ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
三十数本の杖が、自分ひとりに向けられている。
鬼太郎は、その光景を眺めながら、頭の中で状況を整理していた。
出口は封鎖されている。認識阻害と対侵入の術式が幾重にも張り巡らされ、外部との連絡は断たれている。魔法省が駆けつけることもない。ここで何が起きようと、外の世界には一切伝わらない。
――ああ。
そこまで考えて、彼はふと気づいた。
この状況は、彼らが望んで作り上げたものだ。逃がさないために、助けを呼ばせないために、誰の目にも触れさせないために。
だが、それは同時に。
(――なるほど。誰も、外に出られない)
この一年、彼は自分の手札の大半を伏せてきた。銃と、体術と、アギ。それで片付く相手にしか使わなかった。理由は単純で、知られれば対策されるからだ。前世で、その油断のせいで死にかけたことが何度もある。切り札とは、伏せておくものだ。
だが、目撃者が一人残らずこの場から出られないのであれば。
情報は、漏れない。
ならば、温存する理由は、どこにも存在しない。
むしろ――と、彼は思った。三十人を超える魔法使いを相手に、自分がどこまでやれるのか。この体でどこまで術式を連発できるのか。それを試せる機会など、そうそうあるものではない。
これは、願ってもない検証の場だった。
「どうした、墓場」貴族の男が、嘲るように言った。「言い残すことがあるなら、聞いてやってもいいぞ」
「では、一つだけ」
鬼太郎は、包囲の輪に向かって、丁寧に一礼した。
「わざわざ、逃げ場のない場所をご用意いただき、感謝申し上げます」
「……何?」
「おかげで、気兼ねなく済みます」
顔を上げた彼の目は、細められていた。口元には、静かな笑み。
「せっかくの機会ですので――全部、お見せしましょう」
そして、彼は右手をかざした。
◇
「――ジオ」
その言葉の意味を理解できた者は、誰もいなかった。
次の瞬間、包囲の左側にいた七人が、一斉に痙攣して崩れ落ちた。
閃光。走る電流。杖を構えたままの姿勢で、彼らの体が硬直し、白目を剥いて倒れていく。焦げた臭いが立ち昇った。
「なっ――」
「何をした!? 今、何をした!」
場内が、一瞬で混乱に陥った。
誰も、何が起きたのか理解できていない。あの子供は手をかざしただけだ。杖もなく、呪文らしい呪文も唱えていない。聞いたこともない短い言葉を一つ口にしただけで、七人が同時に倒れた。
「か、囲め! 一斉に撃て――!」
誰かの号令で、複数の呪文が同時に放たれる。
赤、青、紫の光が、四方から鬼太郎目掛けて殺到した。
彼は、その場から動かなかった。
「ザン」
不可視の衝撃が、彼を中心に爆ぜた。
空気そのものが叩きつけられたような圧力。飛来していた呪文が軌道を乱し、あらぬ方向へ弾け飛ぶ。そして、その衝撃波は前方の三人を巻き込み、天幕の支柱まで吹き飛ばした。骨の砕ける音と、悲鳴。
「盾が――盾が意味をなさない!」
「あれは何の魔法だ! 呪文が違う、体系がまるで違うぞ!」
悲鳴じみた叫びが飛び交う。
魔法使いにとって、呪文とは名を持つものだ。名を知れば、防ぎ方も分かる。だが、目の前の子供が使っているものは、彼らの知る体系のどこにも存在しなかった。名も、理も、防御法も、何一つ分からない。
分からないものは、防げない。
「――ブフ」
右前方に踏み込んだ一人が、瞬く間に凍りついた。
全身を覆う霜。悲鳴を上げる間もなく、体温が奪われ、動きが止まる。氷像と化したその体に、鬼太郎は無造作に肘を叩き込んだ。
乾いた破砕音とともに、それは砕け散った。
「ひっ――!」
近くにいた男が、思わず尻餅をついた。
その光景に、包囲の輪が明らかに乱れる。前に出ようとする者と、後ろに下がろうとする者。恐怖が伝染し、統率が崩れていく。
鬼太郎は、それを冷静に観察していた。
(――思ったより、悪くありませんね)
連続して三つの術を撃ったが、まだ余裕がある。かつて、アギ一発で気絶していた頃とは比べ物にならない。この四年の鍛錬は、確かに実を結んでいた。
(――ですが、消耗は早い。長引かせるべきではありませんね)
彼は、次の手に移った。
「プリンパ」
精神干渉の力が、扇状に拡散する。
効果は絶大だった。もともと恐慌状態にあった者たちの精神は、ほとんど抵抗を示さなかった。数人の目から焦点が失われ、へらへらと笑い出す。
そして、そのうちの一人が、隣に立っていた仲間へ向けて杖を振った。
「え? おい、お前、何を――ぐあっ!」
「やめろ! 正気に戻れ!」
同士討ちが始まった。
術にかかった者が仲間を撃ち、撃たれた者が反撃し、正気の者が混乱してさらに杖を振り回す。包囲網は、もはや体を成していなかった。
その混沌の中を、鬼太郎は静かに歩いていた。
真っ向から呪文を受けるような愚は犯さない。飛来する光の軌道を読み、最小限の動きで躱す。躱しきれない角度から来るものは、倒れた魔法使いの体を蹴り上げて盾にした。死体は、呪文を防ぐには十分な質量を持っている。
そうして間合いを詰め、一人ずつ確実に処理していく。
「くそっ、化け物めが――!」
背後から迫った男が、至近距離で杖を突きつけた。
放たれた呪文が、鬼太郎の脇腹を抉る。
肉の裂ける感触。血が噴き出し、体が傾いだ。
致命傷ではない。だが、動きは確実に鈍る――そう判断した男の顔が、次の瞬間、凍りついた。
「ディア」
鬼太郎が、自分の脇腹に手を当てた。
淡い光が傷口を包み、裂けた肉が寄り集まり、皮膚が閉じていく。数秒後、そこには血の汚れだけが残っていた。
「……は?」
男が、呆然と呟いた。
治癒呪文なら、魔法界にも存在する。だが、それは専門の癒者が時間をかけて施すものだ。戦闘の最中に、しかも一瞬で、自分の傷を塞ぐなど聞いたことがない。
「ご心配なく」
鬼太郎は、丁寧にそう言った。
「まだ、続けられますので」
そして、男の顎を掌底で撃ち抜いた。
◇
「――なんだ、ありゃあ」
壁際で、サーシェスは目を見開いていた。
傭兵として十数年。彼は、およそ考えうる限りの修羅場を潜り抜けてきた。魔法使いの集団に囲まれたことも、一度や二度ではない。生き延びるために、ありとあらゆる手を使ってきた。
だが。
今、目の前で起きていることは、彼の経験のどこにも当てはまらなかった。
十歳にも満たない子供が、三十人を超える魔法使いを、たった一人で削り取っている。
杖も使わず。名も知らぬ術を連発し、傷つけば即座に塞ぎ、同士討ちを誘い、その合間に淡々と首を折っていく。しかも、その顔にはまるで力みがない。焦りも、怒りも、恐怖もない。
まるで、作業のようだった。
(――こいつは)
サーシェスの心臓が、早鐘を打っていた。
恐怖ではない。断じて違う。
これは――歓喜だ。
この世界に来てから、ずっと物足りなかった。魔法使いどもは、魔法という優位に胡座をかいた無能ばかりだった。銃という「想定外」を一つ持ち込むだけで、面白いように死んでいく。強者を気取った弱者。それを撃ち殺すのは、最初こそ痛快だったが、じきに飽きた。
本気で殺し合える相手が、この世界にはいない。
そう思っていた。
「……はっ」
サーシェスの口から、乾いた笑いが漏れた。
「はははっ! なんだよ、いるじゃねえか!」
彼は、腰のホルスターから二挺の銃を引き抜いた。
そして、迷いなく引き金を引く。
鬼太郎の背後に回り込もうとしていた魔法使いの頭が、弾け飛んだ。
「――お?」
鬼太郎が振り返る。
サーシェスは、硝煙を上げる銃口を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「おい坊主! 一つ提案があるんだがな!」
「何でしょう」
「こいつら全部片付けたらよ――」
彼は、二挺目の銃を、まっすぐに鬼太郎へ向けた。
「俺と殺し合わねえか?」
場が、一瞬静まり返った。
鬼太郎は、その言葉を聞いて――ゆっくりと、笑った。
それは、この夜、彼が初めて見せた、心からの笑みだった。
「――喜んで」
「決まりだ!」
サーシェスが、銃口を反転させる。次の瞬間には、その弾丸は別の魔法使いの胸を撃ち抜いていた。
◇
そこからは、早かった。
銃を扱う者が二人。魔法使いたちにとって、これほど相性の悪い組み合わせもなかった。
サーシェスが弾幕を張り、敵の注意を引きつける。その隙に鬼太郎が懐に潜り込み、確実に仕留めていく。逆に、鬼太郎が術を放って隊列を崩せば、その混乱にサーシェスの弾丸が容赦なく突き刺さる。
打ち合わせなど、一言もしていない。
それでも、二人の動きは奇妙なほど噛み合っていた。互いに、相手が何をしようとしているかを正確に読んでいた。同じ種類の人間だから、と言ってしまえばそれまでだったのかもしれない。
「おらおら、どうした! 魔法使い様がその程度かよ!」
サーシェスの哄笑が、天幕に響き渡る。
やがて――立っている者の数は、片手で数えられるほどになっていた。
「く、来るな! 来るなぁっ!」
最後に残ったのは、あの貴族の男だった。
仰々しいローブは血と埃に汚れ、指の宝石はいくつか失われている。腰を抜かし、後ずさりながら、震える手で杖を向けていた。
「ま、待て。金なら払う。いくらでも払うぞ! だから――」
「貴族様よ」サーシェスが、呆れたように言った。「そりゃ、俺に言っても仕方ねえぜ。俺はもう、この坊主の側についちまったからな」
「ひっ……」
鬼太郎が、ゆっくりと歩み寄る。
男の目に、絶望が広がった。
「なぜだ……なぜ効かない……あれだけ用意したのに、なぜ……」
「良い罠でした」
鬼太郎は、素直にそう答えた。世辞ではなかった。
「精査の癖を突かれたのは、私の落ち度です。本物で固められては、見抜きようがありません。逃げ場を断ったのも、増援を封じたのも、正しい判断でした」
「なら、なぜ――」
「一つだけ、誤算がおありでした」
彼は、男の前で足を止めた。
「私の手札を、ご存知なかった。それだけのことです」
そして、彼は右手をかざした。
「……ぁ」
「アギ」
火球が、貴族の男へと撃ち出された。着弾の瞬間、それは弾けるように広がり、男の体を炎が包み込む。
断末魔は、短かった。
◇
静寂が、戻った。
天幕の中は、惨憺たる有様だった。倒れ、焼け、砕け、事切れた者たちが、床一面に散らばっている。血溜まりが幾筋も交わり、大きな黒い池を作っていた。
その中央に、二人の人影が向かい合って立っていた。
一人は、血に濡れた小柄な子供。
もう一人は、硝煙の匂いを纏った長身の男。
「さて」
サーシェスが、空になった弾倉を捨て、新しいものを装填した。金属の噛み合う、小気味良い音が響く。
「約束だ。付き合ってもらうぜ、坊主」
「ええ」
鬼太郎は、静かに頷いた。
その顔には、先ほどと同じ笑みが浮かんでいる。血に汚れ、返り血で赤黒く染まりながら、彼はどこまでも楽しそうだった。
「――私も、久々に楽しめそうです」
舞台の上。
鎖に繋がれたまま、少女は、その光景をじっと見つめていた。
目の前で何十人もの大人が死んでいくのを、彼女は瞬き一つせずに見ていた。恐怖はあった。だが、それ以上に、目が離せなかった。
自分をこんな目に遭わせてきた者たちが、次々に倒れていく。
そして、その中心に立っていたのは、自分と同じくらいの背丈の、一人の子供だった。
少女の唇が、かすかに動いた。
声にはならなかった。それでも、彼女は確かに、何かを呟いていた。