ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
日本から持ち帰ったものは、少なかった。
名前。年齢。そして――生きている、という事実だけ。
ホグワーツの校長室に戻ったダンブルドアは、しばらくの間、何も書かれていない羊皮紙を前に座っていた。
墓場鬼太郎。
五年前、六歳で両親を失い、襲撃者を焼き殺し、そして姿を消した子供。
遺体は見つかっていない。行方も知れない。だが、あの焼け跡に残っていた魔力反応は、その後も二度検出されている。数年前の元闇祓いの死。そして、あの三十数名の惨劇。
つまり、その子は生きている。
どこかで、確かに。
「……さて」
彼は、羽根ペンを手に取った。
やるべきことは、はっきりしていた。
あの魔力反応を、時間を遡って追う。日本を離れてから今日までの五年間、その痕跡がどこに残っているかを探す。点が繋がれば、線になる。
線が引ければ、行き先が見える。
◇
最初に取りかかったのは、記録の照会だった。
魔法省の古い資料。各国の魔法当局に残された報告書。国際魔法戦士連盟が保管している、国境をまたいだ事件の記録。
ダンブルドアは、それらすべてに手紙を書いた。
名目は、学術的な調査である。「未登録の魔力反応に関する研究」という体裁を整えれば、たいていの当局は応じてくれた。彼の名前には、それだけの重みがあった。
返信が届き始めるまでに、ひと月を要した。
そして、そこには何もなかった。
「……ふむ」
彼は、届いた資料の山を前に、静かに息を吐いた。
どの記録にも、該当する反応は見当たらない。当然といえば当然だった。表の記録に残るような場所で、その子が活動していたはずがない。
表にいないのなら、裏にいる。
そういうことになる。
◇
ダンブルドアには、普段は使わない類の伝手がいくつかあった。
長い人生の中で、彼はさまざまな立場の人間と関わってきた。その中には、決して表には出せない稼業の者も含まれている。
かつて助けた者。かつて見逃した者。かつて借りを作った者。
彼は、そのいくつかに手紙を書いた。
◇
最初に有益な情報をもたらしたのは、イギリス北部に住む老魔女だった。
闇市の仲買人として長く生きてきた女で、今は引退している。ダンブルドアとは、四十年来の奇妙な縁があった。
「……ああ、あの反応かい」
薄暗い居間で、彼女は紅茶をすすりながら言った。
「聞いたことがあるよ。三年ばかり前だったかね。うちに出入りしてた運び屋が、一人消えたんだ」
「消えた、とは」
「跡形もなくね。荷も、金も、そのまま残してさ。妙だと思って調べさせたら、現場に変な魔力が残ってたって話さ」
彼女は、皺だらけの指でカップを回した。
「あたしの目利きが言うにはね、あれは呪文の痕じゃなかった。似てるが、違う。何十年もこの商売やってるけど、あんなのは初めて見たよ」
ダンブルドアは、身を乗り出した。
「場所は、どちらですかな」
「大陸さ。フランスの南の方だったかね」
フランス。
日本からは、遠い。だが、行けない距離ではない。
「他には、何かありませんかの」
「そうだねえ……その後も、似た話をちらほら聞いたよ。似たような消え方をした連中が、何人か」
「どちらの方角へ向かっておりましたかな」
「東だね。年を追うごとに、東へ寄っていってる」
ダンブルドアは、地図を思い浮かべた。
フランス南部から、東へ。
◇
その後の数週間で、彼は複数の情報源を辿った。
闇市の元締め。呪われた品を扱う商人。指名手配を逃れ続けている密輸業者。
誰もが、最初は口が重かった。だが、ダンブルドアには相手の警戒を解く術がある。それは魔法ではなく、彼が長年培ってきた、もっと人間的な技術だった。
そして、彼らの証言は、少しずつ一つの像を結び始めた。
――ある時期から、裏の世界で妙な噂が流れ始めた。
――仕事を請け負う「子供」がいる。
――依頼をやたらと選り好みする。筋が通らないと分かると断る。断られた仕事に手を出した連中は、後で必ず痛い目を見た。
――そして、そいつが受けた仕事は、一度も失敗していない。
ダンブルドアは、その一つ一つを書き留めた。
依頼を精査する。筋が通らなければ断る。
その習性は、彼の予想とは少し違っていた。
無差別に殺して回る獣であれば、話は単純だった。だが、この子は選んでいる。判断している。基準を持っている。
(――理性が、あるということじゃな)
それは、救いのようにも思えた。
同時に――より厄介であることの証明でもあった。
◇
そして、ある夜。
ロンドンの場末の酒場で、ダンブルドアは決定的な言葉を聞いた。
相手は、老いた密輸業者だった。かつて息子の命を救われた恩があると言って、この男は比較的素直に話をしてくれた。
「――ああ、あのガキか」
男は、酒をあおってから言った。
「あんた、あれを探してんのか。悪いこと言わねえ、やめときな」
「ほう。それはまた、なぜですかな」
「あれは、まともじゃねえよ」
男は、身震いするような仕草をした。
「俺の知り合いが、一度だけ見たって言ってた。もう二年くらい前になるかな。裏の連中の間じゃ、名前が通ってるんだ」
「名前、と申されると」
「通り名さ」
男は、声を潜めた。
そして、告げた。
「――杖なしで殺しをするガキ、ってな」
ダンブルドアの手が、止まった。
カップを持ち上げようとした姿勢のまま、彼は動かなくなった。
「……今、何と申されましたかな」
「だから、杖なしでだよ」男は、こちらの反応に構わず続けた。「杖も持たずに、手をかざすだけで人を焼き殺すんだと。しかも、あんなの見たこともねえ火だったって」
「……」
「最初は与太話だと思ったさ。だが、似た話が何度も出てくる。それも別々の筋からな」
男は、空になったグラスを置いた。
「そのうち、誰も冗談だと思わなくなった」
◇
その夜、宿の一室で、ダンブルドアは長いこと窓の外を見ていた。
杖なしで。
その四文字が、頭から離れなかった。
――彼は、その領域を知っている。
無杖魔法。杖という媒介を用いず、術者の意志のみで魔法を行使する技術。
それは、魔法界において最も高度な技能の一つである。理論上は誰にでも可能とされているが、実際に実用の域で扱える者は、一握りしかいない。
ダンブルドア自身も、その一人だった。
だが――そこに至るまでに、彼は何十年を要したことか。
若い頃から才に恵まれ、寝食を忘れて研鑽を積み、それでもなお、自在に扱えるようになったのは中年に差しかかってからだった。杖を介さずに力を通すという行為は、それほどまでに難しい。
なぜなら、杖とは「補助具」だからだ。
人が持つ魔力は、そのままでは形にならない。杖という道具を通すことで、初めて指向性を持ち、呪文という形式に収まる。杖を使わないということは、その工程をすべて自前でやるということに他ならない。
それを――十一歳の子供が。
しかも、人を焼き殺せるだけの威力で。
「……あり得ぬ」
彼は、思わず声に出していた。
教わったのだろうか。誰かが、その技術を教えたのか。
だが、それはそれで異常である。無杖魔法を教えられる者など、この世界に何人いるだろう。そして、そんな人物が、六歳の孤児に手ずから教える理由がどこにある。
では、独力か。
六歳から十一歳までの五年間で、独学で、誰の助けも借りずに。
それは、もはや才能という言葉では説明がつかない。
どちらであっても、異常だった。
そして――焼け跡で見たものと、繋がった。
暴発ではなく、狙って撃った痕跡。
あれは、六歳の時点で既に、その子が力を制御できていたということだ。無杖で。意図的に。狙った一点へ。
ダンブルドアは、額を押さえた。
◇
彼の脳裏に、また一人の少年の姿が浮かんだ。
トム・リドル。
孤児院の、あの部屋。ベッドに腰掛けて、警戒するようにこちらを見ていた黒髪の少年。
あの子も、教わらずに力を使っていた。物を動かし、動物を操り、他の子供を怖がらせた。誰にも教わらずに、それができた。
だから、ダンブルドアはあの少年を「異例」だと判断した。長い教職生活の中でも、あれほどの才は他に見たことがなかった。
そして、同時に危険だと判断した。
あの子は、力を他者を害するために使っていた。十一歳にして既に、それを楽しむ素地があった。
だから、警戒した。距離を取った。監視した。
――あれが、自分の最大の失敗だった。
そう、長い間思ってきた。
だが。
「……トムの方が、まだマシじゃった」
口に出してから、彼は自分の言葉に愕然とした。
あの少年を「マシ」と評する日が来るとは、思ってもみなかった。
だが、事実だった。
トム・リドルは、十一歳の時点で人を殺していない。物を隠し、動物を苦しめ、子供たちを脅した。それは確かに歪んでいた。だが、一線は越えていなかった。
杖を手にしたのも、ホグワーツに来てからだ。それまでは、断片的な力を無自覚に振るっていただけだった。
対して、この子は。
六歳で人を焼き殺した。十一歳までに、いくつもの死を積み重ねた。裏の世界で名を通し、恐れられ、そして三十数名を一夜で殺した。
しかも、杖を使わずに。
比較にすら、ならない。
「……なんということじゃ」
ダンブルドアは、深く息を吐いた。
自分の生涯最大の悔い。あの少年に手を差し伸べられなかったこと。その痛みを、彼は五十年近く抱えてきた。
あの時、届かなかった。
そして今、あの時よりも遥かに遠い場所にいる子供へ、手を伸ばそうとしている。
これから、会いに行く相手だった。
◇
所在の特定には、さらに二ヶ月を要した。
手がかりは、ある時期を境に情報が途絶えたことだった。
裏の世界で名を通していた「ガキ」が、ある日を境に、ぱたりと噂に上らなくなった。仕事を請けなくなり、姿を見た者もいなくなった。
時期は――あの三十数名が死んだ夜の、直後。
どこかへ、移ったのだ。
ダンブルドアは、その線を追った。
そして、思いがけないところから、それは出てきた。
「――ブルガリアだよ」
情報をもたらしたのは、大陸で古物商を営む男だった。
「あんたが探してる子がどうかは知らんがね。妙な話なら、一つある」
「ぜひ、お聞かせ願いたいものじゃ」
「ブルガリアの、東の方の森だ」
男は、地図を広げて一点を指した。
「あそこはな、昔から密猟者の稼ぎ場でね。魔法生物が多いんだ。魔法省も見て見ぬふりだから、連中の天国だったのさ」
「だった、と」
「ああ。ここ半年ほどで、事情が変わった」
男は、声を落とした。
「入った奴が、帰ってこなくなったんだ」
「……」
「最初は、何人かが行方不明になった程度だった。だが、続いた。五人、十人と。今じゃ、あの森に入ろうって連中はいなくなった」
「原因は、分かっておるのですかな」
「誰も知らん。知ってる奴は、帰ってこないからな」
男は、乾いた笑い方をした。
「ただ、噂じゃな。あの森には、何かが『住んでる』らしい」
ダンブルドアは、地図の一点を見つめた。
「それと、もう一つ妙な話がある」
「ほう、何ですかな」
「あの森の魔法生物が、異様に増えてるんだと」
男は、首を傾げた。
「密猟者がいなくなったからだ、と言われりゃそれまでだがね。それにしても増えすぎだって話だ。一年やそこらで、あんなに繁殖するもんかね」
「……なるほど。よう分かりました」
「まあ、そんなわけだ。今じゃあの一帯は、裏の連中の間じゃ『近寄るな』って場所になってる」
◇
宿に戻ったダンブルドアは、地図の上にその森の位置を書き込んだ。
そして、これまでに得た情報を、すべて並べ直した。
日本の焼け跡から、フランス南部へ。そこから年を追うごとに東へ。魔法界のアンダーグラウンドで名を成し、三十数名を殺し、そして姿を消した。
その直後から、ブルガリアの森で人が消え始めた。
線が、繋がった。
「……そこに、おられるのじゃな」
彼は、静かに呟いた。
確証はない。だが、これ以上の候補はなかった。
ダンブルドアは、地図を畳むと、ホグワーツへの帰路についた。
◇
準備には、数日を要した。
学期中の用務を副校長に託し、当面の不在について了解を得る。急ぎの案件を片付け、生徒たちの様子を確認し、必要な手配を済ませる。
そして、最後に一つ。
彼は、事務室から一枚の羊皮紙を持ち出した。
ホグワーツ魔法魔術学校 入学許可証。
本来、これが発行されるのは十一歳の誕生日の直前である。今年度の入学者への通知は、まだ数ヶ月先だった。
だが、彼は校長である。規則を曲げる権限は、持っている。
羽根ペンを取り、宛名を書き込んだ。
――墓場 鬼太郎 殿。
インクが乾くのを待ちながら、ダンブルドアはその紙を見下ろしていた。
これは、餌である。
その自覚は、彼にもあった。
居場所を与える。教育を施す。導き手になる。それらはすべて、この子を手の届く場所に置くための手段だ。
トムの時は、それをしなかった。最初から警戒し、監視し、距離を取った。あの聡い少年は、それを敏感に察していただろう。
だから、届かなかった。
今度は違う。
最初から迎え入れる。差し出す。受け入れる。そうすれば――
(――いや)
彼は、そこで思考を止めた。
同じことをすれば、同じ結果になるとは限らない。だが、違うことをすれば違う結果になるとも限らない。
保証などない。
それでも、行かねばならなかった。
この子を放置すれば、何が起きるか分からない。そして、もしこの子があの予言の通りの存在ならば――白にも、黒にもなるのなら。
誰かが、選ばせなければならない。
ダンブルドアは、許可証を封筒に収めた。
◇
出立の朝は、よく晴れていた。
彼は、いつものローブの上に旅装を重ね、懐に杖を差した。
ニワトコの杖。
この世界で最も強力とされる杖である。彼がそれを手にして、既に長い年月が経つ。
使うつもりは、なかった。
だが――万一の場合を考えれば、これがあるという事実は、心強かった。
どれほど規格外の子供であろうと、相手は十一歳だ。こちらには五十年を超える経験と、この杖がある。
制御できないはずがない。
そう、彼は考えていた。
「さて」
窓の外を見やる。
遠く、東の空が明るんでいる。その先に、ブルガリアの森がある。
「――どのような子でしょうかな」
アルバス・ダンブルドアは、静かに校長室を後にした。