ハリー・ポッターと墓場に還りし者   作:ムササビ

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日本、遠い夜

 その報せは、深夜過ぎに届いた。

 

 古びたラジオのような魔法道具から漏れ聞こえてきたのは、地下に潜む魔法使いたちの間だけで交わされる、暗号じみた短い言葉だった。闇の帝王、消滅。詳細は不明。だが確かに、力を失った――そう繰り返されるだけの、たった数十秒の放送。

 

 畳の上に座り込んだまま、男はしばらく身動きが取れずにいた。

 

 安堵という言葉では、とても言い表せない感情だった。長年張り詰めていた糸が、ふつりと切れたような感覚。それでいて、どこかでまだ、この静けさを信じきれずにいる自分もいた。残党がいる。逃げ延びた者たちがいる。本当の意味で、この恐怖から解放されたとは、まだ言い切れない。

 

 男の名は、もとは別にあった。ダンブルドアという名家の、細く薄い血を引く家系に生まれながら、彼自身には魔力が宿らなかった。生まれついてのスクイブ。魔法界に身を置きながら、自分だけが違う世界の人間であるという疎外感を、物心つく頃から抱えて生きてきた。魔法の才がないというだけで向けられる、憐れみとも軽蔑ともつかない視線には、もう数えきれないほど晒されてきた。

 

 それでも、あの人物が力を強め、魔法界の秩序そのものを塗り替えていった時代――純血であるかどうかがすべてを決めるようなあの空気の中で、スクイブという立場がどれほど危ういものになるか、彼は誰よりもよく理解していた。血を引いているというだけで、いつか利用されるか、消されるか。どちらに転んでもおかしくなかった。近しい親戚の何人かが、理由もなく姿を消したという話も、当時は珍しくなかった。

 

 だから、彼は日本人の妻とともに、海を渡ることを選んだ。故郷を捨て、名すら捨てて。

 

 あの頃のことを、彼は今でも鮮明に思い出せる。着の身着のままで飛行機に乗り、言葉もわからない異国の空港に降り立った日のことを。妻の手だけを頼りに、見知らぬ街を歩いた日々。何もかもが不安だったが、それでも彼女がそばにいてくれることだけが、唯一の確かな拠り所だった。

 

 言葉もわからず、頼れる伝手もほとんどない異国での暮らしは、決して楽なものではなかった。それでも、妻の実家である神社が、静かに二人を受け入れてくれた。代々続く神主の家系というだけあって、この一家は「人ならざるもの」の気配に対して、独特の寛容さを持っていた。魔法という言葉こそ知らずとも、夫が「普通ではない」何かを背負っていることを、うっすらと感じ取っていたのかもしれない。義父母は多くを聞かず、多くを詮索せず、ただ「よく来たね」とだけ言って、二人を迎え入れてくれた。その静かな優しさに、彼は何度も救われてきた。

 

 襖の向こうから、小さな寝息が聞こえる。男は静かに立ち上がり、隣の部屋へと足を運んだ。

 

 畳の上で、妻が幼い息子を膝に抱いたまま、うとうとと舟を漕いでいた。鬼太郎。元日に生まれたその子は、今年でもう二つになる。彼女自身に魔力はない。生まれついてのマグルだ。けれど、何かを「感じる」力だけは、確かに持っていた。理屈では説明のつかない予兆、気配、胸騒ぎ――そういったものを、彼女は昔から人一倍敏感に拾い上げてきた。子供の頃、境内で誰もいないはずの拝殿の奥に向かって手を合わせていた、という話を、彼は結婚してからよく聞かされたものだった。

 

「……帰ってきたの?」

 

 妻が薄目を開けて、小さく笑った。

 

「ああ。良い報せだ」男は妻の隣に腰を下ろし、腕の中の息子の顔を覗き込んだ。「あちらの闇の帝王が、消えたらしい」

 

「そう……よかった」

 

 安堵の吐息とともに、妻はもう一度目を伏せた。腕の中で、幼子がむずかるように小さく身じろぎする。ふっくらとした頬に、規則正しい寝息。何も知らず、何も背負わず、ただそこに在るだけの存在。

 

「この子の姓のことだが」男は静かに切り出した。「やはり、お前の家のものを名乗らせ続けようと思う」

 

「墓場のまま、ということ?」

 

「ああ。あの方が消えたとはいえ、残党がいる。俺の姓では、いずれ追手の目に留まる。お前の家の姓なら、少なくとも当分は疑われまい」

 

 妻は少しの間、じっと夫の顔を見つめていた。それが彼にとって、どれほどの覚悟を伴う言葉か、わかっているのだろう。自分の名を、家を、血の証を、この子に継がせない――それは、自分がこの子にとって「何者でもない」存在になることを、自ら選び取るのと同じだった。この子に、自分の出自の欠片すら残さない。それでも、それがこの子を守る唯一の方法だというなら、迷う余地などなかった。

 

 脳裏に、遠い記憶の中の親戚たちの顔がよぎる。名すら知らない、遠縁のダンブルドア家の誰か。血のつながりというものが、これほど頼りにならず、それでいてこれほど重いものだとは、故郷を出るまで考えたこともなかった。

 

「いいのね? 本当に」

 

「ああ」男は頷いた。「この子が、生きて大人になれるなら、俺の名などいくらでも捨てられる」

 

 その言葉に、妻は目を細めた。責めるでも憐れむでもなく、ただ静かに、夫のその覚悟を受け止めるような表情だった。

 

「鬼太郎には、何も教えずに育てよう」

 

「ええ」妻は静かに頷いた。「この子には、普通に生きてほしいもの」

 

 小さな部屋に、束の間の静けさが満ちた。障子の向こうから、冷えた夜気が忍び込んでくる。遠くで、風に揺れた庭木の枝が、かさりと鳴った。何の変哲もない、ただ穏やかな晩秋の夜だった。

 

 だが、その静けさの中で、妻はふと、言いようのない胸騒ぎを覚えた。理由はわからない。目の前で眠る我が子を見つめているだけなのに、胸の奥に、冷たい水が一滴落ちたような感覚があった。境内の奥、誰もいないはずの場所に、何かがそっと佇んでいるような――そんな、根拠のない予感。

 

「どうした?」

 

「……ううん、何でもない」

 

 妻は首を振り、腕の中の温もりを、確かめるようにそっと抱き直した。気のせいだ。そう自分に言い聞かせながらも、その夜、彼女はなかなか寝付くことができなかった。

 

 男もまた、しばらくの間、縁側に出て夜空を見上げていた。故郷の空とは違う星の並びを眺めながら、これから先の暮らしに思いを馳せる。もう二度と、あちらの世界に戻ることはないだろう。この子には、魔法のことも、ダンブルドアの血のことも、何も教えずに育てるつもりだった。それが、彼にできる精一杯の贖罪であり、そして何より、この子を守るための唯一の道だと信じていた。

 

 だが、運命というものは、時に人の願いなど意にも介さず、勝手に動き出すものだ。

 

 この夜の静けさが、あと何年続くのか――それを知る者は、まだ誰もいなかった。

 

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