ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
屋敷が完成して、三週間ほどが過ぎた頃だった。
森の見回りに出ていた人員の一人が、報告に戻ってきた。
「西の尾根に、人が入っております。五名ほど」
「装備は、いかがですか」
「杖と、それから捕獲用の網を。魔法生物を狙っているものかと」
鬼太郎は、記録の手を止めて顔を上げた。
「……もう、来ましたか」
少し早い、というのが正直な感想だった。
前の連中を片付けてから、まだ二月と経っていない。
◇
結果から言えば、それは造作もない仕事だった。
五人組は、森の地形を知らなかった。対してこちらは、この数週間で隅々まで把握している。しかも、見回りの人員が常に目を光らせている。
包囲は、相手が気づく前に完成していた。
「な、なんだお前ら――」
「ザン」
衝撃が、五人をまとめて薙ぎ倒した。
抵抗する間もなかった。
縛り上げられた男たちは、それでも状況を理解していないようだった。当然だろう。彼らにとって、この森は無人の狩場のはずだったのだから。
「一つ、お伺いします」
鬼太郎は、その中の一人にしゃがみ込んで尋ねた。
「なぜ、この森へ入られたのですか」
「な、なんでって……お前」
「素直にお答えいただけると、助かります」
「……噂を、聞いたんだよ」
男は、観念したように吐き出した。
「この辺りは、最近やたらと獲物が多いって。何年も荒らされてないみたいで、ヴィーラも、ドラゴンの雛も、他じゃ見ねえような連中がうようよいるって」
「なるほど」
「だから、来た。それだけだ」
鬼太郎は、しばらく黙っていた。
そして――理解した。
◇
(――ああ)
彼は、頭の中で構造を組み立てた。
密猟者を排除する。
森が安全になる。
魔法生物が増える。
「あの森は稼げる」という噂が広まる。
新たな密猟者が、やってくる。
そして、その密猟者もまた――材料になる。
円環である。
一度回り始めれば、外部から何かを足す必要がない。自分が密猟者を排除すればするほど、森は豊かになり、豊かになればなるほど、新たな密猟者が引き寄せられる。
餌場だと思って、自分から罠に入ってくる。
(――これは)
鬼太郎の口元が、わずかに緩んだ。
材料の調達は、彼にとって最大の懸案だった。実験には被験者が要る。だが、探して回るのは手間だし、人目にもつく。
その問題が、自動的に解決されていた。
しかも――自分は何一つ意図していない。ただ、目の前の面倒を片付けていただけだ。それが結果として、永続的な供給の仕組みを作り上げていた。
「……都合がよろしいですね」
彼は、静かにそう呟いた。
この認識を得た瞬間から、彼の中でこの森の意味が変わった。
単なる拠点ではない。
自ら回り続ける、資源の循環系である。
◇
「おい坊主」
縛り上げられた五人を前に、サーシェスが声をかけた。
「そいつら、どうすんだ」
「檻へ入れます」
「全員か?」
「ええ。実験に――」
そこで、鬼太郎は言葉を切った。
彼は、サーシェスの顔を見た。
この一ヶ月ほど、この男は明らかに退屈していた。建築の間は手を出すこともなく、実験には興味を示さない。時折、思い出したように殺し合いを挑んでくるが、それも回数が減っていた。
つまらないのだ。
この男にとっての充足は、戦うことにしかない。
(――消耗しますね)
鬼太郎は、そう判断した。
気に入ったものは、良好な状態で保たなければならない。屋敷の設計の時に学んだことだ。安全であることと、良好であることは同じではない。
この男の場合、それは「暴れられること」を意味する。
「――いえ。半分ほど、お渡しいたしましょうか」
「……あ?」
「五名のうち、二名か三名を。ご自由にお使いください」
サーシェスの動きが、止まった。
「……おい。それ、本気で言ってんのか」
「ええ」
「なんでだ」
「退屈しておられるようでしたので」
鬼太郎は、ごく普通の口調で続けた。
「発散の機会がないと、状態が悪くなるでしょう。定期的に必要かと思いまして」
サーシェスは、しばらく無言だった。
それから――低く、笑い始めた。
「……はっ。はははっ」
彼は、顔を覆って笑った。
「なるほどな。犬に骨をやるってわけか」
「そのような認識で結構です」
「否定しろよ、そこは!」
「事実ですので」
「……ちっ」
サーシェスは舌打ちしたが、その目には隠しきれない期待が浮かんでいた。
腹立たしい。この上なく腹立たしい。
だが――久しぶりに、思い切りやれる。
「……もらっとくぜ」
「どうぞ」
◇
少し離れた場所で、キーノがその会話を聞いていた。
彼女の顔は、完全に引きつっていた。
「……ちょっと」
声が出た。
人を、渡す。しかも、ストレス発散のために。
犬に骨をやるように。
「ちょっと待ちなさいよ、あんた!」
彼女は、大股で二人の間に割り込んだ。
「今、何て言った? 人をあげるって言った?」
「ええ」
「頭おかしいでしょ!」
「何か問題が?」
「問題しかないわよ!」
鬼太郎は、心底不思議そうな顔をしていた。それがまた、彼女の癇に障る。
「いい? 人間はね、物じゃないの。あげたりもらったりするものじゃないの!」
「では、どう扱うべきでしょう」
「そ、それは……」
彼女は、一瞬言葉に詰まった。
「とにかく、渡すのはおかしいでしょ! 生きてる人なのよ!」
「その方々は、ヴィーラを捕らえて切り刻もうとしていた者たちですが」
「……それは、そうだけど」
「殺してしまえば、そこで終わりです。サーシェスが退屈しているのであれば、有効に使った方が合理的かと」
「合理とか言わないでよ!」
キーノは、地団駄を踏みそうになった。
この子供は、こういう時、必ず正しいことを言う。言っていることに穴がない。だから反論できない。
だが、それでも間違っているのだ。彼女には、それが分かる。
ただ――どう間違っているのかを、言葉にできない。
「……あのね」
彼女は、深呼吸をした。
「あたしだって、あいつらに同情なんかしてないわよ。ラーダたちにしたこと、許す気もない」
「では」
「でもね、だからって何をしてもいいわけじゃないの! そこには線があるのよ!」
「線、ですか」
「そう。越えちゃいけない線。誰でも持ってるものよ」
鬼太郎は、少し考えるように首を傾げた。
そして、尋ねた。
「それは、どこに引かれているのですか」
「……え?」
「あなたの言う線です。どの位置に、どういう根拠で引かれているのでしょう。それが分かれば、私も考慮いたしますが」
キーノは、口を開いた。
そして、閉じた。
答えられなかった。
殺すのは駄目で、実験は駄目で、渡すのは駄目。だが、なぜ駄目なのか。捕らえるのは? 閉じ込めるのは? 労働させるのは?
自分は、どこまでなら許せるのか。
考えたこともなかった。
「……そんなの、言葉になんかできないわよ」
「では、私には分かりかねます」
「分かりなさいよ!」
「努力はいたしますが」
「してないでしょ、絶対!」
彼女は、両手を振り上げて叫んだ。
サーシェスが、腹を抱えて笑っている。
「嬢ちゃん、諦めろって。そいつに常識を求めるだけ無駄だ」
「あんたは黙ってなさい! 一番の元凶でしょ!」
「俺は貰う側だぜ?」
「同罪よ!」
キーノは、しばらく二人を睨みつけていた。
結局、この日も何も変えられなかった。
男たちは連れて行かれ、サーシェスは上機嫌で、鬼太郎は次の実験の準備に戻った。
彼女だけが、中庭に取り残された。
「……絶対、諦めないから」
誰にともなく、彼女は呟いた。
言っても無駄だということは、分かっている。何度言っても、この子供は同じ顔で同じ理屈を返してくる。
だが、言うのをやめたら。
その時、自分もこの光景の一部になってしまう気がした。
それに――と、彼女は思う。
あの子供は、言えば聞く。
屋敷の時がそうだった。あれだけ言い合って、最後にはこちらの言い分を全部受け入れた。理屈が通れば、変えるのだ。
ならば、いつか。
伝えられる言葉さえ見つかれば、届くかもしれない。
(――ほんと、面倒な奴)
彼女は、溜息をついて屋敷へ戻った。
背後から、サーシェスの愉快そうな笑い声が聞こえてきた。
◇
地下の檻に入れられた男たちで、実験が始まった。
最初の主題は、耐性である。
この世界の魔法族が、どれほどの負荷に耐えられるのか。それを知らなければ、何を作るにしても基準が定まらない。
鬼太郎は、順序立てて進めた。
まず、魔法生物の毒。
ラーダの伝手で、いくつかの種から少量ずつ分けてもらったものがある。害意はない。ただ「研究に使いたい」と言えば、快く応じてくれる者が多かった。
濃度を変え、投与量を変え、経過を記録する。
どの程度で症状が出るか。どの臓器に作用するか。どれだけの時間で致死に至るか。
紙の上に、数字が積み上がっていった。
次に、呪文による負荷。
攻撃呪文を、威力を段階的に変えながら照射する。どこまでが行動不能で、どこからが再起不能か。魔法による損傷は、通常の外傷とどう違うのか。
これも、記録が増えていった。
被験者の名は、記さなかった。
番号で管理した。その方が、整理しやすい。
◇
毒を使えば、被験者は死ぬ。
死なせてしまえば、次の実験ができない。
だから、解毒が必要だった。
これが、薬の開発を始めた直接の理由である。
「――前世には、ありました」
鬼太郎は、キーノに聞かれたときにそう答えた。
「毒を消すもの、麻痺を解くもの、石化を戻すもの。誰もが持ち歩いていたような、ありふれた品です」
「そんな便利なものが?」
「ええ。あの世界では、必需品でしたので」
毒に侵され、麻痺し、石にされる。そういうことが日常的に起きる土地だった。だから、それを戻す手段も当たり前に流通していた。
「……それ、作ってどうするのよ」
「実験に必要ですので」
「実験って、あの地下の?」
「ええ。毒を使えば、被験者は死にます。死なせてしまえば、次が試せません」
キーノの眉が、跳ね上がった。
「あんたね……」
「何か」
「死なせないために解毒薬を作るって、そういう理由なの? 助けるためじゃなくて?」
「結果としては、同じかと」
「全っ然違うわよ!」
彼女は、実験台を叩いた。
「助けるために作るのと、また苦しめるために作るのじゃ、意味が違うでしょ!」
「薬の効能は変わりませんが」
「効能の話じゃないの!」
「では、何の話でしょう」
「……っ」
また、これだ。
キーノは歯噛みした。この子供は、いつもこうやって根本を問い返してくる。そして、自分はそれに答えられない。
「……とにかく」
彼女は、絞り出すように言った。
「その薬が完成したら、あたしにも一本ちょうだい」
「構いませんが、どうなさるので」
「怪我した人がいたら使うのよ。普通の使い方でね」
「ああ」
鬼太郎は、少しだけ間を置いてから頷いた。
「なるほど。それは、有効な用途ですね」
「でしょ」
「では、完成次第お渡しいたします」
あっさりと了承されて、キーノは拍子抜けした。
拒まれると思っていた。あるいは、意味がないと言われるかと。
そうではなかった。
(……これよ)
彼女は、内心でそう思った。
こういうところなのだ。この子供は、道理さえ通っていれば、素直に受け入れる。悪意で拒むということが、そもそもない。
だから――諦めきれない。
問題は、それをこの世界の材料で再現できるかどうかである。
鬼太郎は、記憶を辿った。
あの薬が、どういう質感で、どんな匂いがして、飲んだ時にどう効いたか。成分そのものは知らない。だが、効き方の特徴は覚えている。
それを手がかりに、彼は試行を重ねた。
◇
最初に形になったのは、解毒の薬だった。
ディスポイズン。
前世でそう呼ばれていた薬に、効き方が最も近かった。森の植物と、魔法生物から分けてもらった素材を組み合わせて作る。
投与すれば、毒の症状が数十秒で退いていく。
「……悪くありません」
完成品を検分しながら、彼は満足げに頷いた。
これで、毒の実験を繰り返せる。被験者を死なせずに済む。
続いて、麻痺を解く薬――ディスパライズ。
これも、比較的早く形になった。
石化を戻す薬――ディストーン。
こちらは、着手すらできなかった。
理由は単純である。
検体が、作れなかった。
毒であれば、素材さえあれば投与できる。麻痺も同様だ。だが、石化はそうはいかない。
この世界で人を石化させる手段は、極めて限られていた。
鬼太郎は、まず魔法生物を当たった。石化の能力を持つ種が存在することは、書物で確認している。
だが、ラーダに尋ねても、森の住人たちに聞き回っても、この一帯にその種は棲息していなかった。生息地は、遥か南だという。
次に、呪文を探した。
十四名の人員に尋ねたが、誰も知らなかった。彼らの知る限り、石化を引き起こす呪文というものは一般的ではない。少なくとも、密猟者が使うような実用的な術の中には存在しなかった。
「……手詰まりですね」
鬼太郎は、素材の棚を眺めた。
石化させる方法がなければ、石化した検体は作れない。検体がなければ、薬が効くかどうかを確かめようがない。
理論だけで薬を組むことは、彼には不可能だった。前世のあの薬が何でできていたのかを、彼は知らないのだから。手がかりは「効いた」という記憶だけであり、それを検証する手段がない以上、試行のしようがない。
「……保留といたしましょう」
彼は、記録にそう書き込んだ。
できないものは、できない。杖の自作と同じである。条件が揃わないうちに手を出しても、時間を浪費するだけだ。
もっとも――と、彼は思った。
いずれ、機会はあるかもしれない。
南へ行けば、石化の能力を持つ種がいる。あるいは、この世界のどこかに、石化を引き起こす魔法が存在するのかもしれない。
その時になれば、また試せばいい。
(――覚えておきましょう)
彼は、その一項目を、未完のまま記録に残した。
◇
そして――最も重要なものが、最後に残った。
チャクラドロップ。
精神力を回復させる薬である。
前世では、命綱だった。術を放ち続ければ、精神力は減る。減りきれば、術は使えなくなる。その状況で敵に囲まれれば、そこで終わりだ。
だから、誰もがそれを持ち歩いていた。
鬼太郎にとって、これの再現は悲願と言ってよかった。
今の彼の精神力は、全盛期に遠く及ばない。連続して術を撃てば、数発で息が上がる。あの見世物小屋のような場面が再び訪れたとき、それは致命的になりうる。
だが、回復手段があれば話は変わる。
試行は、難航した。
毒や麻痺は、身体に作用するものだ。だから、身体に作用する素材で対処できる。
だが、精神力は違う。
そもそも、この世界の人間には「精神力」という概念がない。彼らが消費するのは体力であり、魔力である。似てはいるが、同じではない。
鬼太郎は、その差異を埋める必要があった。
二ヶ月かけて、三十七回の試作を行った。
三十八回目。
小瓶の中で、淡い光を放つ液体が完成した。
彼は、あらかじめ術を撃って精神力を削っておいた状態で、それを一息に飲み干した。
そして――目を閉じ、自分の内側を観察した。
枯れかけていた泉に、水が戻っていく感覚。
術を撃ち続けて薄くなっていた何かが、確かに満たされていく。
「……効きますね」
彼は、静かに息を吐いた。
もっとも、成功と呼ぶには程遠い代物だった。
まず、回復量が少ない。前世のものであれば、一本で枯渇寸前から満杯近くまで戻った。これは、削った分の三割ほどしか埋まらない。
次に、効き始めるまでが遅い。あちらは飲んだ瞬間に効いたが、これは十数秒を要する。戦闘の最中であれば、その十数秒が命取りになりうる。
さらに、後味が悪かった。
飲んだ直後、鈍い頭痛が起きる。しばらくすると引くが、続けて二本、三本と飲めば、おそらく副作用は無視できないものになるだろう。連用には向かない。
保存も利かない。作ってから数日で、光が失われ、効力が落ちていく。
「……劣化品ですね」
彼は、率直にそう評した。
前世で流通していたものは、もっと安定していて、もっと速く、もっと深く効いた。あれは誰もが持ち歩ける、量産された日用品だった。
自分が作ったこれは、それとは似て非なるものだ。名前を借りただけの、粗悪な模造品と言っていい。
それでも。
彼は、小瓶を灯りにかざした。
淡い光が、液体の中で揺れている。
三割。十数秒。頭痛。数日の保存期限。
欠点だらけだが――確かに、効いた。
この世界には存在しないはずのものが、この世界の材料で形になった。それは、理論として決して小さなことではない。
そして実際問題として、三割でも戻るのと、まったく戻らないのとでは、話がまるで違う。
あの見世物小屋のような状況が再び訪れたとき、この一本があれば、撃てる回数が増える。
「……改良の余地は、山ほどありますが」
彼は、小瓶を棚に並べた。
鬼太郎は、久しぶりに、はっきりとした高揚を覚えていた。
◇
魔石の生成にも、彼は取り組んだ。
前世では、魔力を結晶化させたものが流通していた。通貨としても、素材としても使われる、汎用性の高い品である。
この世界の魔力を同じように結晶化できるか。
結果は、半端なものだった。
小さな石は作れた。だが、脆く、保存が利かない。数日で崩れてしまう。
「……保留といたしましょう」
彼は、それを棚に置いた。
いずれ、また試せばいい。
◇
その頃、ラーダは定期的に屋敷を訪れるようになっていた。
取引の履行である。ひと月に一度、羽毛と髪を届ける。一族から少しずつ集めたもので、誰にも負担のかからない量だった。
その見返りに、森の安全が保証されている。
実際、密猟者は現れなくなった。正確には、現れてもすぐにいなくなる。ヴィーラたちは、もう怯えて暮らす必要がなかった。
約束は、完璧に守られていた。
だからこそ――彼女は、どう受け止めていいか分からなかった。
「ラーダさん。いつもありがとうございます」
鬼太郎は、いつも丁寧に迎えてくれた。
「お茶をご用意しております。少し休んでいかれますか」
「あ、はい……ありがとうございます」
その日も、彼女は勧められるまま、居間の椅子に座っていた。
窓から日が差し込む、明るい部屋だった。キーノが選んだという敷物が敷かれ、木の匂いがする。
穏やかな空間だった。
その真下に、地下室があることを、彼女は知っていた。
◇
一度だけ、階段の下から声が聞こえたことがある。
悲鳴ではなかった。もっと弱々しい、掠れた呻き声だった。
ラーダは、思わず足を止めた。
「……あの」
「ああ、失礼いたしました」
鬼太郎は、まったく悪びれずに言った。
「今、下で実験をしております。お耳障りでしたら、扉を閉めさせましょう」
「じ、実験……?」
「ええ。この世界の魔法が、どこまで人体に作用するのかを調べております」
「……人体」
「密猟者です。先日、捕らえた者たちです」
彼は、まるで天気の話でもするように答えた。
ラーダは、言葉を失った。
想像していなかったわけではない。捕らえた者をどうしているのか、考えたことがなかったとは言わない。
だが、これほど当たり前のように言われるとは思っていなかった。
「……あの、鬼太郎さん」
「はい」
「その方たちは、どうなるんですか」
「実験が終われば、終わります」
「……」
「何か、問題がございましたか」
問題。
その言葉に、ラーダは何も返せなかった。
あの男たちは、自分の仲間を捕らえ、切り刻み、閉じ込めていた連中だ。憎んでいないと言えば嘘になる。仲間の中には、死んだ者もいる。
だから、彼らがどうなろうと。
そう思おうとして、うまくいかなかった。
◇
そして――彼女が最も分からなかったのは、別のことだった。
屋敷を訪れるたび、鬼太郎は森の住人たちと接していた。
石の民が壁の点検に来れば、深々と礼を言う。
木の一族が材木を届ければ、丁寧に労をねぎらう。
名も知らない小さな種が迷い込んでくれば、しゃがみ込んで目線を合わせ、穏やかに話しかける。
怪我をしている者がいれば、必ず治す。対価を求めたことは、一度もない。
「あの、お怪我の具合はいかがですか」
「もう痛くない! ありがとう!」
「それは何よりです。また何かあれば、いつでもおいでください」
その光景だけを見れば、彼は優しい少年だった。
森の誰もが、彼を慕っていた。守護者だと言う者さえいる。
なのに――同じ人物が、地下で人間を番号で管理している。
(……分からない)
ラーダは、何度もそう思った。
残虐なだけの人なら、まだ分かる。ならば、魔法生物にも同じことをするはずだ。
優しい人なら、それも分かる。ならば、人間にもそうするはずだ。
だが、彼はどちらでもなかった。
そして、ある日。
彼女は、その理由を知ってしまった。
◇
「素材を、いただけますか」
鬼太郎が、通りかかった石の民にそう頼んでいた。
「爪の欠片で結構です。痛みのない範囲で」
「ああ、構わんよ。どうせまた生えるからな」
「ありがとうございます。無理はなさらないでください」
その、最後の一言。
ラーダの中で、何かが繋がった。
――無理はなさらないでください。
つまり、そういうことなのだ。
石の民は、爪をくれる。また生えるから。
木の一族は、材木をくれる。木は育つから。
ヴィーラは、羽毛と髪をくれる。生えてくるから。
彼らは全員、**繰り返し与えることができる**。
だから、良好な状態に保たれる。だから、丁寧に扱われる。だから、治療される。
では、人間は。
(……一度きり、だから)
人間は、繰り返し与えられない。
与えられるのは、労働力か、死体か、実験の記録か。そのいずれも、一度使えば終わる。
しかも――補充が利く。
密猟者は、勝手にやってくる。放っておいても、次が来る。減っても困らない。
だから、消耗品として扱われる。
ラーダは、その場に立ち尽くした。
自分たちが大切にされている理由。
それは、優しさでも、情でもなかった。
ただ、そういう計算だったのだ。
――丁寧に扱われるたびに、自分が何として数えられているかを、思い出すことになる。
それを理解してしまってから、彼女は鬼太郎の礼儀正しさが、少しだけ怖くなった。
◇
夜。
実験の記録を整理し終えた鬼太郎は、居間の窓辺に立っていた。
屋敷の中は静かだった。サーシェスは自室で酒を飲んでいる。キーノは、もう寝たらしい。
窓の外には、暗い森が広がっている。
あの十四名が、今も見回りをしているはずだった。
彼らは、この数ヶ月で森の地形をすべて覚えた。屋敷の構造も把握している。誰がどこを担当し、何時にどう動くかも、体に染み込んでいる。
新しく捕らえた者を一から仕込むより、彼らを使い続ける方が効率的だった。
だから、彼らは警備として残す。実験には回さない。
それが、鬼太郎の出した結論だった。
窓ガラスに、自分の顔が薄く映っている。
彼は、しばらくそれを眺めていた。
(――ふむ)
妙な感覚があった。
最近、気づいたことがある。
朝、目が覚めると、同じ天井がある。台所からは、キーノが何か言い合っている声が聞こえてくる。地下には、途中まで進めた実験がある。
明日も、同じ日が来る。
そのことを、彼は当たり前だと思っていた。
だが――前世では、一度もそうではなかった。
拠点は常に仮のものだった。明日には失うかもしれない。誰かと過ごす時間は、次の戦いまでの繋ぎでしかなかった。同じ天井の下で三度目の朝を迎えたことなど、数えるほどしかない。
それが、今は違う。
鬼太郎は、その事実を静かに観察した。
自分の内側に、以前はなかった何かが生じている。
名前が、分からなかった。
喜びとも違う。安堵とも違う。もっと薄く、もっと持続的な、何か。
(――満足、でしょうか)
その言葉が、比較的近い気がした。
彼は、自分がこの生活に満足していることに、この時初めて気づいた。
妙な話だ、と思う。
目的は変わっていない。強者を求める気持ちも、研究への興味も、以前のままだ。フリンとの約束も忘れていない。
なのに、この場所を、悪くないと感じている。
(――こういう状態に、なるものですか)
彼は、自分自身を、まるで観察対象のように眺めた。
興味深い。
結論は、それだけだった。
悪いものではないらしい。ならば、当面はこのまま続ければいい。
鬼太郎は、窓から離れ、灯りを落とした。
屋敷が、静かな闇に沈む。
森の夜は、穏やかだった。
――その穏やかさに向かって、一人の老人が近づいていることを、まだ誰も知らない。