ハリー・ポッターと墓場に還りし者 作:ムササビ
九と四分の三番線
九月一日の朝は、いつもと変わらない朝食から始まった。
いや、正確には違う。
ダーズリー家の食卓は、かつてないほど静まり返っていた。
「……いくぞ」
バーノンおじさんが、そう言って立ち上がった。
ハリーは、驚いて顔を上げた。
「え?」
「駅まで送ってやる、と言っておるんだ」
おじさんの顔は、不機嫌そのものだった。だが、確かに送ると言っている。
「どうせロンドンまで行く用事があるからな。ついでだ、ついで」
「……ありがとうございます」
「礼などいらん。さっさと荷物を積め」
ダドリーは、階段の上からハリーを睨んでいた。ペチュニアおばさんは、こちらを見ようともしなかった。
この家を出るのだと思うと、ハリーの胸は妙に軽くなった。
◇
車中は、ほとんど無言だった。
時折、バーノンおじさんが独り言のように何かを呟く。
「まったく、馬鹿げた話だ」
「……」
「魔法学校だと? 世間に顔向けできん」
ハリーは、窓の外を見ていた。
膝の上には、ヘドウィグの籠がある。白ふくろうは、揺れる車の中で静かに目を閉じていた。
トランクの中には、ダイアゴン横丁で揃えた教科書と、大鍋と、そして杖が入っている。
あの日から、ちょうど一ヶ月が経っていた。
ハグリッドが、あの小屋の扉を破って現れた日から。
この一ヶ月、ハリーは物置部屋を出て、ダドリーの二番目の部屋で過ごした。ダーズリー一家は、彼を避けるようになっていた。
怖がっているのだと、ハリーは気づいていた。
魔法を使えるかもしれない子供。そう思われている。
(――使えないんだけどな)
実際には、学校に行くまで魔法は使えない。だが、それを教える気にはなれなかった。
◇
キングズ・クロス駅に着いたのは、十時半だった。
バーノンおじさんは、トランクをカートに積んで、駅の中まで運んでくれた。
ハリーは、その親切さを不思議に思った。
そして――理由が、すぐに分かった。
「さあ、着いたぞ」
おじさんは、プラットホームの前で立ち止まった。
そして、嫌な笑みを浮かべた。
「九番線。十番線。お前のホームは、その間にあるんだったな?」
「……はい」
「残念だが、まだ建設中らしいぞ」
彼は、腹を抱えて笑った。
「はっはっは! いい旅を!」
そう言い残して、おじさんは去っていった。
振り返りもしなかった。
ハリーは、その場に取り残された。
◇
九番線と、十番線。
その間には、頑丈そうな煉瓦の壁があるだけだった。
番線を示す札もない。柵もない。ただの壁。
(……どうしよう)
時計を見る。十時三十五分。
発車は十一時。あと二十五分しかない。
カートを押しながら、ハリーは壁の周りをうろうろした。駅員に尋ねてみたが、九と四分の三番線などという言葉を出した途端、変な顔をされた。
汗が滲んでくる。
このままでは、汽車に乗れない。
ハグリッドは、教えてくれなかった。切符を渡しただけで、通り方については何も。
その時だった。
「――マグルでいっぱいだこと」
背後から、そんな声がした。
ハリーは、振り返った。
赤毛の一家が、こちらへ歩いてくるところだった。
ふくよかな母親と、四人の子供。そのうち三人は男の子で、皆同じ赤毛をしている。そして、カートの上には――ふくろうの籠。
ハリーは、慌てて後を追った。
◇
「あの、すみません」
母親が、振り返った。
「あら、どうしたの」
「その……ホームへの行き方を、教えていただけませんか」
「九と四分の三番線ね?」
彼女は、優しく微笑んだ。
「初めてなの?」
「はい」
「大丈夫よ。ロンも今年が初めてなの」
彼女は、一番背の低い男の子を指した。
背が高く、痩せていて、そばかすだらけの少年だった。手も足も大きい。
「やり方は簡単よ。九番線と十番線の間の、あの柵をまっすぐ歩くの」
「壁を、ですか」
「そう。怖かったら、少し走るといいわ。さあ、ジョージが先に行くから見ていなさい」
「僕はフレッドだよ、母さん」
「あら、ごめんなさい、フレッド」
「冗談さ、ジョージだよ」
少年は笑いながら、カートを押して駆け出した。
そして――壁に突っ込む直前で、姿が消えた。
ハリーは、目を見開いた。
「さあ、あなたの番よ」
「は、はい」
彼はカートを押し、壁に向かって走り出した。
ぶつかる。
そう思って目を閉じた瞬間――
衝撃は、来なかった。
◇
目を開けると、そこは別の場所だった。
紅色の蒸気機関車が、ホームに停まっている。
煙突からもうもうと煙が上がり、ホーム全体に白い蒸気が漂っていた。
人で溢れていた。
ローブ姿の大人たち。トランクを引きずる子供たち。猫が足元をすり抜け、ふくろうが騒がしく鳴き交わしている。
頭上の札には、こう書かれていた。
――ホグワーツ特急 十一時発。
「……うわあ」
ハリーは、思わず声を漏らした。
本当に、あったのだ。
彼は、カートを押して汽車の方へ歩き出した。
◇
空いている席を探すのは、思ったより大変だった。
最初の車両は、どこも埋まっていた。
二両目も、三両目も。
窓から覗き込むたび、既に何人かが座っていて、楽しそうに話している。
知らない子ばかりだった。
どの個室も、既に出来上がった輪があるように見えた。
(……どうしよう)
汽車の一番後ろの方まで来た時だった。
一つだけ、静かな個室があった。
窓から覗き込む。
二人だけ、座っていた。
◇
一人は、黒髪の少年だった。
窓際に座って、膝の上で本を開いている。分厚い、革張りの本だった。
顔立ちは整っていた。妙に、と言ってもいい。作り物めいて見えるほど、均整が取れている。
だが――表情が、なかった。
本を読んでいるというより、文字を処理しているような。そんな顔だった。
もう一人は、その向かいに座った少女。
銀色に近い、色素の薄い髪。透けるように白い肌。
ハリーは、一瞬言葉を失った。
こんなに綺麗な子を、見たことがなかった。
彼女は、窓の外を眺めていた。落ち着かない様子で、時折髪に触れたり、膝の上の手を組み直したりしている。
――緊張しているように見えた。
(……声、かけてみようかな)
他に空いている席はない。
ハリーは、思い切って扉を開けた。
◇
「あの」
二人が、同時にこちらを見た。
「ここ、いいかな。他はどこも一杯で」
少年が、本を閉じた。
そして、丁寧に頭を下げた。
「どうぞ。空いております」
……妙に、丁寧だった。
ハリーは少し面食らいながら、トランクを運び込んだ。
重い。上の棚まで持ち上げるのに、苦労する。
「お持ちいたしましょうか」
「え? あ、いや、大丈夫」
結局、少年が反対側を支えてくれた。
同い年のはずなのに、力の入れ方が妙に慣れていた。
「ありがとう」
「いえ」
ハリーは、空いている席に腰を下ろした。
そして――気まずい沈黙が訪れた。
◇
「……あの、僕、ハリー」
彼は、勇気を出して口を開いた。
「ハリー・ポッター」
言ってから、少し身構えた。
ダイアゴン横丁では、名乗った途端に大騒ぎになった。人が集まってきて、握手を求められて、何人かは泣き出しさえした。
この二人も、そうなるのだろうか。
だが。
「墓場鬼太郎と申します」
少年は、ごく普通にそう答えた。
「……え?」
「はかば、きたろう。日本の名です」
「あ、うん」
「こちらは、キーノ・ファスリス・インベルンです」
「……あ、キーノです。よろしく」
少女が、ぺこりと頭を下げた。
それだけだった。
何も、起きなかった。
ハリーは、拍子抜けした。
(……知らないのかな)
いや、そんなはずはない。魔法族なら、誰でも知っていると言われた。
なのに、この二人は――まるで、初めて聞いた名前のような反応をした。
◇
「あの」
ハリーは、恐る恐る尋ねてみた。
「僕の名前、知ってる?」
「存じております」
少年は、即答した。
「え、知ってるの?」
「ええ。書物で読みました」
「……書物」
「歴史書に記載がございました。十年前、当時の闇の魔法使いを退けた赤子として」
彼は、淡々とそう述べた。
「その額の傷が、その時のものですね」
ハリーは、思わず前髪に手をやった。
「……うん」
「なるほど。実物を拝見できるとは、光栄です」
そう言って、鬼太郎は少しだけ身を乗り出した。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「え、あ、うん」
「その傷は、どのような感触ですか」
「……感触?」
「痛みはございますか。あるいは、周囲に何か反応があるとか」
あまりにも唐突な質問だった。
ハリーは、戸惑いながらも答えた。
「えっと……普段は、何ともないよ。たまに、ちょっとひりひりするくらいで」
「ひりひり、ですか」
「うん」
「どのような時に」
「それは、その……よく分からないけど」
「なるほど。条件が特定できておられないと」
少年は、真面目な顔で頷いていた。
ハリーは、妙な気分になった。
これまで、この傷のことを聞かれた時は、いつも同じ反応だった。感動されるか、畏れられるか、あるいは英雄扱いされるか。
こんなふうに――**実験の対象みたいに聞かれた**のは、初めてだった。
「ちょっと!」
少女が、慌てて割り込んだ。
「あんた、初対面の人に何聞いてるのよ!」
「不適切でしたか」
「不適切に決まってるでしょ!」
彼女は、ハリーの方を向いて、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。こいつ、失礼なのよ」
「あ、いや、別に」
「本当にごめんなさい。悪気はないの。ただ、その……興味を持つと、すぐこうなるから」
キーノは、恥ずかしそうに言った。
ハリーは、思わず笑ってしまった。
「ううん、大丈夫。むしろ、ちょっとほっとしたかも」
「え?」
「みんな、僕のこと英雄みたいに言うから。慣れてなくて」
その言葉に、キーノの表情が少し和らいだ。
「……そうなんだ」
「うん」
「じゃあ、こいつでよかったのかもね」
彼女は、鬼太郎を親指で指した。
「こいつ、誰が相手でも態度変わらないから」
◇
それから、しばらくして。
扉が、また開いた。
「あのさ、ここ座ってもいい? 他が一杯で」
赤毛の少年だった。
さっき、ホームで見かけた一家の、一番下の子。
「あ、うん。どうぞ」
ハリーが答えると、少年は嬉しそうに入ってきた。
そして――キーノを見た。
動きが、止まった。
「……」
「……?」
キーノが、首を傾げる。
少年は、口を半開きにしたまま固まっていた。
「あの、どうかした?」
「……え、あ、いや!」
彼は、慌てて姿勢を正した。
そして、声が裏返った。
「ロ、ロン・ウィーズリー! です!」
「……です?」
「あ、いや、ロンです。ロン。ロン・ウィーズリー」
「……うん、分かったわ」
「よ、よろしく!」
彼は、なぜか直立不動になっていた。
そのまま、慎重に腰を下ろす。
異様に姿勢が良かった。
ハリーは、不思議そうにその様子を見ていた。
(……どうしたんだろう)
◇
鬼太郎は、その光景を観察していた。
(――興味深いですね)
彼は、内心でそう思った。
この赤毛の少年は、扉を開けた時点では平常だった。ハリーに話しかけた時も、問題なく発声できていた。
だが、キーノを視認した瞬間に、明らかな変調が生じた。
――発声の不安定化。姿勢の硬直。発汗。瞳孔の変化。
症状としては、極度の緊張に近い。だが、原因が分からない。
キーノは、危害を加えていない。威圧もしていない。ただ、そこに座っていただけである。
(――何が、引き金になったのでしょう)
彼は、真剣に考え込んだ。
何らかの魔法的な作用だろうか。あるいは、キーノの血統に由来する何かか。
ヴィーラには、人を惑わす力があると書物で読んだ。だが、キーノは吸血鬼との混血であって、ヴィーラではない。
(――要観察、ですね)
彼は、その現象を記憶に留めた。
◇
「あ、あのさ」
ロンが、ようやく口を開いた。
「君たち、一年生?」
「ええ」
「僕もなんだ。ロンって呼んで」
彼は、そう言いながら――ちらちらとキーノの方を見ていた。
「あ、それで、名前は」
「墓場鬼太郎と申します」
「……はかば?」
「日本の姓です」
「へえ、遠いんだね。えっと、それで、そっちは」
彼は、明らかにそちらが本題だった。
「キーノよ」
「キーノ! うん、いい名前だね!」
「……そう?」
「うん、すごく!」
ロンの声が、また上ずった。
キーノは、怪訝そうな顔をしている。
(……この子、なんか変)
彼女は、内心でそう思った。
この赤毛の子、さっきから様子がおかしい。
自分が何か、失礼なことをしただろうか。それとも――もう気づかれたのだろうか。
自分の血のことに。
そう思った瞬間、胸が締めつけられた。
(……やっぱり、分かるのかな)
髪の色。肌の白さ。そういうもので、察する人もいるかもしれない。
彼女は、思わず俯いた。
「あ、あの、キーノさん」
「……何」
「えっと、その」
ロンは、何か言おうとして、言葉に詰まっていた。
そして、結局こう言った。
「……いい天気だね」
「……そうね」
沈黙が落ちた。
ハリーは、二人を交互に見ていた。
何かがおかしい。だが、何がおかしいのかが分からない。
◇
「ところで」
鬼太郎が、口を開いた。
「ウィーズリーさん」
「あ、はい!」
ロンが、また背筋を伸ばした。
「先ほどから、発声が不安定なようですが」
「……え?」
「体調がすぐれないのであれば、車内には売り子が来ると伺っております。何か口にされた方がよろしいかと」
「い、いや、そういうんじゃなくて!」
「では、何でしょう」
「え、あの、それは」
ロンの顔が、みるみる赤くなっていった。
そして、耳まで赤くなった。
「な、なんでもない!」
「そうですか」
鬼太郎は、あっさりと引いた。
だが、その目は明らかに観察を続けていた。
ハリーは、その一部始終を見ていて――ようやく、事情を察した。
(……ああ、なるほど)
彼は、思わず笑いそうになった。
そして、それを堪えた。
◇
十一時。
汽笛が鳴り、汽車がゆっくりと動き出した。
窓の外で、見送りの家族たちが手を振っている。
ロンの母親と妹が、走りながら手を振っていた。ロンは窓を開けて、身を乗り出して応えている。
ハリーは、その光景を眺めていた。
自分には、見送る人はいない。
だが――寂しくはなかった。
ここから始まるのだ。すべてが。
彼は、正面に座る二人を見た。
本を開き直した黒髪の少年。窓の外を見ている銀髪の少女。
変わった二人だと思った。
でも、悪い気はしなかった。
少なくとも――自分を、英雄として見ていない。
(……友達に、なれるかな)
ハリーは、そんなことを考えていた。
汽車は、ロンドンの街を抜けて、北へと走り出していた。