ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
八月三十一日。
森の空気は、既に秋の気配を含んでいた。
鬼太郎は、朝のうちに屋敷を出て、森の奥へと向かっていた。
ヴィーラたちの住まう一角へ、挨拶に行くためだった。
◇
「――明日、発ちます」
鬼太郎がそう告げると、ラーダは静かに頷いた。
「そうですか」
「取引は、これまで通り継続いたします。羽毛と髪は、月に一度お願いいたします」
「はい」
「受け取りは、顧問が行います。私の代わりに、この森の警備も彼が指揮を執りますので」
「……あの、顧問というのは」
「以前、こちらへ伺った際に同行していた者です。背の高い、髭の」
「ああ、あの方ですね」
ラーダは、少しだけ表情を曇らせた。
彼女は、あの人たちの状態を知っている。鬼太郎が何をしたのかも、薄々察している。
だが、それを口にしたことはなかった。
「何かございましたら、彼にお伝えください。判断は任せておりますので」
「分かりました」
「それと」
鬼太郎は、付け加えた。
「負傷された場合は、屋敷へおいでください。治癒の薬を置いていきます」
「……え?」
「私が不在の間、ディアが使えませんので。代わりに、瓶に詰めたものを用意いたしました」
彼は、懐から小さな包みを取り出した。
「毒消しと、麻痺を解くものです。使い方は、顧問に伝えてございます」
ラーダは、その包みをじっと見つめていた。
「……どうして、そこまで」
「取引ですので」
鬼太郎は、事もなげに答えた。
「あなた方が損なわれれば、素材の質が落ちます。良好な状態を保っていただくのが、双方の利益かと」
やっぱり、と彼女は思った。
やっぱり、この人はそうなのだ。
何度確かめても、同じ答えが返ってくる。優しさではない。慈悲でもない。ただ、そういう計算。
なのに――
「……ありがとうございます」
彼女は、深く頭を下げた。
礼を言わずには、いられなかった。
◇
帰り際、森の広場に差しかかった時だった。
鬼太郎は、足を止めた。
そこに、いた。
石の民が、十数人。木の一族が、その後ろに。さらにその奥には、名も知らぬ小さな種が、何十と群れている。
彼らは、皆こちらを見ていた。
「……これは」
「あの」
石の民の長老が、進み出た。
「あんたが、しばらく留守にすると聞いてな」
「ええ。明日から、学校へ参ります」
「そうか」
老人は、ごつごつとした手で自分の顎を撫でた。
「寂しくなるな」
鬼太郎は、その言葉に少しだけ動きを止めた。
「……寂しい、ですか」
「ああ」
「なぜでしょう」
彼は、本気で尋ねていた。
「あんたが来てから、この森は変わった」
長老は、静かに答えた。
「昔は、外から来る奴らに怯えて暮らしてた。子供を隠して、音を立てずに生きてた」
「……」
「今は違う。誰も攫われねえ。誰も殺されねえ。うちの孫は、外で遊ぶようになった」
周囲の魔法生物たちが、次々に頷いていた。
「そりゃ、あんたにとっちゃ商売なんだろうがな」
老人は、皺だらけの顔を歪めて笑った。
「それでも、俺たちにとっちゃ、あんたは恩人なんだよ」
鬼太郎は、しばらく黙っていた。
彼らが感謝しているのは、知っていた。素材を分けてくれるのも、建築を手伝ってくれたのも、そのためだと理解していた。
だが――寂しいと言われたのは、初めてだった。
感謝と、寂しさは違う。
前者は取引で発生する。だが、後者は。
(――なぜでしょうね)
彼には、その理由が分からなかった。
自分がいなくなって困るのは分かる。警備が手薄になるからだ。だが、それなら「困る」と言えばいい。「寂しい」ではなく。
「……ご心配なく」
彼は、結局そう答えた。
「警備は、顧問が引き継ぎます。私がいなくとも、この森の安全は保たれるでしょう」
「そういう話じゃねえんだがなあ」
長老は、苦笑した。
「まあ、いい。達者でな」
小さな種の一つが、ぴょんと跳ねて、鬼太郎の足元まで来た。
何かを差し出している。
見れば、それは小さな木の実だった。艶のある、赤い実。
「……いただいてよろしいので?」
その生き物は、こくこくと頷いた。
鬼太郎は、それを受け取った。
「ありがとうございます」
彼は、丁寧に一礼した。
群れが、ざわめいた。何かを喜んでいるようだった。
鬼太郎には、やはりその理由が分からなかった。
◇
屋敷へ戻ると、顧問が待っていた。
「最終確認をいたします」
「はい」
「巡回の経路は」
「三交代、六時間ごと。北の斜面と東の谷を重点的に」
「侵入者を発見した場合は」
「まず観察。目的を見極めます。害意がなければ境界の外へ。魔法生物を狙う者、森のものを奪う者であれば、処理いたします」
「守り切れない規模だった場合は」
「退きます。人員を失うことが、最も損失が大きいため」
鬼太郎は、満足げに頷いた。
「結構です」
「恐れ入ります」
「それと、ヴィーラの方々から素材を受け取る際は、丁重にお願いいたします」
「かしこまりました」
「あの方々は、代替が利きません」
顧問は、深く一礼した。
「承知しております」
その脇で、キーノが荷物を詰めながら、二人のやり取りを聞いていた。
――代替が利かない。
鬼太郎にとっての価値は、いつもその一点で決まる。
人間は、代替が利く。だから雑に扱う。
ヴィーラは、利かない。だから丁重に扱う。
では、自分は。
(……考えないでおこう)
彼女は、そう思った。
答えは、たぶん知っている。
◇
サーシェスの出発は、翌朝だった。
彼は生徒ではない。汽車に乗る必要もない。ポートキーで、屋敷から直接ホグワーツの周辺へ飛ぶことになっていた。
「じゃあな」
荷物といえば、大きな鞄が一つきりだった。
「荷物、それだけ?」
キーノが、呆れた声を上げた。
「銃と弾と着替えだ。他に何が要る」
「酒は?」
「向こうで買う」
「絶対そう言うと思った」
サーシェスは、鼻を鳴らした。
そして、鬼太郎の方を見た。
「おい坊主」
「はい」
「言っとくが、俺は森の見張りだからな。学校の中には入らねえ」
「ええ、そう取り決めております」
「だから、お前が中で何やらかそうが、俺の知ったことじゃねえ」
彼は、にやりと笑った。
「精々、面白いことをしろよ」
「善処いたします」
「はっ」
サーシェスは、ポートキーの木片を握った。
そして、去り際に一言だけ付け加えた。
「……あと、殺す機会は狙い続けるからな。忘れんなよ」
「ええ、お待ちしております」
次の瞬間、彼の姿は消えていた。
「……ほんと、あの男」
キーノが、深い溜息をついた。
「懲りないわね」
「ええ。良いことです」
「よくないわよ」
◇
その日の午後、鬼太郎とキーノは屋敷を出た。
二人は、生徒である。
ホグワーツへは、キングズ・クロス駅から発つ汽車に乗るのが慣わしだった。ポートキーで直接向かうこともできたが、ダンブルドアはそうしないよう勧めた。
理由は、単純である。
――皆と同じように来た方がよい。
そう言われた時、鬼太郎は「非効率ですが」と答えた。
だが、キーノが「行きたい」と言ったので、そちらに決まった。
彼女は、汽車に乗ってみたかったのだ。
◇
ロンドンに着いたのは、夕方だった。
駅の近くに宿を取る。マグルの経営する、小さなホテルだった。
二部屋。隣り合わせ。
「……すごい」
部屋に入るなり、キーノが声を上げた。
「何がですか」
「見て、この壁のやつ! 押したら明かりがつくの!」
「電気です」
「でんき」
「マグルの技術です。私の生まれた国にも、ございました」
「……そういえば、あんたマグルの国の生まれだったわね」
彼女は、しばらく明かりを点けたり消したりしていた。
鬼太郎は、その様子を眺めていた。
この子は、こういうことで喜ぶ。
檻の中では、こんなものを見る機会もなかったのだろう。
◇
夜。
キーノは、ベッドの上で膝を抱えていた。
眠れなかった。
明日、学校へ行く。
ずっと憧れていた場所へ。
(……ほんとに、行くんだ)
彼女は、枕元に置いた杖を見た。
胡桃と、不死鳥の尾羽。オリバンダーが、そう言っていた。
自分だけの杖。
自分だけのもの。
生まれて初めて、誰にも奪われないものを持った。
その隣には、真新しい制服が畳んである。まだ寮の色は入っていない。明日、組分けをすれば入るのだと教わった。
(……どこになるんだろう)
寮のことは、本で調べた。
グリフィンドールは勇気。スリザリンは野心。レイブンクローは知恵。ハッフルパフは忠誠。
どれも、自分に当てはまる気がしなかった。
勇気なんてない。ずっと怯えて生きてきた。
野心もない。生きたいと願うだけで精一杯だった。
知恵も、忠誠も。
(……あたし、何なんだろう)
そう考えると、胸が重くなる。
◇
不安は、他にもあった。
血のこと。
ダンブルドアは、隠せとは言わなかった。ただ、「心ない者もいる」と言った。
バレたら、どうなるのだろう。
吸血鬼の混血。魔法界では、闇の生物とされる血筋。
怖がられるだろうか。避けられるだろうか。
見世物小屋で、客たちが自分を見ていた目を思い出す。あの目で見られるのは、もう嫌だった。
それに――授業についていけるだろうか。
読み書きは、独学で覚えた。この半年、鬼太郎の屋敷で本を読む時間があったから、だいぶマシにはなった。
でも、他の子たちは違う。魔法族の家に生まれた子は、小さい頃から当たり前に見聞きしてきたはずだ。
自分だけ、遅れているんじゃないか。
そして、何より。
(……友達、できるかな)
彼女は、膝に顔を埋めた。
同じ年の子と話したことなんて、ほとんどない。
檻の中に、他の子もいた。でも、皆すぐに壊れていった。話しかけても、返事は返ってこなかった。
どうやって話しかければいいのか、分からない。
何を話せばいいのかも。
◇
でも。
彼女は、顔を上げた。
楽しみなことだって、山ほどある。
制服を着る。あの黒いローブを、明日から毎日。
教室で、椅子に座って、授業を受ける。先生の話を聞いて、ノートを取って、質問をして。
食堂で、ご飯を食べる。本で読んだ。大広間というらしい。天井が空に見えるのだと。
寮に、自分のベッドがある。同じ部屋の子と、夜に話をするのだと聞いた。
(……何話すんだろう)
想像すると、少しだけ胸が弾んだ。
特別なことじゃなくていい。
今日の授業が難しかったとか。あの先生が怖いとか。ご飯が美味しかったとか。
そういう、何でもない話。
見世物小屋の檻の中で、客たちの会話を聞きながら、ずっと想像していたことだった。
あの人たちが当たり前に話していたこと。家族のこと、学校のこと、友達のこと。
――それが、明日から自分にも。
「……えへへ」
思わず、声が漏れた。
そして、慌てて口を押さえた。
(……何やってんのよ、あたし)
顔が熱い。
でも、悪くない気分だった。
◇
そして、彼女はふと、隣の部屋のことを考えた。
あの子は、今何をしているのだろう。
たぶん、本を読んでいる。そういう子だ。
(……あいつ)
キーノは、天井を見上げた。
鬼太郎のことは、今でもよく分からない。
感謝している。それは間違いない。
あの地獄から出してくれた。生きたいかと聞いてくれた。学校に行かせてくれた。屋敷の設計も、あたしの言う通りに直してくれた。
でも、それは全部――善意じゃない。
あの子は、はっきりそう言った。助けたわけじゃない、気に入ったから手元に置くのだと。
自分は、所有物なのだ。
そう言われた時、悲しくなかったと言えば嘘になる。
でも。
(……大事にされてるのよね、たぶん)
それも、また事実だった。
寒ければ上着をくれる。眠れないと分かれば灯りを落とす時間を変える。食事が偏れば気にする。
屋敷の時なんて、あれだけ言い合って、最後には全部こっちの言い分を受け入れた。
人として扱われてはいない。
なのに、人として扱われるより大事にされている気がする。
その矛盾を、彼女はまだ整理できずにいた。
◇
それに――同じ学校に行く。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
一人で行くのは、正直怖かった。知らない場所で、知らない子たちに囲まれて。
でも、あいつがいる。
同じ学年で、同じ学校で。
それだけで、ずいぶん違う。
(……言わないけどね、絶対)
彼女は、毛布を引き上げた。
言えるわけがない。あんな奴に。
「あんたがいてよかった」なんて、口が裂けても。
◇
だが、それと同時に。
彼女の中には、別の不安もあった。
(……あいつ、学校で何するつもりなんだろう)
実験はやめると約束した。それは信じている。あの子は、約束を破らない。
でも――抜け道は探す。
檻の人たちの時が、そうだった。「今日からは」と言って、その前日までは自由だと解釈した。
学校でも、同じことをしないだろうか。
誰かを傷つけたりしないだろうか。
もし、誰かが鬼太郎の「邪魔」になったら。
あの子は、どうするのだろう。
キーノは、寝返りを打った。
――止められるだろうか、自分に。
いや、止められるはずがない。あの子を止められる人なんて、あの爺さんくらいのものだ。
それでも。
(……あたしは、言い続けよう)
彼女は、そう決めた。
何度言っても無駄かもしれない。理屈で言い負かされるに決まっている。
でも、言うのをやめたら、その時が終わりだ。
誰も何も言わなくなったら、あの子は本当に、何とも繋がらなくなってしまう気がした。
(……面倒な奴)
そう思いながら、彼女は目を閉じた。
あの子のいない生活を、もう想像できないことに――彼女はまだ、気づかないふりをしていた。
◇
隣の部屋。
鬼太郎は、窓辺に立っていた。
ロンドンの夜景が、眼下に広がっている。
街灯の列。行き交う車。遠くのビルの明かり。
マグルの街だった。彼が生まれ育った国と、どこか似ていた。
彼は、手にした杖を眺めていた。
黒檀と、ドラゴンの心臓の琴線。
半年間、探し続けたもの。これがあれば、この世界の魔法を七割ではなく、十割使える。
試したいことは、山ほどあった。
だが――それより先に、確認すべきことがある。
(――図書館、ですね)
彼は、明日からのことを整理していた。
数十万冊の蔵書。禁書庫。各分野の専門家。
あの老人が並べ立てたものを、彼は一つも忘れていない。
探すべきものは、明確だった。
――認識できないものを、認識する手段。
あの日の答えが、頭に残っている。
この世界の理に属さぬものであれば、どの術も届かない。
ならば、この世界の術では駄目なのだ。
必要なのは、原理だ。認識という現象そのものを、どう扱うかという理論。それさえ掴めれば、あとは自分で組み立てられる。
どこかに、糸口はある。
七年ある。
十分だった。
◇
そこまで考えて、彼はふと思考を止めた。
窓ガラスに、自分の顔が映っている。
十一歳の、子供の顔。
(――そういえば)
彼は、そこで気づいた。
学校というものに、自分は通ったことがない。
この世界では、六歳で日本を出た。それ以降、教室に座ったことは一度もない。
そして、前世でも。
記憶の中を探ってみる。
断片的にしか思い出せないが――あの世界には、学校などなかった。少なくとも、彼が覚えている限りでは。
瓦礫と、悪魔と、生き残るための日々。学ぶことは常に、死なないためのものだった。
つまり。
自分は、二つの生涯を通じて、一度も学生というものをやったことがない。
(――どういうものなのでしょうね)
彼は、少しだけ首を傾げた。
授業。教師。同級生。寮。食堂。
書物では読んだ。制度としては理解している。
だが、実際にそこで過ごすというのが、どういう感覚なのかは分からない。
――少し、興味がございますね。
彼は、そう思った。
それは目的ではない。図書館と専門家が主であり、学校生活そのものは副次的なものだ。
だが、未知であることに変わりはない。
そして、未知は彼にとって、常に興味の対象だった。
「……悪くありませんね」
彼は、そう呟いた。
◇
隣の部屋から、微かな物音がした。
キーノが、寝返りを打ったのだろう。
彼は、その音を聞きながら、もう一度夜景に目を戻した。
あの子は、たぶん眠れていない。
不安なのか、楽しみなのか、あるいはその両方か。
鬼太郎には、その感情の内訳が正確には分からなかった。
だが――明日、あの子が制服を着て、汽車に乗り、学校へ行く。
それは、あの子が望んだことだ。
(――良いことです)
彼は、そう結論した。
自分の所有物が、良好な状態にある。
それ以上に、望むことはなかった。
◇
夜が、更けていく。
ロンドンの街が、少しずつ静かになっていった。
やがて、東の空が白み始める。
九月一日。
汽車の発つ日だった。