じ水ではない」

「今日は難しいな」

「何も考えないより簡単だ」

 アヤトが笑った。彼女も笑い、それから黙った。

 川の向こうで子どもたちが石を投げていた。うまく跳ねるたびに歓声が上がる。誰が一番かを競いながら、負けた子も次の石を拾っている。その光景を、ルドルフは長く見ていた。

「遊びなら、負けても次があるのにな」

「レースにもある」

「同じ冠へは戻れない」

「そうだな」

 彼は否定しなかった。その沈黙のまま、二人は水面を見た。

 帰り道、ルドルフが段差で足を取られると、アヤトが腕を差し出した。ほんの一瞬のことだった。自分で姿勢を戻せたのに、彼女はその腕に手を置いた。

 アヤトは驚いた顔をしなかった。

 手を離すタイミングを失い、結局、次の角までそのまま歩いた。心臓だけが練習より忙しかった。

 

 シービーは、その変化に気づくのが早かった。

「最近、顔が柔らかいね」

「そうか?」

「うん。困ってる顔も増えた」

「それは改善なのか?」

「人間らしくていいんじゃない」

 ルドルフは反論を探し、見つからなかった。

 シリウスにはもっと直接的に言われた。

「お前、あのトレーナーの話をするときだけ、一拍考えるな」

「担当者について軽々しく話すべきではない」

「へえ。担当者」

 ルドルフはそこで話を切り上げた。切り上げたこと自体が答えになった気がして、ますます腹が立った。

 夜、寮の部屋で月の栞を取り出した。

 好きだという言葉を頭に置いてみた。すると、練習中の彼の声まで急に違う意味を帯びそうで、慌てて本を閉じた。

 信頼している。それは確かだった。

 そばにいてほしい。それも確かだった。

 だが、その先へ名前をつけることが、二人で作ってきたものを変えてしまう気がした。

 まだ、走ることを真ん中に置いていたかった。

 

 秋の初戦、セントライト記念。

 パドックでルドルフは、夏のあいだに増えた身体の強さを感じていた。軽いのではない。踏み出した足が、以前よりしっかり地面を捉える。

 アヤトはその足元を見て頷いた。

「二千二百。三千の予行演習にしすぎるな」

「今日の一勝を取りに行く」

 スタートのあと、ルドルフは前方を見渡せる位置へ進んだ。休み明けの高揚で速くなりすぎないよう、呼吸を確かめる。周りの走者の肩の高さ、足音の速さ。春と同じものを見ながら、自分の反応が少し変わったと分かった。

 道中で前が動くと、彼女は滑らかについていった。無理に引き寄せるのではなく、流れの中で位置を上げる。オンワードカメルンの背中を捉え、直線へ向く前に進路を決めた。

 仕掛ける。

 迷いのない二歩が、春より深く芝を捉えた。直線で先頭へ出ると、後ろの気配を確かめながら最後まで脚を運んだ。勝利は、休養が空白ではなかったことを身体で証明してくれた。

 戻ってきたルドルフは、アヤトへ言った。

「夏も、走りの中に入っていた」

「川もか?」

「……それは分からない」

 彼女が目を逸らすと、彼はそれ以上訊かなかった。

 菊花賞へ続く道は、速さだけで舗装されてはいなかった。

 

 

第十一章 三千メートルの終わりに

 

 京都の朝は冷えていた。

 ルドルフは窓を少し開け、空気を部屋へ入れた。肺の奥が目を覚ます。向こうの建物の屋根に、薄い光が当たっている。

 三冠という言葉を、何度聞いただろう。

 最初は自分で書いた二文字だった。今はあらゆる人の声が重なり、自分の声を聞き分けるのが難しい。ルドルフは契約書の写しを出した。目標欄の一行目を読む。

 自分の道を作る。

 その下に、無敗の三冠。

 順番を確かめ、紙をしまった。

 

 パドックでアヤトは、いつも通り身体の状態を訊いた。

 特別な言葉を用意しないでいてくれることがありがたかった。ルドルフは眠れた時間と、朝食と、足元の感触を答えた。彼はひとつずつ頷いた。

「今日は長い。最初の静けさを怖がらない」

「相手が動いても、全部には反応しない」

「そうだ」

 離れようとして、ルドルフは右手を差し出した。

「今日は先に握手してくれ」

 アヤトが手を取る。

「三冠を獲ってくる」

「見ている」

「そこは、やれると言うところではないか?」

 彼が笑った。

「あんたならやれる」

 彼女も笑い、その手を離した。

 

 ゲートが開き、長いレースが始まった。

 ルドルフは最初の加速を必要なだけで切り上げ、集団の中へ入った。前へ行きたがる脚に、まだだと伝える。三千メートルの最初の数百は、力を使わないことにも力が要った。

 最初の坂を越え、足元の傾斜が変わる。身体が前へ流れやすい。彼女は歩幅を無理に広げず、腕でリズムを整えた。前の走者が近づきすぎたときだけ、わずかに位置を変える。

 観客の声が一度近づき、また遠ざかった。

 まだ一周が残っている。その事実を、身体の熱に知らせ直す。いつもの距離なら、もう仕掛けを考える頃だ。今日は待つ。待つことを自分で選ぶ。

 向正面で、外の集団が動いた。

 ルドルフは反応しかけ、前との間隔を見た。ここで一緒に上がれば、最後に使う力を早く使う。かといって取り残されれば、進路がなくなる。数歩だけ速度を上げ、無理のない位置へ収めた。

 息が深くなった。脚にはまだ芯がある。

 ゴールドウェイを視界に置く。相手の走りは崩れていない。今日の最後を、自分と同じように待っている。

 二度目の坂へ向かうと、静かだった集団が急に生き物になった。外から、内から、それぞれの意志が動く。ルドルフは前の背中に近づき、横の空間を測った。

 ここだ。

 身体を外へ向け、登りの勢いを急激に使い切らないよう踏み込む。坂を下り始めると、速度が自然に増した。増した分だけ、身体を支える。楽に見えても、制御を手放してはいけない。

 第四コーナーで前が開いた。

 ルドルフは腕を振った。待っていた力が、一気に脚へ降りた。先頭の背中が大きくなり、横へずれ、視界から消える。

 直線。

 長い道の終わりが近づく。胸は焼けるようだった。全身がもう十分だと言う。その声に、あと少しと答える。誰かに期待されたからではない。ここまで連れてきた自分の願いを、自分で白い線まで運びたかった。

 先頭で、ゴールを越えた。

 

 最初に聞こえたのは、息だった。

 自分の荒い息。その向こうに、遅れて歓声が来た。無敗の三冠。その言葉が、何度も空を震わせた。

 ルドルフは手を上げた。上げた腕が少し震えた。

 検査を終えるまで、ほとんど何を話したか覚えていなかった。アヤトを見つけると、右手を出しかけた。だが、手だけでは足りなかった。

 両腕を広げた。

「獲ったぞ。三冠だ」

 彼が近づき、そっと肩を抱いた。

「やったな、ルナ」

 その小さな声で、堰が切れた。

 彼女は額を彼の肩へ預けた。観客の前でどう見えるか、後でどんな記事になるか、今だけは考えられなかった。

「私、やったんだな」

「やった」

「今日は、三冠を獲った者として何をすべきか、考えなくてもいいか」

「いい」

 涙が頬を伝った。身体の疲れとは違う震えが、肩へ上がってきた。

「ありがとう、アヤト。私のトレーナーになってくれて」

 彼の手が、背中で少し強くなった。

 彼女は、その返事を言葉で求めなかった。

 三千メートルの先に立っていたのは皇帝と呼ばれる者だった。けれど、彼の肩で息を整えていたのは、ようやく大きな願いを叶えた一人のルナだった。

 

 

第十二章 前にいた背中

 

 喜びには時間が必要だったが、次のレースまでの日程は短かった。

 ジャパンカップへ向けて、アヤトは何度も身体の状態を確かめた。ルドルフはそのたび、今朝と昨日を比べて答えた。以前のように『問題ない』の一言では済ませなかった。

 出走を選ぶまでには話し合いがあった。

 三冠の余韻のまま世界へ向かう危うさ。回復の具合。相手の強さ。ルドルフは勝てると断言せず、それでも挑戦したいと伝えた。アヤトも、挑戦の価値を認めた。

 だから、負けたあとで日程だけを言い訳にするつもりはなかった。

 

 出走が決まった日の昼、ルドルフはシービーと食事をした。

 友人は窓際の席を取り、先に飲み物を頼んでいた。ルドルフが座ると、何も言わずにメニューを寄せた。

「対策を探りに来たと思うか?」

 ルドルフが訊くと、シービーは笑った。

「そうだったら、教えないよ」

「私は教えるつもりでいたのだが」

「それ、アタシを油断させる作戦?」

 二人で笑った。

 料理を待つあいだ、シービーは窓の外を見ていた。ルドルフは友人の横顔を眺めた。どこかへ行ってしまいそうな自由さがあり、同時に、コースへ出れば誰より執拗に前を追う。その両方が、彼女には不思議だった。

「君は、何を背負って走っている?」

 訊くと、シービーは少し考えた。

「今日は、随分大きい質問だね」

「答えたくなければいい」

「そういうわけじゃないよ。ただ、背負っているって考えると、同じものでも重くなる気がする」

 彼女はグラスを持った。

「応援も、期待も、嬉しい。でも、走る瞬間はアタシが走りたいから走る。そこまで誰かに渡したくないな」

 ルドルフは頷いた。

「私は、期待を引き受けることが、強い者の仕事だと思っていた」

「それも、ルドルフがしたいならいいんじゃない?」

「君は簡単に言う」

「簡単にできるとは言ってないよ」

 シービーが笑った。

 皿が運ばれてきて、話はいったん止まった。ルドルフは一口食べ、それからようやく肩の力を抜いた。友人の自由さも、何も考えないことで得られたものではないのだろう。自分とは違う考え方で、何度も選んできた結果なのだ。

「ジャパンカップでは、君を追うことになるかもしれない」

「アタシが後ろから来るかもしれないよ」

「そのときは、抜かせない」

「うん。そのつもりでいて」

 穏やかな声なのに、最後の一言には競走者の鋭さがあった。

 ルドルフは、その目を見て嬉しくなった。三冠を祝った友人が、次には本気で自分を倒そうとする。祝いの言葉が嘘になるわけでも、友情が薄れるわけでもない。

 席を立つ前、シービーが言った。

「レースが終わったら、またご飯ね」

「どちらが勝っても?」

「もちろん。負けた方が奢るとかは、なし」

 ルドルフは笑って頷いた。

 勝敗の外に残すものを、競走の前から決めておいてもよかった。

 

 パドックには、見慣れない勝負服が並んでいた。

 海外から来たウマ娘たちは、動きにも周囲との距離の取り方にも違いがあった。ルドルフは興味を惹かれた。自分の知らない強さが、すぐ手の届く場所を歩いている。

 ミスターシービーが、少し離れた場所から笑いかけた。

「ここでは友達割引なしだよ」

「当然だ」

「いい顔」

 その横を、カツラギエースが歩いた。

 大げさな気負いはなかった。落ち着いて、足元を確かめている。ルドルフはその姿を見たが、視線はすぐほかの強豪へ移った。

 アヤトだけが、少し長くエースを見ていた。

「前も忘れるな」

「もちろんだ」

 そう答えた。答えたことを、あとで何度も思い出すことになる。

 

 スタート直後、カツラギエースが前へ出た。

 ルドルフは中団で位置を整えた。周囲は互いの動きを量っている。シービーはどこで来るか。海外の強豪はどれほど伸びるか。ひとつひとつは必要な警戒だった。

 その間に、前の背中が遠ざかった。

 ルドルフは距離を見た。まだ届く、と思った。誰かが動けば流れが変わる。自分が先に動いて目標になる必要はない。

 向正面で、もう一度エースを見た。

 遠い。

 しかし後ろも動かない。自分だけが焦っているのかもしれない。そう思った瞬間、彼女は判断を自分の外へ預けた。

 第三コーナーが近づいた頃、ようやく危機感がはっきりした。

 このままでは届かない。

 ルドルフは進路を探した。隣の走者も動き始める。先ほどまで互いを見ていた集団が、一斉に同じ前を追う。外へ出るために距離を使い、速度を上げるために力を使った。

 直線へ向く。

 エースはまだ前にいた。

 彼女の背中は、逃げ切ろうとして必死だった。楽をしているのではない。誰にも預けず作ってきた自分の時間を、最後まで守っている。

 ルドルフは追った。

 道が開く。脚も応える。それでも、一歩ごとに縮まる距離が足りない。ゴールまでの残りが、相手との間隔より速く減っていくように思えた。

 届かなかった。

 三着。

 初めて、一着の欄に自分の名がなかった。

 

 アヤトはすぐに何かを教えようとはしなかった。

 水を渡し、歩く速さを合わせ、検査が終わるまで待った。ルドルフがようやく顔を上げると、彼はただ『お疲れさま』と言った。

「負けた」

「ああ」

「自分で前を見ていたのに、周りが動かないことを理由に待った」

 言葉にすると、悔しさがさらに強くなった。自分の道を作ると言いながら、大事な判断を集団へ預けたのだ。

「俺も、もっと具体的に伝えるべきだった」

「君のせいにしたいわけではない」

「俺も、あんたのせいだけにしたくない」

 ルドルフは黙った。

 夜になってようやく、彼女は泣いた。大声ではなかった。着替えた上着の袖で目を拭き、また水を飲んだ。

「今までの勝利まで、否定されたような気がする」

「消えない」

「錯覚だとは分かっている」

「分かっていても悔しいだろ」

 頷いた途端、涙がまた落ちた。

 アヤトは隣に座っていた。励ましの言葉で時間を埋めなかった。しばらくして、ルドルフは自分から口を開いた。

「強者で居続けるとは、難しいものだな」

「今、どんな感じがする」

「勝つたびに、次も勝たなければならない理由が増えていた。負けたくないのに、負けたことでやっと気づいた」

 窓の外に、帰り支度をする人々の影が見えた。

「エースは強かった」

 ルドルフは言った。

「私が弱かっただけではない。あの人が、自分のレースをした」

 アヤトが頷いた。

「悔しい。だが、追う背中ができた」

 その言葉に、少しだけ息が通った。

 明日すぐに笑えるとは思わなかった。それでも、次のレースへ向かう方向だけは、暗い部屋の中でも見失わずにいた。

 

 

第十三章 答えのない冬

 

 敗北の翌朝、ルドルフは自分の記事を最後まで読んだ。

 三冠のときに大きく使われた写真が、今度は疲れた顔の一枚に替わっている。記事のすべてが悪意ではなかった。日程や作戦への指摘には、考えるべきものもあった。だが、勝っていた頃から何も変わっていない彼女の態度まで、慢心の証拠として語られるのは苦しかった。

 生徒会の仕事を控えるべきだという声も出た。

 ルドルフは反論の文面を作りかけた。そこで、シリウスが紙を取り上げた。

「誰に向かって書いてる」

「誤解している者に」

「ここの全員が読むと思うか?」

 シリウスは紙を机に戻した。

「何もするなとは言わない。でも、聞く気のない奴のために夜を潰すな。聞く気のある奴には、普段のお前を見せろ」

「君は、負けても態度を変えないな」

「変えてほしかったのか?」

「いや」

「なら飯行くぞ。今日は私が店を決める」

 その乱暴な誘いに、ルドルフは従った。

 シービーも途中から来た。三冠同士の敗戦について、彼女はひとつだけ言った。

「エース、かっこよかったね」

 ルドルフはしばらく黙り、それから頷いた。

「ああ。次は、負けない」

「アタシもそのつもり」

 同じテーブルで食事をしながら、次には倒したいと思える。その関係が、彼女の世界を少し広くした。

 

 有馬記念へ向けた練習では、前を追うだけの本数を増やさなかった。

 アヤトはむしろ、違う速さで先導する練習相手を頼んだ。速く出て途中で落とす者。ゆっくり入って後半で上げる者。一定の速さを保つ者。ルドルフは毎回、自分で判断の理由を説明した。

 エースだけを見れば、今度はほかの誰かを見失う。前走の反省を、そのまま新しい盲点にしてはいけない。

「前を忘れるなと言われていたのに、忘れたわけではない」

 彼女は練習後に言った。

「見ていることと、判断に使うことが違った」

「そうだな」

「今回は、待つなら待つ理由を自分で持つ」

 アヤトは手帳に何かを書いた。彼女が覗くと、『任せられる』とあった。

「そこは褒める言葉なのか」

「俺の確認だ」

「見える場所に書くのは、ずるいな」

 彼女が言うと、彼は手帳を閉じた。

 

 年末の中山は、冬の陽射しに包まれていた。

 パドックを歩くエースの姿を、今度は最後まで見た。シービーもいる。親しい顔が、今日は一着を奪い合う相手だった。

 アヤトは最後に、予定していた位置を確認した。

「前へ行く。だが無理に競り潰さない」

「相手を倒すために、自分まで終わらせない」

 ルドルフは頷き、ゲートへ向かった。

 スタートのあと、彼女は早めに前へ進んだ。カツラギエースが作る流れから離れない位置。前走なら遠くに見た背中が、今はすぐ先にあった。

 コーナーをいくつも回る二千五百メートル。近いからといって、楽ではない。エースが速めれば、その負荷はすぐ自分へ来る。ルドルフは息を整え、肩の力を抜いた。

 道中、エースがわずかに速度を変えた。

 誘われたように身体が前へ出そうになる。ルドルフは半歩の距離を残した。追っているが、引きずられてはいない。その違いを守り続ける。

 後方の動きも、足音の層として近づいてきた。シービーが来るかもしれない。だが、振り向いて確認する時間はなかった。前を捕らえ、そのうえで最後まで走る。それが自分の選んだ道だった。

 第四コーナーで、ルドルフは外へ並びかけた。

 エースの横顔が見えた。相手も譲らない。ふたつの足音が重なり、観客席が近づく。ルドルフは前走の遠かった背中を思い出した。今日は、ここにいる。

 直線でさらに踏み込む。

 坂が脚を重くした。それでも、冬の練習で何度も確かめた形が崩れなかった。半歩、そして一歩。エースの気配が後ろへ移った。

 先頭でゴールした。

 勝利が戻ってきたのではない。新しい一勝を、自分で取りに行ったのだと分かった。

 

 帰ってきたルドルフは、アヤトの手を握った。

「これで、強者で居続けるという問いに答えられたか?」

 彼は首を振った。

「強者で居続けることに、終わりも答えもない」

 彼女は息を吐き、それから笑った。

「また答えを出そうとしていたのだな、私は」

「今日、勝った。それは確かだ」

「なら、今日はそれでいい」

 少し近づき、周りに聞こえない声で続けた。

「有馬を勝ったルナを、ちゃんと祝え」

「仰せのままに」

「今は皇帝扱いをしなくていい」

 二人の笑いの向こうで、一年最後の夕日がコースを照らしていた。

 

 

第十四章 先頭を走る日

 

 新しい年が始まると、ルドルフの机には前年より多くの手紙が届いた。

 勝利を祝うもの。進路について相談するもの。自分も三冠を目指すと宣言するもの。彼女は全部を読み、返事を書けるものには書いた。

 アヤトはその仕事を否定しなかった。ただ、返事のために睡眠を削っていると分かると、紙束を二つに分けた。

「今日と、明日以降」

「どれも今日届いた」

「届いた日と、返せる日は違う」

 ルドルフは渋々頷いた。

 代わりに、共通する質問を生徒会の掲示へまとめることを思いついた。自分ひとりで答えず、進路担当や医務室にも確認する。手間は減らなかったが、答えの責任が自分だけに集まらなくなった。

「任せるのが、少しうまくなったな」

 アヤトが言った。

「君に言われたくない。昨日も遠征費の申請を一人で直していただろう」

「それは俺の仕事だ」

「担当職員に訊けば十分で済んだと聞いた」

 彼が黙ったので、ルドルフは少し満足した。

 二人の関係は、片方が教え続ける形から少しずつ変わっていた。

 

 日経賞のパドックでは、空気に湿り気があった。

 足元を確かめるルドルフに、アヤトは前へ行く可能性を伝えた。強く主張する相手がいないなら、自分で流れを作る。差すことに名前を与えられても、それだけが自分の走りではない。

「先頭は、風を受ける」

「だが、前を塞がれない」

「自分で速さを間違える怖さもある」

 ルドルフは笑った。

「それなら、間違えないよう走ろう」

 ゲートが開いたあと、彼女は様子を見ながら前へ出た。無理に競りかける足音はなかった。自然に先頭になった瞬間、視界から背中が消えた。

 広い。

 思っていた以上に広かった。頼りにしていた目標がない。自分の呼吸と、足元と、背後の音だけで速さを決める。

 最初のコーナーを回り、無駄に内へ寄りすぎないよう身体を支えた。二千五百メートルを先頭で運ぶには、気分のよさへ任せてはいけない。アヤトと作った目安を思い出し、身体の熱を確かめる。

 道中で背後の足音が近づくと、少しだけ速度を上げた。それで離そうとはしない。自分のリズムが相手に踏み込まれないよう、余白を守った。

 第三コーナーを過ぎ、最後の準備をする。

 前には誰もいない。だが、道を作る必要がないわけではなかった。自分が選んだ速さが、そのまま後ろの全員のレースに影響する。責任という言葉が、足音になったようだった。

 直線で踏み込むと、脚は素直に応えた。

 後ろとの差が広がる。ルドルフは最後まで姿勢を保った。先頭で入ったゴールを、今度は驚かずに受け止めた。

 アヤトの前で、彼女は言った。

「前に誰もいなくても、道は作れる」

「どうだった」

「怖かった。そして、自由だった」

 彼が頷いた。その表情を見るのが、彼女は好きだった。自分の言葉を、結論へ急がずに受け取ってくれる顔だった。

 

 天皇賞の春へ向けて、二人は距離の話をした。

 三千二百メートル。菊花賞より二百長い。それだけで済ませられる差ではない。身体は成長しているが、相手も、流れも、時期も違う。

 ルドルフは前年の自分を越えることを目標にしなかった。今日の身体で必要な準備をする。そう書いたノートの隅に、アヤトが小さく丸をつけた。

「採点か?」

「賛成の印」

「なら私もつけよう」

 彼女は彼の予定表の『休み』に大きな丸をつけた。

 春の風が、開いた窓から二人の紙を揺らした。

 

 その週、ルドルフは手紙の返事を生徒会の補助委員へ頼んだ。

 内容を任せるという意味ではない。封筒を揃え、宛先を確認し、返信の必要なものを分けてもらう。それだけでも、夕方の時間がずいぶん変わった。

 後輩の一人が、作業の途中で遠慮がちに訊いた。

「こういうこと、お手伝いしていいんですか」

「助かっている」

「でも、個人的なお手紙もありますし」

 ルドルフは頷き、本人だけが読むべきものを分け直した。任せるためには、境界を説明する必要があった。黙って全部抱えるか、全部渡すかではない。その当たり前のことを、仕事のたびに覚えていった。

 作業が終わる頃、後輩が一通の封筒を残した。

「これは、直接読んだ方がいいと思います」

 中には短い手紙があった。競走をやめることになった生徒からだった。ルドルフの走りを見て、もう少し続けようと思えた時期があった。それでも、自分は別の進路を選ぶ。そう書かれていた。

 最後に、『勝てなかったけれど、応援していてよかったです』とあった。

 ルドルフは、その一文の前で長く止まった。

 自分が勝つことで誰かを励ませると信じていた。その信念が間違いだったとは思わない。だが、励まされた人が必ず走り続けるわけではない。その人がやめるときにも、自分の勝利がよい記憶として残ることはある。

 返事を書き始めて、彼女は『またコースで会おう』と書きかけた。

 手が止まった。

 相手は、別の場所へ向かうと伝えている。

 ルドルフは新しい紙を出し、次の進路が実りあるものであるよう願うと書いた。自分を応援してくれたことへの礼も、もう一度書いた。

 その夜、アヤトへ手紙の内容を個人が分からない範囲で話した。

「私は、続けることばかりを願っていたのかもしれない」

「自分が続けたいからな」

「ああ。私が欲しいものを、ほかの者も欲しいと思っていた」

 アヤトは湯呑みを置いた。

「同じ道へ連れていくことだけが、支えることじゃないんだろうな」

 ルドルフは頷いた。

 そのときは、まだ自分が遠くない日に同じ問題の前へ立つとは考えなかった。ただ、覚えておかなければならない手紙だと思い、返事を封筒へ入れた。

 

 

第十五章 三千二百の呼吸

 

 天皇賞のパドックで、ルドルフは自分の足音を数えていた。

 長距離の前には、気持ちだけが先に走り出しやすい。歓声に応え、相手を見て、また自分の歩幅へ戻る。その繰り返しが、身体を整えた。

 アヤトは最後の一周を黙って見た。

「どう見える?」

「落ち着いている」

「見えるだけかもしれない」

「それなら、今聞く。どうだ」

 ルドルフは少し笑った。

「欲しい。五つ目を」

「持っていけ、その気持ちは」

 彼は勝利を命じなかった。欲しがることを、彼女自身へ返してくれた。

 

 スタートから、無理には前へ行かなかった。

 中団で流れに乗り、集団の形が落ち着くまで待つ。前走とは違う位置から、同じように自分の呼吸を作る。後ろにいることを安全だと思わない。必要なときに進める道を残す。

 一度目の坂で、身体の傾きを確かめた。

 菊花賞のときより、自分の重心が分かる。登りで無駄に腕を振らず、下りで前へ流れすぎない。隣の走者が少し速めても、すぐには合わせなかった。

 正面の歓声が近づき、遠ざかる。

 ルドルフは息を吐き、もう一度姿勢を整えた。残り一周。長い距離を長いまま受け入れる。早く終わってほしいと思った瞬間に、自分の脚を早く使いたくなる。

 向正面で集団の動きが変わった。

 前が少しずつ詰まり、外へ出たい走者が増える。ルドルフはその前に進路を確保した。無理に一気に上がるのではなく、数歩ずつ位置を前へ移す。後ろで待っているだけでは、最後の力を使う場所がなくなる。

 サクラガイセンの姿を視界に捉えた。

 相手の脚はまだしっかりしている。ここからが競走だった。ルドルフは深く息を吸い、坂へ向かう。脚が重いのは、自分だけではない。だが、その事実は自分を一歩も助けない。

 坂を越え、下りの流れを受け取る。

 速度が増す。彼女はその力を直線へ繋いだ。前に出るための加速と、最後まで持たせる制御を、同じ身体で行う。

 直線で、前の背中が横へ移った。

 ルドルフは歯を食いしばった。あと少しという言葉を、安易に使いたくなかった。まだ必要なだけ走る。それだけを、足へ伝えた。

 先頭でゴールした瞬間、全身に重さが戻った。

 立ち止まらず歩く。係員の声に頷く。水を飲む。どれも簡単な動作なのに、今はひとつずつ必要だった。

 五つ目の冠が、身体の内側の疲労とともにあった。

 

 その夜、ルドルフは普段より早く眠くなった。

 アヤトが片づけをしている音を聞きながら、椅子で目を閉じた。肩へ上着が掛けられた。彼女は目を開けずに、その袖を少し掴んだ。

「帰るのか」

「あんたが部屋へ戻ったらな」

「まだ、いてくれ」

「いる」

 短い返事に安心してから、ルドルフは自分の甘え方に気づいた。

 慌てて手を離そうとしたが、彼は上着を直しただけだった。

「今日はよく走った」

「子どもに言うようだ」

「よく走った大人にも言う」

 彼女は小さく笑った。

 告白すれば、この穏やかな場所は変わるのだろうか。眠気の底で、その問いが浮かんだ。好きなのだと、もう否定するのは難しかった。けれど、好きだからこそ、今の彼に答えを迫りたくなかった。

 彼には担当を守る責任がある。自分には、それを利用してはいけないという思いがあった。

 言葉になる前の気持ちを、ルドルフは上着の温かさの中へしまった。

 

 翌朝、アヤトは彼女の返事のない時間を責めなかった。

 ただ、返された上着を受け取るとき、指先が少し触れた。ルドルフは目を上げた。彼もこちらを見ていた。

 何も言わなかった。

 言わなくても、昨日までとは少し違っていた。

 

 

第十六章 走らないための強さ

 

 宝塚記念のために遠征した週、ルドルフは調整の動きに違和感を覚えた。

 鋭い痛みではなかった。左肩から身体の側面にかけて、普段なら繋がる動きがわずかに途切れる。もう一度確かめれば消えるかもしれない。そう思って脚を出しかけ、止めた。

 最初の契約の日を思い出した。

 痛みや違和感は隠さない。

 アヤトの方へ歩くと、彼はもう時計を下ろしていた。

「どこだ」

「左側の動きがおかしい。肩から、うまく力が抜けない」

「今日は終わりにしよう」

 即答だった。

 彼女は反論を呑み込んだ。病院へ向かう車の中で、窓の外に流れる広告を見た。自分の名が大きく載っていた。

 その名の下で、身体だけが立ち止まろうとしている。

 

 診察のあと、出走取り消しを決める話し合いがあった。

 アヤトは医師の説明を細かく確かめた。ルドルフにも、理解できているかと何度か目を向けた。彼女は頷いた。今走ることの危険は分かった。分かったからこそ、口を開けなかった。

「走れそうな気もする」

 ようやく出た言葉は、それだった。

 医師は責めなかった。日常の動きができることと、競走の負荷に耐えられることは同じではないと説明した。

 ルドルフは自分の手を見た。力を入れれば握れる。立てる。歩ける。なのに、明日のゲートには入れない。

「取り消そう」

 アヤトが言った。

 彼女は長い時間をかけて頷いた。

 

 発表のあと、さまざまな声が届いた。

 体調を案じるものも、残念がるものもあった。疑う声もあった。ルドルフはそのすべてを読みたくなったが、アヤトは手元の画面を伏せた。

「今、全部を受け取る必要はない」

「私のために来るつもりだった人がいる」

「だから説明はする。それと、あんたが痛みを増やすことは別だ」

 レース当日、二人は画面で観戦した。

 ゲートが開いた瞬間、ルドルフの身体が反射的に前へ傾いた。自分のいない集団が走っていく。スズカコバンが勝利を得たとき、彼女は拍手をした。拍手を終えてから、手を膝の下へしまった。

「羨ましい」

 アヤトは頷いた。

「負けるより、何もできない」

 その言葉に返事はなかった。正しい慰めを探していないことが、今は助かった。

 

 休養の日々は、劇的には過ぎなかった。

 よくなったと思う日と、そうでもない日があった。再診の結果を待ち、動ける範囲を確かめ、焦って余分なことをしない。単純な繰り返しが、勝つための練習より難しかった。

 生徒会へ行く時間が増えた。廊下で同じように休養中の生徒と会い、今までなら『復帰を待っている』と言っただろう場面で、言葉が止まった。

「待たれるのって、嬉しいけど、怖いですよね」

 相手が先に言った。

 ルドルフは椅子へ座った。

「ああ。私も今、それを知っているところだ」

 励ましの答えを持たずに、一緒に座った。話は故障から授業のことへ移り、最後には寮の夕食の量になった。別れる頃、相手の顔が少し明るかった。

 役に立つ答えがなくても、一緒にいていい。

 シリウスの言葉を、彼女は別の形で理解した。

 

 遠征に出るシリウスを見送りに行った朝、ルドルフはいつもより早く着いた。

「置いていかれる顔するなよ」

「していない」

「してる」

 シリウスは荷物を持ち直した。

「戻ってきたとき、また走ってろ。無理して壊して待ってるな」

「君こそ、自分の道を走ってこい」

「それは言われなくても」

 肩を軽くぶつけ合って別れた。

 帰り道、アヤトが隣にいた。

「強者で居続けるために、走らない」

 ルドルフは言った。

「今はそれが、私の選ぶことなのだな」

 彼は頷いた。彼女の手を取ろうとして、一度止まった。

 ルドルフは自分から、その手に触れた。

「今は、仕事の帰りではないことにしよう」

 アヤトが少しだけ困った顔で笑った。

 二人はゆっくり歩いた。遅い歩みでも、同じ方向へ進めると知るには、その夏が必要だった。

 

 

第十七章 秋の一歩

 

 復帰が近づくと、ルドルフは痛みのない日にも身体を疑った。

 あの日と同じ動きになっていないか。疲れを見落としていないか。練習が終わるたびに確かめ、何もないと分かってようやく息を吐く。以前なら不要だと思った時間が、今は欠かせなかった。

 アヤトも同じように慎重だった。

 慎重すぎるのではないかと、ルドルフは一度だけ言った。彼は否定せず、医師の許可と実際の反応を並べて見せた。判断の根拠を共有されると、待たされている感覚が少し薄れた。

「守られているのは分かる。だが、何も知らない場所に置かれるのは嫌だ」

「分かった」

 その翌日から、彼女も練習量を決める話し合いにさらに細かく加わった。

 強さは、壊れる可能性を知らなかった頃へ戻ることではない。知った身体で、もう一度力を使うことだった。

 

 天皇賞の秋。パドックでルドルフは、観客の声を以前より近く感じた。

 おかえり、と叫ぶ声があった。その一言に胸が熱くなった。帰ってきたのだと思う。だが、この場所は帰ってきただけで一着を渡してくれる場所ではない。

 外の枠から、どう入るか。

 アヤトは無理に先手を取らないことと、外を回る負担をどう減らすかを確かめた。二千メートルは長距離ほど待てない。復帰戦だからと丁寧にしすぎても届かない。

 スタートでルドルフは周りの出方を見た。外から内へ入りたい。しかし同じように位置を求める相手がいる。彼女は少し後ろへ下げ、接触せずに集団へ加わった。

 向正面で呼吸が整った。身体は応えている。安堵が湧き、すぐに警戒へ戻した。走れることを喜ぶのは、走り終えてからでもよい。

 第三コーナーへ向かう途中、彼女は位置を上げた。前の背中をひとつずつ射程へ入れ、外へ出る。距離を使っている。その分、直線で無駄に立て直したくなかった。

 第四コーナーを抜けたとき、勝てると思った。

 視界が開き、脚が前へ出る。先頭へ近づく。観客の声が自分の名を呼ぶ。

 だが、ゴールへ向かう途中で、別の足音が伸びてきた。

 ギャロップダイナ。

 ルドルフは反応した。もうひとつ力を求めた。身体は応えようとしたが、相手の勢いに並ぶだけの余白が残っていなかった。

 横顔が過ぎた。

 わずかな差が、最後まで戻らなかった。

 二着。

 

 悔しかった。

 けれど初めて負けた夜とは違った。自分が消えたようには感じなかった。最後に抜かれた場所が、はっきり胸の中に残っている。そこへまた戻りたいと思った。

「また、負けたな」

 ルドルフは言った。

 アヤトが頷く。

「でも、走れた」

「ああ」

「それだけで満足してはいない」

「知ってる」

 彼女は笑った。笑いながら、目の奥が熱くなった。

「今日は、悔しいルナでいいか」

「いい」

 彼は水を差し出した。ルドルフは受け取り、負けた自分の喉を潤した。

 

 

第十八章 皇帝の道

 

 ジャパンカップの朝には、雨の匂いが残っていた。

 足元の芝は重かった。ルドルフはパドックを歩きながら、靴の返り方を確かめた。軽い馬場のように反発を期待すると、力を余計に使う。今日の身体と今日の芝で走るしかない。

 一年前に遠く見たエースの背中を、彼女は思い出した。

 同じ舞台でも、同じレースはない。敗北の記憶を持ち込みながら、それだけに縛られてはいけない。アヤトも、去年を取り返すという言葉は使わなかった。

「今日の二千四百を」

「ああ」

 スタートのあと、ルドルフは前寄りの位置で流れを受けた。重い芝が足へまとわりつく。速度の数字より、力の使い方を感じ取る必要があった。

 道中、前の走者の脚が地面を深く掘った。泥が飛び、頬に当たる。ルドルフは顔を背けず、呼吸の間隔を保った。外へ出れば泥は減るが、距離を使う。自分に必要な不快さなら、受け入れる。

 第三コーナーで前へ取りつく。

 いつもより加速に時間がかかった。芝が力を吸う。彼女は焦って歩幅を広げず、身体を確実に前へ送り続けた。進路が開いたとき、すぐに使える位置を守る。

 直線へ向いた。

 先頭へ出るまでの数歩が長かった。後ろからロッキータイガーが迫る。ルドルフはその気配を受けながら、自分の足音を聞いた。乱れていない。まだ、繋がっている。

 最後の力を使った。

 白い線を越えたあと、歓声が雨上がりの空を満たした。

 一年前の三着は消えなかった。それでも、同じ場所に新しい一着を書けた。

「六つ目だ」

 アヤトの声に、ルドルフは頷いた。

「去年の私も、ここまで来たな」

「ああ」

 泥のついた勝負服を見下ろした。勝利は、綺麗な姿だけで手に入れるものではなかった。

 

 有馬記念へ向かうあいだ、後輩たちから声を掛けられることが増えた。

 ミホシンザンもその一人だった。二冠を得た彼女の目には、追う側の強い光があった。ルドルフはその視線を、かつての自分と重ねすぎないようにした。目の前の相手は、自分の若い頃ではない。

「当日は、よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 握手をして離れたあと、ルドルフはアヤトへ言った。

「追われる立場というのは、こういうものなのだな」

「怖いか」

「少し。楽しみでもある」

 それは、負けを知らなかった頃の余裕とは違っていた。

 

 年末のパドックでは、七冠という言葉が何度も聞こえた。

 ルドルフはその声を追い払わなかった。自分も欲しい。欲しいのだから、聞こえてもよい。ただ、まだ得ていない冠を頭に載せて歩かないことだった。

 ゲートが開く。

 ルドルフは好位へ進み、前を見渡した。ミホシンザンの気配も、周囲の動きも受け取る。二千五百メートルのコーナーをひとつずつ、自分の位置で回った。

 前が速度を変えたとき、彼女は無理なく反応した。大きく脚を使わず、必要なだけ前へ出る。その小さな判断の積み重ねが、最後に残る力を作っていた。

 道中で背後の音が近づいた。

 来る。

 ルドルフは動かなかった。自分の仕掛ける場所をまだ変える必要はない。待つことを恐れず、待ち続けることにも執着しない。身体とコースと相手の動きが重なった瞬間、彼女は前へ出た。

 第四コーナーから直線へ。

 進路が広がった。ルドルフの脚が、その空間を一気に使った。後ろにいた気配が遠ざかる。坂を上っても、身体の芯は折れなかった。

 最後まで走った。

 七つ目の冠が、ゴールの向こうにあった。

 

 祝勝の人波が落ち着いたあと、アヤトは彼女に言った。

「最初に言ったことを覚えてるか」

「才能がゴミになるという、ひどい挨拶か?」

「それも忘れないでくれ。俺の失敗だからな」

 ルドルフが笑った。

「自分の道を、コースに作れ」

「作れたか?」

「私は、そう思う。君にはどう見えた」

 アヤトは少し考えた。

「エンペラーロード」

 ルドルフはその言葉を、口の中で静かに繰り返した。

「皇帝の道、か」

「あんたが判断して、作ってきた道だ」

 彼女は窓に映る自分を見た。三冠も、敗北も、休養も、今日の七冠も、一つの身体の中にあった。

「なら、あの加速にも名をつけよう。『汝、皇帝の神威を見よ』」

「ずいぶん大きく出たな」

「私の道なのだろう?」

 アヤトは笑って頷いた。

 ルドルフは少しだけ彼へ近づいた。

「Eclipse first, the rest nowhere.」

 声にすると、最初に聞いた夜の怖さも蘇った。

「だが、ここで道が終わるわけではない」

 窓の向こうは暗かった。その先に、海がある。

「海の向こうへ行きたい」

 アヤトは、彼女がそう言うと知っていたように頷いた。

 

 

第十九章 海の向こうの空

 

 アメリカへ渡る準備は、勝つための練習とは違う忙しさを連れてきた。

 移動、滞在、食事、現地のコース。普段なら意識しないものが、ひとつずつ確認事項になる。ルドルフは語学の練習もした。完璧に話すより、分からないことを分からないと言える方が大切だと通訳に言われ、苦笑した。

「走ること以外も、私の課題は同じらしい」

 アヤトは荷物の一覧から顔を上げた。

「助けを求めるのが上手くなれば、遠くへ行ける」

「君も覚えておくといい」

 互いに言い返してから、二人で書類を分けた。

 

 サンタアニタの空は高かった。

 乾いた空気が頬に触れ、遠くに山が見えた。ルドルフはコースの脇に立ち、国内の競走場とは違う光の強さを眺めた。

 ここには、七冠を当然のように語る声が少ない。

 彼女の名を知る者はいる。だが、その名だけで誰かの脚が鈍るわけではない。ルドルフはそれを心地よく感じた。

「肩書では、一歩も進めないな」

「どこでもそうだ」

「分かっていたつもりだった。ここへ来ると、もっとよく分かる」

 アヤトと並んで歩いた。時差のせいで眠りが浅い夜もあったが、少しずつ生活は整った。練習の動きも悪くなかった。

 夕食のあと、ルドルフは遠征用のノートを開いた。日本から届いたシリウスの短い便りが挟まっている。『そっちはそっちでやれ』とだけ、いかにも彼女らしい文字で書かれていた。

 シービーからは、現地で美味しかったものを教えて、という一文が来た。

 期待しすぎない友人たちの便りが、異国の部屋を少し身近にした。

 

 サンルイレイステークスのパドックで、ルドルフは視線を上げた。

 異なる言葉の歓声が混ざる。相手の表情を、言葉に頼らず読む。誰もが勝つために来ていた。その分かりやすさに、彼女の心は静まった。

「この場所でも、私の道を作れるか試したい」

 アヤトは頷いた。

「見ている」

 彼女はいつものように右手を差し出しかけ、拳に変えて軽く合わせた。

「行ってくる、トレーナー君」

 声は落ち着いていた。

 

 スタートは大きく乱れなかった。

 ルドルフは流れに乗り、相手との距離を確かめた。コーナーの感覚が違う。芝の返りも、風の向きも違う。だが、走ることそのものまで変わるわけではない。

 道中で彼女は一度、位置を調整した。前の走者のすぐ後ろに入りすぎないよう、少し外へ視界を開く。呼吸は保てていた。脚も応える。

 ここからだ。

 仕掛けへ向けて力を移そうとしたとき、左脚に異様な感触が走った。

 痛みという言葉より先に、支えが抜けた。

 次の一歩が思った場所へ届かない。身体がわずかに傾く。ルドルフは反射的に姿勢を戻した。戻した分だけ、脚に嫌な熱が広がった。

 おかしい。

 もう一度踏めば、戻るのか。

 その考えを、契約の日の言葉が止めた。

 彼女は加速をやめた。

 周囲が前へ出る。自分だけが流れから外れるように感じた。コースを塞がない位置を保ち、転ばないことを優先する。頭の中で警鐘が鳴るのに、身体はまだ勝つための形を探そうとした。

 直線で、前が遠ざかった。

 追えない。

 道がなかったのではない。開いた場所へ、自分の脚を運べなかった。

 六着でゴールを越えたとき、喜びも悔しさも、すぐには来なかった。左脚をどう置けばよいか。それだけが身体のすべてになった。

 

 アヤトは顔を見る前に、脚を見た。

 係員と医療スタッフへ声を掛け、彼女が余分に歩かないよう支えた。ルドルフは彼の腕に重みを預けた。夏の遊歩道とは違う重みだった。

「途中で、おかしくなった」

「分かった」

「力が入らなかった」

「今は動かなくていい」

 その言葉でようやく、彼女は怖くなった。

 動かなくていい。

 今は、という二文字を、胸の中で必死に握った。

 

 

第二十章 次のない夜

 

 現地の診察室は、白い光に満ちていた。

 通訳を介して伝えられる説明を、ルドルフは一言ずつ聞いた。左脚の支持組織を傷めている。さらに検査が必要だが、競走へ戻るには大きな問題がある。

 説明は慎重だった。治らないと断言されたのではない。だからこそ、希望と恐怖が同じ言葉の中にあった。

 アヤトは復帰までの時間だけでなく、再び強い負荷をかけたときの危険を訊いた。ルドルフは彼の横顔を見た。目の下に疲れがあった。自分のために落ち着いた顔を作っていると分かった。

「まだ分からないことが多い」

 診察のあと、彼は言った。

「日本へ戻って、検査を重ねよう」

「分かっている」

 ルドルフは頷いた。

 分かっていることが、何の慰めにもならない夜だった。

 

 宿へ戻ると、荷物の中に未使用の練習着があった。

 翌日の予定表も、まだ書き換えられていなかった。整理運動。状態確認。軽い調整。今日のレースが終われば、次へ向けて進むはずだった文字が並んでいる。

 ルドルフは紙を裏返した。

 アヤトが食事を運んできたが、半分も食べられなかった。謝ると、彼は少しずつでいいと言った。薬の時間を確かめ、水を置いた。

 その手際のよさに、胸が痛んだ。

 この人は、走る自分のためにここにいる。

 走れなくなったら、何が残るのだろう。

「アヤト」

 呼ぶと、彼はすぐ振り向いた。

「まだ走りたい」

 言葉にした瞬間、涙が出た。

「今日負けたなら、原因を直して、次は勝つ。ずっとそうしてきた。今回は、その次があるか分からない」

 彼は椅子を近くへ寄せた。

「怖い」

 ルドルフは声を絞った。

「これが最後だったらと思うと、怖いんだ」

 アヤトはすぐに否定しなかった。大丈夫だとも言わなかった。その誠実さが、ありがたくて、苦しかった。

「ルナは頑張った」

 ようやく彼が言った。

「結果を出してこそ、と思っていた」

「俺も結果を大事にしてきた。でも、結果だけであんたを全部見たことにしたくない」

 彼女は首を振った。

「頑張っただけで、終わってしまうのは嫌だ」

「そうだな」

「もっと、君と走りたかった」

 アヤトの顔が歪んだ。彼も同じことを思っていると、そのとき初めてはっきり分かった。

「俺もだ」

 短い言葉が、胸の底へ届いた。

 ルドルフは泣いた。皇帝として整えることのできない声が出た。アヤトは抱いてよいかと目で確かめ、彼女が手を伸ばすと、そっと抱き寄せた。

「私、本当に頑張った」

「見ていた」

「君は、全部見ていたんだな」

 勝利も、敗北も、休む日の苛立ちも。大きな冠のない朝も、靴紐を結び直す時間も。この人はそこにいた。

 彼女は彼の上着を掴んだ。

「もし競走生活が終わっても、離れてほしくない」

 彼の身体が、わずかに固くなった。

「担当とトレーナーでなくなっても、私は君といたい」

 もう、言葉を止められなかった。

「私は、アヤトが好きだ」

 彼は目を閉じ、しばらく息を整えた。

「聞いた」

 その返事に、ルドルフの胸が縮んだ。

「今は、治療も生活も俺に頼らなきゃいけない。そんな場所で、返事を急いであんたの選択を狭くしたくない」

「弱っているから言ったと思うのか」

「そう決めつけたくないから、元気な日にも聞きたい」

 アヤトは彼女を見た。

「離れるために待つんじゃない。ここにいる」

 ルドルフは唇を噛み、それから頷いた。

 求めていた答えとは違った。しかし、自分の言葉を軽く扱われたのではないと分かった。

「逃げるなよ」

「逃げない」

 彼女はその約束を信じ、もう一度額を彼の肩へ預けた。

 窓の外の異国の空は暗かった。明日の予定は白紙になった。それでも、隣の人まで消えたわけではなかった。

 

 

第二十一章 皇帝ではない未来

 

 帰国後の検査で、希望は具体的な形に分かれた。

 日常の生活へ戻ること。無理のない運動を楽しむこと。競走の強度へ戻ること。それらは、ひとつの『治る』では括れなかった。

 ルドルフは説明を聞き、同じ質問を別の言い方で何度か繰り返した。医師はそのたびに答えた。アヤトも急かさなかった。

 競走復帰の可能性が完全にゼロだと言われたわけではない。しかし、挑むことで失うかもしれないものは大きかった。歩くこと、痛みなく過ごすこと、その先の暮らし。

 ルドルフは、自分の未来を競走の外側から数えたことがなかった。

 診察を終えて外へ出ると、春の風が吹いていた。街では誰もがどこかへ向かっている。自分だけが止まったように見えた。

「今日は決めなくていい」

 アヤトが言った。

 その日、彼女は決めなかった。

 

 一週間後、シービーが訪ねてきた。

 花も、大きな見舞いの品もなかった。小さな菓子の箱を開け、どれがいいと訊いた。ルドルフは一つ選び、二人で茶を飲んだ。

「走りたい?」

「走りたい」

「そうだよね」

 シービーは頷いた。

「走りたいまま、やめることもあるのだろうか」

 ルドルフが訊くと、友人はしばらく窓を見た。

「あると思う。好きじゃなくならないと終われないなら、ずっと終われないものもあるから」

 慰められたというより、考える場所をもらった気がした。

 その夜、ルドルフは競走生活のノートを開いた。最初の靴紐の記録から、七冠のあとまで。勝利だけを追えば短い道が、日々の記録ではずいぶん長かった。

 まだ走りたい。

 その気持ちは変わらない。

 それでも、走りたい気持ちだけに身体の未来を決めさせるべきではないと、少しずつ思い始めた。

 

 引退を決めた朝、アヤトは何も知らず、いつもの時間に来た。

 ルドルフは自分で淹れた茶を出した。少し濃かった。

「引退しようと思う」

 彼は湯呑みを置いた。

「走りたい気持ちは残っている。だが、競走へ戻るために、これからの私を全部賭けることはできない」

 声は震えたが、言い終えられた。

「一緒に、話をしに行ってくれるか」

「もちろん」

 理事長室までの廊下を、二人で歩いた。何度も通った場所なのに、少し長く感じた。

 ルドルフは自分の口で、競走生活を終える意思を伝えた。書類に署名し、今後の治療と専攻課程への在籍について確認した。ひとつひとつは事務的だった。その事務的な順序が、彼女の選択を現実にしていった。

 終わったあと、外へ出た。

「もう、次のレースがない」

 ルドルフはコースを見た。

「でも、未来までなくなったわけではない」

 自分へ言うように続け、それからアヤトへ向き直った。

「アメリカで言ったことを、もう一度言う」

 彼は静かに待った。

「私はアヤトが好きだ。担当である私を守るためではなく、君が君として、私の隣を選んでほしい」

 アヤトは長く息を吐いた。

「俺も、ルナが好きだ」

 ようやく聞けた言葉に、彼女は目を閉じた。

 彼は続けた。

「ルナ。結婚しよう」

「……待て」

 目を開いた。

「今、好きだと言ったところだぞ」

「ああ」

「付き合うという段階を飛ばしていないか?」

「今すぐ式をしようと言ってるわけじゃない。でも、俺はその先まで一緒にいたい」

 ルドルフは彼を見つめた。呆れて、嬉しくて、泣きたくなった。

「ずるいな」

 声が震えた。

「今日、ずっとあった次がなくなったと思っていたのに。とんでもなく長い次を提示する」

「急いで返事をしなくていい」

「今度は、私が急ぎたい」

 彼女は右手を差し出した。

「はい。あなたと結婚したい」

 握られた手に、もう出走前の緊張はなかった。代わりに、知らない暮らしへ向かう震えがあった。

 

 

第二十二章 五十七・二パーセント

 

 引退会見では、最後のレースについて何度も訊かれた。

 ルドルフは、悔いがないとは言わなかった。もっと走りたかったこと、しかし治療と今後の生活を考えて決めたことを、自分の言葉で説明した。

 婚約についても公表することを、二人で決めていた。

 隠し通すために周囲へ余計な嘘を重ねるより、競走の担当関係を終えたうえで選んだ未来として話したかった。ただし、二人きりの夜の細部まで渡すつもりはなかった。

 会場がざわめく中、アヤトはルドルフを見た。彼女は頷いた。

 その小さな合図だけで、十分だった。

 

 学園へ戻ると、シリウスから短い連絡が来た。

『帰ったら説教だ』

 続けて、『おめでとう』とあった。

 シービーは実際に訪ねてきて、二人を順番に眺めた。

「やっと?」

 ルドルフは額へ手を当てた。

「君たちは、もう少し驚けないのか」

「結婚は驚いたよ。好きなのは知ってたけど」

 アヤトが咳払いをした。ルドルフはその横顔を見て、少し気が晴れた。自分ばかり見抜かれていたわけではないらしい。

 

 生徒会長選挙が近づくと、ルドルフは立候補を決めた。

 この学園には、競走引退後も学びを続ける専攻課程があった。代表の任期は限られ、学生であるあいだだけ選挙へ出られる。今の自分には、その立場でできることがあった。

 対立候補は、彼女より長く実務を担ってきた生徒だった。

「七冠を獲ったことと、会長に相応しいことは別です」

 討論会でそう言われ、ルドルフは即座に頷いた。

「その通りだ」

 会場が少し静まった。

「実績で得られるのは、耳を傾けてもらう機会までだ。その言葉を信頼してもらえるかは、その後の行動で決まる」

 彼女は用意した原稿を見ずに続けた。

「私は、走れない者の気持ちを理解しているつもりだった。自分がそうなるまでは。今も、同じ故障をしたから全員の気持ちが分かるとは言えない」

 客席の端に、休養中に話した生徒がいた。

「だから、本人が話せる場所を作りたい。医務室と進路指導とトレーナー部門の間を、本人だけが説明して歩かなくてよい仕組みを」

 対立候補は費用と人手について問い返した。

 ルドルフは答えられることを答え、まだ詰めきれていないことを認めた。以前なら、その不完全さを負けだと思ったかもしれない。

 討論のあと、相手へ礼を言った。

「君が指摘してくれたところは、当落にかかわらず直したい」

 相手は少し驚いた顔で、それから資料を差し出した。

 

 有効票の五十七・二パーセント。

 それが、ルドルフへ託された支持だった。

 圧勝という見出しにはならなかった。四割以上が別の候補を選んだ。その事実を、彼女は重く受け止めた。

 就任の場で、ルドルフは言った。

「私に投票しなかった四十二・八パーセントも含めて、私はこの学園の生徒会長になる」

 拍手の中で、アヤトが立っていた。

 終わったあと、彼はいつもの言葉をくれた。

「今日は喜べ」

 ルドルフは笑った。

「ああ。だが、明日からは仕事だ」

「それは明日言え」

 その夜、二人は新しい家の候補を見に行った。

 階段の少なさ、通勤の距離、台所の広さ。七冠には関係のない条件を、二人で真剣に比べた。ルドルフはその時間が好きだった。

 勝つ以外のことにも、自分はこれほど欲張れるのだと知った。

 

 婚約してから初めての喧嘩は、その家の話から始まった。

 アヤトが、階段のない物件だけを残していた。ルドルフは資料を見て、なぜほかの候補が消えたのかと訊いた。彼は脚の負担を考えたと答えた。

 理由は分かった。自分でも同じ条件を重く見るつもりだった。それでも、相談の前に消されていたことが引っかかった。

「私が選ぶ前に、選べないことにするな」

 声が強くなった。

 アヤトも、すぐには謝れなかった。

「毎日のことだ。後で困ってからじゃ遅い」

「困らない家を選びたいから、私も資料を見ている」

 しばらく、机の上の紙だけが動いた。

 二人とも、相手を大切にしているつもりだった。そのつもりが、相手の返事を聞く前に先へ行かせた。

 ルドルフは窓の方へ歩いた。脚を庇っている自分の姿がガラスに映り、ますます気持ちが尖った。できなくなったことを、自分がいちばん知っている。その自分へ、さらに外から線を引かれるのがつらかった。

 背後で椅子が動いた。

「消した候補も、戻す」

 アヤトが言った。

「反対するなら、理由を言う。決めるのは一緒にする」

 ルドルフは振り返った。

「私も、君の心配を、支配しようとしているとすぐに受け取った」

 声を落とした。

「すまない。ただ、今はできないことを確認するたびに、少しずつ腹が立つ」

「俺に?」

「自分に。ときには君にも」

 正直に言うと、アヤトは少し困った顔をした。それでも逃げなかった。

「分かった。全部は分からないけど、聞く」

 ルドルフは椅子へ戻った。

 結局、その夜に選んだ候補は、彼が最初に残した家の一つだった。階段が少なく、日が入り、学園へ通いやすい。結論は変わらなかった。

 だが、選び方は変わった。

 契約書に並んでいた担当とトレーナーの名前が、これからは暮らしの書類にも並ぶ。そのたび、二人分の意思が必要なのだと知った。

「結婚したら、喧嘩をしないと思っていたか?」

 ルドルフが訊くと、アヤトは首を振った。

「あんたと? それは無理だろ」

「ずいぶんだな」

 彼女は笑った。

 喧嘩をしないことより、同じ机へ戻ってこられることの方を、これから確かめていきたかった。

 

 

第二十三章 二人で歩く速さ

 

 結婚式の朝、ルドルフは鏡の前で動けなくなった。

 衣装のせいではなかった。肩を締めつけないよう直してもらい、歩く長さも確認していた。それでも、鏡の中の自分が知らない人に見えた。

 シリウスが後ろから覗き込んだ。

「今さら逃げるなよ」

「逃げるつもりはない」

「なら、そんな顔するな」

「どんな顔だ」

「三冠の前より緊張してる」

 ルドルフは笑おうとして、うまくいかなかった。

 シリウスは少し表情を変え、肩へ手を置いた。

「綺麗だよ」

 短い声だった。

 ルドルフは振り向き、何か言おうとした。シリウスは先に顔を背けた。

「一回しか言わねえからな」

「ありがとう」

 その言葉を、彼女は素直に受け取った。

 

 式は小さかった。

 家族、友人、学園で支えてくれた人々。大勢に見られることに慣れたはずのルドルフは、その少人数の視線の方がずっと緊張した。

 アヤトが待っていた。

 練習着でも、遠征用の上着でもない。少しぎこちない礼服姿を見て、彼女はようやく笑えた。

「似合っている」

 彼が先に言った。

「君は、少し借りてきたようだ」

「実際、着慣れてない」

 その正直さに、胸の緊張がほどけた。

 誓いの言葉を交わし、指輪を嵌める。彼女の手はレースのあとほど熱くなかったが、少し震えていた。アヤトの指も同じだった。

「皇帝の道ではなくていい」

 ルドルフは静かに言った。

「誰より先にいる必要もない。速くなくていい。ただ、二人で同じ方向へ歩きたい」

 アヤトが頷いた。

 唇が触れた時間は短かった。離れたあと、彼の顔があまりに近くにあり、ルドルフは目を伏せた。

 後ろでシービーが小さく笑った。シリウスの咳払いも聞こえた。

 幸福は、思っていたほど荘厳な顔をしていなかった。

 

 新居での最初の失敗は、鍋の蓋が見つからないことだった。

 荷解きの箱には、食器、書籍、衣類と几帳面に書いてあった。しかし鍋の蓋だけが、なぜか冬物の箱に入っていた。

「君の分類基準を聞きたい」

「最後に余った」

「それは分類ではない」

 ルドルフは笑いながら、蓋を洗った。

 彼女にも失敗はあった。忙しい朝に二人分の予定を組みすぎ、アヤトが一つ変更しただけで昼食の時間までずれた。

「家庭は、生徒会より予定が読めないな」

「会長命令が通じないからな」

「命令した覚えはない」

「朝七時十分に出ると言った顔は、命令だった」

 言い合ったあと、二人で予定表を簡単にした。完璧な暮らしを、初日から完成させる必要はなかった。

 

 新婚旅行では、温泉のある宿へ行った。

 治療の予定と無理のない移動を優先し、観光を詰め込まなかった。ルドルフは部屋へ入ると、畳に座って長く息を吐いた。

「誰も私を会長と呼ばない」

「呼ぼうか?」

「やめろ。今はルナだ」

 夕食のあと、窓辺で茶を飲んだ。庭の灯りが水面へ映り、風が竹を鳴らした。翌日の予定は、朝食だけだった。

「ここに住もう」

「学園へ通えないぞ」

「今だけは、その問題を棚上げしよう」

 アヤトが隣へ座った。ルドルフは自然に肩を寄せた。

 長いあいだ、触れたい気持ちの前に役割があった。今は、相手が同じように寄り添ってくれることを確かめればよかった。

「好きだ、アヤト」

 何度言っても、少し照れた。

「俺も」

 彼女は笑い、彼の手を取った。

 やがて庭の灯りが落ちた。二人の話し声も、窓の外へ届かないほど小さくなった。

 

 

第二十四章 小さな帝王

 

 ルドルフが妊娠を伝えたのは、旅行からしばらく経った夕方だった。

 アヤトは食卓へ箸を並べていた。彼女が帰宅しても上着を脱がずに立っているので、体調が悪いのかと顔を上げた。

「今日、診てもらった」

 声がいつもより小さかった。

「何かあったか」

「……いる」

「何が?」

 ルドルフは呆れたように笑い、目に涙を浮かべた。

「私たちの子どもが」

 アヤトは箸を置いた。

 何か言おうとして、何も言えなかった。ルドルフが手を差し出すと、ようやく近づいた。

「嬉しい。怖い。楽しみだ。全部、一度にある」

「俺も、今そうなった」

 彼女は笑いながら泣いた。彼の手を、自分の手に重ねた。まだ見た目には何も変わっていない。それでも、食卓の向こうにあった未来が変わった。

 

 出産までの日々には、思いがけない不器用さがあった。

 ルドルフは体調の変化を理屈で扱おうとした。昨日できたことが今日できないと、不安になった。アヤトは心配のあまり手を出しすぎ、彼女に一度叱られた。

「何もかも取り上げないでくれ」

「無理をさせたくない」

「何ができるか、一緒に聞いてほしい。できないと先に決めないで」

 彼は謝り、次の受診で一緒に確認した。

 生徒会の仕事も引き継いだ。任期を終える前から副会長へ分担を増やし、年度の区切りで代表を交代した。後輩に席を渡す日、ルドルフは机の上をきれいに片づけた。

 額だけが残った。

 Eclipse first, the rest nowhere.

 彼女はその下へ、以前から大切にしていた言葉を添えていた。強者で居続けることは難しい。だからこそ、役職や実績を正しさの証拠にしない。

 後輩が額を残してよいかと訊いた。

「君たちが考えるために役立つなら」

 ルドルフは答えた。

「従うためではなく、考えるために」

 会長の椅子から立ち上がると、思ったより寂しかった。それでも、帰る家があった。

 

 出産の日、アヤトは時計を見るのをやめられなかった。

 レースの数分とは違う時間だった。速ければよいわけでも、予定通りなら安心とも限らない。医療スタッフの指示を聞き、できることをし、できないことの前で待った。

 ルドルフは彼の手を強く握った。

「今日は、時計を見なくていい」

 苦しい中でそう言われ、彼は思わず笑い、泣きそうになった。

 やがて、産声が聞こえた。

 その声は、競走場で聞いたどんな歓声より小さく、どんな歓声より彼の世界を変えた。

 ルドルフは赤ん坊を見て、何度も瞬きをした。

「生まれた……」

 小さな耳。握られた指。呼吸に合わせて動く胸。

「こんにちは。お母さんだ」

 その自己紹介は、七冠を告げるときよりずっと震えていた。

 

 名前は二人で考えていた。

 トウカイテイオー。

 この世界でウマ娘が受け継ぐ名は、人間の姓だけでは決まらない。家の願いと、その子のために選ぶ呼び名が一つになる。ルドルフは大きな名を与えることを迷った。

「期待を、先に載せすぎるのではないか」

 アヤトは赤ん坊を見た。

「その名前の意味を、この子が自分で作ればいい」

 彼女は長く考え、頷いた。

 見舞いに来たシービーが、眠るテイオーの顔を覗いた。

「どっちに似たかな」

「今決めなくていいだろう」

 ルドルフが言うと、シービーは笑った。

 シリウスは小さな手に指を握られ、露骨に動揺した。

「おい、離さねえぞ」

「握力勝負をするな」

 アヤトの言葉に、部屋が笑いで満たされた。

 

 夜、三人になってから、ルドルフは娘を抱いた。

 速く走れるだろうか。そんな考えが一瞬よぎり、彼女は自分で苦笑した。母親になっても、勝手に何もかも変われるわけではない。

「皇帝にならなくていい」

 小さな耳へ囁いた。

「速くなくても、優秀でなくてもいい。テイオーは、テイオーになればいい」

 赤ん坊は眠っていた。返事の代わりに、温かな重さが腕へ残った。

 アヤトが隣に座った。

 窓の外には、明日また誰かが走る空があった。ルドルフはもう、その先頭を走らない。

 それでも彼女の道は、こんなにも静かに、こんなにも確かに続いていた。

 

 

 

第二部 ハルウララ編

 

第二十五章 一回、勝ってみたい

 

 テイオーが生まれて数か月後、アヤトの部屋には再び担当を探す書類が届くようになった。

 ルドルフの指導歴を見て、期待の大きな候補が何人も紹介された。どの資料にも可能性があった。だが、彼はすぐに選ばなかった。七冠の再現を仕事にしてしまいそうな自分を、少し警戒していた。

 そんな午後、扉が勢いよく開いた。

「こんにちはっ!」

 桃色の髪と、明るい声が飛び込んできた。

「わたし、ハルウララ! トレーナーさんを探してるの!」

 後ろから職員が追いついた。

「ウララさん、まず受付で約束を――」

「ごめんなさーい!」

 謝りながらも、彼女はアヤトを見た。

 彼は立ち上がり、まず椅子を勧めた。ウララは座る前に部屋を見回した。棚には映像資料と本が並び、窓辺に小さな家族写真があった。

「赤ちゃん!」

「俺の娘だ」

「かわいい! お名前は?」

「トウカイテイオー」

「テイオーちゃん。いい名前だね!」

 彼女は写真へ手を振ってから、ようやく椅子へ座った。

 

 職員の持ってきた資料は、薄かった。

 基礎能力、模擬レース、適性。いずれも突出した数字はない。芝より砂のコースで身体を使いやすい。集団の中で位置を保つことが苦手。集中が切れると、周囲へ気を取られる。

 ルドルフとは、あまりにも違っていた。

「レースをしたい理由は?」

 アヤトが訊くと、ウララはすぐ答えた。

「走るの、好きだから!」

「練習で走るのも好きか」

「うん。でも、みんなと一緒に走るのがもっと好き」

 彼女は少し身を乗り出した。

「それでね。一回、勝ってみたいんだ」

 アヤトは資料から顔を上げた。

 七冠でも、無敗でもない。一回。それでも、その願いを小さいと思う理由はなかった。

「まず走りを見せてくれるか」

「今から?」

「着替えられるなら」

「できる!」

 立ち上がる勢いに、椅子が少し鳴った。

 

 コースでウララは、走りながら手を振った。

 知り合いを見つけると笑い、コーナーで外へ膨らみ、直線に入ってから急に頑張った。速くはない。だが、最後に脚を使いたいという気持ちは見えた。

 戻ってきた彼女は、息を切らして笑った。

「楽しかった!」

「楽しそうだった」

「それだけ?」

 アヤトは少し驚いた。

 褒め言葉を待っているだけではないのだと分かった。彼女は自分の走りについて、何か知りたがっていた。

「コーナーで外へ行きすぎる。真っ直ぐ走る力が、横へ逃げている」

「そっかぁ。みんな、曲がるの上手なんだね」

「練習しよう」

 彼女の顔が明るくなった。

「じゃあ、トレーナーさんになってくれる?」

「契約の説明をして、あんたが納得したら」

「する!」

「まだ説明してない」

 ウララは笑い、きちんと座り直した。

 アヤトは費用、練習、出走の判断、身体の確認について話した。難しい顔をすると、別の言い方で説明した。ウララは分からないところを分からないと言った。その素直さに、彼は助けられた。

「楽しいまま、速くなれる?」

 最後に彼女が訊いた。

 アヤトは答えを急がなかった。

「楽しい日ばかりではないと思う。練習が嫌になる日も、負けて悔しい日もある」

「そっか」

「それでも勝ちたいか」

「うん。走るのが好きなのも、なくしたくない」

 彼女は小指を差し出した。

「もしわたし、楽しくなくなってるのに気づかないくらい頑張っちゃったら、止めてね」

 アヤトはその指を見た。

 簡単な約束ではなかった。楽しさを守ることと、望みを支えることは、いつも同じ方向を向くとは限らない。

「気づいたら、一緒に考える。無理をしているときは止める」

「うん!」

 指を絡めた。

 ウララはまだ一度も勝っていないのに、初勝利のように喜んだ。

 

 

第二十六章 砂の靴

 

 高知へ向かう日、ウララは小さな鞄を二つ持ってきた。

 一つは着替え。もう一つは、道中で食べるつもりの菓子だった。アヤトは中身を確かめ、食事と競走前の予定をもう一度話した。

「全部、今日食べるわけじゃないよ」

「そうか」

「帰りの分もある!」

「よかった」

 彼女は胸を張った。

 学園に在籍しながら地方の競走場を拠点に走るため、現地の指導員や施設と連携することになっていた。毎回長い移動を繰り返すのではなく、開催に合わせて滞在し、学園へ戻って学ぶ期間を挟む。アヤト自身も、家庭と仕事の時間を組み直す必要があった。

 ルナは予定表を見て、必要なことを静かに訊いた。

「現地で君が倒れたら、誰が引き継ぐ?」

「補助の担当者を決めてある」

「ならいい。テイオーのことは、こちらでも助けを借りる」

 何でも一人で抱えない。その約束は、家庭にも続いていた。

 

 高知のパドックは、ウララが想像した大きな舞台より近かった。

 観客の顔が見える。売店から食べ物の匂いがする。手すり越しの声が、そのまま耳へ届く。

「ウララ、頑張れよ」

 知らない人に名前を呼ばれ、彼女は勢いよく手を振った。

 アヤトが近づく。

「嬉しいな」

「うん!」

「そのあと、自分の足へ戻ろう」

 ウララは足元を見た。新しい靴に、細かな砂がついていた。練習で慣れたつもりでも、本番の砂は違って見えた。

 デビュー戦は千メートル。短い距離だった。

 アヤトは複雑な作戦を渡さなかった。まず前を見て出ること。周りの音に驚いて顔を上げないこと。最後まで走ること。それぞれを、ウララが自分の言葉で言い直した。

 ゲートへ入ると、急に世界が狭くなった。

 隣の音が大きい。足元を踏み直したくなる。係員が声を掛け、ウララは頷いた。前を見る。前を見る。頭の中で唱えた。

 扉が開いた。

 周りが飛び出した。

 ウララの一歩は、半拍遅れた。慌てて走ると、前から砂が飛んできた。目を細め、顔を横へ向けかける。その間に距離が開く。

 待って。

 そう思った。けれど、誰も待たない。みんな、自分のゴールへ行くために走っている。

 ウララは腕を振った。直線の力をコーナーでも使おうとして、外へ膨らんだ。戻ろうとすると速度が落ちる。練習で言われたことを思い出しても、全部を一度にはできなかった。

 前にいる一人の背中を見た。

 あの人なら、追いつけるかもしれない。

 直線で、ウララは力を込めた。脚が砂を蹴る。少し近づいた。もう少し。そう思ったところで、相手が先にゴールへ入った。

 五人の中の五着。

 自分もゴールを越えた。息が苦しい。足音が止まると、歓声が戻ってきた。

「よく走った!」

 声を掛けられ、ウララは笑おうとした。笑えた。でも、胸の中に小さな硬いものが残った。

 

 アヤトは戻ってきた彼女の靴を見てから、顔を見た。

「どうだった」

「最後ね、抜けると思ったの」

 ウララは前を指した。

「あとちょっとだった。でも、抜けなかった」

「悔しいか」

「うん。ちょっと」

 口にすると、ちょっとより大きくなった。

「じゃあ、次は一人抜くために何ができるか考えよう」

「一着じゃなくていいの?」

「一着になりたい。その途中に、まず一人を抜くための練習がある」

 ウララは指を一本立てた。

「一人抜けたら、今日より前だもんね」

 アヤトは頷いた。

 帰りに食べた菓子は、いつもより少し甘かった。ウララは半分を彼に渡した。

「次のときも、来てね」

「担当だからな」

 その答えに、彼女は安心した。

 トレーナーさん、という呼び名の中に、今日の五着を一緒に覚えている人が入った。

 

 

第二十七章 一人の前へ

 

 ウララの練習帳には、絵が増えた。

 曲がるところに大きな矢印。視線を向ける場所に星。走りながら手を振らない、と書いた行の横には、手を振っている自分の絵があった。

「これは、忘れないため?」

 アヤトが訊くと、ウララは頷いた。

「やっちゃいけないことって、描くと分かる」

 彼はその方法を使うことにした。複雑な言葉を増やすより、一本の線で理解できることもあった。

 ただし、絵を見れば走れるわけではない。コーナーで外へ膨らむ癖は、すぐには直らなかった。急に内へ寄ろうとして、今度は身体が固くなる。

「できない!」

 何度目かの練習で、ウララは珍しく大きな声を出した。

「頭では、こっちって分かってるのに」

 アヤトは目印を近くへ移した。

「全部を一度に直さない。今日は、目を向ける場所だけ」

「足は?」

「あとで」

 ひとつにすると、少しできた。

 ウララはそれを喜び、翌日またできなくなって腹を立てた。上達は階段のように上がるだけではない。そのことを、身体で覚えていった。

 

 次の開催でも、一着は遠かった。

 スタートで遅れ、砂を嫌がり、直線で追って届かない。帰るたび、練習帳へ新しい線が増えた。

 やがてあるレースで、アヤトは一つの作戦を渡した。

「前の人の真後ろに入りすぎない。少し横から、背中を見よう」

「砂が少ないところ?」

「そうだ。ただし、外へ行きすぎると長く走る。広がりすぎないこと」

 パドックでウララはその距離を手で作ってみた。

 ゲートに入る前、手すりの向こうにいつもの売店の女性を見つけた。手を振りかけ、胸の前で止める。代わりに大きく頷いた。

 扉が開いた。

 今日も、最初から前には出られなかった。けれど遅れたことに驚きすぎなかった。前の背中を見て、少しだけ横へ位置を変える。砂が顔へ当たる量が減った。

 コーナーへ入る。

 星の印を思い出す。足元ではなく、曲がった先を見る。身体が自然にそちらへ向いた。外へ膨らむ幅が、いつもより少なかった。

 前の一人が近づいた。

 ウララは嬉しくなり、すぐに全力を出しかけた。まだ。アヤトと練習した場所までは、同じリズムを保つ。

 直線に入った。

 腕を振る。砂を蹴る。前の相手も一生懸命だった。近づくたびに、相手の息が聞こえた。

 並んだ。

 怖かった。こんなに近くで走るのは怖い。それでも、足を止めたくなかった。

 半歩、前へ出た。

 ゴールまで、その半歩を守った。

 戻ってきたウララは、着順を言うより先に指を一本立てた。

「抜いた!」

 アヤトは笑った。

「見ていた」

「わたし、ちゃんと抜いたよ!」

 彼女は飛び跳ねそうになり、疲れた脚でよろけた。アヤトが支えると、照れたように笑った。

 一勝ではなかった。だが、昨日までできなかったことが、今日は競走の中でできた。

 

 その夜、ルナに話すと、彼女は電話の向こうで静かに喜んだ。

「ウララ本人は?」

「ずっと一本指を立てていた」

「よかった」

 少しして、テイオーの泣き声が聞こえた。

 アヤトは話を切り上げようとしたが、ルナは待ってくれと言った。衣擦れの音がして、赤ん坊の声が近づいた。

「父さんが話しているぞ」

 泣き声は止まらなかった。

 アヤトは笑った。七冠の母の説明も、今の娘には効かないらしい。

 電話を切ったあと、彼はウララの記録に『一人、抜いた』と書いた。その横に、次の課題を書きかけてやめた。

 明日でよい。

 初勝利を祝った日のルドルフへ言ったことを、自分にも言い聞かせた。

 

 

第二十八章 見えない悪意

 

 十戦を越える頃、ウララは自分の練習時間を覚えた。

 最初は迎えに来てもらっていたのに、今は少し早くコースへ来る。靴を確かめ、水を用意し、今日は何をするのか訊いた。

 速くなっていた。

 アヤトの記録にも、それは表れていた。コーナーの無駄が減り、最後にもう一度脚を使える日が増えた。しかし相手も成長し、条件も変わる。同じ速さの集団が待ってくれるわけではなかった。

 一着だけが来なかった。

 五着に入った日、ウララは着順板を見て目を輝かせた。

「あと四人!」

 その言葉に、アヤトは笑い、同時に胸が痛んだ。あと四人は、いつも同じ四人ではない。その距離の難しさを、彼女はまだ全部知らなかった。

 

 学園では、組み合わせを不思議がる声が出始めた。

 七冠を育てたトレーナーが、なぜ何度走っても勝てない生徒を担当するのか。能力のある候補を断ったのはなぜか。そうした話は、ウララの耳にも届いた。

 ある日、彼女は笑って報告した。

「どうせ勝てないって言われた!」

 アヤトはペンを止めた。

「それで?」

「まだ勝ったことないよって言ったら、何も言わなくなっちゃった」

 彼女は本当に不思議そうだった。

 アヤトは、誰が言ったのかを静かに確かめた。必要な対応は学園の職員に相談した。しかし、ウララへ悪意の仕組みを無理に教える気にはなれなかった。

 その夜、家庭の食卓で、彼はルナへ話した。

「俺はあの子には、勝つ必要なんてないと思ってる。ただ、楽しく最後まで走ってほしい。悪意に気づかずにいられるなら、その方がいい」

 ルナは箸を置いた。

「そこは、私は少し違うと思う」

 アヤトは彼女を見た。

「勝てなくても、君が担当をやめないという意味なら分かる。だが、ウララ自身は勝ちたいと言っていたのだろう?」

「ああ」

「その願いまで、君が不要と決めてはいけない」

 隣の部屋で、テイオーが眠っていた。小さな寝息が、静かな食卓へ届く。

「悪意を知らないまま守りきれるとも思わない。知ったときに、嫌だと言えて、誰かに頼れて、それでも走ることを好きでいられる方がいい」

 アヤトは長く黙った。

 ルドルフには自分の道を選べと言い、ウララには傷つかない道を選んでやろうとしていた。その違いに、彼女の能力だけでは説明できないものがあった。

「俺が、負けるあの子を見てつらいのかもしれない」

 ようやく言うと、ルナは頷いた。

「それは、君の気持ちだ。ウララの気持ちと、混ぜずに持っていればいい」

 

 翌日、アヤトはウララへ訊いた。

「今も、勝ちたいか」

「うん!」

「最初と同じくらい?」

 彼女は考えた。

「もっとかも。前より近くまで行けるから」

 アヤトはその答えを、手帳に書いた。

「そっか」

「どうしたの?」

「聞き直したかった」

 ウララは少し首を傾げ、それから笑った。

「何回聞いてもいいよ」

 その言葉に、彼は救われた気がした。

 ただし救われたことを、彼女の仕事にしてはいけないとも思った。

 練習を始める前に、今日の目標を二人で決めた。最後に一度速度を上げるため、前半で腕に力を入れすぎないこと。

 勝つための、具体的で小さな一歩だった。

 ウララはその一歩を、自分のものとして走り出した。

 

 

第二十九章 同じ朝の違い

 

 ウララが二度目の春を迎えた頃、テイオーはつかまり立ちを始めていた。

 学園に設けられた託児の部屋へアヤトが娘を預ける朝、ウララが廊下で出会うことがあった。最初は遠くから手を振るだけだったが、やがて小さな指に触れ、名前を呼ぶようになった。

「テイオーちゃん、おはよー」

 赤ん坊は言葉を返さず、ウララの髪を掴もうとした。

「それは抜けないよー」

 ウララが笑うと、テイオーも笑った。

 アヤトは時間を確かめながら、その二人を眺めた。コースで最後方を走るウララの姿とは違う。でも、どちらも同じ彼女だった。

 

 競走のない日に、ウララは寮の友人と洗濯をした。

 砂のついた靴を、最初からほかの衣類と一緒に持ち込んではいけない。何度も注意されて覚えたことだった。流しで泥を落としながら、彼女は次のレースの話をした。

「今度は、最初にびっくりしないようにするの」

「毎回そう言ってない?」

「毎回、びっくりすることが違うんだよ」

 友人が笑った。

 笑われても嫌ではなかった。自分の失敗を、全部悲しい話にせずに言える相手だった。

「でもさ、嫌にならない?」

 友人が何気なく訊いた。

 ウララは靴を洗う手を止めた。

「何が?」

「ずっと、勝てないこと」

 水の音が続いた。

 ウララは考えた。嫌ではないと言えば、嘘になるような気がした。けれど嫌だと言うと、走ることまで嫌になったと思われそうだった。

「負けるのは、やだよ」

 ようやくそう答えた。

「でも、次は勝つかもしれないから」

 友人は頷き、話題を変えた。その気遣いに、ウララは少しほっとし、少し寂しくなった。

 

 高知の朝、アヤトは新しい作戦を説明した。

 いつもより早く位置を上げる。直線だけで追いつこうとせず、コーナーに入る前から前との差を減らす。ウララは図を見て、自分の言葉で確かめた。

「最後の頑張るところを、ちょっと前から始める?」

「全部を前倒しするんじゃない。少しずつ使う」

 パドックで彼女は、いつもの観客へ頷いた。顔を覚えている人が増えていた。勝って見せたいという気持ちも、その分だけ増えた。

 ゲートが開き、今日も前へは出られなかった。

 しかし、ウララは遅れた位置で固まらなかった。前の背中を見て、少しずつ距離を詰めた。道中で息が熱くなる。いつもならまだ待っている場所だった。

 苦しい。

 でも、今日はここで少し使うと決めた。

 第三コーナーで一人の外へ並んだ。相手が速度を上げる。ウララも応じた。そこで予定より力を使ったと分かったが、引くのも怖かった。

 直線へ入る頃には、脚が重かった。

 もう一度頑張ろうとした。身体は動く。だが、思ったほど前へ進まない。さっき抜いた相手に、また抜かれた。

 ゴールのあと、ウララは息を整えながら下を向いた。

 作戦を守ったつもりだった。頑張った。なのに、前より良い結果にはならなかった。

「失敗した?」

 戻るなり訊いた。

 アヤトは首を傾けた。

「試したことの難しいところが分かった」

「でも、抜き返されたよ」

「途中で競りすぎた。俺の説明も、そこでどうするか足りなかった」

 彼女は唇を噛んだ。

「もう一回、やりたい」

 言うと、アヤトは頷いた。

「どこを変える?」

 ウララは図のコーナーを指した。

「ここで、一人に負けたくなくて、いっぱい使っちゃった」

「そうだな」

「一人抜くの、できるようになったのに。それだけ考えてたら、駄目なんだね」

 アヤトはその言葉を聞き、静かに目を細めた。

 彼女はもう、ただ励まされるために戻ってくるのではなかった。自分の走りを、自分で見直し始めていた。

 

 

第三十章 笑顔の注文

 

 三年目に入る頃、ウララは四十を越えるレースを走っていた。

 長期の休みを挟むこともあれば、開催に合わせて続けて出ることもあった。出走数は一気には増えない。天候、体調、授業、移動。数字の間には、いつも普通の暮らしがあった。

 テイオーは言葉を少しずつ覚え、ウララを見つけると『うらら』と呼ぶようになった。

 その呼び方を、ウララはとても気に入った。

「わたしのお名前、言えるんだ!」

 テイオーは得意そうに、もう一度呼んだ。

 走る練習を終えたウララが芝の端で腰を下ろすと、幼いテイオーが数歩だけこちらへ来た。アヤトがすぐ近くに立ち、ルナも見守っていた。

「おいでー」

 ウララが腕を広げる。

 テイオーはよろけ、立て直し、最後の二歩を小さく走った。その身体を、ウララが受け止めた。

「走った!」

 誰より嬉しそうに叫んだのは、ウララだった。

 テイオーの初めての短い駆け足の先に、自分がいた。その日のことを、彼女はあとで何度も思い出すことになる。

 

 その晩、アヤトは遠征用の荷物を詰めていた。

 テイオーが鞄の上へ座り、行かないでと言った。以前は荷物の意味まで分かっていなかったのに、今は分かる。父がこの鞄を持つと、何日か帰ってこない。

 アヤトは娘の前へしゃがんだ。

「仕事へ行ってくる」

「あしたも?」

「明日も」

「ウララ?」

「そうだ」

 娘は口を尖らせた。

 ウララが好きなことと、父に家にいてほしいことは別だった。アヤトは娘を説得して、どちらかを諦めさせる気にはなれなかった。

「帰ったら、一緒に遊ぼう」

「いま」

 即答だった。

 彼は時計を見て、それから鞄を閉じるのをやめた。十分だけ、積み木を並べた。娘はまだ少し不機嫌なまま、彼の置いた積み木を直した。

 ルナは台所からその二人を見ていた。

 子どもが生まれれば、互いを思う気持ちだけで暮らしが整うわけではない。夜に起きる回数、朝の支度、仕事の引き継ぎ。どれも具体的で、ときには疲れから言葉が尖った。

 アヤトが娘を寝かせたあと、ルナは食卓へ予定表を広げた。

「次の滞在中、ここだけ手伝いを頼む」

 彼女は日を指した。

 アヤトはすぐ、自分が戻れるか考え始めた。ルナは首を振った。

「無理に往復するな。ウララの仕事を放り出してほしいわけではない。代わりに、帰った週のこちらの予定を空けてほしい」

「分かった」

「それと、今から申し訳なさそうな顔をしないでくれ」

 彼が目を上げる。

「頼んでいるだけだ。私一人でも平気だとは言わないから、君も全部を一人で埋めようとするな」

 アヤトは椅子へ座り直した。

 ルドルフの引退から、互いに何度も学んできたことだった。それでも場面が変わると、また最初から難しくなる。

「疲れてるか」

「疲れている。幸せかと聞かれても、幸せだと答える。両方だ」

 ルナは茶を飲んだ。

 彼はその言葉に頷き、翌朝の支度を自分がすると言った。大きな約束より、その一つが助かった。

 

 翌日、ウララはテイオーが昨夜少し泣いたことを聞いた。

「わたしのせい?」

 そう言いかけると、アヤトは首を振った。

「違う。仕事へ行く父親に、いてほしかったんだ」

 ウララは考えた。

「じゃあ、帰ったら遊んであげてね」

「そのつもりだ」

「わたしからも、お土産」

 彼女は鞄から、小さな紙の花を出した。昨日、テイオーが好きだと言っていた色で作ったらしい。

 アヤトは受け取り、折れないようにしまった。

 家庭の時間と担当の時間は、ただ奪い合うだけのものではなかった。重ならないところを相談し、重なるところを大切にする。その手間を省けば、どちらかが黙って無理をする。

 出発の前、彼は家へ短く連絡した。ルナから届いた返事には、娘が朝食をこぼした話と、無事に着いたら知らせてくれという一文があった。

 普通の返事だった。

 その普通さを、彼はありがたいと思った。

 

 競走場で声を掛けてくれる人も、増えていた。

 ひたむきに走る姿が好きだ。負けても明るいところがよい。ウララは、その言葉が嬉しかった。誰かの一日を少し楽しくできたのなら、自分も嬉しい。

 だが、ある日写真を頼まれたとき、相手が言った。

「負けても笑顔のウララちゃん、いつもの笑顔で!」

 ウララは笑った。

 写真が撮られ、礼を言われ、相手が去ったあとで、顔が疲れた。

 いつもの笑顔。

 それは自分の顔なのに、誰かに返さなければならないもののように聞こえた。

 アヤトは少し離れたところで見ていた。

「疲れたか」

「ちょっと」

「今日はここまでにしよう」

 ウララは頷いた。彼が職員へ話しているあいだ、手袋の縫い目を指でなぞった。

 負けても笑っている自分は、嘘ではない。

 でも、笑いたくないときの自分は、どこへ行けばいいのだろう。

 

 学園へ戻った夜、ウララは寮の友人の前で少し泣いた。

 理由をうまく言えなかった。勝てないからなのか、笑ってと言われたからなのか、全部なのか。友人は話を整理しようとせず、ティッシュの箱を寄せた。

「今日は笑わなくていいじゃん」

 その一言で、涙が増えた。

 翌朝、ウララは目が腫れたまま練習へ来た。

 アヤトは何があったかと訊いたが、答えを急がせなかった。彼女は準備をしながら、ぽつぽつ話した。

「みんな、負けても平気なわたしが好きなのかな」

 アヤトは手を止めた。

「平気じゃない日もある」

「うん」

「そう言っていい」

「言ったら、がっかりする人もいるよね」

 彼はすぐには否定しなかった。

「いるかもしれない。でも、その人のために、あんたが平気なふりを続ける必要はない」

 ウララは頷いた。ただ、すぐにできるとは思わなかった。

 その日、練習帳の最後へ小さく書いた。

 今日は、ちょっと悲しかった。

 タイムでも順位でもない記録を、初めて自分から残した。

 

 

第三十一章 五十回目の願い

 

 四十九戦、零勝。

 数字を見ていると、ウララは一番左の空欄へ何かを書きたくなった。

 一着が一度もない。知っていることなのに、紙に並ぶと別の重さになる。練習帳にはできるようになったことが増えている。靴は何度も替えた。季節も何度も回った。

 それでも、零だけが変わらなかった。

「最近ね、走る前に考えちゃうの」

 遠征先の部屋で、ウララは言った。

「今日も勝てないのかなって」

 アヤトは向かいに座った。

「前は、走れるのが楽しみだった。今も楽しみなんだけど、その前に怖いが来る」

 彼女は紙の端を折り、また伸ばした。

「五十回目って、みんな言うでしょ。わたしにとっては、次の一回なんだけど」

「そうだな」

「勝ったら、五十回目だから嬉しいんじゃないよ。一回、勝てたから嬉しいんだと思う」

 アヤトは頷いた。

 彼女の望みは、最初より具体的になっていた。それだけ、叶わないことも具体的になっていた。

 

 パドックには、顔を覚えた人たちがいた。

 ウララは一度だけ手を上げた。笑顔は少し硬かった。アヤトはそれを直そうとしなかった。

 作戦は、前半で焦って競らず、コーナーまでに射程を保つこと。砂を受けて顔を上げない。直線へ入ったら、前を追う。派手な奇策ではなかった。今まで積んだものを、今日の一回へまとめる作戦だった。

 ゲートの中で、ウララは小指を握った。

 楽しくなくなっていることに気づかないくらい頑張ったら、止めてね。

 今、自分は気づいている。怖い。それでも勝ちたい。

 扉が開いた。

 最初の数歩は、悪くなかった。前の集団へ離されすぎずについていく。砂が頬に当たっても、目を前へ戻せた。ひとつできた。だが、数えて喜ぶ余裕はない。

 道中で、観客の声が飛んだ。

「負けてもいいぞー!」

 応援だと分かった。

 分かったのに、胸の奥が熱くなった。

 違う。

 ウララは唇を噛んだ。負けるために走っているのではない。平気な顔を見せるためでもない。今日こそ一番前へ行きたいから、ここにいる。

 第三コーナーで、予定より早く力を入れた。

 前の背中が近づいた。抜ける。そう思った瞬間、相手も速度を上げた。ウララは引かなかった。引けなかった。

 第四コーナーで脚が重くなった。

 それでも、直線で腕を振った。

「勝ちたい……!」

 声が漏れた。風に消えた。誰かへ聞かせるための声ではなかった。

 前は遠い。もう一人、抜かれる。身体の中の力を探しても、さっき使った分が戻ってこない。

「わたしだって、勝ちたいよ……!」

 ゴールが来た。

 五十回目も、一着ではなかった。

 

 戻ってきたウララは、アヤトの顔を見た途端に泣いた。

「負けてもいいなんて、わたし言ってないよ……!」

 彼は何も言わず、彼女を静かな場所へ連れていった。

 椅子に座っても涙が止まらなかった。手袋を外そうとして、指が引っかかった。アヤトが手を差し出すと、彼女は頷いた。

「一回でいいの。一回、一番になってみたい」

「ああ」

「みんなが喜んでくれるから、嬉しいって思わなきゃいけないのかな。わたし、応援してもらってるのに、こんなに悔しくて」

 アヤトは息を吸った。

 観客を見ろ、愛されているだろう。以前なら、そう言ったかもしれない。その言葉で自分も安心したかったのだと、今は分かった。

「悔しくていい」

 彼は言った。

「応援が嬉しいことと、勝ちたかったことは、どっちかを消さなくていい」

 ウララは泣きながら首を振った。

「でも、走るのが嫌いになりそうで怖い」

 アヤトは目を伏せ、もう一度彼女を見た。

「少し休もう。次を決める前に」

「やめるの?」

「今、決めなくていい。今日は、次の出走を約束しなくていい」

 その言葉に、彼女はようやく深く息を吐いた。

 笑顔は戻らなかった。

 そのまま一日が終わっても、アヤトは失敗した慰めだとは思わなかった。

 

 

第三十二章 休みの日の名前

 

 ウララはしばらく、競走場へ行かなかった。

 身体を整えるための軽い運動は続けたが、次の出走日は決めなかった。最初の数日は、何をしてよいか分からなかった。授業を受け、友人と食事をし、部屋へ戻る。それだけで夕方になった。

 レースのない週末に、彼女はアヤトの家へ招かれた。

 ルナが昼食を作り、テイオーが床に積み木を並べていた。ウララが入ると、娘はすぐ顔を上げた。

「ウララ!」

「遊びに来たよー」

 元気な声は、無理に作らなくても出た。

 テイオーは積み木の道を説明した。ここが家で、ここがゴール。途中で曲がり、橋を渡る。ウララが一つ倒すと、娘はむっとしたが、すぐに別の形へ置き直した。

「こっちからも、いける」

 ウララはその言葉を聞き、少し黙った。

 

 食後、テイオーが眠ると、三人で茶を飲んだ。

 ルナはレースの話を持ち出さなかった。寮の食事や、最近読んだ本の話をした。ウララは途中で、ずっと聞きたかったことを訊いた。

「ルドルフさんも、走るのが怖かった?」

「ああ」

 返事は早かった。

「強いのに?」

「強いと言われるほど、負けるのが怖くなった時期もあった」

 ウララは湯呑みを両手で包んだ。

「わたし、勝ったことないのに怖い」

「同じ怖さではないだろう。だから全部分かるとは言えない。でも、怖いのに走りたいという気持ちは、知っている」

 ルナの声は静かだった。

「怖くなくなったら、戻ればいいの?」

「怖さが消えるまで待つと、戻れないこともある。今の自分で走りたいかどうか、少しずつ確かめればいい」

 ウララは頷いた。

 大きな正解をもらったわけではなかった。それでも、自分の怖さだけがおかしいのではないと分かった。

 

 帰り際、アヤトが玄関まで送った。

 ウララは靴を履き、顔を上げた。

「アヤトさん」

 彼が少し驚いた。

 ウララも自分の声に照れ、靴のつま先を見た。

「今日は、練習じゃなかったから」

「そうだな」

「トレーナーさんじゃない日も、会っていいんだね」

 彼はゆっくり頷いた。

「もちろん」

 ウララは笑った。

 その名を呼んだからといって、恋愛の気持ちが生まれたのではなかった。担当を続けてもらうために、いつも元気に走る必要はない。自分が走らない日にも、会いたいと思ってもらえる。その確かさに、呼び方が追いついたのだった。

 

 一週間後、ウララは自分からコースへ来た。

 アヤトは予定表を開かずに待った。

「走ってみたい」

「どれくらい」

「最初は、少し」

 彼女は自分でそう言えた。

 軽く走る。砂ではなく芝の端を、いつもの準備運動の速さで進む。身体が温まり、呼吸が深くなる。誰も順位をつけない。それが物足りなくなったところで、彼女は速度を落とした。

 戻ってきた顔は、少し晴れていた。

「レースも、また走りたい」

 アヤトは頷いた。

「勝つつもりで?」

「うん」

 彼女ははっきり答えた。

「でも、負けたら全部駄目だったって思うのは、少しずつやめたい」

「一緒に考えよう」

「今日は、トレーナーさんって呼ぶね」

 彼が笑うと、ウララも笑った。

 名前を知ったから役割の名を捨てる必要はなかった。今ではその呼び名も、彼女が自分で選んだものだった。

 

 

第三十三章 続きを選ぶ

 

 復帰を決めた日の夕方、ウララは練習帳に三つのことを書いた。

 勝ちたい。

 走るのを嫌いになりたくない。

 嫌なときは、嫌と言う。

 最後の一行を書くときだけ、少し時間がかかった。言えば相手を困らせるかもしれない。応援を断ったら、もう来てもらえないかもしれない。それでも、言わずにいることで自分が困るのも嫌だった。

 アヤトは、そのページを勝手に写真へ撮らなかった。広報の資料にも使わなかった。二人の練習帳に書かれた言葉は、二人で使うためのものだった。

 学園の課程を進むにつれ、ウララには進路を選ぶ時期も来た。

 競走を続けるための所属を保ちながら、一般の授業を修了し、専攻の講座へ移る。競走生活の長さと学生の学年を、同じものにはできない。職員はその仕組みを説明し、ウララ自身へ意思を訊いた。

「続けたいです」

 彼女は答えた。

「でも、ずっと続けるって、今は決められないです」

 職員は頷いた。

「そのときどきで、見直していきましょう」

 ウララは少し安心した。今日の選択で、未来全部を縛らなくてよかった。

 

 再び高知へ来た朝、パドックの声は変わらなかった。

 応援してくれる人。写真を撮る人。いつもの笑顔を待つ人。変わったのは、その声を受け取る自分の方だった。

 ウララは手を振り、足元へ戻った。笑いたいから笑った。そのあとは、少し真剣な顔で歩いた。

 アヤトはそれを見て頷いた。

「今日は、途中で競り合いになったらどうする」

「一人だけに勝とうとしない。最後まで走る力を残す」

「前が遠かったら?」

「待ってるだけにも、しない」

 難しいことを、簡単な言葉で持っていく。

 ゲートが開いた。

 砂が飛ぶ。前へ出る足音が重なる。ウララは遅れた分を一度に取り返そうとせず、呼吸を作った。怖さはある。だが、怖いと思ったままでも脚は動いた。

 向正面で前の一人が少し下がった。抜ける場所がある。ウララは外へ膨らみすぎないよう進み、その横へ並んだ。相手が抵抗する。以前ならそこで意地になった。

 今日は、一度息を吐いた。

 並んだままコーナーへ入る。無理に前へ出ず、身体を支える。直線へ向いたとき、まだ腕が動いた。

 仕掛ける。

 一人を抜いた。もう一人の背中が近づく。先頭は遠かった。それでも、最後の自分を途中で使い切らなかったことが分かった。

 ゴールを過ぎ、ウララは大きく息を吐いた。

 一着ではない。

 悔しい。

 けれど、戻ってきたとき最初に言いたいことがあった。

「最後まで、考えて走れた」

 アヤトは笑った。

「見ていた」

「勝ちたかった」

「それも、見ていた」

 彼女は頷いた。

 その二つを、同じ日に言ってよかった。

 

 夜、ウララは練習帳に『悔しかった』と書いた。

 その下に、『また走りたい』と書いた。

 同じ紙に並べても、どちらかが嘘になるわけではなかった。

 

 

第三十四章 母とウララと

 

 テイオーが自分を『ボク』と呼び始めた頃、ウララは六十を越える競走を経験していた。

 娘は何でも競争にしたがった。玄関まで、靴を履くまで、積み木を片づけるまで。負けるともう一度と言い、勝つと何度でも報告した。

「かーさん、ボクかった!」

「見ていた」

「もういっかい!」

「勝っても、もう一回なのか」

 ルナが呆れると、テイオーは大きく頷いた。

 アヤトは笑いながら、娘の靴を揃えた。自分たちの血筋を持ち出さなくても、この子は今、勝つことを楽しんでいる。それをただ見ていたかった。

 

 ウララが学園へ戻る日を、テイオーは覚えるようになった。

「きょう、ウララ?」

 朝食のたびに訊く。違う日だと分かると残念そうにし、会える日には急いで食べる。

 ある午後、ウララは芝生でテイオーとかけっこをした。短い距離を、娘の速さに合わせて走る。アヤトとルナは少し離れて見守った。

 テイオーは途中で転んだ。

 ウララはすぐ立ち止まった。痛いかと訊き、膝を見た。娘は泣きそうな顔で、それでも立ち上がろうとした。

「まけた」

「今は、痛い方が先だよ」

 ウララが言った。

 テイオーは驚いた顔をした。ウララはしゃがんで、砂を払った。

「走りたくなったら、もう一回しよ」

 娘はしばらく膝を見て、それから頷いた。

 ルナはそのやり取りを、黙って見ていた。自分が教えようとしていたことを、ウララは別の声で娘へ渡していた。

 

 休憩のとき、テイオーが訊いた。

「ウララ、なんかいかった?」

 ウララは水筒を置いた。

「まだ、零回」

「いっかいも?」

「うん」

「じゃあ、よわい?」

 ルナが口を開きかけたが、ウララは先に答えた。

「レースでは、なかなか前に行けないよ」

 明るさで押し切る声ではなかった。

「でも、前よりできることも増えたんだ」

「いっぱいまけても、たのしい?」

 ウララは少し考えた。

「ずっと楽しいわけじゃないよ」

 テイオーは黙って聞いた。

「負けたら悔しい。泣く日もある。走る前に怖くなることもある」

「じゃあ、なんではしるの?」

「勝ちたいから。それと、走ってると、やっぱり好きだなって思うときがあるから」

 テイオーは水筒の蓋を回した。難しいところもあったのだろう。それでも、聞き流してはいなかった。

「ボク、いっぱいかつ」

「わたしの一回は、取らないでよー」

 ウララが少し笑うと、娘も笑った。

「ウララも、かって!」

「うん。頑張る」

 ルナはその言葉に、かつてより重いものを感じた。ウララは、簡単に叶うと思って返事をしているのではなかった。

 

 夜、テイオーは母の古い映像を見たがった。

 画面の中のルドルフは先頭でゴールする。娘はそのたび手を叩いた。ルナは少し照れ、アヤトは娘の隣で一緒に見た。

「かーさん、すごいね」

「ありがとう」

「ボクも、いっぱいかつ」

 娘は画面へ向き直り、それから続けた。

「ウララみたいに、いっぱいはしる」

 ルナはアヤトを見た。

 二つの願いが、娘の中では自然に並んでいた。どちらかをもう一方の反対にしなくても、同じ未来へ持っていける。

 ルナはその小さな背中に手を置いた。

 今夜は説明を足したくなかった。テイオーが自分で見つけた言葉を、そのまま残しておきたかった。

 

 

第三十五章 比べられる二人

 

 テイオーは、同年代の子どもたちの中で目立ち始めた。

 走り出すときの身のこなしが軽い。競り合えば夢中になり、負けると悔しがる。周りの大人が、母親の名前を口にした。

 最初、ルナも嬉しかった。

 自分に似ていると言われると、娘が近く感じられた。だが、その言葉が娘の未来を先に決め始めると、嬉しさだけでは受け取れなくなった。

「きっと七冠だね」

 そう言われ、テイオーは意味を全部知らないまま笑った。

 その隣にウララがいると、比較は別の方向へ向いた。

「お父さんも、いずれは娘さんに専念するんでしょう」

「ハルウララに使っている時間を、あの子に使えば」

 声は小さかった。小さければ届かないと思われていたのかもしれない。

 ウララには聞こえた。

 

 その日の練習で、彼女はいつも通り走った。

 アヤトは集中が途切れる瞬間に気づいたが、すぐには問い詰めなかった。終わってから、何かあったかと訊いた。

「何でもない」

 答えたあと、ウララは自分で首を振った。

「何でもなくない」

 夕方のトレーナー室で、テイオーがソファに眠っていた。託児の時間が終わり、ルナが迎えに来るまでの短い間だった。

 ウララは娘を見た。

「テイオーちゃん、きっと速くなるね」

「そうかもしれない」

「わたしも、応援したい」

 その気持ちは嘘ではなかった。だからこそ、次の言葉を言いにくかった。

「でも、わたしがトレーナーさんを独り占めしてていいのかな」

 アヤトは椅子を寄せた。

「そう言われたのか」

 ウララは頷いた。

「前だったら、嫌だって思っただけかも。でも今、ちょっとそうなのかなって思っちゃった」

 手を膝の上で握る。

「ルドルフさんは七冠で、テイオーちゃんもきっと強くなる。それなのに、わたし、まだ一回も」

 そこで声が詰まった。

 アヤトは彼女の言葉が終わるのを待った。

「俺が誰を担当するかは、俺と本人が話して決める。あんたが、俺の将来のために身を引く必要はない」

「でも」

「テイオーはまだ子どもだ。今は、専門の競走のために育てているわけじゃない。あの子の未来を理由に、あんたの今を減らさない」

 ウララは俯いた。

 そのとき、小さな足音がした。

「ウララ?」

 テイオーが起きていた。

 娘は近づき、ウララの膝へ手を置いた。

「いなくなるの?」

「まだ、そんな話じゃないよ」

 ウララは笑おうとしたが、うまくいかなかった。

 テイオーは彼女に抱きついた。

「ボク、ウララといっしょがいい」

 小さな腕が、背中へ届こうとする。

「ボク、いっぱいかつよ。でも、ウララもいっぱいはしる。それじゃダメ?」

 ウララの目から涙が落ちた。

「ダメじゃないよ」

 娘を抱き返した。

「全然、ダメじゃない」

 アヤトは二人を見ていた。娘の言葉で問題の全部が解決したとは思わなかった。だからこそ、翌日、学園へ正式に相談した。子どもと現役の競走者を比べ、担当関係の解消を当人へ示唆する声を、ただの感想として放っておきたくなかった。

 

 数日後、ルナがウララと二人で話した。

 彼女はすでに生徒会長ではなかった。卒業後、学園の相談事業へ協力する立場にいたが、夫の担当に関わる判断では自分の立場を明らかにし、決定からは距離を置いていた。

「テイオーを大切にしてくれて、ありがとう」

 まずそう言った。

「だが、あの子を好きでいることと、比較されて傷つくことは両立する。嫌な気持ちになった自分を、責めなくていい」

 ウララは目を上げた。

「ちょっとだけ、羨ましかった」

「そうか」

「速くなりそうって、みんなに言ってもらえるの」

 ルナは頷いた。

「言ってくれてよかった」

 ウララは泣かなかった。その代わり、大きく息を吐いた。

 羨ましさを認めても、テイオーが大好きなことは消えなかった。

 

 

第三十六章 白い会議室

 

 ウララの競走継続について、学園に意見が集まるようになった。

 すべてが悪口ではなかった。無理をさせていないか。人気が出たことで本人がやめたいと言えなくなっていないか。成績以外の評価ばかりを与えることも、彼女を競走者として軽んじていないか。

 アヤトは読み終えたあと、しばらく机から動かなかった。

 反論できるものはあった。しかし、耳を塞げばよいものばかりではなかった。

 面談にはウララも参加することになった。

 職員、現地の指導員、医療面の担当者、アヤト。ルナは家族として話を聞いたが、会議の決定には加わらなかった。

 ウララは白い机を見て、少し緊張した。

 自分の競走について、こんなに大人が集まっている。嬉しいような、もう終わりを決められるような気持ちだった。

 担当職員が、最初に本人の気持ちを訊いた。

「続けたいです」

 ウララは答えた。

「勝てないけど、まだ勝ちたいです」

 誰も笑わなかった。

 次に、体調と練習について確認された。痛みがあるか。疲れが翌日以降にどう残るか。出走を断ったことはあるか。ウララは分かる範囲で答え、分からないことはアヤトと記録を見た。

 人気や取材の話になると、彼女は少し黙った。

「笑ってって言われるのが、嫌なときはあります」

 声は小さかったが、言えた。

「そういうときは、断りたいです」

 職員が頷き、対応を確認した。

 会議は、続けたいという一言だけで終わらなかった。負担の上限を決め、診察と面談を定期的に行い、本人がいつでも見直せるようにした。勝てると約束できないことも、アヤトははっきり言った。

「それでも、勝つための準備は続けます。結果が出ていないことを、楽しさで埋め合わせたことにはしません」

 ウララは彼を見た。

 その言葉が、今は嬉しかった。

 

 会議が終わったあと、ウララはトレーナー室へ戻った。

 アヤトはまだ少し疲れた顔をしていた。彼女は机の前に立ち、訊いた。

「わたしがどうしたいかって、わたしが決めてもいいんだよね」

 彼は頷き、何か言おうとした。

 声が出なかった。

 長いあいだ、勝たせられない責任と、やめさせたくない気持ちが絡まっていた。彼女の望みを守っているつもりで、自分の望みを押しつけていないか。その問いを、会議の間ずっと持っていた。

 ウララが近づいた。

「トレーナーさん?」

 彼は目を拭った。

「ああ。決めていい。ただ、身体の危険は一緒に止める。続けると決めても、変えていい」

 ウララは頷き、そっと彼の肩に手を置いた。

「いっぱい、考えてたんだね」

「考えてた」

「わたしも」

 彼女は少し笑った。

「最初みたいに、何も知らないで走ることはもうできない。負けたら悔しいし、嫌なことを言われたら嫌だって分かる」

 アヤトは黙って聞いた。

「それでも、走るの、まだ好きだよ」

 その声は、最初の日より静かだった。

「だから、もう少し一緒に走ってください」

 彼は立ち上がり、彼女へ手を差し出した。

「こちらこそ」

 握手をすると、ウララは笑った。

 最初の契約のように飛び跳ねはしなかった。代わりに、自分の手の力を確かめるように、しっかり握った。

 同じ道へ戻ったのではなかった。

 知ったことを全部持って、同じ方向を選び直したのだった。

 

 会議の結論が出たあとも、学園の声が一つになったわけではなかった。

 ある職員は、やはり勝利の見通しが薄いまま出走を重ねることに懸念を示した。別の職員は、本人の意思を尊重する以上、成績だけで線を引くべきではないと言った。ウララは、その話の一部をあとから聞いた。

 以前なら、反対する人は自分を嫌いなのだと思ったかもしれない。

 今は、そうとも限らないと分かる。分かるから、余計に複雑だった。

「わたしが続けたいって言っても、心配する人はいるんだね」

 アヤトは頷いた。

「いる。続けることで起こることも、やめることで失うことも、全部は先に分からない」

「じゃあ、どうしたら安心してもらえるの?」

「全員を安心させるために走らなくていい。必要な確認を続けて、心配の中に役立つものがあれば受け取ろう」

 ウララは黙って考えた。

 反対の声を消すことが、走るための条件ではない。それでも、反対されたことを忘れなければ走れない日もあるだろう。そんな自分にも、少し慣れていく必要があった。

 

 次の開催を前に、ウララは一度、出走を見送った。

 大きな故障ではなかった。練習後の疲れがいつもより長く残り、医療担当者から負荷を落とすよう助言された。アヤトがどう思うか訊く前に、彼女は言った。

「今回は、休む」

 自分でも少し驚いた。

 走りたいと言ったばかりなのに休んだら、本気ではないと思われるかもしれない。そういう不安はあった。それでも、身体を動かしたときの重さを無視したくなかった。

 アヤトは頷き、予定表を書き換えた。

「言ってくれて助かった」

 ウララはその手を見た。

 怒られない。がっかりした顔もされない。走り続けたいという願いの中に、今日走らない選択が入ってよかった。

 空いた日に、彼女は現地の売店へ顔を出した。女性が出走表を見ていないと言い、休むと説明すると、温かい飲み物を出してくれた。

「見に来るだけの日があってもいいんだよ」

 ウララはカップを持ち、競走場の音を聞いた。

 自分が走らなくても、開催は進む。別のウマ娘が勝ち、誰かが負ける。その当たり前の大きな世界に、自分も一人としている。

 次のレースを見ながら、ウララは初めて観客の場所から相手の仕掛けを考えた。あそこで動くんだ、と小さく呟く。

 休んだ日にも、持ち帰れるものはあった。

 帰りの練習帳に、彼女は『休むって言えた』と書いた。その下に、見たレースの小さなコース図を描いた。

 

 

第三十七章 あと一人

 

 七十戦を越えても、ウララの零は変わらなかった。

 けれど競走の内容まで同じではなかった。前に取りつける日があり、直線で伸びる日があり、最初から流れに乗れず終わる日もあった。アヤトは着順の横に、その違いを細かく残した。

 ウララも記録を読むようになった。

 最初は数字より絵を好んだが、今では通過の位置や最後の脚の使い方も訊いた。難しい説明をされると、分からないと言う。分かるまで別の言葉にする。その手間は、二人の普通になっていた。

「今日の相手も、前に走った人?」

「何人かいる。前より良くなっている人もいる」

「じゃあ、同じ作戦じゃないね」

 アヤトは頷いた。

 相手が成長することを、彼女はもう知っていた。

 

 ある開催の日、パドックのウララは落ち着いていた。

 少し湿った砂を、返しの動きで確かめてきた。軽く走れている。アヤトは、前を追うために急ぎすぎないことを最後に伝えた。

「行けそうなときほど、身体の形を崩さない」

「手だけいっぱい振らない」

「そう」

 ウララは頷き、ゲートへ入った。

 スタートで大きく遅れなかった。

 前の集団に近い。そこへ気持ちが上がる。だが、ウララはすぐに呼吸へ戻った。近いからといって、今全部使う理由にはならない。

 道中、砂が脚へ跳ねた。

 嫌だったが、慣れていた。前を見る。半歩ずつ、相手との距離を確かめる。コーナーへ入るとき、前の一人が外へ膨らんだ。ウララは自分の線を守り、その内側で距離を縮めた。

 こんなに近い。

 胸が高鳴った。

 第三コーナーのあと、アヤトと決めた場所で少しずつ力を使った。前の背中が、いつものように遠ざからない。直線へ向いたとき、数人が視界の端へ移った。

 あと一人。

 その言葉が、頭の中へ飛び込んだ。

 ウララは追った。腕を振り、砂を蹴り、前の影へ近づいた。相手も必死だった。もうひとつ速度を上げ、先頭を守ろうとしている。

 近づいた。

 でも、並べなかった。

 ゴールの柱が先に来た。

 二着。

 

 ウララはしばらく、自分が二番だったと理解できなかった。

 前にいたのが一人だけだった。そのことが嬉しくて、悔しくて、どちらの顔をすればいいか分からない。

 戻るとアヤトが立っていた。彼の表情にも、同じ二つがあった。

「あと一人だった」

「ああ」

「本当に、あと一人」

 彼女は指を一本立てた。昔、一人抜いたときに立てた指と同じだった。

 涙が出た。

「今日、勝てると思ったのに」

 アヤトは頷いた。

「俺も思った」

 その返事を聞いて、ウララはさらに泣いた。自分だけが見た幻ではなかった。彼も同じ一勝へ手を伸ばしていた。

 落ち着いてから、二人は映像を見た。

 最後の動きに改善の余地はあった。しかし、それを直せば必ず逆転できたと言えるほど単純ではなかった。相手は強かった。ウララもよく走った。それでも、二着だった。

 彼女は画面の中の先頭へ、小さく言った。

「おめでとう」

 声は少し不機嫌だった。

 アヤトが笑うと、ウララは睨んだ。

「悔しくても、おめでとうは言っていいでしょ」

「そうだな」

 帰りに、二人は温かい食事を取った。

 ウララはいつもよりよく食べた。食べながらも何度か悔しがり、そのたび同じ場面を説明した。アヤトは初めて聞くように聞いた。

 一着になった日の予行演習ではなかった。

 二着になった今日を、ちゃんと一日として過ごした。

 

 

第三十八章 勝つ子の絵

 

 テイオーが子ども向けのかけっこに出る日、ウララは自分の出走前より早く会場へ来た。

 小さな旗を作っていた。文字は少し曲がっていたが、『テイオー』と大きく書いてある。

「それ、恥ずかしいよ」

 娘はそう言いながら、何度も旗を見た。

「応援するからね!」

「ボク、勝つよ」

 テイオーは胸を張った。

 ルナは靴を確かめ、アヤトは娘の話を聞いた。誰かを押さないこと。転んだら痛みを確かめること。勝ちたい気持ちは、そのまま持っていてよいこと。

 小さなスタートの合図で、子どもたちが走り出した。

 テイオーは速かった。

 最初の数歩で前へ出て、そのまま腕を振った。ウララは誰より大きな声で名前を呼んだ。娘が一着で線を越えると、旗を振るのも忘れて両手を上げた。

 テイオーは、真っ直ぐウララへ走ってきた。

「かった!」

「見てたよー!」

 飛び込んだ身体を受け止め、ウララは笑った。

 その横で、また比較の声が聞こえた。

「やっぱり才能が違うね」

「あの歳で、もう――」

 ルナが静かに向き直った。

「テイオーを褒めるために、ほかのウマ娘を下げる必要はない」

 声は大きくなかった。それでも、周囲は口を閉じた。

「今日は子どもたちの競走だ。この子が頑張ったことを、そのまま見てほしい」

 彼女は娘へ目を戻した。テイオーは母の顔を見ていた。

 

 帰り道、娘が訊いた。

「なんで、ウララと比べるの?」

 ルナは少し歩く速さを落とした。

「違う人を並べた方が、分かりやすいと思うことがあるんだろう」

「ボクはボクでしょ」

「ああ」

「ウララはウララでしょ」

「その通りだ」

 テイオーは首を傾げた。

「へんなの」

 その言葉で話を終え、道端の花へ目を向けた。

 ルナは、娘が大人より深く理解していると美化するつもりはなかった。知らないから言える単純さもある。これから娘自身が比較し、羨み、傷つくこともあるだろう。

 それでも、今日のこの言葉を覚えておきたかった。

 

 夜、テイオーは床で絵を描いた。

 三人が走っている。先頭は自分。次が母。最後にウララ。アヤトはコースの外で、少し大きすぎる手を振っていた。

「母さんは二番なのか」

 ルナが言うと、娘は頷いた。

「ボクが一番だから」

 その率直さに、アヤトが笑った。

「ウララは三番?」

「うん。でも、みんなゴールする」

 紙の端には、笑っている三人がもう一度描かれていた。

 テイオーは勝ちたい。母にも勝ちたい。ウララにも前を譲るつもりはない。それでも、後ろにいる人を消す必要はなかった。

 ルナは絵を受け取った。

「これは、取っておこう」

「上手だから?」

「それもある」

 彼女は笑った。

「いつか、君にもう一度見てもらいたい」

 

 その数日後、シービーが家へ来た。

 テイオーは絵を見せ、自分の勝利を報告した。シービーは真剣に聞き、次は一緒に散歩しようと言った。

「かけっこじゃないの?」

「散歩にも、いいものがあるんだよ」

 娘が眠ってから、シービーはアヤトへ訊いた。

「ウララは、最近どう?」

「勝てない。よくなっているところはある」

「そっか」

 軽い声だったが、軽く扱ってはいなかった。

「アタシ、あの子が悔しがるようになったの、少し安心した」

 ルナが頷いた。

「笑うことしか許されない場所には、したくない」

 アヤトは二人を見た。

 自分だけで守る話ではない。ウララには友人がいて、指導員がいて、話せる大人がいる。その広さが、長い競走生活を支えていた。

 窓辺の娘の絵が、夜風で少し揺れた。

 

 

第三十九章 百という数字

 

 八十戦、九十戦と、記録は増えた。

 ウララの名前が、競走場の外でも知られるようになった。取材が入り、応援の手紙が届き、売店の女性が知らない土地から来た客の話をした。

「あなたを見に来たんだって」

 ウララは嬉しかった。

 自分のために時間を使い、遠くから来てくれる。そのことを軽く受け取りたくなかった。だからこそ、負けたあとにどんな顔で戻ればよいのか、また迷う日があった。

 アヤトは取材の予定を詰めなかった。

 本人が話したい日は話し、競走へ集中したい日は断る。断ったことで残念がる相手もいたが、ウララは少しずつ自分で伝えられるようになった。

「今日は、レースのお話だけにしたいです」

 初めてそう言えた日、彼女はあとで小さく拳を握った。

 

 百戦目が近づくと、数字が本人より先に歩き始めた。

 百回負けても諦めない。負け続けるから愛される。そんな見出しが並ぶ。ウララは記事を読み、首を傾げた。

「まだ、百回目は負けてないよ」

 アヤトは頷いた。

「そうだ」

「勝つかもしれないのに」

 彼女の声は怒鳴るほど強くなかった。だが、確かな不満があった。

 アヤトは取材の場で、その点を繰り返し説明した。節目を迎えることと、敗北を予定することは違う。ウララ自身も、笑いながらではなく、真面目な顔で言った。

「わたし、勝ちに行きます」

 

 百戦記念のレース当日、パドックはいつもより人が多かった。

 見慣れない顔が並ぶ。声の量が違う。ウララは嬉しさと緊張で、普段より歩幅が大きくなっていた。

 アヤトが気づき、少しゆっくり歩くよう伝えた。

「今日の足は、百本じゃない。いつもの二本だ」

 ウララは一瞬きょとんとし、それから笑った。

「いっぱいあったら、速いかな」

「靴を用意するのが大変だ」

 短い冗談で、息が通った。

 作戦は変えなかった。前半で無理をせず、ただ離されすぎない。コーナーで外へ膨らまず、直線へ脚を残す。今日だけ特別な自分になろうとしないことだった。

 ゲートに入ると、歓声が壁越しにも響いた。

 扉が開いた瞬間、ウララは力んだ。

 最初の一歩が大きすぎた。立て直す間に周りが前へ行く。焦りが来た。いつもなら整えられる呼吸が、今日は少し浅かった。

 道中、前へ追いつこうとして脚を使う。

 砂が飛ぶ。声が重なる。自分の名前ばかりが聞こえるのに、身体は思ったほど動かない。ウララは歯を食いしばった。

 第三コーナーで、外へ出る場所を探した。

 そこに別の走者がいた。半歩待つ。待った分を取り返そうとして、また力む。直線へ向いたときには、脚が重くなっていた。

 それでも最後まで追った。

 前の一人を見て、腕を振った。追いつかない。白い線が来る。ゴールを越えたあと、ウララはしばらく顔を上げられなかった。

 十人の中の九着。

 百戦、零勝になった。

 

 拍手があった。

 ウララはその音を聞き、少しだけ目を閉じた。嬉しい。悔しい。その二つが、以前より大きく同時にあった。

 戻ると、アヤトはいつものように水を渡した。

「今日は、最初から力んだ」

 彼女が言った。

「そうだな」

「百回目なのに、まだ失敗するね」

「百回目でも、初めての百回目だからな」

 ウララは少し笑った。

「次は、百一回目が初めて」

「ああ」

 取材で感想を求められると、彼女は汗を拭いて答えた。

「来てくれて、嬉しかったです。でも、勝ちたかったです。今日は、うまくできなかったところがありました」

 それは求められていた感動の台詞とは違ったかもしれない。

 しかし、その日のウララ自身の言葉だった。

 

 

第四十章 大きすぎる声

 

 百戦を越えてから、ウララの競走はさらに多くの人に見られるようになった。

 ある交流開催では、著名な指導者が準備に協力し、取材も増えた。アヤトは外からの助言を歓迎した。自分が見落としていることを、違う目が見つけるかもしれない。

 助言者は映像を見て、ウララ本人へ話を聞いた。

 彼女は最初、偉い人に何を答えればよいか分からず、笑ってばかりいた。だが、足元の感覚を具体的に訊かれると、少しずつ自分の言葉が出た。

「砂がいっぱい来ると、顔が上がっちゃう。でも、外へ行くと遠くなる」

「その両方を考えているんだね」

 そう返され、ウララは嬉しそうに頷いた。

 誰かが来れば急に勝てるという話ではなかった。普段の準備を別の視点で見直し、本人が使えるものだけを足した。

 アヤトはそのことを何度も説明したが、周囲の期待は勝手に膨らんだ。

 今度こそ。

 ついに初勝利か。

 ウララはその言葉を、嬉しいだけでは聞けなくなっていた。

 

 百六戦目のパドックには、人の壁があった。

 声が近いのに、一人ひとりの顔を見分けにくい。どこを向いても、自分の名が呼ばれた。ウララは手を上げ、それからアヤトの顔を探した。

 彼はいつもの場所にいた。

 その事実に、少し安心した。

「今日も、いつもの準備をする」

「うん」

「聞こえる声を全部受け取らなくていい。走る場所はコースだ」

 ウララは頷いた。

 ゲートへ入る直前、笑顔を求める声がした。彼女は顔を向けなかった。今は前を見る。それを、自分で選んだ。

 スタート。

 周囲の加速が鋭かった。

 ウララはついていこうとしたが、数歩で位置が下がった。前から砂が飛ぶ。顔を上げずに走る練習を思い出す。できた。しかし、できたからといって前との差が消えるわけではなかった。

 道中で呼吸が苦しくなった。

 相手は同じように走っているのに、自分の方が多くの力を使っているように感じる。ウララは姿勢を立て直し、残りの距離を考えた。ここで全部使えば直線がもたない。でも、残しすぎても届かない。

 コーナーで一人の後ろへ取りついた。

 少しだけ前が近づいた。そこで外へ出ようとしたが、相手も速度を上げた。ウララは食らいついた。脚が重い。腕も重い。それでも止めたくなかった。

 直線へ出る。

 声が一段大きくなった。

 ウララ、ウララ。その音が背中を押した。押された気がした。だが、身体の力は声だけでは増えない。

 彼女は最後まで走った。

 十着だった。

 

 戻る途中、ウララは拍手に小さく手を上げた。

 控室に入ると、椅子へ座ったまましばらく動かなかった。アヤトは取材の開始を遅らせてもらった。

「ごめんね」

 ウララが言った。

「みんな、いっぱい準備してくれたのに」

「謝らなくていい」

「でも」

「助けてもらったことへの礼と、勝てなかったことへの謝罪は分けよう。あんたは最後まで走った」

 彼女は水を飲んだ。喉が痛かった。

「勝ちたかった」

「ああ」

「来てくれた人、がっかりしたかな」

 アヤトは少し考えた。

「した人もいると思う。勝ってほしいと願っていたなら。でも、その気持ちを全部、あんたが片づける必要はない」

 ウララは目を閉じた。

 自分もがっかりしていた。それを、誰かの期待を裏切った罰のように扱わずに持っていてよかった。

 

 取材のあと、協力してくれた指導者へ礼を言った。

 相手は結果だけでなく、今日できた点とできなかった点を話した。ウララは頷き、次に試したいことを一つだけ訊いた。

 帰り道、観客席は空になっていた。

 大きな声が消えると、風と足音が戻った。ウララは砂のコースを振り返った。

「また、ここで走るんだね」

「あんたが望んで、身体が大丈夫なら」

「うん」

 彼女は頷いた。

 注目が去ったあとにも残る願いを、もう一度確かめた。

 

 

第四十一章 二着の春、三着の雨

 

 百六戦目の大きな騒ぎが過ぎても、ウララの毎日は続いた。

 起きる。食べる。身体を確かめる。練習し、休む。洗濯をし、家族へ連絡し、テイオーから届いた絵を見る。世間の声が大きくなっても、脚を動かすのはその普通の時間だった。

 アヤトは新しい靴の減り方を見た。

 ウララは、また靴かと笑った。

「トレーナーさん、わたしの顔より靴を見てない?」

「顔も見てる」

「じゃあ、今日は何の顔?」

「早く練習したい顔」

「当たり!」

 笑いながら立ち上がると、少し腰を伸ばした。その動きにアヤトが目を向けた。

「張るか?」

「ちょっと。いつものくらい」

「いつもの、を記録しよう」

 彼女は頷いた。若い頃より、回復に時間が必要な日が増えていた。特別な事件ではなく、積み重ねとして現れる変化だった。

 

 百九戦目、春の高知。

 パドックでウララは、落ち着いた顔をしていた。大きな注目の中で走ったあと、いつもの距離の声がありがたかった。

 アヤトは無理に初勝利の言葉を出さなかった。前半の位置と、仕掛ける場所を確かめる。ウララも、自分ができることへ目を向けた。

 ゲートが開き、彼女はまず前を見た。

 大きく遅れなかった。砂を受ける量も、今日は耐えられた。道中で前との間隔が保てる。身体がよく動く日だと分かったが、その嬉しさで速度を上げないようにした。

 コーナーへ入る前、外の一人が動いた。

 ウララはすぐには反応せず、前にいる相手との距離を見た。ここで広がりすぎない。練習帳に描いた星の位置へ目を向ける。

 曲がり終えると、前が近かった。

 仕掛ける。

 腕を振るたび、砂が後ろへ飛んだ。相手の背中が一つずつ横へ移る。直線で、先頭がはっきり見えた。

 あと一人。

 何度も願った形だった。

 ウララは追った。先頭も伸びる。苦しい。だが、今日は最後まで自分の身体が繋がっていた。崩れず、逃げず、白い線まで力を使った。

 二着だった。

 ゴールのあと、彼女は膝へ手をつきたくなったが、歩き続けた。身体を落ち着かせ、ようやく顔を上げたとき、悔しさが押し寄せた。

「今日も、あと一人だった」

 アヤトへ言う声は震えた。

「うん」

「でも、最後までちゃんと追えた」

「ああ」

 彼女は涙を拭った。

「次も、勝ちに行く」

 その言葉が、初めの頃よりずっと静かに響いた。

 

 次の百十戦目は、雨を含んだ砂の上だった。

 パドックの地面に水の跡が残り、観客は傘を持っていた。ウララは身体を冷やさないよう上着を着て歩き、直前にアヤトへ渡した。

「前と同じつもりで踏まない」

 彼が言うと、ウララは頷いた。

「今日の地面を見て走る」

 スタート後、足元の感触はやはり違った。砂が締まり、場所によって靴の返りが変わる。ウララは転ばないよう身体を保ちつつ、前へついていった。

 道中で速度を上げた相手に、すぐには追いつけなかった。前走のように近くはない。それでも、焦って形を崩さず進む。コーナーで距離を減らし、直線へ入ってから力を使った。

 一人を抜いた。

 もう一人には届かない。さらに先にいる背中も遠かった。それでも、最後まで自分の脚を運んだ。

 三着。

 ウララは戻ると、濡れた前髪を掻き上げた。

「前より後ろだけど、今日の方が難しかった」

 アヤトは頷いた。

「よく判断した」

 彼女は少し笑った。

 順位が一つ下がっただけで、何もかも悪くなったわけではない。そのことを、今は自分で言えた。

 帰りの控室で、ウララは脚を労わるようにさすった。

「もう、いっぱい走ってるんだね」

「そうだな」

「まだ、お願いしてもいいかな」

 彼女が自分の脚へ話しかけるのを、アヤトは黙って聞いていた。

 

 

第四十二章 いつもの帰り道

 

 夏が近づくと、休養の話が現実的になった。

 ウララ自身も疲れの残り方を感じていた。走る日は走れる。だが、そのあと元の感覚へ戻るまでに、以前より日数がかかる。

 アヤトは引退という言葉を避けなかった。今すぐ決めるのではなく、今後の選択肢として話した。ウララは静かに聞き、少し長く休んでから、最後の競走を考えたいと言った。

「最後だって分かるレースを、走りたい」

 その願いを、彼は記録した。

 ただし、身体の状態によって予定は変わる。そう確認すると、ウララは頷いた。頭では分かった。それでも、走る日を選べない終わりを、まだ自分のこととして想像できなかった。

 

 百十一戦目のパドックは蒸していた。

 ウララは水を口に含み、飲みすぎないよう戻した。アヤトは歩き方を見て、本人の感覚を確かめた。出走に問題はないと判断したうえで、無理に前へ取りつきすぎない作戦を選んだ。

 スタートから流れが速かった。

 ウララはついていくために脚を使い、道中で呼吸を整えた。前へ行きたい相手が多い。コーナーでは外へ押し出されないよう位置を守り、直線で追い上げた。

 何人かの背中へ近づいたが、先頭には届かなかった。

 第四コーナーの手前で、ウララは内へ進める場所を見つけた。

 ただ、そこへ入れば直線の入口で前を塞がれるかもしれない。外を回れば長くなる。短い迷いのあと、彼女は外に残った。今日の自分には、速度を一度落としてからもう一度上げる余力が少ない。そう判断したからだった。

 直線では、腕を振っても思うほど身体が前へ出なかった。

 暑さが喉へまとわりつく。それでも一人の背中に近づき、最後の数歩で差を詰めた。ゴールを越えたとき、自分が選ばなかった内側の道を、ちらりと見た。正解だったかどうかは、走り終えた今でもすぐには分からなかった。

 五着。

 戻ってきた彼女は、暑さに顔を赤くしていた。

「今日は、最初が速かった」

 アヤトと確認し、整理運動と冷却を済ませた。悔しさの話は、そのあとになった。

「外にいたの、分かった?」

 落ち着いてから訊くと、彼は頷いた。

「理由を聞きたかった」

 ウララは説明した。アヤトは映像を止め、その時点で見えていた位置を一緒に確認した。結果を知ったあとなら、ほかの道がよく見える。だが、走っている最中には、まだ誰がどこへ動くか分からない。

「その判断は、筋が通っていたと思う」

 アヤトが言った。

 ウララは少しだけ肩の力を抜いた。

「じゃあ、次に同じだったら、また考えていいんだね」

「ああ。正解を一つ覚えて、全部に当てはめなくていい」

 彼女は頷いた。何度走っても考えることが残る。そのことを、以前ほど自分の足りなさだとは思わなくなっていた。

 

 百十二戦目には、また違う流れが来た。

 雨の影響が残る砂を、ウララは返しで確かめた。アヤトは、前の一戦で早く使った力を今日はどう残すかと訊いた。彼女は図の前半を指した。

「ここで、慌てて追わない。でも見失わない」

 ゲートが開く。

 ウララは最初の位置を受け入れ、呼吸を整えた。向正面で少しずつ前へ寄る。相手が下がってきたとき、無理に外へ出ず、コーナーまでの線を守った。

 直線へ向くと、脚が残っていた。

 一人を追い、並び、抜く。もう一人の背中に近づいたところで、ゴールが来た。

 追っていた相手が、最後にもう一度踏み込んだ。

 ウララも反応した。脚が重くても、もう少しなら前へ出せる。顔を上げず、最後の線だけを見る。横へ並べそうな距離まで来たところで、二人の影がゴールを過ぎた。

 四着。

 先を走り切った相手が、歩きながらこちらへ目を向けた。ウララは息を整え、短く頷いた。もう少しだったと言いたかったが、相手もそのもう少しを守るために走ったのだと分かった。

 ウララは汗を拭いながら言った。

「今日は、最後にちゃんと使えた」

「ああ」

「次も、そうしたい」

 その『次』は、いつもと同じ響きだった。

 帰り支度の途中で、彼女は靴の紐を結び直した。指先が少し疲れていた。アヤトが手伝うかと訊いたが、自分でできると答えた。

「前より、帰るときの方が疲れるね」

「走っている間は、分かりにくいこともあるからな」

 彼は、その言葉も記録へ残した。

 ウララは次の休養について、自分から期間を訊いた。長く休めば遅くなるかもしれない。それでも、今の身体をそのまま次へ押していくより、一度きちんと休ませたいと思った。

 休む相談をしながら勝つ相談もする。その二つが、最近の二人の予定表には並んでいた。

 

 百十三戦目は、夏の高知で迎えた。

 長い休養へ入ることは相談していた。復帰して区切りの競走を走れたら、とも話していた。だから、この日が最後の出走になると決めて来たわけではなかった。

 パドックでウララは、観客に手を上げた。

 昔から見ている人の顔に、年月が重なっていた。子どもだった客が少し大きくなり、売店の女性の声は同じで、手すりの塗装は何度か塗り替えられていた。

 自分も変わった。

 けれど、勝ちたいという気持ちはここにある。

「今日、どう走る?」

 アヤトが訊いた。

「前半で落ち着いて、コーナーで離れすぎない。最後は、残ってる分を全部使う」

 彼は頷いた。

「行ってこい」

「行ってきます、トレーナーさん」

 

 ゲートが開いた。

 ウララは前を見た。周りの加速についていき、自分の位置を作る。砂が飛んだ。瞬きをして、また目を開く。昔ならそこで顔を上げていた。今日は上げなかった。

 道中で前との差が少し開いた。

 追わなければ届かない。だが一度に取り返そうとしてはいけない。ウララは腕の力を抜き、足音を揃えた。長い競走生活で覚えたことが、頭の中の言葉より先に身体へ出た。

 第三コーナーで、前の一人へ近づいた。

 相手も踏み込む。ウララは外へ広がりすぎず、その背中を見失わないよう曲がった。先頭のオノゾミドオリは遠かった。追いつくには、もっと速くなければならない。

 直線へ向く。

 彼女は仕掛けた。

 足の裏から砂の感触が返る。肩が熱い。息が苦しい。前にいる一人を見て、もう数歩と願う。最後まで、次の一歩を出した。

 五着でゴールした。

 

 戻ってきたウララは、いつものように悔しがった。

「また勝てなかった」

「ああ」

「でも、最後まで追ったよ」

「見ていた」

 彼女は水を飲み、コースを振り返った。

「休んだら、次だね」

 アヤトは身体を見てから頷いた。

「状態を確かめて、考えよう」

 ウララは笑った。

 その日の帰り道に、特別な光はなかった。荷物を片づけ、忘れ物を確かめ、関係者へ挨拶をした。夕食に何を食べるかで少し迷った。

 最後だと知っていれば、もっと長く振り返ったかもしれない。

 だが、その日を生きている二人には、まだ普通の続きがあった。

 

 

第四十三章 白紙の春

 

 長い休養の最初、ウララは元気だった。

 目覚ましを少し遅くし、朝食をゆっくり食べる。学園の講座へ顔を出し、友人と街へ行く。テイオーと絵を描き、ルナに料理を教えてもらった。

「こんなに走らないの、変な感じ」

 笑って言った。

 アヤトは定期的に身体の記録を確かめた。腰や股関節の周りに残る疲労は、短い休みでは抜けきらなかった。日常では元気でも、競走へ戻すための負荷を上げると違いが出た。

 ウララはそれを最初、うまく受け入れられなかった。

「昨日は平気だったよ」

「昨日と同じ運動ではないからな」

「前は、これくらいできたのに」

 アヤトは頷いた。

「前の身体と、今の身体も違う」

 その説明は正しかった。正しいからこそ、寂しかった。

 

 翌春に区切りのレースを走る案が、具体的になった。

 ウララは予定表に小さな花を描いた。最後に勝てたらいい。勝てなくても、最後だと分かって走りたい。そんな願いを、今度は言葉にしていた。

 しかし調整を進めると、痛みや重さが戻った。

 ある朝、軽い動きの途中で彼女は足を止めた。腰の奥に鈍い痛みがあった。アヤトへ振り向く前に、彼がこちらへ来ていた。

「どこだ」

 ウララは場所を示した。

 最初の頃なら、もう一度走れば消えると思ったかもしれない。今は止まれた。止まれたことが、嬉しくはなかった。

 医師と話し、予定を延期した。

 ウララはカレンダーの花へ線を引こうとして、できなかった。

「消さなくていい」

 アヤトが言った。

「でも、走らない日になった」

「その日を待っていたことまで、なかったことにしなくていい」

 彼女はペンを置いた。

 花はそのまま残った。

 

 復帰には、長く競走を離れたことによる手続きや、出走のための状態確認も必要だった。

 それらは敵ではなかった。身体を守るためのものだと分かる。しかし、通らなければならない場所が増えたように感じた。

 ウララは練習帳を開き、最初の絵を見た。

 外へ膨らまない。前を見る。一人抜く。

 あんなに長くかけて覚えたことがあるのに、今は走り始めるところで止まっている。

「忘れちゃうかな」

 アヤトへ訊いた。

「何を?」

「レースの走り方」

 彼は少し考えた。

「全部は消えない。でも、戻すのに時間がかかるものはある」

 都合のよい答えではなかった。それでも、ウララは頷いた。

 

 テイオーも、ウララが長く出走しないことを気にした。

「休んだら、また走るんだよね」

 娘に訊かれ、ルナはすぐには答えなかった。

「走れるか、今、確かめている」

「走れなかったら?」

「そのときは、ウララがどうしたいか、一緒に考える」

 テイオーは黙った。

 翌日、娘はウララへ新しい絵を渡した。競走場ではなく、家と庭が描かれていた。三人が座り、アヤトが大きな皿を持っている。

「走らない日も、来てね」

 テイオーは言った。

 ウララは絵を見つめた。

「うん」

 声が少し詰まった。

 走ることを諦めろと言われたのではなかった。走れない自分にも、呼ばれる場所があった。

 

 季節はまた変わった。

 すぐに正式な引退が決まったわけではない。回復を待ち、調整を試み、止まり、考えた。最終出走からの時間は、やがて年を越えて長く伸びた。

 ウララは、次が来ないかもしれないという考えを、少しずつ自分のものにしていった。

 

 

第四十四章 過去形

 

 夕方のコースには、誰もいなかった。

 ウララは柵の外に立ち、砂を見ていた。整えられた表面に、明日また誰かの足跡がつく。自分の足跡は、もう長くここにない。

 アヤトが隣へ来た。

 彼はすぐには話しかけなかった。二人で同じ場所を見ていると、ウララの方から口を開いた。

「最後に一回だけ走って、今度こそ勝って、それで終わろうと思ってた」

 彼は頷いた。

「欲張りだったかな」

「欲張りだとは思わない」

「百十三回も、チャンスがあったのに」

 声が震えた。

「最後って知ってたら、もっとちゃんと走ったのに」

「違う」

 アヤトは、そこだけはすぐに言った。

 ウララが顔を上げる。

「百十三回、全部ちゃんと走った」

 彼はコースを見た。

「うまく走れなかった日はある。判断を間違えた日もある。俺の準備が足りなかった日もある。でも、最後だと知らなかったから手を抜いたわけじゃない」

 ウララは唇を噛んだ。

「でも、最後だったんだね」

 アヤトは目を伏せ、頷いた。

 医師との話し合いで、今後の競走復帰を目指す負荷は勧められないと伝えられていた。ウララも、それを聞いていた。今日は、その説明を自分の言葉へ変えるために来たのだった。

「わたし、一回も勝てなかったね」

 初めて、はっきり過去形にした。

 勝てない、ではなかった。

 その違いが、胸の中を大きく空けた。

 

 アヤトは何か言おうとして、声を失った。

 七冠を数えた手で、百十三回の未勝利を書いてきた。一着の数字を、この記録へ一度も渡せなかった。

 その事実を、美しい言葉で薄めたくなかった。

「勝たせてやれなかった」

 彼は言った。

「それは、悔しい」

 ウララは頷いた。

「わたしも」

 しばらく、風の音だけがした。

 それからアヤトは続けた。

「でも、担当になったことを後悔したことはない」

 ウララの目が揺れた。

「頑張ったあんたを、ずっとそばで見ていた。一人抜けた日も、あと一人だった日も、泣いた日も。楽しかった」

 彼女は何度も瞬きをした。

「トレーナーさんも、楽しかったんだ」

「ああ」

「よかった……」

 涙が、頬を伝った。

「いつか、わたしを選ばなきゃよかったって思うんじゃないかって、怖かった」

 アヤトは首を振った。

「もっと上手くできたはずだとは思う。でも、それはあんたと走らなければよかったって意味じゃない」

 ウララは泣きながら笑った。

「わたしも、楽しかった」

 言葉を確かめるように、もう一度言った。

「ずっとじゃないよ。嫌な日もあった。負けるのは、最後まで悔しかった」

「知ってる」

「でも、トレーナーさんと走れて、楽しかった」

 最初の日の笑顔とは違っていた。

 何も知らないままの楽しさではない。知ってしまったことを捨てずに、それでも自分の時間へ言える言葉だった。

 

 ウララはしゃがみ、自分の脚へ手を置いた。

「百十三回も走ってくれたんだね」

 指先でそっと撫でた。

「もう、ありがとうって言ってあげたい」

 アヤトは隣で待った。

 彼女が立ち上がると、いつものように手を差し出しかけ、今度は彼が待った。ウララは自分から右手を出した。

「百十三戦、零勝。ハルウララ、競走ウマ娘を卒業します」

 声は泣いていた。でも、言い終えた。

 アヤトはその手を握った。

「お疲れさま」

「ありがとうございました、トレーナーさん」

 少しして、彼女は呼び直した。

「アヤトさん」

 彼が目を上げる。

「走らない日も、またお茶、飲みに行っていい?」

 彼は泣きながら笑った。

「もちろん」

 柵の向こうの砂は、夕日に淡く光っていた。

 彼女は最後に一度だけ見て、それから自分の足で帰り道へ向かった。

 

 

第四十五章 Eclipse

 

 引退会見の前日、ウララは原稿を三度書き直した。

 最初は礼を言う人の名前が多すぎた。次は、勝てなかったことを謝ってばかりになった。三枚目は、何を言えばよいのか分からなくなって途中で止まった。

 アヤトは、原稿を完成させようと急かさなかった。

「いちばん言いたいことは?」

 ウララはペンを持ったまま考えた。

「応援してくれて、ありがとう」

「うん」

「勝ちたかった」

「それも」

「楽しかった」

 彼は頷いた。

「その三つから話せばいい」

 ウララは新しい紙へ、三行だけ書いた。

 それを見ると、少し話せる気がした。

 

 当日、会場には馴染みの顔と知らない顔が並んだ。

 高知で何度も取材した記者。学園の職員。競走生活の途中から彼女を追ってきた人。後方にはルナとテイオーがいた。シービーも、少し離れた席から手を上げた。

 ウララは椅子へ座る前に、一度だけ深く息を吸った。

 今日はゲートではない。足を速く動かす必要もない。それでも、身体は少し震えた。

 司会の紹介が終わり、マイクが近づいた。

「ハルウララです」

 名前を言うと、会場が静まった。

「百十三回、レースを走りました。それで、一回も勝てませんでした」

 いつもの調子で言いかけて、少しゆっくりにした。

「ほんとは、一回くらい勝ちたかったです。すっごく勝ちたかった」

 手元の紙を見た。三つの言葉がある。

「だから、勝てなくてもよかったとは思ってません」

 声は少し震えたが、止まらなかった。

「負けると悔しかったです。泣いたこともありました。負けてもいいよって言われるのが、嫌な日もありました」

 会場の誰かが、ペンを置いた。

「でも、応援してくれたのは嬉しかったです。走りに来ると、名前を呼んでくれる人がいて。今日はどうだったって、聞いてくれる人がいて」

 アヤトが隣で静かに聞いていた。

「最後まで、走るのは好きでした」

 ウララは顔を上げた。

「楽しかったです。ありがとうございました」

 拍手が起きた。

 その音を聞きながら、彼女は小さく息を吐いた。三つとも言えた。

 

 質問が続いた。

 復帰を目指した日々のこと。最後のレースが用意できなかったこと。これからの活動。ウララは分かることを答え、まだ決まっていないことはそう伝えた。

 やがて記者の一人が、アヤトへ向き直った。

「七冠を達成したシンボリルドルフさんと、百十三戦未勝利のハルウララさん。結果は極端に対照的です。この年月を、トレーナーとしてどう評価されますか」

 ウララは、膝の上で指を握った。

 何度も向けられた比較だった。今日も来ると分かっていた。それでも、胸が少し縮んだ。

 アヤトはマイクを取った。

「Eclipse first, the rest nowhere.」

 後方でルナが顔を上げた。

 ダービー前夜の静かな部屋。菊花賞のゴール。七冠のあとに交わした声。そのすべてが、ひとつの言葉に重なって聞こえた。

「学園で大切にされてきた言葉の一つです。圧倒的な先頭を表す言葉として、私もルドルフと考えてきました」

 アヤトはそこで一度、ウララを見た。

「競走の結果を変えるつもりはありません。ウララは百十三回走って、一度も一着になれなかった。勝ちたかったという本人の願いを、綺麗な話で消すつもりもありません」

 ウララは顔を上げた。

「そのうえで、私は長いあいだ、ウララを見てきました。初めて一人を抜いた日も、あと一人に届かなかった日も、走ることを選び直した日も」

 彼は、手元の紙を見なかった。

「たくさんの人に愛されました。でも、愛されたから価値があったというだけでもない。誰にも知られない練習の日にも、この子は自分の願いを持って走っていました」

 声が少し掠れた。

「ずっと楽しかったわけではない。それでも最後に、自分の時間へ楽しかったと言えた」

 アヤトは息を整えた。

「俺にとっては、それがEclipseです」

 ウララの目に涙が溜まった。

「元の格言の意味を、成績の定義として言い換えているのではありません。私が彼女の道に贈りたい言葉です。ほかの誰かの勝利で置き換えられない、自分で走った道だった」

 ルナは静かに目を閉じた。

 勝ち続けた自分と、勝てなかったウララは同じではない。同じにする必要もない。その違いを残したまま、アヤトは同じ名を贈っていた。

「七冠のシンボリルドルフを担当したことを、誇りに思っています」

 彼は続けた。

「同じくらい、百十三戦零勝のハルウララのトレーナーだったことを、誇りに思っています」

 ウララは堪えきれず、隣へ手を伸ばした。

 アヤトがその手を取ると、彼女は立ち上がり、抱きついた。

「一回も勝ってないのに……」

「知ってる」

「そんなこと言われたら、嬉しいよ」

 泣く声が、マイクへ少し入った。

 会場の後ろから、テイオーが言った。

「ボクも知ってるよ。ウララ、ずっと走ってたもん」

 子どもの声に、小さな笑いが起きた。そのあと拍手が続いた。

 ウララはアヤトから離れ、涙を拭いた。

 笑ってと言われたからではなかった。

 今、笑いたかった。

 

 

第四十六章 月曜日の仕事

 

 会見の翌朝、ウララはいつもの時間に目を覚ました。

 次の出走へ向けて身体を作る必要はない。分かっているのに、練習着へ手が伸びた。途中で止め、椅子へ座った。

 昨日は多くの人に見送られた。今日は、誰も拍手をしない朝だった。

 引退という言葉の本当の長さは、ここからなのかもしれなかった。

 

 学園からは、交流行事を手伝わないかという話が来ていた。

 ウララはやってみたいと答えたが、何でも引き受けなかった。身体の状態を確かめ、仕事内容と時間を聞いた。笑ってそこにいればよいという扱いなら、困ると思った。

「何をするの?」

 最初の打ち合わせで、彼女は率直に訊いた。

「新入生の案内と、子ども向けの交流会です」

「走るのもある?」

「無理のない範囲で。難しければ、ほかの役割を」

 ウララは頷いた。

「じゃあ、できることを決めたいです」

 契約の説明を受け、職員の研修にも参加した。競走者のまま学園へ居続けるのではなく、新しい仕事を持つための準備だった。

 机の名札に『ハルウララ』と書かれたとき、彼女は少し照れた。

 同じ名前が、また別の場所に置かれた。

 

 勤務を始めてしばらくした頃、一人の後輩が部屋の前で立ち止まった。

 ウララが声を掛けると、相手は少し迷ってから入ってきた。まだ競走を始めて間もない生徒だった。手には、折り目のついた出走表を持っていた。

「また、負けちゃいました」

 ウララは椅子を勧めた。

「悔しい?」

 後輩は頷いた。頷くと涙が出そうになったのか、顔を伏せた。

「じゃあ、今日は悔しがろ」

「え?」

「勝ちたかったんでしょ」

 後輩は黙り、それから小さく息を吸った。

「はい」

 ウララは急いで次の話をしなかった。部屋の時計が動き、廊下で足音がして、相手が涙を拭く。そういう時間を、二人で過ごした。

 少し落ち着いた頃、後輩は恥ずかしそうに言った。

「ウララさんの前で、数回負けただけで泣くなんて」

「回数で決めなくていいよ」

 ウララは答えた。

「わたしがいっぱい負けたからって、あなたの今日が、悔しくなくなるわけじゃないもん」

 言い終えてから、自分も昔そう言ってもらいたかったのだと思った。

 後輩は出走表を開いた。前半で焦ったこと、直線で思ったほど伸びなかったことを話し始めた。ウララは分かるところを聞き、専門的な判断が必要なところでは担当トレーナーへ確かめようと言った。

 百十三回走ったからといって、何でも教えられるわけではない。その線も、今の仕事で大切にしていた。

「もう一回、走りたいです」

 帰る前に、後輩が言った。

 ウララは笑った。

「うん。身体のことも相談して、また走りたくなったら走ろう」

 相手が出ていったあと、ウララは机へ戻った。

 自分も、次があるよとすぐ言っていた頃があった。その明るさが助けになった日も、届かなかった日もあっただろう。昔の自分を全部間違いにはしたくなかった。

 ただ、今なら、もう一つできることがある。

 引き出しへティッシュの箱の予備を入れた。大げさな決意ではなく、次に来る誰かのための小さな準備だった。

 

 最初の交流会は、うまくいかなかった。

 ウララを知っている子どもばかりだと思っていたら、知らない子もいた。大きな声で挨拶すると、驚いて泣く子がいた。かけっこをしたい子と、したくない子がいた。

 みんなで走れば楽しい。

 昔の自分なら、そう思っただろう。

 ウララはしゃがみ、走りたくないと言った子へ訊いた。

「何ならしたい?」

 子どもは少し黙り、旗を指した。

「持ってる」

「じゃあ、ゴールのところで振ってくれる?」

 頷きが返ってきた。

 競走が始まると、その子は真剣な顔で旗を振った。ウララは走る子を見守りながら、旗を持つ小さな手にも目を向けた。

 終わったあと、職員から声を掛けられた。

「助かりました」

 ウララは嬉しかった。人気があるからではなく、今日した仕事について言われた言葉だった。

 

 失敗した日には、アヤトのところへ寄ることもあった。

 彼は新しい仕事をしながら、彼女の話を聞いた。もう毎日の練習を決める関係ではない。会う前に連絡をし、時間を合わせる必要があった。

 その変化は少し寂しかったが、嫌ではなかった。

「アヤトさん、今日ね、子どもに泣かれちゃった」

「どうしたんだ」

「挨拶が大きすぎたみたい」

「ありそうだな」

「笑わないでよー」

 彼が笑い、ウララも笑った。

 最後に彼女は、小さく付け足した。

「でも、ちゃんと仲良くなれた」

 アヤトは頷いた。

「よかった」

 その返事は、初めて一人を抜いた日のものと似ていた。

 

 ルナも、ときどき学園で顔を合わせた。

 二人で茶を飲みながら、ウララは訊いた。

「引退したあとって、ずっと寂しい?」

 ルナは少し考えた。

「寂しくなる日はある。今も」

「そっか」

「でも、寂しくない日の方も増えた。別のことに夢中になって、夕方まで走っていた頃を思い出さない日もある」

 ウララは湯呑みを見た。

「忘れていいのかな」

「忘れたわけではない。全部を毎日抱えていなくても、なくならない」

 彼女はその言葉を、ゆっくり受け取った。

 月曜日の仕事があり、火曜日の予定がある。競走のない未来にも、次は少しずつ増えていった。

 

 

第四十七章 伸びていく背丈

 

 年月は、テイオーの靴の大きさを変えた。

 玄関に並ぶ小さな一足が、少しずつ母の靴へ近づいていく。柱につけた背丈の印も上がった。アヤトは印をつけるたび、前の線へ目を戻した。

「まだそんなに見なくても、昨日から急に大きくならないよ」

 娘が笑うようになった。

 ルナは、父親も練習が必要なのだと言った。

「何の?」

「子どもが大きくなることを、毎回ちゃんと信じる練習だ」

 テイオーは呆れた顔をしたが、その日は自分から柱へ背をつけた。

 

 走ることへの興味は、薄れなかった。

 母の映像を見て、同じ動きを真似した。アヤトは競走用の厳しい練習を急がず、年齢に合った運動の中で身体を育てた。走る以外の遊びもした。転び、負け、友人と喧嘩し、仲直りした。

 テイオーは、自分が皇帝の娘だと理解するようになった。

 嬉しい日もあった。面倒な日もあった。自分の小さな失敗を、母ならできたと言われると腹が立った。

 ある日、帰宅するなり鞄を床へ置いた。

「母さんなら、って言われた」

 ルナは話を聞いた。

「ボクが走ったのに」

「そうだな」

「母さんは悪くないけど、ちょっと母さんにも腹が立った」

 娘は言ってから、気まずそうに目を逸らした。

 ルナはすぐ笑い飛ばさなかった。

「そういう日もあるだろう」

 テイオーが顔を上げる。

「私の記録が、君の前へ勝手に置かれる。君が片づけるには、大きすぎるものだ」

「じゃあ、どうすればいいの」

「今すぐ全部片づけなくていい。今日、君がどう走ったかを聞かせてほしい」

 娘は少し黙り、それから話し始めた。

 ルナは、自分の経験へ引き寄せずに聞いた。母であることは、似ているところを見つけるだけではなかった。

 

 ウララは、相変わらず学園にいた。

 交流会や案内の仕事に慣れ、後輩から相談されることも増えた。誰かに『アイドル』と紹介されると、少し照れながら挨拶した。華やかな呼び名の下で、彼女は椅子を並べ、予定を確かめ、忘れ物を探していた。

 テイオーは学校帰りに立ち寄ることがあった。

「また大きくなったね」

「この前も言った」

「だって、大きくなってるもん」

 二人は笑った。

 ある夕方、テイオーは昔のことを訊いた。

「最後のレース、覚えてる?」

「覚えてるよ」

「ボク、全部は覚えてないんだ。会見で泣いてたのは覚えてる」

 ウララは頷いた。

「最後って、あとから分かったの」

 娘は静かに聞いた。

「だから、もっと何かすればよかったって思った。でも、あの日もちゃんと走ってたって、トレーナーさんが言ってくれた」

「父さんが」

「うん」

 テイオーはコースを見た。

「ボクは、最後まで勝ちたい」

 ウララは笑った。

「うん。勝ちたいって、ちゃんと思ってていいよ」

「ウララも、最後まで勝ちたかった?」

「もちろん」

 その答えを、テイオーは真剣な顔で受け取った。

 

 入学を前に、娘は母へ競走生活のノートを見せてほしいと頼んだ。

 ルナは少し迷い、公開してよい部分を選んで渡した。全部を娘へ渡す必要はない。二人だけの言葉は、二人だけに残しておきたかった。

 テイオーは最初のページを読んだ。

 右足の靴紐。二周目から。

「こんなことも書くんだ」

「大事なことだ」

 娘は頷き、ページをめくった。

 冠の数では見えない時間が、そこにあった。アヤトの短い書き込みも、ルナの反論も。強い人が、最初から全部できたわけではないことを、娘は文字で知った。

 最後に、テイオーは自分用の新しいノートを買った。

 まだ白い一行目へ、何を書くか考えた。

 

 入学前の荷物を整理していると、ルナが古い紙の束を出してきた。

 幼い頃の絵だった。テイオーは最初、自分が描いたとは思えずに笑った。手が大きすぎる父。耳の長さが揃っていない母。桃色を何度も塗り重ねたウララ。

「これ、ボク?」

 先頭を走る小さな姿を指すと、ルナは頷いた。

「一番を譲らなかった」

「今も譲らないよ」

 娘は言い、紙の端に描かれた三人を見た。走っていた三人が、もう一度笑っている。拙い絵なのに、その顔の違いは分かった。

「みんなゴールするって、言ってたんだぞ」

 アヤトが横から言った。

 テイオーは少し黙った。

「なんか、偉そうなことを言ってたんだね」

「そのときは、そう思ったんだろう」

 父の返事は簡単だった。

 娘は紙を裏返した。日付が書かれていた。覚えていない自分の一日を、両親は覚えている。嬉しくもあり、少し落ち着かない感じもした。

「入学したら、このときみたいに全部、綺麗には考えられないかもしれない」

 テイオーは言った。

「誰かに負けたら、その人を嫌いになるかも」

 ルナは頷いた。

「そういう日があっても、今日までの君が嘘になるわけではない」

 娘は母を見た。

「この絵の通りでいろというために、残したのではない。こう思った日もあったと、君が思い出せればいい」

 テイオーはもう一度、絵を見た。

 先頭の自分は、遠慮なく笑っていた。後ろの二人も、紙から消されていなかった。

「これも、持っていく」

 娘が言うと、アヤトは折れないよう薄い袋を持ってきた。

 新しいノートと、古い絵。

 テイオーは二つを鞄へ入れた。どちらも自分のものだったが、これから何を書くかまでは決めてくれなかった。それが今は、少し楽しみだった。

 

 

第四十八章 門

 

 春の朝、アヤトは玄関で娘を待っていた。

 テイオーは部屋へ戻り、もう一度荷物を確かめている。忘れ物はないと言っていたのに、二度目だった。ルナは急かさず、外の天気を見た。

 やがて娘が出てきた。

 制服の袖は、これから少し馴染んでいくのだろう。鞄の中には、新しいノートが入っていた。

「行こう」

 テイオーが言った。

 その声に、アヤトは頷いた。

 

 学園までの道は、何度も歩いた道だった。

 小さな手を握っていた頃、途中の段差で立ち止まり、花を見つけ、ウララがいるかと何度も訊かれた。今、娘は自分の歩幅で先を行く。

 アヤトは追いつこうとして、少し速くなった。

 ルナが隣で笑った。

「今日は、置いていかれてもいいんじゃないか」

「まだ門までだ」

「そうだな」

 彼女はそれ以上からかわなかった。

 

 正門の前で、テイオーは立ち止まった。

 見慣れた門だった。何度も遊びに来て、母の仕事を待ち、ウララへ走っていった。その門が、今日は違って見えた。

 自分の学園になる。

 自分が走る場所になる。

 娘は息を吸い、両親へ向き直った。

「母さん」

「何だ」

「ボク、母さんを超えるよ」

 ルナの眉が少し上がった。

「七冠を?」

「それも、いつか。でも、まずは無敗の三冠ウマ娘になる」

 言い切ると、胸が熱くなった。

 大きすぎる夢だと笑われるかもしれない。そう思いながらも、引っ込めたくなかった。

 ルナは笑った。

「大きく出たな」

「だって、ボクはテイオーだよ」

 その言い方に、アヤトも笑った。

 ルナは娘の肩へ手を置いた。

「目指せばいい。ただ、私の道をなぞるためだけに走るな。君の足で選ぶんだ」

 テイオーは頷いた。

 

 そして、父を見た。

「父さん。覚えてる?」

「何を」

「大きくなったら、父さんと走るって言ったこと」

 アヤトはすぐ答えた。

「覚えてる」

 眠りかけた幼い声だった。抱き上げた身体は軽く、言葉は半分夢の中にあった。それでも彼は覚えていた。

 テイオーは右手を差し出した。

「今度は、遊びじゃないよ」

 目が真剣になった。

「ボクのトレーナーになって」

 アヤトは、その手を見た。

 母の手を握った日があった。ウララの小指へ約束をした日があった。今、目の前にある手は、そのどちらの代わりでもなかった。

「なろう」

 彼は答えた。

「父親だから、あんたの気持ちが全部分かるとは思わない。これから、ちゃんと聞かせてくれ」

「うん」

「俺に言いにくいことがあれば、ほかの人にも話していい」

 テイオーは少し笑った。

「母さんにも、ウララにも?」

「もちろん」

 娘は頷き、父の手を握った。

 正式な手続きも、具体的な目標も、これからだった。だが、二人が同じ方向へ向くことは、そこで決まった。

 

「テイオー!」

 門の向こうから、声がした。

 ウララが来ていた。昔のように全力で駆けてはこない。無理のない速さで近づき、それでも両腕を大きく広げた。

 テイオーの方が走り出した。

「ウララ!」

 二人は抱き合った。

「入学おめでとう!」

「ありがとう」

「大きくなったねー」

「それ、何回目?」

「何回でも言うよ」

 ウララは笑った。

 小さな身体で自分へ走ってきた子が、今では同じ目の高さへ近づいている。その年月の中に、自分の競走生活があり、終わったあとの暮らしもあった。

 テイオーは一歩離れ、制服を見せた。

「似合う?」

「うん。すっごく」

 ウララは少し目を潤ませ、照れ隠しに手を振った。

「いっぱい勝つんでしょ?」

「もちろん」

 テイオーは母を見て、それからウララへ戻った。

「母さんみたいにいっぱい勝って、ウララみたいにいっぱい走る」

 ウララは頷いた。

 その願いが、これからどんな形になるのかは分からない。勝つことも、走り続けることも、願えば約束されるものではなかった。

 だからこそ、今の言葉を大切に受け取った。

「応援する」

 短く、確かに言った。

 

 テイオーは門へ向き直った。

 母の七冠も、ウララの百十三戦も、そのまま自分を勝たせてはくれない。新しいノートの一行目は、まだ自分で書かなければならなかった。

 それでも、背中を見てきた人がいる。

 勝ったあと、喜んでよいと教えてくれた人。負けたあと、悔しがってよいと教えてくれた人。走れない日にも、自分の時間は続くと、その暮らしで見せてくれた人。

 娘は一歩、門の内側へ入った。

「テイオー!」

 ウララが呼んだ。

 振り向く。

「楽しんでね!」

 テイオーは一瞬だけ目を丸くした。

 勝ってね、ではない。負けてもいい、でもない。これから走る自分へ、ウララが渡せる言葉だった。

 娘は笑った。

「うん。勝ってくる!」

「いってらっしゃい!」

 アヤトも、その隣へ歩いた。

 ルナとウララは、二人の背中を見送った。

 

 姿が校舎の向こうへ消えると、ウララは少しだけ黙った。

 春の風が吹いた。遠くで準備運動の声がする。自分も、あの声の中にいた日がある。

「楽しかったなぁ」

 ぽつりと漏れた。

 ルナが頷いた。

「そうだな」

 それからウララは、手元の予定表を見た。

「じゃあ、今日のお仕事してこよう」

 新入生の案内がある。迷っている子がいるかもしれない。走ることが楽しみな子も、怖い子もいるだろう。

 ウララは自分の速さで歩き出した。

 競走の記録は、百十三戦零勝のままだった。

 その先に続く毎日を記す欄は、着順表にはなかった。

 ルナも隣を歩いた。七つの冠は、今も彼女の大切な過去だった。だが、その重さだけで今日の歩幅が決まるわけではなかった。

 門の向こうでは、新しい足音が始まっていた。

 

 

        シンボリルドルフ編/ハルウララ編 完

        ――トウカイテイオーの道へ

 

 





────────────────────
巻末 史実モチーフと本作の設定について
────────────────────

 本作は競走馬の伝記ではなく、『ウマ娘 プリティーダービー』を題材にした非公式の二次創作です。既存原稿の主要な台詞、二部構成、恋愛と家族の設定を引き継ぎ、場面と時間軸を再構成しました。

 シンボリルドルフの競走は、実馬の全十六戦十三勝を骨格にしています。新潟の新馬戦、いちょう特別、オープン競走の三連勝から、弥生賞、皐月賞、日本ダービー、セントライト記念、菊花賞へ進み、最初のジャパンカップは三着、有馬記念は一着としました。翌シーズンは日経賞、天皇賞・春を勝ち、宝塚記念は出走取り消し。天皇賞・秋は二着、ジャパンカップと有馬記念を勝利し、海外のサンルイレイステークス六着を最後の出走としています。出走取り消しは出走数に含めていません。現在とは異なる当時の新潟のコースを、現在の直線千メートルとして描くことは避けています。

 実馬の米国遠征時の故障は左前脚のものであり、二足歩行する本作のルドルフには、競走継続を脅かす左脚の負傷として翻案しています。宝塚記念前の不調を含め、作中の診察、症状の自覚、治療会話は創作で、実馬の医学的記録を再現したものではありません。

 ハルウララは実馬の百十三戦零勝を維持しています。作中で具体的に対応させた主な着順は、デビュー戦五着、百戦目九着、百六戦目十着、百九戦目二着、百十戦目三着、百十一戦目五着、百十二戦目四着、百十三戦目五着です。節目の間の日常、心理の変化、作戦と集団内の細かな動きは創作です。五十戦目の心理的転機も本作独自のものです。著名な騎手が騎乗した史実上の百六戦目は、ウマ娘の世界では外部指導者の協力と注目の増大という形へ置き換えています。

 実馬の最終出走は二〇〇四年八月三日です。その後休養し、二〇〇五年三月に予定されていた引退レースは体調の回復が遅れたため延期され、復帰出走をしないまま二〇〇六年に正式引退となりました。最終出走当日には将来の引退レースの構想も報じられているため、本作でも休養と今後の区切りについて相談していた設定にしています。「その日の出走自体が最後になると決まっていた」とはしていません。引退会見や本人の意思決定、引退後の学園勤務は本作独自の展開であり、実馬の移動や登録をめぐる経緯を再現するものではありません。

 実馬同士の生年や活動年代をそのまま同一の暦へ並べず、ルドルフ引退・結婚、テイオー誕生、ウララの競走生活、テイオー入学という独自の時間軸を採用しています。テイオーの誕生は一度だけとし、ウララの五十戦目の時点ではすでに幼児として成長しています。ルドルフは成人の専攻課程学生として描き、卒業後も生徒会長を続ける設定にはしていません。ウララも課程修了後は競走のための所属を継続し、引退後は仕事として学園に関わります。いずれも公式設定を説明したものではありません。

 「Eclipse first, the rest nowhere.」をウララへ贈る場面は、元来の圧倒的勝利を表す意味と、アヤト個人が与えた意味の違いを残しています。勝敗の記録を変更したり、本人が勝ちたかった願いを否定したりする意図の言葉ではありません。

 確認に用いた主な公開資料(確認日:二〇二六年九月十一日)

 日本中央競馬会「シンボリルドルフ|3分でわかった気になる名馬」
 https://jra.jp/gallery/3minmeiba/horse22/

 日本中央競馬会「競馬の殿堂:シンボリルドルフ」
 https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse14/

 地方競馬全国協会「地方競馬 データ情報:ハルウララ」
 https://www.keiba.go.jp/KeibaWeb/DataRoom/HorseMarkInfo?k_lineageLoginCode=30058402034

 JBISサーチ「ハルウララ・全競走成績」
 https://www.jbis.or.jp/horse/0000307965/record/all/

 地方競馬全国協会「ハルウララに感謝を込めて」
 https://www.keiba.go.jp/furlong/2025/20251031_01/

 地方競馬全国協会「ハルウララの引退レースが延期」(二〇〇五年二月十四日)
 https://www.keiba.go.jp/old_topics/2005/0214-topics.html

 ラジオNIKKEI「ハルウララ、引退レース延期に」(二〇〇五年二月十日)
 https://www.radionikkei.jp/keiba_article/news/entry-128793.html

 netkeiba「ハルウララ、武豊騎乗でラストラン」(二〇〇四年八月三日。将来の引退戦予定を報じた当時の記事)
 https://news.sp.netkeiba.com/?no=6566&pid=news_view

 netkeiba「高知競馬所属、113連敗中のハルウララが引退」(二〇〇六年十月三日)
 https://news.netkeiba.com/?no=16020&pid=news_view

 資料は競走成績と大きな経緯の確認に用い、本文の会話・情景・心理は創作しています。

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