ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
八月の終わり、ダンブルドアは再びその森を訪れた。
前回と同じ道を辿り、同じ石畳を踏み、同じ玄関の前に立つ。
違っていたのは、三人が既に外で待っていたことだった。
「お待ちしておりました」
鬼太郎が、丁寧に一礼した。
「よくおいでくださいました」
「……ほう、知っておったのかね」
「境界を越えられた時点で、報告が参りましたので」
ダンブルドアは、内心で苦笑した。
相変わらずだった。
「では、中へどうぞ」
◇
居間に通され、茶が出される。
勧められたソファに腰を下ろしながら、ダンブルドアは自分の心持ちが前回とは違っていることに気づいていた。
初めてこの屋敷を訪れた時、彼は徹底して言葉を選んでいた。
最初は、子供に向ける口ぶりで。相手の警戒を解き、懐に入るために。
だが、それが通用しないと悟ってからは、言葉を改めた。相手を一個の交渉相手として遇し、隙のない敬語で応じた。
あれは、警戒の裏返しだった。
どう扱えばよいか分からぬ相手に対して、人は丁寧になる。距離を測りかねているからこそ、形式で間を埋めようとする。
今は、違う。
あの日、彼はこの子のすべてを見た。手合わせもした。三つの条件も飲んだ。
何を言えば喜び、何を言えば通じぬかも、おおよそ掴んでいる。
ならば、取り繕う意味はない。
(――普段通りでよいのう)
彼は、そう結論していた。
そして、その方がこの子にとっても好都合だろうという予感もあった。
この子は、飾った言葉を好まない。回りくどい配慮も、社交辞令も、おそらく雑音としか感じていない。
実際――
「その前に、ご報告がございます」
鬼太郎が、静かにそう切り出した。
ダンブルドアの手が、止まった。
「……何じゃね」
「地下の実験は、すべて終了いたしました」
「……ほう」
「記録もまとめ終え、器具も片付けております。ご確認いただいても構いません」
ダンブルドアは、慎重に頷いた。
約束は守られている。それ自体は、喜ばしいことのはずだった。
だが。
「……檻は、どうした」
「空にいたしました」
「……」
「ご覧になりますか」
「いや」
彼は、首を振った。
そして、避けられぬ問いを口にした。
「中におった者たちは、どうなった」
「処理いたしました」
部屋が、静まり返った。
鬼太郎は、何ら悪びれる様子もなく、言葉を続けた。
「実験をやめる以上、維持する理由がございません。解放すれば、この場所のことを話される。ですので、処理いたしました」
「……どのようにじゃ」
「それは、申し上げられません」
彼は、あっさりとそう答えた。
「……なぜじゃ」
「私にとって、重要な技術に関わりますので」
鬼太郎は、静かに言った。
「嘘は申しません。ですが、申し上げられないこともございます。以前、そう申し上げたはずです」
ダンブルドアは、その言葉を噛み締めた。
確かに、聞いた。この子は、そう言っていた。
そして今、その通りにしている。
(――やはり、この方がよいのう)
彼は、内心でそう思った。
前回のように言葉を選んで探りを入れたところで、この子には意味がない。取り繕えば取り繕うほど、返ってくるのは率直な答えだけだ。
ならば、こちらも率直に問えばいい。
奇妙な話だった。最も警戒すべき相手に対して、最も飾らぬ言葉で話している。
だが、それが最も噛み合う。
「……ですが、ご安心ください」
鬼太郎は、ごく穏やかに続けた。
「今日からは、そのようなことはいたしません。約束いたしましたので」
――今日からは。
ダンブルドアは、目を閉じた。
そして、口を開く前に、一つだけ決めたことがあった。
この子を、名前で呼ぼう。
九月からは、生徒になる。ならば、そう扱うべきだった。
トムの時も、そうした。あの少年を、彼は最後まで「トム」と呼び続けた。周囲が恐れて口にすることすら避けるようになってからも、変えなかった。
そこに意味があったのかどうかは、分からない。
だが――名前で呼ぶということは、その相手を個人として扱うということだ。
役割でも、脅威でも、案件でもなく。
この子には、それが必要な気がした。
この子は、嘘をついていない。約束も破っていない。
入学後は実験をしないと、確かに承諾した。そして、それを守るつもりでいる。
ただ――**その前日までは、自由だと解釈している**。
言質の取り方が、甘かった。
「実験をやめてほしい」と言っただけで、「今いる者たちを解放せよ」とは言わなかった。
その一点を、目の前で証明されたのだ。しかも、律儀に報告するという形で。
「……鬼太郎」
彼は、かすれた声で言った。
「わざわざ、それをわしに伝えるのかね」
「はい」
「なぜじゃ」
「隠せば、いずれ気づかれます」
鬼太郎は、当然のように答えた。
「その時、私の言葉は信用を失う。ですので、申し上げられることは申し上げます」
ダンブルドアは、深く息を吐いた。
誠実だった。
誠実さの形が、根本から歪んでいるだけで。
◇
「もう一つ、よろしいでしょうか」
「……まだ何かあるのかね」
「お伺いしたいことが」
鬼太郎は、身を乗り出した。
「魔法界には、認識できないものを認識する手段はございますか」
「……と、いうと」
「そこに存在しているが、目に見えず、音も聞こえず、触れることもできない。そういったものを、捉える技術です」
ダンブルドアの目が、細められた。
「……何のために、そのようなことを」
「申し上げられません」
即答だった。
彼は、しばらく黙っていた。
この問いには、明確な意図がある。この子は、何かを見ようとしている。あるいは、既に何かを見損なった。
答えるべきか。
だが――隠したところで、この子は自分で調べるだろう。そして、その過程で何をするか分からない。
ならば。
「……いくつか、あるのう」
彼は、慎重に答えた。
「透明化された者を見破る術。守護霊を感知する術。過去の残滓を読む術。いずれも、本来は見えぬものを扱う」
「なるほど」
「じゃが」
ダンブルドアは、そこで釘を刺した。
「いずれも、対象が『この世界のもの』であることが前提じゃ。そもそもこの世界の理に属さぬものであれば、どの術も届くまい」
鬼太郎の動きが、止まった。
「……なるほど」
彼は、静かに頷いた。
「大変、参考になりました」
その反応を見て、ダンブルドアは確信した。
この子が見ようとしているのは、この世界のものではない。
◇
「さて、こちらからも報告があるのじゃ」
空気を変えるように、ダンブルドアはそう切り出した。
「キーノさんの件でな」
部屋の隅で、少女の肩が跳ねた。
「先週、理事会を通した」
「……」
「反対は、あったよ。それも、少なくはなかった」
彼は、正直に告げた。
「じゃが、押し切った。君の入学は、正式に認められておる」
キーノは、その場に立ち尽くしていた。
表情が、動かない。
「……嬢ちゃん?」
サーシェスが、怪訝そうに覗き込んだ。
「おい、聞いてんのか」
「……え」
彼女は、ようやく瞬きをした。
「あ、あの……今、なんて」
「入学が認められた、と言ったのじゃ」
「……あたしが?」
「ええ」
「ホグワーツに?」
「ええ」
キーノは、しばらく動かなかった。
そして――手が、震え始めた。
両手で口を押さえる。肩が上下する。目の縁が、みるみる赤くなっていった。
「……っ」
「キーノさん」
ダンブルドアが、穏やかに声をかけた。
「制服が要るのう。それに、教科書も。今日は、そのために来たのじゃ」
「……はい」
「よければ、一緒に参ろうか」
「……はい!」
彼女は、何度も頷いた。
涙をこぼしながら、それでも笑っていた。
鬼太郎は、その様子を静かに眺めていた。
(――良かったですね)
彼は、そう思った。
自分が条件に出したのは、置いていきたくなかったからだ。それは変わらない。
だが、結果として本人が喜んでいるのなら、それに越したことはない。
◇
「では、参りましょうか」
ダンブルドアが立ち上がった、その時。
「ああ、その前に」
鬼太郎が、部屋の隅から大きな革の鞄を持ってきた。
机の上に置き、留め具を外す。
「これを、換金していただきたいのですが」
中身を見た瞬間、ダンブルドアの表情が固まった。
――金だった。
いや、金だけではない。
磨き上げられた宝石。細工の施された指輪。古い金貨の束。そして――明らかに魔法生物の素材と分かるものが、いくつも。
角。鱗。牙。乾燥させた腺。
「……これは」
「魔法界の通貨を、持ち合わせておりませんので」
鬼太郎は、淡々と説明した。
「マグルの金はございますが、そのままでは使えません。ですので、換金できるものを用意いたしました」
「……どこで、これを手に入れたのじゃ」
「集めました」
「……」
「これまでの仕事の過程で」
ダンブルドアは、額に手を当てた。
仕事。つまり――この品々は、すべて誰かから奪ったものだ。
そして、その誰かは、おそらく生きていない。
「……鬼太郎」
「はい」
「これを、わしの前で開けるのかね」
「隠す理由がございませんので」
鬼太郎は、不思議そうに答えた。
「それとも、隠すべきでしたか」
「……いや」
ダンブルドアは、深く息を吐いた。
隠されるより、遥かにましだった。少なくとも、中身を確認できる。
彼は、鞄の中身を一つずつ検めていった。
そして――手を止めた。
「……これは、いかん」
彼が取り出したのは、黒く変色した小さな箱だった。
「なんでしょう」
「呪いがかかっておる。それも、かなり悪質なものがな」
ダンブルドアは、慎重にそれを脇へ置いた。
「触れた者の魔力を、じわじわと蝕むものじゃ。持ち歩いておるだけでも危ない」
「……ほう」
鬼太郎の目が、興味深そうに光った。
「そのような品でしたか」
「知らなかったのかね」
「調べる時間がございませんでしたので」
彼は、さらりと言った。
ダンブルドアは、さらにいくつかの品を選り分けた。
呪われた指輪。人体の一部を素材とした護符。違法とされる薬の原料。
最終的に、鞄の中身の三割ほどが脇に積まれた。
「これらは、わしが引き取ろう」
「構いませんが、なぜでしょう」
「売れば、誰かの手に渡る。そして、必ず誰かが傷つく」
ダンブルドアは、静かに言った。
「鬼太郎が持っておるのも、望ましくないのでな」
鬼太郎は、その説明をしばらく吟味していた。
そして、頷いた。
「承知いたしました。どうぞ、お持ちください」
「……よいのかね?」
「売れないものを持っていても、仕方がございませんので」
あっさりとした返答だった。
ダンブルドアは、それらを慎重に包みながら――残りの七割については、何も言わないことにした。
それが、今の彼にできる限界だった。
◇
「では、参ろうかの」
ダンブルドアは、庭に出ると三人を集めた。
「移動は、姿くらましでいこうかの」
「……三人まとめて、ですか」
「うむ。付き添い姿くらまし、というやつじゃ。わしの腕に触れておればよい」
「へえ」
サーシェスが、感心したように口笛を吹いた。
「便利なもんだな。俺みてえなスクイブでも行けるのか」
「うむ。術者の側が引き受けるのでな」
「初めての者には、少々不快かもしれんがのう」
ダンブルドアは、そう付け加えた。
「何が不快なのよ」
「体を、細い管に押し込まれるような感覚がする」
「……え」
「では、参るぞ」
キーノが何か言う前に、景色が消えた。
◇
着地した瞬間、キーノはその場にうずくまった。
「……う、ええ……」
「大丈夫かい、嬢ちゃん」
「……最悪よ、これ……」
「はっ、確かにな。内臓が引っ繰り返るかと思ったぜ」
サーシェスも顔をしかめていたが、彼はすぐに体勢を立て直していた。
そして――一人だけ、平然としている者がいた。
「興味深いですね」
鬼太郎は、自分の手のひらを見つめていた。
「空間を圧縮しているのではなく、接続している感覚でした。座標を指定して、対象をその接続に通す。そういう構造でしょうか」
「……よく分析するのう」
「一度で理解できるものではありませんが、感触は掴めました」
「あんた、よく平気ね……」
キーノが、恨めしそうに睨んだ。
「慣れております。似たようなものを、以前に」
「……はいはい、以前ね」
彼女は、それ以上聞かなかった。
◇
目の前には、煉瓦の壁があった。
ダンブルドアが杖で特定の煉瓦を叩くと、壁が音を立てて割れ、左右へ開いていく。
その向こうに、通りが広がっていた。
「――わあ」
キーノの口から、声が漏れた。
石畳の道が、緩やかに曲がりながら続いている。
両側には、傾いだ建物がひしめき合っていた。看板が突き出し、窓には商品が並び、扉の上から湯気や煙が立ち昇っている。
人が、溢れていた。
ローブ姿の大人たち。走り回る子供。籠を抱えた老婆。鳥籠を提げた少年。
誰もが、当たり前のようにそこにいて、当たり前のように買い物をしていた。
「……すごい」
キーノは、立ち尽くしていた。
彼女がこれまで見てきた魔法界は、裏路地と、天幕と、檻の中だけだった。
こんなふうに――明るく、賑やかで、普通の場所があるなんて。
「おい嬢ちゃん、口が開いてるぞ」
「う、うるさいわね!」
彼女は慌てて口を閉じたが、目は輝いたままだった。
鬼太郎は、その様子を横目に見ながら、通りの全体を観察していた。
店の配置。人の流れ。逃走経路。屋根の高さ。
前世からの習慣だった。
(――ずいぶんと、無防備な通りですね)
彼は、内心でそう評価した。
もっとも、それは平和の証でもある。誰も襲われることを想定していないから、この構造で成立している。
悪くない、と彼は思った。
◇
まずは、グリンゴッツへ向かった。
白い大理石の建物に足を踏み入れると、サーシェスが小さく唸った。
「……おいおい、ゴブリンかよ」
「ご存知でしたか」
「見たことはなかったがな。話には聞いてる」
彼は、居心地悪そうに周囲を見回した。
「こいつら、金勘定に関しちゃ人間より厳しいって話だぜ」
「結構なことです」
鬼太郎は、革の鞄を抱え直した。
「信用できる取引相手ということでしょう」
換金には、しばらく時間がかかった。
ゴブリンたちは、持ち込まれた品を一つずつ検め、値をつけていく。出所については、何も尋ねなかった。
そして――最終的に提示された額に、キーノが目を丸くした。
「……ちょっと、これ」
「何か」
「多すぎない?」
「そうですか?」
鬼太郎は、金貨の山を淡々と袋に詰めていた。
「学用品を揃えて、七年分の雑費を見積もっても、余るかと」
「余るどころじゃないでしょ、これ」
「では、貯めておきます」
彼は、事もなげに言った。
「必要になった時に、使えばよろしい」
◇
それからの数時間は、キーノにとって、生涯で最も忙しい時間になった。
制服店では、採寸のために立たされ、布地を当てられ、丈を調整された。
「動かないでくださいな、お嬢さん」
「は、はい……」
彼女は、鏡の中の自分を見つめていた。
黒いローブ。真新しい布地。まだ寮の色は入っていないが、それでも――制服だった。
学校に通う子供が着る、制服。
「……どう?」
彼女は、思わず振り返った。
「よくお似合いです」
鬼太郎が、即答した。
「そ、そう」
「サイズも問題ないかと」
「……そこじゃないでしょ」
彼女は、少しだけ唇を尖らせた。
だが、その顔は嬉しそうだった。
書店では、教科書を探して回った。
「『基本呪文集・一学年用』……これね」
「あちらに『魔法薬調合法』がございます」
「『魔法史』って、どれくらい分厚いのよ……うわ、重い」
「私がお持ちいたします」
「いいわよ、自分で持つ」
鬼太郎は、指定された教科書以外にも、何冊かを手に取っていた。
魔法生物に関する図鑑。呪文の理論書。そして――
「おい坊主、それ何冊買う気だ」
サーシェスが呆れた声を上げた。
鬼太郎の腕には、既に二十冊近くが積まれていた。
「必要なものだけです」
「教科書は八冊だろうが」
「残りは、参考書です」
「参考書で十二冊か」
「足りないくらいですが」
彼は、真顔でそう答えた。
ダンブルドアは、少し離れた場所からその光景を眺めていた。
――この子は、本当に学びたいのだ。
それだけは、疑いようがなかった。
問題は、その先にある。
◇
大鍋を買い、天秤を買い、羊皮紙とインクを買い、鳥籠の並ぶ店の前を通り過ぎた。
キーノが、ふくろうを眺めて足を止めた。
「……可愛い」
「お求めになりますか」
「え? いや、でも」
「必要でしょう。手紙を出す際に」
「……いいの?」
「構いません」
結局、彼女は一羽の小さなふくろうを選んだ。灰色の、丸い目をした個体だった。
「名前、どうしよう」
「お好きなように」
「……あんたが決めてよ」
「なぜ私が」
「買ってくれたの、あんたでしょ」
鬼太郎は、少し考え込んだ。
そして、言った。
「番号ではいけませんか」
「よくないわよ!」
彼女の叫び声が、店内に響き渡った。
「あのね、生き物なのよ! 名前があるものなの!」
「……なるほど」
「分かった?」
「理解はいたしました」
鬼太郎は、籠の中の小さなふくろうを見下ろした。
丸い目が、こちらを見上げている。
彼は、しばらくそれを眺めていた。
「……少し、お時間をいただけますか」
「え?」
「すぐには、思いつきません」
彼は、真面目な顔でそう言った。
「名を付けるというのは、私にとって初めてのことですので。適当に決めて、後で不都合が生じるのも困ります」
「……別に、そこまで考えなくても」
「いいえ」
鬼太郎は、首を振った。
「あなたが、そうすべきだとおっしゃったのでしょう。であれば、きちんと考えます」
キーノは、口を開きかけて――やめた。
こういうところだ。
この子は、道理が通れば必ず受け入れる。そして、受け入れたことは中途半端にしない。
ただ、その受け入れ方が、いつも少しだけずれている。
「……まあ、いいわ。ゆっくり考えなさいよ」
「ええ。そういたします」
◇
そして、最後の店に着いた。
細い路地の奥、色褪せた看板の掛かった、狭い店構えだった。
――オリバンダーの店。
紀元前三八二年創業。
「オリバンダー。この国で最も古い杖屋じゃ」
ダンブルドアが、懐かしそうに看板を見上げた。
「わしの杖も、最初はここで求めたものでな。もっとも、ずいぶんと昔の話じゃが」
鬼太郎は、その扉を見つめていた。
この半年、彼が最も望んでいたもの。
自分に合う、一本の杖。
彼は、静かに扉を押した。
鈴の音が、店の奥まで響いていった。