ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
血の海の中央で、二人は十歩ほどの距離を取って向かい合った。
サーシェスは、両手に銃を握っていた。弾倉は満タンに入れ替えてある。背には替えの得物、腰にはナイフ。この十数年、修羅場を潜るために磨き上げてきたものすべてが、今この瞬間のために揃っていた。
高揚していた。
この世界に流れ着いて以来、ずっと物足りなかった。魔法という優位に胡座をかいた連中を撃ち殺すのは、じきに作業になった。命を賭ける相手がいない。全力を出せる相手がいない。
それが、ようやく目の前に立っている。
「――なあ、坊主」
サーシェスは、銃口を持ち上げながら言った。
「手加減はいらねえぜ。俺も本気だ」
「承知しました」
鬼太郎は、静かに頷いた。
そして、内心では――まったく別のことを考えていた。
(――さて。どう加減したものでしょうね)
この男は、面白い。
魔法の使えぬ身で、魔法使いだらけのこの世界を渡り歩いてきた。優位を持たぬまま、優位を持つ者を殺す術を独力で編み出した。そして、圧倒的な力を目の前にして、恐怖ではなく歓喜を覚える精神性。
そういう人間は、そう多くない。前世を含めても、片手で数えられる程度だ。
だから――壊したくなかった。
殺すのは簡単だ。アギを一発撃てば終わる。プリンパで動きを止めてもいい。この距離なら、術を使うまでもなく懐に入れる。
だが、それでは壊れてしまう。
気に入った玩具は、丁重に扱うものだ。前世でもそうしてきた。手元に置いて、損なわないように、慎重に。割れ物を扱うように。
(――ええ。殺さない範囲で、相手をいたしましょう)
それは、彼にとってごく当たり前の判断だった。
「行くぜ」
サーシェスが、引き金を引いた。
◇
最初の三発は、正確だった。
頭、胸、脚。逃げ道を潰す形で、時間差をつけて撃ち込まれる。素人の乱射ではない。標的の回避方向を読み、そこへ先回りする撃ち方だった。
鬼太郎は、体を沈めてそれをやり過ごした。
一発目は頭上を抜け、二発目は肩口を掠め、三発目は――本来、避けられない角度だった。
だが、彼はその弾道の内側へ踏み込んでいた。避けるのではなく、詰める。銃という武器は、距離が近づくほど扱いにくくなる。
「――っ、速えな!」
サーシェスは即座に判断を切り替え、後退しながら残弾を撃ち尽くした。同時に左手の銃を捨て、腰のナイフを抜く。弾切れの一瞬を、格闘に切り替えることで埋める。
判断は正しかった。
踏み込んできた鬼太郎の喉元へ、ナイフの切っ先が伸びる。
その手首を、小さな手が掴んだ。
そして、捻り上げる――かに見えた瞬間、その力が止まった。
関節が極まる寸前。あと数センチ捻れば、確実に折れていた位置で、鬼太郎の手が離れる。
「……?」
サーシェスは反射的に飛び退き、間合いを取り直した。
手首が痛む。だが、折れてはいない。
(――今のは)
考える暇はなかった。彼は替えの弾倉を叩き込み、再び撃ち始める。
◇
戦いは、十分近く続いた。
サーシェスは、およそ考えうる限りの手を尽くした。
死角からの射撃。フェイントを織り交ぜた格闘。倒れた死体を蹴り上げての目眩まし。閃光を放つ魔法道具まで使った。マグルと魔法使い、双方の裏社会で培ったものを、惜しみなく注ぎ込んだ。
そのすべてが、届かなかった。
当たらない、のではない。かすることはある。何度か掠めた。だが、その程度だ。決定打には、ただの一度もならなかった。
そして――もっと奇妙なことがあった。
自分が、死んでいない。
三度目の格闘で、背後を取られた。首を絞められる姿勢に持ち込まれ、意識が遠のきかけた。だが、落ちる直前で腕が緩んだ。
五度目の交錯で、みぞおちに掌底を受けた。息が詰まり、膝をついた。だが、そこに追撃は来なかった。
七度目。ナイフを弾き飛ばされ、完全に無防備になった。真正面に立たれた。
殺せた。確実に。
なのに、殺されなかった。
「……おい」
肩で息をしながら、サーシェスは呟いた。
全身が汗と血に濡れている。呼吸は上がり、足には疲労が溜まっている。
対する鬼太郎は――息一つ乱していなかった。
返り血で赤黒く汚れてはいる。だがそれは、この戦いでついたものではない。先ほどの掃討で浴びたものだ。この十分間で彼が負った傷は、掠り傷が二つ三つ。それも、既に塞がっていた。
「……なあ、坊主よ」
サーシェスの声が、低くなった。
「お前、さっきから何やってんだ」
「何と申しますと」
「とぼけるんじゃねえ」
銃口が、まっすぐに鬼太郎を捉える。
「さっきから、何度も殺せただろうが。首絞めた時も、腹に入れた時も、ナイフ弾いた時も。全部、あと一手だった」
「……」
「なのに、やらねえ。手を抜いてやがる」
鬼太郎は、答えなかった。
だが、その沈黙こそが答えだった。
そして、もう一つ。サーシェスは気づいてしまっていた。
あの、手首を掴まれた時だ。
あれは、力が足りずに折れなかったのではない。関節が極まる寸前で、明確に力を抜いた。折らないように。傷つけないように。
あまりにも、丁寧に。
「……ああ、くそ」
サーシェスの喉から、掠れた声が漏れた。
侮られているのなら、まだよかった。ガキが大人を舐めているのなら、それを叩き潰せばいい。そういう戦いなら、何度もやってきた。
だが、これは違う。
この子供は、自分を侮っていない。それどころか――
(――大事にされてやがる)
その理解が、脳に届いた瞬間、全身の血が沸騰するような感覚に襲われた。
壊れ物を扱うように。割れないように。傷つけないように。
殺し合いを挑んだ相手に、そんな扱いをされている。
これほどの屈辱を、彼は生まれてこの方、味わったことがなかった。
◇
サーシェスは、銃を下ろした。
「……やめだ」
「もうよろしいのですか」
鬼太郎の声は、あくまで平坦だった。気遣いでも、嘲りでもない。ただ、事実を確認しているだけの声。
その態度が、なおのこと、サーシェスの神経を逆撫でした。
「よろしいも何もあるかよ」彼は吐き捨てた。「こんなもん、殺し合いじゃねえ。付き合ってもらってるだけだ」
銃をホルスターに戻す手が、わずかに震えていた。怒りのせいだ。
「一つ聞かせろ、坊主。なんで殺さねえ」
「必要がないからです」
「答えになってねえ」
「では、率直に申し上げます」
鬼太郎は、少し考えるように首を傾げてから、口を開いた。
「あなたを、気に入りましたので」
「……は?」
「魔法の使えぬ身で、魔法使いを相手に十数年生き延びてこられた。あの惨状を見て、怯えるどころか笑っておられた。そういう方は、そう多くありません」
彼は、淡々と続けた。
「ですから、壊したくないのです」
その一言が、決定的だった。
「――壊し、たくない、だと」
「ええ。気に入った物は、大切に扱うことにしております」
鬼太郎は、まったく悪気なくそう言った。
彼にとって、それは最大級の好意の表明だった。認め、価値を見出し、損なわないように配慮する。前世でも、そうやって扱ってきた相手は数えるほどしかいない。
だが、その言葉を向けられた側にとって。
それは、人間として数えられていないという宣告に等しかった。
玩具。標本。所有物。
殺し合いを挑んだ相手から返ってきたのが、「壊したくないから壊さなかった」という答え。
「……はっ」
サーシェスの口から、乾いた笑いが漏れた。
「ははっ、はははははっ!」
それは、天幕の中に響き渡る哄笑だった。血の海の中で、死体に囲まれながら、彼は腹を抱えて笑い続けた。
やがて笑いが収まると、彼は顔を上げた。
その目は、据わっていた。
「坊主。名前は」
「墓場鬼太郎と申します」
「鬼太郎、な」サーシェスは、その名を噛み締めるように繰り返した。「覚えたぜ」
そして、彼は宣言した。
「――いつか、必ず殺す」
その言葉に、鬼太郎は目を細めた。
「ええ、ぜひ」
「あぁ?」
「お待ちしております」
鬼太郎は、微笑んでいた。
嘲りではない。本心からの、期待の笑みだった。
前世で、フリンと交わした約束を思い出す。あの時も、そうだった。殺し合って、負けて、それでも「今度は勝ちたい」と願って死んだ。
殺したいと願われることは、彼にとって、忌むべきことではない。むしろ――
「その日が来るのを、楽しみにしております」
「……ちっ」
サーシェスは、忌々しげに舌打ちした。
この子供は、こちらの殺意すら喜んでいる。どこまでも噛み合わない。だが、それでいい。
「言っとくがな、俺は諦めが悪いぜ。今日明日って話じゃねえ。十年でも二十年でも、隙を狙い続けてやる」
「では、その間はどうなさいますか」
「決まってんだろ」
サーシェスは、にやりと笑った。
「側にいる。そばで見てりゃ、そのうち隙も見つかるだろうよ」
それは、彼にとって唯一残された選択肢だった。
このまま去れば、二度と機会は訪れない。ならば、側にいるしかない。この化け物が何をするのか、どこまで行くのかを見届けながら、その首を取る機会を待つ。
もっとも――彼自身、自覚していた。
それだけが理由ではないことを。
この子供が、これから何を見せてくれるのか。それを見逃したくないという気持ちが、確かにあった。
「結構です」鬼太郎は頷いた。「では、よろしくお願いいたします」
「はっ。妙な話になったもんだ」
こうして、奇妙な関係が成立した。
殺されないために側にいるのではない。殺すために側にいる。そして、殺されると分かっていて、なお側に置く。
互いの思惑は、まったく噛み合っていなかった。
それでも、結論だけは一致していた。
◇
鬼太郎は、静かに踵を返した。
向かう先は、舞台の上。
鎖に繋がれたまま、こちらをじっと見つめている、小さな影のもとだった。