女神フィリアののんびり成長記録   作:おうたろう

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第2話 女神の道も一文字から

 宿屋の扉を開ける前に、僕はもう一度、ポケットの中の紙を確かめた。

 

 広場に出たら、井戸のある方へ。パン屋の角を曲がって、そのまま真っすぐ。

 お客さんに描いてもらった地図には、目印になる建物の絵が添えられている。

 

「そんなに何度も見なくたって、道は変わりゃしないよ」

 

 振り返ると、ステラおばさんが食器を抱えて立っていた。

 

「分かってるよ。念のため」

 

「そうかい。夕方までには帰っておいでね」

 

「うん。行ってきます!」

 

 外に出て、少し歩いたところで、もう一度地図を開く。

 

 ……念のためだからね。

 

 物置で本を見つけてから、二か月ほどが経っていた。

 

 その間、宿屋のお客さんに頼んでは、少しずつ文字を教えてもらっていた。自分の名前は書けるようになったし、あの本に出てくる言葉も、だいぶ読めるようになっている。

 

 けれど、別の本を借りてみたら、途端に読めなくなった。

 知らない言葉が多いし、どこまでが一つの言葉なのかも分からない。最初の数行を読むだけで、教えてくれていたお客さんのお茶が冷めてしまった。

 

 その人が教えてくれたのが、図書館だった。

 

 会費を払えば、中にある本を読ませてもらえるらしい。

 どのくらいお金がかかるのかは分からないけれど、まずは見に行ってみようと思ったのだ。

 

 通りの向こうから、焼けたパンの匂いがしてきた。

 地図にあるパン屋だ。ここを曲がれば、もうすぐのはず。

 

 角を曲がると、道の先に石造りの建物が見えた。

 

「あれかな」

 

 入り口の前まで行き、扉の横に掛かった板を見上げる。

 

「と……しょ、かん」

 

 読めた。

 

 誰に言うでもなく、小さく頷いた。

 それから、両手で扉を押した。

 

 ***

 

 中に入って、しばらく動けなくなった。

 

 棚がある。

 右にも、左にも、その奥にも。

 

 そして、どの棚にも本が並んでいた。

 

「うわぁ……」

 

 宿屋で借りた本よりも分厚いもの。表紙が色あせたもの。背に金色の文字が書いてあるもの。

 こんなにたくさんの本を、一度に見たことはなかった。

 

「こんにちは。初めて来たの?」

 

 入り口のそばに机があり、その向こうに女性が座っていた。開いた本から顔を上げ、こちらを見ている。

 

「こんにちは。ここにある本って、お金を払えば読めるんだよね?」

 

「ええ。私はクレア。ここで司書をしているの。あなたのお名前は?」

 

「僕は女神フィリア」

 

「あら、女神様と同じ名前なのね」

 

 クレアさんは、そう言って微笑んだ。

 

「同じ名前というか、僕が女神なんだけど」

 

「そう。それじゃあ、フィリア。まずは図書館の説明を聞いてもらえる?」

 

 ……あんまり信じてなさそうだ。

 

 でも、今は本の方が気になる。

 僕は頷いて、机の前まで歩いていった。

 

「会費は一か月で大銅貨一枚。その間は、開いている日に何度来てもいいわ。ただし、本を外に持ち出すことはできないの」

 

「一か月で、一枚……」

 

 おばさんからもらえるお小遣いは、一か月で大銅貨五枚。

 一枚払ったら、残りは四枚になる。

 

 払えない金額ではない。

 でも、読みたい本が全部難しくて、一行も読めなかったらどうしよう。

 

 棚を見つめていると、クレアさんが続けた。

 

「初めての人には、見学してもらっているの。読みたい本があるか、確かめてから決めていいわよ」

 

「中も見ていいの?」

 

「ええ。今は人も少ないし、案内するわね」

 

 よかった。

 僕は小銭入れをポケットに戻した。

 

 机のそばには、文字を刻んだ板が掛かっていた。

 何かの名前が、いくつも並んでいるように見える。

 

「これ、何が書いてあるの?」

 

「図書館を支援してくださっている方々のお名前よ。会費のほかにも、こうした方々から援助をいただいているの」

 

「この本を買ってくれる人たち?」

 

「それもあるわね。建物の修理や、本の修繕にもお金が必要だから」

 

 僕は、もう一度棚を見た。

 これだけたくさんあれば、確かに大変そうだ。

 

「さて、どんな本を読んでみたい?」

 

「魔法の本!」

 

 声が少し響いた。

 奥の席にいた人が、こちらを見た気がする。

 

 僕が口を押さえると、クレアさんは声を落として言った。

 

「あるわよ。こっちへどうぞ」

 

 棚の間を歩きながら、本の扱い方も教えてもらった。

 汚れた手で触らないこと。机で読むこと。読み終わった本は、自分で棚に戻さず、受付へ持ってくること。

 

「分からないことも、受付で聞いていいの?」

 

「ええ。ただ、ほかの人の対応や仕事をしているときは、少し待っていてね」

 

「うん。分かった」

 

 途中、同じ模様の本が何冊も並んでいるのが目に入った。

 

「これは?」

 

「女神様へのお祈りの本よ」

 

 少女が唱えていた祈りの言葉が、頭に浮かんだ。

 朝にも、眠る前にも、繰り返していた言葉だ。

 

「クレアさんも、お祈りするの?」

 

「ええ。最近は、この肩こりがよくなりますように、ってね」

 

 僕はクレアさんの肩を見た。

 それから、自分の両手を見る。

 

「……揉もうか?」

 

「あら、ありがとう。でも、今は大丈夫よ」

 

 クレアさんは笑って、隣の棚へ向かった。

 肩こりに効く魔法も、どこかの本に書いてあるだろうか。

 

「魔法の本は、こちらね」

 

 棚から抜き出された一冊が、近くの机に置かれた。

 

「これは、これから魔法を学ぶ人に向けた本よ。少し開いてみましょうか」

 

 椅子に座り、最初のページを覗き込む。

 

 知っている文字があった。

 その次も、その次も知っている。

 

 よし。読めるかもしれない。

 

「ま……りょく、を……」

 

 そこで止まった。

 

 文字は知っている。けれど、つなげて読んでも言葉の意味が分からない。

 少し先を見てみると、そちらにも知らない言葉があった。

 

「……これ、本当に初めての人向け?」

 

「魔法を学ぶのが初めての人向け、ね」

 

「そっか。文字を学ぶのが初めての人向けじゃないのか」

 

 僕はページを戻した。

 絵があれば何か分かるかもしれないと思ったけれど、描かれているのは線と矢印ばかりだった。

 

「もう少し簡単なの、ある?」

 

「ええ。持ってくるわね」

 

 今度の本には、動物の絵が描かれていた。

 一つの絵の下に、短い文章が添えられている。

 

 最初のページは犬だった。

 

「いぬ、は……」

 

 指でたどりながら、小さな声で読む。

 途中で二度、読み方を教えてもらった。それでも、今度は最後までたどり着けた。

 

「どんなことが書いてあった?」

 

「犬は、人より遠くの音が聞こえるってこと?」

 

「そうね」

 

 僕はもう一度、その文章を見た。

 

 宿屋の本には、名前しか書いていなかった。

 でも、この本は、それだけじゃない。

 

 次のページには猫がいる。

 こっちには、何が書いてあるんだろう。

 

「……この本、続きも読みたい」

 

「それなら、受付で入会の手続きをしましょうか」

 

 僕はポケットから小銭入れを取り出した。

 

 一か月で、大銅貨一枚。

 その間に、この本をどこまで読めるだろう。

 

「うん。お願いします」

 

 ***

 

 受付に戻ると、クレアさんが帳面を開いた。

 僕の名前を書き留め、会費を受け取って、今日の日付から一か月間使えることを教えてくれる。

 

 その手元に、別の紙が置いてあった。

 横に開かれた本と、同じ文章が書かれている。

 

「それ、書き写してるの?」

 

「書き写してもらったものを、確かめているところよ。文字が抜けていないか、間違っていないかをね」

 

「どうして写すの?」

 

「同じ本をもう一冊作るため。読みたい人が多い本もあるし、何度も使って傷んでしまう本もあるから」

 

 紙の上には、きれいな文字が並んでいた。

 大きさも、間隔も、僕の書いたものとは全然違う。

 

「これ、誰が書いたの?」

 

「図書館で、写本の仕事をお願いしている人よ」

 

「お仕事ってことは、お金が貰えるの?」

 

「ええ」

 

 僕は紙と本を交互に見た。

 

 文字を書けば、練習になる。

 本の中身も知ることができる。

 そのうえ、お金まで貰える。

 

「……僕にもできるかな」

 

「まずは、正確に読み書きできるようにならないとね。写し間違えると、次に読む人へ違うことを伝えてしまうでしょう?」

 

「それは、困るね」

 

「それに、ほかの人が読みやすい字で書くことも大切よ」

 

 自分の名前を書いた紙を思い出した。

 あれは、よく書けたと思う。

 でも、机の上の文字と比べると、大きさも傾きも、ずいぶんばらばらだった。

 

「練習して、上手になったら見てもらってもいい?」

 

「いいわよ。まずは短い文章からね」

 

 そのとき、入り口の扉が開いた。

 本を包んだ布を抱えた人が入ってくる。

 

 クレアさんがそちらへ顔を向けたので、僕は動物の本を持ち直した。

 

「じゃあ、読んでくるね」

 

「ええ。ごゆっくり」

 

 席に戻って、さっきの続きを開く。

 

 今は、読めない本がたくさんある。

 でも、読めるようになれば、この棚の本を自分で選べるんだ。

 

 僕は猫の絵の下に指を置き、一文字ずつ読み始めた。

 

 ***

 

 気づけば、窓から差し込む光の向きが変わっていた。

 

 まだ読めていないページはたくさんある。

 けれど、ステラおばさんとの約束を破るわけにはいかない。

 

 僕は本を閉じて、受付へ持っていった。

 

「もう帰る?」

 

「うん。また来るね」

 

「待っているわ」

 

 外に出ると、思っていたより空が赤くなっていた。

 地図を取り出しかけて、手を止める。来た道は、まだ覚えている。

 

 パン屋の角を曲がって、広場へ。

 

 歩きながら、今日読んだことを思い返した。

 犬の耳のこと。猫の目のこと。

 それから、本を書き写す仕事のこと。

 

 宿屋の看板が見えたところで、僕は少し足を速めた。

 

「おばさん、ただいま!」

 

「おかえり。どうだった?」

 

「入会してきたよ。一か月で大銅貨一枚だった」

 

「そうかい。読みたい本はあった?」

 

「うん。いっぱい」

 

 魔法の本は、まだ読めなかった。

 でも、そのうち読めるようになったら、あれも机に広げて勉強しよう。

 

「それとね、本を書き写す仕事があるんだって」

 

「へえ」

 

「文字が上手になったら、僕のも見てもらう約束したんだ」

 

「そりゃ、練習しがいがあるね」

 

 僕は頷き、コートを脱いだ。

 

 明日は、読むだけじゃなくて、書く練習もしよう。

 クレアさんに見せるなら、なるべくきれいな字がいい。

 

 まずは、自分の名前を真っすぐ書くところからだ。

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