夕刻。
ゲヘナ学園の喧騒から少し離れた、とある部屋にて。
先生は机の上に一冊の本を開いていた。古びた装丁の文学作品である。ページをめくるたび、紙の擦れる小さな音が静かな室内に響いていた。
その向かいでは、鬼怒川カスミが腕を組み、難しい顔をしている。
「……先生」
「どうしたの、カスミ?」
「一つ、問いたいことがある」
「珍しく真面目だね」
「珍しくとは何だ、先生。私はいつだって真面目だぞ」
カスミは不満そうに眉をひそめる。
「まあいい。して、先生。先ほどから何を読んでいる?」
「文学作品だよ」
「文学……」
その言葉を聞いた瞬間、カスミの表情が変わった。
「ほう……文学か」
「うん」
「ならば一つ、先生に聞こう。――文学とは、何だ?」
「いきなり難しい質問だね」
「難しい? だからこそ問うのだ。簡単な問いに答えるだけならば、それは思考とは呼ばん」
カスミは椅子へ深く腰掛ける。
「文学とは、文字を並べて物語を作ることか。それとも、人間の感情を記録することか。あるいは、後世の人間へ思想を残すための器か……先生はどう考える?」
先生はしばらく本を眺め、それから答えた。
「僕は、人間を知るためのものだと思う」
「人間を?」
「うん。文学って、他人の人生や感情を読むことができるでしょう。自分とは違う時代、違う場所、違う考え方を持った人が、何を考えていたのか。それを言葉を通して想像できる」
「なるほどな」
カスミは顎に手を当てる。
「つまり、本を読むということは、他人の人生を少しだけ覗き見ることでもあるわけか」
「そうだね」
「では、文学とは他人の人生を盗み見る行為……」
「言い方がちょっと悪いな」
「ふふ、冗談だ」
カスミは愉快そうに笑った。
「しかし、興味深い。自分ではない誰かの苦悩や喜びを、紙の上から追体験する。しかも、その人物はとうに死んでいるかもしれん」
「そう考えると、すごいよね」
「まったくだ」
カスミは本棚に並んだ書物を眺める。
「人間は肉体を失っても、言葉を残せる。百年、二百年……あるいは千年経とうとも、その言葉を誰かが読めば、そこに記された感情は蘇る」
「うん」
「そう考えれば、文学とは人間が時間に抗うための手段なのかもしれんな」
「時間に抗う?」
「ああ」
カスミは一冊の本を手に取った。
「人間は老いる。国も滅びる。街も変わる。どれほど偉大な人物であろうとも、いつかは忘れられる。しかし、言葉だけは残ることがある」
本を軽く掲げる。
「ならば文学とは、人間が『私はここにいた』と後世へ叫び続けるためのものではないかね?」
先生は少し驚いた。
「……カスミ、今日はずいぶん深いね」
「当然だろう」
得意げに胸を張る。
「私を誰だと思っている? 温泉開発部の部長だぞ」
「そこは文学とは関係ないんじゃ……」
「何を言う」
カスミは即座に言い返した。
「文学と温泉は、極めて密接な関係にある!」
「……そうなの?」
「そうだとも!」
カスミは立ち上がった。
「考えてみたまえ。古来より人は湯に浸かり、疲れを癒やし、思索に耽ってきた。静かな湯煙の中で己を見つめ直す。それは文学を生み出す精神と同じではないか!」
「まあ……確かに温泉でゆっくり考えるのは気持ちよさそうだけど」
「そうだろう!」
カスミは満足げに頷く。
「文学とは、自分自身との対話でもある。そして温泉もまた、自分自身との対話なのだ!」
「同じなのかな……?」
「同じだ!」
「即答なんだ」
「むしろ温泉のほうが優れている!」
「文学から離れてない?」
「離れてなどいない!」
カスミは机を叩いた。
「文学作品を読むことで、人間の心を知ることができる。だが温泉ならば、その心を落ち着かせた上で考えることができる!」
「なるほど……?」
「つまり文学には温泉が必要なのだ!」
「結論がすごいところに行ったね」
先生は苦笑する。
しかしカスミはいたって真剣だった。
「先生。想像してみたまえ」
「うん」
「雪の降る夜。静かな山奥。誰もいない露天風呂。白い湯気が夜空へ昇り、周囲には一切の騒音がない」
「うん」
「そこで一冊の文学作品を読む」
「うん」
「これほど完璧な読書環境が、他にあるかね?」
「……ないかもしれない」
「そうだろう!」
カスミの目が輝く。
「そこに温泉があるから我々がいる!」
「急にいつものカスミになったね」
「文学も温泉も、人間の心を豊かにする。ならば二つを組み合わせれば、より素晴らしいものが生まれるに決まっている!」
「じゃあ、温泉で文学を読むのが一番ってこと?」
「そういうことだ」
「でも本、濡れない?」
「…………」
カスミが止まった。
「先生」
「うん?」
「文学について語る際に、細かい現実問題を持ち出すのは野暮というものだぞ」
「ごめん」
「分かればよい」
カスミは再び座った。
「しかし、先生。私は思うのだ」
「何を?」
「文学には、明確な答えがない」
「うん」
「だからこそ面白いのだろうな」
先ほどまでの勢いとは違い、今度の声には静かなものがあった。
「同じ一冊を読んでも、ある者は希望を見つけ、ある者は絶望を見る。ある者は主人公に共感し、別の者はその主人公を嫌う」
「そうだね」
「そして、どちらが正しいとも限らん」
カスミは窓の外を見る。
「人間そのものがそうだからだ」
「人間が?」
「ああ。人間の心には、一つの答えなど存在しない」
夕焼けが窓から差し込み、カスミの横顔を赤く染めていた。
「昨日まで好きだったものを、今日は嫌いになることもある。正しいと思っていたことが、別の視点から見れば間違いになることもある。誰かを理解したと思った瞬間、その人間の別の一面に気づくこともある」
「だから文学は、人間を一つの答えに決めつけないのかもしれないね」
「……うむ」
カスミは静かに頷いた。
「文学とは、人間を理解するためのものではなく、人間を簡単には理解できないと知るためのもの……なのかもしれんな」
「それ、すごくいいと思う」
「そうかね?」
「うん」
「ならば覚えておきたまえ。今の言葉は、私の名言だ」
「自分で言うんだ」
「当然だ」
カスミは胸を張った。
「だが、先生」
「何?」
「まだ一つ足りない」
「何が?」
「文学について語るのに、温泉が足りない」
「やっぱりそこに戻るんだ」
「当然だろう!」
カスミは勢いよく立ち上がった。
「先生、我々は今すぐ温泉へ向かうぞ!」
「え、今から?」
「文学を語るには実践が必要だ!」
「何の実践なの?」
「湯に浸かりながら文学について考えるのだ!」
「本は?」
「持っていけばいい」
「濡れるよ」
「防水加工すればいい!」
「そんな簡単にできる?」
「できなければ開発する!」
「……温泉のためなら?」
「どんな障害も爆破する!」
「いや、そこまでしなくていいから」
カスミは拳を握りしめ、堂々と言い放った。
「文学とは、人間の心を知るための道だ。そして温泉とは、その道を歩み続けるための力を与える!」
「……最後まで温泉なんだね」
「当然だ」
カスミは満足げに笑う。
「さあ先生。行こうではないか」
「どこへ?」
「決まっているだろう」
彼女は扉を開け放つ。
「――温泉だ!」
夕暮れの廊下へ、カスミの声が響き渡った。
先生は苦笑しながら、その後を追う。
文学について語り合ったはずなのに、最後には温泉へ向かっている。
しかし、それもまた一つの答えなのかもしれない。
人間は、どれほど難しいことを考えても、最後には自分の好きなものへ戻っていく。
そしてカスミにとって、その「好きなもの」とは――どうやら、文学よりも遥かに温泉だったらしい。