ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
見世物小屋が燃え落ちた翌朝、鬼太郎は方針を決めていた。
この土地を、離れる。
理由は単純だった。三十数名を一度に殺した以上、ここに留まる利点が何一つない。仇討ちを口実に集まってくる者、面白半分に噂を確かめに来る者、あるいは魔法省の調査。どれも実害にはならないだろうが、いちいち相手をするのは時間の無駄だった。
それに――彼の関心は、既に次の段階へ移っていた。
「どこ行くつもりだよ、坊主」
朝の安宿。窓辺で煙草をふかしながら、サーシェスが尋ねた。
「ブルガリアへ」
「あ?」
「東欧です。ここから南東へ」
「場所は知ってるよ。なんでだ、って聞いてんだ」
鬼太郎は、広げていた地図から顔を上げた。
「二つ、理由がございます」
彼は指を一本立てた。
「一つは、ここに留まる利点がないこと。面倒事が増えるばかりです」
二本目の指が立つ。
「もう一つは、ブルガリアに、私の欲しいものが揃っているからです」
「欲しいもの?」
「魔法生物です」
サーシェスが、煙草を咥えたまま眉を上げた。
「あの辺りは、生息数が多いそうですね。書籍で調べた限りでは、欧州でも屈指の密度だとか」
「まあな。だから密猟者どもが群がってる。爪だの鱗だの角だの、高値で売れるからな」
「ええ。それが、二つ目の理由でもあります」
鬼太郎は、地図の一点を指で押さえた。
「魔法生物を狙う者たちが、絶えず行き来している。つまり――消えたところで、誰も困らない人間が、定期的に補充される土地ということです」
部屋の空気が、一瞬静まった。
サーシェスが、口の端を歪めた。
「……お前、それ本気で言ってんのか」
「ええ」
「材料扱いかよ」
「そうなります」
鬼太郎は、悪びれる様子もなく頷いた。
「この世界の歴史も、社会の構造も、書物で調べられる範囲はおおよそ把握いたしました。次は、魔法そのものを検証したいのです。呪文の仕組み、魔力の性質、この体系の限界がどこにあるのか」
「そりゃ、学校にでも行きゃいいんじゃねえのか」
「私は、教わるより自分で確かめたい性分でして」
鬼太郎は、淡々とそう言った。
「そして、実験には材料が必要です。書物を読むだけでは分からないことばかりですので」
◇
一方、魔法生物に対する方針は、まったく違っていた。
「なあ、そこは疑問なんだがよ」
移動の道中、サーシェスが尋ねた。
「魔法生物の素材が欲しいなら、狩ればいいだろ。密猟者どもと同じようによ」
「いいえ」
鬼太郎は、即座に否定した。
「殺してしまえば、二度と採れなくなります」
「……は?」
「爪も、毛も、鱗も、生きていれば再び生えてくるものです。殺せば、一度きりで終わる」彼は、ごく当然のことを説明するように続けた。「非効率でしょう」
「……お前、それ本気で言ってんのか」
「ええ。可能であれば、話し合って譲っていただくつもりです。知性の高い種であれば、交渉の余地はあるでしょう」
サーシェスは、しばらく絶句していた。
「……人間は材料扱いで、魔法生物には頭を下げるってのか」
「彼らは、継続的に素材を供給してくれる資源です」鬼太郎は首を傾げた。「人間は、そうではありませんので」
その返答に、サーシェスは乾いた笑いを漏らした。
優しさではない。保護でもない。ただ、持続可能かどうかという、それだけの基準。
この子供の中では、すべてが同じ物差しで測られている。そして、その物差しは恐ろしいほど一貫していた。
「……ちっ。相変わらず、ぶれねえ野郎だ」
「恐れ入ります」
「褒めてねえよ」
◇
キーノにとって、最初の数週間は、ただ混乱の連続だった。
鎖がない。檻がない。誰も彼女を切り刻まない。
その事実に、体がついていかなかった。
夜中に何度も飛び起きた。物音がするたびに身を強張らせた。食事を出されても、罠ではないかと疑って手を出せなかった。
何より困ったのは――何をしていいのか、分からないことだった。
あの場所では、何も考える必要がなかった。時間になれば引き出され、切られ、血を与えられ、戻される。それだけだった。
自由というものの使い方を、彼女は知らなかった。
「……あの」
最初の頃、彼女の言葉はいつも、そこで途切れていた。
「はい」
「……いえ。何でもない、です」
鬼太郎は、そのたびに静かに待った。急かしもせず、苛立ちもせず、ただ彼女が続きを言うまで、あるいは言わないと決めるまで、黙って待っていた。
それが、不思議だった。
彼は、自分を「所有物だ」と言った。事実、彼の態度にはどこか、人に対するものとは違う感触がある。心配される、というのとは少し違う。案じられているのでもない。
それでも。
冷えていれば上着を渡された。眠れずにいれば、灯りを落とす時間をずらしてくれた。血が必要かと、何度も確認された。
誰かにそんな扱いを受けたのは、生まれて初めてだった。
人としてではない。それは分かっている。
けれど、確かに――大切にされていた。
それを理解したとき、彼女の中で、何かが少しずつ戻り始めた。
◇
一ヶ月が過ぎる頃には、彼女の口数は明らかに増えていた。
二ヶ月目には、態度が変わっていた。
「ちょっと、あんた」
宿の一室。荷物をまとめていた鬼太郎が、顔を上げた。
「はい」
「その包帯、いつまで巻いてるつもりよ」
キーノが、腕を組んで彼を見下ろしていた――正確には、背丈はほぼ同じなので、睨みつけていた。
「先週、腕を切られたでしょ。もう治ってるじゃない。見苦しいから外しなさいよ」
「ああ。失念しておりました」
「失念って……あんた、自分のことになると本当に雑よね」
彼女は呆れたように息を吐いた。
そんな口の利き方を、自分がするようになるとは思っていなかった。だが、不思議と怖くはなかった。
この子供は、こちらが何を言おうと怒らない。むしろ、言えば言うほど、どこか満足げにすら見える。
(――変な奴)
彼女は、内心でそう毒づいた。
声に出さなかったのは、まだ少しだけ、恥ずかしかったからだった。
◇
サーシェスに対しては、遠慮というものが最初からなかった。
「おい嬢ちゃん、そこどけ。邪魔だ」
「先に座ってたのはあたしよ。あんたが立ちなさい」
「……お前なあ」
「何よ。文句あるなら言えば?」
銃を二挺ぶら下げた傭兵相手に、十歳の少女がまるで怯まない。
理由は、本人がよく分かっていた。この男は、自分に手を出さない。出せない。
なぜなら、そんなことをすれば――
「サーシェス」
部屋の隅から、静かな声がした。
鬼太郎が、書物から顔も上げずに言った。
「壊さないでくださいね」
「……分かってるよ、ちっ」
サーシェスは、忌々しげに舌打ちして引き下がった。
実際のところ、彼にこの少女を害する気はなかった。
面白くはない。生意気なガキだとも思う。だが、ここでこの娘に手を出せば、確実に厄介なことになる。あの子供が、自分をどう扱うか分からない。
それに――と、彼は思う。
この奇妙な三人の関係は、今のところ悪くなかった。
行く先々で血生臭いことが起きる。あの化け物が何をするのかを、特等席で眺めていられる。いつか殺すための機会を、いくらでも窺える。
わざわざ壊す理由が、どこにもなかった。
◇
もっとも、そのサーシェス自身も、定期的に殺し合いを仕掛けていた。
三日にあげず、というほどではない。だが、思い出したように、彼は鬼太郎に銃口を向けた。
「おい坊主。今日はどうだ」
「よろしいですよ」
毎回、快諾される。
そして、毎回、同じ結末を迎えた。
サーシェスは全力を尽くす。手の内を変え、罠を張り、不意を突く。十数年の傭兵経験のすべてを注ぎ込む。
そのすべてが、届かない。
鬼太郎は、術を使わない。銃も抜かない。ただ躱し、受け流し、必要最小限の動きで無力化する。急所は決して突かない。関節は極める寸前で止める。
殺し合いではなかった。
サーシェスにとっては、命を賭けた本気の戦い。
だが、鬼太郎にとっては――付き合い、である。
「……くそったれ」
地面に座り込み、肩で息をしながら、サーシェスは吐き捨てた。
目の前の子供は、汗一つかいていない。
「本日も、良い動きでした」
「慰めはいらねえよ」
「本心ですが」
「それが一番腹立つんだよ!」
少し離れた岩の上から、キーノが呆れた顔で眺めていた。
「懲りないわね、あんたも」
「うるせえぞ嬢ちゃん」
「何回目よ、それ。そろそろ数えるのも面倒なんだけど」
「黙ってろ!」
キーノは肩をすくめて、それ以上は言わなかった。
言わなかったが――内心では、少しだけ思っていた。
(――この男も、大概おかしいわ)
何度負けても、また挑む。勝てないと分かっていて、それでもやめない。
そういう意味では、この二人はよく似ているのかもしれなかった。
◇
ブルガリアへの道のりは、決して平坦ではなかった。
国境をいくつも越え、魔法界とマグル社会の境目を行き来しながらの移動。そして、その道中には必ず、面倒な相手が現れた。
噂を聞きつけた賞金稼ぎ。仲間を殺された報復に来た者。あるいは単に、旅人から金品を奪おうとする程度の連中。
鬼太郎は、そのすべてを淡々と処理した。
「――アギ」
街道脇の林で、待ち伏せていた四人組が炎に包まれる。
「ちょっと、あんた」
その様子を、少し離れた場所から眺めていたキーノが、呆れ声を上げた。
「三人目でしょ、そいつら。まだやるの?」
「向こうから来られましたので」
「そうだけどさあ……もうちょっとこう、加減とかないわけ?」
「ございません」
「即答しないでよ」
キーノは、深々と溜息をついた。
最初の頃は、人が死ぬたびに身を強張らせていた。今は、もう慣れた。慣れてしまった自分に、時々嫌気が差すこともある。
だが、この男は――放っておけば、本当に延々とやり続けるのだ。誰かが横で口を出さないと、気が済むということがない。
「はっはっは! いいぞ坊主、派手にやれ!」
そしてこの傭兵は、逆方向に振り切れていた。
サーシェスは楽しげに笑いながら、逃げようとした一人の膝を撃ち抜いた。
「おい、そっち行ったぞ! 逃がすなよ!」
「承知しました」
「ちょっと、あんたも乗るんじゃないわよ!」
「うるせえ、これが俺の稼業だ!」
「稼業でも節度ってものがあるでしょ!」
「ねえよそんなもん!」
林の中に、炎と銃声と怒鳴り声が響き渡る。
その真ん中で、鬼太郎は静かに次の標的へ手をかざしていた。
騒がしい、と思う。
前世では、こういうことはなかった。戦いは常に静かで、孤独で、生きるか死ぬかだけの単純なものだった。
誰かが横で文句を言い、誰かが横で囃し立てる。そんな状況で戦ったことなど、一度もなかった。
(――悪くは、ありませんね)
それは彼にとって、まったく新しい種類の感覚だった。
◇
そうして、ひと月あまり。
三人は、ブルガリアの地に足を踏み入れた。
山がちな土地だった。深い森が延々と続き、その奥に、人の手の入っていない領域が広がっている。空気が違う、と鬼太郎は感じた。魔力の密度が、明らかに濃い。
「へえ。悪くねえな」
サーシェスが、周囲を見回して口笛を吹いた。
「この辺は昔から、荒事の絶えない土地だ。密猟者、バイヤー、仲買人。裏の連中が山ほど流れ込んでる」
「結構です」
「結構、ねえ」
サーシェスは呆れたように笑った。この子供にとって、それは「材料の供給が安定している」という意味なのだ。
鬼太郎は、森の奥へと視線を向けていた。
この先に、彼の知らない生き物がいる。この世界の魔法が、どういう理で動いているのかを知る手がかりがある。
久しく感じていなかった昂りが、静かに胸の底から立ち上ってくる。
「さて」
彼は、二人を振り返った。
「ここを拠点といたします。まずは、住む場所の確保からですね」
「へいへい」
「その前に、まともな食事にしましょうよ」キーノが口を挟んだ。「この一週間、干し肉ばっかりじゃない」
「ああ、それもそうですね」
鬼太郎は素直に頷いた。
三人は、山道を下り、麓の町へと向かって歩き出した。
これから始まる日々が、どういうものになるのか。
この時の彼らは、まだ知らない。
――そして、彼らを探す老人が、既に日本の焼け跡に立っていたことも。