ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
刃が、振り下ろされた。
最初の一撃は、少女の左腕を肩口から断ち落とした。
断面から血が噴き上がり、舞台の床を赤く濡らす。切り離された腕が、鈍い音を立てて転がった。
少女の喉から、悲鳴が迸る。
それは、悲鳴としか言いようのない音だった。言葉にならない、ただ痛みだけが押し出した叫び。細い体が鎖の中で跳ね、足がのたうつように床を掻く。
客席が、沸いた。
「おおっ!」
「やれ、もっとやれ!」
歓声と、手を叩く音。誰も彼もが身を乗り出し、舞台の上の光景を貪るように見つめている。鬼太郎の傍らでは、貴族の男が口の端から涎を垂らさんばかりの顔で、食い入るように舞台を凝視していた。
「さあ、まだまだ!」
司会の男が、二撃目を振るう。今度は右の脛。骨の断たれる音が、天幕の中に響いた。
少女が、崩れ落ちる。支えを失った体が、血溜まりの中に倒れ伏した。
それでも――死なない。
荒い呼吸が、確かに続いている。血を失いすぎた体が痙攣しているのに、意識だけが手放されない。
「ご覧ください、まだ生きております! では、こちらを」
司会が、小瓶を掲げた。中身は、暗い赤。
瓶の中身が、倒れた少女の口元に注がれる。
その瞬間だった。
断ち落とされた腕が、床の上で蠢いた。少女の肩口から、失われた組織が芽吹くように盛り上がり、見る間に腕の形を成していく。断たれた脛の骨が繋がり、裂けた肉が寄り集まり、皮膚が閉じていく。
数十秒の後、少女の体は、何事もなかったかのように元の形を取り戻していた。
床に転がったままの、切り離された腕だけを残して。
歓声が、爆発した。
「見ましたか! これが不死の血の力でございます!」
「もう一回やれ!」
「今度は首だ! 首を落としてみせろ!」
客たちの要求に応えるように、司会は嬉々として刃を掲げ直す。
そして、同じことが繰り返された。
二度、三度、四度。
そのたびに、少女は絶叫した。慣れることなどなかった。何度再生しても、痛覚は容赦なく元通りに機能する。断たれる痛みも、焼かれる痛みも、すべてが初めてのように少女を襲う。
そして、そのたびに客席は沸いた。
これは日常なのだ、と鬼太郎は理解した。この少女にとって、今夜が特別なわけではない。同じことが、何十回、何百回と繰り返されてきた。そして、これからも繰り返される。死ぬことすら許されないまま。
◇
鬼太郎は、その一部始終を、瞬き一つせずに眺めていた。
義憤は、湧かなかった。
哀れみも、嫌悪も、特にない。彼が生きてきた世界では、これより酷い光景がそこら中に転がっていた。人が人を食い、悪魔が人を弄び、生き残ることそれ自体が奇跡だった。倫理や尊厳などという概念は、とうの昔に瓦礫の下に埋もれていた。
だから彼は、この舞台を「悲劇」として見ていなかった。
ただ、観察していた。
――興味深いのは、血液を媒介とした再生機構の方ですね。
吸血鬼の血が、あの再生を可能にしている。だが完全な吸血鬼ではなく、人間との混血。だからこそ「血を与えなければ再生しない」という制約が生じているのだろう。魔法とも、彼の知る術式とも異なる、純粋に生物学的な現象。
この世界には、こんな仕組みも存在するのか。
そこまで考えたところで、彼の視線が、ふと少女の顔で止まった。
五度目の再生を終えたばかりの少女は、床に横たわったまま、荒い息を吐いていた。髪は血で濡れて顔に張り付き、白かった肌は赤黒く汚れている。
その顔が、わずかに上がった。
そして――目が、合った。
鬼太郎の思考が、そこで止まった。
その瞳は、死んでいなかった。
これだけのことをされて。何度も殺され、何度も蘇らされて。逃げ場もなく、助けも来ず、終わりの見えない地獄に置かれて。
それでもなお、その目の奥には、明確な意思が残っていた。
諦めていない。
憎悪ではない。復讐心でもない。もっと単純で、もっと根源的な何か。
――生きたい。
それだけを、その目は訴えていた。
鬼太郎は、その光景に、わずかに目を細めた。
(――不合理ですね)
率直な感想だった。
この状況において、生への執着は何の意味も持たない。逃げる術はなく、抵抗する力もなく、救われる見込みもない。合理的に考えれば、心を折り、意識を手放し、痛みを感じなくなるまで壊れてしまった方がよほど楽だ。実際、この手の境遇に置かれた者の大半は、そうやって壊れていく。
なのに、この少女は壊れていない。
無意味で、非効率で、何の得にもならない執着を、この地獄の底で握りしめ続けている。
彼の口元が、ごくわずかに緩んだ。
(――ああ、しかし)
悪くない。
前世で、悪魔たちに「悪魔よりも悪魔」と呼ばれた男が、その生涯で幾度となく目にしてきたもの。追い詰められ、絶望し、それでも折れなかった者の目。それは、彼が数少なく「面白い」と感じる類のものだった。
壊れないもの。壊そうとしても壊れないもの。
そういうものを、彼は好む。
(――飼うのも、悪くないかもしれませんね)
ごく自然に、その考えが浮かんだ。
拾って、手元に置いて、壊れないように扱う。前世でも、気に入った悪魔にはそうしてきた。丁重に、慎重に、決して損なわないように。ガラス細工でも扱うように。
もっとも、それは慈悲でも救済でもない。
美しい標本を手に入れたい、という程度の欲求だった。
「……ふむ」
鬼太郎が小さく息を吐いた、その時だった。
◇
空気が、変わった。
客席の喧騒が、不自然に途切れる。
舞台の上で、司会の男が刃を下ろした。そして、これまでの芝居がかった笑みを消し、まっすぐに客席の一点を――鬼太郎を見た。
同時に、客席のあちこちで、人々が立ち上がった。
一人ではない。二人でもない。三十人、四十人。この場にいたほぼすべての観客が、一斉に席を立ち、懐から杖を抜いた。
その切っ先が、すべて同じ方向を向いていた。
鬼太郎は、その光景を静かに見回した。
「おや」
隣で、貴族の男が立ち上がる。先ほどまでの下卑た興奮は、その顔からすっかり消えていた。代わりに浮かんでいるのは、獲物を追い詰めた者の、凶暴な笑みだった。
「ようやくだ」男は、指にはめた宝石をいじりながら言った。「ここまで来るのに、半年かかったぞ。墓場」
「なるほど」鬼太郎は、貴族の男を見上げた。「あなたは役者でしたか。それとも、依頼人ご本人で?」
「どちらでもある」男は鼻を鳴らした。「家名も金も本物だ。だが、私はお前のせいで弟を一人失っている。忘れたとは言わせんぞ」
鬼太郎は、記憶を辿った。半年ほど前に処理した案件の一つに、確かにそんな名の魔法使いがいた気がする。もっとも、あれは依頼人の方が真っ当で、標的の方が真っ黒だった案件だ。精査した上で引き受けている。
「あの方の弟君でしたか。それは失礼いたしました」
「……その調子だ。その、人を食ったような態度」男の顔が歪んだ。「聞いていた通りだよ。だからこそ、丁寧に用意させてもらった」
貴族の男が指を鳴らすと、天幕の出入り口が音を立てて閉ざされた。同時に、壁面に光の紋様が走る。幾重にも重ねられた、封鎖の術式。
「逃げ場はない。ここは外部から完全に遮断されている。姿くらましも、移動呪文も効かん。魔法省の連中も来ない――この場所は、そういう風に作られているからな」
「準備がよろしいことで」
「当然だ。お前の流儀は調べ尽くした」男は、勝ち誇ったように笑った。「お前は依頼を精査する。裏を取らねば動かない。だから――裏を取られても問題のない依頼にした。私は実在する。家名も、屋敷も、過去の護衛実績も、すべて本物だ。調べれば調べるほど、筋が通るようにな」
鬼太郎は、静かに頷いた。
なるほど、と思う。そういうことか。
三日かけて、どこにも綻びが見つからなかった。その事実自体が、この罠の精度を証明していたわけだ。自分の習慣を、正確に理解された上で利用された。
「報酬の額も、そのためでしたか」
「気づいていたのか」
「相場と乖離しておりましたので。ですが、決定的な瑕疵とは判断いたしませんでした」
「はっ、惜しかったな」男は嘲笑った。「そこで降りていれば、今日死なずに済んだものを」
場内の全員が、じりじりと包囲を狭めてくる。
密猟者。闇商人。始末屋。鬼太郎が処理した誰かの仲間であり、鬼太郎に断られた誰かの雇い主であり、鬼太郎の存在そのものを疎ましく思っていた者たち。
普段であれば、決して手を組まない面々だ。
それが今、この一点でのみ結束している。
「あのガキを、消す」
誰かが、そう呟いた。
◇
「……おいおい」
その時、場違いなほど暢気な声が、場内に響いた。
サーシェスだった。
いつの間にか壁際まで下がっていた彼は、腰のホルスターに手をかけたまま、呆れたように周囲を見回している。
「聞いてねえぞ、こんな話は」
「君には関係のないことだ」貴族の男が、煩わしげに答えた。「大人しくしていろ。報酬は約束通り払ってやる」
「へえ。つまり俺は、ただの数合わせだったわけか」
「そう思ってくれて構わん」
サーシェスは、しばらく黙っていた。
それから――ゆっくりと、口の端を吊り上げた。
「……ふうん」
その笑みを、鬼太郎は視界の端で捉えていた。
この男は、恐れていない。三十人以上の魔法使いに囲まれた状況で、退屈そうにすらしている。そして、その目は――包囲された鬼太郎の方を、面白がるように見ていた。
(――なるほど。そちらの方でしたか)
鬼太郎は、内心でわずかに評価を改めた。
この男は、状況が悪化することを嫌っていない。むしろ、その逆だ。
「さて」
鬼太郎は、包囲の輪へと視線を戻した。
三十数名。全員が杖を構えている。出口は封鎖され、外部との連絡も断たれている。逃走経路はない。そして彼の手札は――銃が一挺と、これまで人前で使ってきた二つの術。
それだけで切り抜けられる状況ではない。
「随分と、手間をかけていただいたようで」
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、顔を上げる。
その目が、細められた。口元に、笑みが浮かぶ。あの日――燃える社の前で、初めて人を焼き殺した日と、同じ顔だった。
「おやおや。これは――」
包囲していた男たちの何人かが、その表情を見て、思わず後ずさった。
追い詰められた子供の顔ではなかった。
「随分と、楽しませてくださるようですね」
舞台の上で、血に汚れた少女が、その光景をじっと見つめていた。