ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
地下室の記録を整理し終えたのは、ダンブルドアが去ってから三日後のことだった。
鬼太郎は、積み上げた紙束を前に、しばらく座っていた。
耐性実験の記録。薬の試作記録。魔法の検証記録。この数ヶ月で積み上げたものが、そこにある。
それらを、彼は丁寧に綴じ直した。
実験は、終わりだ。
約束した以上、守る。守らなければ、次に何かを求めた時に信用されない。それは長期的に不利益である。
もっとも――
彼は、隔壁の向こうへ目を向けた。
檻には、まだ人が入っている。
実験に使っていた者たちだ。最新の耐性実験を終えたばかりで、生きてはいるが、消耗している。
彼らを、どうするか。
解放する、という選択肢はなかった。解放すれば、この場所のことを喋る。そうなれば面倒が増える。
殺して埋める、という手もある。だが、それでは何も得られない。
(――もったいないですね)
彼は、そう考えた。
使えるものを、使わずに捨てる。それは彼の最も嫌うところだった。
――そこで、思い至った。
ちょうど、試したいことがあったではないか。
◇
「……ちょっと、あんた」
その日の夕方、キーノが眉をひそめた。
鬼太郎が、中庭に何かを描いていたからである。
白い粉のようなもので、地面に円と、その内側に複雑な文様を刻んでいる。数式のようにも、文字のようにも見えるが、どちらでもない。
「何してるの、それ」
「準備です」
「準備って、何の」
「召喚の」
キーノの動きが、止まった。
「……しょうかん」
「ええ」
「何を呼ぶのよ」
「悪魔を」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、屋敷の方を振り返って叫んだ。
「サーシェス! ちょっと来て! こいつがまた変なこと始めた!」
◇
事情を聞いたサーシェスは、腕を組んで唸っていた。
「悪魔、ねえ」
「ええ」
「そりゃ、この世界にもいるのか?」
「分かりません」
鬼太郎は、文様を描く手を止めずに答えた。
「いる可能性はあると考えております。私の使う術は、あちらの世界のものです。それがこの世界で機能する以上、あちらと繋がる余地はあるはずです」
「あちらって、どこだよ」
「以前、住んでいた場所です」
サーシェスは、それ以上聞かなかった。
この子供が「以前住んでいた場所」と言う時、それが日本のことでないのは薄々察している。だが、聞いても答えないことも知っていた。
「で、どうやって呼ぶんだ。そんな地面の絵で」
「補助です」
鬼太郎は、円の外側に最後の一画を加えた。
「本来は、装置を使っておりました。COMPと呼ばれるものです」
「なんだそりゃ」
「手のひらに収まる大きさの機械でした。契約した相手を記録し、必要に応じて呼び出し、そして――」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「詳細は、後ほど」
「おい」
「今は、ありませんので。記憶の中にあるだけです」
鬼太郎は、立ち上がって全体を見渡した。
「ですが、手順そのものは覚えております。あれは装置に頼るものではありますが、根幹は術者の側にございました」
「……つまり?」
「装置がなくとも、できるはずです」
彼は、そう言い切った。
◇
「あと、対価が要ります」
「……対価?」
「ええ。召喚には、必ず代価が必要です。あちらの世界では、金銭や物品で済むこともございましたが、あれは装置が仲介していたからでしょう」
鬼太郎は、屋敷の方を指した。
「今回は、直接お支払いすることになります」
「……何を払う気だ」
「森の素材を、いくつか」
彼は、指を折った。
「ユニコーンの毛。ヴィーラの羽毛。石の民にいただいた鉱石。それから、いくつかの薬草」
「なるほどな。そりゃ、ありそうな話だ」
「それと」
鬼太郎は、さらりと続けた。
「地下にいる方々を」
サーシェスの動きが、止まった。
キーノの顔から、血の気が引いた。
「……おい、坊主」
「はい」
「そりゃ、あの爺さんと約束したことじゃねえのか」
「実験はやめると申し上げました」
「……」
「これは、実験ではございません」
鬼太郎は、平然と答えた。
「それに、申し上げておきますと、私はまだ入学しておりません。約束は、これからのものです」
「屁理屈だろうが、それ」
「そうかもしれません」
彼は、否定しなかった。
「ですが、いずれにせよ処理は必要です。解放すれば、この場所のことを話される。殺して埋めれば、何も残らない」
鬼太郎は、静かに続けた。
「であれば、対価として使うのが最も無駄がありません」
サーシェスは、しばらくその横顔を見つめていた。
そして――舌打ちして、視線を逸らした。
言えることは、何もなかった。この子供の理屈は、いつも通り筋が通っている。そして、いつも通り、どこかが決定的に狂っている。
「……ちょっと」
キーノが、声を上げた。
「ちょっと待ちなさいよ。それ、絶対おかしいわよ」
「どのあたりが」
「全部よ!」
彼女は、詰め寄った。
「あんた、約束したんでしょ! あの人と!」
「入学後の話として、承諾いたしました」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「では、どういう問題でしょう」
鬼太郎は、本気で尋ねていた。
キーノは、言葉に詰まった。
いつものことだった。彼女には、この子供の間違いが分かる。だが、それを言葉にできない。
「……あたしが言いたいのは」
彼女は、絞り出すように言った。
「あんたが、そういう抜け道を探すこと自体が、嫌なの」
「抜け道」
「そう。守るつもりがあるなら、最初から全部守りなさいよ。今日からとか、まだ入学してないとか、そういうのじゃなくて」
鬼太郎は、その言葉をしばらく吟味していた。
そして、言った。
「……なるほど。ご指摘は理解いたしました」
「じゃあ」
「ですが、今回は予定通りに進めます」
「なんでよ!」
「もう、準備が整っておりますので」
キーノは、頭を抱えた。
◇
夜。
中庭に、十一人が並べられていた。
地下から運び出された者たちである。抵抗はなかった。長い実験で、その気力も体力も残っていない。
鬼太郎は、その周囲に素材を配置していった。
ユニコーンの毛髪。ヴィーラの羽毛。鉱石の欠片。乾燥させた薬草の束。それぞれを、文様の定められた位置に置いていく。
「準備、完了です」
彼は、円の中央に立った。
周囲は、静まり返っていた。
キーノは屋敷の玄関先で、両手を握りしめて立っている。サーシェスは、その少し前で腕を組んでいた。
「……坊主。一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「何を呼ぶ気だ。強えやつか?」
「いいえ」
鬼太郎は、首を振った。
「最も弱い部類のものです」
「は?」
「スライムと呼ばれる種です。あちらの世界では、最下級に分類されておりました。知能も低く、戦闘能力も皆無に近い」
「……なんでそんなもんを」
「初回ですので」
彼は、当然のように答えた。
「手順が正しいか、環境が整っているか、何も確かめられておりません。この状態で強力なものを呼べば、制御できなかった場合に取り返しがつきません」
「……なるほどな」
サーシェスは、内心で舌を巻いた。
この慎重さだ。
三十数人を焼き殺した子供が、初めての試みでは最下級を選ぶ。派手さも見栄もない。ただ、堅実に段階を踏む。
だからこそ、恐ろしい。
「では、始めます」
◇
鬼太郎は、目を閉じた。
記憶を、辿る。
あの装置の操作手順。画面に浮かぶ文字列。指先で叩いた入力の順序。
だが、それは表層に過ぎない。
本質は、その奥にあった。
装置が担っていたのは、演算と補正である。だが、呼びかけそのものは、常に術者の側から発せられていた。契約の言葉。呼び出しの構文。それらを組み立てるのは、いつも自分自身だった。
だから、覚えている。
体が、覚えている。
彼は、精神力を練り上げた。
地面の文様が、淡く光り始める。配置された素材が、次々と粒子になって崩れていった。羽毛が、鉱石が、薬草が。形を失い、光に溶けて円へ吸い込まれていく。
そして――
並べられた十一人が、同時に痙攣した。
声は、上がらなかった。
彼らの体からも、同じように何かが抜け出していく。目に見えない、だが確かに存在する何かが。
数秒の後、十一人は動かなくなった。
円の中に、渦が生まれた。
「……!」
キーノが、息を呑んだ。
空間が、歪んでいる。
円の上、一メートルほどの高さで、何かが起きていた。
◇
それは、初めて見る類の現象だった。
空間の一部が、破れている。
いや――破れているのではない。そこに何かが重なろうとして、噛み合っていない。そういう歪み方だった。
輪郭が、ぶれる。
色が、散る。
断続的に、明滅する。
像を結ぼうとして、崩れる。もう一度形を取ろうとして、また崩れる。それを、目まぐるしい速度で繰り返している。
まるで――壊れた映像だった。
音も、していた。
何かの声のようなものが、断片的に聞こえてくる。だが、意味を成さない。引き延ばされ、途切れ、逆再生されたように歪んでいる。
「な、なによ、これ……」
キーノの声が、震えていた。
「おい、坊主!」
サーシェスが、反射的に銃を抜いた。
だが、構えたまま動けない。
撃つべきかどうかが、分からなかった。あれは何なのか。生き物なのか。そもそも、そこにいるのか。
十数年の傭兵経験が、何の役にも立たなかった。
◇
鬼太郎は、その歪みを、瞬き一つせずに見つめていた。
そして――理解した。
(――ああ)
来ている。
確かに、来ている。
呼びかけは届いた。応じた。契約の回路は繋がっている。それは間違いない。
問題は、その先だった。
歪みへ向かって、彼は右手を伸ばした。
触れない。
いや――触れているのかもしれない。だが、感触がない。手のひらが、そこにあるはずのものを素通りしている。
彼は、呼びかけた。
前世で、幾度となく使った言葉で。
返事は、あった。
だが、それは音として意味を持たなかった。何かを言っている。伝えようとしている。それは分かる。
分かるだけで、何一つ受け取れない。
(――なるほど)
鬼太郎の中で、答えが組み上がった。
COMPの役割を、彼は誤解していた。
あれは、召喚のための装置ではない。
召喚は、術者にもできる。現に、できている。
あの装置が担っていたのは――**認知の補正**だった。
悪魔という存在は、人間の知覚の枠に収まらない。姿も、声も、そのままでは受け取れない。装置を介することで初めて、人間に理解できる形に変換されていた。
目に見える姿として。
聞き取れる声として。
あれは、翻訳機だったのだ。
そして今、その翻訳機がない。
だから、届かない。
◇
彼は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
歪みは、まだそこにあった。明滅を繰り返し、意味を成さない音を垂れ流しながら。
やがて、それは徐々に薄れ始めた。
契約が維持できない。対価は支払われているが、認識が成立していない以上、関係を結べない。
歪みは、最後に一度大きく震えると、音もなく消え去った。
中庭に、静寂が戻った。
残されたのは、消し炭のように色を失った文様と、動かない十一体と、そして三人の人間だけだった。
◇
「……終わったの?」
キーノが、掠れた声で尋ねた。
「ええ」
「今のは、何だったのよ」
「悪魔です」
鬼太郎は、即答した。
「呼べました。確かに」
「呼べたって……見えなかったじゃない」
「見えないだけです。いなかったわけではありません」
彼は、消えた空間を見上げた。
「あそこに、確かにおりました。応答もございました」
キーノは、身震いした。
それが一番怖い。
見えないものが、そこにいた。触れられないだけで、確かに存在していた。
そして――鬼太郎は、それと会話しようとしていた。
「……おい」
サーシェスが、ようやく銃を下ろした。
「で、成功なのか、失敗なのか。どっちだ」
「半分です」
鬼太郎は、静かに答えた。
「召喚は、成功しております。呼びかけは届き、応答があり、対価も受理された。手順に誤りはございませんでした」
「じゃあ、何が駄目だったんだ」
「こちらの、目です」
「……目?」
「認識する側の問題です」
彼は、自分の手のひらを見下ろした。
「あちらは、来ている。ですが、私にはそれを見る手段がない。声を聞く手段も、触れる手段もない」
「……そりゃ、どうにもならねえだろ」
「いいえ」
鬼太郎は、顔を上げた。
その目には、明確な熱が宿っていた。
「手段があれば、解決します」
◇
彼は、地面の文様を眺めながら、思考を巡らせていた。
問題は、変換だ。
あの装置が担っていた機能を、別の何かで代替すればいい。
では、何で。
(――この世界には、あるはずです)
魔法界には、見えないものを扱う技術がいくつも存在する。
姿を隠す道具があるということは、それを見破る手段もあるということだ。心を読む術があるということは、意識に直接触れる技術があるということだ。
どこかに、糸口はある。
そして、それを探せる場所を、彼は既に知っていた。
数十万冊の蔵書。禁書庫。各分野の専門家。
あの老人が並べ立てたものが、今、まったく違う意味を帯びて立ち上がってきた。
(――行く価値が、ございますね)
鬼太郎の口元が、緩んだ。
教育のためでも、居場所のためでもない。
この一点のために、彼はホグワーツへ行く。
「……あんた、また変な顔してるわよ」
キーノが、疲れた声で言った。
「そうですか」
「そうよ。楽しそうにしてる時の顔」
「否定はいたしません」
彼は、素直に認めた。
「ようやく、道筋が見えましたので」
◇
十一体の処理を終えたのは、明け方近くだった。
文様も消し、痕跡も片付けた。
中庭は、何事もなかったかのように、元の姿を取り戻している。
鬼太郎は、白み始めた空を見上げていた。
入学まで、あと数ヶ月。
それまでに、準備すべきことは多い。
もっとも――と、彼は思った。
急ぐ必要は、ないだろう。
あの老人は、いずれまた来る。学用品の件も、ポートキーの件も、まだ話が済んでいない。
その時に、報告すればいい。
実験を終えたこと。檻を空にしたこと。そして、召喚を試みたこと。
隠す理由は、どこにもない。
(――それに)
彼は、ふと思いついた。
あの老人なら、知っているかもしれない。
見えないものを、見る手段を。
五十年以上を魔法界で過ごし、数多くの分野に通じた人物である。こちらの求めるものに、心当たりがあってもおかしくない。
尋ねてみる価値は、十分にあった。
「……楽しみですね」
鬼太郎は、静かにそう呟いた。
朝日が、森の梢を照らし始めていた。