ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
春先の日本は、思っていたよりも寒かった。
国際移動の煩雑な手続きを終え、ダンブルドアがその土地に降り立ったのは、昼を過ぎた頃だった。
目立たぬよう、マグルの装いに身を包んでいる。長い髭だけは隠しようがなかったが、この国では老人の奇矯な身なりなど、大して気に留められないらしい。すれ違う人々は、誰も彼に視線を向けなかった。
舗装された道の両脇に、低い家々が並んでいる。細い電線が空を横切り、自転車が静かに走り抜けていく。遠くに、輪郭の柔らかな山並みが見えた。
穏やかな土地だった。
あの男が、ここを選んだ理由が、分かる気がした。何もかもが静かで、誰も他人の素性を詮索しない。名を捨てて生きるには、これ以上の場所もなかっただろう。
手がかりは、古い記録に残されていた地名ただ一つ。
ダンブルドアは、そこから足で歩いた。
◇
坂を登り切ったところに、それはあった。
――いや。
あったはずの場所に、それはなかった。
石段は残っていた。苔むし、ひび割れ、ところどころ崩れながらも、確かに上へと続いている。
その先にあったのは、黒い残骸だった。
社殿は、完全に焼け落ちていた。焦げた柱が数本、地面から突き出している。屋根も壁も、跡形もない。基礎の石組みだけが、かつてそこに建物があったことを示していた。
鳥居も焼けていた。朱塗りだったであろう表面は炭化し、下部だけを残して崩れている。
そして――そのすべてを、丈の高い雑草が覆い始めていた。
五年近く、手つかずのまま放置されてきたのだ。
ダンブルドアは、石段を登り切ったところで足を止めた。
しばらく、何も言わなかった。
ここに、家族がいた。イギリスを捨て、名を捨て、遠い異国で静かに暮らしていた三人が。
そして、いなくなった。
「……ふむ」
彼は、静かに息を吐いた。
それから、杖を取り出した。
◇
魔法による検分は、慎重に行った。
五年という歳月は、痕跡を薄れさせるに十分な時間だ。それでも、完全に消えるわけではない。強い魔力が行使された場所には、必ず残滓が残る。
まず、焼失の原因を探った。
――魔法による発火。
自然火災ではない。ランプの転倒でもない。明確な、意図的な火だった。
次に、焼け跡全体に残る魔力の性質を読み取っていく。
そして、彼は二種類の痕跡を検出した。
一つ目は、彼にとって見慣れたものだった。
魔法界に属する呪文。それも、あまり好ましくない類のもの。長く闇祓いたちを悩ませてきた、あの連中が好んで用いた呪文の系統。
「……死喰い人」
呟いた声が、掠れた。
あの主人が消えた後も、捕まらずに逃げ延びた者たちがいた。行き場を失い、闇に潜り、各地を流れていった残党たち。
そのうちの一人が、ここへ来た。
偶然だったのか、追跡の果てだったのか。それは分からない。だが、この場所を見つけ、そして――
二つ目の痕跡が、その答えを告げていた。
ダンブルドアの手が、止まった。
それは、彼が既に二度見ている反応だった。
数年前、元闇祓いが死んだ現場。そして、三十数名が焼け死んだ天幕。
どの魔法使いの登録とも一致しない、既知のどの呪文にも属さない、正体不明の魔力。
それが、ここにあった。
しかも――死喰い人の痕跡と、ほぼ同じ場所に、重なるようにして。
「……返り討ち、ですかな」
残された痕跡の配置が、そのときの光景を、おぼろげに描き出していた。
襲撃者が、ここに立った。呪文を放った。おそらくは二度。
そして、この場所で――襲撃者自身が、焼かれた。
あの正体不明の力によって。
ダンブルドアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
そこまでは、まだいい。
問題は、その先だった。
彼は、記録の日付を思い返した。この火災が起きたのは、五年近く前。
ならば。
そのとき、その子は――六歳だ。
六歳。
まだ杖も持たず、学校にも通わず、魔法という言葉すら知らないはずの年齢。
「……ばかな」
思わず、声が出た。
あり得ない、というのが第一の反応だった。
無論、幼い魔法使いが力を暴発させることは珍しくない。恐怖や怒りに駆られて、制御できない魔力が周囲を壊す。それ自体は、どこの家庭でも起こることだ。
だが、この痕跡は違った。
暴発ではない。魔力が四方八方へ撒き散らされた形跡はなく、破壊の痕は襲撃者一人に、正確に集中している。
つまり――狙って、撃っている。
偶発ではなく、意図的に。恐怖に呑まれた子供の発作ではなく、明確な攻撃として。
六歳の子供が。
ダンブルドアは、焼け焦げた柱に手を触れた。
彼の脳裏に、遠い日の記憶が蘇る。
ロンドンの、薄暗い孤児院の一室。窓辺に座っていた、痩せた黒髪の少年。
トム・リドル。
あの子も、幼くして自分の力に気づいていた。誰にも教わらぬまま、それを使いこなしていた。他の子供たちを怖がらせ、傷つけ、動物を苦しめ、盗んだ品を隠し持っていた。
十一歳にして、既に歪んでいた。
だが。
ダンブルドアの喉が、かすかに鳴った。
――トムですら、殺してはいなかった。
あの少年は、確かに危うかった。残酷で、支配的で、共感を欠いていた。それでも、人を殺してはいなかった。少なくとも、あの時点では。
それが十一歳のトム・リドルだ。
ならば、六歳で人を焼き殺した子供は、何なのか。
「……いや」
彼は、自分の思考を押しとどめた。
早計だ。
両親を殺された直後の子供が、目の前の襲撃者に力を向けた。それは、生きるための抵抗だったかもしれない。責められるべきことではない。むしろ、幼い身で生き延びたことを、悼むべきだろう。
そう考えようとした。
だが――胸の奥に落ちた冷たいものは、消えなかった。
なぜなら、彼は知っているからだ。
この子は、その後どうしたのか。
行方をくらませ、五年の歳月を経て、三十数名を一夜で焼き殺した。
それは、生きるための抵抗の延長線上にあるものだろうか。
◇
焼け跡を降りた後、ダンブルドアは近隣で幾人かの住民に声をかけた。
記憶を操作するような真似はしなかった。ただの、昔この土地に住んでいた知人を探している老人として、自然に尋ねただけだ。
言葉の壁は、簡単な呪文で越えた。
「ああ、あの神社ね」
最初に答えてくれたのは、近所の老婦人だった。
「火事があってねえ。もう、五年も前になるかしら。ご夫婦が亡くなって、それっきり」
「お気の毒に。ご遺族は?」
「息子さんが一人いたんだけどね」老婦人は、寂しそうに首を振った。「あの子、行方が分からないままなのよ。火事の後、どこにもいなくて。警察も探したんだけど、結局見つからなくて」
「……そうですか」
「まだ小さかったのにねえ。六つか、七つか。あんな小さい子が、どこへ行っちゃったんだか」
ダンブルドアは、静かに頷いた。
「どんな子でしたかな」
「きたろうちゃん? ああ、いい子だったわよ」
老婦人の顔が、わずかに和らいだ。
「元気な子でね。よく走り回ってたわ。石段のところで転んで、膝を擦りむいて泣いてたこともあったかしら」
「ごく普通の、子供らしい子だったと」
「ええ、そうねえ。人懐っこくて、よく笑う子だった」老婦人は、懐かしむように目を細めた。「お父さんに肩車してもらって、嬉しそうにしてたのをよく覚えてるわ。あのご家族、本当に仲が良くてねえ」
ダンブルドアは、静かに頷いた。
――普通の、子供。
転んで泣き、走り回り、父の肩の上で笑う。どこにでもいる、六歳の子供の姿。
その像が、彼の中の別の像と、まったく噛み合わなかった。
両親を殺した襲撃者を、正確に狙って焼き殺した何か。三十数名を一夜で皆殺しにした何か。
どちらかが嘘なら、話は簡単だった。だが、どちらも事実なのだ。
つまり――あの火事の夜を境に、この子は変わったということになる。
(――両親の死が、それほどまでに)
そう考えるのが、最も自然ではあった。
目の前で親を殺された子供が、壊れてしまう。そういう例を、彼は幾度も見てきた。恨みに囚われ、心を閉ざし、人が変わったようになる。
だが、それにしても。
一夜で、あそこまで変わるものだろうか。
六歳の子供が、暴発ではなく狙って人を焼き、そして五年の間、誰にも捕まらずに生き延びる。それは、心が壊れた者の振る舞いではない。もっと別の――
「……どうかされました?」
「いえ。失礼いたしました」
ダンブルドアは、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございました。良い話を伺えました」
老婦人と別れた後も、彼はしばらくその場から動かなかった。
人懐っこく、よく笑う子供。
六歳で人を焼き殺した何か。
三十数名を一夜で殺した何か。
それらが、同じ一人の人間なのだ。
どうしても、像が結ばない。結ばないからこそ、不気味だった。
◇
夕暮れ。
ダンブルドアは、再び焼け跡へと戻っていた。
傾いた陽が、黒い残骸を赤く染めている。
彼は、しばらく黙ってそれを眺めていた。
――もっと早く、見つけていれば。
その思いが、まず胸に去来した。
あの予言を聞いたのは、五年以上前だ。あの時、もっと真剣に探していれば。血統記録という枠に囚われず、記録から消えた者を最初から当たっていれば。
この子が両親を失う前に、辿り着けていたかもしれない。
そうすれば、六歳の子供が人を焼くことも、五年の空白も、三十数名の死もなかったかもしれない。
悔いは、確かにあった。
だが、それだけではなかった。
もう一つ、彼の中で疼いているものがあった。
――放置は、できぬ。
六歳で人を殺し、十一歳で三十数名を焼き払う存在。それが、どこかで今も生きている。
そして、それは自分の血を引いている。
予言は告げていた。白にもなり、黒にもなる、と。ならば、まだ決まってはいないということだ。どちらにも転びうるということだ。
「……トムの時は、遅すぎた」
彼は、静かに呟いた。
あの少年に会ったのは、十一歳の時だった。その時には既に、性根は固まりきっていた。彼は警戒し、監視することはしたが、導くことはできなかった。いや――導こうとして、届かなかった。
そして今回も、また十一歳。
同じ年齢だ。早くも遅くもない、まったく同じ時点。
いや――と、彼は思い直した。
同じではない。
トム・リドルは、孤児院で誰にも力を教えられず、歪みながらも、まだ人を殺してはいなかった。それが十一歳のトムだ。
この子は、六歳で殺している。そして十一歳の今、三十数名を焼き払っている。
年齢は同じでも、積み上げてきたものが違いすぎる。
(――ならば、わしはより難しい相手に向かうということじゃな)
その認識は、彼を怯ませはしなかった。
むしろ、逆だった。
あれから、長い年月が過ぎた。自分は、あの頃よりずっと多くのことを知っている。人の心の機微も、闇に傾く者の兆候も、そして――あの時、何が過ちだったのかも。
トムに対して、自分は何をしたか。
警戒し、距離を取り、監視した。手を差し伸べたつもりでいて、その実、最初から「危険な子供」として扱っていた。あの聡い少年が、それに気づかぬはずがなかった。
自分は、あの子を疑うところから始めてしまったのだ。
同じ轍は、踏まぬ。
今度は、最初から迎え入れる。目の届く場所に置き、居場所を与え、正しい道を示す。誰も手を差し伸べなかったから、そうなったのかもしれない。ならば、自分がそれをやればいい。
仮に、それが失敗したとしても――
ダンブルドアは、懐の杖に軽く触れた。
長い年月をかけて積み上げてきた経験がある。そして、この手には、世界で最も強い杖がある。
どれほど危うい相手であろうと、御せぬはずがない。
そう、彼は考えた。
――もっとも。
その確信が、どれほどの前提の上に成り立っているのかを、この時の彼はまだ知らなかった。
相手が、十一年ではなく、二つの生涯を生きた何かであることも。
力によって屈することも、理想によって心を動かすこともない、まったく異質な価値基準の持ち主であることも。
何一つ、知らないままだった。
◇
陽が沈み切る前に、ダンブルドアは焼け跡を後にした。
崩れた石段を、一段ずつ降りていく。
その背中に、焼け焦げた柱の影が長く伸びていた。
「……さて」
彼は、足を止めて振り返った。
黒い残骸が、夕闇の中に沈もうとしている。
「どこにおるのですかな、あなたは」
答える者は、誰もいなかった。
ただ、春先の冷たい風が、雑草を揺らして通り過ぎていった。