宿屋の扉を開ける前に、僕はもう一度、ポケットの中の紙を確かめた。
広場に出たら、井戸のある方へ。パン屋の角を曲がって、そのまま真っすぐ。
お客さんに描いてもらった地図には、目印になる建物の絵が添えられている。
「そんなに何度も見なくたって、道は変わりゃしないよ」
振り返ると、ステラおばさんが食器を抱えて立っていた。
「分かってるよ。念のため」
「そうかい。夕方までには帰っておいでね」
「うん。行ってきます!」
外に出て、少し歩いたところで、もう一度地図を開く。
……念のためだからね。
物置で本を見つけてから、二か月ほどが経っていた。
その間、宿屋のお客さんに頼んでは、少しずつ文字を教えてもらっていた。自分の名前は書けるようになったし、あの本に出てくる言葉も、だいぶ読めるようになっている。
けれど、別の本を借りてみたら、途端に読めなくなった。
知らない言葉が多いし、どこまでが一つの言葉なのかも分からない。最初の数行を読むだけで、教えてくれていたお客さんのお茶が冷めてしまった。
その人が教えてくれたのが、図書館だった。
会費を払えば、中にある本を読ませてもらえるらしい。
どのくらいお金がかかるのかは分からないけれど、まずは見に行ってみようと思ったのだ。
通りの向こうから、焼けたパンの匂いがしてきた。
地図にあるパン屋だ。ここを曲がれば、もうすぐのはず。
角を曲がると、道の先に石造りの建物が見えた。
「あれかな」
入り口の前まで行き、扉の横に掛かった板を見上げる。
「と……しょ、かん」
読めた。
誰に言うでもなく、小さく頷いた。
それから、両手で扉を押した。
***
中に入って、しばらく動けなくなった。
棚がある。
右にも、左にも、その奥にも。
そして、どの棚にも本が並んでいた。
「うわぁ……」
宿屋で借りた本よりも分厚いもの。表紙が色あせたもの。背に金色の文字が書いてあるもの。
こんなにたくさんの本を、一度に見たことはなかった。
「こんにちは。初めて来たの?」
入り口のそばに机があり、その向こうに女性が座っていた。開いた本から顔を上げ、こちらを見ている。
「こんにちは。ここにある本って、お金を払えば読めるんだよね?」
「ええ。私はクレア。ここで司書をしているの。あなたのお名前は?」
「僕は女神フィリア」
「あら、女神様と同じ名前なのね」
クレアさんは、そう言って微笑んだ。
「同じ名前というか、僕が女神なんだけど」
「そう。それじゃあ、フィリア。まずは図書館の説明を聞いてもらえる?」
……あんまり信じてなさそうだ。
でも、今は本の方が気になる。
僕は頷いて、机の前まで歩いていった。
「会費は一か月で大銅貨一枚。その間は、開いている日に何度来てもいいわ。ただし、本を外に持ち出すことはできないの」
「一か月で、一枚……」
おばさんからもらえるお小遣いは、一か月で大銅貨五枚。
一枚払ったら、残りは四枚になる。
払えない金額ではない。
でも、読みたい本が全部難しくて、一行も読めなかったらどうしよう。
棚を見つめていると、クレアさんが続けた。
「初めての人には、見学してもらっているの。読みたい本があるか、確かめてから決めていいわよ」
「中も見ていいの?」
「ええ。今は人も少ないし、案内するわね」
よかった。
僕は小銭入れをポケットに戻した。
机のそばには、文字を刻んだ板が掛かっていた。
何かの名前が、いくつも並んでいるように見える。
「これ、何が書いてあるの?」
「図書館を支援してくださっている方々のお名前よ。会費のほかにも、こうした方々から援助をいただいているの」
「この本を買ってくれる人たち?」
「それもあるわね。建物の修理や、本の修繕にもお金が必要だから」
僕は、もう一度棚を見た。
これだけたくさんあれば、確かに大変そうだ。
「さて、どんな本を読んでみたい?」
「魔法の本!」
声が少し響いた。
奥の席にいた人が、こちらを見た気がする。
僕が口を押さえると、クレアさんは声を落として言った。
「あるわよ。こっちへどうぞ」
棚の間を歩きながら、本の扱い方も教えてもらった。
汚れた手で触らないこと。机で読むこと。読み終わった本は、自分で棚に戻さず、受付へ持ってくること。
「分からないことも、受付で聞いていいの?」
「ええ。ただ、ほかの人の対応や仕事をしているときは、少し待っていてね」
「うん。分かった」
途中、同じ模様の本が何冊も並んでいるのが目に入った。
「これは?」
「女神様へのお祈りの本よ」
少女が唱えていた祈りの言葉が、頭に浮かんだ。
朝にも、眠る前にも、繰り返していた言葉だ。
「クレアさんも、お祈りするの?」
「ええ。最近は、この肩こりがよくなりますように、ってね」
僕はクレアさんの肩を見た。
それから、自分の両手を見る。
「……揉もうか?」
「あら、ありがとう。でも、今は大丈夫よ」
クレアさんは笑って、隣の棚へ向かった。
肩こりに効く魔法も、どこかの本に書いてあるだろうか。
「魔法の本は、こちらね」
棚から抜き出された一冊が、近くの机に置かれた。
「これは、これから魔法を学ぶ人に向けた本よ。少し開いてみましょうか」
椅子に座り、最初のページを覗き込む。
知っている文字があった。
その次も、その次も知っている。
よし。読めるかもしれない。
「ま……りょく、を……」
そこで止まった。
文字は知っている。けれど、つなげて読んでも言葉の意味が分からない。
少し先を見てみると、そちらにも知らない言葉があった。
「……これ、本当に初めての人向け?」
「魔法を学ぶのが初めての人向け、ね」
「そっか。文字を学ぶのが初めての人向けじゃないのか」
僕はページを戻した。
絵があれば何か分かるかもしれないと思ったけれど、描かれているのは線と矢印ばかりだった。
「もう少し簡単なの、ある?」
「ええ。持ってくるわね」
今度の本には、動物の絵が描かれていた。
一つの絵の下に、短い文章が添えられている。
最初のページは犬だった。
「いぬ、は……」
指でたどりながら、小さな声で読む。
途中で二度、読み方を教えてもらった。それでも、今度は最後までたどり着けた。
「どんなことが書いてあった?」
「犬は、人より遠くの音が聞こえるってこと?」
「そうね」
僕はもう一度、その文章を見た。
宿屋の本には、名前しか書いていなかった。
でも、この本は、それだけじゃない。
次のページには猫がいる。
こっちには、何が書いてあるんだろう。
「……この本、続きも読みたい」
「それなら、受付で入会の手続きをしましょうか」
僕はポケットから小銭入れを取り出した。
一か月で、大銅貨一枚。
その間に、この本をどこまで読めるだろう。
「うん。お願いします」
***
受付に戻ると、クレアさんが帳面を開いた。
僕の名前を書き留め、会費を受け取って、今日の日付から一か月間使えることを教えてくれる。
その手元に、別の紙が置いてあった。
横に開かれた本と、同じ文章が書かれている。
「それ、書き写してるの?」
「書き写してもらったものを、確かめているところよ。文字が抜けていないか、間違っていないかをね」
「どうして写すの?」
「同じ本をもう一冊作るため。読みたい人が多い本もあるし、何度も使って傷んでしまう本もあるから」
紙の上には、きれいな文字が並んでいた。
大きさも、間隔も、僕の書いたものとは全然違う。
「これ、誰が書いたの?」
「図書館で、写本の仕事をお願いしている人よ」
「お仕事ってことは、お金が貰えるの?」
「ええ」
僕は紙と本を交互に見た。
文字を書けば、練習になる。
本の中身も知ることができる。
そのうえ、お金まで貰える。
「……僕にもできるかな」
「まずは、正確に読み書きできるようにならないとね。写し間違えると、次に読む人へ違うことを伝えてしまうでしょう?」
「それは、困るね」
「それに、ほかの人が読みやすい字で書くことも大切よ」
自分の名前を書いた紙を思い出した。
あれは、よく書けたと思う。
でも、机の上の文字と比べると、大きさも傾きも、ずいぶんばらばらだった。
「練習して、上手になったら見てもらってもいい?」
「いいわよ。まずは短い文章からね」
そのとき、入り口の扉が開いた。
本を包んだ布を抱えた人が入ってくる。
クレアさんがそちらへ顔を向けたので、僕は動物の本を持ち直した。
「じゃあ、読んでくるね」
「ええ。ごゆっくり」
席に戻って、さっきの続きを開く。
今は、読めない本がたくさんある。
でも、読めるようになれば、この棚の本を自分で選べるんだ。
僕は猫の絵の下に指を置き、一文字ずつ読み始めた。
***
気づけば、窓から差し込む光の向きが変わっていた。
まだ読めていないページはたくさんある。
けれど、ステラおばさんとの約束を破るわけにはいかない。
僕は本を閉じて、受付へ持っていった。
「もう帰る?」
「うん。また来るね」
「待っているわ」
外に出ると、思っていたより空が赤くなっていた。
地図を取り出しかけて、手を止める。来た道は、まだ覚えている。
パン屋の角を曲がって、広場へ。
歩きながら、今日読んだことを思い返した。
犬の耳のこと。猫の目のこと。
それから、本を書き写す仕事のこと。
宿屋の看板が見えたところで、僕は少し足を速めた。
「おばさん、ただいま!」
「おかえり。どうだった?」
「入会してきたよ。一か月で大銅貨一枚だった」
「そうかい。読みたい本はあった?」
「うん。いっぱい」
魔法の本は、まだ読めなかった。
でも、そのうち読めるようになったら、あれも机に広げて勉強しよう。
「それとね、本を書き写す仕事があるんだって」
「へえ」
「文字が上手になったら、僕のも見てもらう約束したんだ」
「そりゃ、練習しがいがあるね」
僕は頷き、コートを脱いだ。
明日は、読むだけじゃなくて、書く練習もしよう。
クレアさんに見せるなら、なるべくきれいな字がいい。
まずは、自分の名前を真っすぐ書くところからだ。