ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
図面が完成したのは、砦を接収してから三日後のことだった。
中庭に据えた粗末な木机の上に、鬼太郎は何枚もの紙を広げた。麓の町で買い込んだ、あの厚紙の束である。
「できました」
「早いわね」
キーノが、興味深そうに覗き込んだ。
次の瞬間、彼女の表情が固まった。
「……何これ」
「図面ですが」
「いや、それは分かるけど」
彼女は、一枚目を手に取った。
そこに描かれていたのは、確かに建物の平面図だった。整然と線が引かれ、寸法が几帳面に書き込まれている。字も図も、驚くほど丁寧だった。
問題は、その中身である。
「……窓、ないじゃない」
「三箇所ございます」
「三箇所!?」彼女は紙をひっくり返した。「この大きさで三つ? しかも全部小さいじゃない。何これ、覗き穴?」
「銃眼です」
「答えになってない!」
鬼太郎は、不思議そうに首を傾げた。
「窓は、侵入経路になります。数が多いほど、防衛上の弱点が増える。最小限に留めるのが合理的かと」
「昼間でも真っ暗でしょ、これじゃ!」
「灯りを置けば済む話です」
「油代の方が高くつくわよ!」
キーノは、二枚目をひったくった。
そこには、内部の間取りが描かれていた。
「……通路が、全部まっすぐ」
「ええ。見通しが利きますので」
「曲がり角ゼロ? 一本も?」
「死角は、少ないほど良いかと」
「殺風景にも程があるでしょ!」
三枚目を見て、彼女の手が止まった。
建物の面積配分が記された図だった。
全体の六割以上が、「実験室」と「素材保管庫」で占められている。
「……ちょっと待って」
彼女は、残りの区画を指で追った。
「居住区って、この隅っこの三部屋だけ?」
「ええ。三人おりますので」
「狭すぎるでしょ!」
「寝るには十分な広さかと」
「寝るだけじゃないのよ、生活ってものは!」
キーノは、机に両手をついた。
「じゃあ聞くけど。台所は?」
「こちらです」
鬼太郎が指したのは、隅の小さな四角だった。そこには「調理区画」とだけ書かれている。
「……これだけ?」
「火を使う設備と、水場があれば足りるかと」
「食材はどこに置くのよ! 調理台は! 食器を洗う場所は!」
「必要であれば、追加いたします」
「最初から考えなさいよ!」
彼女は、深呼吸をした。
そして、最も重要な問いを口にした。
「……風呂は?」
「ございません」
「なんで!?」
「必要ですか?」
キーノの動きが、完全に止まった。
「……今、なんて言った?」
「必要ですか、と」
「必要に決まってるでしょうがぁ!」
中庭に、彼女の絶叫が響き渡った。
◇
少し離れた場所で、サーシェスが腹を抱えて笑っていた。
「はっはっは! いいぞ嬢ちゃん、もっと言ってやれ!」
「あんたも何か言いなさいよ!」
「俺か? 俺は別にどうでもいいぜ。寝床と酒さえありゃな」
「役立たず!」
「おっと、酒の保管場所は要るな。そこは主張しとくか」
「そういうことじゃないでしょ!」
キーノは、頭を抱えた。
この二人は、まともな家というものを知らない。片方は生涯を戦場で過ごしてきた傭兵で、もう片方は――何なのかよく分からないが、とにかく普通ではない。
自分だって、人並みの暮らしなど知らない。物心ついてから、ずっとあの檻の中だった。
それでも。
窓のない、真っ直ぐな通路が続く、寝るためだけの部屋がある建物。
それが何に似ているか、彼女には分かってしまった。
「……あのね」
彼女は、絞り出すように言った。
「これ、家じゃないわよ」
「では、何でしょう」
「牢屋よ」
鬼太郎が、瞬きをした。
「あたし、二年もそういう場所にいたの。だから分かる」彼女は、図面を指で叩いた。「窓がなくて、通路が真っ直ぐで、寝る場所しかない。そんなの、閉じ込めるための建物の造りよ」
「……」
「あんたが作ろうとしてるの、それと同じ」
沈黙が落ちた。
鬼太郎は、しばらく図面を見下ろしていた。
◇
彼にとって、この設計は最適解だった。
防衛上の弱点を減らし、迎撃しやすい動線を確保し、必要な機能を優先順位順に配置する。前世で、隠れ家というものを何度も作ってきた。その経験に基づけば、これ以上の答えはないはずだった。
だが。
(――なるほど。似ておりますね)
言われてみれば、確かにそうだ。
守るための造りと、閉じ込めるための造りは、本質的に同じ形を取る。出入りを制限し、動線を管理し、内部を見渡せるようにする。目的が逆なだけで、構造は変わらない。
自分は、そこに一度も疑問を持たなかった。
なぜなら――
「……鬼太郎」
キーノが、いつになく静かな声で言った。
「あんた、あたしのこと大事にするって言ったわよね」
彼は、顔を上げた。
「ええ、申し上げました」
「壊れないように扱うって」
「ええ」
「じゃあ」
彼女は、真っ直ぐに彼を見た。
「こんな場所に住まわせるの?」
その問いが、彼の中で、奇妙な軋みを立てた。
壊れないように扱う。それは彼にとって、明確な方針だった。損傷させない。消耗させない。良好な状態を保つ。
そのために必要なのは、安全の確保だと考えていた。危険から遠ざければ、壊れることはない。だから、防衛を最優先にした。
だが。
――安全であることと、良好な状態であることは、同じではない。
あの見世物小屋を思い出す。彼女は、あそこで何度も殺され、何度も蘇った。死ぬことはなかった。ある意味では、生存は保証されていた。
それでも、あの場所は彼女を損なっていた。
目に見えない部分が、確実に削られ続けていた。
(――変数が、足りておりませんでしたか)
彼は、内心で自分の計算式を見直した。
安全性。機能性。効率。それらは確かに重要だ。だが、そこに「住む者の状態」という項目が抜け落ちていた。
結果として保存できなければ、いくら堅牢でも意味がない。
それは、合理性の欠如である。
「……なるほど」
鬼太郎は、静かに頷いた。
「修正が必要ですね」
「……え?」
キーノが、拍子抜けしたような顔をした。
「窓を増やします。採光を確保しましょう。通路も、直線に拘る必要はありません。要は迎撃可能であればよいので、多少曲げても構わない」
彼は、羽根ペンを取り上げると、早速図面に線を引き始めた。
「居住区画は、拡張いたします。台所も、必要な設備を伺った上で設計し直しましょう。それと――風呂でしたか。どのようなものが必要ですか」
「……いや、あの」
「ご要望を伺えれば、反映いたします」
キーノは、しばらく呆然としていた。
あれだけ言い合って、もっと粘られると思っていた。理屈で押し返されると覚悟していた。
なのに、あっさり折れた。
「……なんで、急に」
「私の計算に、漏れがございました」
鬼太郎は、図面から顔を上げずに答えた。
「壊れないように扱うと申し上げた以上、それを実現できない設計は誤りです。訂正するのは当然かと」
「……そう」
キーノは、それ以上何も言わなかった。
言えなかった、というのが正確かもしれない。
彼女はこの子供にとって、人ではない。所有物であり、気に入った品だ。それは分かっている。何度も、はっきりと告げられてきた。
なのに、時々。
人として扱われるより、よほど大切にされている気がしてしまう。
「……あ、それとね」
彼女は、咳払いをして図面を覗き込んだ。
「窓は、南向きに多めにして。あと、居間っていうのを作りなさいよ」
「居間、といいますと」
「みんなが集まる部屋。ご飯食べたり、話したりする場所」
「……用途が、曖昧ですね」
「そういうものなの!」
「なるほど。承知いたしました」
鬼太郎は、素直に線を引き足した。
◇
その翌日から、事態は妙な方向へ転がり始めた。
最初に現れたのは、小人のような一団だった。
背丈は膝ほど。土色の肌に、太い腕。石を扱う種族だと、鬼太郎は書物の記述から判断した。
彼らは、砦の門前に列を作り、じっとこちらを見上げていた。
「……何でしょう」
「ラーダに聞いてみたら?」
呼ばれたラーダは、少し困ったような顔で説明した。
「あの……わたしたち、みんなに伝えたんです」
「みんな?」
「この森に住む、言葉の通じる方々に。密猟者がいなくなったこと。それをしてくださった方が、この森に住むことになったって」
ラーダは、言葉を選びながら続けた。
「そうしたら、その……お礼をしたいという方が、何人も」
「お礼?」
「ええ。あの方たちは、石を扱うのが得意で。それに、あちらの森の奥には木を扱う一族もいます。土を固めるのが上手な方々も」
鬼太郎は、門前の小人たちを見た。
彼らは、期待するような目でこちらを見返していた。
「……なるほど。建築の協力を、ということですか」
「たぶん、そうだと思います」
「対価は」
「いりません。そうおっしゃっていました」
ラーダは、少し寂しそうに笑った。
「あの方たちも、ずっと怯えて暮らしていましたから。それが終わったことが、嬉しいんです」
鬼太郎は、しばらく黙っていた。
彼は、この森を守るつもりなど、微塵もなかった。
密猟者を排除したのは、労働力が必要だったからだ。ヴィーラと取引したのは、素材が欲しかったからだ。それ以上の意図はない。
なのに、結果として――森の住人たちは、彼を守護者と見なしている。
(――ずれておりますね)
訂正すべきだろうか、と一瞬考えた。
だが、すぐに思い直した。誤解を解いたところで、こちらに利益はない。むしろ、協力してくれるというなら、受け取っておく方が合理的だ。
「では、お願いいたしましょう」
そう答えた瞬間、彼の内心で、まったく別の感情が湧き上がっていた。
――目の前にいる。
書物の挿絵でしか見たことのない種族が。生きて、動いて、こちらを見上げている。
鬼太郎は、小人たちの前にしゃがみ込んだ。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
小人たちが、きょとんとした顔を見合わせた。
「石を扱うとのことですが、それは魔法によるものですか。それとも技術ですか」
「……え?」
「魔法であれば、どのような原理でしょう。杖を使わないようですが、詠唱の必要は? 対象の大きさに制限はありますか。硬度による違いは? 石以外の鉱物ではいかがです? それと――」
「ちょ、ちょっとお待ちを!」
小人の一人が、慌てて両手を上げた。
「一度に、そんなに聞かれても……」
「これは失礼いたしました」
鬼太郎は、丁寧に頭を下げた。
そして、懐から紙束と羽根ペンを取り出した。
「では、順番に。まず、原理について」
「まだ聞くんですか!?」
「ぜひ」
小人たちは、困惑した様子で顔を見合わせていた。
彼らからすれば、恩人が突然、自分たちの能力について根掘り葉掘り尋ね始めたのである。
少し離れたところで、キーノが呆れ顔で腕を組んでいた。
「……あいつ、目が輝いてるわ」
「ああ」サーシェスが頷いた。「あんな顔、初めて見たな」
「怖い顔してる時より、よっぽど怖いわよ」
「同感だ」
◇
そこからの数週間は、賑やかなものだった。
石の民が、崩れた壁を積み直した。彼らの手にかかると、石は粘土のように形を変え、隙間なく組み合わさっていく。
木を扱う一族が、森の奥から良質な材を運んできた。彼らは木に触れるだけで、その木がどう育ったか、どこで曲がるかを言い当てた。
土を固める者たちが、床と基礎を整えた。
そして、十四人の密猟者たちが、穏やかな笑みを浮かべながら黙々と重労働をこなしていった。
その光景は、端から見れば奇妙極まりないものだった。魔法生物と人間が、肩を並べて建築に従事している。しかも人間の方は、全員が同じ表情をしている。
鬼太郎は、その間ずっと、記録を取り続けていた。
誰がどのように魔法を使うのか。その原理は何か。種族ごとの差異は。限界はどこにあるのか。
紙束は、みるみるうちに埋まっていった。
◇
そうして、ひと月あまり。
屋敷は、完成した。
決して大きくはない。二階建ての、こぢんまりとした石造りの建物である。
だが、それは確かに「屋敷」と呼べる姿をしていた。
南向きの壁には、大きな窓が幾つも並んでいる。木の梁が渡された天井は高く、日中は灯りが要らないほど明るい。玄関には小さな庇が設けられ、その下に石畳の小道が続いている。
外壁には、石の民が施した細やかな装飾が刻まれていた。頼んだわけではない。彼らが勝手に、そうしたのだ。
そして――地下には、広大な実験室と保管庫が確保されている。
防衛機能も、削られてはいなかった。窓は増えたが、いずれも外から見えにくい位置に配され、有事には塞げるようになっている。通路は多少曲がったが、迎撃点は計算され尽くしていた。
「……悪くないじゃない」
キーノが、満足げに腕を組んだ。
彼女は、この一ヶ月というもの、口を出し続けてきた。壁の色、床の材質、窓の位置、家具の配置。そのたびに鬼太郎は淡々と修正を受け入れた。
結果として、そこには誰も予想していなかったものが建っていた。
要塞でも、実験施設でも、牢屋でもない。
人が住む、家だった。
「ふん。まあ、雨風は凌げるな」
サーシェスが、酒瓶片手に肩をすくめた。
「あんた、酒蔵まで作らせたでしょ」
「必需品だと言ったはずだぜ」
「絶対違うわよ」
鬼太郎は、二人の後ろで、静かに屋敷を見上げていた。
この一ヶ月で、彼は多くのものを得た。
拠点。労働力。素材の供給源。そして、書物では決して得られなかった、生きた知識の山。
紙束は、既に三冊分が埋まっている。
だが、それは準備に過ぎない。
「さて」
彼は、二人を振り返った。
「ここから、始めましょう」
「何をよ」
「実験です」
鬼太郎の目が、静かに輝いた。
「この世界の魔法が、どういう理で動いているのか。私にどこまで扱えるのか。確かめたいことが、山ほどございますので」
キーノは、嫌な予感がして眉をひそめた。
「……あんた、まさか」
「はい?」
「あの檻、そのために残したの?」
「ああ」
鬼太郎は、ごく自然に頷いた。
「ちょうど良い大きさでしたので」
春の風が、新しい屋敷の窓を鳴らしていた。