ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
召喚の一件から、数日が過ぎた頃だった。
鬼太郎は、屋敷の書斎で紙を広げ、線を引いていた。
森の地図である。
拠点の位置。ヴィーラたちの居住区。魔法生物の生息域。境界線。主要な侵入経路。
この半年で把握したものを、すべて描き込んでいく。
「何してるの?」
覗き込んだキーノが、首を傾げた。
「引き継ぎの準備です」
「引き継ぎ?」
「九月から、私はここを離れますので」
鬼太郎は、手を止めずに答えた。
「週末と休暇には戻れるでしょう。ですが、それ以外の期間は不在になります」
「……ああ」
キーノは、そこで気づいた。
自分も、行くのだ。
そして、サーシェスも。
つまり――この森には、誰も残らない。
「じゃあ、その間はどうするのよ」
「そのための準備です」
◇
鬼太郎が整理した課題は、三つあった。
一つ目。ヴィーラたちの安全。
彼らとは取引関係にある。定期的に羽毛と髪を受け取る代わりに、この一帯の安全を保証する。それが契約の内容だった。
自分が留守にする間も、その約束は有効である。
破れば、取引は終わる。素材の供給が途絶える。
二つ目。拠点の維持。
屋敷には、実験の記録も、薬の試作品も、収集した素材も残っている。荒らされれば、この数ヶ月の成果が失われる。
三つ目。密猟者の流入。
これは、止まらない。魔法生物が増え続ける以上、噂を聞きつけた者が来る。放置すれば、森は元の状態に戻ってしまう。
(――つまり、警備が必要ということですね)
答えは、単純だった。
自分がいない間も、機能し続ける体制を作ればいい。
◇
まず、人員の補充から始めた。
この二週間で、新たに六名を捕らえていた。いずれも、噂を聞いて森に入り込んできた密猟者である。
鬼太郎は、それぞれにマリンカリンを行使した。
抵抗は、ほとんどなかった。手順にも慣れている。数分の後、六人は穏やかな顔で並び、指示を待つようになっていた。
「これで、二十名ですね」
彼は、中庭に整列した人員を見渡した。
既存の十四名と、新たな六名。
「もっと増やさねえのか?」
壁際から、サーシェスが尋ねた。
「森は広えぞ。二十人で足りるのか」
「足ります」
鬼太郎は、即答した。
「人数を増やせば、それだけ管理の手間が増えます。食糧の確保も必要になりますし、統率も行き届かなくなる」
「まあ、そりゃそうだが」
「それに、この森の守りに必要なのは頭数ではありません」
彼は、地図を広げた。
「地形です。侵入経路は限られております。要所を押さえて、連絡が回る仕組みさえあれば、少人数でも十分に機能します」
「なるほどな」
「二十名。これが、一人で統率できる上限かと」
「一人?」
サーシェスが、眉をひそめた。
「誰がやるんだ、それ」
「これから、決めます」
◇
その日から三日かけて、鬼太郎は二十名を一人ずつ観察した。
ただ立たせて眺めたわけではない。
彼は、彼らに課題を与えた。
地図を見せて、この状況ならどう配置するかを問う。侵入者が三方向から来た場合の対処を尋ねる。負傷者が出た時の優先順位を考えさせる。
答えは、様々だった。
まともに答えられない者もいた。命令には忠実でも、自分で考えるということが不得手な者。
ある程度答えられるが、視野の狭い者。目の前の一点しか見ていない。
そして――数人だけ、違う答えを返した。
その中の一人が、際立っていた。
「――西の尾根を放棄します」
彼は、地図を指してそう言った。
「なぜでしょう」
「三方向から来られた場合、二十名では全てを守り切れません。ですので、最も価値の低い場所を捨てます」
男は、淡々と続けた。
「西の尾根には、目ぼしい魔法生物がおりません。侵入者が通っても、実害は少ない。であれば、そこに人を割く必要はない」
「では、空いた人員は」
「北と東に回します。特に北は、ヴィーラの居住区に近い。ここを破られると、取引の根幹が崩れます」
鬼太郎は、その答えをしばらく吟味していた。
優先順位が、正確だった。
全部を守ろうとしていない。何が重要で、何が捨てられるかを理解している。そして、その判断の根拠を、自分の言葉で説明できる。
「あなたは、以前どのような立場に?」
「密猟団の頭目を、六年ほど」
「なるほど」
道理で、と彼は思った。
統率の経験がある。人を動かし、危険を判断し、退き際を見極める。それを実地で身につけてきた人間だった。
「お名前は」
男が、自分の名を告げた。
鬼太郎は、それを聞いて――記録に書き留めなかった。
代わりに、こう言った。
「では、あなたを顧問といたします」
「……顧問、でございますか」
「ええ。今後は、そうお呼びします」
男は、恭しく頭を下げた。
「かしこまりました」
異論は、なかった。
名を呼ばれないことにも、疑問を抱いていないようだった。
◇
少し離れた場所で、キーノがその様子を見ていた。
「……あんた」
「はい」
「今、名前聞いたわよね」
「ええ」
「なんで、そう呼ばないのよ」
鬼太郎は、不思議そうな顔をした。
「必要がないからです」
「……」
「私が管理するのは、その方の役割です。名前ではありません」
キーノは、口を開きかけて――やめた。
言っても、無駄だ。
いや、無駄かどうかは分からない。この子供は、道理が通れば聞く。だが、今回はうまく言葉にできる気がしなかった。
名前で呼ぶべき理由。
それを説明しようとすると、必ず「なぜ」に行き着く。そして、その答えを彼女は持っていない。
(……いつか、絶対に言ってやるから)
彼女は、内心でそう誓った。
◇
顧問の育成は、二週間に及んだ。
鬼太郎は、自ら相手をした。
最初は、座学だった。
地図を挟んで、想定される事態を一つずつ潰していく。単独の侵入者。複数人の集団。武装した組織。そのそれぞれに対して、どう動くか。
顧問は、素直に吸収した。
元々の素地がある。そこに、鬼太郎が持つ前世からの知識が加わる。荒廃した世界で、少人数を率いて生き延びるための技術。それは、この森の警備にもそのまま応用できた。
次に、実地だった。
二人で森を歩き、実際の地形を確認する。ここからここまでが見通せる。この岩陰は死角になる。この道は雨が降ると通れなくなる。
顧問は、それらを逐一記憶していった。
そして、最後に。
「では、私と一度、やってみましょうか」
鬼太郎は、そう言った。
「……と、申されますと」
「実戦です。私が侵入者役をいたします」
顧問の顔が、僅かに引き締まった。
「かしこまりました」
◇
結果は、惨憺たるものだった。
鬼太郎は、三十分もかけずに拠点まで到達した。
顧問の配置は悪くなかった。だが、想定が甘かった。彼は、侵入者が「正面から来る」ことしか考えていなかったのである。
鬼太郎は、木の上を渡って移動した。
川の中を歩いて痕跡を消した。
わざと痕跡を残して、人員を一箇所に集めてから、逆方向へ回り込んだ。
いずれも、前世では当たり前に使っていた手だった。
「……申し訳ございません」
顧問が、深く頭を下げた。
「謝罪は不要です」
鬼太郎は、淡々と言った。
「今のは、何が問題だったとお考えですか」
「……侵入者が、道を通ると思い込んでおりました」
「それから」
「痕跡を、そのまま信じました。偽装される可能性を考慮しておりません」
「他には」
「人員を、一箇所に集めすぎました。手薄になった場所を、把握できておりません」
顧問は、三つとも正確に挙げた。
鬼太郎は、満足げに頷いた。
自分の誤りを、自分で分析できる。これができない人間は、何度やっても同じ失敗を繰り返す。
「結構です。では、明日もう一度」
「はい」
◇
それを、十日繰り返した。
十日目には、鬼太郎が拠点に到達するまでに、二時間以上を要するようになっていた。
顧問は、想定を広げていた。
道以外の経路を警戒するようになり、痕跡を疑うようになり、人員を分散させたまま連絡を取る方法を編み出していた。
「上達されましたね」
「恐れ入ります」
「では、次の段階です」
鬼太郎は、中庭に整列した二十名を指した。
「今後、彼らの訓練はあなたが行ってください」
「……私が、でございますか」
「ええ」
彼は、頷いた。
「私は、九月から不在になります。その間、この森を維持するのはあなたの役目です」
「かしこまりました」
「訓練の内容は、お任せいたします。私が教えたことを基にして、あなたなりに組み立ててください」
「承知いたしました」
「それと」
鬼太郎は、付け加えた。
「今後、新たに補充された人員も、あなたが仕込んでください。私は、その都度手を出しません」
顧問は、深く一礼した。
その瞬間から、この森の警備は、鬼太郎の手を離れた。
◇
訓練が始まると、中庭は毎日賑やかになった。
顧問の号令が飛び、二十名が動く。持ち場の確認。連絡の伝達。侵入者を想定した配置転換。
彼らは、驚くほど従順に、そして熱心に取り組んだ。
褒められれば、嬉しそうにする。
うまくできなければ、悔しそうにする。
失敗した仲間を、励ましさえする。
その光景を、キーノは屋敷の窓から眺めていた。
「……変なの」
彼女は、呟いた。
あの人たちは、意思を奪われている。それは知っている。鬼太郎が、あの術で作り変えたのだ。
なのに――人間らしく見える。
笑い、悔しがり、互いに声をかけ合う。訓練の合間には、雑談さえしている。
もし何も知らずにあの光景を見たら、ただの熱心な警備隊にしか見えないだろう。
(……どこまでが本物なんだろう)
彼女には、分からなかった。
あの笑顔は、本人のものなのか。それとも、術が作り出したものなのか。
そもそも、その区別に意味があるのか。
「……嬢ちゃん」
いつの間にか、サーシェスが隣に立っていた。
「考えすぎだぜ」
「……何がよ」
「答えの出ねえことを考えても、疲れるだけだ」
彼は、酒瓶を傾けた。
「あいつらは、あいつらだ。どうなってようが、今こうしてる。それ以上でも以下でもねえ」
「……あんたは、平気なの?」
「平気じゃねえよ」
サーシェスは、あっさりと言った。
「俺だって、あれをやられたらと思うと、ぞっとする。殺されるより嫌だ」
「じゃあ」
「だが、やられちゃいねえ。だから、今は考えねえ」
彼は、肩をすくめた。
「それでいいんだよ、俺たちみたいなのは」
キーノは、何も言わなかった。
納得はできない。だが、否定もできなかった。
◇
八月の終わり。
訓練は、一定の水準に達していた。
顧問の指揮のもと、二十名が森を巡回する。侵入者があれば、連絡が回り、包囲が形成される。緊急時の判断基準も定められていた。
鬼太郎は、最後の確認として、もう一度侵入者役を務めた。
今度は、拠点に辿り着けなかった。
北の斜面で発見され、退路を断たれ、包囲された。彼が本気を出せば話は別だったが――そこまでする必要はないと判断した。
「結構です」
彼は、包囲の中で言った。
「この水準を維持していただければ、十分です」
顧問が、深く一礼した。
「ありがとうございます」
「私の不在中、この森を任せます」
「必ず」
「それと、一つだけ申し上げておきます」
鬼太郎は、静かに続けた。
「無理をなさらないでください」
顧問が、顔を上げた。
「守り切れないと判断した場合は、退いて構いません。人員を失うのが、最も損失が大きい」
「……かしこまりました」
「あなた方は、育てるのに時間がかかりますので」
その一言に、少し離れた場所にいたキーノが、深い溜息をついた。
やっぱりそこなのか、と。
「それから、侵入者の扱いについて」
鬼太郎は、地図を畳みながら言った。
「はい」
「今後、捕らえる必要はございません」
顧問の動きが、止まった。
「……と、申されますと」
「人員は、二十名で足りております。これ以上増やしても、管理の手間が増えるだけです」
彼は、淡々と続けた。
「ですので、今後入り込んだ者は、その場で処理してください」
「かしこまりました」
「ただし、条件がございます」
鬼太郎は、指を一本立てた。
「まず、観察すること。何を目的に来たのか、何をしているのかを見極めてください」
「はい」
「道に迷っただけの者、あるいは危害を加える意図のない者であれば、境界の外へ出すだけで結構です」
「承知いたしました」
「ですが」
彼は、指を下ろした。
「魔法生物を狙っている者。この森のものを奪おうとする者。そういった者であれば――容赦は不要です」
「……はい」
「見極めさえ間違えなければ、判断はお任せいたします」
「かしこまりました」
顧問は、深く一礼した。
その会話を聞いていたキーノが、眉をひそめた。
「……ちょっと」
「はい」
「それ、殺せってことよね」
「そうなります」
「あんた、あの爺さんと約束したじゃない」
「実験をやめることは、約束いたしました」
鬼太郎は、あっさりと答えた。
「ですが、この森を守ることについては、何も申し上げておりません。それに、これは私がやることでもございません」
「屁理屈!」
「そうかもしれません」
彼は、否定しなかった。
「ですが、他に方法がございますか」
キーノは、口を開いた。
そして、詰まった。
捕らえて増やすのは、鬼太郎が否定した。管理が追いつかないからだ。
追い返すだけでは、また来る。何度でも。
魔法省に引き渡す? そんなことをすれば、この森の存在が知られる。
見逃せば、ヴィーラたちが襲われる。
――どうすればいいのか、彼女には分からなかった。
「……いつか」
彼女は、絞り出すように言った。
「いつか、もっとマシな方法を見つけてやるから」
「それは、ありがたいですね」
鬼太郎は、真面目な顔でそう答えた。
「見つかりましたら、ぜひ教えてください。より良い方法があるのなら、そちらを採用いたします」
その返事に、キーノは余計に苛立った。
この子供は、いつもそうだ。
拒まない。否定しない。ただ、より良い案を持ってこいと言う。
そして、彼女はそれを持っていない。
◇
九月まで、あと数日。
準備は、整った。
森の警備は自走する。ヴィーラとの取引も継続できる。拠点も維持される。
あとは――あの老人が来るのを待つだけだった。
鬼太郎は、屋敷の窓から森を眺めていた。
この場所を離れるのは、六歳で神社を出て以来、初めてのことになる。
いや、正確には違う。
日本を離れ、フランスからブルガリアへ。彼は幾度も土地を変えてきた。
だが、あれは移動だった。
今度は――帰ってくる場所を、残していく。
(――妙なものですね)
彼は、そう思った。
名残惜しい、というのとも違う。ただ、これまでとは違う種類の感覚があった。
置いていくものがある、ということ。
それが何を意味するのか、彼にはまだよく分からなかった。
「……まあ、いずれ分かるでしょう」
彼は、窓を閉じた。
夏の終わりの風が、森を渡っていった。