ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
麓の町は、石造りの家並みが緩やかな坂に沿って続く、静かな場所だった。
マグルの町である。魔法界とは無縁の、ごく普通の暮らしがそこにあった。市が立ち、人々が野菜や肉を売り買いし、子供たちが石畳を駆けていく。
三人は、その中を歩いていた。
「ちょっと、あんた。それ何買うつもり?」
雑貨屋の店先で、キーノが眉をひそめた。
鬼太郎の腕には、ガラス製の器や、小瓶の束、それに厚い紙の束が抱えられている。
「器具です。記録用の紙も要りますので」
「そんなものより先に、鍋とか買いなさいよ。食器もないのよ、うちには」
「ああ、それもそうですね」
「本当に分かってるの? あんた、放っておくと三日くらい平気で何も食べないでしょ」
「必要とあらば」
「必要じゃなくても食べなさいよ!」
キーノは、呆れたように商品棚へ向き直り、鍋と食器を次々に籠へ放り込んでいった。
その様子を、少し離れた場所からサーシェスが眺めている。彼の腕の中には、酒瓶が三本抱えられていた。
「なあ嬢ちゃん、俺のこれも入れといてくれ」
「自分で持ちなさいよ。それに何よその量」
「必需品だ」
「絶対違うでしょ」
鬼太郎は、二人のやり取りを聞きながら、静かに会計を済ませていた。
賑やかだ、と思う。
買い物そのものが初めてというわけではない。前世にも、人間の暮らすコロニーはあった。商人もいた。武器を売る者、食料を捌く者、情報を金に換える者。
だが、あれは買い物と呼べるようなものではなかった。
その日を生き延びるための弾薬。腐りかけの保存食。値切る余裕も、品を選ぶ余裕もない。次に来られる保証もないのだから、必要なものを必要なだけ、手早く掴んで立ち去る。それだけだった。
鍋を買うか迷う。酒の量で言い合いになる。食器の柄を比べる。
そんな時間は、あの世界のどこにもなかった。
(――悪くは、ありませんね)
彼は、包みを抱え直した。
◇
町を出て、山道を登り、森へと入る。
境界は、明確だった。
ある地点を越えた瞬間、空気の質が変わったのだ。
「……これは」
鬼太郎は足を止め、周囲を見回した。
肌に触れる感触が違う。魔力の密度が、麓とは比較にならないほど濃い。呼吸をするだけで、それが体の中に入り込んでくるような感覚があった。
「マグル避けだな」サーシェスが、事もなげに言った。「この辺一帯に張ってある。普通の人間はここまで来られねえよ。来ようとしても、途中で用事を思い出して引き返しちまう」
「なるほど。よくできた術式ですね」
木々は太く、高く、頭上を覆い尽くしていた。日の光は葉の間から零れる程度で、森の中は薄暗い。地面は苔と落ち葉に覆われ、足音を吸い込んでいく。
遠くで、聞いたことのない鳴き声がした。
鬼太郎の目が、わずかに輝いた。
この先に、彼の知らないものがいる。
「拠点は、もう少し奥にいたしましょう」
「おいおい、どこまで行く気だ」
「人の来ない場所が望ましいので」
「その理屈だと、この時点でもう来ねえと思うぜ」
「念のためです」
三人は、さらに奥へと歩を進めた。
◇
それが起きたのは、日が傾き始めた頃だった。
前方の茂みが、激しく揺れた。
サーシェスの手が、反射的に銃へ伸びる。
次の瞬間、何かが木立の間から転がり出てきた。
女だった。
いや――人の形をしてはいるが、人間ではなかった。
白銀の髪が、薄暗い森の中でもはっきりと光を放っている。肌は透き通るように白く、その造形は、およそ人間には持ち得ない完璧さだった。見ているだけで、意識が吸い寄せられるような。
ヴィーラ。
鬼太郎は、書物で読んだその名を思い出した。
だが今、その姿は痛ましいものだった。
衣服は裂け、髪は乱れ、白い肌のあちこちに傷が刻まれている。左肩から腕にかけては、深い裂傷から血が流れ続けていた。
女は、地面に手をついたまま顔を上げ――そこに三人がいることに気づいて、大きく身を引いた。
その目に、明確な恐怖があった。
追われている。しかも、人間に。
鬼太郎は、それを即座に理解した。
「――大丈夫ですか」
彼の口から出た声は、それまでとは違っていた。
わずかに高く、柔らかく、幼さを強調した響き。表情も、心配そうに眉を下げたものに変わっている。
技術だった。
怯えた相手から話を聞き出すには、警戒を解かせるのが最も早い。そのために、自分がどう見えるべきかを、彼は正確に計算していた。
女の警戒が、わずかに緩んだ。目の前にいるのは、子供だった。自分を追ってきた男たちとは、明らかに違う。
「あなた、たちは……」
「旅の者です。ここで暮らそうと思って、来たばかりで」
鬼太郎は、ゆっくりと女に近づいた。両手は見える位置に開いたまま。
「怪我をしていますね。治しましょう」
「え……」
「動かないでください」
彼は、女の左肩に手をかざした。
「ディア」
淡い光が、裂けた傷口を包み込む。
女が息を呑んだ。皮膚が寄り集まり、血が止まり、数秒のうちに傷が消えていく。他の細かな傷も、次々と塞がっていった。
「……これは」
彼女は、信じられないという顔で自分の腕を見つめた。
治癒呪文なら知っている。だが、これほど速く、これほど完全に治るものではない。ましてや、杖も持たない子供が。
「いかがですか。痛みは残っていませんか」
「あ……ええ、大丈夫、です。ありがとう……」
「結構です」
鬼太郎は満足げに頷いた。
これで、落ち着いて話ができる。
◇
彼が治療を施した理由は、単純だった。
痛みと恐慌で混乱した人間からは、正確な情報が引き出せない。断片的で、感情的で、時系列すら崩れた話を聞かされるのは時間の無駄だ。
であれば、まず状態を整える。それだけのことだった。
「何があったのか、聞かせていただけますか」
女は、少しためらってから、話し始めた。
自分は、この森の奥に棲む一族の者であること。
半月ほど前から、密猟者の集団がこの森に入り込んでいること。
彼らの目的は、ヴィーラの羽毛と髪だということ。杖の芯材としても、魔法薬の素材としても、非常に高く売れるのだと。
「――でも、あの人たちは、切り取るだけじゃ済まさないんです」
彼女の声が、震えた。
「一度捕まえれば、何度でも採れるから、と。だから、殺さずに……ずっと、閉じ込めて」
そこで、言葉が途切れた。
女は、俯いたまま動かなくなった。膝の上に置かれた手が、布を強く握りしめている。
「……それだけじゃ、ないんです」
絞り出すような声だった。
「あの人たち、わたしたちを、その……」
続きは、出てこなかった。
唇が動きかけて、止まる。もう一度、開きかけて、また閉じる。何度かそれを繰り返した後、彼女は結局、何も言えないまま顔を伏せた。
肩が、小さく震えていた。
それ以上、誰も問わなかった。
キーノの表情が、静かに険しくなっていた。あの場所で過ごした二年間が、彼女に想像を与えていた。囚われた者が、どのように扱われるか。人としての扱いを受けない者に、何が起こりうるか。
「……最低」
彼女は、低く吐き捨てた。
「ああ、そういう手合いか」
サーシェスが、酒瓶から口を離して顔をしかめた。珍しく、その口調には愉快さがなかった。
「珍しくもねえよ。この稼業じゃ、掃いて捨てるほどいる。捕まえたモンは何しても構わねえと思ってる馬鹿がな」
鬼太郎だけが、いつもと変わらない顔をしていた。
「なるほど」
彼は、小さく頷いた。
「扱いが雑ですね」
その一言に、三者三様の視線が集まった。
「……あんた、本当に」
キーノが、何か言いかけて、やめた。
鬼太郎は、それに気づかない様子で続けた。
「素材を採るのが目的なのでしょう。であれば、供給元の状態は良好に保つべきです。消耗させれば質が落ちますし、最悪、採れなくなる。合理性に欠けます」
それが、彼の感想のすべてだった。
憤りではない。憐憫でもない。ただ、非効率に対する純粋な評価。
ヴィーラの女は、俯いたまま、その言葉を聞いていた。
慰められたわけでもない。同情されたわけでもない。
それなのに――なぜか、少しだけ息がしやすくなった気がした。
この子供は、彼女に何も求めなかった。詳しく話せとも言わず、可哀想にとも言わず、ただ「相手が間違っている」とだけ言った。理由はずれていたけれど。
「仲間は、今も?」
「はい。十人以上が、あの人たちの拠点に……わたしは、運よく隙を見て逃げ出せただけで」
女は、ぎゅっと拳を握った。
「お願いです。誰か……力を貸してもらえませんか」
「魔法省には、お知らせしないのですか」
鬼太郎が尋ねると、女は力なく首を振った。
「……無駄なんです」
「と、申しますと」
「三年前にも、同じことがありました。別の一族が襲われて、代表が訴えに行ったんです」
彼女の声には、諦めが染みついていた。
「でも、何も変わりませんでした。調査すると言われて、それきりです。半年後にもう一度行ったら、担当の方が代わっていて、記録も残っていないと言われました」
「なるほど」
「わたしたちは、あの人たちにとって『人間もどき』ですから」
女は、自嘲するように笑った。
「書類の上では、権利があることになっているんです。でも、それだけです。実際に誰かが動いてくれることは、ありません。殺されたわけじゃないなら、なおさら」
その言葉に、キーノが小さく息を呑んだ。
自分も、そうだった。あの見世物小屋には、何十人もの客が出入りしていた。誰一人として、彼女を助けようとはしなかった。それどころか、笑いながら見ていた。
助けを求める先など、最初からどこにもなかったのだ。
「だから……通りすがりの方に、お願いするしかなくて」
女は、深く頭を下げた。
傷を治してくれた子供。杖も持たずに、あれほどの治癒を行える存在。ただの旅人ではないことは、見れば分かる。
「ご迷惑なのは、承知しています。それでも……他に、頼れる相手がいないんです」
藁にもすがる思いだった。
鬼太郎は、少し考えるように首を傾げた。
そして、言った。
「――ちょうど、人手が足りなかったので、助かりますね」
森が、静まり返った。
「……え?」
女が、瞬きをした。
聞き間違いだろうか。今、この子供は何と言った。
「拠点を作りたかったのです」鬼太郎は、ごく普通の口調で続けた。「ですが、私どもは三人しかおりません。木を切り、土を均し、資材を運ぶとなると、どうしても手が足りない」
「あの……」
「密猟者の方々は、何人ほどいらっしゃいますか」
「じゅ、十数人、だと思います、けど」
「それは結構」鬼太郎は頷いた。「十分な人数ですね」
女の顔から、血の気が引いていった。
話が、噛み合っていない。
仲間を助けてほしいと言ったはずだ。それに対して、この子供は「人手が足りない」と答えた。まるで、密猟者たちを労働力として数えているような――
いや。まさか。
「ちょっと、あんた」
横から、呆れきった声が飛んだ。
キーノが、腕を組んで鬼太郎を睨んでいた。
「言い方」
「何か問題がございましたか」
「あるでしょうよ。この人、仲間を助けてって言ってるのよ? それで返事が『人手が足りて助かる』って、どういうこと?」
「事実を申し上げただけですが」
「そういうところよ!」
キーノは、頭を抱えた。
「あのね、こういう時は普通、『分かりました、助けます』とか言うものなの。あんた、人の話を聞いてるようで全然聞いてないでしょ」
「聞いておりますが」
「聞いた上でそれなら、もっと悪いわ」
ヴィーラの女は、その言い合いを呆然と眺めていた。
「気にすんな、嬢ちゃん」
サーシェスが、酒瓶を傾けながら口を挟んだ。
「こいつはいつもこうだ。慣れりゃどうってことねえよ」
「慣れる? こんなのに?」
「ああ。悪気はねえんだ。本気でそう思ってるだけでな」
「それが一番怖いんですけど!?」
女の悲鳴じみた声が、森に響いた。
◇
その間、鬼太郎は静かに算段を巡らせていた。
彼にとって、この状況は極めて都合が良かった。
まず、密猟者たち。
十数人。全員が、この森で違法に素材を採取している者たちだ。つまり――消えたところで、誰も困らない類の人間である。加えて、体力のある成人男性が十数名。拠点の建設には、これ以上ない労働力だった。
マリンカリンが使える。
ブルガリアへ来る道中、ようやく思い出した術だった。プリンパが精神を掻き乱すだけの粗いものであるのに対し、こちらはもっと精密だ。対象を魅了し、意のままに従わせる。反抗も、逃走も、疑念すら抱かせずに。
建設が終わるまで働かせ、その後は――まあ、その時に考えればいい。
次に、ヴィーラたち。
こちらは、まったく別の扱いになる。
彼女たちの羽毛と髪は、杖の芯材にも魔法薬にもなる。つまり、継続的に必要となる素材だ。そして、羽毛も髪も――生きていれば、再び生えてくる。
殺せば、一度で終わる。
囚人として扱えば、逃げられる危険と、反抗される手間が常につきまとう。
ならば、答えは一つしかない。
解放し、恩を売り、対等な取引相手として関係を結ぶ。そうすれば、彼女たちは自ら素材を差し出すようになる。
(――一石二鳥、ですね)
労働力と、素材の供給源。
この一件を片付ければ、両方が同時に手に入る。
救うつもりは、微塵もなかった。
ただ、動く理由が揃っただけのことだった。
そこまで考えて、鬼太郎はごくわずかに口元を緩めた。
拠点を構えたいと思っていた矢先に、労働力が十数人。素材を安定して手に入れたいと考えていた矢先に、供給元との縁。しかも、こちらから探し回る必要すらなかった。向こうから歩いてきたのだ。
これほど手際よく揃うことは、そう多くない。
(――結構なことです)
彼の機嫌は、明らかに良くなっていた。
もっとも、その変化に気づいたのは、一人だけだった。
「……ちょっと」
キーノが、胡乱な目で彼を見ていた。
「あんた今、笑ったでしょ」
「笑っておりませんが」
「笑ったわよ。ほんの少しだけど、確実に」
「気のせいかと」
「あのねえ」彼女は額を押さえた。「この状況で機嫌が良くなる人間、あんたくらいのものよ」
「効率よく事が運びそうですので」
「そこ! そういうところなの!」
◇
「――ご案内いただけますか」
鬼太郎が、そう言った。
ヴィーラの女が、顔を上げた。
「え?」
「その、密猟者の方々の拠点です。場所をご存じなのでしょう」
「は、はい。でも……本当に、助けてくださるんですか?」
「結果として、そうなるかと」
女は、その言い回しに引っかかりを覚えた。
だが、この子供が動くと言っているのは確かだった。仲間を救えるかもしれない。それ以外に、今すがれるものはない。
「……お願いします」
彼女は、深く頭を下げた。
「ああ、それと」
鬼太郎が、思い出したように付け加えた。
「無事に終わりましたら、一つご相談したいことがございます」
「相談、ですか」
「ええ。後ほど」
彼は、それ以上は語らなかった。
女は不思議そうな顔をしたが、今はそれどころではない。彼女は立ち上がり、森の奥を指差した。
「こちらです。半刻ほど歩けば」
「では、参りましょう」
鬼太郎は、静かに歩き出した。
数歩進んだところで、女が後ろから小さく声をかけた。
「あの……」
「はい」
「まだ、名前を伺っていませんでした」
鬼太郎は足を止め、振り返った。
「墓場鬼太郎と申します。こちらがキーノ、そちらがサーシェスです」
「キーノよ。よろしく」
「おう」
女は、三人の顔を順に見てから、小さく頭を下げた。
「わたしは、ラーダといいます」
そう名乗った彼女の声には、まだ怯えが残っていた。それでも、彼女は言葉を続けようとした。
「あの、鬼太郎さん。さっきのお話なんですけど……その、人手というのは、どういう」
「後ほどご説明いたします」
「え、あ、はい……」
あっさりと流されて、ラーダは口をつぐんだ。
聞きたいことは山ほどあった。この子供が何者なのか。なぜ杖も持たずに治癒ができるのか。そして、あの言葉は何を意味していたのか。
だが、何を尋ねても、返ってくる答えは自分の理解の外にある気がした。
それでも――と、彼女は思う。
この人たちに頼るしか、道はない。
ラーダは、小走りで三人の後を追った。
その後ろを、キーノが溜息をつきながら続く。
「絶対ろくなこと考えてないわ、あれ」
「おう、同感だ」
サーシェスが、愉快そうに笑いながら銃を確かめた。
「さて、久々に暴れられそうだな」
薄暗い森の奥へ、四つの影が進んでいった。