ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
足音が、近づいてくる。
舞台の上で、少女はそれを聞いていた。
逃げようとは思わなかった。逃げられないからだ。両手首と足首を繋ぐ鎖は、彼女の力ではどうにもならない。これまで何百回と試して、そのたびに無駄だと思い知らされてきた。
だから、彼女はただ、座り込んだまま顔を上げた。
目の前に立ったのは、自分と同じくらいの背丈の子供だった。
舞台の照明が、その顔を正面から照らし出す。
――綺麗な顔をしている。
それが、キーノの最初の印象だった。
黒い髪。ぱさついた癖もなく、目にかかる前髪の下から、青みを帯びた瞳が覗いている。彫りの整った、人形のように端正な顔立ち。歳は自分と変わらないはずなのに、どこか作り物めいて見えた。
だが、何より異様だったのは――その表情だった。
ない。
怒りも、興奮も、嫌悪も、憐憫も。何十人もの人間を殺した直後だというのに、その顔には何一つ浮かんでいなかった。呼吸すら乱れていない。まるで、散歩から戻ってきただけのような静けさだった。
全身は、血で汚れている。返り血だ。髪の先から雫が垂れ、白い頬に赤い筋を作っている。
服装も、子供のそれではなかった。飾り気のない黒のジャケットに、同色のシャツ。動きを妨げないよう詰められた袖。裾は短く、腰の得物に手が届く長さに調整されている。汚れても目立たず、闇に紛れる色。実用だけを考えて選ばれた、この稼業の人間の服だった。
その血に濡れた黒が、返り血でさらに黒く、艶を帯びて光っていた。
その姿で、その顔で、彼はこちらを見下ろしていた。
(――こわい)
率直に、そう思った。
これまで、恐ろしい大人は数えきれないほど見てきた。自分を切り刻む男。それを笑って見る客。血を売り買いする商人。誰も彼もが、彼女にとっては恐怖の対象だった。
だが、目の前の子供は、それらとは種類が違った。
怒鳴らない。笑わない。舐め回すような目で見てもこない。ただ、静かに立って、こちらを見下ろしている。
その目が、何を考えているのか、まったく読めなかった。
「動かないでください」
子供が、そう言った。
声は、思っていたよりずっと落ち着いていた。丁寧で、抑揚が少なくて、大人びている。
少女が身を強張らせた次の瞬間、鎖が音を立てて砕け散った。
何をされたのか分からなかった。子供はただ、手をかざしただけだ。凍りついたと思った鎖が、そのまま崩れ落ちていた。
自由になった手首を、少女は呆然と見つめた。
◇
鬼太郎は、目の前の少女を観察していた。
外傷は、ほぼ残っていない。再生機構が正常に働いている証拠だ。ただし、消耗は激しい。頬はこけ、目の下には濃い隈があり、呼吸も浅い。肉体が再生しても、体力までは戻らないらしい。
――興味深い。
やはり、この再生は万能ではない。血という外部資源に依存し、体力の回復を伴わない。制約のある能力だ。
そこまで分析してから、彼は改めて、少女の目を見た。
変わっていなかった。
あれだけのことをされて、あれだけの惨劇を目の前で見せられて、それでもなお、その瞳の奥に灯ったものは消えていない。
「一つ、お尋ねします」
鬼太郎は、膝を折って少女と視線の高さを合わせた。
「生きたいですか」
少女の目が、大きく見開かれた。
答えは、決まっているはずだった。
ずっと、そればかりを願ってきた。腕を落とされる時も、足を砕かれる時も、首を落とされる時ですら、生きたいと思ってきた。それだけが、彼女を彼女たらしめていたものだった。
なのに、いざそう問われると、言葉が出てこなかった。
喉が震える。声にならない。
これは、罠かもしれない。生きたいと答えた瞬間に、新しい嬲り方が始まるのかもしれない。そうやって、希望を持たせてから折るやり方を、彼女は知っていた。
それに――生きたいと言って、一体どうなるというのか。ここから出ても、行くあてなどない。自分の血は金になる。どこへ行っても、また同じことになるだけだ。
鬼太郎は、急かさなかった。
ただ、黙って待っていた。少女が答えを出すまで、彼はその姿勢のまま、動かなかった。
どれだけの時間が経っただろうか。
やがて、少女の唇が動いた。
「……いき、たい」
掠れた、ほとんど息だけの声だった。
「生きたい、です」
鬼太郎は、満足げに頷いた。
「結構です」
そして、立ち上がった。
「では、お連れしましょう」
◇
「ただし」
差し出された手を取ろうとした少女に、鬼太郎は先んじて言った。
「一つ、誤解のないように申し上げておきます」
その声は、あくまで平坦だった。
「私は、あなたを助けたわけではありません」
少女の手が、止まった。
「あの者たちを殺したのは、私を殺しに来たからです。あなたのためではありません。もし彼らが私に手を出さなければ、私はあなたを見物して、そのまま帰っていたでしょう」
率直すぎる言葉だった。慰めも、飾りもない。
「では、なぜ」少女が、掠れた声で尋ねた。「なぜ、わたしを」
「気に入ったからです」
「……え?」
「あれだけのことをされて、まだその目をしていらっしゃる。それが、面白いと思いました」
鬼太郎は、少しだけ首を傾げた。
「ですから、手元に置きたいのです。あなたは私の持ち物になります。逃げようとすれば連れ戻しますし、誰かに奪われれば奪い返します。壊れないよう、大切に扱うつもりです」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「――その上で、お伺いします。ついて来られますか」
少女は、しばらく黙っていた。
この子供が言っていることは、要するに「所有する」ということだ。あの見世物小屋と、本質的には何が違うのか。檻から檻へ、持ち主が変わるだけではないのか。
そう思った。
だが。
(――聞かれた)
彼女の中で、何かが軋んだ。
これまで、誰も彼女に何かを尋ねたことなどなかった。
どうしたいか。どこへ行きたいか。何を望むか。そんなことを聞かれたのは、物心ついてから一度もなかった。彼女は最初から最後まで、勝手に扱われるだけの何かだった。
なのに、この子供は――こんなに一方的な条件を突きつけながら、それでも最後に、彼女に選ばせた。
少女は、震える手を伸ばした。
そして、血に汚れたその手を、掴んだ。
「……はい」
「結構です」
鬼太郎は、彼女を引き上げながら、ごく自然にそう言った。
◇
「おいおい」
舞台の下から、呆れたような声が上がった。
サーシェスが、煙草に火をつけながらこちらを見上げている。
「拾うのかよ、そいつ」
「ええ」
「正気か? 吸血鬼の混血なんぞ、どこに持ってっても厄介事のタネだぞ。血を狙う連中は山ほどいる」
「でしょうね」
「分かってて拾うのか」
「気に入りましたので」
その一言に、サーシェスの動きが止まった。
煙草を咥えたまま、彼は数秒、無言で鬼太郎を見つめた。
そして――ひどく苦い顔をした。
「……ああ、そうかよ」
「どうかなさいましたか」
「別に」
サーシェスは、乱暴に煙を吐き出した。
(――俺と同じ扱いか、そいつも)
気に入ったから、手元に置く。壊れないよう、大切に扱う。
つまりは、そういうことだ。この化け物にとって、自分もあの娘も、コレクションの一つでしかない。丁重に、慎重に、決して損なわれないように保管される標本。
腹が立つ。
だが同時に――この子供が、自分の物になった相手には本当に一切の容赦なく尽くすであろうことも、なぜか確信できてしまった。
それがまた、たまらなく腹立たしかった。
「ちっ。行くぞ、坊主。長居する場所でもねえ」
「ええ。その前に、少し」
◇
鬼太郎は、天幕の内部を見回した。
舞台の裏手、幾つもの檻が並んでいる。羽をもがれた魔法生物。四本腕の人間だったもの。獣人。この夜の演目に使われた、あるいは使われる予定だったものたちが、まだそこにいた。
彼は、順に檻へ歩み寄り、扉の錠を凍らせて砕いていった。
「おい、全部解放するのか?」
「いえ」
鬼太郎は、淡々と答えた。
「開けるだけです」
「は?」
「出るかどうかは、彼らの問題でしょう」
サーシェスは、その答えに眉を上げた。
助けるつもりはない。連れて行くつもりもない。世話をするつもりも、行き先を用意するつもりもない。ただ、扉を開ける。それだけ。
そこに慈悲はなかった。あるのは、徹底した無関心だけだった。
実際、檻の中のいくつかは、扉が開いても動かなかった。逃げる気力すら残っていないのだろう。何匹かは、警戒しながら這い出て、天幕の隙間から夜の闇へと消えていった。
鬼太郎は、そのどちらにも興味を示さなかった。
彼にとって、彼らは「拾う価値のないもの」だった。生きたいと願う目をしていなかった。それだけの違いだ。
◇
外に出てから、鬼太郎は振り返った。
血と死体で満たされた天幕が、夜の闇の中に静かに佇んでいる。
彼は右手をかざした。
「アギ」
放たれた火球が、乾いた布地に着弾する。炎は瞬く間に燃え広がり、天幕全体を包み込んでいった。
「へえ。証拠隠滅か?」
「いえ」
鬼太郎は、燃え上がる炎を眺めながら答えた。
「隠すつもりはありません。あれだけの数を殺して、隠しきれるものでもないでしょう」
「じゃあ、何でだ」
「……けじめ、とでも申しましょうか」
自分でも、うまく説明できなかった。
両親を焼いた時と、同じだった。あの時も、そうするべきだと感じたから、そうした。損なわれたものを、そのまま放置して立ち去るのは、どうにも据わりが悪い。
それは彼にとって、数少ない、理屈では説明のつかない衝動だった。
「変なガキだな、お前」
「よく言われます」
少女は、鬼太郎の傍らで、燃え上がる天幕を見つめていた。
自分を何百回も殺した場所が、燃えている。
悲しくはなかった。嬉しいのかどうかも、よく分からなかった。ただ、胸の奥が、妙に空っぽになったような気がした。
「――そういえば」
鬼太郎が、ふと少女を見下ろした。
「まだ、お名前を伺っておりませんでした」
少女は、少し戸惑ってから、小さな声で答えた。
「……キーノ」
「キーノ、ですか」
鬼太郎は、その名を確かめるように繰り返した。
「墓場鬼太郎と申します。以後、よろしくお願いいたします」
そう言って、彼は丁寧に一礼した。
自分の所有物になれと告げた相手に、深々と頭を下げる。その光景は、どこまでも奇妙で、どこまでも彼らしかった。
キーノは、どう応じるべきか分からず、ただ、こくりと頷いた。
三人は、燃え上がる炎を背に、夜の道を歩き出した。
誰も、振り返らなかった。